当世具足★★★鎧について語ろう★★★大鎧
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年
2007/06/08(金) 17:33:55ID:P1ntm8y4鎧かっこよすぎ。
種類とかいろいろ教えてくれ。
0582人間七七四年
2010/04/22(木) 21:43:00ID:xpVF0qpuという古写真の画像を探しているのだが未だに見つからない
0583人間七七四年
2010/04/26(月) 00:34:32ID:fXnfRmp8ttp://www.flickr.com/photos/24443965@N08/2822802922/sizes/o/
0584人間七七四年
2010/06/09(水) 21:57:59ID:R1KVDN6S0585人間七七四年
2010/06/09(水) 22:11:15ID:vOGOODPD0586人間七七四年
2010/07/19(月) 17:38:58ID:rXit5n0L金砕棒はレアな武器みたいだし。
0587人間七七四年
2010/07/19(月) 17:59:20ID:BJ2kCleF0588人間七七四年
2010/07/21(水) 23:59:34ID:K8/6XZoe合皮素材の部分があって、劣化が心配とあるけど
実際どうなのでしょうか?
購入者の方、使用中の方よろしければ教えてください
ttp://review.rakuten.co.jp/rd/2_198062_10000457_0/
0589人間七七四年
2010/07/27(火) 21:09:14ID:/LBBP8wg0590人間七七四年
2010/07/28(水) 01:27:53ID:o8Km6Nbt西洋と日本での鎖帷子の使われ方には歴史的に違いがあることを踏まえる必要がある。
西洋甲冑ではそもそも、古代から中世まで鎖帷子(メイル)が主体的に使われてきた。板金鎧が発展していったのは、
鎖帷子は刺突に弱く、着ると体に鎖全部の重量がのしかかって動くのに抵抗がいるという弱点を補う形でであった。
日本では、鎖帷子は札甲冑の下に着込むとか、非常時に着るとかの副次的な使用が主であったことを
考えると、同じ物に対しても求める強度が日本と西洋では異なってくると想像できるがどうだろう?
日本の鎖帷子に亀甲やカルタ形の鉄板を混ぜた例がいくつかあるが、鎖だけでは不安だという使用者の思いも感じられるのでは?
0591人間七七四年
2010/07/28(水) 18:52:18ID:TGdT4x8eだから軽量化する為にスカスカになったんじゃないか?
あくまでも間接部の防御や甲冑が貫通された時の保険などの副次的な装備だし。
0592人間七七四年
2010/08/02(月) 11:27:21ID:DBkV/E0C甲冑剣術のいでたち、構えを見ても、脇の下とかただの着物しかないから、
槍とかで突き貫かれたら終わるような気がする
狙ってくる部位が分っていることは逆にメリットにもなるのか?
相手の得物をかわして、懐に入って斬り殺す動きを重視するなら、鎖帷子で重装備にするよりも効果的だったのかもしれぬ
0593人間七七四年
2010/08/03(火) 00:30:54ID:puLO2bmn甲冑を着た武者の剣術は写真のように半身をきった構えなのか?
現代の剣道とかは体は正面向いてるが。
もっともお互い動いている相手の部位をピンポイントで仕留めるのは難しいだろう。
槍や刀で相手をぶっ叩いて組み付いて投げ飛ばしたんじゃね?
鎖帷子で思い出したが、ヒストリカルチャンネルだったかで、日本の和弓では中世ヨーロッパ騎士の鎖帷子を貫通出来なかったな。
英国のロングボウよりも弾道ゼリーを使った測定では貫通力で上回ったが、矢じりの問題で鎖帷子にはじかれてた。
0594人間七七四年
2010/08/03(火) 01:25:04ID:+FS0U8P8甲冑剣術に限ったことでは無いけど、剣術での刀の構え方は、現代剣道の「正眼」のように正面に構えるだけではないよ。
横に構える「八相」、「霞の構え」。
他に腰の下斜めうしろに構える「脇構え」とかもある。
>>592の写真のは八相を低くした感じか。
介者剣術は重心を低めに取って隙を小さくするというのは本当なんだな。
0595人間七七四年
2010/08/03(火) 05:49:57ID:Vizn/ME7あの番組って最終的には(ドイツ除く)欧米マンセーで完結させるから、
参考程度にしておくと良いよ。
第二次大戦で難攻不落の要塞を陥落させたドイツの列車砲を無駄と一蹴した後、
日本に核兵器を撃ち込む為に開発した世界最大の巨砲(未完成)を絶賛してたから。
0596人間七七四年
2010/08/03(火) 18:42:15ID:cgMP7evF平安末期頃の兜を平家はしっかり被ったのに坂東武者は兜背負ってたと言うのは本当?
