当世具足★★★鎧について語ろう★★★大鎧
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0001人間七七四年
2007/06/08(金) 17:33:55ID:P1ntm8y4鎧かっこよすぎ。
種類とかいろいろ教えてくれ。
0637人間七七四年
2011/03/19(土) 19:17:40.21ID:y1QolkMbほうほう、興味深い説ですね。江戸時代の上限が遡る可能性が出てきた。
0639人間七七四年
2011/03/20(日) 23:05:11.63ID:fVKerPwT0640人間七七四年
2011/03/20(日) 23:22:41.17ID:fVKerPwT当世具足の登場ね
0641人間七七四年
2011/03/21(月) 12:38:54.93ID:sG0cSXqe戦国時代の陣羽織は裾が広く、「ハの字型」をしており、江戸時代の陣羽織は肩幅と裾幅が同じでした。
0642人間七七四年
2011/03/21(月) 13:39:29.41ID:F1PSCXwSこんな感じのやつか
http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=B07&processId=02&colid=I393
https://www.city.sendai.jp/kyouiku/museum/syuuzou/04_fukushou/02.html
0643人間七七四年
2011/03/21(月) 15:19:04.54ID:9Deo1Fbi0644人間七七四年
2011/03/22(火) 08:28:18.38ID:lD69TQWL0645人間七七四年
2011/03/22(火) 20:30:24.56ID:N++VGnFy素材も桃山期のには麻や紙といった通気や軽さを重視したものもそれなりに見られるが、
江戸期以降はラシャや金襴での仕立てが一般化し、形も袖無しで前の開き部分を折り返した様式が定型となる
0646人間七七四年
2011/03/27(日) 13:37:02.13ID:qxyKDSvK葵の紋の金具を各所に配し、胴の正面に大きく葵の紋を紋柄縅にするなど、この当時の最高級レベルの丁寧な作り。信一のような中級クラスの武士が用いるものではない。
1568年信長は将軍義昭を擁して上洛戦を行ったが、家康は自身の出陣ができなかったため信一に兵を預けて出陣させた。そのときに与えた甲冑がこれ。
貴重な拝領品であるため大事にされ、今日まで残った。
したがって、この当世具足の制作年代は1560年代の後半と特定できる。青年時代の家康の甲冑の唯一の遺品としても貴重。
0647人間七七四年
2011/03/27(日) 16:10:50.67ID:8mhtUf0A正直私も自分の推測が正しいとは思っていないので
以下の文章は参考程度に見ていただければいいが意見を一つ
あの具足が永禄年間に製作されたというにはちょっと疑問な所がある
うまく説明できないんだが、当世具足としては初期の部類に入るのは確実だが
それでも天正より後という感じがする
・日根野形式のシコロ
・面頬の仕立て
・段数が増加しきった胴の立挙・長側
・黒糸威(桃山時代より前には遺品がまずない)
・四孔式の胸板
・脛当のホ具摺
とかを見ると当世具足としては一応完成された様式を備えているので、
信一が家康の代理出陣する際に渡されたというのは後世の付加で、
関が原前後に家康から拝領したというのが実相ではなかろうか
手元の資料が少ないのでこれくらいまで
0648人間七七四年
2011/03/30(水) 05:12:52.19ID:o7Q83j4t足軽が桶側胴に陣笠被って走り回ってるのが一番映像としては、安心できるのも確かな話で。
0649人間七七四年
2011/03/30(水) 20:55:50.09ID:8MQx8YuZところが上田博物館の松平信一のものは篠脛当て。この甲冑が家康のものであることは確実だから、当初は大立上げの脛当が付属していたはず。そうではないのは信一がこの甲冑を実際に用いたからと思われる。
大立上げの脛当ては、篠と異なり鉄板の打ち出しだから、本来の所有者以外は使いにくい。脛当のみは信一が自分のものを用いたと考えられる。
家康が事実上の天下人となってから以後では、仮に下賜されたとしてもそれを実用に供するのは難しかったんではなかろうか。
0650人間七七四年
2011/03/31(木) 04:59:43.33ID:vW0r0g2w0651人間七七四年
2011/04/16(土) 16:15:31.65ID:b23/Q4Pp熊本県あさぎり町に伝わる、兜・大袖・脇引の付いた腹巻の残欠。胴の長側が伊予札仕立て。
南北朝期の遺品とあるが、腹巻をこんなに重武装化させるのは室町後期の特色。
写真の真ん中に鐶を打った菱縫板があるがこれは初期型の背板(臆病板)。
背板は大袖の緒を結ぶ総角を取り付けるために使われ出したので最初は札板1、2段だけだったが、
後に防御力向上のために大型化した。
兜もまた練革板の打ち出しという珍しい簡易兜。
シコロや眉庇の形からこれも南北朝からは更に時代が下るものと思われる。
当世具足が普及する前の、九州地方で活動していた中堅〜上級武将の着料の好例といえる。
0652人間七七四年
2011/04/23(土) 15:32:34.40ID:7vC3woOt「鎧」・・・よろい。特に首から下を保護する部分を指す。日本史上では「大鎧」をさすこともある。
「甲冑」・・・胴部を保護する「鎧」と頭部を守る「兜」をまとめて指す語。鎧兜(よろいかぶと)。
なお、「甲」は「鎧」、「冑」は「兜」にあたる。
上のように俺は今まで理解していたから、「鎧甲冑」という言葉を聞くと「よろいよろいかぶと」と
頭の中で解釈してゲンナリするんだが、どこか間違ったとこあるか?
0653人間七七四年
2011/04/23(土) 15:41:02.07ID:ILqjtf4oヤフオクの出品タイトルだけじゃない?
あれって今だにタイトル検索しかないから、
タイトルにやたら長ったらしくキーワードを詰め込むしかない。
「鎧胴/鎧兜 武具 刀剣 鍔 具足 甲冑 」とか。サムネイル写真無ければ何なのか分からないものばかり。
出品時にニコニコのハッシュタグみたいなのを付けられればもっとスマートになるのにといつも思う。
0654人間七七四年
2011/04/23(土) 15:57:58.52ID:7vC3woOtいや、それが結構な頻度で出版物やテレビで目にしたり
「よろいかっちゅー」とか聞いたりするのようになったのよ。
どうしてそんな重複語ができたのか、使っても平気な人がいるのかはわからないが。
ヤフオクの検索が不便なのは同意する。
0655人間七七四年
2011/04/23(土) 19:24:35.44ID:1c1bux2Zhttp://page9.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/k140325141
0656人間七七四年
2011/04/26(火) 19:27:45.35ID:b+7DJn2jまだ許せるものからチョー恥ずかしいものまでミスはいっぱいある。
時代祭やコスプレだけじゃなく、テレビドラマや博物館でも間違いは起こるのだ。
というわけでまず俺から思いつく限りを書き出すことにする。
兜編
・鍬形の板を左右逆にする→正しく台に挿せれば綺麗なU字・V字形のラインができるが、不自然だったら左右逆のおそれあり。
・被るときに忍緒をいい加減に結ぶ(蝶結びなど)→詳しい人にやってもらうか教えてもらう、または専門書で勉強しよう。
・視野が狭まるからといって阿弥陀に被る→演武の時にデコが出てるとすごく危険。
何かの拍子に武器の刃先が当たったら・・・それから兜の重量が後ろに偏るから余計に首が疲れる。
・忍緒を締めてから面頬を付ける→兜より先に付ける。緒便りの金は忍緒をしっかり締めるためにあるのだ。
・前髪を出す→視界の邪魔になるから髪の毛は鉢巻や手拭いを巻いてしまいましよう。
・(あまりなさそうだが)烏帽子着用の上から兜を被る→それは鎌倉中期までの厳星兜まででいいよ。
0657人間七七四年
2011/04/26(火) 19:28:25.55ID:b+7DJn2j胴編
・前後逆に着る→当世具足だと結構な割合でいる。そもそも後胴側は立挙が高いから胸につかえるし、背撓や合当理・待受があると邪魔だと思うんだが。
大鎧や胴丸の場合、総角が豪華に見えるから前に持ってこようとしたり、腹巻の場合は前で引き合わせようとする気持ちはわからんでもないが。
・胴丸や当世具足で引き合わせの際に前胴側の板を後胴の板の上に重ねる→着用するときは間違い。
敵と組討になったとき、前胴板を縁からつかまれてはがされる危険あり。また、右腕を後ろから前に振り出すときに
板の縁に引っかかって動かしにくいときもあるから、後胴側を前側の上に重ねよう。
飾るときはどちらが上でも特にかまわない。あるいは前胴を上に重ねると見栄えが少しいいかも。
・肩に全重量を載せる→体力の消耗が早くなる。腰骨の辺りに発手を乗せるようにして着て重さを分散しよう(要は腰部をきつめに縛る)。
室町以後の甲冑は「腰で着る」というのはそういうこと(それじゃあ、連尺を内胴に通して肩に吊るす仙台胴って本末転倒?)。
・着用の際に飾り用の太丸紐をそのまま上帯にする→第一ほどけやすいし腰周りが太くなると行動に支障出たり刀を差しにくかったりすると思うがなあ。
平たいさらし布などで作りましょう。
0658人間七七四年
2011/04/26(火) 19:29:20.87ID:b+7DJn2j袖編
・左右逆に付ける→水呑緒の鐶や笄金物の位置と冠板の形で見分けよう。
正しく作られているものなら水呑緒の鐶と笄金物は後胴側に、冠板の高くなっているほうが前胴側に来るはず。それで左右がわかる。
当世具足の置袖は大抵左右同じ形式だが、腕の動きやすさを考慮して裾板の半分を斜めに削いだものが時たまある。
その場合は、削がれた斜め部分の方が前胴側になるので正しく左右を判別できる。
・袖付緒を肩上に結ばないで緒同士で結び、外側に出す→飾るときはいいが着用するならちゃんと肩上の袖付綰に結べ。
緒がぶらぶらしていると袖が不必要にバタバタしたり、物に引っかかったり、敵につかまれたりしていいことないぞ。
袖付綰がないなら肩上のどこか困らないところに結び付けるか、袖は最初から付けないこと。復古調でない当世具足なら袖なしでも違和感は少ないから大丈夫。
・置袖を脇の下に付ける→当世具足ならではの間違い。脇下には専用の脇引(わきびき、脇当とも)なる小具足がある。袖は上腕部を守るものです。
小具足編
・籠手の左右を間違える→貴方の小指は親指並みに太いんですね、すごーい。肘も背中側に曲がるんですね、わー。
・籠手を脚にはく→貴方はお猿さんですか?
・佩楯を肩にかける→初心者がたまにやる間違い。袖と混同しちゃうんだな。
・佩楯を尻側から付ける→正座したときに金具が食い込んで足が痛くなるぞ。
・佩楯の裏地を表に出して付ける→金具類は基本的に表側に出すもの。そういう風に付けると籠手、臑当と比べて何か変だと気づくと思うけどな?
・臑当の上下を間違える→人間の臑は膝の方が太く、くるぶしが細い。臑当の上下もそれに従う。
・臑当の左右を間違える→革や布でできた軟らかい部分を外臑に持ってきていないか?
そこはホ具摺(かこずり)といって騎乗の際に臑当と馬具とが干渉して傷つけ合うのを防ぐためにある。
だからホ具摺は内側になるように気をつけよう。そもそも、人間の臑は微妙に内側に向かって曲がっている。
ホ具摺がない臑当の場合、左右はカーブの具合で判別できる。
・臑当の上下左右を間違える→上記の2つのことに注意して正そう。
0659人間七七四年
2011/05/04(水) 12:01:54.47ID:MejneYN3子供が初節句を迎えて実家につれて帰ったところ、
床の間にこのような甲胄が飾ってありました。
94歳の祖父に謂れを聞いたのですが、祖父が子供の頃から存在する、
というだけでよく分からないそうです。
鎧櫃の家紋は丸に違い鷹の羽
吹き返しの家紋は下がり藤
どちらも我が家の家紋とは異なります。
また櫃と甲胄の家紋が違うのもよく分かりません。
祖父の家は北畠神社近く、滝川一益が治めていた場所だそうです。
飾りつけは適当な丸木にタコ糸でくくりつけるという乱暴なやり方で、
そんなことをして良いのか気が気でなかったのでこちらに参りました。
何かお分かりの方がいらっしゃいましたらお教え下さい。
宜しくお願い致します。
ttp://uploader.sakura.ne.jp/src/up38194.jpg
0660人間七七四年
2011/05/04(水) 13:39:07.20ID:0CmVRE+/0661人間七七四年
2011/05/04(水) 17:37:44.27ID:ycRniXw2できたらAxfcにうpしてほしい。
0662659
2011/05/05(木) 01:56:41.77ID:ocC3LsOpお褒め頂有難うございます。
子供の頃に見たときはあまり興味が無かったので何も感じませんでしたが、
先日見たときに本物であるような感じがして、それでとても気になりだしたのです。
>>661
ttp://ll.la/@46:
こちらでいかがでしょうか。
0663人間七七四年
2011/05/05(木) 04:22:02.18ID:8RrincRW格好いい鎧ですね。鎧の蒔絵や佩楯・草摺の毛引きがしゃれてる。
江戸時代よりは時代は降らないと思うけど、いい一品だと思います。
後、何気に鎧櫃が古いものですね。太鼓櫃ってなかなか見物を見たことなかったので。
鎧の櫃が二つありますが、もう一つ鎧があったりするのでしょうか?
0664659
2011/05/05(木) 09:18:53.67ID:ocC3LsOpご覧いただき有難うございます。
この鎧櫃2個に分けて収納されています。
これを一人でどうやって運ぶのかも気になるところです。
0665人間七七四年
2011/05/05(木) 11:11:12.91ID:LB0TNLXh覆輪が施され、下級武士のものではないと思います。胴は5枚胴でしょうか?面頬、草摺もよいので
かなり高位の武将の着用のものではないでしょうか??脛当の亀甲のところに
金具があるのは初めてみました。籠手と袖は新物?とも思いますが、保存状態がよければ金箔がこんなに
キレイに残るのかもしれません。う〜ん、欲しい!(苦笑)
0667人間七七四年
2011/05/05(木) 12:01:24.18ID:aPWTMa4R参勤交代の絵巻物に具足持ちの侍が描かれていることがありますが、
それによると大抵は鎧櫃の蓋にある穴に棒を通して肩に担ぐ格好で運ばれています。
上げてもらった写真からも、鎧櫃の蓋に穴が開いているのがわかりますが、
鎧櫃が2つの場合は棒の両端を通して前後に担いで運ぶこととなります。
実戦期の鎧櫃にはリュックサックの要領で背負えるように肩紐が付いていたり、
竹を網代編みにした軽いものが多いですが、写真のように2つに分けて収納するのは
江戸期の高級武将のやり方といえるでしょう。
あと、鎧も結構珍しい仕立てですね。普通の篠臑当かと思ったら篠の間に小篠を置いているし、
胴の蝶番も端に模様を付けて切っている。三具は家地が同じものに見えるので一作物っぽいですね。
それから兜鉢が室町末期の古物を再利用している可能性もあります。
あるいは鉢裏に作者の銘が入っているかも。
0668659
2011/05/05(木) 12:08:49.12ID:ocC3LsOp色々教えていただき有難うございます。
帰ってきてから色々調べ始めたので詳細はあまりチェックしてませんでした。
ただ、組み立てたときの感じではそんなにヒンジがついていたような感じはしなかったので
2枚胴かもしれません。
保存状態は正直劣悪で、無頓着な祖父が今まで飾っていたものですから
飾っていたときの櫃の縁に佩楯が擦れて、だいぶ擦り切れてました。
何よりも前立ての角が2本折れているのを何度もいい加減な方法で補修しており
接合部がぐずぐずになっていました。
今回も木工用ボンドでつけるという荒業でした(T_T)。
漆も触るとぽろぽろ崩れてきていて、今度片付けるときが心配です。
>>666
祖父のせいばかりにして申し訳ありませんが、聞いた事は無いそうです。
ただし、祖父の祖父に当たる人がかなり出世をしたようで、
その人が買って来た可能性が高いと考えられます。
もしかしたら怖い人で聞けなかったのかもしれませんね。
0669659
2011/05/05(木) 12:26:48.52ID:ocC3LsOpご教授有難うございます。
そういえば櫃の横には金具がついてて上げると取ってのようになりました。
持ちづらい形でしたが今思えば棒を通す程度のくぼみがあったような気がします。
帰省先は車で6時間ぐらい掛かるほど離れているので、
次はお盆に帰省したときに裏の銘を確認したいと思います。
向こうは高齢世帯かつ農家でいま忙しいので、
変な事を頼むと怒られると思いますのでご容赦ください。
0670人間七七四年
2011/05/05(木) 13:01:22.60ID:lJcvGvUW0671人間七七四年
2011/05/13(金) 23:14:10.04ID:28yvwxU+・牛皮…言わずもがな小札の素材。膠水に漬けてから数枚を貼り合わせ、叩き締めて練革を作る。
・馬皮…薄くて伸縮性に富み、小札板を包んだり、胴の裏側に貼り付けたりする。
・鹿皮…耐水性・吸湿性・柔軟性に優れ、染色も自由。細く裂いて威毛にしたり、模様を染め付けて絵革にしたりする。
・犬皮…あまり目立たないが小札の下絡みで大活躍。当世具足の胴の板を仕付ける留め革としても使われる。
大鎧や胴丸などの中世甲冑だと1領でも上記の3〜4種類ほどを使用していることになる。
桃山期以降になると装飾に毛皮が流行り出すし、江戸期の加賀具足には胴を象皮で包んだ例まである。
展示された甲冑を見て「この鎧には戦死した武士の霊が憑いている」なんて笑えることを言う人がいるようだが、
じゃあその鎧1領を仕立てるために潰された動物たちの霊は見えないのか?と聞いてみたい。
0672人間七七四年
2011/05/13(金) 23:46:18.13ID:CVan0I5F調べるのもめんどくさそうだ。
0673人間七七四年
2011/05/16(月) 00:48:48.73ID:+42yaJvM修復・製作や黒澤明監督映画への協力を通じて近代の甲冑研究に大きな貢献をされた方です。
同氏が集めた研究資料は2007年に早稲田大学に寄贈されており、2009年には同大の博物館で特別展示が開かれました。
ここにご冥福をお祈りします。
0674人間七七四年
2011/05/19(木) 23:49:40.89ID:vesJ4J1q「斎藤実盛の兜」だってさ。どう見たって大鎧より胴丸が似合う室町時代の筋兜なんだがねえ。
いや、兜自体が付属の大袖や臑当と一緒に重文指定されていることには
まったく異議はないしむしろ賛同しているよ。
でもさあ、21世紀にもなって「むざんやな甲の下のきりぎりす」の句とこの兜を結びつけて
甲冑素人の参拝客に安いロマンと感動を売り込むのはもうやめにしないか?多太神社さんよ?
嘘っぱちの伝来を付けたって白々しいことこの上ないし、兜そのものに対しても失礼な行為だと思うよ。
斎藤実盛が地域にとって重要な人物であることはよくわかっているつもりだが、
やっぱり判明している史実は物語からきっちり分けるべきじゃないのかね。
0675人間七七四年
2011/05/20(金) 22:35:42.33ID:gnYMpr5x>この時、73歳の将は白髪を染め、錦の直後を着用していたが、酋実験の結果、実盛と判明する。
直後って何だろう?と思ったが直垂のことだろうか。
0676人間七七四年
2011/06/17(金) 21:43:25.59ID:hedDtRwo今、小田原城で開かれている甲冑展示会に上杉景勝所用の伊予札胴具足が出されている。
これは戦後上杉家から流出し、数十年行方知れずだったのだが、近年になって再び世に出たものである。
この具足が再登場した最初の場所があのヤフオクであったことを覚えている人はいるだろうか?
その時の状況kwsk
どんな状態でヤフオクに上がったとか知りたい
どれくらいで落札されたかにも興味ある
0678676
2011/06/18(土) 09:52:39.33ID:GTfaKFeE何分2004、5年のことだったし、商品の画像は保存したものの
オークションページの記録をし忘れていたので
出品者の情報や落札価格の詳細については忘れてしまった。ご容赦願いたい。
ただ、初値に500万円が付けられていたのはよく覚えている。以後も入札する人間がいたことから
少なくとも出品者は具足の価値を十分に知っていたはずである(落札者もそうだろう)。
個人的には1千万出してもまだまだ足りないと思う。
御家流のエッセンスをつぎ込んだ、上杉家を体現する具足であるが、
本来あったはずの佩楯と臑当は出品時にはすでになかった。
写真の臑当は体裁を整えるための合わせ物。
また、特に状態が悪かったわけではないが、
出品されてから現在までの間に一部修復が施されている。
詳細な解説は『上杉謙信・景勝と家中の武装』にある。
0679人間七七四年
2011/06/27(月) 08:36:57.74ID:ClOAN/IHあれだけ時間の流れがあって鎧って進化しなかったの?
0680人間七七四年
2011/06/27(月) 09:07:58.34ID:bc86PWWgあなたの質問にある「鎧」の語が指しているのが
日本の甲冑全般なのか、それとも「大鎧」のどちらなのかを教えてほしい。
また、あなたの考えている進化の基準が何なのかをもう少し具体的に説明してくれないか。
今の質問文だと漠然としていて非常に反応に困るんだよね。
0681人間七七四年
2011/06/27(月) 16:31:01.07ID:QO7JxT2m甲冑かな。ネットで義経が着てた甲冑と信玄が着てた甲冑見比べたんだけど
デザインの違いはあるけど500年たってる割に変わら泣く見える、
ていうか義経の甲冑の方が格好いい。
鉄砲とか海外から流れてきたのに。甲冑は進化しなかったのかね。
0682人間七七四年
2011/06/27(月) 22:12:11.42ID:bc86PWWgまず最初に、あなたの言う義経の甲冑は↓
@赤糸威胴丸鎧(大山祇神社蔵)
ttp://hukumusume.com/366/world/isan/itiran_kokuhou/001.htm
もしくは
A色々威腹巻(吉水神社蔵)
ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~crows-up/yosino14_1.jpg
で、信玄の甲冑というのはひょっとして丸武産業製の
ttp://www.yoroi.co.jp/syouhin/s013.html
じゃないのかな?
はっきり言うと、歴史上の人物が使ってたといわれる甲冑で、
確実に当人の所用といえるものって非常に少ないんだよ。
特に義経や信玄など、本人やその子孫が滅ばされた武将に関しては(楠正成、織田信長などもそう)。
それで、後世、英雄に思い入れのありすぎる人たちや、客寄せアイテムがほしい寺社などが、
よくわからないけど古そうな鎧や、はたまた江戸時代に作られた甲冑に「誰々の鎧」なんて肩書きをつけることはよくあるの。
そのほかには、江戸時代に庶民の間で人気があった講談や読み物で人物への想像が勝手に膨らんで、
歴史的な裏付けがあやふやなのに「こんな兜を使ってたんだ」という思い込みの塊そのものの甲冑のイメージが出来上がっていくケースもある。
それで、義経の甲冑は前者、信玄の甲冑は後者なの。
@の胴丸鎧は、製作方法から実は鎌倉後期から南北朝の間に作られたのではないかといわれているし、
Aの腹巻の形式が登場するのも鎌倉末期からというのが定説になっている。
このほかにも義経が着ていた鎧とされるものはいっぱいあるが、どれもこれも義経本人が生きてきた時期より
後になって作られたものばかり。
信玄の甲冑にしても、江戸時代の浮世絵ですでに確立したイメージを丸武産業がそのまま形にしただけのことで、
実際に信玄が所用しただろうと考えられているものは兜が1つ2つあるに過ぎない。
それ以外で信玄云々といわれているのは一番良くて勝頼の代に作られたもので、後は江戸時代の作がもっぱら。
まあ、ネットでその程度しか調べていないのであれば「大して変化していない」といえるでしょうね。
それじゃあ以下のサイトは見ていないのですか?
http://www.katchu.com/html/2000.html
↑甲冑研究者の運営するサイトより、甲冑の基礎知識の紹介。文章メインで読みにくいかもしれない。
http://www.usagijuku.com/history.html
↑紙の鎧製作キットを販売するうさぎ塾のサイトより、甲冑の歴史。
2サイトとも「甲冑 歴史」でググれば必ず引っかかるよ。まあ読んで見て頂戴な。
0683人間七七四年
2011/06/27(月) 22:29:35.06ID:QO7JxT2mやっぱ素人には大鎧と具足の違いは分からないですよ。
大和時代の埴輪の兵とかだとデザインがまるで違うと思うんですけどね。
大和時代から平安時代で劇的に変わって後は緩やかに変わっていったって
イメージですかね。
0684人間七七四年
2011/06/27(月) 23:52:04.67ID:bc86PWWg大鎧↓
http://www.imai-art.jp/sakuhin-daihyou2b.htm
当世具足(一般的な桶側胴)↓
http://gallery.nikon-image.com/198833810/albums/1842341/photos/18046613/
これでも識別は難しいかね?まあ、当世具足の様式は実用にかなえば何でもありだから
知識量が少ない時に判別しようとするのは難しいだろうね。
その大和時代の兵装だが、
短甲(復元品)↓
http://www.omaruhouse.com/work/other/kabuto/tankou2.html
挂甲(復元品)↓
http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000010
この2種類がもっぱら。中世以降の甲冑とだいぶ違う印象を受けるかもしれない。
だけど、日本の甲冑はこのうちの挂甲を改良・発展させたものである。
挂甲は細かい鉄や革の板(札、さね)を綴って構成するわけだが、大鎧もその延長上に
あるわけで(さらにはずっと下って当世具足の一部にも引き継がれる)、根本から性質の異なるものではない。
あと、
>大和時代から平安時代で劇的に変わって
というけど、実はその間をつなぐ奈良時代の甲冑の全容が殆どわかっていないんだよ。
想像復元を試みた例はいくつかあるが、現物の遺品が切れ端程度しか残っていないので非常に頼りないのである。
甲冑の歴史上では、平安時代に大鎧や胴丸が出現するまで、本来はどんな変化が起こったかがつかめる貴重な時期なのだが・・・
だからいきなり大鎧とかが現れたように錯覚を起こすのよ。
その後の緩やかにってのも一部正しくて一部間違ってる。
大鎧・胴丸・腹巻・(当世具足)は並行して製作され、使用されたのでそんなに違って見えないかもしれないが、
戦法や社会構造の変化に合わせていわゆる「主役の甲冑」は変動していくわけで、
そういう観点からだと(大雑把だが)以下のようになる。
・平安〜鎌倉→騎乗武士の弓による一騎打ち・・・大鎧が主、郎党の胴丸が従
・鎌倉後半〜南北朝→元寇ショック・・・胴丸の注目度上昇。腹当・腹巻登場
・室町〜戦国→打物戦・集団戦が一般化→鈍重な大鎧が実用を離れて儀礼化。胴丸・腹巻が主役
・戦国〜桃山・江戸初期→鉄砲伝来、下克上・・・新式の当世具足登場。胴丸・腹巻が廃れ始める
・江戸〜→島原の乱以降平和に・・・当世具足の進歩止まる。以後復古調甲冑が流行って幕末維新で甲冑は終焉
上の文章、自分で書いておきながら、あまり緩やかな変化とは感じなかったけど、どうかな?
もちろん、細かく時期を分けていけば緩やかな変化を確認・定義することもできないわけではない。
0685人間七七四年
2011/06/28(火) 00:12:33.01ID:a30jLmd8考証のいい加減な現代甲冑や江戸期の復古大鎧と比べてるのなら知らんが
0686人間七七四年
2011/07/02(土) 15:47:34.22ID:4exrZEet↑楠正成の兜だってさ。どう見ても江戸時代の復古調兜です。本当にありがとうございました。
0687人間七七四年
2011/07/06(水) 21:13:22.94ID:3BjcK1Apttp://rekishi.dogaclip.com/Crm/Profile-100000024.html (動画)
↑「新田義貞の兜」だってさ。モノ自体は高級品だがどう見ても南北朝期の兜じゃありません。
阿古陀形から後勝山形に移行途中の膨らみ、錆地仕上げ、神号刻み込み、
鍬形台の省略、突き出た眉庇、銀象嵌、共鉄の装飾、どれをとっても室町末期から現れた技法ばかりです。
鉢裏に「元応元年相州」の銘がある?年号は後入れの偽物でしょう。南北朝期には兜鉢に銘を刻む習慣はありませんでした。
あるいは「元亀」の書き換えかもね。というより、実際の銘の刻みは不鮮明で解読できないらしいとか。
「相州住○○」なんて甲冑師の名前があったら本当の製作年代特定されて都合悪いから削って消しちゃったんだろうな。
まあ、これは「小田原鉢」という筋兜で、手の込んだ作域からして、後北条家一門やそれに近い人物が使用していたと思われ。
数が少ないので希少価値が高く、重文指定されている件に関しては一部納得できる。
もともとは結城秀康が小田原合戦で獲った戦利品の一つだったんじゃなかろうかね。
0688人間七七四年
2011/07/16(土) 09:50:03.80ID:jdnB2uth↑「平敦盛の鎧」だってさ。もう笑うしかねえな。
阿古陀形の兜に半頬、最上胴かよ。どう足掻いたって室町末期より前には上れません。
胴の板札が金箔押しで毛引威なことから元来はそれなりのステータスの武将が用いていたのは推測できるんだが、
袖がシコロの代わりに兜に仕付けられていて脱力感が半端ない。
甲冑を知らない一般人はこんなインチキ伝来まみれの鎧を見ても「諸行無常だね〜」なんて感動できるんだからある意味では幸せだよな。
0689人間七七四年
2011/07/16(土) 10:58:18.79ID:w2DZ+bwnちゃんと修復すればいいのにもったいない
0690人間七七四年
2011/08/02(火) 20:41:02.30ID:HvSkAsT+↑「北郷忠相」の南蛮胴具足だってさ。実にいけませんなあ。そもそも人物とモノとの時代が一致しない。
どうして永禄の初めに死んだ人間が南蛮胴(しかも和製)を着られるんだ?具足からは江戸期の臭いがプンプンしますね。
格好いいのは認めるからさ、ちゃんとより正確な情報も知らせなきゃ駄目だよ。
偉人や英雄がらみの伝来にしがみつかないとモノを見られない、伝えられないというのを早く過去の話にしなきゃ。
0691人間七七四年
2011/08/04(木) 19:44:23.58ID:49eoC/ib頭成の正面に鎬を立てればそれっぽい
0692人間七七四年
2011/08/07(日) 17:32:31.95ID:w02uihHPまあ、桶側胴を見たらそんな感じがするよね。
挂甲に起源を持つ札鎧から短甲を思わせる板鎧への移行は先祖帰りを連想させて面白いが、
それでも板物の当世具足は札の甲冑の延長として出てきたわけで、
単純に短甲の復活と見るわけにはいかないことに注意。
0693人間七七四年
2011/08/08(月) 22:05:31.66ID:uTGcN1aw0694人間七七四年
2011/08/12(金) 23:56:24.38ID:2mB8I7NUttp://blog.livedoor.jp/machelin-gaiden/archives/2487905.html
↑「源義経の色々威腹巻」だってさ。平安末期にはまだ背中引き合わせ式の腹巻は登場していなかったというのが歴史界での常識のはずなんだがな。
第一に色々威ってのが時代の若い証拠な上に、小札も完全に盛上本小札だし、革所の小縁が菖蒲革って、それもう室町後期ですから。
ご丁寧に咽喉輪まで付けちゃってさあ。まあ本来は高級武士の着料であったことは確かなんだけどさ。
佐藤忠信の兜だって総覆輪阿古陀の筋鉢に板ジコロというバリバリの室町末期仕様。本来は実戦期の貴重な資料なのにデタラメな伝来が
本来の価値を曇らせてしまっている。至極残念無念なり。
しかし腹巻や兜に輪をかけてひどいのが弁慶の籠手に静御前の鎧(!)。どう見ても江戸期の作品です。本当に(ry
余談だがこの神社の宮司さんもきわどい方だねえ。「現行憲法無効」なんて張り切っちゃってる。まあこの神社、かつてはあの「南朝」だったからなあ・・・。
0695人間七七四年
2011/08/18(木) 20:23:08.13ID:MeWIyAuz↑「湛増の鉄烏帽子」だってさ。どう見ても源平期にはありえない烏帽子形兜です。本当にありがとうございました。
0696人間七七四年
2011/08/18(木) 21:19:42.69ID:bRnA5TpI0697人間七七四年
2011/08/18(木) 22:44:54.48ID:MeWIyAuzあれほど兜の立物に不適当なものはないと思うんだが。
・硬い→壊れにくい→武器や障害物が引っかかりやすい→動きが阻害されるor敵に取り付かれる
・重い→兜の重量バランスが崩れる→戦闘時の行動に悪影響
そもそも信繁のものといわれる甲冑で時代の確かなものは俺の知る限り全然ないんだが、
それでも彼が鹿角の脇立を用いていたなら、それは薄い金属や桐を切り出した板か、張懸かのどちらかだろう。
0698人間七七四年
2011/08/19(金) 22:40:54.97ID:9sdccb8L0699人間七七四年
2011/08/20(土) 03:11:29.07ID:PMyIUY8zそろそろちゃんとしたものの紹介もしたいが、もう一つ胡散臭いのを出しておくか。
ttp://blogs.yahoo.co.jp/kyuhzaemon/52727504.html
↑「大祝家の鶴姫所用・現存唯一の女性用鎧」だってさ。この胴丸を紹介しているサイトはみんな
「胸の部分が豊かで、腰が引き締まっているから女の子用だ!」なんてことを平気で書いているが、
それじゃあ戦国時代の武将は大半が女の子になっちゃうよ。素人だからこそ書けるんだと思うとちょっとうらやましい。
胴丸・腹巻は時代が下るにつれ徒歩戦により適応するためにその重量を分散すべく、腰部を絞った構造に変化していくわけだが、
室町末期にはそれがピークに達し、はっきりした逆三角形の体をなすようになる。
特にこの胴丸は当世具足化の一歩手前という様相をたぶんに含んでおり、長側の札板の段数は通常より1段多い5段構成なのである。
そのために見る角度によっては余計腰の窄まりがきつく感じられる。
草摺の間数が11間というのも珍しい感じがするが、同時期の胴丸・腹巻から初期の当世具足の一部に、足さばきと防御の向上をはかって
草摺を10間以上にすることはままあるので、何も水軍ゆえの特許発明というわけではない。
内陸の武将だった武田勝頼が浅間大社に奉納した紅糸威最上胴丸の草摺も11間だよ。
最もユニークなのはその脇部の防御だが、通常一枚板の脇板を取り付ける代わりに、札板2段を威し付けている。
非常にレアなものだが、これは「付脇引」という手法。室町後期から脇部を守る脇引という防具が流行し始めるが、
小札の板で作った脇引は胴の外から取り付ける関係から、動くと結構パタパタして違和感を覚えた人がいたらしく、
初めからくっつけてしまおうということで、胴に直接威して付ける付脇引が考案されたと推定されている。とはいえ遺例は殆どなく、
この胴丸のほかには談山神社所蔵の腹巻くらいにしか確認されない。別におっぱいによってできる隙間を埋めようとかいう性質のものではない。
これだけ実戦を意識した特徴から考えるに、その本来の使用者は、軍団を指揮して戦ったとはいえ、当時10代だった鶴姫よりも
戦の経験豊富な男性武将であるとするのが個人的にはしっくり来るのだが・・・。
0700人間七七四年
2011/08/24(水) 19:55:39.24ID:BraIhd+w義経の腹巻とか鶴姫の胴丸は今まで漠然と信じてたわ
0701659
2011/08/25(木) 11:36:55.62ID:jvY0C1Qfその節は大変お世話になりました。
盆に帰省した際に、ちょっとですが詳細について写真を撮ってきましたのでまたアップさせて頂きます。
兜の内張りを捲った内側に銘らしきものはあったのですが、誰それ作、という感じでは無いので銘なのかどうか良く分かりませんでした。これ以外の表記はなかったと思います。
胴は内張りが張ってあり、中を見ることが出来ませんでした。湿気が多く、今回は分解収納は諦めたので、また冬にでも胴内側については確認したいと思います。なお、胴は5枚胴でした。威が迷彩服色でしたが、こんなのはアリなのでしょうか(^-^;)。
1.兜内側の内張りを捲ったところ
http://mup.vip2ch.com/dl?f=22532
2.内後面に銘らしきもの
http://mup.vip2ch.com/dl?f=22533
3.胴内側
http://mup.vip2ch.com/dl?f=22534
4.迷彩柄の威
http://mup.vip2ch.com/dl?f=22535
0702人間七七四年
2011/08/25(木) 20:26:28.06ID:gYkTg5yN具足の確認お疲れ様でした。
兜の銘ですが、うーん、貼り紙ではなんともいえません。
やはり、作者の銘については鏨で刻み込んだものが一番重視されるので、
紙の他に何も表記らしきものがなければ実質無銘でしょう(それが悪いという訳ではありません)。
紙は具足全体の完成以後に貼り付けられたのでしょう。「久○」と書いているように見えますが私にもわかりません。
兜のはっきりした全体像がわからないので確証はもてませんが、鋲の感じからは、
上野国で明珍派甲冑師が製作した「上州鉢」の流れを汲む小星兜ではないかと思います。
迷彩柄の糸は、正確には「啄木糸(たくぼくいと)」と呼ばれるもので、
基本的には白・紫・萌黄・紺の4色の糸をベクトル状に組んで作るものです。
きつつきの胸毛の模様を表したものとのことからこの名が付きました。
啄木糸は、室町末期までの鎧の威しでは、シコロや袖、草摺の裾の板の下端を横に縫う畦目の装飾くらいにしか
用いられませんでしたが、桃山から江戸初期の一時期、具足全体をこの啄木糸で威すことが流行しました。
また、この甲冑の出自ですが、合わせ物の可能性は否定できませんが、使用されている威糸の配色バランスが
取れているので、説得力は弱いですが揃いの一作物といっても通じると思います。
あからさまな特徴はあまりありませんが、金箔の使用や威糸の色の多用、胴の蝶番の切鉄細工から考えて、
加賀具足ではないでしょうか。
加賀具足は、江戸時代に金沢に移った上州明珍系の甲冑師が、他派の甲冑師とともに完成させたといわれています。
華麗で技巧的な加賀具足の兜には筋兜や変わり兜が多いですが、小星兜の例もあります。
この具足に関しては古物の再利用という気がします。
0703659
2011/08/25(木) 23:42:14.59ID:jffC7HnB色々と教えていただき有難うございます。
張り紙は銘ではなかったのですね。次に帰ったときにでもさらに詳しく見てみようと思います。
迷彩柄の糸も昔からあったんですね!
びっくりしました。
お話から伺うとやはり、江戸時代初期程度の加賀具足と考えるのが妥当なようですね。
とするとけっこう古い貴重なものなんですね。
祖父や父によーっく言い含めておきます!
ちなみにやらしい話ですが価値的にいくらぐらいのものなんですか?
保存状態にもよると思うので、最低最高って感じで幅を持たせて教えていただけましたら結構です。
まあ前述の通り、前立の装飾の角が2本とも折れて雑な修復しかしてないなど、劣化が激しいので保存状態は「悪」と考えていただいた方がいいと思います。。。
0704人間七七四年
2011/08/26(金) 10:36:36.57ID:84dW14ONあるサイトを見ていて兼続の鎧が昔と今で変化してるというページがあったのですが、その理由として上杉神社では「盗難 」とありました。
これは表向きの理由らしく、
鎧好きの方なら真の理由が解るでしょうとも書いてありました。
しかし、鎧も歴史も最近興味を持ったばかりで検討もつきません。
>>485さんのレスの本に真の理由が書いてあるんでしょうか?
このスレにいる方々で解る方々いらっしゃいますか?ヒントいただけると嬉しいです!
0705人間七七四年
2011/08/26(金) 18:36:51.60ID:IMPmCh5D上州鉢の銘は、前正面の板の裏側に作者の名前が(「上州住○○」の書き方が一般的)、
もっと親切な場合は後正面の板の裏に製作年月日が入ることが多いです。
具足全体としては江戸中期ぐらいではないかと私は考えていますが、
パーツのまとまった加賀具足自体貴重な存在でして、多少時代が若くても立派なものです。
日本・海外を問わず、加賀具足にはファンが結構いるので高値でも引き取りたいという人は現れるでしょう。
昨今の不況で古美術品全体の売れ行きはさっぱり落ち込んでおり、売値も底の底を突くような有様ですが、
保存状態の悪さを差し引いても、私が骨董屋ならば60〜70万円で売りに出して様子をうかがおうと思います。
前立が壊れているとのことですが、基本的に兜の立物は戦で壊れることを前提にした消耗品として作られています。
軽くて脆いものでなければ戦闘に差し障りが出ますので。また、器用な人なら誰でも作れ、近代以降に作られたものも
いっぱい出回っているので、それほどこだわるべきものではありません。古道具屋などで形の似たものや別の種類のものを探し、
時々差し替えて楽しむという方法もありますよ。
ttp://www.yamabushiantiques.com/ARMOR38.htm
ついでながら、↑の一品はとりわけコテコテの加賀具足ですが、このくらいにまで加賀出来をアピールするものだと、
300万円以上の値札をかけても誰かがすぐに飛び付いてくるようなレベルです。
以上、不景気時代の今を念頭に値段を考えてみましたが、バブル期のような好況下で売り出せば、
確実に上記の値段の2倍以上で売れるものと考えられます。
0706659
2011/08/26(金) 23:45:25.60ID:q6Pjcvi1ご教示有難うございます!
前正面の裏側ですか。それは裏地があるので見ませんでした。
皆さんは裏地を剥してみているんですか?さすがに壊すのは怖くてあまり強引な事は出来ませんが、次回やれるところまでやってみようと思います。
価値についても教えていただきありがとうございます。
6、7代前からの伝承のものなので、売り払うつもりはありませんが、祖父や父にその価値を認識してもらいたくてお伺いしました。
値段もそうですが、歴史あるものが飾ってある事が何よりですよね!
近代の適当な創作物ではないと分かっただけでも興奮ものです!
前立てを差し替えとは思いつきませんでした。
ベースがぼろいので同じくらいぼろい前立てで適価な物があれば購入してみたいと思います。
しかし見た感じかなり精巧な彫刻に見えたので、あれが壊れる事前提ならもったいないですねえ。
水牛だとおもうのですが、顔面の堀の深さや耳の薄さなど、あれが木を彫って作られたものとは思えないぐらいの出来栄えですよ。
昔の人はスゴいですね。。。
まあ、毎回命がかかっているのだから入魂の作をつける気持ちは分からなくも無いですが。
ところで、他にも面頬と篭手の写真をとってきましたので良ければご覧下さい。
0707人間七七四年
2011/08/26(金) 23:50:42.27ID:IPIYfPk+0708659
2011/08/26(金) 23:57:51.84ID:q6Pjcvi1http://mup.vip2ch.com/dl?f=22616
面頬裏
http://mup.vip2ch.com/dl?f=22617
篭手表
http://mup.vip2ch.com/dl?f=22618
篭手裏
http://mup.vip2ch.com/dl?f=22619
面頬裏の金箔に剥げている所があるのは保管が悪いからでしょうか。実際に使われて口周りや頬など、動く部分が擦れて削れたのではないかと想像したりもしているのですが・・・。
0709702=705
2011/08/27(土) 01:49:43.63ID:Hbh0QGjP>>708
受張が健全な場合、兜の銘を確認するには布地を切り裂いて確かめるしか方法はありません。
大抵の銘は真後ろか真正面の板の裏に刻んでありますが、それ以外の箇所に刻んであったり無銘だったりすると、
貴重な文化資料の毀損にしかならないため、よほどの確信がない限り、布破りはやらないほうがいいです。
ただ、江戸期以降の兜の受張の中には、銘にかかる部分だけ布を切り取り、外から確認できるようにしたり、
鉢から着脱できる工夫を施したものもあります。こうした場合には、布を傷つける心配はありません。
今の兜に付いている前立は「獅噛(しかみ)」といって、牙を剥いた獅子の顔を表したものです。
割合ポピュラーなデザインなので似たものは早めに見つかるかもしれませんが、取り付けるための穴が
兜の差し棒と一致するものに絞り込む必要があるので意外と大変かもしれません。
普通、立物の穴は1箇所だけなのですが、お持ちの兜は2本角元のタイプですので、
2つ穴が適正な間隔にあいている前立であることが望ましいです。
面頬裏の金箔ですが、こういった表には見えないところにもお金をかけるのが太平期の発想ですね。
室町末頃から金銀箔や色漆を甲冑に用いるようになるのですが、黒漆よりも希少で高価なため、
実戦期には裏面にまで金を施すようなことはまず行われませんでした。
表に箔を押すにしても、威糸で隠れる箇所は黒漆のままにするなどして経費を節約した跡がうかがえます。
戦いが絶えた後、甲冑の兵器としてよりも家格に威容を添える美術工芸品としての側面が発達してくるにつれ、
派手で手間のかかる装飾が盛り込まれていきます。とりわけ高級な加賀具足にもなると、
シコロや草摺、胴の裏などに金箔を押しまくるので、ここで加賀製かどうかを判断することもできます。
この面頬の金箔の剥げは、写真で見る限りはエッジや頬、上唇など顔面でも当たりやすい場所に集中していて
不自然さはないので、単なる経年劣化によるものとしてよいと思います。
作られてから2、300年は経っているので何人かがそれなりの回数自分の顔に当てたであろう事は確かでしょう。
籠手は、一の腕、二の腕を守る鉄板の形が瓢箪に似ていることから「瓢籠手(ふくべごて)」といいます。
「小田籠手」の別名もあり、当世具足では一般的な形式です。
0710659
2011/08/27(土) 23:25:24.91ID:OjEovQiEさらに詳細な解説を有難うございます。
前立を変えてみるというのは思いつかなかったです。ぼちぼち探してみようと思います。
面頬からも江戸中期の加賀具足であることが濃厚になってきたわけですね。今後は取り扱いにも気を付けようと思います。
片付けるときに銘など確認して新しい事が分かりましたら、またこちらにご報告させていただきます。
色々有難うございました。
0711人間七七四年
2011/09/05(月) 00:14:07.90ID:Zccr3F0Http://www.scalarchives.com/web/dettaglio_immagine.asp?idImmagine=H400225&posizione=4&numImmagini=698&SC_Luogo=Royal+Armouries%2C+Leeds%2C+Great+Britain&prmset=on&SC_PROV=RA&SC_Lang=eng&Sort=9&luce=
↑は現在、イギリスはリーズの王立武器庫に所蔵されている最上腹巻具足だが、室町末期から桃山・江戸初期の貴重な実戦用甲冑である。
特に注目したいのが、小振りのシコロを付けた古頭形兜。日根野形や越中形が現れる前の原初的でシンプルな形状をしている。
その多くは江戸期に張懸兜の土台に転用されたため、現在にまで古頭形がそのまま伝わっている例はごくわずかで、なかなか見られない一品である。
草摺の段数も驚異的に多く、8段というまさに「佩楯いらず」というべき長さである。
同時期の胴丸・腹巻でもここまで段数を増したことは殆どなく、タイ記録としては上杉神社所蔵の燻革素懸威腹巻(謙信所用)の草摺が同じく8段を採用しているくらいである。
リンク先の解説ではHaruta Mitsusadaによって作られたとの推測がなされているが、これは奈良在住の甲冑師・春田光定のことであろう。
日本国内にも彼の銘が入った兜や鎧が結構残っているが、この腹巻具足と形状が近いものとしては、稲葉良通所用の最上胴丸具足が思いつく↓。
ttp://www.pref.gifu.lg.jp/kyoiku-bunka-sports/bunka-geijutsu/bunkazai-zuroku/bunkazai-zuroku/kougeihin/ibigawachou/sukaketiketari.html
良通の具足のほうがやや古手の印象を与えるが、これも兜に「春田光定」銘が入っており、両者の製作時期はさほど離れていたわけではなさそうだ。
どちらも戦場を駆け抜けた実用の具であり、全体からは緊張感あふれるシャープな雰囲気が放たれている。
0712人間七七四年
2011/09/05(月) 00:15:12.49ID:Zccr3F0H説得力は弱いが、籠手の手甲紋金具や八双鋲にクルス紋が入っていることからそう推測されている。
とすれば、これは彼が高山右近と共にマニラへ追放された際に持ち出されたということになり、
古式な特徴を多く含んだこの具足がいじられることなく今に伝わっているのも納得できるというものである。
記録によれば、内藤如安は兜の立物に十字架とIHSの文字を用いていたという。
立物に自分の信仰する神仏の像をあしらうことが多かった時期である。キリシタン武士も戦いの中では神の加護に与ろうとしたとて不思議はない。
この古頭形兜の頭立角元が十字架を、前立角元がIHSを付けるためのものだったのかと考えると興味深い、貴重な実戦期の具足一領である。
0713人間七七四年
2011/09/05(月) 12:43:43.54ID:g2akFchnおお、この具足、存在は知ってたんだけど見たことなかったんだよね。ありがとう
全体的な雰囲気は伝・足利政氏所用の縹糸威最上胴丸具足と似てるね
これが日本に残っていたら後世になって適当な立物が追加されてたりしそうだ
海外で良好な状態で保存されていたのは本当にありがたい
0714711
2011/09/05(月) 22:46:56.63ID:Zccr3F0H立物が変えられるなんてまだまだ可愛いほうで、室町から桃山期の古物で
江戸期に改装されたものはゴテゴテの飾り金具を打たれまくって実用性を殺され、
だらしない格好にされてしまったケースが多い。
まして、この具足が考えられている通りに内藤如安関連の品で、日本にあり続けたとしたら、
近世を生き延びる以前にキリシタンのものとして弾圧の流れの中で破棄されるか、
紋金具を外されるなどして痕跡を消されるか、徹底的に隠匿されるかなどの
厳しい選択に置かれたであろう。
ただ、実際の所有者がどうであれ、早めに海外に流れたことで国内情勢と関わりなく
今日まで伝わることができたのは、この具足にとっては正解だったといえる。
0715人間七七四年
2011/09/06(火) 14:48:27.21ID:9Pd5BH5C国内には数点しか残ってないんだっけ?
腹巻・胴丸全盛の時代からすでにあったという実感が湧かない
0716711
2011/09/06(火) 19:06:29.73ID:gj3b/tsT数点というのはさすがに少なく見積もりすぎだろう。
私の場合、主に書籍で確認しただけでも最低10頭は見てきたよ。
それでもあれこれ吟味するには非常に数が足りないのだが。
ttp://www.pref.miyagi.jp/bunkazai/siteibunkazai/miyagi-no-bunkazai/04Kougei/ken/22yoroi.htm
↑残欠状態だが、古頭形兜が本小札の胴丸に添う例があったので貼っておく。
室町後期どころか、人によっては頭形兜の淵源を平安時代の源平期あたりにまで持っていくことがある。
頭形兜は江戸期の遺品は腐るほどあるのに、その出自にはまだ謎の多い兜である。
0717人間七七四年
2011/09/06(火) 23:23:20.24ID:9Pd5BH5Cお、ありがとう。初めて見る品だわ
それにしても、平安時代w あったとしても雑兵用なんだろうけど、
源平合戦で古頭形兜の兵士が戦っているのを想像すると強烈な違和感がw
やはり遺品がこうも少ないと、発生がどこまで遡れるかわからないんだろうな
0718人間七七四年
2011/09/07(水) 10:54:33.15ID:enGRavDKもし霊的な世界が本当にあったとして、
「霊感がある人は昔の霊が甲冑姿で出てきたりしたら細部まで見えるんだろうか。話せるなら歴史の真実が解るのだろうか。羨ましいなー。」
と全く霊感ゼロな自分は妄想してしまった。
実際もし見える体質なら刀や甲冑、合戦があった地等を見に行くのが嫌になりそうだけどね。
0719人間七七四年
2011/09/07(水) 11:45:35.78ID:ig5CzIekすぐ逃げ出すだろうから細部まで見て覚える余裕はないのでは?
0720711
2011/09/07(水) 13:15:15.36ID:9Si8Tear頭形兜の起源についてまとめた本でお勧めなのは浅野誠一著『兜のみかた 頭形兜考』。
古い本なので大きい図書館か古書店で探してみて。
>>718
元亀・天正から慶長・元和あたりの武装の変遷を特に知りたいな。
胴丸・腹巻から当世具足への交代期の格好とか、
下卒の着料とかについて詳しいことは大部分がまだ不明なんだよね。
0721人間七七四年
2011/09/08(木) 14:46:46.11ID:II+wwPQ2金之丞は即死だった
0722人間七七四年
2011/09/08(木) 21:00:05.21ID:PWRfRA+pttp://www5f.biglobe.ne.jp/~toukondankon/gun-kin.htm
↑これに出ている写真の兜だな。
普通頭を撃ち抜かれたらまず助からんし、命拾いしても大方が廃人になっちまうわな。
天狗党の使用していた銃は輸入した新式銃だったのかな?
0723人間七七四年
2011/09/08(木) 23:10:36.66ID:Efw3+apY0724人間七七四年
2011/09/08(木) 23:15:27.05ID:II+wwPQ2そういえば、かの戦争で高崎藩の三番手隊長だった深井八之丞の鎧は、藩から45両を借用して修繕した代物だったそうだ
0725人間七七四年
2011/09/08(木) 23:38:25.53ID:ZbkhFFdT立派なお髭ですね。こういうたっぷりとした髭の頬当は江戸時代のものが大半だと考えていいんだろうか
実戦期の遺品で見た記憶ないような
0726人間七七四年
2011/09/09(金) 00:27:32.98ID:gyRzQxFi上杉景勝の遺品には長めの髭を付けた面頬があるが、
他の当時のものに比べて特別なこだわりを感じる。
あまり髭が長いと鼻の穴や口元が覆われるので都合がよくないんじゃないかね。
面頬の髭は平和になってから一般的な飾りになったっぽい。
江戸時代の武士はひげを剃ることが義務付けられてたから余計にそうなったのかも。
0727人間七七四年
2011/09/09(金) 10:48:33.67ID:bG0sHAHA0728人間七七四年
2011/09/09(金) 16:03:12.34ID:9tGJYcb5法然上人絵伝の夜討ちシーンに、手に盾を持った武士が描かれていたと思うんだが
0729人間七七四年
2011/09/13(火) 21:12:03.13ID:G/hdzBtq桃形兜って烏帽子形兜と同様、変わり兜としてはかなり古い部類に入るんだよな
西洋甲冑が輸入されたのは記録上では1588年が最初と聞いたが
望月家には永禄〜天正のはじめ頃の作と推定される桃形兜が残ってるし
0730人間七七四年
2011/09/13(火) 22:32:07.85ID:YjRn5XR6俺は桃形兜の源流は明・朝鮮の兵士の鉄兜にあるのではないかと思っている。
遺品が非常に少ないのでなんとも言いがたいが、
そもそも西洋兜は日本に持ち込まれた数が圧倒的に少ないし、
モリオンやキャバセットを真似て作られたという説は、
桃形兜が下級武士の簡易兜として発生した事実とはあまり整合性が感じられない。
なお、九州を中心に、西日本に初期の遺品が多く残っているという報告が最近なされている。
それを受けて、以下は全くの推論になるが、
おそらく同地を根拠地にしていた後期倭寇が、明・朝鮮の軍と交戦した結果、
敵の武装を参考にして開発させたのが桃形兜ではないかと思うようになった。
桃形兜は一般的に鉄板4枚を前後左右からはぎ合わせて作るが、
明や朝鮮の鉄兜も、若干製法は異なるが、4枚や2枚の鉄板から構成されるものが多いのだ。
たまたまそういう形にできた、ということもあるだろうが、
何かしら技術的学習や交流はあってもおかしくなかろう。
0731730
2011/09/13(火) 22:40:55.56ID:YjRn5XR6俺の説(というかあて推量)の弱点は、明・朝鮮の兜から参考にしたというなら、
もっと早く、たとえば前期倭寇の全盛だった室町初めに登場しても
よかったのではないかという問いに対して適切な答えが出せないこと。
苦し紛れの答えをするなら、大陸・半島出身者が多かった後期倭寇の時期が桃形兜が
生まれるのに適していたということになるのだろうが。
0732人間七七四年
2011/09/14(水) 18:14:06.55ID:TUPgm6zO各地で自然発生していったのではないかと思ってしまった
0733人間七七四年
2011/09/14(水) 20:01:10.21ID:1XrBuVv2後三年合戦絵巻 [e国宝]
ttp://www.emuseum.jp/detail/100319/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=209&num=3
平治物語絵巻「三条殿夜討の巻」 [bowdoin大学]
ttp://learn.bowdoin.edu/heijiscroll/
平治物語絵巻「六波羅行幸巻の巻」 [e国宝]
ttp://www.emuseum.jp/detail/100148/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=1&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=17&num=3
平治物語絵巻「六波羅合戦の巻」 [国際日本文化研究センター]
ttp://kikyo.nichibun.ac.jp/heijiemaki/html/
男衾三郎絵巻 [e国宝]
ttp://www.emuseum.jp/detail/100332?d_lang=ja&s_lang=ja&word=&class=&title=&c_e=®ion=&era=&cptype=&owner=&pos=177&num=2&mode=detail¢ury=
蒙古襲来絵詞(トレス元はwiki)
ttp://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/index.html
その他色々
絵巻物データーベース [国際日本文化研究センター]
ttp://kikyo.nichibun.ac.jp/emakimono/
奈良絵本・絵巻の世界―武士の物語絵巻を読む― [明星大学]
ttp://ehon-emaki.meisei-u.ac.jp/
他にもあったら教えて欲しいです
0734人間七七四年
2011/09/21(水) 15:31:56.74ID:l04czoiwよく描き込まれていてとても気に入ったんだけど、一つ疑問が
同書では明智光秀や浅井長政、池田恒興が本小札毛引威の二枚胴を着てるんだけど
時代的に考えづらいのでは?胴丸・腹巻ならともかく、
二枚胴で全面毛引威なんて江戸時代以降の様式かと思うんだが
0735人間七七四年
2011/09/21(水) 16:48:57.14ID:0WiXwZJOあれ信長が普通に南蛮具足で書かれているような本でしょ?つまりそういうことだよ。
書き込みという意味ではリアルなんだろうけど、史実的という意味でのリアルじゃない。
0736人間七七四年
2011/09/21(水) 18:13:15.22ID:12noqNV2>>735
写実的に正確なのと史実に即しているのがいつも両立するわけではないということだな。
昔の例で言えば、利剣の前立の兜を着けた榊原康政の肖像画と具足がある。
肖像画のせいで東博所蔵のあの竜の蒔絵の二枚胴具足が康政所用とされているが、
作域からして実際に総体が製作された年代の上限はせいぜい江戸中期という代物。
子孫が具足を作らせたか、どこかから購入した後に伝来を付け、
肖像を描かせて初代藩主の着料にでっち上げたのが実情だろう。
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