少弐氏について語ろう
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年
2007/05/04(金) 02:22:49ID:eOAwTlAjしかし戦国まで続いた大宰府少弐氏である。
とりあえず勝った戦いおしえてくれ
0002人間七七四年
2007/05/04(金) 03:20:37ID:rQ0itO9d0003人間七七四年
2007/05/04(金) 11:53:44ID:KFpq7TX10004人間七七四年
2007/05/04(金) 15:03:58ID:iQPmeMdP0005人間七七四年
2007/05/04(金) 15:57:45ID:eOAwTlAj資、四代少弐盛経、五代少弐貞経(有智山城で戦死)、六代少弐頼尚(筑後川
の戦いで菊池に敗北、少弐衰退の一因をつくる)、七代少弐直資(筑後川の戦
いで戦死)、八代少弐冬資(今川貞世に謀殺される、水島の変)、九代少弐頼
澄(北朝の菊池に反抗するも敗れ亡命、死亡か)、
0006人間七七四年
2007/05/04(金) 16:08:55ID:eOAwTlAj少弐満貞(大内氏に討たれ筑前秋月城で戦死)、十二代少弐資嗣肥前与賀庄の
戦いで戦死)、十三代少弐嘉頼(少弐氏再興のため大友と結び戦うが大内氏と
の戦いで戦死)、十四代少弐教頼(応仁の乱で東軍につき戦うが高祖城におい
て大内氏に敗れ戦死)、
0007人間七七四年
2007/05/04(金) 16:19:13ID:eOAwTlAjを果たすが結局大内氏に敗れ専称寺において自害)、十六台少弐高経(父政
資より三日長く生きたため当主とする、政資とともに討たれる)、十七代少
弐資元(大友氏や竜造寺家兼の助けもあり一時的に勢力を回復し、大内義隆
と和議を結ぶがこれは謀略で結局自害する)、
0008人間七七四年
2007/05/04(金) 16:28:06ID:eOAwTlAj義興に敗れ専称寺で自害)、十六代少弐高経(政資より三日長く生きたので当
主、しかし結局大内に討たれる)、十七代少弐資元(大友氏や竜造寺家兼の後
ろ盾もあり大内氏と和議を結ぶがこれは謀略で、結局大内義隆に攻められる前
に自害)、
0009人間七七四年
2007/05/04(金) 16:36:24ID:eOAwTlAjを信じ竜造寺一族を討つ、結果的にこれが少弐滅亡の要因となった、1559年竜
造寺隆信に攻められ勢福寺城で自害、しかし生き延びたという説もある)、
十九代少弐政興(一般的に政興は投手として認められていないが、大友宗麟と
結んで少弐再興を目指すも肥前中野城で竜造寺隆信に降伏)
0010人間七七四年
2007/05/05(土) 01:34:53ID:wzRB2/nA0011人間七七四年
2007/05/05(土) 07:00:10ID:Axv7NQWt0012人間七七四年
2007/05/05(土) 15:01:38ID:HsqdPL5f少弐景資(二代少弐資能の三男、文永の役で敵の副将劉復亭を討ち取る、しか
し霜月騒動で兄の資能に討たれる)、千葉胤頼(少弐資元の次男か三男、1559
年兄の冬尚とともに竜造寺隆信に討たれる)
その他もろもろ
0013人間七七四年
2007/05/05(土) 17:01:01ID:sCsyt1N7001413
2007/05/05(土) 18:59:26ID:HsqdPL5f幕府から得て少弐攻撃の大義名分ができた、のでその時に大弐と名乗っても
いいはず・・・だが正確には名乗ってなっかったと思う
0015人間七七四年
2007/05/05(土) 20:56:32ID:Mw0xTOON0016人間七七四年
2007/05/06(日) 02:01:16ID:HLQ7CVF00017人間七七四年
2007/05/06(日) 02:06:25ID:HLQ7CVF00018人間七七四年
2007/05/06(日) 02:18:18ID:HLQ7CVF00020人間七七四年
2007/05/06(日) 16:08:33ID:e66hcSHU皆有智山城で菊池に滅ぼされたのか?
誰か知らないか
0021人間七七四年
2007/05/06(日) 20:53:35ID:e66hcSHUこのスレ自分しか書き込んでないのでだれか質問でもしてくれ
0022人間七七四年
2007/05/06(日) 23:24:01ID:ASY6ZRTh太宰大弐の官職を得て、少弐は先祖が太宰少弐だったことから名乗っているのに対して、
その上だと誇示したところが面白い。
0023人間七七四年
2007/05/07(月) 00:07:05ID:SUMu5WbK0024人間七七四年
2007/05/07(月) 00:23:28ID:bFZTwo9P0025人間七七四年
2007/05/07(月) 00:38:48ID:McOUE6TH0026人間七七四年
2007/05/07(月) 01:40:44ID:SUMu5WbKおわびに武勇伝を一つ
少弐資時(三代少弐経資の三男、文永の役で十二歳で初陣、このとき先陣に
立ち鏑矢を放つがそれが元・高麗連合軍のあざけりの対象となった話は有名、
弘安の役にも壱岐の守護代として出陣、壱岐にて元の東路軍と戦い激戦の末
守備隊全員が玉砕、若干十九歳であった)
0027人間七七四年
2007/05/07(月) 03:55:40ID:McOUE6TH0028人間七七四年
2007/05/07(月) 16:09:54ID:RtJwqJ8q0029人間七七四年
2007/05/08(火) 00:15:09ID:VChdlEPE0030人間七七四年
2007/05/08(火) 07:02:30ID:2h+O4oas対馬の宗や肥前の江上・神代とか動員できる戦力は決して小さくはないのに
無能続きだったまさに滅びるべくして滅びた一族
003128
2007/05/08(火) 15:17:15ID:Reov7yHl0032人間七七四年
2007/05/08(火) 22:28:50ID:jjLq8GKg0033人間七七四年
2007/05/08(火) 22:33:51ID:jjLq8GKg0034人間七七四年
2007/05/09(水) 03:38:32ID:DLJp0QGnまあウェブ経由の情報しか知らんが
朝日氏とか横岳氏ってどうなったんかな
勝ったのは大内盛見倒したときと田手畷ぐらいか
0035人間七七四年
2007/05/09(水) 13:36:43ID:1x1Kh+aF高経が大内氏に討たれたのは1497年4月21日、父政資が自害したのは4月19日でわずか3日だが高経のほうが長く生きてる。
0036人間七七四年
2007/05/09(水) 16:24:55ID:MhoMHZp11530年北九州で起きた大内氏と少弐氏の戦い。1497年少弐政資を自害させ、少
弐氏を肥前の小領主にまで追い詰めた大内義隆は、少弐氏にとどめを刺すべく
少弐資元の居城勢福寺城を攻撃するも竜造寺家兼、馬場頼周、鍋島清久などの
諸将が奮闘し、鍋島清久の赤熊軍団(詳しくは忘れたがお面をつけて奇襲をか
けたという)の活躍などあり大内氏を敗走させた。
この後、勢いに乗った少弐氏は大宰府に侵攻するなど、一時精力を回復するが
1535年大内氏当主の義隆が自ら大軍を率いて出陣してくると、竜造寺家兼の裏
切り?もあって結局資元は自害。
0037人間七七四年
2007/05/09(水) 16:27:49ID:MhoMHZp1どちらも少弐氏の一族という悲劇。
