戦国大名、初期〜中期〜後期の石高
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0001人間七七四年
2007/05/23(水) 23:04:52ID:aVcjHcsBの石高がわからず、どの程度の規模の領主だったのかさっぱりわからない
例えば、織田信長が守護代の分家の分家の家を継いだときどれくらいの
石高だったのか? オヤジ(信秀)が頑張ったからそこそこの規模だと
思うが、ではオヤジの代での石高は? 守護代の分家の分家となると
相当低いと予想されるが・・・
戦国大名の初期〜中期〜後期の石高を教えてくれ
0053人間七七四年
2008/01/02(水) 20:24:14ID:ID+WkpMb上総や上野に匹敵するのかもな。
そこで質問だが、
室町幕府が滅んだ後に畿内5ヶ国と近江・丹波・播磨とを抑えてれば、
信長でも手出しできなかったんじゃね?
0054人間七七四年
2008/01/02(水) 23:48:09ID:nN4Ch7mm0055名無し三等兵
2008/01/03(木) 01:14:47ID:qv2gWdto<室町幕府が滅んだ後に畿内5ヶ国と近江・丹波・播磨とを抑えてれば
誰が?
主語がないからわかんないよ。
0056人間七七四年
2008/01/03(木) 11:36:04ID:Oi0J85xI誰が?
主語がないからわかんないよ。
別に誰でもいいんだが、抑える人によって変わってくるよね・・・
0057人間七七四年
2008/01/03(木) 11:58:24ID:HhmUl+Fp新封→越前若狭二カ国に加賀飛騨の一部120万石→小松12万石→除封→棚倉1万石→二本松11万石
蒲生氏郷ー秀行
会津92万石→宇都宮18万石→会津60万石→松山28万石→除封
上杉謙信ー影勝
越後春日山55万石→会津若松120万石→米沢30万石
0058人間七七四年
2008/01/04(金) 00:00:04ID:I2Mojq4C0059人間七七四年
2008/01/04(金) 11:50:49ID:OK0LP4Wp→明英
伊予松前10万石→伊予松山20万石→陸奥会津若松40万石→除封→石見吉永1万石→下野壬生2万石→近江水口2万5千石
堀Q太郎
0060人間七七四年
2008/01/04(金) 12:45:03ID:I2Mojq4C0061人間七七四年
2008/01/07(月) 13:23:01ID:ryr2A/6V灌漑がしやすかったとか無かったんだろうか
京都に近いし、交通もそれなりに多いだろうし、人間が集まれば技術とかの進展も早いだろうと
いや、イメージだけだけどさ
0062人間七七四年
2008/01/21(月) 21:55:32ID:MddsdBraならば毎年百貫の銭を武士に納められる田の土地力は、かりに五分五分だとして、倍の二百貫の収穫があるというになる。
かりに一貫文でコメ一石を買えるとした場合だ。
つまり「百貫取り」の武士は「二百石の収穫が見込める土地」を、名義上支配しているということになる。
時代小説などでとくに東国の武士をあらわすのに「百貫の武士」とあれば、その武士は後世でいう、「二百石取り」のさむらいで良いのだろうか?
詳しい人、できれば詳細を教えてください。。
0063人間七七四年
2008/01/22(火) 09:02:45ID:aZ0OdTtf二百石取りの武士なら、知行地五公五民として、実質年収百石だから、
百貫取りなら、実収50貫程度かと思ふ。
0064仙台藩百姓
2008/01/22(火) 10:31:27ID:eqpZmG2z更に度量衡も地域差があるから例えば田一反=500文としても
その一反が場所によって面積が違うから
同じ一貫でも場所によって一石にも十石にもなるわけだお
0065人間七七四年
2008/05/11(日) 08:57:54ID:vHBF+xvA0066人間七七四年
2008/05/11(日) 12:48:36ID:uxTq4hJCひどい過疎スレ。死に水をとってやろうか。
藤堂高虎
浅井家(小谷城在番・知行不明)
1576年秀長に仕官・300石→播磨遠征・3300石→賤ヶ岳合戦・5000石
雑賀攻め・10,000石→九州攻め・20,000石→1595年秀長の子、英俊死去により浪人
1596年秀吉直臣・宇和島70,000石→慶長の役・80,000石
関が原の合戦・伊予半国20万石→伊勢津藩32万石
0067人間七七四年
2008/05/14(水) 00:29:56ID:SYVIwJKHほんとに150万石もあったんですか?
できれば何郡何割領有、その郡は石高いくつなのかもお願いします。
0068人間七七四年
2008/05/14(水) 00:33:59ID:TIafKSeZ言ってるやつはソースも何も提示できずに消えていったが
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