【報いを待てや】織田信孝【羽柴筑前】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年
2007/05/27(日) 18:10:20ID:5C9wymoz0003人間七七四年
2007/05/27(日) 19:11:38ID:KfzLJUJjお前が死ね
0004人間七七四年
2007/05/27(日) 19:53:28ID:seTIc0qw1さん、ありがとうございました。
とりあえず辞世の句を「昔より主を内海の野間なれば、報いを待てや羽柴筑前」
これが一番一般的なようです
0005奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/05/27(日) 20:58:17ID:o6LCyiRg0006人間七七四年
2007/05/27(日) 21:01:44ID:BVBVUOiT家臣で有名なのといえば小島兵部と岡本良勝くらい?
0007奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/05/27(日) 21:04:57ID:o6LCyiRg0008人間七七四年
2007/05/27(日) 21:25:41ID:CkWH15xb潔さの欠片も感じられない句だよな。
だがそれがいい。
0009人間七七四年
2007/05/27(日) 22:29:42ID:seTIc0qwいわれてるが、生物学上無理らしい。
0010人間七七四年
2007/05/27(日) 22:30:15ID:7kS0K9pM00112,10
2007/05/27(日) 22:31:34ID:seTIc0qwここは信孝について語るスレだ。分かったらくんな。
0012人間七七四年
2007/05/27(日) 22:40:36ID:seTIc0qw柴田勝家も反論せんか。
だいたい3歳の子に何ができると言うのだ
0013人間七七四年
2007/05/27(日) 22:44:14ID:EUaYeyMR001413
2007/05/27(日) 22:54:11ID:seTIc0qwどうなっただろうか。
そもそも織田秀信と織田信孝、どちらが上なのか。
0015人間七七四年
2007/05/28(月) 00:40:02ID:Ed0uBmyz信孝や信孝の娘を題材にした小説
0016人間七七四年
2007/05/28(月) 01:50:24ID:LhgKTokn3月7日生まれだから、三七ってマジ?
001716
2007/05/28(月) 03:13:15ID:IxFhITOZ信長は子に変な幼名をつける。
個人的にそれで子供達が傷ついたりして、そのせいで
子供が信忠信孝除きみんな小粒なんじゃないか、と
思っている。
0018人間七七四年
2007/05/28(月) 09:38:33ID:p2xRFlnL池田はどう見ても重臣とは言えんし、長秀も若狭国主では勝家や秀吉より一歩下
がる
会議自体が秀吉の策謀臭い
勝家が光秀を先に討てば何の問題なく信孝が家督を得ただろうけど
でも不思議なのはなぜ本能寺の変時に信忠は幼い幼児の三法師をわざわざ京都に
連れていったんだろう?
しかも大軍の重囲下にありながら、信益に連れて逃げたと言われるが、そんなに
容易く光秀は逃したのか?
0019人間七七四年
2007/05/28(月) 10:29:34ID:wIuGPAuk0020人間七七四年
2007/05/28(月) 10:30:50ID:wIuGPAukこっちが史実だから。
0021人間七七四年
2007/05/28(月) 10:43:50ID:p2xRFlnLヒデェ奴じゃ
でもこういう奴じゃないと家名残せないのか
正直に生きるとロクなことがないと言うことだよ
信孝くん
0023人間七七四年
2007/05/28(月) 11:27:06ID:p2xRFlnL0024人間七七四年
2007/05/28(月) 12:46:28ID:LhgKToknありがとー。
奇妙とか茶筅とかは知ってたけど、スゴイねw
あと、信孝って筒井や三好に養子入りする予定もあったぽいね。
002524
2007/05/28(月) 13:05:16ID:IxFhITOZでてくる。俺は全く信じんが
0026人間七七四年
2007/05/28(月) 16:49:14ID:l85Cfsxiそれに倣ったのが秀吉
0028人間七七四年
2007/05/28(月) 17:57:53ID:lBFOkEVX>信孝や信孝の娘を題材にした小説
メチャクチャ読みたいなそれ。信孝の娘には名前ついてた?