0038人間七七四年
2007/05/09(水) 21:06:58ID:8S9BNRb3のですけど・・・。兄弟も1530年以降の生まれみたいなのでつじつまはあっているようですが、
定説ってあるんですかね・・・。天下統一とか戦国史では1510年を生年と設定してますけど。
ご存知の方レス願います。
003938
2007/05/09(水) 23:25:29ID:1x1Kh+aFあと、上の少弐歴代当主一覽は自分が書いたのだが、間違いがあるかも知れぬ。
0040人間七七四年
2007/05/10(木) 13:15:37ID:xvhVW6WQ父少弐頼尚の命で宮方につく、このことに兄の少弐冬資は非常に怒り
少弐氏は分裂することとなる。この後今川貞世に兄冬資が暗殺されると、
少弐九代当主となるが、同盟を結んだ菊池他の北朝方の勢力が衰えて
くると、有智山城を追われ肥後に亡命した)
上の歴代当主一覧でなぜか、北朝の菊池に反抗するも、と書いたが
正しくは難聴の今川貞世に反抗するも、だった、申し訳ない。
004140
2007/05/10(木) 13:16:43ID:xvhVW6WQ0042人間七七四年
2007/05/10(木) 23:33:47ID:Zy4Zeh4f004338(39にも書いたが)
2007/05/10(木) 23:42:58ID:Zy4Zeh4f0044人間七七四年
2007/05/11(金) 14:00:17ID:jFrRt/19004540
2007/05/11(金) 14:09:15ID:jFrRt/190046人間七七四年
2007/05/12(土) 01:14:18ID:S/lnSpU8ウィキペディアや信長の野望は1529年を生年と記載してますが、何が根拠
なんですか。1559年に死んだときに享年30才とでも記録されてるんですかね。
0047人間七七四年
2007/05/12(土) 01:29:48ID:i0k3v6ixこの頃が小弐氏の最盛期だよな。
004846
2007/05/12(土) 01:56:02ID:ZGXE63i5いでるのが明白だから人名辞典とかだと1510年生まれと書いてある。
あと、余計なことだがかりに1529年が生年で1559年に没したなら、享年は31歳になる。
昔は生まれたときから1歳と数えたから。
004947
2007/05/12(土) 02:04:51ID:ZGXE63i5ただ、少弐氏全盛期を築きながら筑後川の戦いで大友含め六万の兵を率い
一万程度の、菊池に負けたのが惜しまれる。
一族は相変わらず戦死するし、有力家臣を多く失ったので、
少弐氏が分裂するきっかけを作ってしまった。
0050人間七七四年
2007/05/12(土) 03:04:53ID:8VZBXOHH少弐の場合は室町幕府にも終始逆らってるんだよな、応仁の乱の一時期を除いて
冬尚の娘が横岳資房に嫁いでたって話も聞くけど
資房の父の資貞が幼少の資元を引き取ったみたいな話も聞くから
けっきょく何がなんだか分からん一族だ
ウィキペの生年はいいかげん、というか武将ファイルソースので書かれて
そのまま残ってるってパターンだろうな
0051人間七七四年
2007/05/12(土) 14:53:19ID:ZGXE63i5横岳資貞(横岳頼房の子、少弐政資・高経父子が大内氏との戦いで討ち死に
したため、家督を継いだ資元をよく支援し、大宰府回復に貢献した。しかし
1531年幕府が大内氏に少弐氏追討の命を出し、大内氏が大軍を持って攻めて
きたため、筑紫尚門、朝日頼貫らとともに大内方に寝返った。このとき子の
横岳資誠、馬場頼周・頼員父子、竜造寺家兼、鍋島清久、筑紫惟門、出雲頼
通らの活躍で、なんと大軍の大内勢を破った。この戦いで大内方の横岳資貞、
筑紫尚門、朝日頼貫ら少弐一族が多数討ち死にするという悲劇。
横岳資誠が寝返らなかったのは少弐冬尚の娘を妻にしていたからとされる)
0052人間七七四年
2007/05/12(土) 20:37:19ID:ZGXE63i50053人間七七四年
2007/05/12(土) 23:14:44ID:pf9OI3TJ0054人間七七四年
2007/05/12(土) 23:51:46ID:NPsbgckxどうせ大内はこいつらを先陣に使ったんだて
0055人間七七四年
2007/05/13(日) 01:05:23ID:/4PoH0hC大宰府を回復した十五代少弐政資は自信を得、おごり高ぶるようになった。
宗像大宮司に猫の金像があった。政資はそれを無理に所望し、大宮司はしぶ
しぶ手渡した。
ところが、政資は「猫の金像はもうひとつあるはずだから、それも欲しい」
と言い出したのである。
これを聞いた宗像大宮司は非常に怒り「あるものはもうすでに渡した。ない
物を請うとは、奇怪なことよ。必ずや少弐を七代のうちに滅亡させる。」
と言い、小指を噛み切り、壁に少弐への恨みを書き綴り切腹して果てた、と
いう。
ただ、そのような事があったとはどの書物にも記されていない。
事実なら恐ろしい話なんだが
0056人間七七四年
2007/05/13(日) 14:22:05ID:gFOoN2/00057人間七七四年
2007/05/13(日) 16:04:46ID:/4PoH0hC大内氏との内通を疑われ、それ以来少弐氏の家臣から孤立するようになった。
しかし、十八代少弐冬尚は少弐氏の危機を感じ、竜造寺家兼と和解することを
決意する。
そして、家兼の子竜造寺家門を少弐の執権とすることを決め、復帰した家兼ら
の活躍で少弐氏は再興を果たした。
しかし、これを見た馬場頼周は竜造寺が強大になることを危惧し、冬尚に
先代少弐資元が自害したのは竜造寺の企みによるもの、と諫言した。
冬尚はこれを信じ、竜造寺一族をことごとく滅ぼしたのであった。
このとき家門も討ち取られ、馬場頼周らによって家門の首は散々足蹴りに
されたという。ちなみに竜造寺隆信は家門の兄家純の孫に当たる)
家門というより、竜造寺一族抹殺の話になってしまった。
0058人間七七四年
2007/05/13(日) 21:05:24ID:/4PoH0hC0059人間七七四年
2007/05/13(日) 21:07:26ID:5KASF7A7探題レベルで同じとみなすと奥州探題=九州探題となる。
現地受領の総帥のレベルで並ぶのが鎮守府将軍陸奥守=太宰少弐筑前守の家柄。
探題と現地受領トップでどちらが上になるのかは見方は論争もあろうが
東北九州という保守的土地柄を考慮すると
新設探題職は歴史の重みからみてやはり軽いとみられたはず。
鎮守府将軍の歴任者としては藤原秀郷、平貞盛、源頼義、源義家、藤原秀衝、
足利尊氏、北畠顕家ら歴史を彩った華やかな名が連なる。
太宰少弐も現地実務官では事実上トップ。
太宰大弐の平清盛、頼盛、少弐の藤原隆家らこれも摂関家血筋や伊勢平氏棟梁ら
歴史上の著名人物がつらなる。
伊達家は戦国末期に奥州探題を拝命したり
系図上奥州藤原氏につなげかえたりしているけど
鎌倉一御家人からスタートした家史は変えられなかった。
少弐家は鎮西すべてを束ねる鎮西奉行職からスタートしている。
その意味からも少弐家は伊達家よりは上であろう。
006059
2007/05/13(日) 22:30:36ID:/4PoH0hC0061人間七七四年
2007/05/14(月) 06:58:03ID:t2CJ8DCn続きは三戦板でやりましょう。
http://ex21.2ch.net/warhis/
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1167304387/554
0062人間七七四年
2007/05/14(月) 07:25:58ID:EkMBx7Wy0063人間七七四年
2007/05/14(月) 16:58:04ID:/brK9xQG代々氏を通字にしている。
出羽の戦国大名、戦国期には大宝寺氏のほうが栄えていたかも知れぬ
0064人間七七四年
2007/05/15(火) 00:08:49ID:uDpLEZ4A優秀な家臣は山のようにおり、大友とも関係が厚いのに、
戦いには負けるという悪夢を繰り返した。
0065人間七七四年
2007/05/15(火) 01:06:01ID:Brnfysg60066人間七七四年
2007/05/15(火) 04:01:31ID:/rcgppyC竜造寺と鍋島を併記するのは如何なものかと
まあ並べられた名前を見ても独立色の強い豪族たちばかりで、
小弐家が家臣団を作り上げることが出来なかったことが見て取れるな
006764
2007/05/15(火) 13:28:49ID:6Q183AqV0068人間七七四年
2007/05/16(水) 12:41:06ID:PTt3VR8U0069人間七七四年
2007/05/16(水) 19:50:21ID:uE3B/Y9U0070人間七七四年
2007/05/17(木) 14:49:10ID:qt74TKX71404年父貞頼の死により家督を継ぐ。九州探題渋川満頼・義俊らと戦い、
1423年博多にて渋川義俊を打ち破った。しかし義俊が大内盛見と結んで再び
戦いを挑んできたため、窮地に立たされる。相変わらず大内との戦いになると
弱い少弐氏は案の定大敗し、博多を放棄し逃亡した。
しかし、粘り強いこの当主は1431年大友持直と結んで筑前守護大内盛見を攻め、
なんとこれを討ち取った。
しかし大宰府回復もつかの間、1433年先代盛見の恨みを果たすべく家督を継いだ大内
持世が自ら出陣してくると、大内の大軍には敵わず結局筑前秋月城で自害した。
このとき子の資嗣も肥前与賀庄の戦いで戦死したという。
満貞享年39歳というので、資嗣はまだ十代だったかもしれぬ。二人の遺児は
対馬の宗氏のもとへ落ち延びた。後の嘉頼、教頼である)
個人的には、満貞は歴代当主のうちで最も戦上手ではなかったか、と密かに思っている。
大内氏の将を討ち取ったのは後にも先にも、少弐満貞だけ。
名称ということにして良かろう、と思っているが…、異論あれば言ってくれ、
0071人間七七四年
2007/05/17(木) 21:25:27ID:ZMZnjkTl007270
2007/05/18(金) 00:04:09ID:gUCMb5Rnみつけた。あと小法師丸という兄もいたらしい。
何か質問あったら書き込んでてくれ、できる限り答える
0073人間七七四年
2007/05/18(金) 04:09:34ID:ImoM9CYj007470
2007/05/18(金) 12:30:57ID:gUCMb5Rn兄と思ったのは氏法師丸という名の人物であった。申し訳なかった。
しかし少弐満貞は若くして死んだのに子が多い。系図に見えるものだけでも、
資親、氏法師丸、十二代資嗣、十三代嘉頼(初法師丸)、十四代教頼(松法師丸)、
頼経(馬場氏祖)、資治、頼門(筑紫氏祖か?)らがいる。
0075人間七七四年
2007/05/18(金) 20:40:19ID:gUCMb5Rnあと、個人的に少弐氏のことが知りたい人は、「武藤少弐氏の興亡」という
本がある。絶版だが九州地方の古本屋とか図書館にはあるかも知れん。
興味がある人は読むといい。
0076人間七七四年
2007/05/18(金) 22:44:17ID:gUCMb5Rn0077人間七七四年
2007/05/19(土) 00:18:33ID:zPaTRnsC0078人間七七四年
2007/05/19(土) 15:40:27ID:owCzVXt1資元が自害した後は横岳資誠に養育されたという。
それ以後のことは良くわからんが、子に少弐資宗、関新左衛門、中牟田七郎兵衛、
中牟田新兵衛がいる。この兄弟は皆少弐滅亡後は竜造寺に仕え、1584年沖田畷の
戦いで兄弟全員討ち死にしたという。
なお元盛は僧になったと何かの本に書いてあった気がする)
0079人間七七四年
2007/05/20(日) 02:33:14ID:30FO6XSD0080人間七七四年
2007/05/22(火) 14:27:41ID:TC59bO9n0081人間七七四年
2007/05/24(木) 02:50:52ID:EMtHUy5v結構力いれてるんだが・・・
0082人間七七四年
2007/05/24(木) 03:45:35ID:GXOElr3n008382
2007/05/24(木) 14:55:53ID:mJaSEgC7弟の少弐政興を擁立し大友宗麟と結んで少弐氏再興を目指すも、竜造寺隆信に攻められ
1565年肥前中野城において降伏。この時の政興の悔しがり方は尋常ではなかった、
といわれている。
少弐政興は出家したらしいが、鑑周は母が竜造寺家純の娘だったこともあり、
一命を救われ竜造寺隆信に仕え、1582年の竜造寺政家の肥後攻めにも
参加している)
ついでだが、母は竜造寺家純の娘というが、家純は竜造寺隆信の祖父であるから
年が変な気もする。まあギリギリあるかも知れんが…少し疑わしい。
0084人間七七四年
2007/05/25(金) 04:33:26ID:9mIhGoRN東肥前十九将?だったっけ
0085人間七七四年
2007/06/16(土) 22:51:41ID:vFFgl/F/26代盛見、筑前少弐氏との戦いで戦死
27代持世、足利義教暗殺の際、巻添となり死亡
28代教弘、伊予出陣中病死
29代政弘、大軍を率いて応仁の乱に参戦、後半の
戦局を支配
30代義興、足利義稙を奉じ大軍を率いて上洛、再度
将軍とし、11年間幕政を左右する
こうしてみるとライバルの大内も
なかなかドラマチック
0086宇喜多直家信者
2007/06/16(土) 23:50:12ID:3ZxWb/wP確かに大内もなかなかだが、少弐もすごいぞ、
なにしろ歴代当主でまともに死んだのは嘉頼だけだ。
まあ大内と少弐は長年のライバルでもあったからなあ・・・ 少弐との戦いで討ち死にしたのは大内盛見ぐらいか。
0087人間七七四年
2007/06/23(土) 08:19:12ID:WI1OaTGYほとんど記録ないみたいだけど、盛経はまともに死んだと思うよ
0088人間七七四年
2007/07/27(金) 05:26:48ID:E3IXgTNk武藤資頼の世渡りの上手さ…70%
実績はないが名門扱い…25%
悪あがきだけは一流…5%
0089人間七七四年
2007/07/31(火) 02:35:37ID:vybl1guw0090宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/07/31(火) 02:36:27ID:jEaoPWic0091人間七七四年
2007/07/31(火) 02:51:31ID:PX93mE/Eでも、大友は大内とまともにやりあっていたのに、
大友よりも本来格上であるはずの少弐が、こんなにも脆いというのは、
やはり少弐の側にも原因があったのだろうな
筑前のような交通の十字路のような場所は、逆にまとめにくかったか?
あるいは、鎮西探題がいたから、権力集中できなかったからか?
0092人間七七四年
2007/07/31(火) 03:05:01ID:aSO2c/NBそんな地域が本領であったことが運の尽きかも
靡下の豪族たちが離合集散を繰り返す最大の要因となってしまった
家を守ることで精一杯、家臣の勢力を削って権力を確立することもできず
優れた当主も特に現れず、最後まで都合の良いシンボル的存在に甘んじてしまった
0093人間七七四年
2007/08/04(土) 13:04:55ID:E+omZM7P探題の渋川よりは長持ちしたんだよなぁ
0094人間七七四年
2007/08/20(月) 09:51:55ID:nSLmuNLw0095人間七七四年
2007/09/27(木) 02:53:11ID:ppzTSM4W0097人間七七四年
2007/10/02(火) 07:45:52ID:YeE87hcD私は野望天翔記の歯応えを求めて、少弐で攻略した事ですが。
0098人間七七四年
2007/10/10(水) 16:11:14ID:oGz26LwK0100人間七七四年
2007/11/11(日) 00:03:47ID:LbirS2/w0101人間七七四年
2007/12/01(土) 16:46:58ID:2OG970kF0103人間七七四年
2008/01/12(土) 15:22:47ID:UXS/+6Lk大内が本格的に出てきてからは厳しいが
0104人間七七四年
2008/01/30(水) 04:47:23ID:qQuqLtHUなんで武藤に戻したの?大宰少弐じゃなくなったのに少弐名乗るのはアレだから?
0105人間七七四年
2008/02/14(木) 15:36:26ID:RJp3He4I0106人間七七四年
2008/02/28(木) 16:24:29ID:pvxorKyX0107人間七七四年
2008/03/02(日) 00:04:19ID:Sg3A7esh0108人間七七四年
2008/03/02(日) 00:04:29ID:Sg3A7esh0109人間七七四年
2008/03/03(月) 16:02:11ID:HcR1SXd80110人間七七四年
2008/03/19(水) 15:34:47ID:IzFBhXNa0111人間七七四年
2008/03/19(水) 22:14:29ID:AgXdOu4i0112人間七七四年
2008/04/04(金) 15:39:31ID:SFR7RWsn0113人間七七四年
2008/04/08(火) 15:08:54ID:P1wFOrK/0114人間七七四年
2008/04/19(土) 01:56:08ID:AGTBzk930115人間七七四年
2008/04/19(土) 15:25:16ID:JAUpbgsqであるが、歴代水呑み百姓。
子孫ではないだろね
0116人間七七四年
2008/05/02(金) 15:15:35ID:jROtc0gy0117人間七七四年
2008/05/02(金) 18:30:17ID:WtPBUNrU('(゚∀゚∩_ おいらをどこかのスレに送って!
/ヽ 〈/\ お別れの時にはお土産を持たせてね!
/| ̄ ̄ ̄|.\/
| .モツ煮..|/
 ̄ ̄ ̄
現在の所持品:たばこ・ライター・コーヒー・ブラックブラック・枕・ケータイ電話・睡眠薬・聖教新聞・ダッチワイフ
外付けSCSI340MHDD・ネットランナー4月号・TYG02・小嶋進社長・ゲルトモ・ディプスファンタジア・抵抗1kΩ(黄紫橙金)
(途中10行略)
イーゼルボンバー・山田オルタ・麻枝・DDO・C鯖・ナカノ5+ニゼルsh→シャワフリ・胸パッド・日本酒・眉毛・包皮
オーストリー・北村ひとみ・辻野・幹事・デイジーコラージュ・草なぎ剛・バリカン・YAMAHAシネマステーション
GEOBIT・孫策・NIKON羊羹・風子・あっぴ・SD-W2002・0.6mmのほうのWiiストラップ・炊飯器・ハロプロ・高橋萌木子
モジャ公・耳・すりゅよ・D端子・Aカップ・臭作・征西府・松平容保・クシャトリヤ・ドアラ・ドアラ・ドアラ・段ボールまん
マケイン・ヒラリーいいえ、ケフィアです・カピ様・欝袋・おっぱっぴー ・新成人・ファ板・HARE・コシナツァイス
DT18-70 F3.5-5.6・悟リ・第一段階・ゴジラ・高岡蒼甫・おっぱっぴー・蒙古襲来絵詞
0118全板トナメ戦国板の投票日は5/3!
2008/05/03(土) 00:31:07ID:SfXmwtBz明日5/3日は戦国板の投票日だよー
選対スレ
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1205796433/
投票方法
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1205796433/477
0119人間七七四年
2008/05/17(土) 11:23:36ID:NiMc9y+z0120人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/03(火) 16:39:07ID:Pwt2J3cM他にもいるかな?官名を名乗っている一族
0121人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 04:17:16ID:KLUXjisX家紋がにてて 馬場っていう名前で 佐賀の前にすんでた
0122人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 05:13:02ID:97v52quB0123人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 07:26:19ID:u7W9Ilxh0124人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 23:02:21ID:pxYfsf5u./ \
.| ^ ^ |
| .>ノ(、_, )ヽ、.| < あまり私を怒らせない方がいい
__! ! -=ニ=- ノ!__
/´ ̄ ̄ .|\`ニニ´/ `ヽ
{ .|__  ̄ ̄ヾ }
i;;',,, r---イ /|,、_,, ,',;:',i
.l;';',;,, } /;\ / ヽ / ,;,;;',;l
.|;;',;, } ./;;;,, \ / ;;;;;;ヽ ,,;;','i
i;',, / /;;,',';; ノ--, ',',;;::',',゙i ,,';';i
i;,'; /./,',',';;" / \ ',',',;;,'i ,;',i
/ / i 、 / ヽ ',;::'、| \
ヽヽヽヾ丿 〈 ヽ'' {////
```` ト, i | 、 i´´´
|',',;; } ! ',',;;i
|,','、 / ヽ',',','|
!;;', / !,',;,;'|
!'' { }'' !.
/ i, 〉 ヽ.、
彡、,,,-‐┘ └ュュュュ
0125人間七七四年
2008/06/09(月) 03:00:15ID:Hj/x9iH8十数代も続いた割には名将が特にいない
畳の上で死ねた当主が少ない
その割には、滅亡したと見せかけといてすぐ復活する
0126人間七七四年
2008/06/09(月) 22:19:25ID:o8MMlybO0127人間七七四年
2008/06/14(土) 16:51:11ID:wQ2fJDnIこの点に関しては日本史上で最強ではないか?
0128人間七七四年
2008/06/14(土) 19:55:04ID:KU/Sdksq0129人間七七四年
2008/06/15(日) 03:19:47ID:m5xbYT5q偽系図の可能性もかなりあるが
0130人間七七四年
2008/06/15(日) 04:29:09ID:Q90tzYRnkwsk
当時の記録はないの?
0131人間七七四年
2008/06/17(火) 14:59:39ID:n+2pPeWW少弐の当主の肥前への流浪癖を考えたら、そこらに種蒔きしてても
不思議はないから厄介
0132人間七七四年
2008/07/04(金) 15:48:54ID:rrI1JXgV0133人間七七四年
2008/07/06(日) 03:27:29ID:TaUe871K龍造寺が何回か本領失陥してるから
鍋島もそれなりに記録の散逸があったんじゃないかな
0134人間七七四年
2008/07/24(木) 14:54:32ID:75Pp2lxL今なら祖父が祖父に聞いた話とかは身近。
0135人間七七四年
2008/08/07(木) 15:09:35ID:iOPQ66e40136人間七七四年
2008/08/07(木) 23:14:21ID:WW1+03q90137人間七七四年
2008/08/08(金) 14:54:59ID:6K85a0xY0138人間七七四年
2008/08/22(金) 10:42:03ID:eFxFvVDR0139人間七七四年
2008/08/23(土) 07:12:24ID:nC6cXIjk0141人間七七四年
2008/09/22(月) 14:34:55ID:0QdpwvVO0142人間七七四年
2008/10/07(火) 14:10:52ID:uA0Onqco0143人間七七四年
2008/10/23(木) 14:43:46ID:12lUn1SC0144人間七七四年
2008/10/24(金) 07:31:38ID:Zs+ThqwO0145人間七七四年
2008/11/07(金) 15:27:26ID:Cr87+TTr0146人間七七四年
2008/11/10(月) 06:55:54ID:nrnPqJZ8そもそも少弐は元々身の丈に合わない大封を得ていたような印象
0147人間七七四年
2008/11/11(火) 23:27:10ID:KCwyBqyJ室町幕府にあれだけ反抗して、しかも最強守護大名の大内が相手になったから
戦国初期には既に足元がフラフラだし
0148人間七七四年
2008/11/28(金) 14:13:13ID:R+r0yjKZ0149人間七七四年
2008/12/13(土) 15:42:06ID:VCvU9ynn0150人間七七四年
2008/12/26(金) 15:04:08ID:XdVVdJz10151人間七七四年
2009/01/13(火) 15:39:36ID:ACxFE9Qg0152人間七七四年
2009/01/27(火) 15:36:59ID:MA6mhALq0153人間七七四年
2009/01/30(金) 01:00:35ID:cslQ81Fs0154人間七七四年
2009/02/13(金) 15:46:56ID:1FV3cPjs0155人間七七四年
2009/02/13(金) 17:34:18ID:Nig1zSx2プライドさえ捨ててしまえば家名存続出来たかも知れないのにね
0156人間七七四年
2009/02/13(金) 18:41:44ID:MnFmQr6J物語の読み過ぎだ
0157人間七七四年
2009/02/17(火) 00:48:36ID:yh/MFAIP0158人間七七四年
2009/03/02(月) 15:38:06ID:6vtIMzNv0159人間七七四年
2009/03/16(月) 15:37:43ID:Kfzj+SlZ0160人間七七四年
2009/04/02(木) 16:29:23ID:RQyK0p8j0161人間七七四年
2009/04/15(水) 15:32:54ID:Gp4qlMot0162人間七七四年
2009/05/01(金) 13:29:47ID:RJEO12pe0163人間七七四年
2009/05/07(木) 01:56:11ID:xfYmfLNA0164人間七七四年
2009/05/22(金) 15:53:31ID:9C2cYmzS0165人間七七四年
2009/06/01(月) 13:46:44ID:RLKeOabCむしろ元寇以後の専制の強化の方が、御家人に与えた影響は大きかった。
0166人間七七四年
2009/06/15(月) 15:51:38ID:swGkGtc30167人間七七四年
2009/06/29(月) 14:30:36ID:DdRMrWCF0168人間七七四年
2009/07/02(木) 07:28:52ID:38aE4AcMもっと早く酷い事になった可能性も高い。
0169人間七七四年
2009/07/04(土) 08:17:21ID:50v9Tbexやっぱ九州探題に北条がすべりこんできたのが原因かな
0170人間七七四年
2009/07/16(木) 15:24:49ID:p2CTi6nE0171人間七七四年
2009/07/23(木) 22:57:52ID:fQW4jr9J「鍋島が龍造寺から政権を簒奪したと言うのであれば、龍造寺こそ我ら少弐氏から政権を簒奪したではないか」
ってはっきり言ってくれそうだな。
0172人間七七四年
2009/07/24(金) 11:33:16ID:L9e2dSMB0173人間七七四年
2009/08/03(月) 15:29:46ID:aS/X5bc70174人間七七四年
2009/08/13(木) 13:08:17ID:vKa2b+d+0175人間七七四年
2009/08/22(土) 14:58:33ID:ivOTaZ2/0176人間七七四年
2009/08/24(月) 18:24:49ID:aXbh7YhW0177人間七七四年
2009/09/01(火) 19:11:57ID:Rb3Rt2Kn0178人間七七四年
2009/09/06(日) 00:16:25ID:PjF5rdnvちょうど少弐氏がいた辺りに実家があるんだけど、
この少弐家となんか関係あるんでしょうかね?
0179人間七七四年
2009/09/06(日) 08:30:16ID:CXmX4kz3少弐冬尚は家臣の江上氏から勢福寺城を追い出され麓の城原で死んだと云う。
その地にはポツンと墓が建っており悲哀さえ感じる。
>>178
菖蒲氏って神代氏の家臣と思うけどね。
もっとも神代氏は少弐氏の家臣だから多少関係はあるかもね。
0180人間七七四年
2009/09/06(日) 18:07:56ID:XWnJA2Fq0181人間七七四年
2009/09/07(月) 04:08:13ID:6qNx2MuGレスありがとうございました。
本人は“何かしら少弐氏に関係する家の生まれなんじゃないか”と
内心ワクワクしているようでしたが(信長LOVEだそうですが)、
少弐家が滅亡してしまってるんじゃ、
その後の末裔がどうなったかは難しいですよね…
神代氏の家臣に文字通りの菖蒲氏がいたんですね。
たぶんそっちは知らないと思うので教えてあげようとおもいます。
0182人間七七四年
2009/09/07(月) 09:42:32ID:9AX7oFa60183人間七七四年
2009/09/07(月) 13:46:06ID:NMOb2kLF江戸中期に書かれたと思しき家系図があります。題名が藤原姓平井系図。
代々鍋島藩平井氏の子孫で、曾祖母が鍋島藩の乳母にあがったそうです。
系図によると鍋島直茂公の御子女を室に娶った記録があり、血縁があるようです。
0184人間七七四年
2009/09/07(月) 21:55:34ID:yjeyOtWc夢を壊すようで悪い気もするが、
江戸時代の系図は売買されたり依頼製作されているので、
信頼性はゼロだと思っておいたほうがよい。
系図は証文や感状などの古文書(偽書含まず)や過去帳それに藩士録などと合わせ、
それらがすべて合致して初めて信頼性が得られる。
>系図によると鍋島直茂公の御子女を室に娶った記録があり
鍋島氏側の系図で確認が取れるかどうかは調べてる?
0185人間七七四年
2009/09/08(火) 14:10:52ID:TEgdp2qY歴史家の人が位牌と戸籍でかなり詳しく調べて間違いないと断言していましたの
でかなり精度は高いはずです。また、代々佐賀藩に仕えてきた事は紛れも無い事実。
鍋島氏の出自を少弐氏とする説は、大内氏と戦って敗れた少弐教頼は
龍造寺氏を頼って肥前佐嘉に来て与賀に滞在した。
このとき経直は教頼と知己となり、娘を教頼の妾に差し出し、二人の間に
一子ができた。応仁二年(1468)、教頼が戦死したのち、経直はその男子を
養育して家を譲った。これが清直で、ここに鍋島氏は藤原姓を称するように
なったのなだという。清直はのちに経房と名乗り、少弐氏系の鍋島氏系図は
この経房をもって太祖としている。
出典 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nabesima.html
系図には平井興市朗 室 鍋島直茂公御養女 百武志摩守とあります。
幕府編纂には「寛永諸家系図伝」、「寛政重修諸家譜」などとして、
編纂が行われているので、名家であればその時期に伝わっているのは
理にかなっている。
個人的には重要な記録なので、一度機関に見せた方がいいと思ってます。
0186人間七七四年
2009/09/08(火) 14:15:23ID:TEgdp2qY0187人間七七四年
2009/09/08(火) 14:25:29ID:TEgdp2qYあくまでも藤原/武藤/少弐系の平井氏であって、系図には鍋島氏とは一言も書かれていませんでした。
この《少弐氏/筑紫氏》系図の平井氏とぴったり符合します。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020c4.htm
0188人間七七四年
2009/09/08(火) 21:01:49ID:CPs7RmxO須古平井氏というと少弐氏の分かれ対馬氏の分家じゃん。
少弐氏の子孫というか、れっきとした少弐氏一門だ。
しかも平井氏の本家筋ならすげえぞ。
ただ、平井興市郎じゃなく、平井與市郎な。
勃興の興じゃなく、与の旧字の與。
先祖の名前を間違えちゃダメだぜ?
あと直茂の娘じゃなく養女だね。
それでも百武賢兼の娘だからけっこう自慢できるんじゃないか?
平井与一郎で調べたら木山家文書にも名前があるみたいだ。
朝鮮出兵にも従軍してるそうな。
系譜について聞いてみたいんだが、
直秀(妻は竜造寺隆信養女。兄の経治と敵対し自害)−甚左衛門−与一郎
という父子関係で合ってるのかな?
0189人間七七四年
2009/09/08(火) 22:09:45ID:O8GRVsKS185-187です。凄い!お詳しいんですね。
調べた方のコメントでは本家がまた別にあるようです。
しかも、ここ数百年なぜか女系一族となり、養子縁組みも交えつつ続いています。
平井直秀-與市郎(甚左衛門)-百武五左衛門-弥右衛門といった系譜です。
系譜の最後に書かれている方がこの家系図を作成したようです。
少し省略していますが、アップしましたのでご確認下さい。
http://www1.axfc.net/uploader/Img/so/58578
左の家紋が現在家系図が残る須古-中島家に伝わる織田木瓜の紋です。
右は言わずと知れた藤原氏の寄掛目結です。
今年の夏、自分が伝説の一族「少弐氏」の末裔だと知り、太宰府に武藤資能の
墓参りに行きました。
今は歴史本を読んだりしてるのですが、4世紀にも渡って登場する少弐氏はなぜ一般的に
認知されていないのでしょうか?
自分にはやっぱり日本を代表して戦った武藤資能がスーパーヒーローです。
0190人間七七四年
2009/09/08(火) 22:37:08ID:pTHz8Xh6更に要求して宗像大宮司を自害させたから嫌いだ
0191人間七七四年
2009/09/08(火) 23:08:28ID:O8GRVsKSきっと多方面に残る恨みに対して供養した方が良いでしょうね。
0192人間七七四年
2009/09/08(火) 23:35:23ID:dKr67IUdこの時和睦として經治の弟左近太夫直秀と隆信の養女が婚姻のち一子をもうけた。
天正2年、和睦が決裂して再度合戦となり、この時も龍造寺氏が敗北したが鍋島直茂が
密かに直秀と会い龍造寺氏への内応を勧めた。
この策略で一時的に經治は逃亡したが勢力を盛り返し再度龍造寺氏と合戦。この折直秀が討死。
この直秀の一子(興一郎)がのち龍造寺政家の小姓となり御側定詰番を務め、成人のち
平井甚左衛門と号し百武(賢兼)氏の婿となっている。
0193人間七七四年
2009/09/08(火) 23:43:56ID:dKr67IUd百武五左衛門尉さんは寛永五年鍋島藩着到によると禄高六十六石だね
0194人間七七四年
2009/09/09(水) 10:40:10ID:RwdfgJD7更なる情報ありがとうございます!だんだんとご先祖様の事がわかって来ました。
平井氏も少弐氏と同じく滅亡の道をたどる様なのですが、その過程で鍋島藩に組み込まれて行くのでしょうね。
自分のひいおじいちゃん位の代では、佐賀で麹酒屋を営んでいる大地主で佐賀藩にもお金を貸し付けていたそうです。
須古というと佐賀県の白石町だそうですが、平井氏系統は須古鍋島家か白石鍋島家になるのでしょうか?
いずれにせよ、少弐氏の血を現在まで受け継いでいるのはごく少数でしょうね。100人に満たない気すらします。
0195人間七七四年
2009/09/09(水) 12:27:18ID:B1fU1Rt0本野という家で、村田家に仕えていたみたいです。
>>189さん
織田木瓜の中島家…
祖母の実家と同じです 白石は何か縁があったようなので、繋がりがあるのかも
知れませんね
で、我が家の家紋が四つ目結(少弐氏とは無関係です)
0196人間七七四年
2009/09/09(水) 13:19:49ID:+JnMaAoHお公家さんみたいな名前のイメージのせいで、損をしてるともいえる
0197人間七七四年
2009/09/09(水) 14:29:32ID:RwdfgJD7189、194です。
興味深いお話ありがとうございます。佐賀も実家のある大牟田もさほど大きい街ではないので、
きっと繋がりがありそうですね。ちなみに百武氏だと数百人程度残っているそうです。
>>196さん
少弐氏は公家みたいなではなく公家でしょう?足利尊氏を助けて南北朝時代で対立した際、
この武家ふぜいがと言って対立したようです。歴史の捉え方は色々あると思いますが、
少弐氏は対馬宗氏を含め多くの周辺士族に助けられ、何度となく合戦に負け皆殺しにされても這い上がり、
圧倒的なブランド力で、団結のシンボル「寄掛目結」の旗の下に復活を遂げた壮絶な生命力を持つ一族だと書かれていました。
0198人間七七四年
2009/09/09(水) 14:50:27ID:0O1Qfc6N0199人間七七四年
2009/09/17(木) 15:18:33ID:95/heHNC0200人間七七四年
2009/09/17(木) 20:41:29ID:lt4QS5JR0201人間七七四年
2009/09/17(木) 21:47:37ID:oWExl32X武藤氏の成立事由は二つ。
1.武蔵を本拠とする藤原氏であったから「武藤」。
2.武者所に任じられた藤原氏が祖なので「武藤」。
少弐氏の場合、1と2を兼ねている。
武蔵を本拠とする藤原氏の流れを汲み(道長流と秀郷流がある)、
武者所に任じられた武藤頼平が、少弐氏初代資頼の養父。
0202人間七七四年
2009/09/29(火) 15:11:01ID:zvwpTz6F0203人間七七四年
2009/10/09(金) 14:58:40ID:tWGd3wYx面白いね。他国でもあるのかな。
0204人間七七四年
2009/10/09(金) 19:05:54ID:flBBp94F可能性としては伊豆から転じて伊藤、遠江から遠藤、加賀から加藤かな?
これが正解かどうかは多分ググればすぐ分かるだろう
0205人間七七四年
2009/10/10(土) 15:24:45ID:oBBUI9vD0206人間七七四年
2009/10/22(木) 14:31:10ID:OAM7/ti60207人間七七四年
2009/11/03(火) 06:32:58ID:nvgVj84+織田木瓜の中島……うちの墓がコレです。
ただ、祖父さんが養子に出されたとかで姓は違うものになっていますが、家紋は今も織田木瓜を使っています。
祖父さんがかなり前に他界していますので詳しくは分かりませんが、白石に縁があったような話を聞いていますので、>>195さんとは近縁かもしれません。
てか、中島氏ってなんで織田木瓜紋なんでしょうね。
0208人間七七四年
2009/11/14(土) 15:33:27ID:jyCSqZPJ0209人間七七四年
2009/11/14(土) 21:51:25ID:GWx8o2yr天正4年12月、龍造寺が須古平井氏を攻略した折に家臣中島刑部少輔信連が平井氏一族の
新宗吟入道と太刀を合せ自ら深手を負いながら討ち取りその恩賞として「白石郷日目ヶ里」
を貰った事が「北肥戦誌」にある。
今から13年ほど前に地元の教育委員会が中島信連の墓碑を発見している。
信連の子中島内蔵允茂時が建立したもので「諦譽義舜居士」の戒名を挟んで、信連が戦いの
翌21日に死亡した事や戦功により、白石の日目ケ里を龍造寺から贈られたことが71文字に
明確に刻まれている。
0210195
2009/11/15(日) 21:58:12ID:OE0bnJJgご教示頂き有難うございます。
祖母より聞いてた亊が裏付けられたので、感謝しております。
>>207さん
初めましてこんにちは。
195ですが我が家の場合、207さんとは逆に、曾祖父がなかしま家の養子になってますが
曾祖父の兄弟は五瓜に唐花紋を使用してます。
九州探題の家臣同士、姻戚関係を繰り返してたんじゃないですかね?
何の根拠もないのですが・・・
0211人間七七四年
2009/11/15(日) 23:36:31ID:QxtNj+rf0212宗氏
2009/11/21(土) 04:54:22ID:Wh8w7l070213人間七七四年
2009/11/21(土) 13:01:49ID:px2H4IPQ@当時の恩賞で、家紋の下賜など行われていたのかという疑問?
A八幡太郎義家の弟から4世後の佐竹秀義は奥羽征伐の際に源頼朝より扇に月丸紋を賜ってるが、なぜ家紋を持たなかったのか?
また同じ家紋を使用する佐々木氏の家紋の由来は、後鳥羽上皇に賜ったらしい事を散見できるが
天皇家は家紋を源氏に下賜した後100年近く使い続け、佐々木氏に下賜したのか?(源氏は拝領した家紋を少弐氏に簡単に譲ったのか)
又は、天皇家が源氏から家紋を貰い受けた事となり、少弐氏は皇族なの?って事になってしまうと思うが…
0214人間七七四年
2009/11/21(土) 18:44:28ID:jidrLEnJ佐竹の場合はあれだぞ
新羅三郎義光嫡流の意識で源氏の白旗掲げてたもんだから「紛らわしいぞ!」と
区別する為に頼朝が扇紋をあげただけ
0216宗氏
2009/12/10(木) 04:54:57ID:nZ4bkwHq少弐教頼没落後
三根郡大塚村に来て資俊から三代後名字を大塚に改め大塚俊氏となり
(本家を継いだ頼澄との母親の関係は分からない)
0217213
2009/12/20(日) 13:23:24ID:hoVR8jwE確かに持たなかったかどうかは分からないですね。
浅学ゆえ失礼しました。
蒙古襲来絵詞には少弐景資と配下の者が目結紋の旗を持ってる所が描かれてるが、この配下の者に
熱田大宮司家の篠田氏が含まれてる可能性が高く、少弐氏よりも院に近い存在だったので目結紋を
拝領してる可能性があり、佐々木氏由来との年代的な整合も得られる
また調姓の三氏(黒木氏、星野氏、河崎氏)は後鳥羽上皇に調朝臣姓を賜った可能性が高いとあり
黒木、河崎両氏の家紋は亀甲四つ目結のようであるがこれも年代的に整合する
(家紋を賜ったかどうかは不明)
家紋の関係からこの三氏も熱田大宮司家の流れを汲む可能性があるが、三瀬の野田(三瀬)氏同様に
居住した付近の神社にこれら近似性が見られる事や、多々良浜の戦いでは調姓の三氏が真っ先に
足利方に寝返った事からも裏付けられないか?
さらに面白い事に、調姓の三氏の系図で能高、能永とあるが、熱田大宮司家の系図に高能、永能とあり
年代的にも13世紀で一致する。
※ただし熱田大宮司家の家系図は改竄が酷くあまり信用できる物じゃないが…
名前が違うから同一人物ではないと思うが、実は鍋島氏の系図にも同じような事を見る事が出来る。
鍋島直茂の11世代前に秀清とあるが、三瀬に下向したのは清秀でこちらもほぼ年代的な一致を見る。
また秀清の前代は通字を後ろに、後代は通字を前に使用しており、調姓の三氏の祖も能高、能永以外は通字を
後ろに使用している。
調姓三氏が藤原南家熱田大宮司族でないのは、同時期に野田、篠田両氏が大江姓になってる事を併せて考えると、
承久の乱での処分で改姓させられたのだろう。
0218人間七七四年
2009/12/24(木) 20:42:59ID:wl5es4RO0219人間七七四年
2010/01/10(日) 08:54:26ID:tl+EREPn0220213
2010/01/26(火) 22:53:40ID:r6EsdZ3G本領を安堵されてるのに家紋の賜与は行われてないのはどうしてだろう?
その佐々木氏の家紋の由来が後鳥羽上皇に賜ったという事なので、少弐氏の家紋の由来は
信憑性が極めて低く捏造疑わざるを得ない。
1264年に三瀬に下向した野田周防守大江清秀(戒名は清巌源秀大禅定門)という人物だが
戒名から源氏の血を引く事が想像でき、建立した神社の祭神や官位の周防、野田という姓、
名前の「清」という字から熱田大宮司族の可能性が極めて高いと言える
季範−範忠−忠季−朝季−朝氏−清氏となり、野田朝氏室と藤原親兼室は姉妹なので
朝氏の子、清氏は坊門信清からの偏諱の可能性が高い。
清秀は清氏の兄弟又は、子供と言う事になると思う。
これを踏まえた上で、梅松論に書かれてる多々良浜の合戦で
「当日は御重代の御鎧・御小袖と申すを熱田の野田の大宮司に着せらる」と言う箇所だが
これは何を言おうとしてるのか考えてみた。
熱田大宮司家を味方につけた事で、大きく状況が変化したのではないのか?
それは熱田大宮司家が所有していた、目結紋の旗=錦の御旗だったのではないのか?
もし興味があるなら熱田大宮司家をいろいろ調べてみると面白いよw
規制規制でアフォらしくなったので以後書き込みを止めます。
皆様お騒がせしました。
0221人間七七四年
2010/01/28(木) 12:09:19ID:MgU4DXCn0222奇矯屋onぷらっと ◆LV.e123456
2010/01/29(金) 21:56:29ID:wux2lTf70223人間七七四年
2010/01/30(土) 09:07:43ID:8sFIfDkw> 歴代当主ほとんど戦死。戦争に勝ったことすらほとんどない。
> しかし戦国まで続いた
粘れた理由はなんだろ?
0225人間七七四年
2010/01/31(日) 00:40:39ID:g0Hp/StD大友がわざわざ少弐を支援する必要性はなくなった
0226人間七七四年
2010/01/31(日) 19:00:12ID:UJX4VSxP九州を追われた少弐氏勢力が大挙対馬に逃げたんだけど
対馬には多くの人員を養うほどの生産力はなく
食いっぱぐれた少弐氏勢力が、海賊行為を始め大陸に渡っていったと。
0228人間七七四年
2010/02/13(土) 20:24:20ID:SFQvFCfS0229人間七七四年
2010/02/14(日) 13:43:29ID:6nM0JaJ70230人間七七四年
2010/02/17(水) 23:29:44ID:SiF0Vn74家紋は四ッ目結
親類に朝日、板部、養父など少弐と関係あるような苗字が出てくる
0231人間七七四年
2010/02/18(木) 14:18:26ID:YNQbbVTn玉造部とか土師部とかね。
0232人間七七四年
2010/03/23(火) 07:02:33ID:7CjrMv5l寂しくポツンとしてたね。
少弐家の墓ってどこかにまとまってあるんだろか
太宰府にまとまった土地を持った武藤さんっているんだけど少弐氏と関係あるのかな
0233人間七七四年
2010/03/23(火) 07:35:46ID:xhBdAzjR白石鍋島家鍋島直章は山辺と名乗って江戸藩邸へ
向かったとある
0234人間七七四年
2010/03/25(木) 20:59:50ID:uYd59YEy鍋島ってそんなに街道筋で嫌われていたのか
0235人間七七四年
2010/03/25(木) 21:12:01ID:2jPvJAnc0236人間七七四年
2010/03/26(金) 01:20:32ID:gCRgFut40237人間七七四年
2010/03/26(金) 12:59:34ID:GpWGXiyJ0238人間七七四年
2010/03/26(金) 18:19:27ID:JhKT3Yh50239人間七七四年
2010/03/26(金) 18:47:14ID:0jREKCLl武藤→伊東(伊豆)→河津(伊豆)から大内氏の披官になって
筑前・宗像の西郷に移った河津氏があったな
九州に河津と言う苗字は少ないから現河津氏は十中八九その流れだろうな
0240人間七七四年
2010/03/28(日) 00:21:34ID:ckfPJcIR0241230
2010/04/10(土) 21:25:13ID:h8F3TRHs一族は生き延びて離散したんだろか。
我が家の先祖を調べたら1650年頃、娘の婿養子が朝日氏(朝日胤元のニ男)からきてる
そこには「朝日ハ少弐家余蘖ト言伝モ系図筑後高良山ニ有リ言写有由」とある。
だから我が家の家紋の一つが四ッ目結紋だろうか。
0242人間七七四年
2010/05/15(土) 15:19:44ID:g5Ennv010243人間七七四年
2010/06/07(月) 22:18:36ID:60jz/fJz武家が朝廷権威を凌ぐ程の勢いをもつに至り
結果、朝廷機構大宰少弐としての少弐家の権力は失われる羽目になった
0244人間七七四年
2010/06/28(月) 21:31:28ID:O3NMpIJg0245人間七七四年
2010/07/12(月) 12:14:49ID:JUnCZf4M0246人間七七四年
2010/07/13(火) 01:11:37ID:ikUHnbh5蒙古襲来で活躍した少弐景資をモデルとした「博多守護之武勲」が博多の町を駆け巡るよ
0248人間七七四年
2010/07/14(水) 00:07:10ID:Uqif8xnd0249人間七七四年
2010/07/14(水) 00:15:53ID:4q4Qrtmmttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1136700081
0250人間七七四年
2010/07/14(水) 00:39:11ID:lVenPpdf余談だが、戦国時代の天皇は地方の大寺の住職に「禅師」号を授与していたが
その礼金が馬鹿にならなかったらしい。
0251人間七七四年
2010/07/18(日) 21:56:49ID:0DV+R6Ol> 武家で大弐だったのって大内だけじゃない?
3年後のレスですまないが、たしかそうだ。
0253人間七七四年
2010/07/19(月) 22:02:48ID:CTGzK61V0254人間七七四年
2010/09/29(水) 13:20:02ID:gmOZ39L00255人間七七四年
2010/10/24(日) 21:29:57ID:2VfaDPAh0256人間七七四年
2010/12/15(水) 00:24:47ID:dLBqFpPT0257人間七七四年
2010/12/15(水) 19:51:34ID:jMETiFhJ0258人間七七四年
2011/01/11(火) 23:10:01ID:NP5X+0fR0259人間七七四年
2011/01/30(日) 02:13:14ID:JZPrzSzQ0260人間七七四年
2011/01/30(日) 11:41:24ID:peEWCtek江戸時代になってから。
0261人間七七四年
2011/02/18(金) 00:21:08ID:L6Omvetr太宰府がもっと栄えてた
0262人間七七四年
2011/07/10(日) 15:23:30.41ID:WoUvrZFaどこも家臣に収まってくれる家じゃなかった
0263人間七七四年
2011/07/10(日) 19:27:36.84ID:WsVFMkS90264人間七七四年
2011/07/10(日) 20:53:31.80ID:WoUvrZFa0265人間七七四年
2011/07/10(日) 20:57:57.33ID:VF9DOY210266人間七七四年
2011/07/10(日) 20:58:15.13ID:VF9DOY210267人間七七四年
2011/07/11(月) 22:12:35.53ID:Pi5lG0A6東禅寺氏
0268人間七七四年
2011/07/12(火) 00:27:45.56ID:VPOPRtpE0269人間七七四年
2011/07/19(火) 18:47:16.09ID:Xv8Gl1HU0270人間七七四年
2011/07/20(水) 00:12:53.07ID:8jjxIycR流石の正義教狂信者も九州までは来れんしな
0271人間七七四年
2011/07/24(日) 21:00:09.77ID:0/rRemjM0272マーベリック
2011/10/24(月) 12:49:27.64ID:cImwTJJM0273人間七七四年
2011/10/25(火) 05:38:55.50ID:KxeAF4eP■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています