北条氏康>>>>>毛利元就は定説です
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0150人間七七四年
2008/11/16(日) 19:36:10ID:0M7McJOR家康が東照宮大権現なら元就は仰徳大明神と崇められてた
長州では神君である。
三子への教訓状や他の言行録は、元就の遺訓として
毛利氏主従の規範となった。
毛利家中興の英主、重就は遺訓をまとまて「御教戒」として君主のありかたを照らす鑑とした。
以後、これは代々藩主に受け継がれ座右の書となった。
やがて幕末、藩士、中村清旭は元就の遺訓を集大成して「大訓衍義」を著した。
高杉晋作の激文にも元就の名が出、長州藩士に多大な影響を与えている。
元就は勤皇あつく金がなくて即位式が出来ない正親町天皇に援助し即位させ
毛利家だけは他の大名家と違い毎年の年始、年末はもちろん朝廷の吉凶事にさいしても朝廷への進献を許されていた。
この伝統と徳川へのうらみゆえに幕末の長州は勤皇に走った。
単なる結果論だし打算で援助したかも知れないが皮肉にもすでに元就の代に下地はできていた。
時代は違うが少なからず元就と幕末は無関係ではない。
絶対的な影響を与えている
最初に奇兵隊が攻勢に出て奪還目標は安芸の元就の墓所であり奪還に成功している
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