0029人間七七四年
2007/05/28(月) 19:44:29ID:8Rl5KhDK信忠に腹を切らせて自分はトンズラこいた織田有楽斎よりマシ。
0030人間七七四年
2007/05/28(月) 20:06:47ID:p2xRFlnLこれって自費出版ですか?
アマゾンや紀伊国屋の検索で出てこないが
0031人間七七四年
2007/05/28(月) 21:56:16ID:9FPpW0rX? 信正(1554−1647)庶子といわれる。僧になり94歳で亡くなる。本能寺の歳は29歳。
長男信忠(1557−1582)幼名奇妙丸。本能寺の変の時26歳。詳しくは信忠スレを。
次男信雄(1558−1630)幼名茶筅丸。本能寺の変の時25歳。詳しくは信雄スレを。
三男信孝(1558−1583)幼名三七郎。本能寺の変の時25歳。詳しくはこのスレを。
四男秀勝(1568−1585)幼名於次。本能寺の変の時15歳。羽柴秀吉の養子となる。
五男勝長(1568−1582)幼名御坊丸。本能寺の変の時15歳。信忠と共に討ち死に。
六男信秀(1571−1596)幼名大洞。本能寺の変の時12歳。僧になったと言われる。
七男信高(1576−1602)幼名小洞。本能寺の変の時7歳。織田信成は子孫になる。
八男信吉(1573−1615)幼名酌。本能寺の変の時10歳。なぜか八男になっている。
九男信貞(1574−1624)幼名人。本能寺の変の時9歳。なぜか九男になっている。
十男信好( ?−1609)幼名良好。本能寺の変の時はまだ幼少であった、という。
十一男長次( ?−1600)幼名縁。本能寺の変の時はまだ幼少。全く不明の人物。
0032人間七七四年
2007/05/29(火) 02:19:39ID:qTB/VOkw人質に出されていた母親の話なんか、これぞ武士の女だもんなあ。
0033人間七七四年
2007/05/29(火) 09:12:24ID:RVuA9YuR0035人間七七四年
2007/05/29(火) 16:26:07ID:msITwJQ7「川角太閤記」「昔より主を内海の浦なれば報いを待てや羽柴筑前」
「氏郷記」他 「昔より主を内海の浦なれば尾張を待てや羽柴筑前」
「坂役叢話」 「昔より主を内海の野間なれば報いを待てや羽柴筑前」
まあ似たような感じだが、一般的には「坂役叢話」のが多用されてる
0036人間七七四年
2007/05/29(火) 17:17:26ID:iOtOe8N85000ぐらい?
0037人間七七四年
2007/05/29(火) 18:59:43ID:msITwJQ70038人間七七四年
2007/05/29(火) 19:21:26ID:9zrd5UVBたぶんだけど。
0040人間七七四年
2007/05/29(火) 20:07:27ID:msITwJQ70041人間七七四年
2007/05/30(水) 00:32:58ID:hhsCrxtq総動員とは違うんじゃないかな。
実際、信孝の本能寺の変の時の所領は伊勢二郡(鈴鹿・河曲?)のはず。
5万石ずつとしても、せいぜい10万石。3000〜4000がいいとこじゃないかな。
神戸、国府、峰、鹿伏兎らの国人ぐらいだし、組下にいたの。
0042人間七七四年
2007/05/30(水) 01:36:06ID:TSIJF+p/http://homepage1.nifty.com/manyapage/parque/syuppan/seibouhyou.htm
娘の名を賢子としている。生後まもなく父信孝が自害したあと信正(信長庶長子)に引き取られた。
母は村井貞勝の遠縁の者の娘。ちなみに信正の養父は村井貞勝。
夫は医家の坂氏、信正の嫡子信衡。
004328
2007/05/30(水) 13:02:13ID:sV2+6nPGサンクス。別スレで教えてもらった次女の方だったのね。
秀吉に殺された長女かと思ってた。
0044人間七七四年
2007/05/30(水) 13:43:28ID:3a+FzHvEいくつかの文書に見える。
0045人間七七四年
2007/05/30(水) 15:02:48ID:FD9qmyLuちょっと驚き
ところで本能寺の変時、信孝が決起して信澄を討った時点で摂津国主の池田恒興
に恐らく連絡したと思われる(というより恒興自身が信孝のもとにはせ参じるの
が筋と思うが)
恒興が動かなかったのは信孝を見捨て状況の変異の様子見?
それとも既にこの時点で秀吉の息がかかっていたと見るべきだろうか?
清洲会議では秀吉により重臣格に抜擢されてるし、怪しいが
0046人間七七四年
2007/05/30(水) 15:28:44ID:9Pc5PQ33http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1180506410/
立ててみたから使ってね。
0047人間七七四年
2007/05/30(水) 21:42:56ID:FD9qmyLu乗り込んだというから指揮官としてはわからんが、武勇に関してはある方らしい
まあ城攻めの総指揮は兄の信忠が取っていたけど弟の無茶ぶりには手を焼いただ
ろう
その後、京都所司代村井貞勝のもとで事務方としての経験も積んだようだ
太閤記などに記されているようなそんな愚息でもなさそうだ
しかし元亀元年に養父神戸具盛と不和になり翌年神戸家家臣を粛清するのだが、
元亀元年と言えば、信孝はまだ十二歳
不和ってほんとかな
0048人間七七四年
2007/05/31(木) 00:27:07ID:jNZVJx9m粛清も信孝主導というより信長の意を受けた家臣が行ったんだろう。
0049人間七七四年
2007/05/31(木) 01:20:17ID:/m0IS6iGということは四国遠征に成功し三好家の家督を継いだら
三好家も後々粛清されることになったのかな
0050人間七七四年
2007/05/31(木) 02:03:07ID:FHvSGncF0051人間七七四年
2007/05/31(木) 02:24:23ID:KHi9RF1Lあと話しぶったぎってしまうが、信長が信孝と
会話している記録って残ってる?
個人的な興味なのて分からなければスルーしてください
0052人間七七四年
2007/05/31(木) 08:06:10ID:/m0IS6iGたらしく、7月には本願寺から教如が退去する誓詞を交わすため、信長を京に迎
えているので、その際に仕事上の話を交わすのは当然と思うが、自らの身上など
プライベートの事は信長を畏れて言えないだろうね
0053人間七七四年
2007/05/31(木) 08:18:39ID:Fkelf/dg信忠を叱責した書状やいわゆる¨ご勘気¨は公的なものだし、
信勝以外の卑属には手を掛けていない。
ねねへの宥め状などは兄が妹をお守りするような繊細さがある。
一門の中で身分が信包より下なのに信長に四国を任されようとしていたのだから
信長からの期待は大きく気に入られていたのではないかな。
0054人間七七四年
2007/05/31(木) 14:46:11ID:2QFnHEhAどんな大名でも子に教育するような話は残っているのに、信長にはそれがない
ような気がする。
信長の目には息子たちがどう移っていたのか気になる。
まあ親馬鹿な信長だからなw 雷を落としたのは信雄の伊賀攻めの時と
信忠が能を舞いすぎたときぐらいか
0055人間七七四年
2007/05/31(木) 20:59:58ID:Se627/t/叱→「馬が欲しい時に金を与え、金が欲しい時に馬を与えるようじゃなきゃいかん」
誉→「俺が行く前に武田平らげたもんだから、俺は甲斐に観光にいったようなもんさ〜」
どっちも本人の前では言ってないが
0056人間七七四年
2007/05/31(木) 21:16:24ID:O2guJPlS近年有力なようだ。
さらに四国攻めは信孝が信長に強く求めて決まったともいう。
だとすれば信孝はその行為のために自身と父の命を失った
ことになる。
0057人間七七四年
2007/05/31(木) 21:29:13ID:KP9ijYlF>>56
明智の家老、斎藤利三は長宗我部と縁者だからね。
外交の取次も明智がやってたし、秀吉が三好に肩入れしたのも理由になるか。
0058人間七七四年
2007/05/31(木) 21:56:14ID:TZJHISiy>叱→「馬が欲しい時に金を与え、金が欲しい時に馬を与えるようじゃなきゃいかん」
こんなことやってるから本能寺の変がおこったんじゃないかとふと思った
0059人間七七四年
2007/05/31(木) 23:17:10ID:FHvSGncF普通に考えれば、長宗我部のこれまでの行動をみれば討伐するしかない。
秀吉が三好に肩入れしたとか、長宗我部を守るためにというのなら、どうして
明智はそれ以前に、長宗我部の反織田の行動を止めようとしなかったのか。
かつては敵対していたが、降服してからは従順に仕えている三好。
同盟は結んだがロクに役に立ったことがなく、逆に他で忙しくて四国に関わって
いられなかった時期に、四国の親織田勢力を攻撃するような長宗我部。
どちらを選ぶかとなったら、個人的な性格の問題ではないだろうよ。
0060人間七七四年
2007/05/31(木) 23:22:13ID:F/CEPUkk光秀は恩賞に殆どありつけなかったからね。
武田攻めに関しては、「信長が到着する前に信忠が武田をオ滅ぼした! 信忠はさすが信長の後継者!」と
いわれているけど、途中で信長が家臣に信忠が無茶な進軍をしないように書状を出している割には
信長の進軍速度は遅い。
丁度信忠が武田を滅ぼした時点で武田の国境に足を踏み入れるタイミングは、信忠に功を立てさせるために
信長が武田領入りを引き伸ばした結果とも取れないだろうか。
なら、信忠に全て任せば良いじゃないかと思うかもしれないが、信忠の身を案じるなら、必ず後詰はしなければならなかった。
「武田崩れ」は、もちろん信忠の軍が強かったことが一番の原因だけど、このうえ更に後詰が来るという絶望感から起こったこと。
信長の後詰がなかったら武田戦は長引いた可能性が充分ある。
その意味では、武田領に入らなかったとしても、信長軍にもそれなりの功があったといえる。
けれど、徳川などの外様を除き、武田領は全て信忠の息の掛かった武将に割り振られた。
信忠への実質的な相続を急いでいた信長にとっては、武田攻めは、武田を滅ぼしたとともに
家臣団に対する、「今後、信忠につかないものは、活躍の機会を与えられない。」というメッセージも持っていたかもしれない。
信長的には「だから今ここで代替わりの誓約も結んどけ」という意図だったんだろうけど、明智の返事は「NO」だったと。
信長の変な行軍・戦場での行動って、親バカフィルターを通して見ると納得が行くことがあって面白い。
信忠に総大将を任せて自分は近場で鷹狩していたこととかも、「暢気に隠居」というよりは「はじめてのおつかいを見守る親」の方が
真実に近そうな気がする。
大軍を指揮するのは非常に難しいようで、家康なんかは、大軍を有機的に指揮できないまま一生を終えている。
19の若造が5万も6万もの大軍を常に有機的に動かすことができたことは、ちょっと信じがたい出来事だ。
よくよく考えると、少年の内からこれほどの大軍を動かした人物って、日本史上で信忠しか居ないんだな。
まぁ、信長としても心配だろうから、万が一劣勢になった時には、何時でも指揮を代われるように近場にいたんじゃないかな。
で、いかにも「心配で後ろに詰めてます」って様子で居たら、信忠が家臣に侮られるかもしれないので、鷹狩してたと。
諸大名には「信長ついにボケたか!?」と思われて、第二次信長包囲網に繋がったと。
0061人間七七四年
2007/06/01(金) 02:12:00ID:ZeOIVlzD自分は信長はそんな子供に過保護な人間じゃないと思うし、思いたくないな
自らも信行との争いで家中を二分した痛い想い出があるし
結局、信忠には河尻秀隆を付けて指揮官として養成していった
18歳の信忠単独で行った岩村城攻めは次第点
信長がその時の信忠と同年齢のときは信忠のような大軍を指揮していなかった
恐らく、信孝にも長秀を付けて指揮官として修行させるつもりだったのだろう
勇猛さでは神吉城攻めで見せていたし、天正8年期に京で吏僚としての経験を積
んでいたから、これから旗頭としての教育を施す予定だったのだろう
四国平定後は惟住日向守、惟住という西国の名を貰った光秀、長秀とともに九州
平定に向かったことだろう(何の根拠もないよ、単なる個人的推測なだけ)
0062人間七七四年
2007/06/01(金) 08:22:34ID:K75FsZK/信長と長宗我部氏の関係は次のように変化している。
1.四国は元親の切り取り次第
2.土佐と阿波半国のみを認める
3.讃岐を信孝に、阿波を三好康長に与え、残りは未定。
2までは斉藤利三や光秀も容認できたろう。使者を送って
説得を試みている。
だが3では長宗我部氏の存在そのものが否定され、織田方の
軍勢によって滅亡必至。それで利三が激怒し光秀をたきつけて
謀反を起こさせたというのが近年有力な説。
2から3への変化は信孝が信長に求めてそうなったという。
従って3にならなければ本能寺は起こらず信長も信孝も
生きられただろう。
この説が正しければ信孝は自分で自分の首を絞めてしまった
ことになる。
0063人間七七四年
2007/06/01(金) 10:15:27ID:6JfsrX4p一応つじつまは合うがそれを支持する文献的な根拠なんかが皆無なのが痛いな
0064人間七七四年
2007/06/01(金) 21:31:19ID:49htB9J3ここ1,2年で鈴木、藤本、桐野、谷口らによって
黒幕説が否定され、そして消去法的に残ったのが
長宗我部救援。
桐野はそれだけでなく野望説も同時に主張してる。
鈴木、藤本は「検討に値する」という言い方だが。
谷口の新刊では光秀の年齢を一般に言われてる55ではなく
67とし、このところ武功のない自分が佐久間や林のように
追放され、明智家が路頭に迷うことを恐れたというのも
理由に挙げている。
0065人間七七四年
2007/06/01(金) 21:42:13ID:ER9yI8M3まず1.だが、これはあくまで対三好をにらんだ同盟。かつ「織田領、親織田勢力でも
切り取り自由」なんて約束はない。しかし長宗我部は三好が信長と戦っていた時期は
ロクに戦わず(当時土佐国内で戦っていた長宗我部にそこまでの余裕がなかったとは
言えるが)、三好が信長に従うようになって両者の同盟の存在意義が揺らいだ時期に
なってから、何故か織田勢力化した三好を攻撃。
しかしこの時期の信長は本願寺、毛利を敵に回して四国の情勢に強く介入することが
できなかった。やむを得ず臣従勢力が攻撃されるのを座視することになる。
(当然、信長は長宗我部に対して不快な思いを抱いただろう)
で、本願寺・毛利戦線に目途がついてから四国問題を取り上げることになる。
2.を見れば判るが、信長は当初は長宗我部の領土を認めようとした。実際に
当時の長宗我部の領土はこんなもの。あと讃岐を少々か。
つまり信長はこれまでの行いは不問にすると言ったわけだ。信長にしてみれば
譲歩ではある。その上で、信長に服従する意志があるのなら讃岐で切り取った
部分は三好に返却しろといった。信長にだって、従属する三好を保護する義務が
あるのだから、このあたりは退けない要求だったろう。
しかし長宗我部はけった。
その結果、長宗我部討伐が決定され、3.となった。
明智にしてみれば納得ができないような決定でもないし、信孝がどうこうする
以前の問題として、長宗我部の対応をみれば2.から3.への移行は当然といえる。
この決定を明智が不服としたというのなら光秀はそうとうのバカだし、ここまで
行き着く前に長宗我部を外交で抑えられなかった明智の不手際となる。それを
恨んだというのなら単なる逆恨みだそりゃ。
君の説は時空列をごちゃまぜにして背景を完全に無視しているよ。
0066人間七七四年
2007/06/01(金) 21:46:55ID:md5tO0b0一条氏が元親に追放されてからは関係が拗れてるとか。
0067人間七七四年
2007/06/01(金) 22:29:46ID:lGJBdL84ってか長宗我部って四国征伐時のときも秀吉側の降伏勧告を蹴ってなかったか?
もしそれが本当だとしたら、案外元親はプライド高いがゆえにあまり才能なかったのかもねw
もちろん、それなりにはあったと思うが、少なくとも信ヤボ革新のような、
総合能力で全武将中第6位なんてのは有り得ないだろうなw
0068人間七七四年
2007/06/01(金) 22:51:26ID:MgujSOSn何でなの?
0069人間七七四年
2007/06/01(金) 22:56:54ID:BMVwLbV0既得権の範囲が実力以上に広がってしまった事と、その既得権を持った家臣や盟下の諸侍を
押さえつけられるほどの独裁権力がなかった(無理に押さえつけようとすると元親自身が追放される)から。
0070人間七七四年
2007/06/01(金) 23:26:51ID:C8b+RBWC永禄11年2月、信長が北伊勢に侵攻した際に、神戸城を本拠とした関一族の神戸友盛は信長に抵抗したが
支えきれずに信長の3男三七丸を養子にするという条件で降伏した。
当時三七丸は11歳、幸田彦右衛門が傳役として、その他、岡本太郎右衛門、坂仙斎、三宅権右衛門、
坂口縫殿助、山下三右衛門、末松吉左衛門、立木、河村以下の侍が添えられ、後に友盛の娘と婚約した。
また関一族の関氏・峯氏・国府氏・鹿伏兎氏らが与力となった。
しかし、男子がなかった友盛は以前から関盛信の子勝蔵(盛吉)を養子すると約束していたが
これが反故になってしまったので友盛、盛信ともに三七丸のことを快く思わず、粗略に扱った。
元亀2年正月、友盛夫妻が、年始の挨拶のため近江日野の蒲生家を訪れたとき
信長はこれを捕らえ沢城に隠居させ蒲生家に預けた。
この時、領地を検地し、神戸家の侍の所領を削り、尾張から来た侍に与えた。
そしてこれに抵抗する神戸具盛の孫、高岡城主山路弾正を高田孫右衛門に命じて誅殺して
神戸家の侍の粛清が行われ、その他120人の侍が追放された。引続き神戸家に仕えた者は480人。
これらを神戸480人衆と称したという。
山路の跡の高岡城には、信孝の異父兄小島兵部少輔が入れ置かれた。
元亀3年春頃、兄信忠・信雄と一緒に元服し、神戸三七信孝と号した。加冠の役は柴田勝家が務めたという。
神戸家当主として、神戸家の家臣だけでなく関一族をも摩下に置いた信孝だが
関家の当主関盛信は信孝に好意を持たず、とかくこれを軽んずる傾向があったという。
天正元年春、ついに盛信は信長の勘気を蒙り、蒲生賢秀に身柄を預けられた。これによって、関領の新城以下は信孝の領分とされた。
0071人間七七四年
2007/06/01(金) 23:58:15ID:ER9yI8M3大名権力と下部豪族の軋轢というのはよく言われるが、例えば長宗我部と同じ
豪族レベル出身で典型的な豪族連合政権といわれた毛利氏は五カ国割譲講和を
成功?させている。吉川など反対派もいたが、その主張はあくまで割譲領土を
低く抑えるべしというもので、講和自体には反対はしていない。
まあ毛利氏の場合は、直接戦って戦力・国力差を豪族たちも承知していた、また
戦った末に力及ばず負けを認めたという点で、長宗我部とは異なるが。
戦いもせずに軍門に降るというのでは、そりゃあ影響は異なるだろう。
それでも、元親の外交は、織田に限らずかなり不信が多いシロモノだが。
「当人は負けを承知していたが、下からの突き上げで止む無く―」
とも言いづらいんだよね彼の場合。
0072人間七七四年
2007/06/02(土) 00:04:34ID:D5HBEjqsという記述があるぞ
誰も気づいてないが俺は発見した
0073人間七七四年
2007/06/03(日) 23:20:36ID:CHlYlcq+0074人間七七四年
2007/06/03(日) 23:34:19ID:temp7VVD0075人間七七四年
2007/06/04(月) 00:07:36ID:016/7RUd0076人間七七四年
2007/06/04(月) 01:35:33ID:X1HKc2Gw本当はどうなんだろ?
0077人間七七四年
2007/06/04(月) 05:00:43ID:zAra4I66讃岐一国はガチ。んで、三好康長が五年ぐらいで死ぬだろうから、
阿波もゲットで二カ国の太守。
伊予と土佐に分封されるだろう諸将も信孝の寄騎大名になるだろうから、
南海道の主になれただろうに・・・。
0079人間七七四年
2007/06/04(月) 11:56:29ID:zAra4I66元親記がのっている戦国史料叢書(四国史料集)をちょうど借りてる。
元親記は寛永8年(1631)に長宗我部旧臣が、元親の33回忌を記念して書いたとある。
ってことで、元親の人物像について誉・褒が誇大な部分があるが、良質な史料とあるよ。
0080人間七七四年
2007/06/04(月) 13:52:25ID:DnjI/aj4元親のことは褒めすぎだが、まあ良質な資料と言えるだろう
体験者が書いたものだし
0081人間七七四年
2007/06/04(月) 14:27:26ID:DnjI/aj4どちらも戦死?だが
0082人間七七四年
2007/06/04(月) 16:55:42ID:txyeuyN3あの年齢で、あそこまで大規模な軍団を動かして武田を滅ぼした武将は
同年代に皆無だし、何より嫡男としてそのような教育を受けている。
信孝は一武将としての勇猛さは認められているし、嫡男教育などからは
遠い所で養育されたにもかかわらず、頭角を表してきたので、
改めて教育を施されている途中だったとは思う。
信雄は……駄目だろうな。
駄目すぎて秀吉にお目こぼししてもらった感じ。
信房(勝長)が、意外にも北条などの資料に、良き武将として残っているし、
武田方から頼られている書状もあるので、やはり二条城で死んだのが惜しまれる。
0083人間七七四年
2007/06/04(月) 17:37:16ID:UK5blOk8改めて見ると信長の息子たちはダメ息子ばかりってイメージがあるけどそうでもないな。
0084人間七七四年
2007/06/04(月) 18:00:39ID:Ey/gN7Cn二条城で見事戦士した信忠
流言に惑わされて信澄を殺した信孝
資質的にも偉大な兄には適いそうに無いです・・・
0085人間七七四年
2007/06/04(月) 18:10:17ID:UK5blOk8まあ信忠のほうが上な可能性が高いとは思うが。
0086人間七七四年
2007/06/04(月) 21:20:19ID:DnjI/aj4あとまた聞くが、そこそこ優秀な信忠、信孝の間の信雄はなぜ無能だったのだろうか?
信長の教育が悪かったのか
伊賀攻めの時叱りすぎて信雄が傷ついたとかは…無理やりだがないかな?
0087人間七七四年
2007/06/04(月) 21:22:10ID:Ey/gN7Cn0088人間七七四年
2007/06/04(月) 23:28:01ID:FMYNBszl0089人間七七四年
2007/06/05(火) 00:22:53ID:kAdMbngz0090人間七七四年
2007/06/05(火) 00:30:13ID:yFjZT+V2プライドばっか高い駄目男だったんだろうなこいつ。
0091人間七七四年
2007/06/05(火) 02:41:22ID:aWfwJFQh0092人間七七四年
2007/06/05(火) 03:01:21ID:9d9+5vYe0093人間七七四年
2007/06/05(火) 07:54:56ID:RCDhyow+0094人間七七四年
2007/06/05(火) 13:15:44ID:IQKDAQEy創作というのはどこからきてるんだ? 同時代の複数資料に見られるのに
0095仙台藩百姓
2007/06/05(火) 15:03:48ID:SxRrsYP5教養のある人間が作ったとはとても思えないお
こんな失笑ものの句を遺したのは不可解だお(;^ω^)
創作によるものか、信孝がアホだったのか
今となっては分からんけど
0096人間七七四年
2007/06/05(火) 18:12:02ID:CkV9Uv+Pいろんなスレで見かけるけどなんか刺々しいな
ほんと何様?
0098人間七七四年
2007/06/05(火) 22:56:40ID:IQKDAQEy0099奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/06/05(火) 23:08:54ID:5/Wxfvdt0100人間七七四年
2007/06/05(火) 23:33:28ID:IQKDAQEy0101人間七七四年
2007/06/05(火) 23:39:46ID:suH/9NjFそりゃあ冷めた目で見れば不可解に感じても仕方ないかも。
当の本人と同じ立場になってみるか、拠って考えてみないとな、
0102人間七七四年
2007/06/06(水) 01:56:59ID:syLifqUo文字通り怨念以外篭ってないようなこの歌については
いちいち文芸批評を言う気は起きないな。
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています