当世具足★★★鎧について語ろう★★★大鎧
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0001人間七七四年
2007/06/08(金) 17:33:55ID:P1ntm8y4鎧かっこよすぎ。
種類とかいろいろ教えてくれ。
0797人間七七四年
2011/10/12(水) 09:33:33.43ID:wuzLz8TDあれってやっぱり足軽は会当理ないのが本当なんだな
変だとは思ったけど、NHKがやってるんだから正しいのかなと思ってた
そういや江といえば、小谷城攻めのときの秀吉が両乳鐶付きの切付胴を着てた。ありえねえw
0798人間七七四年
2011/10/12(水) 10:58:24.24ID:W1fJxaI+確か言ってたな。
0799名無し@一足軽
2011/10/12(水) 18:18:30.74ID:iq2iRVsY○合当理
すまん。
0801名無し@一足軽
2011/10/12(水) 22:33:24.46ID:t/6QB7qc取り外しできるようになっている。出陣の儀式、凱旋時は付けたが戦闘時はヘルメット
様式だ。それに黒田の大水牛脇立は薄い木材をつなぎ合わせて作ってあるし、三宝荒神部分は
厚紙と牛革で作ってあり以外に軽量になっている。
0802人間七七四年
2011/10/13(木) 16:13:54.17ID:MDzkG3nMちょっとでも頭を動かせば、当たってしまう。俺の近くには寄るな、というサインなんだろうか。
0803人間七七四年
2011/10/13(木) 20:00:27.21ID:F/pSXP2Z0804人間七七四年
2011/10/15(土) 12:52:15.93ID:HgBDEKk5http://video.mainichi.co.jp/viewvideo.jspx?Movie=48227968/48227968peevee425876.flv
0805名無し@一足軽
2011/10/16(日) 01:48:44.04ID:spvpWNXF槍1本、鎧櫃1つで陣借りしてくる浪人も沢山いる。騎馬の者も来る。将校級が逐次面接をする。浪人の氏素性を聞く。いずれの家中の出身か?主人は
誰だったのか?何時、何処の合戦から浪人になっているのか?得て物は何か?感状は何枚持っているか??勿論、持って来ている甲冑の見分する。
兜も具足も同じ作者の銘が刻まれているかが重要なポイントだ。それに太刀。由緒ある刀鍛冶の作かだ。こうして面接は慎重に行われて目出度く
陣借りとなる。いずれにしても先鋒部隊だが、体格・面魂・武具の良し悪し・感状の枚数で配属が決められた。
話は飛ぶが、武将の甲冑姿の肖像画で、現存する甲冑に大袖が無く、絵には大袖が描かれているのは(例:本田忠勝)その武将が由緒正しい出自
であることと、正式な武士である事を示している。鎌倉期の大鎧は実戦には向かないが、戦国の武将の憧れだった。
0806人間七七四年
2011/10/16(日) 14:24:48.40ID:YHGFKfOW0807名無し@一足軽
2011/10/16(日) 18:39:51.86ID:QRi9hpBSオマエ、ほんとに歴史を知らんな。さもなくば大河の見すぎ。オマエみたいな連中に
反論するんもアホくさいw
0808人間七七四年
2011/10/17(月) 00:34:18.41ID:oTZlbq4m鎌倉期の大鎧は馬に乗って戦う用だね。
実戦に向かないと思っている人は歴史を知らな過ぎ。
0809人間七七四年
2011/10/17(月) 01:35:49.93ID:DBpz+l7G大鎧は馬に乗ることで鎧の重量が自分にかかりにくい作りになってる
0810人間七七四年
2011/10/17(月) 02:37:24.97ID:XVP8NiGl復古調甲冑が作られるより前の時代で、現存する遺品の中で最後に作られたことが確認できるのは、
大内義隆が1542年に厳島神社に奉納した黒革肩紅威大鎧(重文)がある。
ttp://www.pref.hiroshima.lg.jp/kyouiku/hotline/bunkazai/data/102040040.html
大鎧が花形甲冑だった平安・鎌倉期と違い、
この頃の大鎧はその重量や非機動性、製作にかかる手間などから敬遠され、
室町中期までには胴丸に主役の地位を譲っている。
それでも南北朝以降に定着した徒歩戦に対応すべく、胴の腰の裾を窄めたり、
筋兜を採用したりしているが、やがては時代の流れに取り残され、
祭礼の衣装用や寺社への奉納用くらいに留まるようになってしまった。
上記の大内義隆も、大鎧を奉納したのは名門守護大名の手前からであって、
あくまで戦場では自身は胴丸を着ていたと思われる。
室町末期から桃山期の、甲冑姿の武将の肖像に、大袖が描かれているのは
(その源流は大鎧にあるといえるかもしれないが)、
直接的には地位の向上に伴って重武装化した胴丸を意識しているとする方が自然であろう。
あるいは後世に作成されたものならば、復古調の空気に影響されて描き足したということになる
(これなら大鎧への憧れが直接影響していると考えられる)。
0811人間七七四年
2011/10/17(月) 02:43:30.35ID:cPi+16c4しかしこれを否定してるということは単に無知だったとしか思えない
0812人間七七四年
2011/10/17(月) 08:43:26.77ID:9Wga+kfF改行も変だし、2ちゃん慣れしてない感じ。
個人でブログでもやればっていいたい。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1193685418/185
0813人間七七四年
2011/10/17(月) 12:33:38.55ID:Cozye8KE徒での拠点攻防戦に様変わりしたからそれにあわせて変化したというか。
0815人間七七四年
2011/10/17(月) 21:34:51.99ID:izrqWSNC徳川家康が大高城兵糧入れで金留塗の仏胴具足を着てたり、上杉謙信が三宝荒神の兜を被ってるのはいいとしても、
こりゃ構造を理解しないまま描いてるなあ、と一目でわかるような規格外の具足が次々と出てくる
0816人間七七四年
2011/10/17(月) 22:42:00.04ID:XVP8NiGl今まで日本の甲冑がハイカル・サブカルの両界でしっかりした考証の下に
表現された例なんて数えるほどしかないぞ。
江戸時代以前に描かれた絵画といえど、合戦の場面で甲冑を描く場合は、強固な監修やサポートがないと、
鎌倉時代の「男衾三郎絵詞」のように大鎧の絵が滅茶苦茶になってしまうことがあった。
江戸時代の歌舞伎の衣装鎧や武者絵の中の甲冑については論外。現代の感覚に合わせて言えば、
かっこいいアニメキャラ並のレベルでしかなく、気をつけないと甲冑研究の邪魔にすらなりかねない。
最近では宮崎駿の「もののけ姫」が、甲冑そのものについては割合よく描けていたが、
作品の時代背景が室町後期ということを考えると、
大鎧を着た兵士と当世具足を着用した兵士の両方が出てきたのはちと極端に過ぎると思われる
(中央と地方の相違を表現したかったのかもしれないが)。
0818名無し@一足軽
2011/10/18(火) 01:23:49.86ID:tF9Jh7An国宝「竹雀虎」とか同じく厳島神社所蔵の「白糸縅」なんかは製作期間が2年位かかり部品の多くは中国製だ。大将のシンボルの「紅糸縅」
の赤の染料も縅糸も中国からの輸入品だ。余程の地位のある武将しか着用できない。
戦いも大鎧を着て馬上で刀を振り回すのではなく、大将は本陣にいて戦いの趨勢を見守り、武将級では本来、流鏑馬のように弓矢で戦うのが
実戦だ。胴丸を着た兵士の戦いにもルールがあり相手の烏帽子をとったら勝ちとか、旗指物を奪われたら負けとかで相手が降参したらそれで
良しで、日本人同士がそう殺し合いをするのではない。これが平安〜鎌倉の実の姿。義経の平家殲滅は完全なルール違反の合戦だ。
しかしそれが後の世に美化されてしまった。
鎧のスレだから、多くは書かないが一部の人を除いて大河の見すぎか、史書・司馬作品なんかをを読んでいない人が多すぎるな。
近年の研究書でもいいものがあるからそれらを読んでから書いた方がいい。
0820人間七七四年
2011/10/18(火) 02:03:03.29ID:guBzAwjj大鎧は馬上専用とはなんもつながってない論点そらし
もう止めとけ
お前の負け
0821人間七七四年
2011/10/18(火) 06:56:10.29ID:l9r9z3t7そもそもセンゴクは「刀なんて役に立たん(キリッ」
「騎乗したまま戦うなんて有り得ない(どやぁ)」
とか言ってた時点で、ただの知ったかが描いてる漫画やろ
>>818
その近年の研究とやらのソースきぼん。
烏帽子や旗取るだけだとか聞いたこともねえし、そんなんで
勝負がつく様子が書かれた一次史料とか見た事ねえよ。
0823人間七七四年
2011/10/18(火) 16:15:27.30ID:GkDTkUOG国宝鎧を引っ張り出して何を言ってるんだ?
竹雀虎は源義経奉納との伝来があり、一説によれば足利義満の奉納品とも推測される超高級品
あと「厳島神社所蔵の白糸縅」って櫛引八幡宮の白糸威褄取鎧のことか?
あれだって南部信光が後村上天皇から拝領したものだぞ
そんな高級品を一般の武士が着れないなんて至極当たり前のことじゃん
0824人間七七四年
2011/10/18(火) 20:07:17.64ID:2WslxfBQ重箱の隅つつきになるが、厳島神社に白糸威大鎧はないよ。
白糸威銀小札丸胴具足ならあるがね。
ひょっとして日御碕神社の白糸威大鎧のことを言いたかったのかな?
0825人間七七四年
2011/10/19(水) 01:04:52.65ID:2wH1JH3p紅花の産地は山形が有名だが、ここにあるの修験道で有名な羽黒山は能除太子(蜂子皇子ともいう)で崇俊天皇の皇子。藤の木古墳の被葬者は特定できないものの、崇俊天皇も有力候補のひとりであるのは興味深い。
話がそれたが、平安時代の鎧の縅の糸の紅の染料が中国製であるとする根拠はない。ちなみに質の良い紅で何度も染めたものは、スカーレットに近い深い赤。
0826人間七七四年
2011/10/20(木) 11:53:55.70ID:qJSg44acやっぱ丸武産業は田舎ローカルのアナログ企業だな・・・
それなりに立派なサイト構えて、全国区で商売しているにもかかわらず、ネット対応が疎かすぎる。
メールの返事が無い。ほっとくとたぶん1週間に1回も開いてない。
代表番号に電話すると、のっそりとしゃべるオバチャンが出てきて、
「3日前にメールで問い合わせた件なんですが・・・」というと、
「あぁはい わかるひとにきいてみますね〜」という感じ。
電話しないと見てくれないならメールの意味無いでしょう・・・
営業日だけでいいからせめて1日1回ぐらいメール確認してよと言いたい。
問い合わせ、購入、支払い等含めてメールなら3〜4往復で済む内容のやりとりしかしていないのに、
丸武相手の取引はやたら手間と時間がかかる。
ヤフヲクでもここまで手際の悪い出品者はなかなかいない。
昔かたぎの職人気質で、ネットの客など客じゃねぇ・・・などと邪険にされているという風ではなく、
単純にPC初心者レベルの人しかいないという感じがした。
メール文面の改行や空白の位置がヘンだったり。
いちど、個人情報が乗った他の客宛てのメールが誤送されてきたし。
せめて一人でいいから窓口となるIT担当者雇えばいいのに。
せいぜい満足にPCが使えて問題なくメール対応ができる程度の人材も鹿児島にはいないのかな?
0827人間七七四年
2011/10/20(木) 12:11:30.29ID:dbx6qQAg丸武にとってはテレビ・映画会社が一番のお得意先で、
ウェブ販売はとりあえずの余興のようなものと認識して運営してるから
対応がなおざりになるんじゃない?
店長でさえ満足に文章をタイプできてないことがあるくらいだし、
専門知識のそろった人を雇おうとか、勉強しようといった意識に欠けてるきらいがあるね。
あそこは今でもモノを作っていればそばから売れるとでも思ってそうだよ。
0828人間七七四年
2011/10/20(木) 15:59:54.57ID:deaCAn8Z0829人間七七四年
2011/10/20(木) 18:05:14.08ID:2k4zTOP5奴らにしてみれば目の上のタンコブだもんねー。
0830人間七七四年
2011/10/20(木) 18:37:43.24ID:gP5/Eeay0831人間七七四年
2011/10/20(木) 18:50:56.04ID:5UaK7Pxgそこまでわかってるなら、そのレベルで対応すればいいじゃないの?
ネット通販専門店と同じレベルの対応をしてほしいってのは単なる我儘だろ。
0832826
2011/10/20(木) 18:52:22.75ID:qJSg44acありのまま起こったことを書いただけなんだけど・・・
ネット取引の手際の悪さは非常に不満だけど、
ちょっと擁護しとくと、
丸武の商品の価格や品質そのものには満足してる。
0833人間七七四年
2011/10/20(木) 20:30:51.54ID:QrMhTkkH昔ながらにのほほんとしてるのが、ファーストフードのサービスが標準になると
イライラさせられるはわからんでもない
0834人間七七四年
2011/10/20(木) 22:07:10.98ID:H9rP6veR我儘って何だよw
消費者が当たり前の対応を求めることがワガママか??
826みたいに愚痴りながらも3度も利用してるって人は「分かってる」のかもしれないが、
少なくとも初見の人は、そこまで対応がアレなら怒ると思う。
2度と買わないと言われてもおかしくないレベル。
自社サイトだけでカタログ乗っけていて、「詳細はお問い合わせください」のような業者ならともかく、
楽天とヤフーのモールにも出店していて、
それぞれのアカウントと決済システムで買い物ができるようになっている以上、
利用者からすれば、そこらの数あるネット通販サイトと比べてまぁ平均的な水準を期待するよね。
0835人間七七四年
2011/10/21(金) 02:38:32.92ID:v20hA5oq0836人間七七四年
2011/10/21(金) 04:32:48.12ID:OImjUzlwそれはお前の勝手な思い込みだ。
満足できなきゃ自分が満足するショップで買えよ。
丸武が品物卸してる店は他にもあるだろ。
それとも中華からでも買うか?
一度中華とコンタクト取れば、丸武のサービスが神対応に思えるようになるぞw
0837人間七七四年
2011/10/21(金) 14:02:23.67ID:lGjBBHpzお前が文句をいうのは勝手だが、ショップがどんな商売の仕方をするかもショップの勝手だ。
ショップが消費者に「買ってもらっている」のと同じように、お前もショップから「売ってもらっている」んだよ。
消費者絶対が通るのは、多種類大量生産の品物だけだ。
0838人間七七四年
2011/10/23(日) 00:22:42.40ID:p4SRHupG梱包はよくない
0839人間七七四年
2011/10/23(日) 00:52:50.73ID:9k2yPkAgこの業者、出しては売れてるみたいだけど、モノはどうなの?
しばらく前からちょっと注目してるが、
大体同じ形の当世具足の色違い、模様違いを、常に2品ぐらいずつ出品してて、
だいたい8〜10万で落札されている模様。
丸武の一番安い当世具足で16万円だから、それより安い感じだけど、どうだろう?
こいつも中華業者なの?
0840人間七七四年
2011/10/23(日) 06:10:27.52ID:zZpsweLj評価のコメントが自演臭くて噴いた
一桁評価で「迅速に〜」って書いてるのはほとんどサクラだろ
ストア登録してあるから自演で吊り上げ入札かけても問題無いしね
0841人間七七四年
2011/10/24(月) 19:22:32.22ID:fPmSdNPSコレクションしやすいし値段も抑えられるし。
0842人間七七四年
2011/10/24(月) 23:14:25.87ID:cVqmns0x個人的には袖の無い具足に袖を付けたりとか余計なことはしないで、
出来る限り実物に忠実に再現してほしい
0843人間七七四年
2011/10/25(火) 00:33:17.14ID:J5gpGsQx0844人間七七四年
2011/10/26(水) 00:06:37.17ID:okjgniG/「当世具足が普及した安土桃山時代からです。」という回答がベストアンサーに選ばれてて笑ってしまった
目の下頬も総面も室町時代からあるっつーのw
0845人間七七四年
2011/10/26(水) 00:37:30.29ID:s8JJui4J更に幅広く「面具」としてみるなら、当時の遺物はないものの平安末にはすでに半首が登場していたしな。
0846人間七七四年
2011/10/26(水) 00:47:01.06ID:okjgniG/探したらあっさり見つかった。この口ぶりだと質問者の言う「面頬」は目の下頬や総面のことなんだろうね
しかしこのベストアンサー、当世袖が小具足の一つだとも言っちゃってるし
残念な点が目立つな
0847人間七七四年
2011/10/26(水) 04:45:10.60ID:WB2fppzI0848人間七七四年
2011/10/26(水) 07:07:27.45ID:Te9vx37F質問・回答者がどの年代をイメージしてるのかが分からんとなんとも言えん
0849人間七七四年
2011/10/26(水) 07:27:50.63ID:jzNawpdx日本の場合、面頬はひもで固定するので容易に着脱できない。顔面を保護されているという安心感はあるにせよマイナス面も多い。
鎧を道具として飾る時に、面頬があった方が様になるという理由で付いているだけではないか。
ちなみに武闘派で知られる黒田長政は、国内や朝鮮半島でも敵と直接刃を交えることも多かったが、面頬を用いないのが流儀だった。今日残される具足にも面頬は含まれず、有名な肖像画でも喉輪すら着用していない。
0851人間七七四年
2011/10/26(水) 14:18:20.76ID:okjgniG/面頬は目の下頬と総面だけじゃない
http://www.kinokuniya.tv/images/mask/c056_2.jpg
↑両頬と顎のみを守るつばくろ頬(目の下頬の鼻がない感じ)
http://pichiska.sakura.ne.jp/jonhadi/sr2_bbs/sr2_bbs_img/8_1.jpg
↑顎のみを守る越中頬などもある
むしろ実戦期にはこうした半頬タイプが主流であったと思われる
しかしフロイスや明・朝鮮人も言及しているように、顔の大部分を覆うタイプを付けた鎧武者も結構いた
内藤昌豊や山内一豊が総面を着用していたという記録もある
江戸時代になると実用よりも飾り栄えが重視されたため
凝った意匠の目の下頬や総面が流行したという点は君が指摘した通りである
0852人間七七四年
2011/10/26(水) 22:13:54.39ID:s8JJui4J昔の家宝目録に記載されていても、現在は臑当や脇引などが欠けていることは割とあるし、
徳川将軍家においてすら、二代秀忠所用の茶糸威胴具足は兜が伝わっていないのであるから、
面頬が今はないからといって当初から備えていなかったとも言い切れない。
肖像画に関しても、後世に自分の面影を伝えるなどの目的で顔をはっきりさせたいという思惑から、
実際の格好と違い、あえて素顔を晒した状態にして描かせたことも考えられる。
0853人間七七四年
2011/10/26(水) 23:28:03.07ID:lIlkeA3o大河ドラマだと半頬タイプが主流だな。
俳優の顔が見えないとどうしようもないからな。
0854人間七七四年
2011/10/26(水) 23:41:19.42ID:s8JJui4J最近の大河は半頬すら付けていないことが多いよ(「独眼流政宗」の時にはわずかに見られた)。
主役やレギュラー陣が辛うじて喉輪をしてるかどうかだな。
ドラマでの面頬着用よりも気になるのが、時代祭りなどで兜を阿弥陀に被ってる人間が多いこと多いこと。
視界を確保したいのか、帽子と同じ感覚で被ってるのか知らんが、
内兜ががら空きになっているとかっこ悪いし危険。それに兜の重さが後方に傾くので余計に首が疲れる。
演武を行うなら尚更。模造品でも武器の先が顔に当たるおそれを考えて目深に被らなきゃならん。
0855人間七七四年
2011/10/27(木) 09:45:41.04ID:VgLzmP2A歴史イベントの貸し出し甲冑の兜が深くかぶれなかったことはある。
浅く、あみだにしかかぶれなかった。
0856人間七七四年
2011/10/27(木) 21:11:29.78ID:k+fR208E上から俯瞰できる騎馬武者なら、それで視界は十分確保できる。
イギリスの近衛騎兵のヘルメットも同様に深く被ってるね。
0857人間七七四年
2011/10/27(木) 21:27:46.24ID:k+fR208E日本では鉄砲からの防御の為、面頬がより普及したと言われる事が多いが、どうなんだろう。
戦国中期においては北条の軍役帳では馬上の者は面頬の装備が義務付けられていて、
武田の天正4年の軍役定書には、馬上は面頬と喉輪を身につけること、
そして長柄、鉄砲、弓といった歩衆は兜に喉輪は身に着けるが、面頬の装備は書いていない。
0858人間七七四年
2011/10/27(木) 23:10:48.33ID:QTTAtWIp御貸具足自体がお粗末なものだし
0859人間七七四年
2011/10/31(月) 21:00:56.01ID:NGbIEoueこれに対して上級の武士が持つ手鑓は、せいぜい3メートルくらいで長さが短く、重量も軽いからコントロールしやすく、訓練を積めば目標を正確に突くことができる。
それでも甲冑を貫くことは難しいから、相手の甲冑の隙間を狙うことになる。この隙間をなくすことが面頬や喉輪の役割だったのではないだろうか。
とすれば、もともと重武装でもない隙間だらけの格好で、手鑓を持った敵と対峙することを想定していない足軽が、それらをつけないのは当然。
0860人間七七四年
2011/10/31(月) 22:35:49.54ID:CERMI1Ly兜に面頬の足軽はいまだかつて聞いたことがない。
陣笠に面頬のシュールな足軽って歴史上存在したのかなw
0861人間七七四年
2011/10/31(月) 23:17:00.79ID:JyUrtS7qなんかそれイスンシンの朝鮮ドラマで見たぞ
目の下頬完備の足軽軍団が火縄銃を連発銃のように連射してたw
0862人間七七四年
2011/11/01(火) 00:06:36.37ID:ZkK8kOvj映画「天と地と」では海外ロケで現地人エキストラを雇ったため、
顔が露出すると都合が悪いので足軽にいたるまで面頬を着けさせたんだって。
映画作品としては面白いが史実では絶対にありえなかった光景だな。
0864862
2011/11/01(火) 00:24:14.78ID:ZkK8kOvj室町末〜桃山初あたりの戦場では、適当に入手したり配布されたりした頬当や喉輪を着けて、
頭や首を防護していた下級兵士はそれなりにいただろう。
宣教師の記録によれば、日本人は喉輪やシコロ程度を付けていても武装したとみなされていたようだし。
また、遺品はほとんどないが、鉢巻に横長の鉄板を縫い付けた額鉄(ひたいがね、後世の鉢鉄の前身か)
という簡易防具も使われていた。
ただ、頬当や額鉄は、兜を持てない足軽にとっては顔面よりもあくまで頭部を守るためのものであったと思われる。
江戸期に入って軍規の整備が進み、武士の階層が固定化して以降、平の足軽が面頬を装備することはなくなった。
0865人間七七四年
2011/11/01(火) 05:12:17.84ID:PlXHPQeO最後の場面で兜を用いなかったのは、天辺の穴から髷を出せないためしっかり固定できず、撮影の激しい動きに対応できなかったからだろう。
ところで、この時小道具として用いた兜の鉢は、某有名画家が所有していた平安期の本物で、文化財指定された物、と読んだだ記憶があるのだが、現在調べても該当するものがない。映像を見る限りそれらしい物で、平安期のものと言うのは真実らしく思える。
0866人間七七四年
2011/11/01(火) 15:35:59.23ID:JnbdnHSC↑現在ロンドン塔に所蔵されている
徳川秀忠がジェームズ1世に送った胴丸が好きだな。色合いが綺麗
これって実際に秀忠が着用したことはあるんだろうか
それとも贈答用に新しく作られたもの?
0867人間七七四年
2011/11/01(火) 16:36:35.11ID:KGcMnF1n家康の鎧は奈良の岩井が作っていたから、この秀忠のものも岩井の作だろう。日の丸縅と同時期に一連の作として作られたのではないか。
家康のものは大坂夏の陣に用いたとの説があり、これが正しいとすれば秀忠の方も夏の陣に用いた可能性がある。
しかし、実戦に使用すれば汚れるはずで、そのようなものを贈答品に用いたかは疑問もある。
0868人間七七四年
2011/11/01(火) 16:41:20.60ID:R8ebT6iE0870人間七七四年
2011/11/01(火) 18:17:30.81ID:zYJjO1p10871人間七七四年
2011/11/01(火) 20:36:05.54ID:JnbdnHSC言われてみれば確かに似てるな、
と思って調べてみたら海外サイトで詳しい情報を見つけた↓
http://www.heritage-images.com/Preview/PreviewPage.aspx?id=1197058&pricing=true&licenseType=RM
秀忠が贈った胴丸は1610年、Iwai Yozaemonの作だそうだ
0872人間七七四年
2011/11/02(水) 06:00:39.76ID:5IMCi9fo家康は壮年期には南蛮甲冑など、新しいもの用いたが、晩年は伝統的な毛引縅、大袖付きの胴丸具足に回帰したことがわかる。
0873人間七七四年
2011/11/02(水) 17:26:01.45ID:iqOMclv60874人間七七四年
2011/11/04(金) 11:29:34.53ID:BD+2F0HJ「はつぶり」の漢字表記は「半首」もしくは「半頭」。
「七人の侍」で菊千代が被っていた鎖シコロ付きの星兜は、
平安期の本歌を基にして甲冑師の明珍宗恭(今年の1月に死去)が製作したもの。
江戸期のものならまだしも、動きの激しい映画の撮影に本物の中世甲冑を使えるわけがない。
ただし、そのモデルについては特定しがたい。がんばって調べてくれ。
>>866-868
>>870-873
岩井与左衛門が製作を監修し(兜のシコロの裏に朱書き銘が入っている)、
徳川将軍から海外君主に贈呈されたとされる具足は、
現在イギリスに2領、フランスに4領、オーストリアに1領が伝わっているが、
いずれも日本国内にある日の丸紋柄威胴具足(徳川美術館)、紅糸威胴具足(水戸東照宮)と
ほぼ同様の作りこみである。共通点としては、
・鍬形台を打った阿古陀形筋兜に目の下頬
・大袖付きの毛引威本小札丸胴
・筒籠手に筒臑当、佩楯はばらつきがあるが板佩楯が多い
・金銀蒔絵を金具廻や小具足に施す
といったようなことが挙げられる。
興味深いのは、徳川家一門の所用するものには葵紋を入れた金物が打たれているのに対し、
贈呈された具足については葵紋が使われていないどころか別の紋が入っているのである。
これは既製品を再生して一領に仕立てていたと考えられるが、
いかなる意図があってこのような方針をとったのかは不詳である。
宮崎隆旨『奈良甲冑師の研究』にもっと詳しい調査報告が載っているので、
興味がある人はそちらを読んでほしい。
0875人間七七四年
2011/11/04(金) 20:44:22.64ID:50eGmW8Bそのかわり籠手や脛当てに菊、桐、巴、をはじめとして何種類もの紋が散らされている。
徳川美術館の熊毛植え黒糸縅具足や羊歯具足には家紋はなかったはず。
葵の紋が入っているのは上田博物館にある松平信一のものくらいのもの。
これはもともと家康のものであったが、紋柄縅で葵の紋を出している他、金物にも葵の紋が散らしてある。
その他、家紋が入っているのは尾山神社蔵の前田利家の鉄鋼胴くらいではないか。これは珍しく前田又左衛門と名前まで入っている。
赤穂大石神社森長可の伊予札胴乃金物に入るはの桐紋で、鶴丸ではない。
家紋を甲冑に入れる習慣があまりなかったのではないか。
0876人間七七四年
2011/11/05(土) 00:37:34.19ID:C2XLGN4K徳川家用の甲冑には必ず葵紋が入っているとまで言い切るつもりはないが、
あれだけ海外に贈られた具足には一つも入っていないというのも不思議な感じがする。
>>熊毛植え黒糸縅具足や羊歯具足には家紋はなかったはず
熊毛植の方は調べていないのでわからないが、羊歯具足の方には、シコロの鉢付鋲などに葵紋が入れられている。
また、
>>尾山神社蔵の前田利家の鉄鋼胴
は、胴の形状や弾痕からして、江戸初期に流行した試し胴であり、古く見ても利常の代が上限に見える。
「前田又左衛門」の銘切りは後世による伝来の付加の一環で行われたのではないか。
>>森長可の伊予札胴の金物に入るのは桐紋
桐紋が当時権威性の高いものだったという前提で考えると、長可の伊予札胴は目上の者から下されたものという可能性が高い。
そうであれば、自分の紋に変えたりすることなくそのまま使用するのが普通だろう。
この場合、長可にこの胴をあげたのは信長か秀吉ということになるが、作域に新しい特徴が見られるので、
実際は忠政所用だったかもしれない。
>>家紋を甲冑に入れる習慣があまりなかったのではないか
家紋ではなく紋様として好まれたデザインは多々あり、多くの現存甲冑にも取り入れられているが、
どう見ても一般的ではなく、家紋としか考えられない紋を付けた最古の例は、
鎌倉時代の遺品にもある(鶴嶺神社の赤糸威大鎧は十字紋の裾金物を打つ)。
それ以来連綿と続き、多少特別な意味合いを帯びることはあってもとりわけ特異な行為ではなかったと思える。
もちろん、オーダーでないレディメイドの量産品(近世の一部の御貸具足を除く)には、
最初は特定の家紋が付くことはなかったろう。
0877人間七七四年
2011/11/08(火) 10:00:57.14ID:apqPjTEG笹間良彦氏がこの金陀美具足について「家康公初陣の具足」という伝来を支持しているのには驚いてしまった
大高城兵糧入れの時点で仏二枚胴具足があったらオーパーツになるんじゃないか?
革包の仏胴なら当時からすでにあったのかもしれないけど
0878人間七七四年
2011/11/08(火) 10:05:11.38ID:apqPjTEGおっと、>>877のリンク見れないな。こっちを見てね
0879人間七七四年
2011/11/08(火) 13:18:00.34ID:xcmwFD7E1550年代終わりの製作と考えるのは、確かにしっくりこないが、それとてこれといった根拠があってのことではない。
現在の久能山東照宮に来る前は、江戸城紅葉山文庫に羊歯具足などともに保管されていたこと、葵の紋をつけた豪華な蒔絵の具足櫃に入れられていること、あえて修理の手をいれていないこと、などから判断して、徳川家にとって特別な意味をもった具足であったことは事実。
0880人間七七四年
2011/11/08(火) 23:13:18.81ID:zrUF6GdE金陀美具足は、人によっては製作された年代を江戸前期(家康死後)に推定することもあるが、
個人的には上限を桃山期(関が原合戦の前後)に引き上げてもいいんじゃないかと思う。
桶狭間の合戦時に、形式が何であれ金をふんだんに使った甲冑を用意できるほどの
経済的余裕や地位が松平家にあったとは考えにくいし、『信長公記』中の元康の格好を、
金色の具足が朝日に照らされて赤く見えたのだろうと解釈するのには苦しさを覚える。
そうではなく最初から朱色を添えた鎧を使用していたのではないか。
静岡浅間神社には今川義元が調製させた家康着初めの鎧と伝わる小ぶりの腹巻が伝わるが、
これを用いていたのも否定できないだろう。一般的な腹巻に比べると、
少年用とあってサイズはやや小さめだが、幅の狭い本小札(奈良小札)を紅糸で毛引きに威し、
草摺を9間に割り、背中の引き合わせには背板を設けるといった入念な室町末期の作域で、
奈良の甲冑師による作品と見られる(かつては同作の袖・兜も付いていただろうが、いまは胴のみ)。
よって、この腹巻は、本来は今川氏真の元服鎧として作られたものを、
お下がりとして元康が頂いたとする説もある。
お古とはいえ今川家嫡男の品を義元が元康に与えたことは、
彼が松平家をどのように見ていたのかを考える上でもヒントになろう。
元康も元康で、義元が戦死するまでは今川家を離れようと思わなかったはずで、
戦陣に際しては厚遇の証として主から下された鎧を着て手柄を立てることを
考えていたとするのが人情としては自然だろう。
気がかりなのは元服から桶狭間まで成長期にあっただろう元康の体形だが、
そこは当時の栄養事情から、背丈はあまり変化しなかったとすれば間に合ったかもしれない。
ttp://www.youtube.com/watch?v=SR2U6nmP2as
↑紅糸威小腹巻(0:55前後から写真が登場。字幕では増善寺所蔵とあるが誤り)
うがった見方をすれば、青年期の元康の行動を隠蔽するために、
金陀美具足(家康存命中に作られたか、死後に幕府が製作させたかは不明だが)に、
改めて大高城兵糧入れの伝来を付加し、この腹巻を世間の耳目から遠ざけようとしたと考えられる。
世情の安定化と幕府による統治の正当化の一環として家康神君化が進められたわけだが、
反乱や下克上を否定する幕府にとっては、家康も若い頃に主家である今川に対して離反・敵対し、
駆逐している事実が非常に不都合な材料だったのである。
であるから、戦国の臭いを放ち、今川家の影をまとう腹巻を封じ、
見栄えのよい金陀美具足を掲げたと思うのだが・・・。
0881人間七七四年
2011/11/09(水) 00:03:56.50ID:mf3WtZO+俺も金陀美具足は作風からして桃山時代が一番しっくりくるのではないかと思う
そういや、家康少年時代の召領として後世に創作された金小札の童具足なんてのもあるよね
0882人間七七四年
2011/11/10(木) 00:27:08.66ID:kbSqamA4肩先に付いてる程度と思ったら、肩全体を覆うくらいだった。
大袖が省略された代わりに大きくしてるんだろう。
前立以外はほんとにシンプルで実用的だなー。元和偃武以降の甲冑と好対照だ。
0883人間七七四年
2011/11/10(木) 01:14:24.16ID:lgxyTSMN大仰な立物は戦闘時の邪魔になるように見えるが、
あの時期の武将の軍装は目だって何ぼの感覚が当たり前だったので、
あの弦月の前立だけだとむしろ控えめな印象を覚える。
陣羽織や指物などと合わせて効果的に演出していたのだろう。
実戦期の兜の立物は消耗品のコンセプトで製作されており、
素材には軽い木材や薄い金属が主に使用されているため、
武器や物が引っかかった時に壊れたり抜けたりしやすい作りになっている。
また、元和偃武をもって世の中の気分が穏やかになったわけではない。
実際は幕府の武断政治によって大名の改易が多発して大量の浪人が発生、
殺気立った雰囲気は家綱・綱吉の頃までなかなか落ち着かなかった。
大阪の陣より間は空くが島原の乱が起こっているし。
甲冑もこの時期までは緊迫した時勢を反映して実用を強く意識していた。
装飾が増えるようになるのは太平気分が広がった17世紀後期から。
0885人間七七四年
2011/11/10(木) 10:20:19.52ID:NGGLqTQ7因島水軍城所蔵の白紫緋糸段威腹巻って、もともとは小早川隆景の着領だったんだな
「一個人」12月号にそう書いてあってびっくりした(監修・文は笹間良彦氏の弟子、棟方武城)
村上吉亮の元服時に贈ったものと聞いていたからてっきり贈答用に新しく作らせた腹巻かと思ってた
0886人間七七四年
2011/11/10(木) 13:12:16.20ID:9J4vksb/体に密着していれば、重量が肩だけにかからず分散されるから、使い心地が胴丸などよりも良かったのではないだろうか。
背中部分に合わせ目があることは防御の面では不安があるが、それが腹巻の愛用された理由だと思う。
0887人間七七四年
2011/11/11(金) 20:46:32.90ID:UkVilvACそのまま当世具足などの後世の鎧に使われた例とかあるのでしょうか?
0888人間七七四年
2011/11/11(金) 22:01:02.50ID:9CqoG5+O古物を形を変えずに使うことはあったかもしれないが
(寺社に奉納されていた古い甲冑を後世の人間が引っ張り出して戦に赴いた話も伝え聞くから)、
現存品では時勢に合うように改造を施されたものが結果的には目立っている。
一例として、福島県の都々古別神社には、当世眉庇や脇立用の角元を付け直された鎌倉期の星兜鉢が残っている。
また、実用を離れた江戸中期の復古調甲冑にも、古い鉢や札を流用して大鎧や胴丸を仕立てた作品が散見される。
当たり前だが年代の上がるほど、甲冑は部品が離れたり破損したりしやすいので、
特に中世甲冑が完品で伝わるケースは稀である。
江戸期の当世具足の中に室町末期の兜鉢が使われていたりするとそれだけでも大変価値のあるものといえる。
0889人間七七四年
2011/11/14(月) 20:03:09.62ID:B3i4s+oeやっぱりレプリカはレプリカだなあ
三斎着用甲冑は京都国立博物館で見た本物が草摺下二段に緋色ビロウドなのに
レプリカは草摺下一段だけ、後何故か袖にも貼ってある意味不明仕様
乗馬時に鞍との当たりを柔らかくするためって説明が本物にはあったが
レプリカには説明も当然なくただの色分けにしかなってねえ
出来が悪いとまで言うつもりはないが、本物の後に見ると感動がないな
0890人間七七四年
2011/11/14(月) 20:59:00.91ID:chseaMsY拙者は大甲冑展の武者行列のほうに参加してたでござる
行列といっても、みやこめっせから平安神宮までの数百メートルの間だけど。
平安神宮には七五三の子供たちがいっぱいで、我々と一緒に写真撮影していった。
0891人間七七四年
2011/11/15(火) 15:23:32.23ID:4s2yEod3>笹間良彦氏がこの金陀美具足について「家康公初陣の具足」という伝来を支持しているのには驚いてしまった
例えば直江兼続の「愛」の甲冑にも(胴についての)異議は述べてないわけだが・・・
だからといって気づかなかったわけじゃあない。
所蔵者の神社や旧大名家ではそういう建前なんだから、あえて言わないだけってのも多いよ。
それを言っちゃうと出入り禁止ってとこも実際にある。
所有先が公的な博物館に移ったりすると、そこらへんも問題なく発言できるようになるけどね。
0892人間七七四年
2011/11/15(火) 23:39:40.46ID:dQ7iwkUrいや、それがどの本だったか、異議を唱えていないだけならまだしも
「人質時代にこんな高価な具足を新調した家臣の苦労が偲ばれる」みたいに書いてたので
本心から伝来を信じているように思えた
そりゃまあ、あの時代には絶対に仏二枚胴などなかったと断定するつもりはないけど
0894人間七七四年
2011/11/18(金) 13:20:18.23ID:8EvC3yus0895人間七七四年
2011/11/20(日) 22:38:16.48ID:o2Canb1U12月11日まで靖国神社遊就館で館蔵の刀剣や甲冑が特別展で公開されてるよ。
非常に面白いし、展示品の質もよいので東京近郊に住んでる人は見に行くといい。
それとも、ここに書き込んでる人はもう知ってるか。
0896人間七七四年
2011/11/25(金) 13:29:22.52ID:1WUSyaqZ0897人間七七四年
2011/11/25(金) 20:26:33.36ID:9qoOW++I■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています