【従二位】阿蘇大宮司氏【男爵】
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
0001人間七七四年
2007/05/25(金) 21:15:03ID:qBwHZA1Mまた、阿蘇氏といえば名将・甲斐宗運の主家としても有名ですね。
存分に阿蘇を語りましょう。
0002人間七七四年
2007/05/25(金) 21:38:31ID:g+djBuxm0003人間七七四年
2007/05/25(金) 21:39:26ID:g+djBuxm阿蘇スレって他にもあるだろ。
とりあえず甲斐宗運子供殺しすぎ
0004人間七七四年
2007/05/25(金) 21:41:26ID:g+djBuxm戦国期には島津の進行に良く耐えた印象がある。
甲斐宗運の子親英しかり、
あと降伏したふりをして兵を城に入れてから襲ったのって誰だっけ?
0005人間七七四年
2007/05/25(金) 21:42:19ID:vaWB4VjAもう少し大きな勢力でいられたかも?<阿蘇氏
……同じ幼君を抱いていた相良氏がうまく生き残ったのを見ると
家臣の立ち回りが劣っていたというのが事実?
0006人間七七四年
2007/05/26(土) 02:03:31ID:JcqzbuWjこれが島津に阿蘇氏討伐を決意させる原因になったとも言われる。
0007人間七七四年
2007/05/26(土) 17:22:28ID:oDGFpanTそれが無かった。正直驚いた。
しかし最後に毒殺されるとはね…宗運。
0008人間七七四年
2007/05/27(日) 20:27:26ID:seTIc0qw日本史板にあったような気がしたが
0009人間七七四年
2007/05/27(日) 21:17:16ID:z0LOv2S4もしかして「阿蘇」はタイトルに入ってないのか?
0010人間七七四年
2007/05/27(日) 21:46:30ID:N7926Zja1.相良氏は島津氏に降伏していたため、一族がそのまま島津の軍団の一つとして機能していた。
そのため豊臣への寝返りも、一致した行動として行うことができた。
2.阿蘇氏は断続的に、結局全ての当主が島津に対して兵を挙げた。
そのため島津の肥後平定時には、阿蘇氏は配下の国人が各々自立した状態にあり、
統一した行動が取れなかった。
3.国衆反乱のとき、阿蘇氏当主は佐々の隈本城に匿われていた。
安全を選んだのかもしれないが、それは神職らしい行動ではあっても領主の行動ではない。
00119
2007/05/27(日) 22:27:48ID:seTIc0qw甲斐宗運に助けられた家。親英も良くやったとは思うが…
神職なのに武家化したら駄目だな。
0012人間七七四年
2007/05/28(月) 18:21:10ID:uIBcxBjV何故だろう?
0013人間七七四年
2007/05/28(月) 18:34:36ID:mSH5UnZI0014人間七七四年
2007/06/09(土) 00:49:39ID:6sG65ZX40015人間七七四年
2007/06/09(土) 09:28:55ID:eE+NTm0L甲斐まり恵
0016人間七七四年
2007/06/09(土) 13:00:27ID:52iXof2w朝倉一玄
0018人間七七四年
2007/06/09(土) 15:05:02ID:52iXof2w0019人間七七四年
2007/06/09(土) 15:08:46ID:AfwNJzNT智将長野惟久
0020人間七七四年
2007/06/09(土) 18:23:35ID:6sG65ZX4木山惟久・高森惟直・中村惟冬・光永惟宗・光永惟純・村山惟貞・村山惟広・村山家久・村山惟忠・村山丹後守
北里永義・北里政義・辺春盛道・市下大和守・田代乗珍・田上丹後守・渡辺吉久・柏大輔・仁田水左衛門大夫・伊豆野山城守
0021人間七七四年
2007/06/09(土) 18:46:58ID:AfwNJzNTだまし討ちにしたのは高森惟直であった、
0022人間七七四年
2007/06/10(日) 00:31:41ID:4tNUWd0b0023人間七七四年
2007/06/10(日) 03:15:28ID:SCS2aa+g0024宇喜多直家信者
2007/06/10(日) 03:18:55ID:nmPnQpqi0025人間七七四年
2007/06/10(日) 04:08:57ID:Ur29f3GV0027人間七七四年
2007/06/10(日) 09:48:04ID:4tNUWd0b戦上手の島津の兄弟が、なかなか、阿蘇領内に踏み込む事が出来なかったくらいだもんな。
0028人間七七四年
2007/06/10(日) 10:23:58ID:DOzeDaqrはっきり言って九州随一の知将じゃないか?
0029宇喜多直家信者
2007/06/10(日) 14:53:27ID:nmPnQpqiこの時は宗運の子親英が抵抗した
0030人間七七四年
2007/06/10(日) 15:28:09ID:4tNUWd0b0031人間七七四年
2007/06/13(水) 00:59:32ID:PdT93TUn0032宇喜多直家信者
2007/06/13(水) 01:03:35ID:rzzMP7mv0033人間七七四年
2007/06/13(水) 02:45:25ID:HQI1olSg0034人間七七四年
2007/06/13(水) 16:43:37ID:MhQkY4qw0035宇喜多直家信者
2007/06/13(水) 17:54:04ID:yliJtMH5なぜ阿蘇惟豊は入田親実を斬ったのか?
0037人間七七四年
2007/06/13(水) 18:15:39ID:MhQkY4qw阿蘇の勢力拡大の野望…「入田と結んで影響力を増そう」→入田の敗北→「ここは大友に恩を売ったほうが得かな」→入田の殺害
0039人間七七四年
2007/06/14(木) 16:17:44ID:1TBMNczbIDは変わってしまったがお答えしましょう。まあ私は戦国時代以外の阿蘇氏についてはあまり詳しくないので、戦国時代の当主に限らせていただきますが。
家督争いを収拾し、きっぱりと入田親実を斬って朝廷とも関係を持った阿蘇惟豊。また、彼は有能な甲斐父子をきちんと使いこなせたことでもポイント高いですね。個人的には。
0040人間七七四年
2007/06/17(日) 23:49:17ID:oUEdOL7q甲斐敦昌・親昌の力も同等に大きかったものと思われます。
0041天正9年頃
2007/06/18(月) 20:16:00ID:zJBagnP0甲斐氏1000町・小代氏1000町・名和氏1000町・内空閑氏1000町・大津山氏307町・和仁氏120町
0043人間七七四年
2007/06/20(水) 14:00:20ID:JFfdSrKpどっちもどっち。。
0044人間七七四年
2007/06/20(水) 14:57:24ID:0/t2cZiE0045人間七七四年
2007/06/23(土) 00:03:04ID:/w8Ur07Y0046人間七七四年
2007/06/25(月) 22:42:06ID:gmICQ0QQ0047人間七七四年
2007/06/26(火) 22:23:13ID:kGMBkxzc0048人間七七四年
2007/06/26(火) 22:57:38ID:6GbU3ofhワクテカニラ(0・∀・)
・・・まあ、宗氏みたいに家宝を切り売りしてご先祖を嘆かせるようなことをして豪遊、
じゃないことを祈っておこう。
0049人間七七四年
2007/06/27(水) 00:52:03ID:g2gElhbN今も阿蘇の宮司やってるみたいだけど。たしか九十何代目だかの方が
ご当主なはず
>>48
宗って、まさか武志さん?
0050人間七七四年
2007/06/27(水) 10:32:51ID:BtD9Cg9N真実は不明
近代の宗氏って、<`∀´>王家のお姫様を嫁にしたり(政府の意向で押しつけられたんだろうけど)
そのお姫様が発狂して離婚したり、その間に生まれた一人娘は失踪して現在に至るも消息不明と
なかなか波瀾万丈。
0052人間七七四年
2007/06/29(金) 22:12:03ID:+tE/QvIP南郷七家・・・高森 村山 市下 竹崎 二子石 長野 白石
0053人間七七四年
2007/06/29(金) 22:25:11ID:+tE/QvIP0054人間七七四年
2007/06/30(土) 00:00:47ID:Gqk2LOFd0055人間七七四年
2007/06/30(土) 00:04:26ID:Gqk2LOFd0056人間七七四年
2007/06/30(土) 00:12:45ID:iU++y6qu0057人間七七四年
2007/06/30(土) 03:10:35ID:CKmswyJb南郷七家は薩軍の北上後、どうなったんですか?
高森家は島津の新納忠元と三田井の甲斐宗摂に攻められ滅びたようですが・・・
0058人間七七四年
2007/06/30(土) 03:20:55ID:CKmswyJbやっぱし宮司の娘さんは阿蘇さんなんですか?
0059奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/06/30(土) 10:44:31ID:oRCNna91惟豊┬惟将┌惟光┌友貞┬友隆┬善麿
└惟種┴惟善┴惟真├友歳┗友名━真楫━惟典┬惟馨─惟賞┐
└友名 └惟功 │
┌────────────────────────────┘
└惟治┬惟敦┬惟孝┬惟紀─惟友┬惟之
└惟興└惟教└真佐夫 └治孝
0062人間七七四年
2007/06/30(土) 22:02:48ID:z81AbTJM苗字は阿蘇だった。自宅が大きなお屋敷でした。
0063人間七七四年
2007/07/01(日) 00:57:12ID:+B3qugs8へぇ〜 そうなんですかぁ。
お屋敷という響きが何だか凄そうですね。庭も広そうだ。。
0064人間七七四年
2007/07/01(日) 01:10:19ID:AJGS2DJb神社内ではなく?
それにしても意外と好調で助かった、立てたときはすぐdat落ちするかとヒヤヒヤしてたが…
0065人間七七四年
2007/07/01(日) 07:10:35ID:ThdL/sQk0066人間七七四年
2007/07/01(日) 10:08:32ID:+B3qugs8お疲れ様です。(笑)
0067人間七七四年
2007/07/08(日) 02:48:57ID:gGiGjyYQ0068人間七七四年
2007/07/08(日) 22:26:10ID:NRPEQFNe高森落城後、惟直の二男が阿蘇郡の坂梨に落ち延びたって本で読んだことあるよ。
今もその末裔の家が坂梨にあるみたいだけど。
0069長門 ◆q8GdomS4XA
2007/07/09(月) 03:16:21ID:9WIGhSmp清正>細川>菊池>越えられない壁>その他
の順に有名で阿蘇氏・相良氏なんて聞いても誰もしらん。
相良は人吉にいけばチラホラと知ってる人が出てくるが阿蘇氏はやばい。誰も知らない。
甲斐に至っては地元民なんかよりこのスレの住人のほうが遥かに知っている。
っというか甲斐はKOEIに滅茶苦茶評価されてるよなぁ、鍋島並だもん
ファンが増える理由も分かるわ。
郷土本も阿蘇氏は無視して友情の為に死んだ相良カワイソスってのが多くて次のコマで甲斐が泣いてるコマが1コマ出て終了ってのが多い。
本当熊本じゃ阿蘇氏は空気。
0070宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/07/09(月) 03:50:41ID:pxuZ2Qyp人吉市は免田事件の印象が強い。
しかし、地元民が知らないなんてことはあるのか?
備前では近所の爺さん婆さんに聞けば、浦上宇喜多松田の名が出てくるぞ。
熊本も似たような感じじゃないのか?地元民じゃないので分からんのだが…
0071人間七七四年
2007/07/09(月) 05:50:35ID:aWSYsJd20072長門 ◆q8GdomS4XA
2007/07/09(月) 09:31:36ID:9WIGhSmp残念な事に>>71のいう通り。
浦上宇喜多ほどインパクトが彼らにはない。
小西行長は天草の乱関係(キリシタン)でそこそこ名前があがるから結構こっちの方が名は知られてるかも
0073人間七七四年
2007/07/09(月) 19:07:37ID:rHUKzOmEへぇ、高森の末裔達の集落が坂梨にあるんですねぇ。
坂梨家も阿蘇家の古くからの重臣の家柄ですから婚姻関係とかが、きっとあったんでしょうね。
>>72
長門さんは、長門守宗摂の末裔とかですか?
0074人間七七四年
2007/07/09(月) 19:09:27ID:mzCAkELZそういやお前、前自演やってIDが同じでバレてたよなw
0075奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/07/09(月) 23:23:57ID:yiF/WSaI0076長門 ◆q8GdomS4XA
2007/07/10(火) 00:00:21ID:9WIGhSmp阿蘇氏の知名度が現地阿蘇市でさえ低いってのを主張するのはおかしいか?
低いってレベルじゃないけど。
自演?それどのスレ?
0078人間七七四年
2007/07/11(水) 15:42:50ID:YFwHXhzE0079人間七七四年
2007/07/20(金) 12:30:33ID:UwB7jez0大名としては紀が有力みたいだけど
0080人間七七四年
2007/07/20(金) 14:11:54ID:JqhV/MKi所領面では…諏訪?
紀は戦国時代どんどん傾いてったし、阿蘇は山がちな地域だからね。
0081人間七七四年
2007/07/20(金) 20:04:10ID:ULXGZda90083人間七七四年
2007/07/20(金) 23:45:11ID:6DnPpdImそのあと大友義鑑の弟が当主となる、最終的には大友宗麟に
滅ぼされる
0085人間七七四年
2007/07/21(土) 19:41:30ID:DWM53THG0086人間七七四年
2007/07/21(土) 21:58:29ID:VQFL87S+せいぜい十数万石だって話を聞いたけど?
ちなみに>>41で考えると5万石〜6万石。
>>81
阿蘇惟長という阿蘇大宮司家の当主が、菊池の家臣団を煽動して菊池の当主を追い出し、武経と名乗って菊池家を継いだ。
だが、その時大友の支援を受けてた関係で所詮傀儡だったということで、阿蘇の当主になってた弟・惟豊のところに戻った。
一方菊池では詫磨氏とかいうマイナーな氏族から養子を迎えてやり過ごし、大友から養子(義鑑の弟)を貰った。
こいつは義武と名乗るんだが、突然相良や大内と組んで謀反を起こす。が負けた。
義鑑の死後、再び兵を挙げるが甥っ子の義鎮に騙されて死んだ。
で菊池は断絶。
0087人間七七四年
2007/07/21(土) 22:05:06ID:4f/VlecH1、2軒しかないけど。跡継ぎおるのかね〜
0088人間七七四年
2007/07/22(日) 00:41:08ID:8WH5WEbx弱小ではないな。
0090人間七七四年
2007/07/22(日) 01:07:24ID:ycYJgod3従二位だしね。
0091人間七七四年
2007/07/22(日) 20:03:01ID:FKIp15qw阿蘇郡の石高は72800石
0092人間七七四年
2007/07/22(日) 20:59:34ID:ycYJgod3抵抗した人ってあまりいないような。
0093人間七七四年
2007/07/22(日) 21:08:31ID:gRmz7wKG0094人間七七四年
2007/07/22(日) 22:27:44ID:Bo/Ge7Qi西は美里町
東は高千穂町・五ヶ瀬町(鞍岡)
結構広い。
0095人間七七四年
2007/07/22(日) 23:26:24ID:ZMlpmvw40096人間七七四年
2007/07/23(月) 00:25:01ID:GlHcy0+O0097人間七七四年
2007/07/23(月) 00:31:27ID:3CglA02Dウィキにさえ載ってますぜ…
阿蘇神社の祭神のうち建磐龍命・阿蘇津媛命・国造速甕玉神が分祀されてる。
こっちは相良氏の崇敬を受けてたらしい。
開いたのは阿蘇神社の神主。
0098人間七七四年
2007/07/23(月) 00:48:46ID:Q3QO0wYtでは、その1、2軒のどちらかが、高森の本家という事でしょうか・・・?
>>90
阿蘇家の社領は、飛び地で日向・薩摩に何ヶ所かあったようですね。
>>93
宗運は自領を薩軍に侵されながらも、それに抗せず、人を食ったような和平交渉で時間稼ぎをしていた。
その交渉時間に耐えられず、先に島津は日向口から新納忠元と三田井氏の甲斐宗摂に高森城を攻略させ、本隊は竜造寺討伐へと矛先は代えられてしまった。
>>95
そんな人知らない・・
0099人間七七四年
2007/07/23(月) 16:45:45ID:3CglA02Dいや、社領の問題ではない。
社領なんてのは大概武士にぶんどられるもので、その中で戦国大名化できたのが阿蘇とか諏訪だぞ。
0100人間七七四年
2007/07/24(火) 15:24:06ID:vumscATAどんな問題?社領は領地。
0103人間七七四年
2007/07/25(水) 00:01:32ID:B2EvWhlqいったんは、菊池家督を継いだ阿蘇惟長(菊池武経)惟前の親子は阿蘇大宮司職を惟豊から奪還しょうとした時
一度目は失敗し薩摩地方にあった阿蘇家の社領に退き、兵力の増強を図った。
二度目には弟の惟豊を矢部の浜の館から追い出す事に成功する。
追われた惟豊は最終的に、日向高千穂の社領に逃げ込んだ。
そして鞍岡の領主甲斐親宣を主として小国の北里義重・室原鑑知・阿蘇南郷の村山惟民・堅志田の西惟宗らの力を借りて大宮司に復帰。
高千穂には古くから阿蘇郡知穂郷という所があり、高千穂と阿蘇の結びつきは強いものがあったらしい。
ちなみに鞍岡にも社領があり、その関係で甲斐親宣は出兵した。
もちろん高千穂領主の三田井氏の了承は得ての事ではあろうが・・・
0104スレ立てたひと
2007/07/26(木) 22:36:38ID:KzyNfKWy俺は『天下統一V』で「阿蘇大宮司家」という名前にインパクトを受けて阿蘇好きになってこのスレを立てた(依頼した)んだが、ほんと詳しい人っているもんだ。
俺が立てた中では一番成功したスレだけに、今後も活発にやってほしい。
いや、俺普通に質問してるから名無しと変わらないんだがな
0105103
2007/07/27(金) 01:08:35ID:TACkq0Od過去にあった出来事が良かったのか悪かったのかは別にして・・・
先人達の行いがあった事により、今日の自分達が今ここにあり、生かされている。
その先人達に対して敬いと感謝の気持ちは忘れてはならない。
子孫としては先祖がどのように生きたのか? ・・と、いう事は知っておかなければならないと・・・
自分は思う。
0106103
2007/07/29(日) 00:33:24ID:N9Tbjkv8伝承として語られるものの方が多い。
0107名無しさん@そうだ選挙に行こう
2007/07/29(日) 11:54:26ID:rsiESkH6何か知ってるのあったら教えてくれ
0108名無しさん@そうだ選挙に行こう
2007/07/29(日) 13:09:09ID:N9Tbjkv8資料物としては、それよりも前に甲斐親宣は大友義鑑により御船に知行地を与えられたとあり、甲斐敦昌も隈ノ庄に同じく450町ほどの土地を有していたと
肥後国誌だったか、豊後大友の文献にある。
0109人間七七四年
2007/07/30(月) 20:08:37ID:tzirz9pV0110人間七七四年
2007/07/31(火) 10:38:30ID:0kMTDlbI0112人間七七四年
2007/08/01(水) 00:18:47ID:r3kpiCm80114人間七七四年
2007/08/03(金) 20:17:06ID:op1pZ3d3高森城合戦はかなり激しかったらしく、その様子を詠った踊りが宮崎の五ヶ瀬などに
のこっているみたいだよ。実際に高森城に行ったことあるけど、高森城跡という石碑
があるだけで、これといって何も残ってなかった。
>>87
坂梨のほかに矢部地方にも高森姓はいるみたいだけど・・・関係あるのかな?
ある本には、何れの高森家が本流か知らないけど、盂蘭盆の法会は坂梨高森家が
行っているそうです。その高森家の墓には「丸に違い鷹」の紋が入っているようだから
阿蘇家と関わりが深かったんだろうね。
0115人間七七四年
2007/08/03(金) 20:58:35ID:S5VpssiA五ヶ瀬に高森の話が残ってるという事は…
高森方の誰かが五ヶ瀬に落ち延びた、という事でしょうか?
当時の五ヶ瀬は、三田井氏の領地で島津方・・・
家代や七ツ山の甲斐党も島津方だし・・・ いったい誰を頼ったのか、興味深いですね。
0116人間七七四年
2007/08/03(金) 21:09:44ID:op1pZ3d3いや、その辺りが島津勢の高森城への通り道だったからじゃないかな。
高森の子孫が落ち延びたのは坂梨だし。
0117人間七七四年
2007/08/04(土) 00:55:22ID:a9jrkzl1その後はどうなったんだろう?その後の坂梨家も気になる・・・
0118人間七七四年
2007/08/04(土) 22:45:02ID:nVp+lCT3高度すぎるぞー
0119人間七七四年
2007/08/04(土) 22:49:00ID:nggFyefkスレの伸びも話題も。
0120人間七七四年
2007/08/05(日) 01:54:44ID:6lKdKGIu0121人間七七四年
2007/08/08(水) 21:43:10ID:w4c/RERU0122人間七七四年
2007/08/11(土) 19:51:41ID:S8jBIyyQそんなに伊東と阿蘇は勢力に違いがあったのか?それとも別の理由が?
0123一応評価職人?
2007/08/11(土) 22:33:44ID:6nDnm3aR0125人間七七四年
2007/08/12(日) 20:26:29ID:9nxWjXg4石高と言っても、表の石高と裏の石高との開きは… かなりあるんじゃないだろうか?
>>122
甲斐民部大輔入道宗運親直が、日向伊東に通じた3人の子供を俵山まで追い
親正、宣成を殺し、直武は日向の国まで逃れた。という歴史的資料はなく、あくまで伝承でしかない。
古くから阿蘇家に仕えていたと云われる、同族で日向の黒仁田氏も伊東に通じたとい事で宗運により滅ぼされたという。
しかし、伊東に通じたと云うのは、表面上の名分で、実際は阿蘇家内部での権力争いではなかったのであろうかと思われる。
3人の子供が殺されたというのが、仮に伝承通りだとすると・・・
個人的な意見として、疑われた原因は米良地方に菊池一族の米良氏がいて伊東と何らかの関係があったのでは?という事が考えられる。
甲斐家系図の1つに宗運の弟にあたる、甲斐左近将親成という人が、また別本には米良氏の一族であるという事項があるので姻戚的な何らかの関係があったのではないかと思います。
戦国時代の甲斐党は、肥後・日向に広く分布し
宗運自身は阿蘇家配下として御船1000町を領し、後には隈庄1000町も領しながらも、弟や子息達は、日向・三田井氏の配下として高千穂地方に領地を有して
別の流れの、家代や七ツ山や隈庄の甲斐氏も同じく肥後・日向に、かなりな領地を有していた。
この当時の肥後・日向の国は、いかに甲斐党を手なずけるかという事が重要な課題であったというのは間違いないであろう。
0126人間七七四年
2007/08/16(木) 01:05:16ID:g/CbQQ8F阿蘇郡 54628
益城郡 124471
詫間郡と宇土郡と飽田郡の一部も領していてから20万石前後だろう。
高森氏への関心が高いようなのでちょっと仮説を。
戦国以前の阿蘇家は矢部(益城郡)と南郷(阿蘇郡)が長年争ってきた。
矢部を大宮司として和解した後も、阿蘇郡の代官として残ったのが
高森氏となったのではないか。
矢部の大宮司が島津に降伏後も、阿蘇郡は高森落城まで抵抗をつづけている。
大宮司家からの使者として説得にきた武将を切っている。
島津は高森城を完全に孤立させる戦略をとるまでは2度も復帰され手を焼いた。
このような展開はいち家臣の行動として見ると不可解に思える。
また大宮司家から高森[殿」という尊称、惟直は阿蘇惟直と同名。
0127人間七七四年
2007/08/17(金) 03:05:40ID:8d/+CpqA名族なのにマイナーでスレが延びないのも三村氏スレと同じだな。
なんか地元民以外は知らないような話題だ・・・
0128人間七七四年
2007/08/17(金) 03:17:48ID:K87v4xHs地元民でも知らないほうが多いだろう
ただソースは東京だと入手しづらそうだ、だからここの人たちは九州中心かな?
0129マンキョ
2007/08/18(土) 03:45:56ID:QwCEDrm90130人間七七四年
2007/08/18(土) 03:54:49ID:BIo42qqaもうちょい具体的に頼む
どこらへんの外交を神と思うのか
0131甲斐党員
2007/08/19(日) 22:03:13ID:MmoKX+LW後を継いだのは息子の『親秀』だけではなく、『兵庫頭・某』という人物の2人だったらしい。
どうやら甲斐党内で内紛が生じたようだ。 この兵庫頭・某は、どういう繋がりかは不明。
のちに甲斐兵庫頭秋政という人が、文禄2年頃、加藤清正と高橋元種に追われ東臼杵郡諸塚村九左衛門峠で討死した。という文献があるが
『兵庫頭・某』と『甲斐兵庫頭秋政』が同一人物である。という事も定かではない。ちなみに秋政は、宗運の甥という伝承。
天正9年頃の竜造寺氏への起誓文によると、甲斐家の主だった者は
甲斐民部大輔、甲斐兵部大輔、甲斐形部入道招作、甲斐左京入道、甲斐中務丞重信、隈庄太郎親教。
不思議な事に、『宗運』に近かったであろうと思われる『甲斐親秀』『甲斐兵庫頭・某』『甲斐大和守親英』の名前は、この中にない・・・
0132甲斐党員
2007/08/19(日) 22:32:17ID:MmoKX+LW高森氏の領地は、町・石高でいうと、どれほどだったのか分かるでしょうか?
0133人間七七四年
2007/08/21(火) 18:27:46ID:zd48BNVA高森というのを俺は知らんが、郡まで特定すれば分かるだろう
0134マンキョ
2007/08/22(水) 00:35:19ID:Ma1GSHuOその人の生存中、一人も領内に侵入させなかった。
0135甲斐党員
2007/08/22(水) 00:39:54ID:r+iclffa高森氏が、1つの郡をすべて領地としていたのか? ほんの一部の僅かに過ぎなかったのか?
それとも、他の郡にもまたがって所領を有していたのかさえ、自分は、知らないもので・・・
0136人間七七四年
2007/08/22(水) 18:01:15ID:md5cw4JA0137人間七七四年
2007/08/22(水) 18:11:51ID:fZOtHVJs阿蘇山カルデラ内の北半分(阿蘇谷):元々阿蘇氏の本拠。今も阿蘇神社などがある。
カルデラ内の南半分(南郷谷):高森町があるのはここ。
阿蘇カルデラ外で北方に広がる地域:小国 北里氏が栄えた地域
大まかに3つに分かれている。
0138人間七七四年
2007/08/22(水) 20:21:43ID:md5cw4JA農地から逆算するつもりだったのに
0139人間七七四年
2007/08/22(水) 20:37:37ID:4NpxPNL7>>126 大宮司惟将は一応島津氏と和睦したけど大友氏にも歩み寄ったり
島津を警戒してたみたいだが・・高森氏は幼君阿蘇惟光を匿ったりするなど
一応阿蘇家に最も忠節を尽した武将とされているみたいだよ。
>>117 郷土本には現在もそのまま住んでいると書いてあるのでいるのでは?
0140人間七七四年
2007/08/22(水) 20:53:18ID:ZdoDtoga阿蘇氏の本拠地矢部では阿蘇家についての
イベント的なものがあったみたい。阿蘇家講座とかあったぞw
0141人間七七四年
2007/08/22(水) 22:03:46ID:md5cw4JA0142甲斐党員
2007/08/22(水) 22:16:04ID:r+iclffaあの南郷の土地で3万5千石とは… 高森氏の知行地は結構広いようですね。
しかし高森惟直の二男を坂梨氏が匿ったのなら…
坂梨氏には、それなりの仕打ちがあり、追われたり滅ぼされたりしたと思ったんだけどなぁ。
0143人間七七四年
2007/08/22(水) 22:47:59ID:4NpxPNL7秀吉の九州平定後、地侍、一領一疋などの身分になったらしいよ。
0144甲斐党員
2007/08/22(水) 23:48:25ID:r+iclffaあ・そうなの? 納得しました。
でも坂梨は坂梨氏の知行地ではなかったんだろうか?という疑問。。
0145人間七七四年
2007/08/23(木) 09:14:13ID:dTeGKq18僅かな所領を与えられてからはこれまでの知行のありかたが一変したのではないかな。
坂梨も一応、阿蘇家の領地だし。惟直の二男は阿蘇家を頼っていったとみたいなことが
本に書かれてる。また、高森氏と坂梨氏は共に阿蘇家に忠節を尽くした者同士でもあるからね。
0146甲斐党員
2007/08/23(木) 10:36:47ID:T5o6WEpMその間は島津氏が阿蘇谷も南郷谷も支配していた。
惟直の二男が坂梨という土地に落ち延びたのなら、坂梨氏は島津氏に協力し、惟直の二男の捕縛に全力を注ぐのではないだろうか?
もし協力が無かったのなら… それを口実に攻められるか、何らかの仕打ちはあったはずだと思う…
0147甲斐党員
2007/08/23(木) 10:48:01ID:T5o6WEpM高森攻略、天正14年。九州征伐天正15年。
0148人間七七四年
2007/08/23(木) 22:43:55ID:rh6aTyfW三万五千石のソースしってたら教えて
それだと阿蘇郡の半分以上だね
阿蘇一族ではない北里らの小国郷と大宮司家の奉行衆の領地を
除いたらそのくらいになりそうだけど
高森村の本貫地のみだけだと多くても1500石程度と思う
0149人間七七四年
2007/08/23(木) 22:56:49ID:rh6aTyfWその頃の島津には残党狩りをする余裕はなかったかも
大宮司家の嫡子も捕らえられていないしね
そもそも坂梨を頼ったのは秀吉の征服後かもしれないし
のちの国衆一揆のときも高森の名がでてくるからそのあとかもしれない
0150人間七七四年
2007/08/23(木) 23:28:35ID:dTeGKq18高森村以外にもあちこち持ってたのかな??? ・・・わからない。
それと、島津は大友との決戦が主要命題だったので、高森にそれほどこだわらなかった
のかもしれない。
0151人間七七四年
2007/08/24(金) 11:03:42ID:EvNVvFef血縁関係は明らかでない。ただ、元々高森家は阿蘇の中では1番の給主分だった
らしい。三万五千石というのは多すぎるような気もするが・・・
0152人間七七四年
2007/08/24(金) 17:57:14ID:UXJJqrYl0153人間七七四年
2007/08/25(土) 10:31:29ID:Mmd4BFwE誰か初心者の俺に他の一族は何をしてたか教えてくれ
0154人間七七四年
2007/08/25(土) 10:50:42ID:VMjtBrwQ豊臣に斬首されたものがいたな。
厳しすぎ
0155人間七七四年
2007/08/25(土) 11:50:06ID:xMna2Z9Yこの頃、百姓から成り上がった秀吉によって、由諸ある大宮司家がほとんど
無一文にされたなんて・・皮肉な話
0156人間七七四年
2007/08/25(土) 12:03:44ID:+fsLwZnz0157人間七七四年
2007/08/25(土) 20:42:29ID:SLyTGrvh以外だな。ソースはやぱり高森町史U?
思い付きだが、豊後街道が近世になって清正が整備するまえは
南郷往還が豊後肥後のメインルートだったんじゃないかな。
で、その利権に預かっていたと。
日向往還を押さえる大宮司家と仲良く住みわけていたと。
0158人間七七四年
2007/08/25(土) 20:46:27ID:dGVdTboM0159人間七七四年
2007/08/25(土) 21:20:37ID:Mmd4BFwEうちの町は北条征伐の時に但馬守某という小田原浪人が来たことしか…
その点、阿蘇とか諏訪とか憧れるな
0160人間七七四年
2007/08/25(土) 21:36:38ID:2kpfwhDE0161甲斐党員
2007/08/25(土) 21:41:09ID:Zhc0y6Az戦国期の主だった甲斐家は、御船、隈庄、七ツ山、家代ですな。
0163人間七七四年
2007/08/25(土) 22:49:27ID:Mmd4BFwE153です。どうもありがとうございます。
0164甲斐党員
2007/08/25(土) 22:57:45ID:Zhc0y6Azいえいえ、各家々が何をしたのかというのは…
長くなってしまいますので、簡易で申し訳ありません。。
0166人間七七四年
2007/08/26(日) 07:23:31ID:NIX6p40G0167人間七七四年
2007/08/26(日) 09:35:02ID:wEi1N87B孫とその妻と+α
0168人間七七四年
2007/08/27(月) 13:15:36ID:pEbNp6A414世紀なかばころ、大宮司家からの呼称が高森殿ということ、身分の高いことと
どうつながるんですか?
0169人間七七四年
2007/08/27(月) 15:01:56ID:VWeB/t1wその阿蘇家から丁寧な扱いを受けているんだから、だろ
0170人間七七四年
2007/08/27(月) 15:54:26ID:pEbNp6A4肉親であろうと待遇に天と地ほどの差があったらしいし。その時代、他の家臣は
〜殿とは呼ばれていなかったのだろうか。尊称は高森家に限ったことだったのだろうか?
0171人間七七四年
2007/08/27(月) 15:57:01ID:pEbNp6A4納得できないことはない。
0172人間七七四年
2007/08/27(月) 21:16:11ID:VWeB/t1w何に繋げての「だとしたら」?
すまん、よく分からん。
0173人間七七四年
2007/08/27(月) 21:28:03ID:pEbNp6A4それだけ高森家が大宮司家と対等な立場にいて、所領も多かったかもしれないという
ことです。
0174人間七七四年
2007/08/27(月) 22:03:50ID:bFtIEm+Uただ、名字のあとじゃなくて官職名のあとにつけるんだよね普通は
内府殿、上総介殿みたいに
阿蘇殿、となったばあい当然惣領家のことをさすわけで
あるていど家臣をかかえていた大身であるかなと推測できます
ちなみに宗運は甲斐殿とはならなかったんじゃないかな?
0175人間七七四年
2007/08/27(月) 22:10:06ID:bIklEdK3高森家が
0176人間七七四年
2007/08/28(火) 19:48:52ID:BCKIWN+Oなのだろう?阿蘇家の一族らしいけど少し興味があるな。家系図とかに
載ってないのかな・・・
0177人間七七四年
2007/08/28(火) 20:05:06ID:ly/0oeNJ阿 蘇 氏 の ス レ
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1071383307
0178人間七七四年
2007/08/28(火) 20:13:34ID:ly/0oeNJ高森氏については結局分からないな。
試しに高森惟直を検索してみたら出てくるのここばっかだし、もう阿蘇絡みの本を片っ端から読み倒すしか…
0182人間七七四年
2007/08/28(火) 20:52:40ID:7v/+5/fo軍記とかに記されてるのかな。
0183人間七七四年
2007/08/28(火) 21:14:43ID:ly/0oeNJ自分が聞いたのは、惟直の墓の墓碑銘が…って話。
0184人間七七四年
2007/08/28(火) 21:18:02ID:7v/+5/fo推定できるところがあるかもしれん
0185人間七七四年
2007/08/28(火) 21:37:44ID:BCKIWN+O高森惟直と惟居は同一人物のようです。
0186人間七七四年
2007/08/28(火) 21:42:54ID:7v/+5/fo0187人間七七四年
2007/08/28(火) 22:45:20ID:lnAep+o1そういうのを聞いたことがない。
0188人間七七四年
2007/08/28(火) 23:10:39ID:6KTyer/e0189人間七七四年
2007/08/28(火) 23:33:56ID:7v/+5/fo高森惟直討ち死にと書いてあるソースはあるのかどうなのか
0190人間七七四年
2007/08/29(水) 00:00:25ID:xSxjf6QB0191人間七七四年
2007/08/29(水) 11:51:08ID:xSxjf6QB嗣子がいなかったようだよ。養子を迎えたんだろうけどね。
>>187 坂梨家は出自がわかってるんだけどなぁ。大宮司家からすれば分かれた家まで
知らんということか・・・同じ一族で尊称するほどなら出自もわかろうに・・・
0192人間七七四年
2007/08/29(水) 11:54:31ID:HZFjPvVE0193人間七七四年
2007/08/29(水) 11:56:32ID:HZFjPvVE0194人間七七四年
2007/08/29(水) 23:51:11ID:xSxjf6QB0195人間七七四年
2007/08/30(木) 01:04:20ID:EBxG+Ydl坂梨家の出自は阿蘇一族じゃないんですか?
大宮司家からすると、庶子家との格式の違いをはっきりさせるためにも
系図に阿蘇某の子孫とされるのを嫌がったのか、
はたまた庶子のほうで遠慮があったのか
0196人間七七四年
2007/08/30(木) 08:57:22ID:q1FsyTFJ伊予守を自称だったはず
日本史板の方にあったような…
0197人間七七四年
2007/08/30(木) 13:06:50ID:MuFyMCeq出自がはっきりしてる阿蘇一族もいるけどね。ちなみに坂梨家は阿蘇一族。
大宮司家は大宮司家で、何も庶子家の出自を隠す必要もなかろうに。
>>196
その時代、いろんな役職名を名乗ってる人がおおいからね。だからといって
地方の一城主が朝廷や幕府から位を与えられたとは考えずらい。
0198人間七七四年
2007/08/30(木) 13:14:04ID:WPtSDV050199人間七七四年
2007/08/30(木) 13:23:10ID:MuFyMCeq詳しい年代は忘れたが、1350年頃、高森殿かな。・・正確じゃないかも
0200人間七七四年
2007/08/30(木) 13:28:04ID:oEsfeSt1伊予守・または伊豆守を自称
ということで200げと
0201人間七七四年
2007/08/30(木) 13:44:05ID:MuFyMCeqに推薦する。 島津の時大宮司家のために最も忠節を尽くした一族だから。
0202人間七七四年
2007/08/30(木) 13:47:15ID:MuFyMCeqただ言ってみただけです。
0203人間七七四年
2007/08/30(木) 13:55:11ID:WPtSDV050205人間七七四年
2007/08/30(木) 16:05:04ID:g7huM/97坂梨家の祖は誰から?
阿蘇家と血縁の家は家紋とか惟がついてる場合でおよそ間違いないかと。
>>201
島津に徹底抗戦したのは忠誠心からなのか野心からなのか
大友を頼りにしたかったのか結局はわからないよ。
高森攻略の軍が途中で矢部を蹂躪して浜の館は焼失した。
降伏するよう使者を送っていた大宮司家としては迷惑を被った格好。
しかも使者は切り捨てられてる。これで忠節というのはどうかと。
0206人間七七四年
2007/08/30(木) 16:07:41ID:WPtSDV05九州で挙げれば筑紫とかもだ
0207人間七七四年
2007/08/30(木) 19:06:04ID:MuFyMCeq使者は大宮司家からでなく、島津からじゃなかった?斬られたのは
島津に寝返った阿蘇家臣。
高森家は丸に違い鷹みたいだからやはり一族らいしいけど・・・
他の阿蘇家臣の家紋も違い鷹が入った紋なのかな?
0208人間七七四年
2007/08/30(木) 21:12:04ID:c9huAEFD御船の島津に矢部から出向いたりしてるから引き抜かれたわけでもない
主家からの使者を切ったとなれば、逆臣ともいえる
当主が幼少だったうえに家宰である宗運とその息子も不祥とあっては
帰順派も抗戦派も、それぞれの思惑で動いたということかと
高森がどう考えていたか興味はありますが・・・
0209人間七七四年
2007/08/30(木) 21:18:45ID:c9huAEFD筑紫は惟門だけだし
近世以降はともかく、それ以前はいくらでも合わせられる?
とは思えない
0210人間七七四年
2007/08/30(木) 21:29:36ID:WPtSDV050211人間七七四年
2007/08/30(木) 22:06:10ID:MuFyMCeq惟将は前に争った叔父、従兄弟の惟長、惟前親子が島津を頼ったので島津に対しては
かなり不信感があったと思うよ。存続させるために一応降伏という形をとったかもし
れないが。人質を島津に渡していたかはしらないけど。
0212人間七七四年
2007/08/30(木) 22:39:42ID:JBfbgszMそのときは兄弟仲良くやられてほんとに滅亡するとこだったのを
大友に嫁いでいた母のとりなしで助かった
それに島津がくるまえに大友が小国へ侵略してきてる
これは北里が持ちこたえた(すごい)けど不信感といえば大友もいっしょ
0213人間七七四年
2007/08/31(金) 20:01:49ID:BU+gsd09有名どころで光永、中村は系図ではっきりしている。
いずれも大宮司の子
0214人間七七四年
2007/08/31(金) 20:43:45ID:VzcT3otgそれは大宮司家の系図にのってるのかな?
0215人間七七四年
2007/08/31(金) 23:04:52ID:wa5kuES4確信はもてないが、信用できる
0216奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/09/01(土) 00:16:26ID:tC0tY9Xt0217人間七七四年
2007/09/01(土) 18:18:09ID:VphvDO+7惟直の二男は坂梨にいるんでしょう?
小浜の人は長男?
0218人間七七四年
2007/09/02(日) 21:35:46ID:wYjJplGw本家も何もないような・・ただ191によると小浜の人は途中で子が
いなくて養子を迎えたのであればどうか知らないけど。血はつながって
いるのかもしれないが
0219人間七七四年
2007/09/03(月) 15:29:27ID:0zi6NcFV本家も何もないだろう。後でひょっこり現れて実は本家でしたというのはどうかね〜
0220人間七七四年
2007/09/03(月) 15:31:17ID:0zi6NcFV0221人間七七四年
2007/09/03(月) 21:16:28ID:/XIdu1vZそういうのは本家とか嫡流ではないでしょうね、例えば”長男の子孫”ってだけ。。
分家のほうが自分のうちは、○○さんとこの分家と意識してなけりゃ、先祖が同じ家同士でどっちも本家だな。
田舎だと近所に何件も同じ名字の家があったりするけど、皆同じ集団(一つの本家といくつかの分家)ってわけじゃなくて、いくつかの集団が集まっている場合があるのと同じですね。
足利さんと新田さんはどっちが本家なのかって話は無意味だし。
嫡流うんぬんの話題を出すと変に荒れたりしますね、この手の板は。
0222奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/09/03(月) 23:01:30ID:LRBbN8am0223人間七七四年
2007/09/04(火) 00:03:51ID:dFdois5pという概念もあまり意味ないかもしれん。ただ直系であることと、昔から
姓がかわってないことは大切にしたいものだけどね。ということはなるべく
男子が生まれることが望まれる・・・こういうのは男女差別になるのかな??
0224人間七七四年
2007/09/05(水) 11:21:32ID:GY7/vBk30225人間七七四年
2007/09/05(水) 11:31:04ID:ht+fr4Nxhttp://www.google.com/search?hl=ja&q=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%80%E5%8F%A4%E3%80%80%
E7%A5%9E%E7%A4%BE&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
0226人間七七四年
2007/09/05(水) 12:41:32ID:GY7/vBk3に載ってたよ
0227人間七七四年
2007/09/06(木) 13:42:42ID:1QcRsUxn0228人間七七四年
2007/09/06(木) 15:19:28ID:5O78BkzKhttp://www.yado.co.jp/tiiki/asakura/oonamutij/oonamutij.htm
0229人間七七四年
2007/09/07(金) 02:46:12ID:jQ/Xvj5e0230人間七七四年
2007/09/07(金) 10:46:47ID:RVTcgDue0231人間七七四年
2007/09/07(金) 12:21:09ID:BWO1OKcR森高千里自体が熊本生まれで高校途中まで熊本市育ちだし、芸名じゃなくて本名だから”母方が熊本出身で、森高千里の本名の名字が高森”ってことなら間違いですね。
ガキの頃一緒に幼稚園や学校に通った知り合いだけど、母親の旧姓までは知らない。
実家が阿蘇で喫茶店はじめたという話は聞いたことはあるけど、観光地だから地縁・血縁関係ないのに店開いた可能性もあるから、
それだけでは阿蘇と縁がある家とは断定できないかと。
阿蘇出身の高森姓だとしても明治以降に勝手に名乗った可能性もあるし。
0232人間七七四年
2007/09/07(金) 15:06:19ID:RVTcgDueへぇ〜その喫茶店って阿蘇のどこにあると? 高森?
0233人間七七四年
2007/09/08(土) 23:15:44ID:hWCPTVgM0234人間七七四年
2007/09/09(日) 20:54:09ID:3JoJnKuk高森、甲斐あたりのことも面白いと思うし。大河ドラマはムリと思うけど
0235人間七七四年
2007/09/10(月) 01:01:42ID:kZ+9FiBO0236人間七七四年
2007/09/10(月) 01:05:19ID:EJ1xw/jv本拠が阿蘇から離れているのもわかりずらい。
何をめざしていたのか、よくわからない。
0237人間七七四年
2007/09/10(月) 01:28:32ID:kZ+9FiBO0238人間七七四年
2007/09/10(月) 13:56:37ID:kZ+9FiBO0239人間七七四年
2007/09/10(月) 16:19:37ID:hCXYJz4D何で比較してるの?
0240人間七七四年
2007/09/10(月) 16:56:28ID:DrzrWcI90241人間七七四年
2007/09/10(月) 18:41:06ID:kZ+9FiBO神話の系譜によると諏訪は阿蘇の支族
0242人間七七四年
2007/09/10(月) 19:31:13ID:kZ+9FiBO0243人間七七四年
2007/09/10(月) 20:23:06ID:hCXYJz4D大名として存続できなかった、とか。
あと諏訪については戦国板にスレある。
0244人間七七四年
2007/09/10(月) 23:18:53ID:mkaC1Fmnそういう動きないよ。争う菊池三家老のいずれかに組して
影響力拡大をねらってもよさそうなもんだが。
そもそも長男の惟長が養子にいくのが不可解。
しかもすぐに追い出されるという計画性、主体性のなさ。
そのなかで甲斐宗運だけが着々と勢力を拡大している。
0245人間七七四年
2007/09/11(火) 00:12:12ID:7pGaSHxU長男が養子になるのは変ではないと思うが
阿蘇と菊池ほど近い間柄なら余計に
0246人間七七四年
2007/09/11(火) 00:17:34ID:51cPg8Dv大宮司家嫡男としては失格だよね。追放されて当然。しかも、惟長の嫡男はいち早く島津に
寝返ったから、勘当ものだと思う。
0247人間七七四年
2007/09/11(火) 01:12:46ID:awk62t4x謙信の場合が想起されるが家督を捨てたわけじゃない。
これでは菊池と阿蘇の関係は対等かそれ以下にしかならない。
惟長の野心はともかく、阿蘇家にとってメリットがすくない。
ちなみに義鎮は弟を大内へ養子へやっているが、結果はあぼん。
家臣が主君を滅ぼすところへ好んで乗り込んでいく者はがいるとは・・・
0248人間七七四年
2007/09/11(火) 01:42:21ID:lyCfY9tP0249人間七七四年
2007/09/11(火) 01:51:00ID:51cPg8Dvを望んだのだろうが、菊池家当主になるなら阿蘇家にはメリットないね。
大宮司は弟惟豊に譲って、自分は肥後守護になって大宮司家にその恩恵を与えられるなら
いいけど、それなら阿蘇惟長として肥後守護になるべきだった。でも菊池家臣が
そんなことはさせなかったのであろうが。
こんな時、もし甲斐宗運だったらどういう作戦を立てたかな?
0250人間七七四年
2007/09/11(火) 16:55:08ID:7pGaSHxU惟長は野心があるから菊池を乗っ取ったわけで、弟が継いだ阿蘇の事考えてないのは当然というか…
そこで宗運の話を持ち出すのは変だよ、惟豊と惟長は戦略自体違うんだから
0251人間七七四年
2007/09/11(火) 18:48:44ID:51cPg8Dv宗運は仮の話だから、気にしなくて良いです。
0252人間七七四年
2007/09/11(火) 19:27:44ID:4tmS6Pqj大友がゆるすばすがなかった
阿蘇家が天草に浸透して島津に対して相良と協調できる態勢なら
もうすこし頑張れたかもしれない。
0253人間七七四年
2007/09/11(火) 19:50:54ID:51cPg8Dvほとんど島津に属したけど、結局大宮司家は島津に滅ぼされたけどね。
0254人間七七四年
2007/09/11(火) 19:57:11ID:7pGaSHxU阿蘇家の動き次第で肥後の情勢が一変するならともかく…
0255人間七七四年
2007/09/16(日) 01:14:29ID:QDQllxdg相良の二倍はある
それでも相良のほうがはるかに積極的な活動を見せた
阿蘇は守護大名的な性格がつよかったせいか、受動的でありつづけた
0256人間七七四年
2007/09/16(日) 17:49:11ID:PIHRIE0n0258奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/09/16(日) 22:57:54ID:6CGdeZ2O0259奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/09/16(日) 22:59:32ID:6CGdeZ2O0260人間七七四年
2007/09/16(日) 23:32:15ID:PIHRIE0n奥地に居る武将っぽかった。
0261人間七七四年
2007/09/16(日) 23:45:03ID:cpPcMdQT0262人間七七四年
2007/09/16(日) 23:59:14ID:PIHRIE0n様子を描いた絵を見たことがある。
0263人間七七四年
2007/09/17(月) 18:37:42ID:t9a26be40264人間七七四年
2007/09/17(月) 19:47:10ID:VvkuUBu6熊本平野なんてもっと広いし
0265人間七七四年
2007/09/17(月) 23:49:52ID:t9a26be40266人間七七四年
2007/09/18(火) 00:03:33ID:ivPAGN1tまあ阿蘇家の本拠はそれほどでもないけど、社領あるからね〜。
0267人間七七四年
2007/09/18(火) 00:13:19ID:ObkK/m8Gともあろうお方が子供つくらなかったのかな。
0268人間七七四年
2007/09/18(火) 00:43:44ID:zgzD+Hjr丘陵地帯は森で開墾やら灌漑が大変すぎて国人領主の手に余る
低湿地は河川が頻繁に氾濫、治水はやっぱり国人領主の手に余る
小領主連合体の戦国大名も状況はいっしょ
0269人間七七四年
2007/09/18(火) 20:09:55ID:ivPAGN1t0270人間七七四年
2007/09/18(火) 21:07:31ID:8IY5Ausi0271人間七七四年
2007/09/18(火) 23:01:34ID:ivPAGN1t0272山鹿鎮信 ◆T145deGoxA
2007/09/18(火) 23:12:33ID:xNQYilbA0273人間七七四年
2007/09/18(火) 23:13:33ID:ObkK/m8G0274人間七七四年
2007/09/19(水) 01:45:00ID:v9WQOLLx0275人間七七四年
2007/09/19(水) 07:19:48ID:TS/RRX8oあまり詳しくないもんで
0276人間七七四年
2007/09/19(水) 21:15:44ID:ZqMQ6EK2森高千里って阿蘇の高森町出身?だとしたら坂梨高森家とは関係ないかもしれないね。
惟直の子孫は高森落城以後、高森町には住んでいないようだから。
0277人間七七四年
2007/09/20(木) 19:42:42ID:zkhNOagl勝手に名乗って、自分はその子孫であると言ってる人はいると思う。
0278人間七七四年
2007/09/22(土) 12:49:07ID:kRxdC1nE0279人間七七四年
2007/09/23(日) 23:08:14ID:jsHPu0x6、その有力一族の3万5千石というのも驚くほどではない。
0281人間七七四年
2007/09/24(月) 08:13:29ID:WKWom44C清正・行長の石高みても、阿蘇氏が35万石ってのは誇張があると思うけど。
0282人間七七四年
2007/09/24(月) 12:15:17ID:DLBSTqldだったと思われるが、兵力が大したことなかったんだろうね。
0283人間七七四年
2007/09/24(月) 13:54:18ID:tBVJB38U0284人間七七四年
2007/09/24(月) 14:46:21ID:DLBSTqld0285人間七七四年
2007/09/24(月) 17:40:49ID:v/JoK3WQ35万石水戸家なみとかありえん
0286人間七七四年
2007/09/24(月) 17:52:21ID:DLBSTqld0287人間七七四年
2007/09/24(月) 18:18:54ID:ignxzbF20288人間七七四年
2007/09/24(月) 18:29:29ID:BwiEEqPg実在の人物?
0289人間七七四年
2007/09/24(月) 18:33:07ID:DLBSTqld高森やら甲斐はよく聞くが、斉藤はないね。でも家来はたくさんいただろうからいたかもしれんね。
0290人間七七四年
2007/09/24(月) 23:53:13ID:DACI0CcG菊池や今の熊本市あたりは菊池系の国人が支配しているし、宇土も名和氏、八代は相良氏がいるから一部を支配していたとしても
対したことないと思う。
主な領地は阿蘇・益城だけなんじゃないの。いろいろ合わせて10万石くらいじゃないのかな。
0291奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/09/24(月) 23:56:12ID:ramTMTASそれはそうと神祇伯の白川家は正四位が基本だったよね。
0292人間七七四年
2007/09/25(火) 03:44:37ID:ea8UC30J阿蘇・益城だけで15万以上
宇土郡も半島部分は知行、詫麻郡の健軍社
末期は白川以南の飽田郡まで進出
0293人間七七四年
2007/09/25(火) 23:15:57ID:YKnEyuM90294人間七七四年
2007/09/26(水) 00:02:36ID:W4CAJUONその権利だけの土地全部と、近世の開発がすすんだ石高をあてた
どこかの阿蘇マンセーの数字だから
0295奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/09/26(水) 00:03:38ID:K2tf9PUC0297人間七七四年
2007/09/26(水) 21:54:30ID:V0pE0AI0〃ニ;;::`lヽ,,_ ≡ 彡 ,,,,,、 ,,,,、、 ミ;;;!
〈 (lll!! テ-;;;;゙fn __,,--、_ .. ,ゞi" ̄ フ‐! ̄~~|-ゞ, ≡
/ヽ-〃;;;;;;;llllll7,,__/" \三=ー"."ヾi `ー‐'、 ,ゝ--、' 〉;r' ≡ オランウータンとか呼ぶな
>、/:::/<;;;lllメ \ヾ、 ヽTf=ヽ `,| / "ii" ヽ |ノ
j,, ヾて)r=- | ヾ: :ヽ;;: | l | l ''t ←―→ )/イ^ ≡ 結構気にするタイプだから
,イ ヽ二)l(_,>" l| ::\;:: | | | ヽ,,-‐、i' / V
i、ヽ--イll"/ ,, ,//,, :;; l // l く> /::l"'i::lll1-=:::: ̄\ 所詮サルですから・・フフ
ヾ==:"::^::;;:::/;;;;;;;;;:::::::::::::: :::::ゞ ノ/ L/〈:::t_イ::/ll|─-== ヾ
\__::::::::/::::::::::::_;;;;;;;;;;;;;;;;;ノノ ヘ >(゙)l:::l-┴ヾ、ヽ )
 ̄~~ ̄ ̄/ :::|T==--::::: // / ト=-|:|-─ ( l /
/ :: ::l l::::::::::::::::::/ /:::::::::::/:::::(ヽ--─ / | /
ヽ_=--"⌒ ゙゙̄ヾ:/ /:::::::/:::::::::`<==-- ノ / /
/ / \/::::::::::::::::::::::::::::: ̄'''"":://
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0298人間七七四年
2007/09/26(水) 22:27:18ID:NEg36+eM>阿蘇・益城だけで15万以上
おいおい、過大じゃないか? と思ったので調べてきた。見たのは熊本県の歴史 だったかな、本の名前控えてなかった。orz
左は天正16年加藤清正領知目録 (だから小西の領地の分が抜けている)
右は寛永11年肥後国な并豊後の国内郷帳より
単位は万石、もっと細かい数値載っていたけど100石単位で4捨5入してます 分類は郡別。
飽田 3.2 5.1
詫麻 1.3 1.9
山鹿 1.2 3.3
菊池 1.6 2.6
合志 2.2 3.5
阿蘇 4.1 5.5
芦北 0.7 1.8
玉名 4.4 7.4
山本 0.9 1.7
宇土 2.6
益城 12.4
八代 4.3
合計19.5 32.8
左のデータは豊臣家直轄領が抜けていて、葦北0.4 他に石高は判らないが高瀬周辺(玉名)、隈本周辺(託麻)や小西領の八代などにもあったらしく肥後全体で8万石くらい、
また 山鹿の伸びが大きいのは、国衆一揆で隈部氏の勢力が徹底的に弾圧されて 隠し田なんかも皆暴かれたからじゃないかと、この項書いた人は推測していました。
寛永11年の阿蘇 益城合計だと17.9万石、 益城の生産力すごいな。
でも個人的には画図湖・緑川・加勢川の清正による治水工事が大きく影響している気がしなくもないです。
まあざっくり15万石ってのは当たってると思いました。
0299298
2007/09/26(水) 22:45:19ID:NEg36+eM太閤検地のデータ(えらくアバウトなんで差出しとかの不確かなデータも入ってるんじゃないかと筆者の人は推測)
飽田 550町
詫麻 1100
山鹿 550
菊池 1000
合志 1800
阿蘇 3000
芦北 深水分のほか と記載
玉名 3800
山本 550
宇土 1000
益城 1500
八代 3800
その他、天草350 川尻(なんで郡じゃないのに分けてあるんだろ)300
天正5年に竜造寺勢力が肥後に進出したときのデータ(赤星以下は名前略しました)
隆信公御家中着到
阿蘇大宮司 4300町
甲斐宗運 1200
赤星 3000
城 3000
隈部 1900
相良 3000
内空閑 1500
小代 1300
名和 1000
島津が水俣獲る前なので相良は球磨+八代+葦北なのかな。
甲斐氏の勢力と合わせて、他の有力国衆の2〜3倍くらいの勢力って評価ですかね。
0301人間七七四年
2007/09/26(水) 23:39:04ID:V0pE0AI035万石って言った人の根拠はなんだろうね
0302人間七七四年
2007/09/27(木) 06:45:29ID:wq32ToTP0303人間七七四年
2007/09/27(木) 18:10:05ID:aHXYdOEC0304人間七七四年
2007/09/27(木) 19:39:11ID:rYrCSq6M0305甲斐党員
2007/09/27(木) 21:19:43ID:2i68kO1/不明です。。
0306人間七七四年
2007/09/28(金) 09:36:16ID:UAJe9t0Yもとより伝承の域を出ないとも言われるが、どちらが正しいのかな?
〜源氏、〜平家の末裔といわれる多くの家系よりは信憑性があると思うのだが。
0307人間七七四年
2007/09/29(土) 17:45:43ID:eGBxpsY3仏木坂で討ち取られたって書いてあったり黒田さんとこの熊之助といっしょに溺死したって言ったり、
あと奥さんが甲斐宗運の孫って、兜梅のお京と毒殺孫が同一人物って事?
0308人間七七四年
2007/09/30(日) 01:18:50ID:yj/naxaS0309甲斐党員
2007/09/30(日) 02:01:57ID:rcKaOIBR阿蘇氏より惟を名乗る事を許されたからでしょう。甲斐宗運入道親直も別名『惟親』ともいいます。
大友宗麟からは義鎮の鎮の字を賜り『鎮親』の名を贈られている。ちなみに息子の親秀は『鎮隆』ともいう。
普通、主従の関係ならば、義鎮→鎮親というように下にある字を下賜されるはずであるが…
同等に『惟』の字を先に名乗る事を許されたという事は、かなり一目置かれた存在の者であったのではないだろうか。
0310人間七七四年
2007/09/30(日) 11:19:16ID:yj/naxaS北里氏も阿蘇家一族じゃないのに『惟』がついてるしね。
そういえば阿蘇24城の中で阿蘇一族じゃない人も甲斐、木山、北里くらいかな
0311甲斐党員
2007/09/30(日) 12:34:43ID:rcKaOIBR結構『惟』という字を使っている国人衆は多い。。 阿蘇家特有の決まり事でもあったのかも知れない。。
0312人間七七四年
2007/09/30(日) 13:41:30ID:yj/naxaS島津方の仁田水と村山は高森に説得に来て、仁田水は斬られてるね。でも、高森、村山、仁田水らは
協力して大宮司惟光を匿ったりしてる。高森城で対面した高森、村山、仁田水と、後で協力してる各氏は
どういう関係だろうな。あるいは関係ないとか。
0313人間七七四年
2007/09/30(日) 20:42:14ID:ZK3NuyIW0314人間七七四年
2007/10/01(月) 00:53:29ID:kwo2Sgulたいていは石碑があったりするだけだけど
0315人間七七四年
2007/10/01(月) 08:36:39ID:KUlGhVlG一族外でもそんなに分けて考えてなかったとかもありそうですが。
竹崎って竹崎季長の子孫?季長も出自がはっきりしないんだよね。
見たことあるのは阿蘇氏・菊池氏・益城郡司(火の君)の末裔説とか。
0316人間七七四年
2007/10/01(月) 11:38:06ID:kwo2Sgul肥後武士団の代表的存在だったからだろうね。本当はどっちか分からんけど(どっちでもないかも)。
0317人間七七四年
2007/10/01(月) 23:11:10ID:qblxM6BM石垣にこだわるなら戦国の城は理解できない
0318人間七七四年
2007/10/03(水) 20:04:27ID:CdWmrXnD0319人間七七四年
2007/10/03(水) 21:24:11ID:A0HFYDcF肥後で?
だとしたら、相良とかかな…。
0320人間七七四年
2007/10/03(水) 21:27:07ID:CdWmrXnD0321人間七七四年
2007/10/04(木) 22:52:46ID:nKKHjOQR0322人間七七四年
2007/10/05(金) 11:03:42ID:rOqyV0ah0323人間七七四年
2007/10/05(金) 23:26:53ID:+5J8a0/y0324人間七七四年
2007/10/06(土) 10:16:13ID:JdEriU/u0325人間七七四年
2007/10/10(水) 14:56:38ID:sgLfgE6O0326人間七七四年
2007/10/13(土) 22:46:41ID:d2rXm3oj0327人間七七四年
2007/10/13(土) 23:32:45ID:aPPeF2yr朝廷の官職についてなにもしらないんだろ?
だったら聞いても意味ないと思わないか?
>>326
本姓と名の意味がわかってないのにに聞いてもしかたないだろう
最低限の知識もないのにこんなマイナーなスレに参加するなって
0328人間七七四年
2007/10/14(日) 00:10:29ID:RpxmuVh90329人間七七四年
2007/10/14(日) 00:41:57ID:Hd4VL/Ne0331人間七七四年
2007/10/14(日) 12:47:47ID:cIcB+pdh従二位・阿蘇大宮司ということになってる。
>>326
それは足利氏とかがなんで源氏といわないか、というのと同じ問題。
0332人間七七四年
2007/10/14(日) 12:58:45ID:hboIk5vf>それは足利氏とかがなんで源氏といわないか、というのと同じ問題。
ん?阿蘇って名字なの?
姓を阿蘇にかえたんじゃないの?
延喜年間に名字があったとは思えないけど。
0333人間七七四年
2007/10/14(日) 14:28:36ID:2XJB74JKそりゃ、延喜年間に戦国時代の意味での本姓・名字はない。
あくまで氏姓であって姓(本姓)と氏(名字)が明確に分割される前の話なんだからな。
宇治君部の氏姓は応神朝で宇治部舎人を勤めた為に与えられたもの。
あくまで職能を表す氏姓ということに注目。
八色の姓以降(朱鳥二年)に宿禰姓を賜るが氏は宇治のまま。宇治宿禰角足。
このときの宇治は宇治君部の子孫であることを表しているだけ。
阿蘇国造という姓は欠史八代の時代のもので、職能を言うのならば
阿蘇の国の支配権を与えられたもの。もしくは祭祀権をもつもの。
八色の姓には入らない為、本姓ではない。
宇治と阿蘇どちらのほうが権威を持たせられるかは
阿蘇宮司としての権威を高めたいならば自明だよね。
0334人間七七四年
2007/10/14(日) 20:25:16ID:wEkkeiFu>宇治と阿蘇どちらのほうが権威を持たせられるかは
>阿蘇宮司としての権威を高めたいならば自明だよね。
だから、それは
>>331
>それは足利氏とかがなんで源氏といわないか、というのと同じ問題。
とは違うんじゃないの?って言っているのだが。
権威を高めるために源義康の子孫が足利氏を称したのか?
逆だろ、頼朝が源○○って称することを自分の家系だけに限定することで権威を高めるために、他の源氏の武士たちを
幕府内で名字で呼ぶようにしたんだから。
この足利氏の例がどう阿蘇氏の話と同じなの?
0335人間七七四年
2007/10/14(日) 23:28:58ID:RpxmuVh90336人間七七四年
2007/10/14(日) 23:53:44ID:2XJB74JK姓を阿蘇に変えたとか馬鹿なこと言ってるからつっこんだんだろうが。
足利云々とかって話を関係ない俺に火病って喚くな!
戦国時代みたいな明確な本姓と名字って考え方はなくとも
大本の氏族があってその分家の氏族って考え方は普通にあった。
宇治君部の本姓を与えられた氏族がその後、阿蘇評督の職権を与えられた。
この職権を指して氏族名として阿蘇を標榜し、阿蘇国造の末裔とも称した。
ただし、朝廷から与えられた氏姓はあくまで宇治君部であり、
自領内では阿蘇を名乗ることはあっても朝廷に対しては宇治姓を使い続けた。
名字が一般化してきた頃に対外的に阿蘇が名字ですと正式に名のり始めた。
>逆だろ、頼朝が源○○って称することを自分の家系だけに限定することで権威を高めるために、他の源氏の武士たちを
>幕府内で名字で呼ぶようにしたんだから。
大嘘つくな。鎌倉幕府以前から名字あった 。
新たな氏姓が賜られることが減り、同一氏姓の族人が増えてくると
荘園名・領地名を指して名字とするのが一般化した。それは鎌倉幕府成立以前の話。
0337人間七七四年
2007/10/15(月) 09:11:19ID:Kb8fpJtQ>大嘘つくな。鎌倉幕府以前から名字あった 。
バカですか? おれがそのとき初めて名字が出来たって書いていますか?
名字は平安時代からあるよ、公式なものじゃなくて、他者と区別する符号みたいなものだからどっちでも呼ばれることがある。
足利氏の初代とされる足利義康は保元の乱のときは、源義康として出てくる。
だけど、頼朝が政権握ったあとには、源○○ってかたちで名乗ることを名誉なこととして、清和源氏の中でも限定された人間に限ったんだよ。
選ばれなかった者は、公式の場でも名字しか名乗れない。
門葉でググレ。
>それは足利氏とかがなんで源氏といわないか、というのと同じ問題。
って回答だと、阿蘇と称した時点でそれを名字としたと、質問した人が誤解するだろうから突っ込んだんだが。
横から出てきて詳しい解説ありがとう。w
0338人間七七四年
2007/10/15(月) 12:06:51ID:EmhGpsGz0339人間七七四年
2007/10/15(月) 21:16:59ID:HobPgnvW現在の千家氏・北島氏は「出雲国風土記」を編纂した出雲国造家の子孫。
現在の阿蘇氏は平安時代に阿蘇大宮司家が世襲制になってからの子孫。
世襲制になる以前ももちろん阿蘇国造家の一員であったろうから、古いことは間違いない。
ただ、一つの「家」としての古さとなると、出雲国造家から続く千家氏・北島氏のほうが古いと言える。
0340人間七七四年
2007/10/15(月) 23:03:05ID:EmhGpsGz神八井耳命からの阿蘇系図があるけど、信用できるのが平安初期くらいからってことかな?
阿蘇国造のときから世襲制だったと聞くがこれはあやしいの?
0341人間七七四年
2007/10/16(火) 22:15:36ID:p/usTbmS甲斐さんって人が出てた
持ってきた「宝物」は思いっきり土産物だったようだがw
0342人間七七四年
2007/10/16(火) 23:23:31ID:KaXEE3x70343人間七七四年
2007/10/17(水) 02:53:39ID:YxJHLffCその辺はかなりややこしい問題を含んでいたりする。
ttp://shushen.hp.infoseek.co.jp/hitori/murasaki/kentou1.htm
ここが参考になるかもしれない。
わりと独断的な意見が多いが(研究サイトであやふやな文章なんか書くわけないが)、
史料名が具体的に挙げられているので、本当にこれが正しいのか? と思ったら、
自分で図書館等を利用して調べて正誤を自分自身で確認することが可能だ。
阿蘇氏に興味があるなら読むといいかも。
個人的には本家(国造家阿蘇氏)が衰退したため分家(宇治姓阿蘇氏)が国造家を継承し、
阿蘇大宮司職を世襲するようになったと解釈している。
0344人間七七四年
2007/10/17(水) 09:29:53ID:ZJpMf0aM参考にします。 ありがとう
0345人間七七四年
2007/10/18(木) 10:56:54ID:IOEAt2A9小国 石金 ・・・も跡をついで国造なのかな。
分家ということは美穂主命と宇治部武擬人は親子ではない?
0346人間七七四年
2007/10/19(金) 01:09:26ID:fRI8yVz9>>343のサイトでは、美穂主命が阿蘇国造の初代と推測し、
武凝人は宇治部を称して皇室領を把握したためその兄弟が国造を継承したのではないかとしている。
国造家阿蘇氏…本家。宇治部武凝人の兄弟の子孫。
宇治姓阿蘇氏…分家。宇治部武凝人の子孫。
小国・石金ら武凝人の子孫はあくまで宇治部であり国造家ではなかったのではなかろうか。
当時は必ず長男が家督を継ぐという原則は無いから、本家・分家という概念は無かったろうけど。
古代日本は末子相続だったとも言われるからね。
つか、この応答って絶対戦国時代スレじゃないよな。
0347人間七七四年
2007/10/19(金) 15:17:51ID:hA173/6H国造を継いでもよかったのにな。ま、真相は分からないけどね。
0348人間七七四年
2007/10/20(土) 11:08:19ID:EeptVEKA阿蘇家には昔から結構いるのに。
0349人間七七四年
2007/10/20(土) 18:35:13ID:JJtiULpE0350人間七七四年
2007/10/21(日) 04:01:07ID:CRJKbbVf一疋≒十文
百疋≒一貫
二万疋≒二百貫
ちなみに1543年に織田信秀が朝廷に献納したときの金額は四千貫。
疋に直すと約四十万疋となる。
0351人間七七四年
2007/10/21(日) 10:46:40ID:0Ichd1Rk>従二位になった時の「二万疋」ってどのくらいなんだろ?
>二万疋≒二百貫
今谷明の「戦国大名と天皇」の記載だと100貫ってなってますが。
天皇に対して100貫、取次などの関係者への贈答・使者の交通費などの諸経費も合わせて200貫ってことなのかな。
天皇に対する官位のお礼は、20貫+太刀一振〜100貫ってのが相場って書いてありました。
>>350
>ちなみに1543年に織田信秀が朝廷に献納したときの金額は四千貫。
同じ内裏の修理費としては、阿蘇惟豊が100貫献上していますね。
0353人間七七四年
2007/10/21(日) 20:04:30ID:1wbPfpN00354人間七七四年
2007/10/23(火) 16:29:41ID:209Ln8bJ0355人間七七四年
2007/10/25(木) 18:46:52ID:NfpFlq380356人間七七四年
2007/10/26(金) 21:34:13ID:ZGoQAXDX0357人間七七四年
2007/10/26(金) 21:48:16ID:MM5fMNVn0358人間七七四年
2007/10/26(金) 22:01:07ID:ZGoQAXDX0359人間七七四年
2007/10/27(土) 13:13:16ID:o16wf0j70360人間七七四年
2007/10/29(月) 17:28:10ID:7Njuzv/n0361人間七七四年
2007/10/29(月) 20:09:47ID:pLrjSNsJ阿蘇大宮司、高森殿、甲斐宗運、35万石
0362人間七七四年
2007/10/29(月) 20:16:17ID:RRS1LTBQ田舎大名のつらさか
0363人間七七四年
2007/10/29(月) 21:08:37ID:pLrjSNsJ九州の中では格段に『偉い人』のはずなのにな。やはりどの時代も武力がものを言うのか・・・
0364人間七七四年
2007/10/31(水) 17:13:08ID:6erKFzbj少なくとも相良氏はマイナーではないと思う。
アントニオ猪木の母方として知名度は全国区のはずだ。
アントニオ猪木の実兄の相良寿一が参議院選挙に出るなど露出度は高い。
0365人間七七四年
2007/10/31(水) 17:36:03ID:Q2m6QmY3阿蘇氏なら、長野とか千葉みたいに「地名系の名字?」という認識しかされないだろう…全部有名氏族だが
0366人間七七四年
2007/10/31(水) 18:55:40ID:4JXfjotv学習院大学にも馬車で通われていたれっきとした華族令嬢。
なので兄のほうは母方の相良姓を名乗った。
もちろん弟は父方の横浜の商家の苗字をそのまま使ったけど。
0367人間七七四年
2007/10/31(水) 20:45:35ID:Q2m6QmY3格闘技詳しくないから分からない…
0368人間七七四年
2007/10/31(水) 23:38:04ID:ITmbdz1X0369人間七七四年
2007/11/01(木) 08:23:59ID:yJCb/Sbj現女当主の方も高齢で子息がいないみたいだし
相良は平成で完全に断絶するね
0370人間七七四年
2007/11/01(木) 12:10:55ID:IiSAqTlq女当主とかありうるの?たいていその場合は養子を迎えると思うけど。
0371人間七七四年
2007/11/01(木) 14:44:03ID:MveuIo1Vそれはどうかな
>女当主とかありうるの?たいていその場合は養子を迎えると思うけど。
それもどうかな
0372人間七七四年
2007/11/01(木) 19:31:30ID:ON1lv7mR米良氏は徳川大名でも何でも無かった。
日向米良地方の名家旧跡ということに過ぎなかった。
もちろんお目見えでも徳川に対する臣従の礼も取っていなかった。
ところが不思議な事に米良家は江戸への参勤交代は行っていた。
財政面が逼迫していたので江戸市中に屋敷を構える余裕は無く
江戸滞在中は赤坂の人吉藩藩邸に寄寓していた。
明治維新後華族の列に加わり本来の菊池姓に復帰した。
菊池男爵が貴族院において天皇機関説の美濃部博士を糾弾した事は良く知られている。
0373人間七七四年
2007/11/01(木) 21:05:16ID:7a7fWEHShttp://sports11.2ch.net/test/read.cgi/parksports/1193830877/l50
0374人間七七四年
2007/11/02(金) 09:36:47ID:+65OHGFu分からないね。子孫の家には資料が残ってて色んな興味深いことなんか書かれ
ているのだろうな。
0375人間七七四年
2007/11/02(金) 14:53:46ID:BzaLH2LI0376人間七七四年
2007/11/03(土) 13:17:27ID:4bkVxKkg虚しいけどね。あまり意味ない。
0377人間七七四年
2007/11/04(日) 18:06:21ID:ZaBUM1aa0378人間七七四年
2007/11/04(日) 19:14:36ID:ksFguPjR0379人間七七四年
2007/11/04(日) 21:46:32ID:ZaBUM1aaのほとんどは関係ないと思うけど。阿蘇品という地名もあるからね。
0380人間七七四年
2007/11/06(火) 14:11:56ID:EHZgK3Dy0381人間七七四年
2007/11/06(火) 20:02:45ID:FRo+0t1d古いけど
というか、阿蘇氏についてはネタ切れですか
0382人間七七四年
2007/11/06(火) 21:10:38ID:EHZgK3Dy今日も自分とあなた(381)くらいだろう。一族とか石高の話のときは結構活発だったな。
そういえば細川家も1回しか阿蘇神社に参拝してないし、江戸以降から阿蘇家は無視されてんだよ。
注目してるのは我々くらいじゃないか。
0383人間七七四年
2007/11/08(木) 16:18:52ID:SD8XpcDC0384381
2007/11/08(木) 16:44:59ID:Gj+PuqB8自分もそこまで詳しくないしなあ。
0385人間七七四年
2007/11/08(木) 20:36:25ID:SD8XpcDC大宮司家の一族の中で誰に関心がある?
0386人間七七四年
2007/11/11(日) 23:53:50ID:BcrSzLvK0387人間七七四年
2007/11/13(火) 22:03:16ID:yGnynaKF0388人間七七四年
2007/11/17(土) 20:26:43ID:GEIO7jltここ読んでちょっと興味もった。
あと、個人で美術館やってるとこがあるけど、あそこ阿蘇家の末裔じゃなかったっけ?
(てゆーかまだ美術館やってんだろうか?)
0389人間七七四年
2007/11/17(土) 20:34:11ID:GEIO7jlt追加 388デス。
落ち延びて細々と続いてる。(下っ端が落ち延びて上の人は死んだりとか
そんな感じじゃなかったっけ。オヤジが語ってたけど興味ないから聞き流してたw
よって間違ってるかも。)
0390人間七七四年
2007/11/18(日) 00:41:13ID:7hIBsR7t答えたくなければどうか気にしないで下さい。
0391人間七七四年
2007/11/19(月) 01:19:44ID:dwd0JUybwikiによると
領国の集権化、特に被官・家臣の統制を強化
が重要な目安になるようだけど
0392人間七七四年
2007/11/19(月) 09:28:55ID:Ulb/jMBpをしてないし(内紛はあったが)、武力によって外に領土を広げた印象はない。肥後全般について
言えることだけど、周辺国の大名に翻弄された感はある。薩摩島津にかなり抵抗した殿様もいたようだね。
0393人間七七四年
2007/11/20(火) 15:43:55ID:xoquW12Y0394人間七七四年
2007/11/20(火) 23:58:55ID:ejj5x/jJもっと一族大事にしろや
0396人間七七四年
2007/11/21(水) 23:55:13ID:2tREF28w0397人間七七四年
2007/11/22(木) 00:28:43ID:/Wmv+YUT0398人間七七四年
2007/11/22(木) 02:18:53ID:G1R1KX+R0399人間七七四年
2007/11/22(木) 20:09:12ID:jGuS3mhR系図サイトから戦国期の人物だけを抜き出せばいいだろ。
阿蘇氏の系図を掲載しているサイトはググればいくつかすぐに出る。
0400人間七七四年
2007/11/28(水) 10:19:38ID:ZQ8ArQEC0401人間七七四年
2007/11/28(水) 20:45:53ID:BHGFsT6Y阿蘇氏に支流はないと思うよ。
0402人間七七四年
2007/11/28(水) 21:41:41ID:E77uPqSu最後の当主治時が、鎌倉幕府滅亡後、出家して降伏したけど許されず処刑。
殺されたとき16歳なのでおそらく子孫はいないと思われ。
0403人間七七四年
2007/11/29(木) 18:00:42ID:1vhTCkzb0404人間七七四年
2007/11/30(金) 17:06:39ID:vT0eQXb+肥後ってほんとうに
名和氏だとか佐々氏とか細川氏とか日本史の材料の宝庫だね。
0405人間七七四年
2007/11/30(金) 17:13:36ID:vT0eQXb+織田氏や松平氏のように神主出身という家の名乗りは結構多い。
阿蘇氏は国司家や守護家と並んで「上国使」という特別の政治的ステータスを
肥後国内で保有していた。九州北部では国一宮の座を巡って争いがあったが
南九州では一宮の地位は古代から江戸時代まで一貫していた。
やはり阿蘇氏の絶対的地位は国司家や守護家といえども侵せないものだろう。
0406人間七七四年
2007/11/30(金) 17:42:08ID:mAI47rAY特に顕著なのが鎌倉末期、南北朝の阿蘇惟時の時代で、九州では大友氏、島津氏、阿蘇家にしか綸旨を
渡さなかったと本に載ってた。天皇も親王もかなり阿蘇惟時を頼ってたみたいだし、幕府から薩摩国守護、
朝廷から肥後国上使に任じられてる。
大宮司家は武士集団としては大して強くなかったらしいけど、由諸ある名家として尊重されてたんだろう。
0407人間七七四年
2007/11/30(金) 21:17:58ID:mAI47rAY惟時を薩摩守に任じたのは朝廷側だった。
0408人間七七四年
2007/12/01(土) 12:01:37ID:B6oigu5d再スタートしてる。
0409人間七七四年
2007/12/06(木) 02:28:51ID:8QpC9Q9Vおかげで先祖の事がぜんぜん分からん
関東なら国人レベルの出自でも平安末期まで辿れるのに
0411人間七七四年
2007/12/06(木) 09:54:05ID:o2G9n9dV0412人間七七四年
2007/12/06(木) 20:26:33ID:wMgedfLi逆じゃないのかな。
江戸時代の成りあがりの武士なら、初代の出身は不明と正直に述べた例もあるだろうけど
室町時代あたりの国人だと、無理にでも平安初期あたりに先祖を結びつけるのでは。
0413人間七七四年
2007/12/07(金) 22:39:00ID:t9cl3LnJ0414人間七七四年
2007/12/14(金) 18:24:29ID:FH3tSx9f0415人間七七四年
2008/03/01(土) 13:15:06ID:WlfMXQkl0416人間七七四年
2008/03/07(金) 00:05:39ID:daglDMeh0417人間七七四年
2008/03/08(土) 23:59:28ID:Sbrv5AHO0418人間七七四年
2008/03/15(土) 19:32:01ID:U2yZha2X0419人間七七四年
2008/04/15(火) 01:07:31ID:txM++BiS阿蘇家、高森家、村山家
0420人間七七四年
2008/04/15(火) 17:00:27ID:txM++BiS0421人間七七四年
2008/04/17(木) 09:35:09ID:42X44kAC0422人間七七四年
2008/04/17(木) 18:06:36ID:buBSk/i/0423人間七七四年
2008/04/19(土) 21:34:08ID:5CU5XDM40424人間七七四年
2008/04/19(土) 23:26:36ID:NWFWqcvw0425人間七七四年
2008/04/22(火) 18:00:54ID:PwnbkKls秀吉により所領は全て没収。
0427人間七七四年
2008/04/26(土) 16:26:30ID:qP8elLxU0428人間七七四年
2008/04/29(火) 00:27:53ID:NKxGLDvw本家の長女のはず。本家は豊後大野だと思うんですけど、詳しい人その辺教えてくれませんか?
昔は刀鍛冶、今は果樹園やっているけど、出荷はもうやってなくて、自給自足に近い。
連休に子供連れて遊びにいく予定です。ルーツ辿る旅なんか面白そうで。
0429人間七七四年
2008/04/29(火) 17:34:27ID:2UYoWZIXごめん、ちょっと意味がわからん。
高森本家が豊後大野にあるってこと?高森本家から豊後大野に嫁に行ったということ?
高森の末裔が刀鍛冶をやってたの? 前のレスには高森本家は阿蘇の坂梨とか本州だとかあってよくわからないみたいだけど
0430人間七七四年
2008/04/30(水) 00:59:31ID:DSUMtWRK連休に大分帰るので、義父に聞いてみます。
0431人間七七四年
2008/04/30(水) 17:42:48ID:XqsB4+gc0432人間七七四年
2008/05/04(日) 22:11:31ID:JxnK4/SA0433人間七七四年
2008/05/05(月) 22:32:53ID:GYmuFsO9日本三大楼門って阿蘇神社の他はどこ?
0434人間七七四年
2008/05/05(月) 22:52:20ID:lP8WbcLw阿蘇神社は建造物自体は新しいからね。
0435人間七七四年
2008/05/07(水) 18:48:10ID:28PBJH760436人間七七四年
2008/05/08(木) 19:49:24ID:9dxxoOA824城の城主
0437人間七七四年
2008/05/10(土) 01:15:32ID:tXBpxC9D0438人間七七四年
2008/05/10(土) 08:26:44ID:+6kzH1gs矢部(今は山都町)の通潤橋を作った布田保之助が阿蘇家臣の末裔と称していて
系図みたら代々惟○って名前だった。
0439人間七七四年
2008/05/10(土) 20:16:43ID:NfA7oTAX0440人間七七四年
2008/05/10(土) 20:25:20ID:tXBpxC9D戦争で二子石某中将がいるけど七家の子孫かな?
0441人間七七四年
2008/05/12(月) 19:53:57ID:y26bePfe0442人間七七四年
2008/05/14(水) 21:11:35ID:WvuON5zl0443人間七七四年
2008/05/15(木) 01:20:48ID:nWxsX1Lw0444人間七七四年
2008/05/15(木) 18:43:26ID:Q0kgflxp領土内にバランスよく置いたのでは?近くにまとめて置くわけにはいかないし
0445人間七七四年
2008/05/15(木) 21:42:11ID:Q0kgflxp0446人間七七四年
2008/05/17(土) 11:57:33ID:UXCSqybE0447人間七七四年
2008/05/19(月) 15:36:56ID:Ee6L02eY0448人間七七四年
2008/05/19(月) 18:41:07ID:iVN/IQtvダイソーで認印とかある?
0449人間七七四年
2008/05/19(月) 21:22:58ID:Hb0xn7tDどの家? 南郷七家の内かな?
0450人間七七四年
2008/05/25(日) 14:23:35ID:btwdVlMT0451人間七七四年
2008/05/26(月) 00:04:48ID:1rY2h3La0452人間七七四年
2008/05/26(月) 19:39:15ID:CZULqXdP坂梨家など あまり知らないや。
南郷にはたくさんいるけどね。高森、村山、長野、竹崎、市下、二子石、
南郷七家というくらいだから阿蘇家臣団の中では力が大きかった部類じゃないかな
0453451
2008/05/26(月) 21:28:04ID:1rY2h3Laそれほど力は無かったんじゃないんだろうか。
各家々の領地・石高、官位なんかが分からればいいんだが。。
やはり肥後は健軍、御船から高千穂の三ケ所・鞍岡、日之影は松の平、立岩に至るまでを支配していた宗運の甲斐家が最強。
0454人間七七四年
2008/05/26(月) 23:11:52ID:CZULqXdPこの人なしに阿蘇家の繁栄はありえなかった。まぁ、甲斐も野心があって阿蘇家を利用してた面も
あったのだろうがね。
0455451
2008/05/27(火) 21:26:36ID:4yAEr7Je当時、阿蘇と高千穂との結びつきは強かったようで、他の地域とは異質な主従関係だった事が伺われる。。
甲斐党の主だった家は、宗運の御船家。親昌の隈庄家。日之影の誠昌の家代家。重方の七つ山家。があり
九州中央部は、いかに甲斐党を取り込むかが重要であったようだ。
上井覚兼日記によると、島津方は甲斐党の為に相当苦労した事も伺われる。。
0456人間七七四年
2008/05/27(火) 22:16:25ID:5huQxoXd0457451
2008/05/27(火) 23:01:08ID:4yAEr7Je0458人間七七四年
2008/05/28(水) 00:03:02ID:kE7yMUYpそもそも惟豊が惟長に追われて逃げた先が日向の甲斐の領地だったことがきっかけだったはず。
0459人間七七四年
2008/05/29(木) 19:03:03ID:iUQmwbl30460人間七七四年
2008/05/29(木) 21:57:38ID:w0YNDb3r高森については多少詳しい。
0461人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/03(火) 21:15:56ID:2qrFeDng0462人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/03(火) 21:41:40ID:AL0fsekQ惟将と惟直は年は離れていたと思うけどね
それと、大宮司惟忠の下野の狩のときの十二騎の侍の中に高森伊豆守がいた。
昔からの重臣だね
0463人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/03(火) 21:51:18ID:2qrFeDng惟忠の時代とは、またシブイですな。。
0464人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/03(火) 22:37:56ID:AL0fsekQ安芸守の養子になり高森家を継いだとある。惟直自身の先祖となるとはっきりしてないけど、個人的には阿蘇家に近い存在の人物であると思われる。
ここから先はわからない。ネットで調べたらこんなページを見つけた。
http://flower-k.at.webry.info/200710/article_25.html
坂梨や北海道の高森家に何かしら記録が残っていないものか・・
0465人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/03(火) 23:45:20ID:2qrFeDngまぁそれでも、一族の血を引く誰かなんでしょうね。
滅ぼされた戦国の国人衆の家々の本家筋や系図を辿るのは難しそうですね。。
0466人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/03(火) 23:52:55ID:AL0fsekQしかも薩摩島津勢に最後まで抵抗し続けたのはこの人だったよね
0467人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/04(水) 00:41:25ID:5Y7pm/X9巧みな外交戦術で島津の益城への侵攻は遅らされてしまい、矛先は竜造寺討伐へと変えられ(沖田畷の戦い)
その後、高千穂を傘下に納めた別働隊の新納忠元が、三田井氏の家老、家代の甲斐家の甲斐宗摂を案内役に高森城を落城させました。
それから、ほんの数年後甲斐宗運が没し、子の宗立が島津の築いた出城に攻め入ってしまい。。 これをきっかけに御船城が陥落・・・ 阿蘇家は完全降伏。。
0468人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/04(水) 21:34:53ID:DDpSI1MU0469人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/07(土) 06:53:47ID:9aByDZEG0470人間七七四年
2008/06/11(水) 22:20:30ID:XiSM+hJZ0471人間七七四年
2008/06/16(月) 18:50:17ID:KTknPSVr0472人間七七四年
2008/06/21(土) 02:07:25ID:8VPL8Iw/あの方が現在の当主の方なんですかねぇ。。
0473人間七七四年
2008/06/21(土) 11:08:43ID:l1ySlPOP0474人間七七四年
2008/06/22(日) 02:01:02ID:teiPUQK30475人間七七四年
2008/06/22(日) 17:13:51ID:/zYGllxx0476人間七七四年
2008/06/22(日) 22:42:26ID:fklaDqAF.. . ... ... ..::. .. . .. . .. .::::: :: :. ... .:::::
:... . .:::: .. . . 阿 男
蘇 爵
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男爵なのにすごい山男みたいな感じが出てしまう…
0477人間七七四年
2008/06/29(日) 22:59:26ID:pdOBX0Pq0478人間七七四年
2008/07/06(日) 02:49:16ID:zRbC8KZ40479人間七七四年
2008/07/19(土) 15:43:53ID:amh+VaWo0480人間七七四年
2008/07/21(月) 14:56:09ID:JYLg+hnA0481人間七七四年
2008/07/26(土) 02:50:10ID:74QoXQlX0482人間七七四年
2008/07/26(土) 10:42:28ID:/Vx4MosW0483奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2008/07/26(土) 20:52:43ID:OiwOcp6l0484人間七七四年
2008/07/26(土) 23:53:20ID:/Vx4MosW0485奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2008/07/27(日) 00:01:03ID:a6Px5r1h0486人間七七四年
2008/07/27(日) 01:06:40ID:hLG3fFhJ0487人間七七四年
2008/07/28(月) 21:27:42ID:J3KwdVcF0488人間七七四年
2008/07/29(火) 10:33:00ID:84sxvql20489人間七七四年
2008/07/29(火) 22:38:55ID:uCqPxuBA天皇家だって何回も直系は断絶して傍系に変っているし。
前に日本史板で、江戸時代の大名家で直系相続だけで明治まで続いた家はあるかって話になったときに
ほとんどそういう例はなかったと記憶しています。
戦争がなくて当時としては最高の環境で育てられる大名でも250年くらいの間を直系で繋ぐのがいかに難しいかってこと。
0490人間七七四年
2008/07/29(火) 23:34:38ID:dcsJFJgR阿蘇惟豊と血が繋がっているかどうか
0491人間七七四年
2008/07/31(木) 03:19:44ID:1Pa0b0pu0492人間七七四年
2008/08/02(土) 21:47:31ID:n0LWBfna0493人間七七四年
2008/08/03(日) 10:06:25ID:ZOpt01ST惟豊よりはるか昔に嫡流は途絶えてるのに。
0494人間七七四年
2008/08/03(日) 11:38:15ID:E1xc/blt0495人間七七四年
2008/08/03(日) 17:22:19ID:E1xc/blt0497人間七七四年
2008/08/04(月) 19:45:13ID:XwdB4jl/阿蘇OO
0498たられば君
2008/08/04(月) 20:28:18ID:F7w0xd9n0499人間七七四年
2008/08/05(火) 01:33:48ID:AGem7Vb30500人間七七四年
2008/08/05(火) 06:20:01ID:Xpc+nGlS進歩ねえな
0501人間七七四年
2008/08/05(火) 23:47:18ID:JZWpjZ200502人間七七四年
2008/08/05(火) 23:53:34ID:AGem7Vb30503人間七七四年
2008/08/14(木) 23:32:53ID:w32ohkTM0504人間七七四年
2008/08/24(日) 11:17:41ID:QxSqmDz70505人間七七四年
2008/09/07(日) 10:21:22ID:KAY9ur3S0506人間七七四年
2008/09/13(土) 23:16:05ID:uUEqtUgb甲斐宗運により島津氏でさえ手を焼き、巧みな外交政策で矛先は竜造寺氏に代わり、益城侵攻はかなり遅らされた。
結びつきの強かった高千穂三田井氏とも関係が深く、二神神社の宮司職など甲斐家は神職としての地位も高い。
宗運の家系とは別に、家代の甲斐家、七ツ山の甲斐家、隈庄の甲斐家などの勢力もあり重要ポストに付けざるおえない。
それに阿蘇惟豊、惟将の親子は、甲斐親宣、宗運の親子に大恩がある。
0507人間七七四年
2008/09/14(日) 14:32:53ID:eS3SoYfC迎え入れたものだ。惟豊の逃れた先が日向の甲斐領だったのはなぜ?
惟豊は嫡男惟将に裏切り者の御船を討たせてもらったことがよほど嬉しかったようだ。いきなり御船城主に大抜擢だからね。
ところで惟将の後は何で惟将の子でなく弟の惟種が継いだの?子がいなかったというわけじゃなかろうに
0508人間七七四年
2008/09/15(月) 01:26:47ID:9T7s5Ysu甲斐宗運もただ単に阿蘇家に献身的だったわけではないだろう
0509人間七七四年
2008/09/15(月) 21:21:20ID:5WxfGLaI惟豊が高千穂に逃れたのは、古くより阿蘇と高千穂の結びつきが強く
高千穂領内にも五ヶ所など阿蘇家の社領があったから。
阿蘇惟将の弟、惟種が大宮司職を継いだのは伝承によると、やはり子がいなかった為らしい。
0510人間七七四年
2008/09/17(水) 00:32:03ID:fKyGyKeN0511人間七七四年
2008/09/17(水) 19:52:41ID:kJvxPuzO0512人間七七四年
2008/09/17(水) 22:24:47ID:fKyGyKeN0513人間七七四年
2008/09/17(水) 22:34:54ID:tuV4YkoA0514人間七七四年
2008/09/17(水) 22:56:04ID:fKyGyKeN0515人間七七四年
2008/09/20(土) 01:41:56ID:OAd42qX70516人間七七四年
2008/09/20(土) 02:21:08ID:ZikfwGca0517人間七七四年
2008/09/20(土) 02:56:27ID:OAd42qX70518人間七七四年
2008/09/20(土) 09:26:30ID:ZikfwGca0519人間七七四年
2008/09/20(土) 13:08:41ID:OAd42qX7阿蘇家を初め、肥後国衆も参加してたって知ってた?大友に従属的だった阿蘇家は大変様子が伺える。
0520人間七七四年
2008/09/20(土) 13:13:08ID:fmUc40880521人間七七四年
2008/09/23(火) 11:01:52ID:HmsvTEM80522人間七七四年
2008/09/23(火) 18:58:09ID:gr6BSKvn罪もない朝鮮人を殺す事に抵抗を感じ、義勇兵として朝鮮人と一緒に戦ったとされる。
秀吉の全国統一の時、東北地方で最後まで抵抗した雑賀衆(有名所で雑賀孫一)、の生き残りが
遠縁に当たる阿蘇家に逃れて来ていた。
朝鮮出兵の際、恩のある阿蘇家の為に阿蘇家の兵として出兵していた。
義勇兵と成った理由としては、罪もない朝鮮人を殺す事に抵抗を感じたとされているが、梅北の
乱の首謀者として阿蘇惟光?が打ち首にされた事に対する反発では無いかと考える。(朝鮮まで
その事が伝わっていたかは不明)
朝鮮でのサヤカと言う呼び名は雑賀がなまったのでは無いかとされる。
とっ。この様な事を10年以上前に本で読んだのだが、その本が何だったのか記憶に無い。
もし、サヤカについて解る香具師が居たら書き込みしてくれ。
その本によると、今もサヤカと呼ばれ韓国の山間部に集落が在るそうだ。
0523人間七七四年
2008/09/23(火) 19:34:58ID:lSOMjrDy赤色の『文禄慶長の役』だな
0524人間七七四年
2008/09/23(火) 19:39:20ID:lSOMjrDy阿蘇家について触れてたかは覚えてない
サヤカ(沙弥可?)=雑賀じゃねーかって記事は覚えてる
0525人間七七四年
2008/09/23(火) 22:04:03ID:0+thywc0共に抵抗したというような話の内容をテレビでみた気がするが、それだったのか。。
0526人間七七四年
2008/09/24(水) 00:59:10ID:Z0JrJGUA0527人間七七四年
2008/09/24(水) 15:22:27ID:IgJ4/Ogtツアー旅行で海外行って、みんなとはぐれると怖いだろ?ましてや戦国時代だ、はぐれたら死んだも
同然。それなのに朝鮮側に付くのは何故?主従関係を重んじる戦国武士達が何故?気になるだろ。
そこでググッて見た。沙弥可は(沙也可)が正しい様だ。そこで沙也可でググったらウィキペディア
がヒットした。阿蘇家に付いてもちょこっとだけ記述がある。
でっ、結論だが。あくまで推察の域を脱しない内容で良く解らない。朝鮮人によるねつ造か?とさえ
思えてくるw だがこれだけ諸説在るのは、やはり気になる。今後新情報が在れば調べて見たい。
0528人間七七四年
2008/09/24(水) 22:38:27ID:SicxEBj6レポート、よろしく。
0529人間七七四年
2008/09/26(金) 00:51:31ID:DprGT5x40530人間七七四年
2008/09/26(金) 10:40:35ID:gZr+CqnD0531人間七七四年
2008/09/27(土) 18:53:48ID:RyxrGu870532人間七七四年
2008/09/29(月) 16:41:32ID:BfpHcf1U0533人間七七四年
2008/10/01(水) 19:01:44ID:eDctc7Dy0534人間七七四年
2008/10/01(水) 22:32:04ID:50cc7hZU0535人間七七四年
2008/10/02(木) 09:22:25ID:yKNaDH+00536人間七七四年
2008/10/02(木) 16:30:28ID:Apvq2dYZ0537人間七七四年
2008/10/03(金) 01:33:14ID:x4F/xb1o0538人間七七四年
2008/10/04(土) 12:40:36ID:Xt6VK4ytその礼にして藤崎八幡宮の秋季大祭に加藤藩の武士が参加するようになったという話があるが
0539人間七七四年
2008/10/06(月) 13:33:13ID:61brlLPH0540人間七七四年
2008/10/09(木) 00:20:30ID:YiS4I5bV0541人間七七四年
2008/10/12(日) 11:36:43ID:YmdFPUry0542人間七七四年
2008/10/13(月) 23:09:55ID:xskpk9xF0543人間七七四年
2008/10/14(火) 22:19:28ID:n/LDvP2l0544人間七七四年
2008/10/21(火) 04:10:02ID:SzDdwk26肥後の名門・相良氏
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1224529726/
0545人間七七四年
2008/10/21(火) 23:31:51ID:zNNUSQMv0546人間七七四年
2008/10/26(日) 17:31:39ID:7cQtHhSR0547人間七七四年
2008/11/08(土) 08:35:13ID:GRskc8Z30548人間七七四年
2008/11/09(日) 16:35:41ID:EqnT8x2c0549人間七七四年
2008/12/17(水) 02:27:34ID:ogcVRKZk田代宗伝はいつ頃まで存命だったか
推定する資料はありますか?
0550人間七七四年
2008/12/17(水) 11:00:36ID:Pv7ERzlu0551人間七七四年
2008/12/18(木) 00:02:04ID:p2nno+c30552黄猿
2008/12/18(木) 19:35:24ID:Bvk+6k2w天正13年8月15日に御船城、16日には隈庄城が落城。その時に田代宗伝は島津に人質を出して降った様子。
御船と隈庄の落城後、宗運配下の鞍岡讃岐という人と興呂木新介という人が飯田山に立て籠もった際、島津方からの説得の使者だったの田代宗伝だったらしいから
この時までは、まだ存命だったと思いますよ。
0554黄猿
2008/12/21(日) 10:33:05ID:h8PP1bHZいえいえ。しかし田代宗伝をよくご存知で。
0555人間七七四年
2008/12/21(日) 14:18:52ID:Tx2RnJyh0557人間七七四年
2008/12/22(月) 14:40:14ID:xY6xBwVE何か読みやすい本とかないかな?
0558人間七七四年
2008/12/22(月) 14:44:13ID:MqtAXHWT0560人間七七四年
2008/12/23(火) 12:30:56ID:qU+6I/Vq益城郡の北田代城主
0561人間七七四年
2008/12/23(火) 13:59:54ID:qU+6I/Vq0562黄猿
2008/12/24(水) 00:15:05ID:zlrN7ct7阿蘇家での役職などをご存知ならお願いします。
0563櫛
2008/12/24(水) 18:30:18ID:bxRByYPR猿飛佐助の父親
0564人間七七四年
2008/12/28(日) 20:22:43ID:8JSqo3Ak0566人間七七四年
2008/12/31(水) 17:34:13ID:hNJKuZxe0567人間七七四年
2009/01/10(土) 17:53:14ID:3c1Gc6JW0568人間七七四年
2009/03/06(金) 18:13:02ID:OvbZvnmJ0569人間七七四年
2009/03/21(土) 16:08:20ID:x56hVeqh互いに血縁が近いのかな?
0570人間七七四年
2009/04/01(水) 20:42:58ID:SEL2CNTt関係出身ですけど
阿蘇と全く関係ないのかな…
0571人間七七四年
2009/04/01(水) 21:32:02ID:1AfzCbZc0572人間七七四年
2009/04/01(水) 21:43:34ID:SEL2CNTt関西出身ですm(__)m
0573人間七七四年
2009/04/01(水) 23:44:39ID:1AfzCbZc0574人間七七四年
2009/04/02(木) 00:09:44ID:UtV+srfS阿蘇と血縁があるのかな〜と思ったんですが
系図が無いので分かりません↓
家紋が違うので関係ないですかね、、
失礼しましたm(__)m
0575人間七七四年
2009/04/02(木) 10:39:54ID:80Skv0K5どこに子孫がいるかわからないからね〜。
0576人間七七四年
2009/04/02(木) 14:43:46ID:UtV+srfS祖父母ともに高森で血族婚みたいで
親からは下級武士だったとしか聞かされてません。
自分で調べてみたらその土地の土豪とか何とかで…
もしや阿蘇からそこに移り住んで来たのかな〜
と勝手に思ったんですがm(__)m
機会があれば調べようと思います。
長々と失礼しました。。。m(__)m
0577人間七七四年
2009/04/02(木) 22:19:40ID:akuxmCJs清正に雇われた雑賀集団、ってのが一番しっくりくる。
0578人間七七四年
2009/04/12(日) 00:48:47ID:kuNwBuG/0579人間七七四年
2009/04/13(月) 23:11:42ID:1u4NT/YV阿蘇神社があまりにもみじかにあったため得に関心なかったっけなぁ
こんなスレがあるなんて…なんか懐かしいなぁ
たしか国語の先生が阿蘇神社(一の宮町のじゃない)の神主だったよ
先生の名前は伏せておくけどたしか宗家だったような…
くそ、もっと興味もっておけばよかった!
0580人間七七四年
2009/04/14(火) 00:15:11ID:/jGccZ0Z0581奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2009/04/14(火) 08:10:40ID:WDAwFXyf0582人間七七四年
2009/04/14(火) 19:34:44ID:dkxmC7o3早速、高校の卒業アルバムを探して見ました(かなり昔)
プライバシーの為、先生の苗字は伏せますが…
「阿蘇」ではありませんでした…
皆さん、期待させてスイマセンでした
阿蘇氏と関係ないのかも…
ただ阿蘇のどっかの由緒正しい神社の神主なのは間違いないのです
それだけはしっかり記憶しております
0583奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2009/04/15(水) 07:22:54ID:+zBdymUb0584人間七七四年
2009/04/15(水) 18:38:31ID:GNqJYJhR0585人間七七四年
2009/04/16(木) 10:44:43ID:nNaqgRtl0586人間七七四年
2009/04/16(木) 17:09:12ID:7W5Suy+z伊津野 黒仁田 竹崎 関 布田 蔵原 竹原
阿蘇家の関係者なら少なくともこの中にはいるだろう
0587人間七七四年
2009/04/16(木) 17:24:19ID:t8NZrCNr0588人間七七四年
2009/04/16(木) 21:00:24ID:7W5Suy+z0589sage
2009/04/19(日) 10:41:46ID:i8bcxB0r先祖が武士といっても、裕福な農民が江戸あたりに武士の株をかって
刀を差すのを許可されたとかそこらへんのケースもあるので・・・
ちなみに5000円札の樋口一葉の両親がこのケースで下級武士。
(すぐに明治維新きちゃったけど)
阿蘇家の家臣団は武士?といっても、豪農くらいの位置では?
武士・農民の区別が厳格だったとも思えないので。。。
下級武士=阿蘇家家臣とはいえないかも。(逆に農民かもしれない)
あと、本家が帯刀ゆるされてても(武士)分家は駄目(武士ではない)
とかあるので、先祖が武士とかいいだすときりがありません。
資料を探すしかないでしょう。。。
0590人間七七四年
2009/04/19(日) 13:32:48ID:uIOspa6e菩提寺の過去帳を調べろ。
そうすりゃ一発で解る。
菩提寺とかがはっきりしない?
その時点で正当な武士ではないと思われ。
途中まで百姓で株買ってなんちゃって武士か、そもそも
明治までずーっと百姓の可能性が高い。
0591人間七七四年
2009/04/19(日) 22:25:04ID:ii76XCK60592人間七七四年
2009/04/20(月) 19:02:03ID:2iU+Yevm>>590
百姓の可能性が高いですよね↓
詳しい資料がないので分からないですがm(__)m
その土地の居館跡一覧に記載があっただけで…
阿蘇とは関係なさげな気がします。
資料探してみます〜。
お答え頂き有難う御座いました。^^
0593人間七七四年
2009/04/20(月) 19:35:30ID:DpSq6bwy0595人間七七四年
2009/04/20(月) 22:15:33ID:DpSq6bwy0596人間七七四年
2009/04/25(土) 18:00:17ID:JPfbBq6a調べたとこ、百姓ではないですが全く別の線が出てきました。
とりあえず阿蘇とは無関係でしたf^_^;
お陰でスッキリしました☆
お騒がせしてすみませんでしたm(__)m
お答え頂いた皆様、有難う御座いました。
0597奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2009/04/26(日) 06:07:56ID:iLa31c3h城持ちと大名が混同されすぎてるんだろうな。
0598人間七七四年
2009/05/03(日) 19:14:44ID:Pd4XDjVy大阪城の城中で大政所と北の政所が畑していたと伝わるしな。
0599sage
2009/05/06(水) 23:27:29ID:nAUZbqIL南郷七家のものですが、ご先祖農耕してましたよ。
江戸時代刀は挿してもよかったみたいですが、分家はだめでした。
両親は、城主っていっても砦レベルだし、限りなく農民に近い
(というかほぼ同じ)っていってました。
士族でも直参でもないし、そんなに華やかなものではないと思います。
597さんのおっしゃるとおりだと思います。
0600人間七七四年
2009/05/06(水) 23:48:47ID:FpVTXSTT愚問かもしれませんが、農耕と言っても鍬を持って土を耕していたわけではないですよね??
農民に近い(ほぼ同じ)城主・・・想像しにくいな 今の地主みたいな感じかな?
0601人間七七四年
2009/05/12(火) 21:07:29ID:rMxaTpWS聞いところ阿蘇と
繋がる説は無いみたいで
過去帳も解読不能との事で無関係と
自己判断してしまいましたが(^_^;)
いずれにしても農民に近いような感じみたいです〜
謎が深まりました〜
0602人間七七四年
2009/05/13(水) 09:38:56ID:ds3GA3pGじゃあ、俺も ノシ
0603人間七七四年
2009/05/13(水) 10:49:27ID:xpEM4VjL0604人間七七四年
2009/05/14(木) 02:36:04ID:eA5tZwXP0605人間七七四年
2009/05/19(火) 17:34:17ID:GJ6pNkMJ0606人間七七四年
2009/05/27(水) 23:53:50ID:mO0zmt3i0607人間七七四年
2009/05/28(木) 21:25:50ID:sHKlFUhx0608人間七七四年
2009/05/28(木) 23:00:35ID:IbrflctAって現代の感覚でいっちゃいかんか
0609人間七七四年
2009/05/29(金) 14:18:39ID:zv/AKeK7阿蘇大宮司惟光の切腹は、文禄2年(1593年)8月18日です。 阿蘇殿の松
響きヶ原で相良義陽が阿蘇家に返り討ちにあったからだろうか、相良氏関係者による讒言。
逆恨みもいいところだ。秀吉も肥後国衆への見せしめもあっただろうから、吟味せずに殺した
のだろう。九州統一の際にも阿蘇家だけ挨拶に来なかったこともあり、百姓成り上がりの秀吉
にとっては名門など面白くなかったのもあるかもしれない。
0610人間七七四年
2009/05/30(土) 06:48:35ID:C36u7Rlaまずくて(秀吉が密偵つかって煽った説もあるが)肥後国内が国一揆状態になったのは
1588年の話だっけ。
それから5年もたっててもまだ肥後国衆に「見せしめ」必要ってことは
相当なんだなあ
(まあ、佐々が肥後国主になったとき、53家の大小豪族にも所領安堵したくらいだったからな)
0611人間七七四年
2009/05/30(土) 07:23:19ID:ZVfo52gD詳しい情報有難うございます。
この子の事を思うと胸が痛い・・徳川14代家茂に対するものと同じ感覚だお
理不尽な大人の世界に子供が犠牲になる話には弱いお
今頃、極楽で家族共々幸せでありますように・・
0612人間七七四年
2009/06/07(日) 23:13:28ID:A13Yuv/E私は高森町に住んでいますが、以前私の家から見える景色の殆どはうちの土地だった。
と聞きました。元地主だそうです。
今から約300年ほど前に、蘇陽馬見原or五ヶ瀬の方から来たみたいですが、
当時の苗字が飯法師?飯干?だったそうです。280年位前に今の私の苗字の苗字になっています。
なんでもかまいません教えていただけたらと思います。
0613人間七七四年
2009/06/07(日) 23:27:12ID:A13Yuv/E280年位前に今の私の苗字の苗字になっています。
↓
280年位前に今の私の苗字になっています
0614人間七七四年
2009/06/09(火) 01:20:22ID:46BY/qYq当時の行政区分は手永制(今の市町村)でしたので、蘇陽馬見原ですと当時は菅尾手永か矢部手永ですね。
そこから高森手永に移り住んだのでしょう。御先祖の身分はおそらく武士(地侍、一領一疋など)だと思われます。
名字のことはよくわかりませんが、もしかしたら御実家に「先祖附」という古文書があるかもしれません。それに大方のことは記されてあるかと思います。
もし見つからないのであれば県立図書館等に行けば閲覧できると思います。
0615人間七七四年
2009/06/09(火) 01:21:41ID:46BY/qYqあるいは庄屋かもしれません。
0616人間七七四年
2009/06/13(土) 18:27:16ID:V5ESpmQ9ありがとうございます!!
昔一度火事にあったみたいだから古文書はないかもしれません。
そう言えば、たしか昔庄屋だったと聞いたような
因みに今は土地は当時の5分の1位になり、農家をしています。
0617人間七七四年
2009/06/14(日) 00:46:54ID:uQeThnED0618人間七七四年
2009/07/04(土) 19:21:04ID:Nxq5qGOc聞きたいことがあれば、明治以降の話は祖母から聞いたことがあるので
お教えします。
0619阿蘇氏の末裔 ◆4of9sr/ANI
2009/07/04(土) 19:24:52ID:Nxq5qGOc0620人間七七四年
2009/07/05(日) 11:28:38ID:2Me5gjpU阿蘇さん、はじめまして。
阿蘇氏の系図には分家した一族のことは詳しく書かれていないのかな?
一族・・南郷七家、阿蘇谷に城を持っていた一族など
0621奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2009/07/07(火) 07:33:18ID:GkOyyL490622人間七七四年
2009/07/07(火) 20:31:41ID:qvHU3VX8曾祖父あたりの時代に、本来宮司になる人が
継子いじめに耐えかねて出ていってしまったので、その人あたり
までさかのぼれば、書いてあるはずです。
0623人間七七四年
2009/07/09(木) 23:14:47ID:PX7TBqz20624人間七七四年
2009/07/20(月) 22:41:39ID:I1yeehnO0625吉田一氣
2009/07/26(日) 08:57:17ID:5VgPJ/xs阿蘇の手野にある本家の古い墓を見ましたら
「市原山城守墓−阿蘇家市原城主 市原宇治姓 盛幸」
とあるのですが、市原城というものが阿蘇に存在したのか
ご存じないでしょうか?
0626吉田一氣
2009/07/26(日) 09:25:48ID:5VgPJ/xs源流本阿蘇氏系図というものが存在するという話の中で
参考とした系図が列挙されているそうで
「肥後国阿蘇氏之系有数本曰
坂梨本、蔵原本、笹原本、宮西本、甲佐本、猿渡本、市原本、霜宮祝本等也」
とあるそうですが、阿蘇に多い名前の蔵原 笹原 市原なども阿蘇家の子孫ということなのでしょうか?
いうことなのでしょうか?
通潤橋には笹原川という川がありますが阿蘇の笹原と関係するのでしょうか?
どなたかご存知でしたらご教授願えませんでしょうか。
よろしくお願いします。
0627人間七七四年
2009/07/26(日) 19:12:40ID:YWCNPd1E市原城という城が阿蘇にあったという話は聞いたことがありませんが、矢部地方にはあったようです。
御本家のお墓にある「市原山城守盛幸」は「盛」の通し名からしておそらく坂梨にあった高城の城主の御子孫でしょう。市原家の系譜によれば、坂梨惟右ー惟光ー・・盛豊ー・・
と途中で「盛」に変わっています。盛豊から9代後に市原助兵衛惟一と名乗り、元の「惟」に戻っているようです。
天正期の高城主坂梨右衛門惟右の子孫が後に三家に分かれ、三家というのは坂梨の市原家、内牧の甲斐家、狩尾の坂梨家です。
市原家は姓が宇治とあるならば、阿蘇家の子孫であることに間違いありません。
笹原については詳しく知りません。
0628吉田一氣
2009/07/26(日) 21:30:23ID:5VgPJ/xs天正期と云われますと1573年から1593年までの間のようですね。
市原山城守盛幸の墓には表面に
慶長元年(西暦1596年)
春雲院殿義山盛幸 文禅定門と記載されていましたので
手野の市原家初代は坂梨から分かれたことが理解できました。
また盛幸は分かれてから近い時代の人物だと想定できますね。
貴重な情報ありがとうございました。
0629人間七七四年
2009/07/26(日) 22:06:25ID:uzojKV66内牧に分かれた甲斐家とは「御船」「隈庄」「家代」「七山」の甲斐家と何か関係があるのでしょうか?
坂梨家は阿蘇家の家老格…
姻戚等の策略で宗運の傀儡的な雰囲気を感じるのですが。。
0630人間七七四年
2009/07/26(日) 22:49:42ID:YWCNPd1E私の知る限りでは甲斐宗運の甲斐氏との関係は見られません。内牧甲斐家が甲斐を名乗ったのは少なくとも甲斐宗運が没したしばらく後と思いますので、
その頃には戦国の世も終わり、傀儡的な関係はなかったかと。 なぜ甲斐氏を名乗ったか、後に婚姻関係があったかなどはわかりません。他の阿蘇家臣どうしでの
婚姻関係は昔からあっているみたいですから、あり得なくはないですが。
0631人間七七四年
2009/07/27(月) 20:12:51ID:hlofOvzl甲斐宗運が絡んだ合戦には度々北坂梨の「坂梨紹元」が軍監として派遣されていたようだったので何かあるのかと思ってしまいました。
どうもありがとうございました。
0632人間七七四年
2009/07/27(月) 22:48:29ID:B5HjySQGあったりしたのですかね?
0633人間七七四年
2009/07/28(火) 21:57:54ID:co453IAM坂梨家と高森家の間には婚姻関係があったとは思われますが
市原家の家格をよく知らないのでなんとも。。
0634人間七七四年
2009/07/28(火) 22:47:49ID:5PEjhi8s坂梨の市原家は坂梨惟右の裔で、確か江戸以降は御茶屋だったはず。
0635人間七七四年
2009/08/02(日) 20:55:02ID:qZMSGvlh以前、阿蘇氏の末裔ということで書き込みをしたものです。
ところで、なぜ阿蘇氏にみなさんは興味を持ったのですか?
熊本の方でしょうか?
一応末裔なので、色々と調べたこともありますが、古文じゃなくて
漢文の資料のコピーは家にありますが、何のことか分かりません。
みなさんはどうやって調べているのでしょうか?
本等は売ってあるのでしょうか?
0636人間七七四年
2009/08/03(月) 00:40:57ID:zPZN7rec実家が阿蘇です。日本で一番古い家系を誇る家が阿蘇神社にあることを知って興味がわきました。
聞いてみると阿蘇家の分家であることを知りさらに興味がわきました。
0637635
2009/08/03(月) 12:24:01ID:VHtrnD52っていうことは、お墓は駅の近くにありますか?
阿蘇一族の墓って書いてあったような気がします。
そうだとしたらかなり遠いかもしれないけど、親戚なのかもしれませんね。
0638人間七七四年
2009/08/03(月) 21:04:14ID:zPZN7recいいえ。駅の近くって大阿蘇病院へ行く道のことですか?線路超えてやがて阿蘇家の墓地がありますが、阿蘇一族の墓のことは知りません。
分家と言っても何百年も昔のことで、南郷七家の一つです。
0639人間七七四年
2009/08/04(火) 21:53:04ID:txiQ22eRそれは何駅ですか?
0640人間七七四年
2009/08/05(水) 00:07:40ID:Us7f56W1ところの近く。お盆くらいしかいかないからよく分からないけど・・・
阿蘇神社から車で10分もかからなかった。
0641人間七七四年
2009/08/05(水) 00:08:56ID:Us7f56W1超マイナーでほとんどの人が分かりそうにない・・・
0642人間七七四年
2009/08/05(水) 12:58:57ID:GuiJ8z0A0643人間七七四年
2009/08/07(金) 23:41:57ID:kEJQV4G80644人間七七四年
2009/08/08(土) 00:45:04ID:S64ivuT4阿蘇山の南側から相良領までの間は誰の領地だったの?
0645人間七七四年
2009/08/08(土) 12:09:40ID:B79+9RfU0646人間七七四年
2009/08/09(日) 12:11:34ID:gVL0kIAUそうかもしれない。年に一回いくかいかないかだからよく覚えていない。
宮地駅って阿蘇神社の近くだよね?
0647人間七七四年
2009/08/09(日) 12:16:03ID:gVL0kIAU0648人間七七四年
2009/08/19(水) 17:36:14ID:Ih7MfJ1o0649吉田一氣
2009/08/22(土) 20:51:53ID:gjzfvrTQ>>阿蘇国造はもともと山城国の人ですか?
これは伝承です。
平安時代に阿蘇氏は宇治宿禰を使っているようですが、
山城国宇治の健磐龍命が阿蘇地方に下向したと言う伝承によるものでしょう。
0650人間七七四年
2009/08/22(土) 23:07:48ID:QJ4rliDf阿蘇家の家系は天皇家よりも古いと言われますが、それは伝承を含めて言われてることですか?
教えてください。
0651人間七七四年
2009/08/22(土) 23:34:31ID:QJ4rliDf0652奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2009/08/23(日) 06:21:16ID:5AaA6tAR0653人間七七四年
2009/08/27(木) 00:50:30ID:cjmoXXaZ0654名無しさん@そうだ選挙に行こう
2009/08/30(日) 18:32:58ID:ya49jh220655人間七七四年
2009/08/31(月) 09:33:19ID:lm3NYTVJ0656人間七七四年
2009/09/03(木) 20:22:56ID:8/rCuPkM天皇とつながってるから近畿になるね。
一応阿蘇氏の子孫だけど詳しくは知らない
0657人間七七四年
2009/09/03(木) 20:44:24ID:qvUYf9Xo明治時代まで大名として存続してた
カスと比べんなや
0658人間七七四年
2009/09/03(木) 20:57:40ID:ytRAI8ea0659人間七七四年
2009/09/03(木) 21:20:22ID:UpBGwy4hどうすごいの?
0660人間七七四年
2009/09/03(木) 21:22:20ID:UpBGwy4h天皇家とつながってると言っても神武天皇じゃなかったっけ? 実在自体が・・・・
もともと阿蘇地方の豪族じゃないのかな
0661人間七七四年
2009/09/03(木) 23:23:07ID:qvUYf9Xohttp://gxc.google.com/gwt/x?q=%E4%B9%9D%E9%AC%BC%E6%B0%8F&client=ms-kddi-jp&hl=ja&inlang=ja&ei=29CfSvDXHI6O6QOmka7UAg&rd=1&u=http%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E4%25B9%259D%25E9%25AC%25BC%25E6%25B0%258F
レベルちゃうで
0662人間七七四年
2009/09/03(木) 23:27:21ID:qvUYf9Xo維新後、子爵になり華族に列してる
やっぱり阿蘇とかいう無名の奴とはレベルちゃうで
0663人間七七四年
2009/09/03(木) 23:28:33ID:qvUYf9Xo上手いで
0664人間七七四年
2009/09/03(木) 23:33:08ID:qvUYf9Xo0665人間七七四年
2009/09/03(木) 23:33:12ID:gT/c3bu2熊本でもど田舎のほうだから詳しくはないけどもやね。
0666人間七七四年
2009/09/04(金) 13:27:01ID:b9xj3kN1出自がわかってない時点で阿蘇家とは性質が違うだろ。
0667人間七七四年
2009/09/04(金) 15:03:36ID:b9xj3kN10668人間七七四年
2009/09/04(金) 15:26:31ID:fQUPEiBA集まる必要がない
0669人間七七四年
2009/09/04(金) 18:19:43ID:b9xj3kN10670人間七七四年
2009/09/05(土) 01:01:08ID:GxMELMD80671人間七七四年
2009/09/05(土) 01:15:23ID:rYQlTC8T0672人間七七四年
2009/09/07(月) 14:42:30ID:L4sPpU9I0673人間七七四年
2009/09/07(月) 18:20:13ID:L4sPpU9I0674人間七七四年
2009/09/09(水) 10:40:06ID:xnkznKw/0675人間七七四年
2009/09/11(金) 09:36:29ID:W/ldolMThttp://bl★og.liv★edoor.jp/new★s2chplus/archives/5★066★322★4.html
☆☆☆☆☆☆
李鵬が言ってた、20年後に日本なんてなくなるって、こういう事か。
1000 :名無しさん@十周年:2009/09/10(木) 21:55:04 ID:IsvYN1LJ0
1000なら
鳩山:「譲歩を引き出しました。ソースコード開示しなくてもいいそうです。やったー!」
でもEAL3並みの要求を飲まされる。日本の適合性評価機関は承認されない。
結局技術はばっちり漏洩する。終わり
↑ ↑ ↑
中国 「IT製品、ソースコード開示せよ。情報漏洩はないから」…日本側が撤回求めるも、予定通り実施へ
http://s03.megalodon.jp/2009-0911-0412-34/pc11.2ch.net/test/read.cgi/prog/1204019152/34-35
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
鳩山首相の夫人、鳩山幸さんの旧姓や出自が不明だそうですよ。
鳩山幸さんはサイエントロジーというカルトと関係があるという噂があります。
http://an★tikimchi.see★saa.net/art★icle/127578850.html (日本アンチキムチ団)
764 名前:可愛い奥様[] 投稿日:2009/09/06(日) 01:04:07 ID:/WrcABwtO
幸夫人のごお父様は中国人ではなく、キム・ジョンウォン(漢字不明)という朝鮮北部出身の貿易商だったようです。
戦後は日本に渡り、幸さんが渡米するまでは神戸の商社に勤めていたようです。 キムさんは幸さんが渡米した直後、
北海道室蘭に引っ越し、貿易商を営みながら総連支部の設立に尽力されたと話しておりました。
【ファーストレディー】鳩山幸をウォッチするスレ 2
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1252279762/
0676人間七七四年
2009/09/14(月) 16:04:04ID:lzLeJ5xO>>579
●下さんでは?
0677人間七七四年
2009/09/14(月) 20:42:54ID:VLyS1Xi60678人間七七四年
2009/09/17(木) 22:17:16ID:qDm42iK50679人間七七四年
2009/09/17(木) 23:30:57ID:Ib/vRHY90680人間七七四年
2009/09/18(金) 11:01:24ID:N8wdASA8全くないよw
0681人間七七四年
2009/09/21(月) 14:46:26ID:F7BKD1XL0682人間七七四年
2009/09/21(月) 19:17:34ID:F7BKD1XL0683人間七七四年
2009/09/23(水) 00:32:05ID:bn3cdqem0685人間七七四年
2009/09/23(水) 23:02:48ID:bn3cdqem健磐龍命は山城国の人間(神)なんでしょう? つまり関西人
0686人間七七四年
2009/09/23(水) 23:20:06ID:OMfqx0OI0687人間七七四年
2009/09/23(水) 23:50:53ID:bn3cdqem0688人間七七四年
2009/09/24(木) 00:20:55ID:l8GHh8AVおおよそ推測できますねw
0689人間七七四年
2009/09/24(木) 19:24:39ID:79OW0uEY0690人間七七四年
2009/09/25(金) 14:46:49ID:eKHgaCxw宇治友成ー友仲 この後系譜が分かれるけど惟親 惟通 惟遠・・・この人たちも大宮司なの?
同じ時代に大宮司が2人いることになるけど
0692人間七七四年
2009/09/26(土) 20:46:04ID:wB3El8VI阿蘇惟紀が何をやったの?
0693人間七七四年
2009/09/27(日) 22:09:48ID:GCf1TDKk0694人間七七四年
2009/09/29(火) 17:28:30ID:N/JSTQyG0695人間七七四年
2009/09/30(水) 22:14:28ID:bn5dmJay0696人間七七四年
2009/10/05(月) 01:17:25ID:BUQc+I+x0697人間七七四年
2009/10/08(木) 00:01:10ID:h737RzpR>>684です。
実は私は未成年でして、みなさんのほうが詳しいと思います。
>>694
いえ、阿蘇ではありませんが、阿蘇家の墓というのが阿蘇神社の
近くにあり、そこに曾祖父の墓があります。
明治か江戸末期までにさかのぼれば、名字は阿蘇になります。
以前、家でも調べようということになり、あちらこちらの図書館を
調べ、関連資料のコピーを取りましたが、昔の文章は全て漢字で
正直分かりません。
0698人間七七四年
2009/10/08(木) 12:09:17ID:CR/HS5KI阿蘇氏とは関係深かったって婆ちゃんに聞いた事あります。
0699人間七七四年
2009/10/08(木) 22:36:02ID:IyiO9g6T比較的新しい分家なんですね。 もろ阿蘇家と親戚ですね。私の家は600年以上前に分家した家です。
ですから阿蘇家とは親戚という感じはしません。
>>698
三加和とは? どこですか? ずばり坂梨氏ですね
0700人間七七四年
2009/10/09(金) 09:43:22ID:sL6oTaaH0701人間七七四年
2009/10/09(金) 12:08:22ID:HNdL6Esw深く関わっています。
熊本県菊水の阿蘇神社の石段を登る途中に,
坂梨家の祖社が建っています。
(菊池川沿い)(平家伝承あり)
三加和町阿蘇神社(和仁川)の阿蘇神社も坂梨家が関係しています。
三加和町は,豊前街道が通っています。
腹切り坂の下で参勤交代の殿様が休憩しましたが,
そのあたりにも坂梨姓の人々が住んでいます。』
調べたらありました。
ここに出てくる三加和と関係してます。
0702人間七七四年
2009/10/09(金) 18:37:42ID:sL6oTaaH坂梨家の祖はだれですか?阿蘇にも坂梨氏の系統の家が何軒かありますが、関係あるのでしょうか?
0703人間七七四年
2009/10/09(金) 23:09:14ID:sL6oTaaH0704人間七七四年
2009/10/10(土) 22:58:58ID:oIS+ipdr0705奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2009/10/11(日) 07:03:24ID:Ppsg77kz0706人間七七四年
2009/10/11(日) 23:12:34ID:5fKZljNM0707人間七七四年
2009/10/12(月) 01:23:43ID:Fd2YeeEo0709人間七七四年
2009/10/13(火) 20:05:08ID:HtdexXhS阿蘇に居を構えておられる坂梨氏一党とは別の家系なんですね。坂梨高城主の坂梨氏とは関係ないと。
坂梨氏の先祖の阿蘇家の人はだれですか?
0710人間七七四年
2009/10/14(水) 22:39:39ID:+sxr/J3u0711人間七七四年
2009/10/17(土) 09:25:17ID:kUcb8Nkl徳川は家康以降はともかく、源氏ではないことが明らかな家系だろ。たしか先祖は遊僧だったかと。
0712人間七七四年
2009/10/20(火) 21:42:34ID:dhEGWzYR0713人間七七四年
2009/10/21(水) 17:54:36ID:j0LBs12N0714人間七七四年
2009/10/22(木) 23:53:15ID:6Vi6QONo>>713さんのおっしゃるとおり、家督を阿蘇氏に菊池氏が譲ったため
最終的にはそうなりますが、戦国時代を通してそうだというわけでは
なさそうです。
0715人間七七四年
2009/10/23(金) 00:58:06ID:M0IjcOug江戸より前に、三位なんてざらにいて、タイトルにもあるように従二位にまで叙せられた人もいるくらいだから。
千家氏にもそんな高位はいなかった。 家柄でいえば阿蘇家と千家家は同等なんでしょう?
0716人間七七四年
2009/10/23(金) 01:04:07ID:M0IjcOug天皇家よりも古い阿蘇、千家、紀が日本最古のはず。天皇家はそれを知ってて高い位を与えていたのか
0717人間七七四年
2009/10/26(月) 20:22:19ID:Yd63iuT1島津氏と同盟を組んでいた阿蘇家臣
を教えてください。
0718人間七七四年
2009/10/26(月) 21:45:50ID:wTyfz/A40719人間七七四年
2009/10/27(火) 22:14:49ID:NnVI3vad0720人間七七四年
2009/11/08(日) 17:30:57ID:STWnuVoi0721人間七七四年
2009/11/09(月) 20:17:10ID:18xk2eScwikipedia以上の情報がほしければ図書館にいくしかない
0722人間七七四年
2009/11/12(木) 10:20:39ID:Y5bz2B5F0723人間七七四年
2009/11/13(金) 09:30:16ID:QrmPwAdB0724人間七七四年
2009/11/17(火) 20:50:41ID:WcMZRTPp0725人間七七四年
2009/11/18(水) 11:48:30ID:AQLh7YWA0726人間七七四年
2009/11/18(水) 21:57:43ID:AQLh7YWA0727人間七七四年
2009/11/19(木) 01:21:31ID:iXD0001X0728人間七七四年
2009/11/20(金) 00:44:35ID:HP6VF9sk受け継いでいると考えると非常に興味深いよな
0729人間七七四年
2009/11/22(日) 11:04:22ID:nH45rFmv0730人間七七四年
2009/11/29(日) 14:14:25ID:A+c4I9UK0731人間七七四年
2009/12/01(火) 12:59:35ID:0vaUI4zu0732人間七七四年
2009/12/01(火) 13:08:27ID:rvKwpIBO0733人間七七四年
2009/12/01(火) 13:54:54ID:0vaUI4zu0734人間七七四年
2009/12/05(土) 03:03:29ID:Bmec1OwA母親が阿蘇出身ですよね
0735人間七七四年
2009/12/18(金) 20:43:26ID:OFiUc1qq阿蘇領に侵入した島津氏に滅ぼされた国人領主達は竜造寺方や大友方の国衆を頼った者が多いと思われる。
宗運の子、甲斐親秀の場合、御船城が陥落すると御船から見て阿蘇山の真反対の志賀氏の領地、現在の大分県竹田市市用まで逃れている。
村山氏の場合も豊後か筑後方面へ逃れたと思いますよ。そんな所は苗字が村山だらけの村山集落のはずです。
でも宗家は滅んでるはず。。
0736人間七七四年
2009/12/21(月) 23:53:12ID:DBmQCvET0737人間七七四年
2009/12/22(火) 12:05:32ID:XoXh1yrF森高の母親の旧姓は
高森?森高?なの?
それなら高森には一軒もないよ。高森はおろか南阿蘇に一軒もない
村山姓なら何軒かある。
因みに村山と言う地区もある
0738人間七七四年
2009/12/22(火) 14:01:31ID:r+a3uHKr森高千里の母方の姓は高森だそうです。阿蘇のどこかは分からないけど、南郷じゃないとすれば
阿蘇谷かな?詳しくはわかりません。上の方のレスによると阿蘇谷に高森氏がいるようで、その家と関係あるのかな?
昔は高森地方に高森城にがあり高森氏が居城していたようですが、現在南郷に一軒もないということは、やはり島津氏との戦いで
散り散りになったのですね。
宮地には確かに村山氏が近所同士で密集している部落がある。同じく島津に追われて阿蘇谷に逃れたのか。
0739735
2009/12/22(火) 20:13:43ID:UrhUKejWもしそこが村山氏と関係があるのなら、その集落の墓所に村山氏の誰かの慰霊碑なんかがあったりするんじゃないかな。
甲斐宗運を先祖に持つ集落の墓所にはあったよ。詳しくはその集落の人に聞いてみるしかないね。
0740人間七七四年
2009/12/23(水) 21:40:09ID:HhlVhbAn0741人間七七四年
2009/12/23(水) 23:04:08ID:8GQpHT+3大分県竹田市大字会々にある西休寺周辺と大字穴井迫には甲斐親秀の子の甲斐親盛の系譜の集落があるようです。
あとは宮崎県佐土原にも親秀の子の親信が逃れたという伝承があるので多分そちらにもあると思います。
0742人間七七四年
2009/12/30(水) 18:39:11ID:ahMFtPeN0743人間七七四年
2009/12/31(木) 21:53:07ID:FS0ueuQE0744あまり知られてない事
2009/12/31(木) 22:20:10ID:FS0ueuQE甲斐相模守親秀と甲斐大和守親英は別人。
嫡男は親秀。甲斐親英は同族の甲斐正運の子で娘婿。
0745人間七七四年
2009/12/31(木) 23:14:55ID:16ZZiSIq0746人間七七四年
2010/01/03(日) 01:30:30ID:lFL0R5I+0747人間七七四年
2010/01/03(日) 03:01:22ID:lFL0R5I+0748人間七七四年
2010/01/03(日) 12:21:17ID:lFL0R5I+0749人間七七四年
2010/01/07(木) 10:49:24ID:0jY7Bpz0阿蘇神社の流鏑馬神事で馬上で弓を射る坂梨家の人が主だったらしいんだけど。
0750人間七七四年
2010/01/09(土) 17:17:37ID:Q0MEaSRM0751甲斐左近将監親成
2010/01/09(土) 20:50:24ID:ZsFep3Ty市下大和守は分からないが
蔵原志摩守の事なら阿蘇市の『くらはら館』に家系図なんかがあるんじゃないかな。。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/entame/topics/0902/to_09020801.htm
0752人間七七四年
2010/01/09(土) 23:27:06ID:Q0MEaSRM載ってなかった。惟が付いていたのは確かだと思うが。
0753人間七七四年
2010/01/10(日) 23:19:53ID:wsnjKg410754人間七七四年
2010/01/11(月) 12:22:23ID:mVXOmQJM0755人間七七四年
2010/01/11(月) 17:56:09ID:mVXOmQJM0756甲斐左近将監親成
2010/01/12(火) 17:16:10ID:2YcHNVtA市下氏と蔵原氏の領地はどの辺りで何町くらいだったんすか?
0757奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2010/01/12(火) 18:44:55ID:vq9OhzF0健磐龍命─速瓶玉命─建淳美命─美穂主命─宇治部武凝人─
倉主─小国─石金─赤目子─鳥見─小杖─真里子─角足─平田麿(※1)─武男─
定足─継村─建人─共直─友成(※2)─友仲─友孝─友実─友房─惟俊─
惟宣─資永─惟泰(※3)─惟次─惟義─惟景─惟国─宇治惟時=恵良惟澄(惟景曾孫)─惟村─
惟豊─惟種─惟善─友貞─友隆=友名(友隆弟)=真楫(大里惟仲子)=惟典(大里惟栄子)─惟馨─惟賞─
惟治─惟敦─惟孝─惟紀─惟友─惟之(当代)
※1・・・阿蘇宮司の初出
※2・・・阿蘇大宮司の初出
※3・・・阿蘇氏としての確実な当主
世数では神武天皇から56番目になるね。
0758人間七七四年
2010/01/12(火) 18:54:10ID:+gP2mlxx一世代に何人もなったりして(兄弟、分家等)91代にもなっているのですね。
結局初代は誰ですか?本姓は宇治だから、初代は宇治部武凝人ですか。
0759人間七七四年
2010/01/12(火) 18:56:11ID:+gP2mlxx0760奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2010/01/12(火) 21:05:59ID:vq9OhzF0皇統と同じと言っては不敬ながら、神代を数えれば91代は妥当な数字だと思うよ。
少なくとも神武天皇からの皇別と設定しているあたり、習合があったのは間違いないんだけど。
0761人間七七四年
2010/01/12(火) 21:23:18ID:+gP2mlxx全国有数の旧家であることは間違いないですね。この豪族が国造であったことも間違いないと思えます。
0762奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2010/01/12(火) 21:34:20ID:vq9OhzF00763人間七七四年
2010/01/12(火) 21:43:38ID:+gP2mlxx0764甲斐左近将監親成
2010/01/12(火) 23:45:25ID:2YcHNVtA0765人間七七四年
2010/01/13(水) 00:41:41ID:6B59WrYHごめん。そこのところ詳しくない。ただ両者とも有力な一族であるのは確か。
阿蘇谷では坂梨、蔵原、小陣が家臣の領地の大半で、南郷谷では南郷七家で占めていたと思われる。
0766人間七七四年
2010/01/13(水) 14:55:08ID:6B59WrYHまさかね。http://e-tanzaku.com/catalog/detail.php?aid=1380
0768人間七七四年
2010/01/14(木) 22:51:35ID:+Z4etI3X惟馨 これ何と読むのですか? それと伊予守という通称を持っていたみたいですが、
大宮司なのになぜ別の通称があるのですか?
0769奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2010/01/15(金) 17:42:21ID:VdDwf7V7そこに突っ込まないように。
>>768
諱の訓はどうでもいいような気がするけど・・・「これきよ」くらいでどうでしょ。
あと大宮司が伊予守だと何か問題あるかな。大宮司は官職や位階ではないだろうし。
0771人間七七四年
2010/01/19(火) 02:04:33ID:tTMS2md2数年前のカキコに大亀レス、仏木坂で清正と一騎打ちの弾正と黒田官兵衛の息と溺死した惟久は兄弟らしい
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kiyama_k.html
>>307もここご覧になってないだろうが、書いておきます
0772人間七七四年
2010/01/21(木) 01:22:34ID:QLUvqAVs0773奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2010/01/21(木) 19:26:11ID:GApLf8GL0774人間七七四年
2010/01/21(木) 22:24:23ID:QLUvqAVs0775奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2010/01/21(木) 22:33:17ID:GApLf8GL先週だったか娘に付き合わされて「もののけ姫」を見たけど、このあたりがいろいろ鏤められているのを感じた。
0776人間七七四年
2010/01/21(木) 23:00:01ID:QLUvqAVs意味が解りかねますが
0777甲斐兵庫守秋政
2010/01/23(土) 22:26:42ID:6QbDviKx0778人間七七四年
2010/01/24(日) 00:16:14ID:OdvlBEp3事実上、大宮司家の外交を司っていた甲斐宗運の甲斐氏や、南北朝以来の家柄である坂梨高森の両氏は重要だろうね。
村山氏や西氏も古文書によくでてくる苗字で重臣。他にもいるだろうけど敢えてベスト5となるとそんなもんかな。
あと小陣氏もよく出てくるし、南郷七家も一門だと聞くし、人それぞれ価値観が違うかも。
0779甲斐兵庫守秋政
2010/01/24(日) 12:34:25ID:42W9K2DT分かるのは甲斐氏くらいだもんな。。
0780人間七七四年
2010/01/24(日) 23:36:18ID:OdvlBEp3因みに、甲斐宗運の子孫ですか?
0781甲斐兵庫守秋政
2010/01/25(月) 16:16:08ID:7WFlyQt3庶流の庶流で19代後胤であります。
曽祖父の代まで、とある藩の郷士で半ば庄屋のような事をしておりました。
0782人間七七四年
2010/01/29(金) 13:41:31ID:B6thZZ8R甲斐宗運の子孫は熊本にいないの?
0783甲斐長門守宗摂
2010/01/29(金) 21:56:11ID:ubxzzHFs宗運公の子孫は星の数ほどいると思いますよ。
ただ素性がはっきりとしてる人は少ないかも知れません。
熊本なら御船に数軒あると聞きました。
永寿寺だったか東禅寺だったか住職が末裔じゃなかったですかねぇ。
違ってたらすいません。。
0784人間七七四年
2010/01/29(金) 23:16:08ID:B6thZZ8R0785甲斐長門守宗摂
2010/01/30(土) 08:34:07ID:hKa7GI9X宗運公とは遠縁にあたる家代の甲斐家の系譜の人で
現在の日之影の岩井川から塚諸村の家代にかけてを支配していた国人領主です。
0786辺春丹波守盛道
2010/01/31(日) 19:10:24ID:5nFgQQvE系図には載っていない兄弟とかはいないんだろうかという疑問。。
0787人間七七四年
2010/02/01(月) 00:18:27ID:LwsSMB2xところで>>786さんは邉春氏の子孫ですか? 邉春氏の出自知っていたら教えてください。阿蘇内牧城主だったことしか知らない。
0788人間七七四年
2010/02/03(水) 02:22:22ID:g7gqVqzT0789甲斐親宣
2010/02/04(木) 22:53:37ID:3goGUSKd0790宗運の子供達
2010/02/05(金) 22:45:47ID:5POHQzcZ甲斐惟義は惟房とも云い、幻術を使うという噂だった肥後日向境の亀頭山城の城主。
0791人間七七四年
2010/02/05(金) 23:21:30ID:eoLtgm7A0792人間七七四年
2010/02/05(金) 23:25:12ID:eoLtgm7A0793甲斐親宣
2010/02/05(金) 23:31:48ID:A7z2WufL阿蘇家臣で1万石以上なのは誰がいる?
0794人間七七四年
2010/02/06(土) 01:12:56ID:SBia+pYN0796甲斐左近将監親成
2010/02/06(土) 19:57:44ID:DZBToKEvhttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/o_tuyama.html
だとすると阿蘇氏が8000町なら35万石は妥当。
甲斐宗運は草部一帯と鞍岡と御船1000町、後に隈庄1000町も合わせて8万石以上はある。
0797阿蘇一族
2010/02/06(土) 23:43:23ID:SBia+pYNところで宗運に次ぐ阿蘇一族の領主は誰? 阿蘇家臣は宗運以外みんな貧乏だったの?
0798甲斐左近将監親成
2010/02/07(日) 00:07:57ID:0k5aBmq/広域的なものと城や砦の数で個人的には北里氏かなと思います。
身分的には坂梨氏や西氏に南郷七家かと。そして村山氏や仁多水氏などの奉行衆。
0799人間七七四年
2010/02/07(日) 00:09:18ID:Wl5nqBaq少しは勉強しろよな
0800甲斐左近将監親成
2010/02/07(日) 00:21:29ID:G+g4bZLL草部吉見神社は惟豊の時代、当時草部地区を取り仕切っていた宗運公の次弟
甲斐左近将監親成が弘治年間に造営致しました。ちなみに私も昨年参拝致しました。
http://www.genbu.net/data/higo/kusakabeyosimi_title.htm
0801阿蘇一族
2010/02/07(日) 00:29:09ID:VfwhCgmu何となく神々の里のように感じた。
0802阿蘇一族
2010/02/07(日) 00:39:42ID:VfwhCgmu阿蘇郡・・・坂梨 蔵原 小陣 仁田水 北里 高森 長野 村山 市下 峰
益城郡以南・・・甲斐 光永 西 犬飼 田代 木山
0803甲斐左近将監親成
2010/02/07(日) 00:52:32ID:G+g4bZLL0804阿蘇一族
2010/02/07(日) 01:04:06ID:VfwhCgmu追加
阿蘇郡・・・邉春 下城
益城郡・・・黒仁田 砥用 釣野
0805甲斐左近将監親成
2010/02/07(日) 18:39:46ID:G+g4bZLL男成氏も追加で。。
忘れておりました。
しかし阿蘇一族さんは詳しいですねぇ。おどろきました。
0806阿蘇一族
2010/02/07(日) 23:57:47ID:VfwhCgmu匿い、援護したのがきっかけで大宮司家の家臣になったんだけど、
北里氏や邉春氏は何がきっかけで阿蘇家臣になったのかな。
0807中村伯耆守惟冬
2010/02/10(水) 17:12:00ID:2ia5MWdXおそらく。
0808人間七七四年
2010/02/11(木) 00:45:23ID:EgdJrhcw0809甲斐左近将監親成
2010/02/11(木) 18:17:31ID:Bg0Ptlqy何度か戦って負けてはいるけど最終的に勝ちというパターンですね。
二上神社の内紛では甲斐鑑昌に初戦は敗退した模様。。
0810人間七七四年
2010/02/11(木) 23:32:39ID:EgdJrhcw0811甲斐左近将監親成
2010/02/12(金) 18:53:05ID:MEM3vuOG領地は押方周辺で祖父にあたる重久が二上神社(東宮)の宮司職も兼ねていました。
ちなみに三ヶ所神社(西宮)の宮司職は甲斐親成の子の重次で宗運公の甥にあたります。
宗運も親昌も阿蘇氏の家臣でありながら三田井氏の家臣でもあるという一風変わった阿蘇と高千穂の関係は神式色の強い独特の地域であった事が伺われます。
0812人間七七四年
2010/02/13(土) 00:55:59ID:hZVerwG+さすが、宗運公より19代子孫だけあって詳しいね。甲斐氏の歴史は、言わば身内のことだからね。
0813甲斐左近将監親成
2010/02/13(土) 21:32:25ID:u+gE3DHT恐れ入ります。
中世の阿蘇と高千穂は個人的に非常に興味があるだけですよ。
他所にはない独特の地域だと思います。
0814人間七七四年
2010/02/15(月) 01:00:26ID:XpqhUIWZ0815人間七七四年
2010/02/15(月) 16:16:51ID:5IOXeet8昨今の歴史ブームに乗っかって『中世の城跡めぐり』みたいな町の観光スポットコース出来ないかなぁ。
0816阿蘇家臣団
2010/02/15(月) 23:09:09ID:XpqhUIWZ場所さえはっきり分かればまだマシだろうけど。
阿蘇の24城のうち、場所と遺構が比較的残っている城はどこかありますか?
0817阿蘇家臣団
2010/02/16(火) 10:10:29ID:LEbqdXLOもちろん光永や西などの一族もいたが、それだけ軍事面では阿蘇一族は頼りなかったということか。
0818人間七七四年
2010/02/16(火) 20:40:28ID:5Y26xjCd所在は分かってるけど遺構が残ってる城はほとんどないよ。
堅志田城で比較的マシな方。御船城なんか堅城とはほど遠いし、矢部の岩尾城も・・・
>>817
領地を見ても甲斐宗運に勝る他の家臣団はいないよ。もう小大名クラスだからね。
高千穂の甲斐氏も含めて甲斐党は戦に精強で戦争職人的な気質がある。
足利尊氏の征西に従って日向北部に移り住んでからの繁栄ぶりは異常。
九州にはない戦術や兵器等の技術的なものを持っていたのかも知れない。
0819阿蘇家臣団
2010/02/16(火) 21:10:10ID:LEbqdXLO実子も何人か成敗している。正直阿蘇家は家柄はともかく、御世辞にも武力が強かったとは言えないし、あそこまで忠義を尽くさせた
ものは何だったのかが知りたい。大友氏から偏諱を貰って入道宗運と号し、大友氏は甲斐氏を阿蘇家への抑えとして利用してたとも受け止められる。
大友も甲斐宗運が肥後一の智将であることを認めていた。
0820阿蘇家臣団
2010/02/16(火) 21:33:11ID:LEbqdXLOさすがは宗運公 武門の誉れである。
0821阿蘇家臣団
2010/02/16(火) 23:40:20ID:LEbqdXLO((((((;゚Д゚))))))ガクガクブルブル
0822もう一人の継承者
2010/02/18(木) 13:45:36ID:Kcw7RjPq大友宗麟は、日向高千穂方面は『甲斐長門入道』。肥後は『甲斐刑部大輔』と『甲斐兵庫頭』が最も頼りだと述べている。
甲斐宗運亡き後、甲斐家を継いだのは大友氏からの呼び名『刑部大輔鎮隆』こと嫡男の『親秀』とこの人物『兵庫頭』。
戦国末期に家代峠で自刃したという『甲斐兵庫守秋政』という人物がいたようだが時代的に同じ人物とは思われず、親子関係だったとしても
宗運とはどのような関係であったのか、首領的な立場なのに系譜不明という謎の人物である。
0823人間七七四年
2010/02/18(木) 19:27:46ID:O1MvvE6t0824人間七七四年
2010/02/18(木) 20:15:17ID:Kcw7RjPqいつの時代の事でしょうか?興味深いですね。
0825人間七七四年
2010/02/18(木) 20:36:14ID:O1MvvE6t何かと「七」がつく代名詞が多いようです。
0826人間七七四年
2010/02/18(木) 21:56:02ID:Kcw7RjPq甲斐親宣、村山惟民、西惟宗、北里義重、室原鑑知、小陣惟住、男成家継かな。
0827人間七七四年
2010/02/18(木) 22:45:15ID:O1MvvE6t詳しいですね。 半分は知らない人物です。
0828人間七七四年
2010/02/19(金) 19:02:30ID:4iB8IBB+惟長と惟豊が争った時、惟長方には、祝部、竹崎、村山、西の名前があります。
村山氏と西氏は一族が惟長派と惟豊派に別れていたようです。
惟長の時の七家老だと、祝部某、竹崎某、村山某、西某、残り3人は分かりませんねぇ。
0829人間七七四年
2010/02/19(金) 21:58:32ID:qcxXGvUO甲斐親宣の領地に近かった者たちでしょうか。益城郡の光永氏がいないのは少し意外でした。
0830人間七七四年
2010/02/19(金) 23:18:26ID:4iB8IBB+北里氏と室原氏は小国。村山氏は南郷。西氏は堅志田。男成氏は男成。
小陣氏は私も知りません。。
光永氏はなぜに意外なのですか?
0831人間七七四年
2010/02/20(土) 00:04:47ID:8YEZmOb+だから当然活躍していたのかと・・
0832人間七七四年
2010/02/22(月) 00:05:36ID:SRHxi5Oj0833人間七七四年
2010/02/22(月) 17:37:36ID:TYJMHSM7なるほど。光永家は鎌倉時代からの名家なんですね。
ところで1551年に大友宗麟に攻められ『光永惟宗』『光永惟純』の兄弟がいた津森城は落とされたとあります。
そして1563年にも甲斐宗運が光永氏の家督争いに介入して津森城は落とされます。
大友宗麟が益城辺りまで蹂躙した理由は何でしょうか?
また、城を落とされたのに光永氏が津森城の主でいられたというのも気になります。
0834人間七七四年
2010/02/23(火) 23:26:17ID:WkZO5ui80835人間七七四年
2010/02/24(水) 19:29:05ID:OKZRI80A昔の守護職と新任の守護職との争い。
0836奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2010/02/24(水) 23:24:01ID:p+7yvWVS0837人間七七四年
2010/02/25(木) 00:34:40ID:16lKQigG甲斐宗運はなぜ光永氏の家督争いに介入したのでしょうか? 御船阿波守房行に場合は阿蘇家に謀反を起こそうとしたから
討伐は仕方ないとして、他家の家督にまで介入して城を落とした理由は何でしょうか?
0838甲斐左近将監親成
2010/02/25(木) 18:20:37ID:hiJ8nbfuこの当時『甲斐宗運』は隈庄の『甲斐親昌』と争っていました。
この隈庄を孤立させようと
甲斐宗運は、木山氏など付近の領主たちと縁戚関係を結び津森城も味方に引き入れようとしますが
この時の光永家督の三男『光永中務少輔』という人が上手くこれを利用したものと思われます。
0839人間七七四年
2010/02/25(木) 23:22:22ID:16lKQigGつまり嫡子でない三男の「中務少輔」が家督を継げるように宗運に取り計らってほしいと欲した ということですか。
0840奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2010/02/25(木) 23:30:18ID:t5+ilxwX0841甲斐左近将監親成
2010/02/26(金) 00:41:04ID:4tlOj5I1だと思われます。『光永中務少輔』は家督を継げるように。『甲斐宗運』は光永家を取り込めるように。まあ、お互い様と言った所でしょうか。
二派に分かれていたせいもあってか嫡男方であったであろう津森城は12日ほどで落城して家督は『合志親為』を頼り逃亡した模様。
津森城には『光永中務少輔』が入り家督を継承し、光永氏の支城の健軍城には甲斐一族の『甲斐正運』が入城したようです。
ちなみに翌年の隈庄城の攻略には約10ヶ月を費やした様子。
0842人間七七四年
2010/02/26(金) 01:27:44ID:i8Ee3+T5光永氏のこと知りませんでした。当時の阿蘇家は、宇土、合志、隈之庄にコネがあったのですね。
甲斐一族が健軍城に入城した際、前の城主 光永摂津守(入道浄英)は追放されたのですか?
0843甲斐左近将監親成
2010/02/26(金) 08:22:29ID:4tlOj5I1宇土は名和氏の領地で合志氏も阿蘇氏とは誼を通じていません。
隈庄の甲斐氏は阿蘇氏とは友好的でありましたが
肥後職兼任の大友義鑑に所領を与えられた事もあり大友方であったようです。
しかし二階崩れの変で姻戚関係だった入田氏が惟豊に殺害され次第に島津方へ・・・
という事でコネというものはないと思われます。
光永摂津守という人は知らないのですが、中務少輔方でなかったのなら逃亡か追放か討ち死にかと。。
この光永中務少輔はおそらく光永宗甫という人だと思われます。
0844人間七七四年
2010/02/26(金) 20:51:26ID:7ltT568s0845人間七七四年
2010/02/26(金) 21:20:16ID:UYvIAEI30846甲斐左近将監親成
2010/02/27(土) 21:53:27ID:KLNI8bP7合志氏・・・
私は、あまり詳しくないのでこれを見て下さい。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/gousi_k.html
0847人間七七四年
2010/02/27(土) 22:49:09ID:J0PwXlbU0848奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2010/02/27(土) 22:54:52ID:OlLIEYnE0849人間七七四年
2010/02/27(土) 23:10:33ID:J0PwXlbU0850甲斐左近将監親成
2010/02/27(土) 23:28:19ID:KLNI8bP7単純に大友方や竜造寺方との利害関係または姻戚関係によるものだと思います。
それにこの時代の九州では官位役職や本来の領地や石高的に大友氏→竜造寺→島津の順で
まさかの島津だったのではないでしょうか。
0852人間七七四年
2010/02/28(日) 00:07:24ID:XoiH3l0h大宮司惟将までは参謀宗運の助けで上手くいっていた気がする。
0853人間七七四年
2010/02/28(日) 04:59:01ID:geagmv5Eやはり合志氏は竹迫城に入っていましたか。私は竹迫城跡の近くの者であり、
合志小学校には合志を名乗る末裔とおぼしき竹迫出身の生徒がいたのを覚え
てます。
合志くんはその名のとおり、合志役場に勤務しました。
一般の方は合志を「ごうし」と呼びますが、「こうし」です。
0854人間七七四年
2010/02/28(日) 05:09:35ID:geagmv5E「よしひさ」だったのは覚えています。今思えば、屈服した島津氏の
影響を受けているのかと・・・・
0855甲斐左近将監親成
2010/02/28(日) 19:19:02ID:/l9zyfTr花山城を甲斐親秀が攻略して島津氏との本格的な合戦が始まり
翌13日に堅志田・甲佐・萩尾が落城。翌15日に甲斐氏は御船を放棄して翌16日に隈庄を開城。
重要拠点の隈庄と御船を失い大宮司家は降伏したのですが
島津義弘は御船の若宮八幡宮で連歌の会を催したり、甲佐の各城主達を呼び寄せ酒宴を開いたりと
降伏した領主を上手く取り込む為にやっきになっていたようです。
0856人間七七四年
2010/02/28(日) 20:06:46ID:XoiH3l0h後見人 甲斐民部大輔親直 小陣治部大輔惟玄 高森式部少輔惟峯 村山形部大輔惟益 仁田水左衛門大夫惟玄 坂梨左近将監惟久
0857甲斐左近将監親成
2010/02/28(日) 21:48:55ID:/l9zyfTr惟豊・惟将の時代で私が知ってる名前は
村山氏で、惟民、惟貞、惟尚、惟広、惟忠、家久。
坂梨氏は、惟連、惟右、紹元。
仁多水氏は、惟栄、惟久。いったいどういう関係なんでしょね。
0858人間七七四年
2010/02/28(日) 22:48:06ID:XoiH3l0h私の知る限りでは、阿蘇家臣となった後の甲斐氏の系譜は 親宣ー親直ー親英
村山氏の系譜は 惟貞ー惟民ー惟広ー家久ー惟益ー惟稔 のようです。
小陣氏、坂梨氏、仁田水氏の系譜は知る機会がありませんでした。知りたいですが・・・
高森氏は系譜ははっきりしないけど、大宮司惟忠公あたりから惟将公までに史料に出てきている名前を順に挙げると
惟員ー惟在ー惟義ー惟峯(惟益)ー惟元ー惟居
甲斐氏は蒙古の首級を挙げた菊池の名を轟かせた菊池武房の流れを汲む菊池一族で、
村山氏、坂梨氏、仁田水氏、高森氏はいずれも大宮司家の流れを汲んでいるそうです。
0859人間七七四年
2010/03/01(月) 09:16:56ID:4m893MwR高橋元種の高千穂進行の事とかも詳しい事情知ってそうだ
0860甲斐左近将監親成
2010/03/01(月) 11:10:09ID:wlREVEoS私が調べた甲斐氏の場合、親宣ー親直ー親秀で、どうやら親英という人が別にいるようです。
しかし高森氏は惟直という名がみられないのが意外ですね。この場合惟直が惟元という事なんでしょうね。
0861人間七七四年
2010/03/01(月) 15:20:52ID:qxGGVnb6甲斐親英=親秀ではないでしょうか? 甲斐宗運の嫡子だったはず。
高森惟居=惟直と言われております。御子孫の史料によると高森伊予守惟居となっているようです。
しかし受領名の伊予守は親子で世襲する場合がありますので惟直と惟居は親子関係かもしれません。
0862甲斐左近将監親成
2010/03/03(水) 21:21:32ID:Wf2rud3A天正10年4月に甲斐左近允に与えた書状や天正13年5月に草部吉見神社の神職だった田上主水助に宛てた手紙に『大和守親英』の名前があるのですが
この時期、親秀は相模守であり豊後では刑部大輔と呼ばれていたと思われます。
5つある家系図のうち『親秀』と表記されているのが3つ『宗立』と表記さているのが2つ。うち1つは島津家伝に伝わるものです。
しかし島津国史には『阿蘇家相甲斐大和守親英』とあります。
『甲斐大和守』は降伏の5日後に島津家臣として位階を求めに御船の島津義弘に会いますが
小国に大友義統が侵入して来たので呼応される事を懸念し、そのまま八代に幽閉された様子で
甲斐親秀は御船陥落後、肥後守護代『志賀氏』の領地、直入郡志土知村市用に逃れ、子のひとり『親盛』を殺したという伝承などがあり・・・
上井覚兼日記、八代日記、矢部風土記、手紙類を見ると親英と親秀はまるで別人ではないか?と思わされます。
高森氏は甲斐氏に比べ登場する史料物が少ないのでお手上げですね。。
0863人間七七四年
2010/03/03(水) 23:49:49ID:pHkAUxp6草ケ部吉見宮の神職は田上氏だったのですか。神主は誰でしたっけ?
宗運に続き親秀も子を殺したのですか。。。戦国の武門は情け容赦ないですね。。
高森惟居と島津勢が戦った高森城合戦については宮崎の五ヶ瀬という地域に伝わる「荒踊り」という
伝統行事のなかに歌として登場しています。鬼武蔵こと新納忠元を総大将とした大軍が南郷高森に押し寄せている
様子や、高森方の奇襲の様子、また島津方に寝返るように説得に来た仁田水左衛門大夫を生害させたことなど、、
なかなか興味深い内容となっています。
0864甲斐左近将監親成
2010/03/04(木) 02:19:07ID:MtrXWXSA響野原の合戦の時、甲斐宗運は御船の若宮八幡宮と山出の大武大明神に戦勝祈願をしたようなのですが
この山出大明神の権大宮司が田上備後守惟清という人で宗運の軍の先陣をきって相良安芸という法師武者を討ち取ったそうです。
田上氏とはそういった神式色の強い身分だったのかも知れませんね。
親秀が子息のひとりを殺したのは阿蘇家を裏切ったからなのかも知れません。。
宗運亡き後は一族間で島津方・大友方・竜造寺方と別れていたようで
御船城を明け渡した時に島津方として城を受け取りに来たのは甲斐掃部入道紹員という人で
竜造寺氏に出した起請文にも載っていた重鎮中の重鎮でした。
宗運亡き後、甲斐家は相模守親秀と兵庫守某が継承したと思われますが・・・
御船・隈庄・健軍一帯と草部一帯から鞍岡では領地が分断されていたせいもあり統制が取れず
派閥争いや利害関係に島津氏の侵入も絡んでどうにもならない状況であったに違いないでしょう。
説得の使者では村山丹後守という人も高森氏に殺害されたみたいですね。
しかし「荒踊り」の歌の歌詞、それぞれの踊りの描写など興味深いですね。機会があればぜひ拝見したいものです。
降伏したふりをして敵を欺く所なんかあるんだろうか。。
0865人間七七四年
2010/03/06(土) 18:08:49ID:PpNf01HZ神話として、歴史として、大自然として気に入っております。
0866人間七七四年
2010/03/07(日) 08:54:26ID:tRYFDnRn当時のままの苗字の家、苗字を変えた家
0867人間七七四年
2010/03/09(火) 10:20:47ID:wUh0RmF1熊本の三加和の一族の者です。
0868人間七七四年
2010/03/09(火) 13:00:17ID:vIDQmBmr0869人間七七四年
2010/03/09(火) 15:33:24ID:hqCJxjFi0870人間七七四年
2010/03/09(火) 17:46:21ID:vIDQmBmr0871人間七七四年
2010/03/09(火) 21:49:32ID:vIDQmBmr0872人間七七四年
2010/03/10(水) 00:36:41ID:gq+UUrVU有名なトコロでは弘安の役で功をあげた惟景の庶子じゃないかな。
0873人間七七四年
2010/03/10(水) 12:27:36ID:BywAOv6fー惟国
ー惟春(坂梨氏)
このほか惟時の庶子孫熊丸も坂梨氏
0874人間七七四年
2010/03/11(木) 16:59:58ID:7woKjZje0875人間七七四年
2010/03/12(金) 22:47:39ID:9uXBHHbCウチのお墓の隣の石碑には坂梨彦熊系譜は惟景の庶子の惟寿って書いてあるんだよね。
ネットで調べると惟春と同一っぽいんだけどどっちかが誤読したのかな?
ちなみに石碑は宮司の銘を打ってあるよ
0876人間七七四年
2010/03/14(日) 23:38:20ID:Sxt5r1CQ阿蘇惟景庶流の坂梨家の子孫ですか?どこに住んでるんですか?
坂梨彦熊とは誰ですか?
0877人間七七四年
2010/03/15(月) 11:59:30ID:4F0jEQnk惟景の庶子坂梨惟春
惟時の庶子坂梨孫熊丸
坂梨高城主坂梨惟佑
それぞれが別系統のようだけど一体どういうこと?
0878人間七七四年
2010/03/15(月) 13:25:07ID:4F0jEQnk0879人間七七四年
2010/03/15(月) 14:26:47ID:p3yurxYW宗家や主だった家しかそのままの苗字を名乗る事を許されなかったからだよ。
庶流は読みは同じでも字を変えるかまったく別の苗字を名乗らないといけなかった。
ちなみに甲斐氏にはそれがなかったみたいなので宮崎熊本大分には甲斐という苗字が多いという事です。
0880人間七七四年
2010/03/15(月) 17:52:14ID:4F0jEQnk坂梨惟佑の時も然り。
0881人間七七四年
2010/03/15(月) 18:53:52ID:p3yurxYW0882人間七七四年
2010/03/15(月) 19:13:59ID:4F0jEQnk0883人間七七四年
2010/03/15(月) 20:19:22ID:p3yurxYW0884人間七七四年
2010/03/15(月) 20:46:43ID:4F0jEQnk阿蘇でいえば・・ ・・ ・・
0885奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2010/03/15(月) 21:14:34ID:ZYzMA0vP0886人間七七四年
2010/03/15(月) 22:53:33ID:4F0jEQnk0887人間七七四年
2010/03/16(火) 12:20:37ID:XrPMax6j石碑は宮地の阿蘇家墓地参道の道路脇すぐだよ。
系図は熊本県立図書館に所蔵されてるって書いてあった。
本家は宮地だけど俺は神奈川在住だからすぐに確認はできない
0888人間七七四年
2010/03/16(火) 17:04:15ID:mYIiHoOr0889人間七七四年
2010/03/17(水) 10:35:43ID:OaX5zxB90890人間七七四年
2010/03/17(水) 14:48:15ID:UKH+Mtiz0891人間七七四年
2010/03/17(水) 23:32:24ID:OaX5zxB90892人間七七四年
2010/03/18(木) 09:41:34ID:byFhoRhettp://imagepot.net/view/126887274723.jpg
0893人間七七四年
2010/03/18(木) 12:11:35ID:bl80lNvhすごいな。惟友さんの銘が打ってある。慰霊碑を福岡に移したとあるけど、分家して福岡に移り住んだの?
0894人間七七四年
2010/03/19(金) 12:01:14ID:sThbx6jC県立図書館になかった。
0895人間七七四年
2010/03/20(土) 17:43:37ID:JmYdnRxa0896人間七七四年
2010/03/20(土) 23:25:31ID:JmYdnRxa0897人間七七四年
2010/03/21(日) 22:31:18ID:ELc1Rm1s0898人間七七四年
2010/03/22(月) 09:11:28ID:VII86G+c0899人間七七四年
2010/03/23(火) 10:06:20ID:fZ+X7si+阿蘇氏の「惟」って「コレ」って読むの? 「タダ」って読むの?
0900人間七七四年
2010/03/23(火) 10:31:43ID:2t7mTrCwコレ です。
惟忠(コレタダ)
0901人間七七四年
2010/03/29(月) 19:07:25ID:8Fjq24rx「ウチのお墓の隣」のものだからよくわからん。
ウチの本家は遡れる限りはずっと宮地だが。
0902人間七七四年
2010/03/30(火) 00:31:17ID:yxImqVpe0903人間七七四年
2010/04/12(月) 21:25:42ID:u+EHjPZx0904人間七七四年
2010/04/14(水) 00:28:27ID:MQU9kXUM0905人間七七四年
2010/04/15(木) 15:56:45ID:DctqGxDX探したけど載ってなかったよ。できればn数を教えていただければ・・
0906人間七七四年
2010/04/23(金) 21:04:08ID:VzrYwTcRそれと孫熊丸は現在の坂梨家の先祖とは別なのでしょう?
0907人間七七四年
2010/04/27(火) 20:41:58ID:O3FU6jDY0908人間七七四年
2010/04/28(水) 19:58:14ID:Ecg5VReh>阿蘇家臣の子孫は今どれくらいいるのでしょうか?
当方がそうだと伝わっています。
早川一族です。
0909人間七七四年
2010/04/30(金) 00:53:59ID:WvlQS/oE0910908
2010/04/30(金) 12:00:58ID:kJMTi8Iq一代前まえなら邦秀
早川初代なら秀村
元の苗字は渡辺
伝承では嵯峨源氏
吉秀の妻は甲斐宗運の娘
二人の間の子は
秀家(のちに家秀)
秀貞(別に丹波)
早川・渡辺以外に佐渡・猿渡の苗字あり
猿渡城が正秀(邦秀の父)
0911人間七七四年
2010/05/01(土) 15:47:25ID:5OTq6GLp早川一族はの居城は益城郡ですか?
0912人間七七四年
2010/05/01(土) 19:27:36ID:muqmIy8G早川城は現上益城郡甲佐町です。
同じく現上益城郡甲佐町の南早川城主に渡辺吉久がありますが
同族です。
これは秀村の弟、清(あるいは秀清)を祖とする早川三社の社司家です。
吉久の妻は早川です。
その著書が郷土史の史料となっている渡辺玄察は、この社司家です。
猿渡城は現上益城郡山都町です。
早川入城以前は矢部の菅の城にいたそうです。(現上益城郡にある囲城?)
0913奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2010/05/02(日) 00:02:42ID:WfUGc2AE0914人間七七四年
2010/05/02(日) 22:39:35ID:30YiOb+A0915人間七七四年
2010/05/14(金) 12:34:29ID:HGCy+Z4W0916人間七七四年
2010/05/14(金) 13:06:03ID:BDO+CiwU何という姓ですか?
0917甲斐左近将監親成
2010/05/15(土) 23:50:49ID:v0y9oU8F甲斐守昌、甲斐親英、伊津野正俊、早川吉秀に嫁いでいる。
伊津野氏もだが、利害関係があったにせよ甲斐宗運が娘を嫁がせたという事は
早川吉秀という人物がよほどの将であった事が伺われます。
0918人間七七四年
2010/05/16(日) 16:20:39ID:0p2cOfwA甲斐宗運は阿蘇一族には嫁がせなかったのですか?
0919甲斐左近将監親成
2010/05/16(日) 19:27:17ID:aQyYAD+A甲斐宗運の娘が阿蘇家の一族の誰かに嫁いだという話は私の知る限りないですね。
隈庄の甲斐氏が島津氏と通じた事など、娘を阿蘇家の一族に嫁すよりも
阿蘇と島津・相良の間の甲佐地方の国人領主を確実に取り込む事の方が重要だったのではないでしょうか。
0920人間七七四年
2010/05/16(日) 21:24:42ID:0p2cOfwAなるほど。いわゆる政略結婚というやつですな。
0922人間七七四年
2010/05/21(金) 00:16:56ID:I0usSoKXおそらく坂梨氏ですね
0923人間七七四年
2010/05/29(土) 01:44:47ID:LCkKhJsc0924人間七七四年
2010/05/31(月) 14:02:38ID:C7wrAFKt大里さんか恵良さんか上嶋さんだね
0925人間七七四年
2010/06/02(水) 08:25:34ID:7ZeK0fT8直系来たのか?
0926人間七七四年
2010/06/04(金) 15:48:24ID:S3HYpFvC阿蘇惟景(13世紀末)の庶子惟春が始祖なのもわかったが約3世紀分の系譜がまったくわからん。
何を調べればいいか誰か知恵を貸してくれ
0927人間七七四年
2010/06/04(金) 17:34:32ID:unVCrzVZ坂梨家の本家に聞くというのは? 確か阿蘇に居られたはず。姓は坂梨か市原だったと思う。
0928人間七七四年
2010/06/05(土) 01:44:04ID:sb2G1ZFiあるいは菩提寺で過去帳の公開を求める。 よければ結果聞かせてくれ。俺も気になる。
0929人間七七四年
2010/06/05(土) 21:06:54ID:Prj5urZi感動的だ
0930人間七七四年
2010/06/05(土) 21:28:58ID:1G+SdXb717世紀の坂梨助兵衛盛継の子から3系統に分かれてるんだがどこが本家だ?
@坂梨助兵衛盛綱 この後3代まで御茶屋番・惣庄屋 阿蘇家家司役
A坂梨助次郎
B坂梨(市原)助三郎 坂梨助兵衛系統御茶屋番・惣庄屋辞退後引き継ぐ 一領一足
0931人間七七四年
2010/06/05(土) 23:17:48ID:sb2G1ZFi0932人間七七四年
2010/06/06(日) 01:28:49ID:xCRdzotj0933人間七七四年
2010/06/06(日) 14:45:42ID:xCRdzotj坂梨惟春 惟長 惟孝 惟運 惟光 惟久 惟佑 だと思う
0934人間七七四年
2010/06/07(月) 12:45:25ID:83KuAxdr0935人間七七四年
2010/06/08(火) 01:01:24ID:cI5KX9Nn0936人間七七四年
2010/06/08(火) 12:50:18ID:Dhisefdbどーやって調べたの???
自分で調べたいから調べ方を教えて!
0937人間七七四年
2010/06/23(水) 18:12:53ID:vQeHoMeoなぜ阿蘇家が弱小なのだろうという疑問。
0938人間七七四年
2010/06/24(木) 10:49:09ID:MMdW9fs80939人間七七四年
2010/06/26(土) 20:53:53ID:5H0vx0bh0940人間七七四年
2010/06/29(火) 15:08:44ID:wC5VV+KK惟長に追われる前は誰だったんでしょうか?
また惟長の時代の筆頭家老も気になる。やはり阿蘇一族の誰かなのだろうか。。
0941人間七七四年
2010/06/29(火) 16:02:42ID:NsbFgRd9これといって筆頭と断定できるような史料は見たことないけど、阿蘇家の一族なのは間違いないね。
惣領制が強かった室町中期くらいまでは家老という概念があまりなかったと思う。家格はあったんだろうけど。
戦国(室町後期)になると一族も家臣化して家老もでてくる。この頃の残っている史料に名前が高頻度で出ているのは、
村山、竹崎を筆頭に、小陣、仁田水、高森、坂梨、光永、西などが続く。
非一族では、室原、北里、木山などがあげられる。
0942人間七七四年
2010/06/30(水) 12:21:17ID:DsCxfIx30943人間七七四年
2010/06/30(水) 15:16:27ID:78QVDY83上に挙がってる中に名があるの? それなら名家だと思うよ。
というか子孫が残ってるのか・・
0944奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2010/06/30(水) 22:01:03ID:xSdeol380946人間七七四年
2010/07/03(土) 15:04:09ID:nKLOAStK俺、結構探したよw
或いは苗字が変わったのか・・
0947人間七七四年
2010/07/08(木) 02:29:44ID:Qy1CXazR本当にいるのか?
0948人間七七四年
2010/07/09(金) 16:45:07ID:pr00IMMs0949人間七七四年
2010/07/09(金) 18:44:42ID:Lf9kD8U00950人間七七四年
2010/07/12(月) 08:36:20ID:thAlF/nb0951人間七七四年
2010/07/12(月) 11:09:33ID:zwZaWa2wスマン間違えた。
坂梨右衛門惟祐のお墓ってどこにあるか誰か知らない?
0952人間七七四年
2010/07/12(月) 12:58:05ID:m81pjbixうちにあるけど
0953人間七七四年
2010/07/12(月) 13:54:10ID:zwZaWa2wマジレス!?
どこのお寺か教えてください。
0954人間七七四年
2010/07/12(月) 14:36:20ID:m81pjbix0955人間七七四年
2010/07/17(土) 13:43:56ID:9pUIA9zz0956人間七七四年
2010/07/21(水) 21:37:42ID:OT/iEm1U0957人間七七四年
2010/07/22(木) 11:04:02ID:BaZpOQ4Z0958人間七七四年
2010/07/27(火) 22:46:02ID:kzYcQPsv0959人間七七四年
2010/07/29(木) 21:00:22ID:eN/NfdT+0960人間七七四年
2010/07/29(木) 22:11:39ID:zjuqzUVJ0961人間七七四年
2010/07/30(金) 08:39:43ID:kcisXJEE壇ノ浦で負けて、阿蘇の山奥へ。落ち武者狩りから逃れるために
名前聞かれ平と言えないので、坂が無いのが平なので坂梨と
名乗ったと親戚の爺様に聞きました。
本当かは知らぬ。
0962人間七七四年
2010/07/30(金) 10:14:48ID:yFK1iP7Pマジかよ
阿蘇に逃れたなら阿蘇大宮司の庇護を受けただろうな。ちらっとそういう話は聞いたことがある。
幼い安徳天皇も肥後の山奥に匿われたとか伝説残ってるからね。
0963人間七七四年
2010/07/30(金) 10:34:15ID:DdlnjGmJ0964人間七七四年
2010/08/01(日) 12:29:56ID:g8bV+Z37どう多めに数えても80くらいしかないんだ。因みに速瓶玉命を初代とした。
0965人間七七四年
2010/08/01(日) 12:55:19ID:g8bV+Z37しかも、系図も阿蘇氏系図のほかに異本阿蘇氏系図など数種類あり、神代はいいとして、平安期の友成大宮司くらいまで
全然違う系図になってるんだが、これはどう解釈すればいいかな?阿蘇家の先祖が古代国造で、かなり古い時代から阿蘇地方の長として君臨
してきたであろうことは誰も否定しない。別に阿蘇家を貶めるつもりはない。だが友成以前は結構いい加減じゃないか??91代というのは
多すぎるような気がする。 このへん詳しい人教えてくれ。
0967人間七七四年
2010/08/09(月) 12:50:18ID:Rxf4Bmrwいう意味合いの記述がありました。事実とすれば、忠臣でなくただの乗っ取りになるのですが、個人的には、宗運は
敵方に通じたとして実子3人を斬っていることからしても、単なる野心家だったとは思えないのですが。いかがでしょう?
0968人間七七四年
2010/08/09(月) 21:52:44ID:7ESSy7wq甲斐宗運が黒仁田氏を討ったのは阿蘇家臣団内での権力争いが主な原因であったと思われます。
もちろん重臣の一族を滅ぼすのですから阿蘇氏の裁可は得ていたでしょう。
実子3人を斬ったという伝承も阿蘇家に背いたからの理由ではなかったでしょうか?
なので伝承的にいうと甲斐宗運は阿蘇家を第一と考えているように思います。
0969人間七七四年
2010/08/10(火) 12:20:05ID:CG4VRNVn0970人間七七四年
2010/08/14(土) 19:29:03ID:z9RfVTYf0971人間七七四年
2010/08/27(金) 22:58:20ID:1WDUCDfz康平寺に福満坊というのがあるみたい
ttp://www7a.biglobe.ne.jp/~k1058/kobunkensiryo15.html
0972人間七七四年
2010/09/04(土) 12:57:24ID:LNilU2JN0973人間七七四年
2010/09/08(水) 08:43:02ID:at3CNmR/落ち着きました。
0974人間七七四年
2010/09/11(土) 10:09:59ID:QKx3QL4Vどうすればいい?
0975人間七七四年
2010/09/17(金) 22:25:03ID:wtC+98w/0976人間七七四年
2010/09/17(金) 22:30:39ID:nDm1IiAdがどうした?
0977人間七七四年
2010/09/24(金) 14:49:15ID:6HcuLCae阿蘇家はちゃんと天皇家には畏まっておられる。
庶家・旧臣・社家・一族みんな迷惑する。
当代が一番迷惑されるんぞ。
主家に弓引くか、こん馬鹿たれが。
そもそもお前が本当に庶流かどうかも分からんがな。
ちゃんと育てられとるなら、こんな事は書かん。
親がいらんこと喋るからこうなる。
県外在住だからと言って口に責任がないわけではないぞ。
0978人間七七四年
2010/09/24(金) 20:20:56ID:6kGT+AmS私は684ではないが、皇室に畏まるのは日本人なら当然のこと。ただ、家系が古いかどうかは客観的にとらえるべきで、皇室よりも古い家系は2,3あるでしょう。
皇室を敬うのは家系が古いからだけではないでしょう。一系の天皇が常に日本の中心におられ、天皇自身、祭祀の長として常に国民の幸福を祈っておられるような御存在だからこそ畏れ多いのです。
0979人間七七四年
2010/10/12(火) 08:11:53ID:POEkMwfS0980人間七七四年
2010/10/14(木) 12:21:45ID:ALMj+iKx0981人間七七四年
2010/10/14(木) 18:24:45ID:l+SQa3350983人間七七四年
2010/10/15(金) 12:02:29ID:bLlLAeqB0984人間七七四年
2010/10/16(土) 10:42:58ID:Fv6O4ii30985人間七七四年
2010/10/16(土) 11:34:31ID:4JpUmbQY阿蘇家で確実なのは平安後期の宇治惟宣あたりから
全く違うか
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