戦国大名、初期〜中期〜後期の石高
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0001人間七七四年
2007/05/23(水) 23:04:52ID:aVcjHcsBの石高がわからず、どの程度の規模の領主だったのかさっぱりわからない
例えば、織田信長が守護代の分家の分家の家を継いだときどれくらいの
石高だったのか? オヤジ(信秀)が頑張ったからそこそこの規模だと
思うが、ではオヤジの代での石高は? 守護代の分家の分家となると
相当低いと予想されるが・・・
戦国大名の初期〜中期〜後期の石高を教えてくれ
0002人間七七四年
2007/05/23(水) 23:10:49ID:gmUW+iUm戦国大名の領土なんか常に減ったり増えたりやし。
0004人間七七四年
2007/05/24(木) 20:41:33ID:kEDdhkSM一生涯かけるテーマになるようなことをさらっと要求するな
0005戦国博士3gjogijgo
2007/06/07(木) 20:06:31ID:irYFlu6C大名家と年代を教えてくれたらその日のうちに石高を教えてやるぞ。
0006戦国博士 ◆g8H/yk7elU
2007/06/07(木) 20:07:27ID:irYFlu6C0007人間七七四年
2007/06/07(木) 22:28:56ID:JJBla47o0008人間七七四年
2007/06/08(金) 00:28:49ID:nE7ATBQH0009戦国博士 ◆g8H/yk7elU
2007/06/08(金) 04:18:55ID:juZjLsSUだいたい120〜140万石といったところだな。
>>8
ほとんどゼロからのスタートだしな。 5〜10万石あたりだな。
0010人間七七四年
2007/06/08(金) 05:36:15ID:UEdfGOAG0012人間七七四年
2007/06/08(金) 22:56:30ID:CqlUve6d0013戦国博士 ◆g8H/yk7elU
2007/06/09(土) 05:53:44ID:Gb4iuLse鈴木重秀は戦国大名にあらず。 よってその問いは却下する。
0014人間七七四年
2007/06/09(土) 14:02:36ID:dZoI5sby0015戦国博士 ◆g8H/yk7elU
2007/06/09(土) 16:10:30ID:Gb4iuLse0016人間七七四年
2007/06/09(土) 17:15:41ID:xBrek4/20017戦国博士 ◆g8H/yk7elU
2007/06/09(土) 18:10:00ID:Gb4iuLse年代を教えてくれないと。 西暦でね。
0020戦国博士 ◆g8H/yk7elU
2007/06/09(土) 20:43:24ID:Gb4iuLseそうです。
0022人間七七四年
2007/06/12(火) 07:35:41ID:nUkM6eDKそれがだんだ んエスカレートしていって、学校の体育倉庫で服 をぬがされ、まだ3年生ですが学年で1番大きい おっぱいを、つかむように触られたり、しゃぶっ たりされます。
最初は、苦手だったんだけどだん だん気持ちよくなりサイコーです。しかも、わたし は、学年1美人でもてます。
彼も同じで、美男 美女でよくみんなにうらやましく、思われます。
: : このカキコ見たあなたは4日後に不幸がおとづれ 44日後に死にます。それがイヤならコレをコピペ して5ケ所にカキコして下さい。
私の友達はこれを信じ ず4日後に親が死にました。44日後友達は行方不明・・・・。 いまだに手がかりもなく私はこのコピペを5ケ所に貼り付け ました。すると7日後に彼氏ができ10日後に大嫌いな人が事 故で入院しました。 : : 信じる信じないは勝ってで
みつこ
0023戦国博士 ◆g8H/yk7elU
2007/06/15(金) 23:59:33ID:8czPpYtH石高の高い肥後において地元勢力最大の面積を領有した阿蘇氏ではあるが
その領土のほとんどは北東部の山地帯であるため思いのほか石高は低い。
10万石前後といったところであろう。
0024人間七七四年
2007/06/16(土) 01:10:39ID:u/9ASugA0025人間七七四年
2007/06/16(土) 03:28:06ID:7FJB08PEもっとも、米相場は時期によって上下するし、京は、米一石が
800文〜1200文でも、奈良では600文〜800文だったというし、
地域差も大きい。
畑作で大豆等を作った場合は、もっと価格が跳ね上がる。
つまり一概には、言えないってことさ。
0026戦国博士 ◆g8H/yk7elU
2007/06/16(土) 04:04:28ID:8F4hVffdおかげで武士の財政は不安定になってしまったというあたりがなおさら。
0028人間七七四年
2007/08/07(火) 01:53:15ID:3N8eEt5H0029人間七七四年
2007/08/07(火) 13:43:15ID:/1dvjSifhttp://www.asahi-net.or.jp/~MH6H-ECG/ksn/kssouran.htm
全国石高及び大名知行高帳(天正〜慶長)
http://www2.library.tohoku.ac.jp/akitake/akt-dtl.php?sqno=22175
0030人間七七四年
2007/08/08(水) 21:35:04ID:DoJ1wsJm毛利の最大版図は秀吉が播磨に着任した頃。 播磨西部まで及んでいたらしいから
170〜190万石くらい。 ただし宇喜多も含む。
0031人間七七四年
2007/08/14(火) 14:07:35ID:2MoXgBA5尾張の石高多杉で、駿河の石高少な杉
としか思えない
1万石=250人とすると
今川軍(駿河,遠江,三河):25,000人
織田軍(尾張):5,000人
としたら
駿河,遠江,三河:それぞれ30〜40万石
尾張:20万石
が妥当だと思うんだけど...
0032人間七七四年
2007/08/14(火) 15:36:01ID:4xCxfBKf桶狭間の時の清洲織田家の支配地は尾張半国程度。
今川家は駿河、遠江、三河に加えて三河国境沿いの尾張を治める山口氏が今川に
寝返っていたので80万石くらいだと考えれば2万は動員できる。
ちょっと無理して動員すれば25000くらいは可能だったのかもしれない。
0033人間七七四年
2007/08/14(火) 19:42:52ID:KuNn4T/cみんなが戦国時代に生まれて、例えば野伏みたいな境遇ならば・・・
取りあえず旗色のいい大名に駆けつけて暴れまわりたいだろ?
桶狭間の場合は今川が圧倒的に優勢だったんだから、
各地から人間が駆けつけていたとは考えられないか?
そうだとしたら25000は無理な人数だとは考えられない・・・
0034人間七七四年
2007/08/14(火) 19:54:47ID:R9O0I4uu太閤検地のときの毛利の石高はかなり胡散臭い、
その後毛利が長州に移ったとき検地したときはその倍はあった。
このときの毛利の検地が非常に厳しかったのは事実だが、
それだけで、そこまで増えるとは思えない、
賦役を嫌って過少申告した可能性がある。
0036人間七七四年
2007/08/15(水) 00:31:11ID:clTmM8orまあ正確さを求めると正直、キリがない感じもする。
凶作や豊作によって同じ国でも収穫量が違ってくるわけだから石高というのは
毎年減ったり増えたりするものだともいえる。
0038人間七七四年
2007/08/15(水) 19:10:47ID:RT8XJfWF0039人間七七四年
2007/08/17(金) 00:01:48ID:0FMqci/Bまともな領主なら平年作を想定していると思いたいが。
0040人間七七四年
2007/09/17(月) 21:18:10ID:2kuX+7iL0041人間七七四年
2007/09/17(月) 21:24:22ID:e+ZR5hm00042人間七七四年
2007/09/17(月) 21:37:24ID:2kuX+7iL0043人間七七四年
2007/09/18(火) 10:07:24ID:HyAyYhuN家屋・商業地域も計算されてなかったっけか?
0044人間七七四年
2007/09/19(水) 09:40:20ID:RZVRg4KD他の産業などは入ってないんだよな。
0045人間七七四年
2007/10/09(火) 22:07:18ID:TtmNCgL/0046人間七七四年
2007/10/10(水) 15:08:28ID:oGz26LwK0047人間七七四年
2007/11/16(金) 12:29:44ID:BiRYij0E0048人間七七四年
2007/11/21(水) 05:08:32ID:FLII65LE0049人間七七四年
2007/11/21(水) 05:23:32ID:o8LkozF6飢饉も当たり前のように
ある地方だから
譜代大名左遷にはもってこいのとこだけどな
0050人間七七四年
2007/12/02(日) 04:09:56ID:RbZfuFy1尾張って面積的には小さいでしょ
0053人間七七四年
2008/01/02(水) 20:24:14ID:ID+WkpMb上総や上野に匹敵するのかもな。
そこで質問だが、
室町幕府が滅んだ後に畿内5ヶ国と近江・丹波・播磨とを抑えてれば、
信長でも手出しできなかったんじゃね?
0054人間七七四年
2008/01/02(水) 23:48:09ID:nN4Ch7mm0055名無し三等兵
2008/01/03(木) 01:14:47ID:qv2gWdto<室町幕府が滅んだ後に畿内5ヶ国と近江・丹波・播磨とを抑えてれば
誰が?
主語がないからわかんないよ。
0056人間七七四年
2008/01/03(木) 11:36:04ID:Oi0J85xI誰が?
主語がないからわかんないよ。
別に誰でもいいんだが、抑える人によって変わってくるよね・・・
0057人間七七四年
2008/01/03(木) 11:58:24ID:HhmUl+Fp新封→越前若狭二カ国に加賀飛騨の一部120万石→小松12万石→除封→棚倉1万石→二本松11万石
蒲生氏郷ー秀行
会津92万石→宇都宮18万石→会津60万石→松山28万石→除封
上杉謙信ー影勝
越後春日山55万石→会津若松120万石→米沢30万石
0058人間七七四年
2008/01/04(金) 00:00:04ID:I2Mojq4C0059人間七七四年
2008/01/04(金) 11:50:49ID:OK0LP4Wp→明英
伊予松前10万石→伊予松山20万石→陸奥会津若松40万石→除封→石見吉永1万石→下野壬生2万石→近江水口2万5千石
堀Q太郎
0060人間七七四年
2008/01/04(金) 12:45:03ID:I2Mojq4C0061人間七七四年
2008/01/07(月) 13:23:01ID:ryr2A/6V灌漑がしやすかったとか無かったんだろうか
京都に近いし、交通もそれなりに多いだろうし、人間が集まれば技術とかの進展も早いだろうと
いや、イメージだけだけどさ
0062人間七七四年
2008/01/21(月) 21:55:32ID:MddsdBraならば毎年百貫の銭を武士に納められる田の土地力は、かりに五分五分だとして、倍の二百貫の収穫があるというになる。
かりに一貫文でコメ一石を買えるとした場合だ。
つまり「百貫取り」の武士は「二百石の収穫が見込める土地」を、名義上支配しているということになる。
時代小説などでとくに東国の武士をあらわすのに「百貫の武士」とあれば、その武士は後世でいう、「二百石取り」のさむらいで良いのだろうか?
詳しい人、できれば詳細を教えてください。。
0063人間七七四年
2008/01/22(火) 09:02:45ID:aZ0OdTtf二百石取りの武士なら、知行地五公五民として、実質年収百石だから、
百貫取りなら、実収50貫程度かと思ふ。
0064仙台藩百姓
2008/01/22(火) 10:31:27ID:eqpZmG2z更に度量衡も地域差があるから例えば田一反=500文としても
その一反が場所によって面積が違うから
同じ一貫でも場所によって一石にも十石にもなるわけだお
0065人間七七四年
2008/05/11(日) 08:57:54ID:vHBF+xvA0066人間七七四年
2008/05/11(日) 12:48:36ID:uxTq4hJCひどい過疎スレ。死に水をとってやろうか。
藤堂高虎
浅井家(小谷城在番・知行不明)
1576年秀長に仕官・300石→播磨遠征・3300石→賤ヶ岳合戦・5000石
雑賀攻め・10,000石→九州攻め・20,000石→1595年秀長の子、英俊死去により浪人
1596年秀吉直臣・宇和島70,000石→慶長の役・80,000石
関が原の合戦・伊予半国20万石→伊勢津藩32万石
0067人間七七四年
2008/05/14(水) 00:29:56ID:SYVIwJKHほんとに150万石もあったんですか?
できれば何郡何割領有、その郡は石高いくつなのかもお願いします。
0068人間七七四年
2008/05/14(水) 00:33:59ID:TIafKSeZ言ってるやつはソースも何も提示できずに消えていったが
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