あと兜がズレないように天辺の穴から髪の毛引っ張り出してたと言うのも変ですが本当ですか?
分る人おりましたらお願いします。
0597人間七七四年
2010/08/04(水) 01:05:49ID:KEV3Ioul頭蓋に被る「鉢」の部分を、台形の鉄板十数枚を半球状に鋲で留め合わせて作っていた。
「星兜」の名は表面に出た鋲の頭を星に見立てて呼んだもの。
この頃の兜の脳天部には、丸い大きな穴があるのだが、これは(兜製作の技術的な水準の問題も含めて)
その穴から烏帽子を被せた髻を出して、兜を固定していたことによるもの。当時は頭髪が神聖なものとして
扱われていたことも関係しているだろう(人前では必ず被り物をしなければ恥とされた)。
源平合戦期の大鎧に付いている兜の穴は直径数cmとかなり大きいが、もちろん急所であったことは事実。
鎌倉・室町を下るにしたがって技術の発展と共に穴は小さくなり、完全に塞ぐこともできるようになったが、
なおも飾りや頭の蒸れ防止のために1、2cmくらいの大きさで開けられることが多かった。
で、平家の武者は被っていたのに坂東武者は背負っていたとのことだが、
大鎧を着て馬に乗って戦う武士は、源平関係なく誰でも戦闘時以外は兜を脱いでいた。重いもん。
休憩時や行軍のときは従者が持ったり被ったりしていて、戦いが始まるとこれを受け取って被った。
>坂東武者は兜背負ってた
『平家物語』巻十一の那須与一「甲をば脱いで高紐にかけ」のくだりが元かしら。その話は絵の題材にもよくなっているから。
0598人間七七四年
2010/08/04(水) 01:15:00ID:KEV3Ioul烏帽子の先端を突き出した風にした具合にすることが本来は望ましいのですが、髻を解いた状態の
ロン毛かつらを被せるケースが結構多いです(衣装の甲冑との兼ね合いもあるから仕方ないか)。
天辺の穴が小さくなると髻を解いてから兜を被るようになりますが、
『蒙古襲来絵詞』などの史料から、元寇期前後から始まったと言われています。
0599人間七七四年
2010/08/04(水) 02:51:11ID:IoQN2ihEあれ確か和弓とロングボウで同じくらいの張力のものを比べてたでしょ。
複合素材の弓と単一素材の弓を比較しての大きなメリットって、同一サイズで制作する場合、複合素材のそれは
張力の限界を大きくとり易いということだったと思うんだが。
0600人間七七四年
2010/08/04(水) 03:50:11ID:FMdqF3fqまあ、あの番組は和弓を割りと持ち上げてたが。
同じ張力で比較して、単純な運動エネルギーでは和弓のほうがロングボウを上回ると結論付けてたし。
0601人間七七四年
2010/09/23(木) 13:28:00ID:oiDo3Lxm0602人間七七四年
2010/09/28(火) 09:03:19ID:LXP0Cm9Q0603人間七七四年
2010/10/04(月) 21:00:57ID:czcdhIXzそう。
でも水軍衆相手の場合は注意が必要だぜ、
金玉ガードがちゃんと備えられている甲冑もあるらしいよ。
金玉ガードがないのは馬に乗るからであって、
馬に乗る必要が全く完全にない海賊は付ける奴もいるんだってさ。
0604人間七七四年
2010/10/25(月) 09:13:01ID:EHVrglRO船べりに立ったときに足滑らして股間直撃防止のためという話もあるな
0605人間七七四年
2010/10/29(金) 10:43:16ID:EIjE5g2xhttp://www.sengokudama.jp/category/gaisyu-story.html
突っ込みどころ満載。
0606人間七七四年
2010/10/30(土) 02:19:15ID:KJYRr0cC0607人間七七四年
2010/11/02(火) 23:29:06ID:N7zyH0PA0608人間七七四年
2010/11/03(水) 12:35:52ID:6u8abJFa体験型甲冑店 「遠州掛川 鎧屋」
http://yoroiya.hamazo.tv/
0609人間七七四年
2010/11/08(月) 12:57:44ID:3e4h8TAR「小堀流踏水術」っていう古流泳法の流派があって、
甲冑を付けて立ち泳ぎする演武とかやってるんだが、
そのいでたちは普通の具足だったなぁ。
金玉ガードなんてはじめて聞いた
0610人間七七四年
2010/11/09(火) 19:08:24ID:NY6iCV/F普通の足軽鎧
3倍の大きさの足軽鎧
(しかも実戦で使われた形跡のあるもの)というものがあったと思うのですが、詳細のわかる方教えてください。
0611人間七七四年
2010/11/19(金) 20:59:12ID:UOgSTvAottp://gyazo.com/86160a920c00fdb11ea0321a1bd0916f.png
(逆ノースリーブと一部で言われているあれ)の名称が分かりません。
知っている方、教えてください。
0613人間七七四年
2010/11/20(土) 00:31:21ID:iE0KQGOX0614人間七七四年
2010/11/20(土) 03:05:11ID:adJf5xx5ありがとうございます。あれも手甲の一つだったんですね。
手甲ってごついイメージがあったので、布のあれはどういう名称かずっと
分からなかったです。
0615人間七七四年
2010/11/20(土) 07:31:46ID:DdMjP5rb戦国オタとしては普通の風景だから草を生やすような違和感は無い。
0616人間七七四年
2011/01/26(水) 22:58:50ID:A8eIn6IV大鎧のような栴檀板(せんだんのいた)・鳩尾板(きゅうびのいた)を付けたような構成の甲冑って、
いつぐらいの時代に使われていたものですか?
この画像のような。
http://homepage2.nifty.com/watauti/tono13.jpg
http://dl.dropbox.com/u/9990573/IMGP332.jpg
カテゴリとしては胴丸に分類されるのですか?
0617人間七七四年
2011/01/27(木) 11:02:28ID:XfVCuHV2俺が知ってるのは江戸時代以降のコケおどしの復古鎧だけど。
0618人間七七四年
2011/02/04(金) 01:29:24ID:O3Dwiks5福島県相馬市にある松川浦は、大小の島が点在する風光明媚な風景で、日本百景の一つに数えられる。今の時期、青のりの収穫が盛んで、美しい景色の中を漁船が行き交う。
今回、俳優・波岡一喜が訪れ、青のり漁師の生活に触れていく。また、全国でも珍しい、本物の甲冑を復刻させる甲冑職人の技にも出会う。
ttp://www.bs-j.co.jp/genfuukei/
ttp://www.bs-j.co.jp/bangumi/html/201102042000_20474.html
0619人間七七四年
2011/02/11(金) 07:53:06ID:/gX6jSmr鎌倉時代の絵巻物にはいくつか例があるが現存品は大山祇神社の一領だけ
源義経奉納といわれているが、例によって時代はもっと下るらしい
ただしこれらは胴の正面に弦走韋も貼ってある
分類としては「腹巻鎧」
「胴丸鎧」というのは後世の腹巻⇔胴丸の名称逆転を受けた呼称なので正しくない
0621人間七七四年
2011/02/27(日) 12:46:01.59ID:/occJbfb0622人間七七四年
2011/02/27(日) 18:23:30.88ID:1PuaayzF甲冑師の方に弟子入りをしようと思うんだけど、
甲冑師の方て今の時代でも弟子とかとってるんですかね?
0623人間七七四年
2011/02/27(日) 18:38:45.79ID:/occJbfb0624人間七七四年
2011/02/27(日) 18:54:45.19ID:1PuaayzF鹿児島のですよね?半年ほど前に一応問合せをしたのですが、
関東在住なんであんまりいい返事はもらえませんでした。
0625人間七七四年
2011/03/02(水) 11:12:47.44ID:WnQ7Yd7Rttp://japanese-armor.org/jpn/
甲冑会に聞いてみたらどうかな?本業の人が何人かいるから相談に乗ってもらえるかもよ
0626人間七七四年
2011/03/04(金) 15:53:41.83ID:v9W/wfJwありがとうございます。早速、連絡したいと思います。
0627人間七七四年
2011/03/06(日) 01:21:05.42ID:UiGGaiOF上はDID製作の織田信長フィギュア
建勲神社の胴丸と揚羽蝶の陣羽織が付属し、モデル写真の中では2つを着せてはいるが、
大袖を付けた上で陣羽織を着ることは実際上相当無理がある
まねしないように
0628人間七七四年
2011/03/06(日) 10:42:49.96ID:Aq/WVItG0629人間七七四年
2011/03/13(日) 18:58:27.14ID:tRyCV0dG0630人間七七四年
2011/03/17(木) 12:57:24.74ID:m9YSecVJttp://www.geocities.jp/kazzuki2001/kabuto.html
0632人間七七四年
2011/03/18(金) 23:22:26.69ID:0EliEvWo本山一城(黒田官兵衛の子孫にあたる漫画家)。だけど、俺もこの人の文章は
品が無さ過ぎて好きじゃない。
0633人間七七四年
2011/03/19(土) 05:58:08.13ID:KMso/AQEガキの頃は結構好きだったのにw
0634人間七七四年
2011/03/19(土) 09:46:31.94ID:rL/p4mem0635人間七七四年
2011/03/19(土) 12:35:10.40ID:gQWK4Jk1って序盤の方に書いてあるけど
幕末の陣羽織と桃山期の陣羽織ってどこらへんが違うの?
もしかしてやたらと足元に向けて長くなってたり?
0636人間七七四年
2011/03/19(土) 15:06:08.15ID:iIPOmc8A○当世具足は江戸時代になってから登場した。胴に樽型の曲線があるのは西洋鎧の影響。それ以前の胴は直線的。
このへんの記述は
「くそく(具足)、はらまき(腹巻)、おけかはとう(桶側胴)、くさすり(草摺)十けん(間)」六さけ(下げ)、………
のとわ(喉輪)つね(常)のこと(如)し、一、かふととうなり(甲頭形)、しころ(??)五さけ(下げ)、
まみ(眉庇)ほしかふと(星兜)のことく(如く)、めんほう(面頬)とひはなことゞヽく、… 」
『石川孝雄家(甲府市)文書』
(穴山信君(1541〜82)が元亀二年(1571)に吉三に宛てた具足注文)
と矛盾しないのだろうか
0637人間七七四年
2011/03/19(土) 19:17:40.21ID:y1QolkMbほうほう、興味深い説ですね。江戸時代の上限が遡る可能性が出てきた。
0639人間七七四年
2011/03/20(日) 23:05:11.63ID:fVKerPwT0640人間七七四年
2011/03/20(日) 23:22:41.17ID:fVKerPwT当世具足の登場ね
0641人間七七四年
2011/03/21(月) 12:38:54.93ID:sG0cSXqe戦国時代の陣羽織は裾が広く、「ハの字型」をしており、江戸時代の陣羽織は肩幅と裾幅が同じでした。
0642人間七七四年
2011/03/21(月) 13:39:29.41ID:F1PSCXwSこんな感じのやつか
http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=B07&processId=02&colid=I393
https://www.city.sendai.jp/kyouiku/museum/syuuzou/04_fukushou/02.html
0643人間七七四年
2011/03/21(月) 15:19:04.54ID:9Deo1Fbi0644人間七七四年
2011/03/22(火) 08:28:18.38ID:lD69TQWL0645人間七七四年
2011/03/22(火) 20:30:24.56ID:N++VGnFy素材も桃山期のには麻や紙といった通気や軽さを重視したものもそれなりに見られるが、
江戸期以降はラシャや金襴での仕立てが一般化し、形も袖無しで前の開き部分を折り返した様式が定型となる
0646人間七七四年
2011/03/27(日) 13:37:02.13ID:qxyKDSvK葵の紋の金具を各所に配し、胴の正面に大きく葵の紋を紋柄縅にするなど、この当時の最高級レベルの丁寧な作り。信一のような中級クラスの武士が用いるものではない。
1568年信長は将軍義昭を擁して上洛戦を行ったが、家康は自身の出陣ができなかったため信一に兵を預けて出陣させた。そのときに与えた甲冑がこれ。
貴重な拝領品であるため大事にされ、今日まで残った。
したがって、この当世具足の制作年代は1560年代の後半と特定できる。青年時代の家康の甲冑の唯一の遺品としても貴重。
0647人間七七四年
2011/03/27(日) 16:10:50.67ID:8mhtUf0A正直私も自分の推測が正しいとは思っていないので
以下の文章は参考程度に見ていただければいいが意見を一つ
あの具足が永禄年間に製作されたというにはちょっと疑問な所がある
うまく説明できないんだが、当世具足としては初期の部類に入るのは確実だが
それでも天正より後という感じがする
・日根野形式のシコロ
・面頬の仕立て
・段数が増加しきった胴の立挙・長側
・黒糸威(桃山時代より前には遺品がまずない)
・四孔式の胸板
・脛当のホ具摺
とかを見ると当世具足としては一応完成された様式を備えているので、
信一が家康の代理出陣する際に渡されたというのは後世の付加で、
関が原前後に家康から拝領したというのが実相ではなかろうか
手元の資料が少ないのでこれくらいまで
0648人間七七四年
2011/03/30(水) 05:12:52.19ID:o7Q83j4t足軽が桶側胴に陣笠被って走り回ってるのが一番映像としては、安心できるのも確かな話で。
0649人間七七四年
2011/03/30(水) 20:55:50.09ID:8MQx8YuZところが上田博物館の松平信一のものは篠脛当て。この甲冑が家康のものであることは確実だから、当初は大立上げの脛当が付属していたはず。そうではないのは信一がこの甲冑を実際に用いたからと思われる。
大立上げの脛当ては、篠と異なり鉄板の打ち出しだから、本来の所有者以外は使いにくい。脛当のみは信一が自分のものを用いたと考えられる。
家康が事実上の天下人となってから以後では、仮に下賜されたとしてもそれを実用に供するのは難しかったんではなかろうか。
0650人間七七四年
2011/03/31(木) 04:59:43.33ID:vW0r0g2w0651人間七七四年
2011/04/16(土) 16:15:31.65ID:b23/Q4Pp熊本県あさぎり町に伝わる、兜・大袖・脇引の付いた腹巻の残欠。胴の長側が伊予札仕立て。
南北朝期の遺品とあるが、腹巻をこんなに重武装化させるのは室町後期の特色。
写真の真ん中に鐶を打った菱縫板があるがこれは初期型の背板(臆病板)。
背板は大袖の緒を結ぶ総角を取り付けるために使われ出したので最初は札板1、2段だけだったが、
後に防御力向上のために大型化した。
兜もまた練革板の打ち出しという珍しい簡易兜。
シコロや眉庇の形からこれも南北朝からは更に時代が下るものと思われる。
当世具足が普及する前の、九州地方で活動していた中堅〜上級武将の着料の好例といえる。
0652人間七七四年
2011/04/23(土) 15:32:34.40ID:7vC3woOt「鎧」・・・よろい。特に首から下を保護する部分を指す。日本史上では「大鎧」をさすこともある。
「甲冑」・・・胴部を保護する「鎧」と頭部を守る「兜」をまとめて指す語。鎧兜(よろいかぶと)。
なお、「甲」は「鎧」、「冑」は「兜」にあたる。
上のように俺は今まで理解していたから、「鎧甲冑」という言葉を聞くと「よろいよろいかぶと」と
頭の中で解釈してゲンナリするんだが、どこか間違ったとこあるか?
0653人間七七四年
2011/04/23(土) 15:41:02.07ID:ILqjtf4oヤフオクの出品タイトルだけじゃない?
あれって今だにタイトル検索しかないから、
タイトルにやたら長ったらしくキーワードを詰め込むしかない。
「鎧胴/鎧兜 武具 刀剣 鍔 具足 甲冑 」とか。サムネイル写真無ければ何なのか分からないものばかり。
出品時にニコニコのハッシュタグみたいなのを付けられればもっとスマートになるのにといつも思う。
0654人間七七四年
2011/04/23(土) 15:57:58.52ID:7vC3woOtいや、それが結構な頻度で出版物やテレビで目にしたり
「よろいかっちゅー」とか聞いたりするのようになったのよ。
どうしてそんな重複語ができたのか、使っても平気な人がいるのかはわからないが。
ヤフオクの検索が不便なのは同意する。
0655人間七七四年
2011/04/23(土) 19:24:35.44ID:1c1bux2Zhttp://page9.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/k140325141
0656人間七七四年
2011/04/26(火) 19:27:45.35ID:b+7DJn2jまだ許せるものからチョー恥ずかしいものまでミスはいっぱいある。
時代祭やコスプレだけじゃなく、テレビドラマや博物館でも間違いは起こるのだ。
というわけでまず俺から思いつく限りを書き出すことにする。
兜編
・鍬形の板を左右逆にする→正しく台に挿せれば綺麗なU字・V字形のラインができるが、不自然だったら左右逆のおそれあり。
・被るときに忍緒をいい加減に結ぶ(蝶結びなど)→詳しい人にやってもらうか教えてもらう、または専門書で勉強しよう。
・視野が狭まるからといって阿弥陀に被る→演武の時にデコが出てるとすごく危険。
何かの拍子に武器の刃先が当たったら・・・それから兜の重量が後ろに偏るから余計に首が疲れる。
・忍緒を締めてから面頬を付ける→兜より先に付ける。緒便りの金は忍緒をしっかり締めるためにあるのだ。
・前髪を出す→視界の邪魔になるから髪の毛は鉢巻や手拭いを巻いてしまいましよう。
・(あまりなさそうだが)烏帽子着用の上から兜を被る→それは鎌倉中期までの厳星兜まででいいよ。
0657人間七七四年
2011/04/26(火) 19:28:25.55ID:b+7DJn2j胴編
・前後逆に着る→当世具足だと結構な割合でいる。そもそも後胴側は立挙が高いから胸につかえるし、背撓や合当理・待受があると邪魔だと思うんだが。
大鎧や胴丸の場合、総角が豪華に見えるから前に持ってこようとしたり、腹巻の場合は前で引き合わせようとする気持ちはわからんでもないが。
・胴丸や当世具足で引き合わせの際に前胴側の板を後胴の板の上に重ねる→着用するときは間違い。
敵と組討になったとき、前胴板を縁からつかまれてはがされる危険あり。また、右腕を後ろから前に振り出すときに
板の縁に引っかかって動かしにくいときもあるから、後胴側を前側の上に重ねよう。
飾るときはどちらが上でも特にかまわない。あるいは前胴を上に重ねると見栄えが少しいいかも。
・肩に全重量を載せる→体力の消耗が早くなる。腰骨の辺りに発手を乗せるようにして着て重さを分散しよう(要は腰部をきつめに縛る)。
室町以後の甲冑は「腰で着る」というのはそういうこと(それじゃあ、連尺を内胴に通して肩に吊るす仙台胴って本末転倒?)。
・着用の際に飾り用の太丸紐をそのまま上帯にする→第一ほどけやすいし腰周りが太くなると行動に支障出たり刀を差しにくかったりすると思うがなあ。
平たいさらし布などで作りましょう。
0658人間七七四年
2011/04/26(火) 19:29:20.87ID:b+7DJn2j袖編
・左右逆に付ける→水呑緒の鐶や笄金物の位置と冠板の形で見分けよう。
正しく作られているものなら水呑緒の鐶と笄金物は後胴側に、冠板の高くなっているほうが前胴側に来るはず。それで左右がわかる。
当世具足の置袖は大抵左右同じ形式だが、腕の動きやすさを考慮して裾板の半分を斜めに削いだものが時たまある。
その場合は、削がれた斜め部分の方が前胴側になるので正しく左右を判別できる。
・袖付緒を肩上に結ばないで緒同士で結び、外側に出す→飾るときはいいが着用するならちゃんと肩上の袖付綰に結べ。
緒がぶらぶらしていると袖が不必要にバタバタしたり、物に引っかかったり、敵につかまれたりしていいことないぞ。
袖付綰がないなら肩上のどこか困らないところに結び付けるか、袖は最初から付けないこと。復古調でない当世具足なら袖なしでも違和感は少ないから大丈夫。
・置袖を脇の下に付ける→当世具足ならではの間違い。脇下には専用の脇引(わきびき、脇当とも)なる小具足がある。袖は上腕部を守るものです。
小具足編
・籠手の左右を間違える→貴方の小指は親指並みに太いんですね、すごーい。肘も背中側に曲がるんですね、わー。
・籠手を脚にはく→貴方はお猿さんですか?
・佩楯を肩にかける→初心者がたまにやる間違い。袖と混同しちゃうんだな。
・佩楯を尻側から付ける→正座したときに金具が食い込んで足が痛くなるぞ。
・佩楯の裏地を表に出して付ける→金具類は基本的に表側に出すもの。そういう風に付けると籠手、臑当と比べて何か変だと気づくと思うけどな?
・臑当の上下を間違える→人間の臑は膝の方が太く、くるぶしが細い。臑当の上下もそれに従う。
・臑当の左右を間違える→革や布でできた軟らかい部分を外臑に持ってきていないか?
そこはホ具摺(かこずり)といって騎乗の際に臑当と馬具とが干渉して傷つけ合うのを防ぐためにある。
だからホ具摺は内側になるように気をつけよう。そもそも、人間の臑は微妙に内側に向かって曲がっている。
ホ具摺がない臑当の場合、左右はカーブの具合で判別できる。
・臑当の上下左右を間違える→上記の2つのことに注意して正そう。
0659人間七七四年
2011/05/04(水) 12:01:54.47ID:MejneYN3子供が初節句を迎えて実家につれて帰ったところ、
床の間にこのような甲胄が飾ってありました。
94歳の祖父に謂れを聞いたのですが、祖父が子供の頃から存在する、
というだけでよく分からないそうです。
鎧櫃の家紋は丸に違い鷹の羽
吹き返しの家紋は下がり藤
どちらも我が家の家紋とは異なります。
また櫃と甲胄の家紋が違うのもよく分かりません。
祖父の家は北畠神社近く、滝川一益が治めていた場所だそうです。
飾りつけは適当な丸木にタコ糸でくくりつけるという乱暴なやり方で、
そんなことをして良いのか気が気でなかったのでこちらに参りました。
何かお分かりの方がいらっしゃいましたらお教え下さい。
宜しくお願い致します。
ttp://uploader.sakura.ne.jp/src/up38194.jpg
0660人間七七四年
2011/05/04(水) 13:39:07.20ID:0CmVRE+/0661人間七七四年
2011/05/04(水) 17:37:44.27ID:ycRniXw2できたらAxfcにうpしてほしい。
0662659
2011/05/05(木) 01:56:41.77ID:ocC3LsOpお褒め頂有難うございます。
子供の頃に見たときはあまり興味が無かったので何も感じませんでしたが、
先日見たときに本物であるような感じがして、それでとても気になりだしたのです。
>>661
ttp://ll.la/@46:
こちらでいかがでしょうか。
0663人間七七四年
2011/05/05(木) 04:22:02.18ID:8RrincRW格好いい鎧ですね。鎧の蒔絵や佩楯・草摺の毛引きがしゃれてる。
江戸時代よりは時代は降らないと思うけど、いい一品だと思います。
後、何気に鎧櫃が古いものですね。太鼓櫃ってなかなか見物を見たことなかったので。
鎧の櫃が二つありますが、もう一つ鎧があったりするのでしょうか?
0664659
2011/05/05(木) 09:18:53.67ID:ocC3LsOpご覧いただき有難うございます。
この鎧櫃2個に分けて収納されています。
これを一人でどうやって運ぶのかも気になるところです。
0665人間七七四年
2011/05/05(木) 11:11:12.91ID:LB0TNLXh覆輪が施され、下級武士のものではないと思います。胴は5枚胴でしょうか?面頬、草摺もよいので
かなり高位の武将の着用のものではないでしょうか??脛当の亀甲のところに
金具があるのは初めてみました。籠手と袖は新物?とも思いますが、保存状態がよければ金箔がこんなに
キレイに残るのかもしれません。う〜ん、欲しい!(苦笑)
0667人間七七四年
2011/05/05(木) 12:01:24.18ID:aPWTMa4R参勤交代の絵巻物に具足持ちの侍が描かれていることがありますが、
それによると大抵は鎧櫃の蓋にある穴に棒を通して肩に担ぐ格好で運ばれています。
上げてもらった写真からも、鎧櫃の蓋に穴が開いているのがわかりますが、
鎧櫃が2つの場合は棒の両端を通して前後に担いで運ぶこととなります。
実戦期の鎧櫃にはリュックサックの要領で背負えるように肩紐が付いていたり、
竹を網代編みにした軽いものが多いですが、写真のように2つに分けて収納するのは
江戸期の高級武将のやり方といえるでしょう。
あと、鎧も結構珍しい仕立てですね。普通の篠臑当かと思ったら篠の間に小篠を置いているし、
胴の蝶番も端に模様を付けて切っている。三具は家地が同じものに見えるので一作物っぽいですね。
それから兜鉢が室町末期の古物を再利用している可能性もあります。
あるいは鉢裏に作者の銘が入っているかも。
0668659
2011/05/05(木) 12:08:49.12ID:ocC3LsOp色々教えていただき有難うございます。
帰ってきてから色々調べ始めたので詳細はあまりチェックしてませんでした。
ただ、組み立てたときの感じではそんなにヒンジがついていたような感じはしなかったので
2枚胴かもしれません。
保存状態は正直劣悪で、無頓着な祖父が今まで飾っていたものですから
飾っていたときの櫃の縁に佩楯が擦れて、だいぶ擦り切れてました。
何よりも前立ての角が2本折れているのを何度もいい加減な方法で補修しており
接合部がぐずぐずになっていました。
今回も木工用ボンドでつけるという荒業でした(T_T)。
漆も触るとぽろぽろ崩れてきていて、今度片付けるときが心配です。
>>666
祖父のせいばかりにして申し訳ありませんが、聞いた事は無いそうです。
ただし、祖父の祖父に当たる人がかなり出世をしたようで、
その人が買って来た可能性が高いと考えられます。
もしかしたら怖い人で聞けなかったのかもしれませんね。
0669659
2011/05/05(木) 12:26:48.52ID:ocC3LsOpご教授有難うございます。
そういえば櫃の横には金具がついてて上げると取ってのようになりました。
持ちづらい形でしたが今思えば棒を通す程度のくぼみがあったような気がします。
帰省先は車で6時間ぐらい掛かるほど離れているので、
次はお盆に帰省したときに裏の銘を確認したいと思います。
向こうは高齢世帯かつ農家でいま忙しいので、
変な事を頼むと怒られると思いますのでご容赦ください。
0670人間七七四年
2011/05/05(木) 13:01:22.60ID:lJcvGvUW0671人間七七四年
2011/05/13(金) 23:14:10.04ID:28yvwxU+・牛皮…言わずもがな小札の素材。膠水に漬けてから数枚を貼り合わせ、叩き締めて練革を作る。
・馬皮…薄くて伸縮性に富み、小札板を包んだり、胴の裏側に貼り付けたりする。
・鹿皮…耐水性・吸湿性・柔軟性に優れ、染色も自由。細く裂いて威毛にしたり、模様を染め付けて絵革にしたりする。
・犬皮…あまり目立たないが小札の下絡みで大活躍。当世具足の胴の板を仕付ける留め革としても使われる。
大鎧や胴丸などの中世甲冑だと1領でも上記の3〜4種類ほどを使用していることになる。
桃山期以降になると装飾に毛皮が流行り出すし、江戸期の加賀具足には胴を象皮で包んだ例まである。
展示された甲冑を見て「この鎧には戦死した武士の霊が憑いている」なんて笑えることを言う人がいるようだが、
じゃあその鎧1領を仕立てるために潰された動物たちの霊は見えないのか?と聞いてみたい。
0672人間七七四年
2011/05/13(金) 23:46:18.13ID:CVan0I5F調べるのもめんどくさそうだ。
0673人間七七四年
2011/05/16(月) 00:48:48.73ID:+42yaJvM修復・製作や黒澤明監督映画への協力を通じて近代の甲冑研究に大きな貢献をされた方です。
同氏が集めた研究資料は2007年に早稲田大学に寄贈されており、2009年には同大の博物館で特別展示が開かれました。
ここにご冥福をお祈りします。
0674人間七七四年
2011/05/19(木) 23:49:40.89ID:vesJ4J1q「斎藤実盛の兜」だってさ。どう見たって大鎧より胴丸が似合う室町時代の筋兜なんだがねえ。
いや、兜自体が付属の大袖や臑当と一緒に重文指定されていることには
まったく異議はないしむしろ賛同しているよ。
でもさあ、21世紀にもなって「むざんやな甲の下のきりぎりす」の句とこの兜を結びつけて
甲冑素人の参拝客に安いロマンと感動を売り込むのはもうやめにしないか?多太神社さんよ?
嘘っぱちの伝来を付けたって白々しいことこの上ないし、兜そのものに対しても失礼な行為だと思うよ。
斎藤実盛が地域にとって重要な人物であることはよくわかっているつもりだが、
やっぱり判明している史実は物語からきっちり分けるべきじゃないのかね。
0675人間七七四年
2011/05/20(金) 22:35:42.33ID:gnYMpr5x>この時、73歳の将は白髪を染め、錦の直後を着用していたが、酋実験の結果、実盛と判明する。
直後って何だろう?と思ったが直垂のことだろうか。
0676人間七七四年
2011/06/17(金) 21:43:25.59ID:hedDtRwo今、小田原城で開かれている甲冑展示会に上杉景勝所用の伊予札胴具足が出されている。
これは戦後上杉家から流出し、数十年行方知れずだったのだが、近年になって再び世に出たものである。
この具足が再登場した最初の場所があのヤフオクであったことを覚えている人はいるだろうか?
その時の状況kwsk
どんな状態でヤフオクに上がったとか知りたい
どれくらいで落札されたかにも興味ある
0678676
2011/06/18(土) 09:52:39.33ID:GTfaKFeE何分2004、5年のことだったし、商品の画像は保存したものの
オークションページの記録をし忘れていたので
出品者の情報や落札価格の詳細については忘れてしまった。ご容赦願いたい。
ただ、初値に500万円が付けられていたのはよく覚えている。以後も入札する人間がいたことから
少なくとも出品者は具足の価値を十分に知っていたはずである(落札者もそうだろう)。
個人的には1千万出してもまだまだ足りないと思う。
御家流のエッセンスをつぎ込んだ、上杉家を体現する具足であるが、
本来あったはずの佩楯と臑当は出品時にはすでになかった。
写真の臑当は体裁を整えるための合わせ物。
また、特に状態が悪かったわけではないが、
出品されてから現在までの間に一部修復が施されている。
詳細な解説は『上杉謙信・景勝と家中の武装』にある。
0679人間七七四年
2011/06/27(月) 08:36:57.74ID:ClOAN/IHあれだけ時間の流れがあって鎧って進化しなかったの?
0680人間七七四年
2011/06/27(月) 09:07:58.34ID:bc86PWWgあなたの質問にある「鎧」の語が指しているのが
日本の甲冑全般なのか、それとも「大鎧」のどちらなのかを教えてほしい。
また、あなたの考えている進化の基準が何なのかをもう少し具体的に説明してくれないか。
今の質問文だと漠然としていて非常に反応に困るんだよね。
0681人間七七四年
2011/06/27(月) 16:31:01.07ID:QO7JxT2m甲冑かな。ネットで義経が着てた甲冑と信玄が着てた甲冑見比べたんだけど
デザインの違いはあるけど500年たってる割に変わら泣く見える、
ていうか義経の甲冑の方が格好いい。
鉄砲とか海外から流れてきたのに。甲冑は進化しなかったのかね。
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています