豊臣家が存続するにはどうすればよかったのか【3】
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0001人間七七四年
2007/05/03(木) 13:42:34ID:ZvpTXbrj・豊臣政権の維持について
・関ヶ原後の豊臣家の存続について
豊臣家が生きのこるにはどうすればよかったのか
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1156663584/
豊臣家が存続するにはどうすればよかったのか【2】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1162647848/
0002人間七七四年
2007/05/03(木) 14:22:43ID:TK27MktY0003人間七七四年
2007/05/04(金) 03:25:34ID:rQ0itO9d0004人間七七四年
2007/05/04(金) 12:08:20ID:KFpq7TX10005人間七七四年
2007/05/07(月) 01:06:14ID:bFZTwo9P鶴松死んで、半ばやけくそで秀次に禅譲して、お拾い生まれて後悔して・・。
秀長は北条征伐を境に死んでるから、豊臣家の絶頂の手前で死んだことになる。
あと20年はせめて生きてて欲しかったな。
0006人間七七四年
2007/05/07(月) 02:18:34ID:ReZcSVTS豊臣氏が滅び戦乱が完全に終結したという意味だが、元々、豊臣秀吉が北条や奥州を平定して戦乱を沈めたのにな。
皮肉にもその豊臣氏が、徳川の謀略で天下に災いをもたらす悪として祭り上げられてしまったから元和の偃武って言葉が生まれたわけだ。
0007人間七七四年
2007/05/07(月) 11:28:59ID:FWqh6Pwz0008人間七七四年
2007/05/07(月) 12:42:03ID:tMM4mBb/0009人間七七四年
2007/05/07(月) 13:52:59ID:s1zrd1IRそんなに伊達がおそろしかったのかねえ
0010人間七七四年
2007/05/08(火) 23:23:16ID:Fzm0Btdoこの真田一人でさえ、徳川の別働隊を足止め出来たのだから、東海道筋に、徳川を足止め出来る大名を配置出来ていたら、関ヶ原の戦いは、より東で行われていたんじゃない?
0011人間七七四年
2007/05/09(水) 00:00:03ID:BZ2i7oWE0012人間七七四年
2007/05/09(水) 00:13:30ID:gwpOBANy0013人間七七四年
2007/05/09(水) 10:25:51ID:j17ZfVaO側室の淀君には秀吉恩顧の大名は寄りつかず、
北政所の支持通り、徳川方へ味方してしまった。
北政所が大阪城で秀頼のバックについていたら、
秀吉恩顧の大名も、みすみす北政所を見殺しにできない。
0014人間七七四年
2007/05/12(土) 17:47:29ID:ljGQpHTs0015人間七七四年
2007/05/14(月) 17:49:52ID:zYFIwyJy0016人間七七四年
2007/06/20(水) 13:28:56ID:AX65yjYI女性は男子製造マシーンなんだから
0017人間七七四年
2007/06/20(水) 14:31:46ID:08Axb7wY0018人間七七四年
2007/07/14(土) 18:10:51ID:HEpn/O1z0019人間七七四年
2007/08/05(日) 22:10:12ID:Z7DwN7O00020人間七七四年
2007/08/06(月) 12:00:16ID:91te6EBrそして西軍の総大将とする。
家康は賊軍になる。
もし西軍の総大将を引き受けなければ裏切りの目ありなので関ヶ原を避ける。
0021人間七七四年
2007/08/07(火) 01:27:43ID:xGJjt/Qn江戸時代に豊臣を公称した家は旗本含めて数家あるだろ。
そのうち羽柴を名乗ったおねの養子は羽柴の名乗りを禁止されたけどさ。
0022人間七七四年
2007/08/07(火) 02:37:59ID:a0L+L2qBhttp://jp.youtube.com/watch?v=7nGJdY5MIwg
0023人間七七四年
2007/09/05(水) 16:46:53ID:pMbzn+3Y0024人間七七四年
2007/09/16(日) 22:57:54ID:vq3Iws0e0025人間七七四年
2007/09/29(土) 18:48:17ID:VP2Bjtseだいたい同じ意見。秀秋を羽柴豊臣家に戻し太政大臣(摂政候補)として大坂城に居てもらう
(これで、北政所の支持も得られる)
毛利輝元を総大将とし前線に出し西軍を差配させる
小早川家は毛利一族の人に相続してもらい輝元が指揮する
0026人間七七四年
2007/09/29(土) 19:15:48ID:x2RoPTr4徳川もしかり!
0027人間七七四年
2007/09/29(土) 20:02:36ID:LAiZMF4a0028人間七七四年
2007/09/29(土) 23:18:26ID:zdzvtx4I0029人間七七四年
2007/09/29(土) 23:22:18ID:zdzvtx4I結局おねは、自分の身内から後継者を出したかったんだね
秀秋の兄の子でしょ?その養子
0030人間七七四年
2007/09/30(日) 00:03:59ID:o72byFfs0031奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/09/30(日) 00:18:38ID:M+tvJ9Jh0032人間七七四年
2007/10/02(火) 18:52:37ID:NTy6L2IUまず>>30どちらも問題はあるぞ。豊臣秀頼を本陣守備する小早川が
そのまんま東軍に味方したら史実と大差ない結果になる。
>>25
毛利輝元を総大将とし前線に出し西軍を差配させる。これだけ考えてみても
戦後の論功行賞から大名配置まで毛利が主導権を握るぞ。
徳川のやったことが毛利の名前に置き換わるだけだろう。
結局徳川の天下における一大名豊臣家への転落という構図が
毛利の天下における一大名豊臣家への転落という構図になるだけかと
0033人間七七四年
2007/10/03(水) 18:40:14ID:y6P67DG1徳川よりは、ぜんぜんマシでしょう。
少なくとも、夏の陣、冬の陣で消滅は無いでしょう。
毛利家と羽柴家は小早川家を通して親戚なのだから
立場上、今度は反対に毛利家から羽柴家への養子も考えられるし。
既存の家臣団を利用します。毛利とは、そういう家柄。
0034人間七七四年
2007/10/03(水) 20:03:18ID:yPVtdR2J秀頼は秀忠の娘婿であり、江与と淀殿は姉妹。
これで親戚じゃないなら、何が親戚だって話。
0035人間七七四年
2007/10/03(水) 20:59:29ID:EnOMvm8m毛利は前田と同様に徳川への牽制のために優遇してきたから、同じ縁組でも意味合いは違う。
0036人間七七四年
2007/10/03(水) 21:58:53ID:vFPN8fiDちょっとまて豊臣の脅威としての認識なら
対徳川へも対毛利へも大差ないと思う。
むしろ毛利のほうが徳川家よりも扱いはひどかったような気もする。
0037人間七七四年
2007/10/04(木) 13:18:06ID:GpLTWhkJ完全消滅にはしないだろう
小早川領も返すんだから
恩も売っとくんだし
毛利から養子をとり羽柴家を相続させたら
改易する必要もないじゃん
0038人間七七四年
2007/10/04(木) 14:21:00ID:KErRA3SK17世紀くらいなら。
関が原で西軍で活躍勝利なんかしたら、播磨因幡まで毛利領になったかもしれんが。
0039人間七七四年
2007/10/04(木) 14:45:35ID:afCoZNeeあんな情けない負け方しないわw
そもそも西軍についたのだって、石田と繋がりが深い安国寺の路線だったわけで
戦勝後だって、その路線が強化されるだけ
0040人間七七四年
2007/10/04(木) 14:47:24ID:afCoZNee吉川はどうなるか分らないけど
0041人間七七四年
2007/10/04(木) 18:14:09ID:9fCFXQFE筑前と山陰山陽道は、すべてだろうね。丹波の亀岡あたりに巨大な城を築いたかも
篠山、明石あたりかもしれないけれど。
上杉は戦勝国になるから大幅加増で越後と関東(上野、下野、武蔵、甲斐、相模、伊豆)に転封
関東管領の名義も復活させて、豊臣家の親戚の喜連川家の補佐役として関東独立国の執権。
佐竹は伊達領を加増され奥州管領。
0042人間七七四年
2007/10/04(木) 18:38:10ID:mWTNhhTQ小早川家を秀秋(羽柴系)から秀包(毛利系)へ復せしめ
筑前豊前から伊予
山陰山陽道は播磨因幡まですべてを領し
丹波の亀岡、篠山、明石あたりに巨大な城・・
そして大老筆頭にして徳川を破った家として政務代行権
そして豊臣家への養子縁組が可
このような勢力が存在すること自体が脅威だと・・
別に毛利の野心とかとは無関係だ。
そのうち必ず徳川排除に続く毛利排除の動きが出て豊臣プロパー
による政権運営を望む声が出るはず。
さながら後白河法天のごとく上杉家と毛利を源平のごとく
衝突させるとか・・
0043人間七七四年
2007/10/04(木) 23:43:30ID:uSYGZ5GZ「豊臣家が存続するにはどうすればよかったのか」だから
毛利からの養子が継げば安泰じゃん。
江戸期の蜂須賀等々がいい例じゃん。
毛利の天下の限り、準一族の羽柴家は安泰でしょ?。
0044人間七七四年
2007/10/05(金) 14:08:52ID:33udAhgLだからそういう毛利への期待と同じものを秀吉は徳川に期待していたし
実際何重にも絡んだ縁戚関係で結んだ関係で
しかも上方の豊臣に対して、東の徳川と住み分けれるように
なっていたのにもかかわらず・・あのような結末だったじゃ内科。
0045人間七七四年
2007/10/05(金) 17:57:31ID:+yj05LbS毛利と徳川は違う
徳川の秀頼いじめは異常
大坂攻め殺しも異常
元家臣のすることじゃない!
また、秀頼没後、北政所は自ら養子をとり、羽柴家を再興しようとしたが
北政所の死後、それを反故とした徳川家は異常
0046人間七七四年
2007/10/05(金) 18:50:01ID:33udAhgL>>毛利と徳川は違う
どこがどう違うのでしょうか?
徳川天下なら豊臣はつぶれ
毛利天下なら豊臣は大丈夫などという
保障は皆無かと思います。
0047人間七七四年
2007/10/05(金) 18:50:47ID:TiKEDsiC仮に秀信が秀吉に膝を折らず、張り合ったとしたら秀吉は放っておくと思うかね。
また仮に西軍が勝ったとして毛利や上杉が徳川化しない保証なんて何処にもない。
まあ君が徳川が憎くて毛利贔屓なのはわかったけれど、
感情をむき出しにするのはやめてくれ。
0048人間七七四年
2007/10/05(金) 19:07:50ID:jRe0MtW3何の空想小説を読んで刺激されたんだ?
0049人間七七四年
2007/10/05(金) 19:37:56ID:K38Q9gOn秀吉自身も黒田如水も蒲生氏郷も徳川より他の大名を危険視していた発言があるじゃん
当時の視点から毛利や上杉が危険でない保証はない
0050人間七七四年
2007/10/05(金) 20:18:59ID:jRe0MtW3じゃ、唯一保証があると思われてた
豊臣恩顧の大名ほとんどが徳川についたんですけど・・
で、それを阻止する為に毛利や上杉が協力してんのに
そいつらこそ危険だ! って・・
一体どうやって勝つつもりなのやらw
毛利も上杉も、石田に協力したのは安国寺や直江が繋がってたからだろ
で、関ヶ原で勝った以上、そのパイプを急に切る理由の方が分らん
例えば関ヶ原勝利後に総大将の毛利が
安国寺路線を切って吉川路線に走るなんて有り得ないだろ?ってこと
0051人間七七四年
2007/10/05(金) 20:41:58ID:33udAhgL毛利や上杉が協力してんのに・・
それは自分のためであって
豊臣への恩義ではない。
それに家康だって大阪の陣まで長い年月
豊臣家の家老という立場をとって豊臣融和路線をとっていたのですが・・。
0052人間七七四年
2007/10/05(金) 21:08:08ID:jRe0MtW3上杉はもともと家康と戦う理由なんてなかったんだよ
知らないでしょ?
0054人間七七四年
2007/10/05(金) 21:37:33ID:jRe0MtW3豊臣の為に戦ったというのなら、そうだろうけど
外様にも関わらず、わざわざ家康に叛旗を翻してんだから
一肌も二肌も力を貸してることになるだろう
で、そもそもが豊臣の為とは
誰の立場からの話し? どんな定義が豊臣の為、と当てはまるの?
0055人間七七四年
2007/10/05(金) 22:03:22ID:33udAhgL越後とかを狙っていたのはあるだろうけど・・
本当に豊臣のためだけか?というのが
上杉の立場は徳川の背後にあって牽制する役割
でその領土なのだから
徳川の天下を指をくわえてみてるとか
いきなり徳川に媚を売る行動なんぞ
逆にできない点を考えても
上杉にはほかに選択肢はなかったと思うのです。
あとなりあがりの徳川ごときに屈服するのは
プライドが許さないのはあったと思います。
本来なら蒲生氏郷の役回りを代行させられただけなんですが・・
0056人間七七四年
2007/10/05(金) 22:42:23ID:jRe0MtW3それは謙信以来の上杉家の聖地としての意味合いだろ
で、そもそも家康が石田を討つ為の口実として上杉討伐を行ったのも
もともと、上杉じゃなく前田家が、当初、その対象だったんだよ
つまり、家康も本当は上杉を敵に回すつもりがなく
上杉にしても、それに甘んじていれば、
いきなり媚を売るとかじゃなくて、普通に同盟軍としての立場になったんだよ
つまり伊達みたいな位置。
で、史実の前田家のように100万石を越えた外様筆頭になれたわけ
でも、それを敢えて拒否して家康に立ち向ったのは
野心よりも武門の誇りを重んじたからでしょ
それは家康の牽制役としても職を全うしてるし
何より豊臣に対する忠義でもあると思うけどな
0057人間七七四年
2007/10/05(金) 23:50:50ID:33udAhgL771 :人間七七四年:2007/10/02(火) 18:45:57 ID:NTy6L2IU
ということは五大老の戦略を見てみると
前田は芳春院を家康に人質として徳川に屈したものの
中立色強し。北陸七カ国切り取り自由のお墨付きを背景に
北陸を制覇し徳川に対しえる勢力を望んだ。
上杉は西軍との共謀がささやかれているが本音は
旧領越後と腹背の最上を併合独立した勢力圏を確立していく。
上方の長期化を視野において出羽平定、伊達政宗の屈服による
全奥羽支配をはかり関東の徳川と対抗
おそらく天下ではなく東国における武力による覇権確立
宇喜多は徳川に代わって豊臣の後見の座を獲得し政権の主導権を握る。
毛利は東は徳川に任せてもいい(上杉でも混戦でも可)西の覇権確立
そして対中国貿易の特権の獲得
というところでしょうか・・
772 :人間七七四年:2007/10/02(火) 18:50:50 ID:vscEDjHX
>>771
それぞれ室町期大諸侯の復活ですなw
前田=山名
上杉=管領家上杉
宇喜田=細川
毛利=大内
こんな感じか。
773 :人間七七四年:2007/10/02(火) 20:24:50 ID:NTy6L2IU
>>773
うん。そんなとこ。だって僕らは歴史を知ってるから
統一というと徳川豊臣のような集権的なのをイメージするが
室町期的秩序が、知られていた一番身近な秩序なのだから
似たような構図にイメージされても不思議はないと思ってww
その図式でいくと徳川は関が原前までは執権北条氏
関が原での東軍大敗後は関東公方ってとこかな
秀忠系と秀康系と二つに分裂する要素もある品
0058人間七七四年
2007/10/05(金) 23:57:05ID:33udAhgL室町期大諸侯の復活として
前田=山名
上杉=管領家上杉
宇喜田=細川
毛利=大内
とかになるだけで
管領家上杉が足利幕府にどれだけの貢献をしたか?
という件で考えても上杉の忠義を疑問なしとしても
頼りなさ過ぎる。
傀儡の豊臣摂関家には西日本の覇者大内の再来・毛利だとか
管領細川の再来・宇喜田が跋扈し
上杉の眼前には慶長の山名・前田が立ちふさがって
横には関東公方・徳川家
(こうなるとは限りませんが状況は、そう変わらないと思う)
とてもとても上杉の忠義では
0059人間七七四年
2007/10/06(土) 00:25:51ID:MPVqf8hSそもそも外様の上杉だけが豊臣家を守ることに命をかける必要なんかない訳で
むしろ、足利幕府の幻影は秀吉の主人である信長によって完全に打ち消され
その上で豊臣政権が新たに出来てるのだから
それは足利以前の秩序と必ずしも同じものでなくてもいいと思うの。
でも武家の不変の道義として、
御上の政権を守ることが世の治世に繋がるという理念。
例え少なくともご恩を受けたなら奉公によってお返しするという義理。
これらを持ってして忠義と言わずして何を忠義と言うのか?ということで。
家康はそれを、自らの力と政権で実現しようとし
上杉はそれを、自らの力で守ろうとしただけでしょ
0060人間七七四年
2007/10/06(土) 01:36:14ID:OMiJW5TK0061人間七七四年
2007/10/06(土) 12:29:27ID:CL4KyXo20062人間七七四年
2007/10/08(月) 22:39:49ID:S/w2ln2/まったく同感です。
>>59
しかし・・どうしてそこまで上杉に忠義を求めるのでしょうか?
実際のとこ、上杉の忠義が本当なのか?
疑問符がつくんですよ関が原の戦後の尻すぼみな状況
豊臣への忠義というより自尊心だけで行動したような気がします。
大阪の陣では上杉の積極的な攻撃ぶりには一時とはいえ忠誠を誓った
主家への躊躇のなさ・・
毛利や増田ですらあのような態度をとったというのに・・
0063人間七七四年
2007/10/08(月) 23:25:46ID:lDsg0xFa問題は、その質
保身だけの大名もいれば
野望だけの大名もいる
保身、野望、義理いろんなのが入り混じった大名もいる
で、上杉のそれは、義理や筋といったウェイトが他の大名より多く
それを持ってして忠義と言ってるだけ
何故、そこまでして上杉を野心一家としたいのか、理由が分らないよ
0064人間七七四年
2007/10/08(月) 23:26:50ID:OiWegoy00065人間七七四年
2007/10/08(月) 23:32:53ID:y00d3eovそういうことなら、
小牧長久手合戦は堀秀政に全権に与えておけばOK!
0066人間七七四年
2007/10/08(月) 23:49:00ID:S/w2ln2/私には貴殿の方へ
上杉にだけ義理や筋といったウェイトが他の大名より多くしたいのか
が分らないのです。
私にすれば会津征伐に乗じて三成が挙兵して上方で長期戦になるので
それに乗じて北日本で武力による覇権を打ちたてて
どっちが勝っても既成事実になるだけの勢力を持とうと
考えてたと考えるほうが自然ではないかと思うのです。
上杉がその行動に求めていたのは、第一に勢力拡大のための
混乱であり豊臣への忠節ではないと思うのです。
いや、ともかく・・ほかの方の意見も聞いててみたほうがいいかな?
私とあなただけでは平行線にしかならない気がするし・・
0067人間七七四年
2007/10/09(火) 00:04:33ID:qV+LVMB5そうなれば畿内の西軍とも連携が取りやすくなって家康も容易に江戸から出られない
あれは明らかに自家の勢力伸長のための行動でしょ
てか上杉が豊臣にそこまで忠義立てする理由が分からん、越後から離れたくなかったのに加増とは言え転封させられてるし
0068人間七七四年
2007/10/09(火) 23:19:46ID:hEYNXyGq秀次一家を支えれば、羽柴(豊臣)家は少なくても数代は続いた。
自分的には、北政所の養子の羽柴利次が羽柴(豊臣)家の後継者と思うから
江戸時代も豊臣家は存続していたといえると思う。
0069人間七七四年
2007/10/11(木) 21:56:33ID:MJU5yjTm同感
0070人間七七四年
2007/10/29(月) 15:06:55ID:1skhLtkl同感
0073人間七七四年
2007/10/30(火) 15:12:20ID:YcuNRKk3いやしくも21世紀に2ちゃんねるに書き込んでる人間が「豊臣恩顧」などというわけわか
らん概念を持ち込むな
「織田恩顧」である豊臣秀吉は織田信雄を改易し、織田秀信を13万石で飼い殺し、
織田信孝を自殺に追い込み、織田信孝の母・・つまり、信長の嫁を殺し、織田信包を
大減封した
こういう状況下で、丹羽・前田・蜂須賀・佐々・細川・黒田・池田・山内・加藤・堀・中村・
・・・など織田恩顧の武将は誰も織田家の為に秀吉と一戦・・・なんて者はいなかった
つまり、「恩顧」なんて思想はなかったってことだ
0074人間七七四年
2007/10/30(火) 15:38:26ID:L92k3bsu0075人間七七四年
2007/10/30(火) 17:56:25ID:chN/SRts@入ってないけど姉小路も忠臣
丹羽ちゃんは・・・してやられた部類か?
0076人間七七四年
2007/10/30(火) 23:06:11ID:h8CyPlYA豊臣は金持ちだから毎月大丈夫
0077人間七七四年
2007/10/31(水) 19:34:13ID:CrY7/l3z同感
0078人間七七四年
2007/12/01(土) 20:59:13ID:8bL3TvAU大坂の陣が始まった後なら、
千姫の子でも男子なら斬首の可能性は高いだろうな。
女子なら助命されるだろうけど。
0079人間七七四年
2007/12/02(日) 21:13:53ID:9NQ1MYHs0080人間七七四年
2007/12/03(月) 20:57:09ID:exx0jOUL論点がずれてるよ
恩顧云々というより直臣という意味で捉えなきゃ話が逸れる
0081人間七七四年
2007/12/04(火) 00:44:31ID:xCiir6DE秀吉がいなくなれば豊臣とかどうでもいい。生き残るためにどいつに付くかだけを考えるまでさ。
0082人間七七四年
2007/12/04(火) 01:11:54ID:a4l99WXZたとえば駿府や掛川、浜松・・・
0084人間七七四年
2007/12/04(火) 13:06:35ID:ewWmpbZM真っ先に東軍の大軍を引き受けて遺滅・・・
0086人間七七四年
2007/12/04(火) 15:27:42ID:a4l99WXZ小早川隆景を近江にと思ったんだけど
0087たられば君
2007/12/04(火) 16:33:17ID:BmT72pzK0088人間七七四年
2007/12/04(火) 16:38:46ID:KizOMK51藩屏として考えれば大和近江に外様は置けない
東からの敵を防ぐと想定した場合、近江は前線ではなく北国・西国からの物資人員の集積&
前線の補給・休養地となるので内政に長けた三成にとっては適地
問題は、美濃・尾張・伊勢湾の前線
伊勢湾は九鬼水軍+豊臣水軍として、問題は美濃(中山道)と尾張(東海道)
岐阜は織田宗家を置かざるをえないとしても清洲に豊臣の身内か子飼いを置いておきたい
東から京都大坂を目指すには、美濃の確保が絶対条件で、確保した美濃を守るには尾張が必要
中山道だけ押さえても補給路としてみれば東海道>>>>中山道なので清洲が豊臣で
ぶれなければ、実質的にそれ以上西には進めなくなる
つまり清洲は、金床とハンマー理論でいう金床
その意味では清洲に福島というのは間違ってはいなかった・・・けどあまりにも近視眼だった
結果論で言えば小西行長が尾張1ヶ国の太守として清洲城主だと徳川にとってはかなり
きつかったと思う
これが宇喜多なら尾張三河2カ国となるけど毛利の牽制としても備前備中から動かせない
大谷に50万石は能力はともかく豊臣子飼い武将達の石高をみれば与えられない
加藤清正と浅野幸長は、1605年くらいの加藤と浅野ならいいけど〜関ヶ原前夜くらいの頃だと
たぶん徳川にあしらわれてしまいそう
豊臣って人が少ないですね・・・
0089人間七七四年
2007/12/04(火) 22:44:49ID:ewWmpbZM三成と親しいだけ。もし東海道に配置されてたら
史実以上の家康の懐柔攻勢が激しく中立派に立つくらい
予想できる。
それより片桐且元なんか同じ五本槍で子飼いなのに少なすぎだから
彼を15万石くらいにして尾張っていうなら分かるけどね。
子飼いでも福島らの加増のでかさは異常なんだよなあ。
小大名の子飼いの人材なら少しはいたんだから。
0090人間七七四年
2007/12/04(火) 23:34:25ID:eAyMD0ghくるんじゃね?よく知らんけど。
尾張・近江の再編(三成や福島らの加増配置)は
秀次の死が原因だから、要地に秀吉が信用してる奴を
とにかく置いたって感じか。
片桐は福島に比べるとかなり弱いような。ネームバリューとか
発言の大きさとか。
0091人間七七四年
2007/12/05(水) 03:09:50ID:glbGzhPy立花宗茂推奨
0092人間七七四年
2007/12/05(水) 04:49:22ID:BdLz6Kwd大友家を改易なんかするから。
0093人間七七四年
2007/12/05(水) 05:21:03ID:26ybzzP4家康と正信の謀略と悪知恵に勝てるわけが無い。あいつらは常に凡人の上を行く。
0094人間七七四年
2007/12/05(水) 13:05:42ID:2WDktAQg島津も上杉景勝の命令なら動いてたし。
0095人間七七四年
2007/12/05(水) 13:09:05ID:2WDktAQgまたは家康が上杉景勝と対戦始まった時に援軍に行けばよかった。
0096人間七七四年
2007/12/05(水) 13:28:50ID:MXjVzgrO行ける可能性があるのは毛利輝元だけだな
もっとも行こうとしても後に残す人物がおらず、代わりの手当てもできず
行ってしまったら大阪城に風聞流されて徳川の切り崩しにあい、戦に集中できんだろ
それが恐くて行かなかったようなもんだし
前田利政なんて所詮は陪臣だし、いても猛将が一人増えるだけ
利長を引き込めばいいんだろうが、前田討伐未遂の時に事実上見殺しにしたことがあるからな
前田家の行動が北陸で小競り合い程度ですんで(事実上日和見かも)よかったぐらいだ
0097人間七七四年
2007/12/05(水) 13:33:14ID:Qk/Nwhilおべっか使い武断派め〜とか思って内心不満だったのかも。
案の定、武断派が家康におべっか使ってるから「この佞臣野郎が〜!」ってのがあるかも。
三奉行にしてもそうだが10万石前後程度で配置されても厳しいよな。
しかも徳川家臣達は何度も上洛中に東海道筋の豊臣大名の新城郭を見まくってるわけだろ。
そもそも尾張・三河・遠江・駿河なんてバッチリ土地勘もあるわけだ。
なんで文治派に25万石〜30万石くらいで配置しねーんだろうな。尾張に福島を配置したなら安心とか思ったんかね〜。
三成や大谷やらに30万石くらいやっとけばな。
0098人間七七四年
2007/12/05(水) 13:44:59ID:Sck2Af+kまあ三成の予定通りに行けば馬鹿共の裏切りあっても勝てるはず
直前にアタフタしすぎたわな
前田は本能寺以降佐々の小勢に壊滅寸前にされてる程度の本気戦しかしてないし来ても役にはたたん
てか来たらそれまでの印象工作ばれるから来ないだろうけど
0099人間七七四年
2007/12/05(水) 14:23:12ID:A3E4YkXYそういや前田征伐まえの前田−浅野長政−大野ラインの
家康暗殺計画って実際あったのかな?
三成もしくは家康のでっちあげって意見をよく見るけど、
利害関係をいえば前田達が計画してもおかしくないと
思うんだが。
このとき奉行は何してたんだろ?三成は蟄居中か。
0100人間七七四年
2007/12/05(水) 14:23:44ID:Qk/Nwhil太閤さまが敗北した小牧長久手の再現みたいな触れ込みで福島らを討ち破ったら勢いつくのにな。
0101人間七七四年
2007/12/05(水) 20:50:49ID:26ybzzP4まさか石田三成も、いくら暗愚とはいえ織田信長の嫡孫である秀信がここまで役に立たないとは思わなかっただろう。
0102人間七七四年
2007/12/05(水) 23:24:41ID:Qk/Nwhilついでに岐阜城主になったヤツは死ぬヤツが多い。
0103人間七七四年
2007/12/06(木) 00:04:55ID:8/mg7L060104人間七七四年
2007/12/06(木) 00:59:45ID:1prZLJbB0105人間七七四年
2007/12/06(木) 19:04:07ID:Rs1US60j当時の気風、敵は自領から一歩でも出て叩けっていうやつと
信長の孫っていうプライドからああいう戦術に出たんだろ。
前田利家の遺言でもそういうのあったらしいし?
ただ、相手が多勢すぎ、あまりに正攻法で行き過ぎたってことかな。
あともともと戦意が低かったのは否めないだろうね。
じゃなきゃ緒戦負けたくらいであんな脱走兵が出てボロボロにならない。
0106人間七七四年
2007/12/06(木) 19:41:16ID:1prZLJbB戦慣れしてる百戦錬磨の福島ら指揮の軍にあたるのはキツすぎる。
0107人間七七四年
2007/12/06(木) 20:10:17ID:V+SJ8bBp自分が大名に返り咲くために嬉々として秀頼の大阪城を攻めてるくせにw
くだらない三文小説でも読んで真に受けて洗脳されて変なイメージ持っちゃってるんだろうけど
0108人間七七四年
2007/12/06(木) 21:00:18ID:1prZLJbB恩を返したのにその後にまだ大阪城を攻めるのは〜とか義理が何だとか言うヤツはアホ。
0109人間七七四年
2007/12/06(木) 21:20:15ID:CQULPguHたしか石田三成を捕縛した田中吉政の遺臣が仕官しても取り立てなかったはず。
0110人間七七四年
2007/12/06(木) 21:25:27ID:1prZLJbB0111人間七七四年
2007/12/07(金) 04:34:23ID:eknQUnEm取り潰しの目にあったのと同じだ、と書いてある本があった。それもそうだな、と思った。
0112人間七七四年
2007/12/07(金) 12:53:27ID:BweCKq3/その場合は忠義ではなく、節義ではないか?
田中吉政の遺臣が仕官しても取り立てなかったのは、よくわからんな
田中吉政が石田三成と親しかったのも、関が原での三成への配慮は宗茂も知ってたんじゃないか?
三成への義理立てじゃないと思うんだが
義理立てならえらい潔癖症だな
柳川でなにかあったのかな
異常スレ違いでした
0113人間七七四年
2007/12/07(金) 15:23:13ID:ojUo7pMe関ヶ原の時の田中の行動があれだったんで(三成につかないだけじゃなくて
佐和山のこととか)、宗茂は田中を嫌ってて田中の旧臣を雇わなかったんじゃないか
って話がある。
宗茂と三成自身は仲良かったのかな?
まあ雇わなかったのは単に自分の旧臣雇うのでいっぱいいっぱいだったからって
見方もあるよ(前より石高減ってるし)
スレ違いsage
0114人間七七四年
2007/12/29(土) 10:28:25ID:MpBFSbKB0115人間七七四年
2007/12/29(土) 12:47:35ID:w87V0rpc0116人間七七四年
2007/12/29(土) 13:19:27ID:owXYXhJ5徳川の家臣になった訳で、家臣である以上主君の領地変えや人質提出命令に応ずる義務がある。
そうしないなら処分されるのは常識。
かつて織田信雄が秀吉の命じた領地変えを不服としたため全領土を没収された。あれといっしょ。
豊臣家が存続する為には、幕府に対する服従義務をきちんと完遂する必要があった。
0117人間七七四年
2007/12/29(土) 16:28:19ID:rYg9LcQBしかも秀頼との会見がおこなわれたのも二条城から伏見に変ってるしww
0118人間七七四年
2007/12/29(土) 19:31:18ID:/s88ULEt大谷吉継が秀吉の子供であった説は初耳ではあったな。
そこで考えてみたのだが・・
あと有名な話としては北政所が秀吉の子供を妊娠していたという話は
さすがに有名だと(そうか?)思う
なんせ3回も北政所が妊娠しているのだから二人が子供作れないわけがない。
まだ足軽身分で生活苦のときなので3回ともお灸と薬で堕胎したのが
原因でその後は子供作れなくなったのではあるそうだが
このとき無理をしても子供を生んで育てるか養子にでも出していれば
北政所の子供がいるわけなので豊臣家の安泰もありではないかと思う。
0119人間七七四年
2007/12/29(土) 20:19:09ID:SUVeQ9Sn同じ上座で、二条城の警備兵もその日だけ豊臣徳川同数
臣従にはならないだろう
官位も将軍秀忠が内大臣で、秀頼は前右大臣
0120人間七七四年
2007/12/30(日) 17:27:47ID:9nMIjxMuお灸のせいで不妊になった話は後世に作られた逸話だそうだよ
秀吉が農民から出世する苦労話の一環で
そしてそんな夫を支え関白にまでしたが、子の産めなかったねねを宥めるためにも
貧しさから子供を降ろさせたという逸話が作られた
そもそも秀吉レベルなら普通に所帯持ちな人もいたので疑わしい
0121人間七七四年
2007/12/30(日) 17:31:03ID:9nMIjxMu庶民が大好きな秀吉の妻で賢女とされる北政所が石女では哀れだと思われたのさ
0122人間七七四年
2007/12/30(日) 20:20:32ID:w8Bs0pw6徳川家も豊臣家にかなり気を使ってたんだな。
もちろん世間を意識しての気遣いなんだろうけど、
関ヶ原から既に11年も経ってるのにね。
0123人間七七四年
2007/12/30(日) 21:05:46ID:xj+FAf1o大河ドラマ(でごめんwよくわからん)とかで徳川方から秀頼に盃を
渡したことで臣従した形になったって表現されるけどあれは?
0124人間七七四年
2007/12/30(日) 21:47:40ID:Lcgu9pEx豊臣が徳川と比べて若干格下になった程度の証だろう(豊臣が主家という妄想が打ち砕かれた意義は大きいが)
0125人間七七四年
2007/12/30(日) 22:38:39ID:1CZQl+/G徳川の配下、臣下になっていたというのは常識とされていたんだろ。
謀反ってのは格上や同格じゃ使われない言葉だからな。
0126人間七七四年
2007/12/30(日) 23:36:47ID:3FPMVLdX会見の翌月に行われた3カ条の誓紙の提出はどう解釈すればいいのだろうかwww
0127人間七七四年
2007/12/31(月) 00:27:11ID:5DlpPPm9もったんじゃない?
正室の北政所の縁者から養子をもらうのが一番おさまったと思う。
0128人間七七四年
2007/12/31(月) 13:28:16ID:g6m51Mnb社会通念というか徳川の理論武装の1つでは?
「将軍謀反」、「天皇謀反」とも言うぐらいだからなw
0129人間七七四年
2007/12/31(月) 15:58:45ID:4AX8Z4In豊臣政権断絶の主原因。
この種無しカボチャが!
0130人間七七四年
2007/12/31(月) 16:35:11ID:DBAoC6DG育てるくらいの図々しさがあれば良かったのになぁw
0131人間七七四年
2007/12/31(月) 17:53:18ID:ujWdOcgwしかも関白家だから従ってたのに
自分達の手で一族の関白を辞めさせて腹切らせてるんだから
秀頼は単に以前親父が一時期関白をやってたことがある(しかも本人が生まれる前の話)ってだけの存在
それ以上のものではない
0132人間七七四年
2007/12/31(月) 18:26:57ID:H4LG4Q3Xいくら憎かろうと豊臣のことを思えば関ヶ原で石田や宇喜多らを叩き潰したことを悔やんだだろう。
0133人間七七四年
2007/12/31(月) 21:39:09ID:azh5hNfw秀吉が死ぬとさっさと家康についている人間が多いな。彼らはよほど
豊臣家の体制というものが嫌いだったのだろう。
0134人間七七四年
2007/12/31(月) 22:40:46ID:ymo2iWt3単に秀頼しか後継がいない家に自分たちの命運託すことができなかっただけ
合理的だし家を守るための判断としても正しいんだろうが、
現代の生温い価値観に浸かった俺としては不義理なように感じられて不快だ
0135人間七七四年
2007/12/31(月) 22:44:16ID:5hb4jBgE藤堂高虎と島左近くらいしか知らん。
0136人間七七四年
2008/01/01(火) 01:25:04ID:xTX/fEBwまぁそういう事だろね。
秀吉が秀次を殺した事で、関白も豊臣の名もなんの特権も無いと言う事を自分で晒してしまった訳で。
権威もクソも実力の前には無意味と言う事を自分自身で示した以上、同じ目に合わされるのは自明の理。
これが無ければ豊臣側の理屈ももっと説得力があったわけだし、
そもそも家康は裏切らなかったかもしれない。
0137人間七七四年
2008/01/02(水) 17:23:28ID:jAzx2mgI豊臣家とは違う。
0138人間七七四年
2008/01/02(水) 17:25:01ID:jAzx2mgI秀吉・秀長兄弟が揃って家康より3年長生きしていたら豊臣は存続していただろう。
0139人間七七四年
2008/01/02(水) 19:30:14ID:CtAgtO0u0140人間七七四年
2008/01/03(木) 03:12:45ID:rNHOQMjsおそろしや
0141人間七七四年
2008/01/03(木) 08:15:38ID:+qNCE3Tj秀吉存命中に行動起こしたならまだしも秀吉の死後何年も経ってからでしょう、家康動いたのは
秀次事件原因にするのは無理があるっつーか、家康に正当性持たせるための屁理屈にしか見えん
単に石田と加藤たちの対立に便乗しただけだよ
0142人間七七四年
2008/01/03(木) 08:30:57ID:PaNnnYwf> 秀吉存命中に行動起こしたならまだしも秀吉の死後何年も経ってからでしょう、家康動いたのは
秀吉の死 慶長3年8月18日(1598年9月18日)
関が原の戦い 慶長5年9月15日(1600年10月21日)
せめて基本的なことくらい勉強しようぜ?
0143人間七七四年
2008/01/03(木) 20:04:33ID:+qNCE3Tj0144人間七七四年
2008/01/04(金) 09:22:00ID:Qj1oXfki実子?が生まれた時に関白を返上して殊勝な振る舞いをしたら良かった
なら秀頼の後見として秀吉亡き豊富政権を運営出来たのにな
後は秀次の家老に山内とかの律義者で無く黒田見たいな曲者を配置する
如水なら秀次を介して天下を牛耳るだろう、彼の野心も満たされるし豊富政権も安泰だ
0145人間七七四年
2008/01/04(金) 17:07:13ID:HjCntAfN0146人間七七四年
2008/01/04(金) 17:26:08ID:7MOQHD2G0147人間七七四年
2008/01/04(金) 17:41:41ID:HjCntAfN秀吉を偲んでた民衆が涙を流して喜んだとか言われてるけどデマ?w
0148人間七七四年
2008/01/04(金) 17:52:28ID:7MOQHD2G立場によるだろ。たとえばプロ野球やJリーグのチームが優勝して地元でパレードやるけど、
それに集まって一緒に大喜びしている連中だけ見て、そこに住む住民の総意を推し量れるか?ってことだ。
だいたい豊臣から徳川に政権交代したことにより、それまで豊臣家から特権を与えられていたような京大阪の
親豊臣派の大商人は多くが没落の憂き目を見ている。そういう連中、そしてそれに連なっていた人間たちからすれば
「豊臣の世よもう一度!」と考えるのは当然。そういう立場から見れば「涙を流して喜ぶ」事になる。
0150人間七七四年
2008/01/05(土) 01:30:49ID:tP+LXacs0151人間七七四年
2008/01/05(土) 02:22:27ID:6X7H5TBs大平記や水滸伝などもそう
以外に人気があるね豊臣は
0152名無しの権瓶
2008/01/05(土) 03:57:18ID:GxWlQiJO0153人間七七四年
2008/01/05(土) 04:30:39ID:Fczp1s/y0154人間七七四年
2008/01/05(土) 06:38:38ID:WMKj9obE大人として「政治的立場が違う」のだから、「仲がよければ」なんて発想自体が間違い。
0155人間七七四年
2008/01/05(土) 07:03:21ID:7mcmv3a80156人間七七四年
2008/01/05(土) 09:43:48ID:8CFt3LUd継承後をにらんで秀次家臣団的なものも既に出来てたわけで、
彼らにも立場と言うものがある。
ことはもう秀次の気持ち一つでかたがつく段階じゃなかったんじゃないかな。
上手く立ち回れば秀次本人は秀頼家臣団のトップになれるかもしれないけど、
秀次についてた家臣たちの立場はなくなる。
0157人間七七四年
2008/01/05(土) 10:38:14ID:l4RAgMQV0158人間七七四年
2008/01/05(土) 11:50:02ID:6X7H5TBs0159人間七七四年
2008/01/05(土) 12:51:52ID:l4RAgMQVとすれば関ヶ原で西軍が勝たなければならなかったが、勝敗を決定づけた小早川秀明を裏切りに走らせたのは家康の知力であったと思う。家康は武力だけに頼らず心理戦でずば抜けていたからこそ日本平定を成し遂げたと思います。
豊臣家は亡くなるべくして無くなったのだと思う。
0161人間七七四年
2008/01/05(土) 13:22:42ID:zpSq4WNM秀吉存命時に家康が調停役として走り回っていたからこそ。
関ヶ原での調略はそうした実績や信頼が基盤だと思うぜ。
もう少し言えば、1590年代の豊家政権に家康は欠かせない存在。
0162人間七七四年
2008/01/05(土) 13:29:33ID:8CFt3LUd三成まで親徳川派なら、豊臣政権は終結していたかもしれないが
上手く徳川家家臣として豊臣家は存続していただろう、って話だろ?
政権を諦めて生存する道は初めから閉じられていたわけではない、という趣旨のレスを肯定しつつ
「豊臣家は亡くなるべくして無くなった」という結論に結びつくのは一体どういう思考だ。
0163人間七七四年
2008/01/05(土) 13:49:52ID:RGf9yYL3*豊臣家領地全譲渡のかわりに四国・九州あたりに10万石ぐらい貰う
*豊臣の姓を破棄し、羽柴に戻る
*反家康派の家臣追放
*秀の字を捨てて家康から康を貰い、康頼と改名、以後通字にする
これならとりあえず数代は残る
0164人間七七四年
2008/01/05(土) 13:53:14ID:l4RAgMQV合戦の最中に秀秋を裏切りに走らせた行為事態を家康の知力と思うんです。
豊臣の家臣ら同様に事前に秀秋を東軍に取り込むこともできたはずだと思うのです。
その後は前期した通り、秀頼公を口実に東軍に付いた豊臣元家臣らも安定を求め徳川の名の下に多くは付き従い豊臣の名は消されていったんではないでしょうか?。
0165人間七七四年
2008/01/05(土) 14:10:24ID:l4RAgMQV光成の思考も家康には脅威でしかなく和議などありえなかっただろうから、豊臣の名を残すには?ってだけを言えば西軍が勝てば良かったってことです。
それには小早川秀秋が重要な動きをしたし、そうさせたのは家康の知力だと思うってことです。
0166人間七七四年
2008/01/05(土) 14:15:05ID:9O7WioRo0167人間七七四年
2008/01/05(土) 14:21:55ID:AeBVu73h0168人間七七四年
2008/01/05(土) 14:32:20ID:8CFt3LUd秀秋がぐずぐずしてたからそうなっただけじゃないの。
偶々上手くいったからいいようなものの、合戦中に裏切るというのは極めて危険な行為。
無論東軍にとっては戦況に関わらず有利になるけど、
小早川家にとっては戦況によっては自殺行為になる。
秀秋が我が身を捨てて徳川家に尽くそうとしたわけではないのは明らかで、
下手をすると西軍の有力部隊として機能し続ける可能性もあった。
家康としてはさっさと東軍に合流して欲しかったはず。
0169人間七七四年
2008/01/05(土) 14:55:32ID:zpSq4WNMただ西軍からの条件が魅力的すぎたから迷っただけで。
まあ最初から旗幟を鮮明にしておいた方が良かった、というのは同意。
0170人間七七四年
2008/01/05(土) 14:58:22ID:l4RAgMQV勝利を確信してなければ現代において誰もが陣形や兵力等から東軍が勝つはずがないと結論付けている関ヶ原の合戦事態あり得ないと思います。
では小早川秀秋は何故戦況を見ながら不利な東軍に付いたのでしょうか?
0171人間七七四年
2008/01/05(土) 15:00:27ID:xVSqNflb殴りかからんばかりの勢いで脅すほうが効くから
0172人間七七四年
2008/01/05(土) 15:11:54ID:l4RAgMQV貴方の書いている通り私も思います。
しかし旗色を行動通り端から小早川が起てていれば事前に西軍勢に小早川は打ち取られていただろうし、陣形も違うだろうし当日の裏切り行為でなければ関ヶ原で東軍の勝利はなかったと思います。
私は家康が小早川の自身の葛藤も読み取り見方に付くことを確信して合戦に望んだと思っています。
0173人間七七四年
2008/01/05(土) 17:03:47ID:l4RAgMQV小早川だけでなく脇坂、小川、赤座らも小早川隊に同調したことが勝敗を分けたと思いますが、この件はスレ違いだと思いますのでこれまでにします。
最後に秀吉と前田利家の没後の不安定な状況を上杉家をダシに家康は天下分目の合戦に持ち込んだと思います。
一言で言えば家康は真の日本平定を目指したんだと思います。
その思いには秀吉色は消し去りたかったのであろうと思っています。
0174人間七七四年
2008/01/05(土) 17:32:44ID:/1d11Kfm0175人間七七四年
2008/01/05(土) 17:51:45ID:WMKj9obEまあ家康としては、最初は叔父、千姫が秀頼に嫁いだ後は祖父という、「外戚」として
実権を徐々に奪っていくってのが最善だと思っていたとは思うよ。
特に秀頼に関しては秀忠も「父」として振舞えるしね。
0176人間七七四年
2008/01/05(土) 17:56:58ID:zAfpDXAgでも、徳川VS豊臣では地力・人間力・人材・経験のどれを取っても勝負にならない。
秀頼は、それを理解して大名の一人としてやっていけばよかったのに、本人や周囲のプライドが
それを許さなかったんだろうな。
徳川に翻意なしを信用されたら豊家は、存続しただろう。
0178人間七七四年
2008/01/07(月) 20:28:54ID:x/9nYTSb秀頼は反家康達にはいい神輿だからな!
家康もいつ担いで寝首欠かれるか不安に思ったと思うな!
0179人間七七四年
2008/01/08(火) 03:19:54ID:Xwgbtfg/0180人間七七四年
2008/01/08(火) 10:37:43ID:xSuVwoMJ効果的な影響力を行使できずに一地方大名に転落した豊臣家ではな
当主も歴戦の家康と実績積んだ秀忠に対し、血筋だけが頼りの秀頼では勝負にならない
反徳川を結集するつもりだったんだろうが結局は浪人衆のみで
徳川の力が強すぎたか別に不満は無かったか、豊臣の力が不甲斐なくみえたのか大名の寝返りはなし
日和見もいただろうが寝返らせるほどの戦果もなしと
結果的には豊臣家ひどいな
0181人間七七四年
2008/01/08(火) 11:18:04ID:hvLoQ/1K各種権利保護を受けているんだから、それを捨ててまで豊臣に走る訳が無い。
今で言えば例えば役所に文句があるからと言って、どこかの法人が「役所ウザイから法令無視して
勝手に事業やろうぜ!」って言い出した場合、それに犯罪者以外が乗っかるか?それと同じ事。
0182人間七七四年
2008/01/08(火) 21:54:25ID:NDs5/rS10183人間七七四年
2008/01/09(水) 13:11:38ID:t13eihff前田利家に加賀100万石ではなく、駿遠三甲100万石を与える
加賀には丹羽、越中には池田、能登には筒井、越前には織田秀信を配置する
尾張を福島に、美濃を加藤に与える
伊勢・伊賀を中村・堀尾・生駒の三奉行で分ける
浅野に因幡・伯耆を与える
細川に肥後北部、宮部に肥後南部を与える
小西に讃岐を与える
0184人間七七四年
2008/01/09(水) 13:34:33ID:a4xbzgej> 前田利家に加賀100万石ではなく、駿遠三甲100万石を与える
前田に天下さし上げるようなものやがな
> 加賀には丹羽、越中には池田、能登には筒井、越前には織田秀信を配置する
織田政権の復活でも企んでいるのか?
> 尾張を福島に、美濃を加藤に与える
目いっぱい過大評価して半国クラスだったのに?
> 伊勢・伊賀を中村・堀尾・生駒の三奉行で分ける
分けてどうする?
> 浅野に因幡・伯耆を与える
いきなり大大名だな。何の功績で?
> 細川に肥後北部、宮部に肥後南部を与える
与えてどうしたいんだよw
> 小西に讃岐を与える
だから目いっぱい過大評価して半国クラスの人間にw
で、それらの領土の元の大名はどうするの?どうやって調整するの?
一つ間違えればまたすぐに戦国時代に逆戻りだぞ。
0185人間七七四年
2008/01/09(水) 13:52:35ID:V1C0bMeJ山崎合戦で明智光秀を討ち、
賤ヶ岳合戦で柴田勝家を討ち、
敵対者を滅ぼすことに成功しています。
天下統一戦においても同様に、
小牧・長久手合戦で織田・徳川・北条・長曾我部の連合軍を滅ぼすべきだったと思います。
あと、前田に所領を与え過ぎ。
手に入れた織田・徳川・北条・長曾我部の所領の半分は豊臣家の蔵入地にすべき。
0188人間七七四年
2008/01/09(水) 15:08:49ID:7R+J4Mf90189人間七七四年
2008/01/09(水) 15:54:14ID:Kno3iUBl五人が遭難したとしよう。
最低でも一週間は耐えなければ救助は来ない、
でも手元には二人が辛うじて一週間食いつなぐだけの食料しかなく、
現地調達も無理な状況だ。
さて、何が起こるか言わなくてもわかるよな。
分かり合うだけでは争いはおさえられんのですよ。
等しく生活と生命の安全が保証されなければ争いは起こる。
大坂の両陣、とくに夏の陣で顕著なのは、
浪人の生活と生命の保証が無いので彼らとしては戦わざるを得ない。
豊臣首脳陣が戦を止めたくてもね。
0191人間七七四年
2008/01/09(水) 17:29:12ID:Kno3iUBl>現地調達も無理な状況だ。
>さて、何が起こるか言わなくてもわかるよな。
・・・たった一行上の文も読めないのならば、俺ではお前を納得させることは不可能だ。
0193人間七七四年
2008/01/09(水) 17:56:39ID:C0SJoLfI人望があれば死んですぐに大名がこぞって家康さまーになるわけがないからな
0194人間七七四年
2008/01/09(水) 18:20:50ID:j1Qc8+UM生き延びられるのは二人だけ!極限状況では弱肉強食!
っつってエキサイトしたID:Kno3iUBlが
真っ先に他の4人にバラされるわけですねw
0196人間七七四年
2008/01/09(水) 20:04:55ID:t13eihff>前田に天下さし上げるようなものやがな
前田と徳川が互いを牽制し合うことを目論んだのだが……
やっぱ、希望的観測かね
>織田政権の復活でも企んでいるのか?
初期に佐々を倒せば、北陸の配置はこんな感じだと思った
丹羽も池田も裏切り者だから、今さら秀信と徒党を組むとは思えないし大丈夫でしょ
>目いっぱい過大評価して半国クラスだったのに?
一国与えるんじゃなくて、清洲城周辺を福島に、岐阜城周辺を加藤に与える
だから、石高は20万石程度
>分けてどうする?
中老だから、大坂に近いほうが良いと思った
それに中村も堀尾も生駒も、領国の関係で東軍には付かないだろうと思った
>いきなり大大名だな。何の功績で?
そんなに大大名じゃなくない?
因幡・伯耆といっても伯耆の半国は毛利が持ってるから、あわせて20万石程度
>与えてどうしたいんだよw
関ヶ原のときは細川に面倒なことされたからな。 九州に遠ざけとくよ。
宮部は他に置き場がなかったorz
>だから目いっぱい過大評価して半国クラスの人間にw
肥後の半国は20万石だが、讃岐は一国丸々与えても20万石いかないはず
>で、それらの領土の元の大名はどうするの?どうやって調整するの?
基本的にはシャッフルして、上手くいくようになってる
それでも足りないとこは、濃尾や越前の余ったところを与える
>一つ間違えればまたすぐに戦国時代に逆戻りだぞ。
ちなみに、毛利や島津みたいな土着の大名は動かしてないからリスクはほとんどない
丹羽、池田、細川、宮部、小西、彼らはすでに何度も領国が変わってる大名
織田と筒井だけ例外だけど、彼らは反抗するような力が全くない
一応、出来る限りの範囲内で動かしてみた
0197人間七七四年
2008/01/09(水) 20:10:51ID:t13eihffそれなりのリスクはあるが、野心家である伊達と隣接させたりしたら互いに牽制し合いそう
あとは秀次を生かせておいて、秀頼には大坂城と三国与えるっていうのが良いと思う
一番良いのは朝鮮出兵を行わないことなんだろうが、どこかで武士に仕事つくってあげないと徳川幕府みたいな失敗するのは目に見えてる
0198人間七七四年
2008/01/09(水) 21:17:01ID:jM1H1R4Yただ、譜代の家臣も無くカリスマもそれほど無い秀吉にとって
金や領土でしか部下を信頼する物差しがなかったようにも思える
まぁ、文禄の時点で秀吉に正常な判断力がなかったからねぇ
もし朝鮮支配(南鮮地域だけでも)のみを考えた上でマトモに戦闘すれば
軍事力では圧倒してたのでもしかしたら併呑できたかも、
(この場合小西や宗がいかにして明の介入を抑えるかもポイント、
ただ明の皇帝も暗君で知られる万暦帝だ)
0199人間七七四年
2008/01/09(水) 21:44:10ID:t13eihffあとは、秀吉がもう少し朝鮮と明のことを知っていれば……
朝鮮も明もガタガタだったのに、何で朝鮮を征伐出来なかったのかね
0200人間七七四年
2008/01/09(水) 21:46:20ID:UXEn2fjz0201人間七七四年
2008/01/09(水) 21:54:53ID:5boDF4dZ0202人間七七四年
2008/01/10(木) 01:03:10ID:T1nEiSN1朝鮮や明の武力の前に内府(笑)や大納言(笑)なんてザコのじいさんw
0203人間七七四年
2008/01/10(木) 02:29:25ID:CIi6wWlR0204人間七七四年
2008/01/10(木) 02:40:27ID:UYZPtMuC@九州征伐で義久を打ち首にして島津家取り潰し
A残った島津勢力が刃向かう場合は如水を中心に鎮圧させる
B北条征伐で政宗を打ち首にして伊達家取り潰し
C残った伊達勢力が刃向かう場合は家康を中心に鎮圧させる
Dで、一旦天下平定する
E如水には薩摩を中心に領地を与える。成政失脚後は肥後も加増
F家康を旧伊達領に領地替えする。刃向かえば取り潰し。従えば放置
G旧徳川領+関東のほとんどを豊臣直轄地にする
これだけで徳川、黒田という危険分子を統治し辛い僻地に押さえ込める
後は朝鮮出兵を止め、秀次には最初から関白就任をさせない
0205人間七七四年
2008/01/10(木) 08:41:42ID:g6sf7kga0206人間七七四年
2008/01/10(木) 10:10:53ID:VGagVj/n0208人間七七四年
2008/01/10(木) 11:54:21ID:XOGxYfgl0209人間七七四年
2008/01/10(木) 11:58:44ID:UYZPtMuC小早川も天下を狙う野心があるなら
そもそも本能寺の変を知った時点で
秀吉を討てと激昂する吉川はじめ毛利家中をなだめるかよ
小牧長久手の時でもチャンスはあったんだし
小早川はそもそも、その意思がなかったんだよ
誰でも彼でも天下に野心があるという思い込みはゲーム厨の発想
お家安泰>天下
実際はこんなタイプの武将の方がほとんど
0210人間七七四年
2008/01/10(木) 12:02:06ID:UYZPtMuCで、福島や加藤のように取り潰されるのを待てと?
家康自身が、
豊臣の血を全て根絶やしにしなければ真に徳川の安泰はない
と、言ってることも知らないのか?
0211人間七七四年
2008/01/10(木) 12:06:49ID:Az4TZ6Jz> 家康自身が、
> 豊臣の血を全て根絶やしにしなければ真に徳川の安泰はない
> と、言ってることも知らないのか?
いつそんな事言ったんだよwww
資料は何?言ってみ?w
0212人間七七四年
2008/01/10(木) 12:17:03ID:XOGxYfglおいおい、福島正利が旗本なの知らんのか?
0213人間七七四年
2008/01/10(木) 12:19:30ID:UYZPtMuCゲームばっかやってるから、そんなバカになるんだよ
もう1度、勉強し直しな
なんで関ヶ原後65万石の一大名に成り下がった秀頼に
チンピラのような言いがかりをつけてまで
あそこまで執拗に攻めたのか解るから
兎に角、最低限の知識は身につけろ
0214人間七七四年
2008/01/10(木) 12:30:34ID:XOGxYfgl0215人間七七四年
2008/01/10(木) 12:30:38ID:Az4TZ6Jzいやだから人格攻撃はどうでもいいから
君の言った
> 家康自身が、
> 豊臣の血を全て根絶やしにしなければ真に徳川の安泰はない
> と、言ってることも知らないのか?
の書かれた文献の資料を提示してはくれまいか?
0216人間七七四年
2008/01/10(木) 16:23:02ID:TULNORqT当時の感覚では、相手の諱を使ったら「お前の下風に立つつもりはない」というくらい謀反的な言葉だよ。
使っていいのは部下に対してか、敵対者に対してのみ。
今だって、年下などから名を呼び捨てにされたら怒る人は多いだろ。
0217人間七七四年
2008/01/10(木) 16:30:27ID:1FBBqMFi0218人間七七四年
2008/01/10(木) 17:59:17ID:MIF4oCAqそういう手段を取られるような豊臣側にも問題はあるだろ。
徳川の将軍職世襲が明らかになってから十年弱、
徳川家が覇権の確立と世の安定に尽力していた時、
豊臣家は生き延びるためにあらゆる手を尽くしていたとでも言うのか?
大坂城に引きこもって秀吉の遺産食いつぶして、現実から目を背けて駄々こねつづけだけだからなあ。
そらもう、お灸を据えるしかあるまいて。
0219人間七七四年
2008/01/10(木) 18:29:22ID:EiOT/EtM秀頼も家康が死ぬのを待ったら良かったのにね
翌年死んでるんだから、大して待たなくて良かったのに
思い残す事無くなったからポックリ死んだのかもしれんけど
死んでも信玄みたいに影武者使うかもしれんが、いくらなんでも何年も続ける事はできんだろうし
清正、池田、浅野親子のような豊臣側を弁護してくれそうなのが死んで
家康の死期も見えてきた、この時期になんで挑発に乗るんだろうか?
家康の思う通りじゃない
よほど頭の悪い連中しかいなかったんだろうね大阪城は
この時期だからこそ低姿勢を打ち出し
秀頼や淀君に駿府に行かせて家康のご機嫌どりしたり
京都とかの中立地域で茶会を催して家康秀忠を招いたり
一族いないから大野とかの近臣と幕府側の婚姻したり
家康が死ぬまで待てば良かったのに、それ以降なら
戦仕掛けても、ある程度の勝算もできるし
協調路線とるにも徳川幕府内で特別な存在として生き残る事も可能だろうし
石高60万石と言っても、なかなか外様大名みたいに命令できん存在だし
0220人間七七四年
2008/01/10(木) 18:53:28ID:MMudJ/aX0221人間七七四年
2008/01/10(木) 20:06:11ID:UYZPtMuCおいおい発狂すんなよw落ち着け
>>215
だから、君の言ってること自体が文献云々以前の問題なんだって
豊臣家の人間が最後どういう運命を辿ったか勉強しなさい(最低限な)
>>216
へー
じゃ、当時の人は日本語使えないねw
相手の諱とか完全に論点ずれてる話しだしな
>>218
そりゃ無理な話だよ
義昭だってそうだったし、権力者の地位にある人間とは
いつまでも自分こそが正当だと思い込んで生きてる人種なんだから
ましてや成人まもない秀頼が状況の変化に対応できるわけない
0222人間七七四年
2008/01/10(木) 21:03:36ID:1FBBqMFi>だから、君の言ってること自体が文献云々以前の問題なんだって
つまり文献など無く民間伝承やら小説のたぐいを論拠としてあつかっていると考えていいんだな
>豊臣家の人間が最後どういう運命を辿ったか勉強しなさい(最低限な)
秀吉の血を唯一引く秀頼は死に本家は滅んだ
ただしねねの実家筋(秀吉の血は入っていない)の木下家は残ってる
そしてその木下家は本姓として豊臣家を名乗ることも許されてる
これを厳密に豊臣家として扱うかは意見がわかれるだろうが
豊臣の血を根絶やしにするんなら豊臣家を名乗ることも微妙だと思うが
0224人間七七四年
2008/01/10(木) 21:41:38ID:Az4TZ6Jzいいから君は
> 家康自身が、
> 豊臣の血を全て根絶やしにしなければ真に徳川の安泰はない
> と、言ってることも知らないのか?
といったという資料を出しなさい。
事実を裏付けるものが無いのに事実であると言い張るのは「詐欺」という。
詐欺を行うのは詐欺師である
よって君は詐欺師なのである。
0225人間七七四年
2008/01/10(木) 21:59:31ID:qzk+aIrl他人に勉強しろなど偉そうなことをほざく輩ほど、
自分が不勉強というのはよくある話だし、挑発的な書き方、礼儀しらずの態度もしかり。
そういう奴はスルーしましょうよ。
ところで、家康は本当のところ豊臣を滅ぼす意思があったと思う?
不可解なんだよな。冬の陣を何故、あんなに性急に進めたのが。
だって、豊臣は5万人近い牢人を大坂城に入れたわけでしょう。
もし、豊臣を滅ぼす意思がなく、一大名として従属させるだけなら
「攻めるぞ、攻めるぞ」とポーズだけとれば豊臣は怖くて牢人を解雇できないので
牢人に給与を与え続けなくてはならない。
一人年3両与えると年15万両。2年もすれば、豊臣は金銀をほぼ使い果たす。
それに比べる城攻めはあまりにもとリスクが多いと思うのだが。
0226人間七七四年
2008/01/10(木) 22:02:26ID:47RtNnk5勝ったとして朝鮮半島を誰が統治するのかも問題
まさかそこに家康を持っていくわけにもいかないし、直轄領にしても
誰を代官にするか…三成にもう少し人望があればなぁ
あるいは一門にそこそこの才覚を持った人間がいれば
もうここからは仮想戦記になってしまうが、
万暦帝の失政でガタガタの明については、
半島制圧後ヌルハチと手を結べばいい線いけたかも
ただし準備に30年は必要だろうが
0227人間七七四年
2008/01/10(木) 22:02:26ID:qzk+aIrlそれに比べる城攻めはあまりにもとリスクが多いと思うのだが。
↓
それに比べると城攻めはあまりにもリスクが多いと思うのだが。
0228人間七七四年
2008/01/10(木) 22:04:52ID:1FBBqMFi家康の健康がらみと牢人衆を放置することによる政情不安あたりかな
秀頼との対面あたりで病の兆候みたいのがでてきたんではないか
0229人間七七四年
2008/01/10(木) 22:06:47ID:47RtNnk5時代が変わったことを知らしめるためとか?
旧時代の象徴である大阪城を破壊することで…
それに落ちぶれた豊家でも5万人集まったわけで、
そのカリスマは後々を考えると無視できない
0230人間七七四年
2008/01/10(木) 22:07:11ID:UYZPtMuCうん。ねねというか北政所だからね
家康と北政所の晩年の繋がりを考えれば
それは別に不思議なことではないよね
>>224
いやだから人格攻撃はどうでもいいから
何を言われてるのか、まず理解できるだけの最低限の知識を身につけなさい
前田や小早川を家康と同類に考えてるような人に文献なんて100年早いよ
0231人間七七四年
2008/01/10(木) 22:07:49ID:Az4TZ6Jzつーか、幕府が「日本の武士を統括する組織」である以上、その幕府からの転封命令に
応じなかった豊臣家は、他の大名への見せしめも含めて責め滅ぼさざるをえなかったんじゃないかね?
幕府が欲しいのは大阪と言う土地と大阪城なのであって、豊臣家自体をどうこうという考えは
あまり強くなかったと思われる(信長の本願寺への態度とほぼ同じ)
おそらく転封に応じて大人しく大阪城を明け渡していれば、豊臣家が滅びるという事は
なかったんじゃないかね。ともかくあの時点では、徳川と豊臣の実力の差があまりにも
懸絶している。
0232人間七七四年
2008/01/10(木) 22:16:52ID:UYZPtMuC自分で自分に対して話し続けてる・・
しかも見解が悉く幼稚すぎる
>幕府が「日本の武士を統括する組織」である以上
>幕府が欲しいのは大阪と言う土地と大阪城なのであって
こんな建前と矛盾に満ちた主張、よくも恥ずかしくもなく書けるわ
0233人間七七四年
2008/01/10(木) 22:24:29ID:1FBBqMFiあんまりやりたくはないんだが
>何を言われてるのか、まず理解できるだけの最低限の知識を身につけなさい
>前田や小早川を家康と同類に考えてるような人に100年早いよ
こういう煽り方をする人間がえらそうにするのは100年早いよ
文献のあることが前提の話でそれがなにかも答えないようではな
>前田や小早川を家康と同類に考えてるような人
こんなのは関係ない
>>208から>>210につながって>>211の質問(煽りだがな)になるのに
>>213でどこからきたのか急にゲームなんぞの話題をだして相手を小ばかにするようじゃ人格うたがわれてもしょうがない
0234人間七七四年
2008/01/10(木) 22:31:43ID:UYZPtMuC反論に使うべきIDを間違えてるよw
0235人間七七四年
2008/01/10(木) 22:34:42ID:TULNORqT>文献なんて100年早いよ
史学とは、その文献こそが根拠なんです。
逃げないできちんと文献で示してください。
文献さえ示せばみんな納得するから。
それが出せないかぎりは、あなたの書き込みは痛い妄想でしかありません。
0236人間七七四年
2008/01/10(木) 22:44:03ID:UYZPtMuCバカにした扱いを受けるのか
君自身が自分の胸に手を当てて考えればいいと思うよ
素直に学ぶ姿勢とは何か
成長するということとは何か
それを理解できれば君自身の行いを悔い改めることができるから
0237人間七七四年
2008/01/10(木) 22:46:30ID:1TyvebJRよかったんじゃない?
0238人間七七四年
2008/01/10(木) 22:54:04ID:GXhpT3XP豊臣の血を全て根絶やしにしなければ真に徳川の安泰はない
と、言ってることも知らないのか? 」
などと言い切っておきながら、
その根拠も示せない人間が何を言ってもまるで無駄。
0239人間七七四年
2008/01/10(木) 22:56:05ID:TULNORqT根拠示せないお前こそが周囲から馬鹿にされた白い目で見られていることにいいかげん気付け。
口惜しかったら文献出せ。
0240人間七七四年
2008/01/10(木) 22:56:43ID:xugRhJc90241人間七七四年
2008/01/10(木) 23:09:03ID:qzk+aIrl切支丹牢人の存在は家康に大坂攻めを決意させる重要な要素だったな。
見落としていた。
ただ、それは豊臣が例えば国替えに応ずれば解決していたかというとどうなんだろう。
豊臣が領内を禁教にしなければ、転封先の豊臣領に切支丹が移り住んでいくよ。
結局、豊臣が滅びる以外解決の道はなかったのでは。
家康の健康というか寿命の問題はあったと思う。
早く、ケリをつけたいからなぁ。
でもこの問題も、もし豊臣が籠城を続けたらって思うと結構きわどい問題なんだよね。
天守閣や本丸が潰れても惣構えさえ破られなければ籠城は可能。
弾薬はともかく食料は1年やそこらは保っただろう。
寿命に不安のある家康はどうしたんだろうね。
結局、徳川家にとっては結果オーライだったけど
随分危ない橋を渡ったものだと思う。
0242人間七七四年
2008/01/10(木) 23:19:33ID:GXhpT3XP秀忠という後継者もいて幕府の体制も固まっていたから。
0243人間七七四年
2008/01/10(木) 23:31:53ID:qzk+aIrl>幕府が「日本の武士を統括する組織」である
それは元和以降の徳川幕府の目指した道であることであるが
それを豊臣を攻める理由とするには苦しいのでは。
当時の豊臣家の解釈はこの程度ではないかと妄想してみた。
豊臣という大きな傘の下に一回り小さな傘で全国の大名を覆ったのが徳川幕府。
家康は秀頼に臣従を誓ったはず。
未だ、主従関係を逆転する旨を一言も聞いてはいない。
だから、一大名とはいえ豊臣は特別の家である。
もし、このように考えているのなら滅ぼすしかないでしょう。
0244人間七七四年
2008/01/10(木) 23:35:32ID:qzk+aIrl勝敗ならそうだろう。
なら始めからやらないほうがいいのでは?
リターンに大差なくほぼノーリスクとハイリスク(勝敗以外の付随条件もあり)では
どちらがお徳でしょうか?
0245人間七七四年
2008/01/10(木) 23:47:54ID:Az4TZ6Jzしかし家康は戦争大好きだからなw
「戦でケリの付く物ならそうしてしまおう」と思うタイプ。
「ノーリスクな平和」と、「ローリスクな戦」のどちらを取るかといわれれば
迷う事無く後者だろう。
0247人間七七四年
2008/01/11(金) 00:09:10ID:778eTmvG始めない場合は、豊臣がそれなりの権威を保ったままずるずると存続しているうちに、
一度固まった幕府の体制がまた揺らいでしまう可能性もある。
それに、5万もの浪人衆をただ金銀が尽きるまで置いておくと言うのは難しい。
実際、夏の陣は浪人衆の暴発的というような側面もあるらしいし。
加えて、「攻めるぞ、攻めるぞ」とポーズだけとるというのも、
それは諸大名に、いつ動員されるかも分からない不安定な状況を強いることにもなる。
結局、体制が固まっているうちに、完全に滅ぼしてしまった方が、
後腐れがなくなって良いというものでしょう。
0248人間七七四年
2008/01/11(金) 00:15:27ID:M6X+tEOL一番好きだったのは家康なんだよね、実は。
逆に一番戦争が嫌いだったのが信長。戦わないですむところは徹底的に謀略や謀殺で済ませてる。
0249人間七七四年
2008/01/11(金) 00:23:06ID:0Zbg6/vNそうなんだよなあ。
大坂の陣前後の徳川の行動は「豊臣を滅ぼす腹」であったら全て納得できる。
そりゃ、禍根を完全に断ち切るほうがすっきりするしなあ。
不思議でならないのは「徳川は一大名なら豊臣を存続させる」という意見なんだ。
豊臣を存続させる根拠がよくわからない。
0250人間七七四年
2008/01/11(金) 00:29:01ID:M6X+tEOL徳川としてもあの時点で武力によって滅ぼす理由はないでしょ。
一端体制化に入ってしまえば、後日何らかの機会を見つけて平和裏に取り潰す事だって出来たのだから。
0251人間七七四年
2008/01/11(金) 00:47:24ID:0Zbg6/vNただの一大名なら謀反の罪でもでっちあげて簡単に潰せるしね。
末期癌の患者の延命治療みたいなものだな。
あとは将軍様の気持ち次第ってか。
家康の代ならともかく、秀忠の代で生き残るのは難しそうだな。
0252人間七七四年
2008/01/11(金) 00:58:03ID:M6X+tEOL家光の代になると政治的な理由での取りつぶしは激減するし、むしろ伊達や前田のように
幕府によって厚遇されただろう。
0253人間七七四年
2008/01/11(金) 02:42:09ID:x0hLUNG465万石では彼ら全てを養うことは不可能だし、減封こそあれ加増なんて幕府が認めないのは明白。
浪人衆を見捨てて夜逃げするしかないぜ。
0254人間七七四年
2008/01/11(金) 02:43:09ID:tAQAyhdAまぁ豊臣家が何らかの失策を犯すかどうかによる、
さすがになんら政治的ミスも無い上に従順な相手を無理矢理でっちあげて
・・・なんて簡単にやってしまったら外様の反感を抑えられなくなるよ。
徳川幕府なんざ10年ももたない。
むしろそこまで従順なら朝廷に対する関係でも
豊臣家はそこそこに厚遇して公家にでもしてしまえば
利用価値は未だ高い。
0255人間七七四年
2008/01/11(金) 05:34:18ID:0Zbg6/vN>徳川幕府なんざ10年ももたない
それは現代人の我々だからいえる感覚ではないのかな?
福島家に対する処遇なんてでっちあげに近いだろう
>豊臣家はそこそこに厚遇して公家にでもしてしまえば
高家?つまり旗本にするってことか?
ところで豊臣家には3,000人の女衆(奉公人を加えると1万人)などがいたんだよね。
65万石でも女衆+直臣の部下を養うのに苦しかった。
豊臣が転封を受けられなかったのにはこういう経済的な側面もあったと思うけど、
それを万石以下の旗本か。
・・・厳しいな
0256人間七七四年
2008/01/11(金) 09:29:28ID:eQGjfIMq女衆+直臣を路頭に迷わせないために天下を向こうに回して大戦争の
あげく御家滅亡か…、本末転倒だねぇ
雇ってる連中の利益代表が実態とは戦国大名ってのは大変だ
豊臣期小田原の後の信雄みたいに恭順してれば滅ぼされはしなかったんじゃないかな…
って思っちゃうけど、家康は秀吉より厳しいのかね
0257人間七七四年
2008/01/11(金) 09:59:45ID:JqGFJl4S「先に広島城の普請御制禁に背きにより、
本丸そのほか悉く破却するべきむね仰せたまわりながら、
少なく石塁を毀ちて命に応ぜし形なし。
しかのみならず、無入たるに託してむなしく数日を送るの状、
重疊等間のいたりに思し召した為」
とあるとおり、福島家が命令違反を二度したから大幅減封されたもの。
けっして徳川幕府がでっち上げたものじゃなく、むしろ福島家の自業自得。
0258人間七七四年
2008/01/11(金) 13:42:03ID:M6X+tEOLとっくに秀忠グループに権力中枢が移っているのに、本多正純とのラインが強かった事を
妄信しすぎてた。
現代的な感覚ならともかく、あの当時の権力者としては甘すぎ。
0259人間七七四年
2008/01/11(金) 18:27:58ID:Y8+cJrHB同じ話をねじ込むにしても、ねじ込む相手先を間違えると何にもならないどころかマイナスに働くこともある。
まあ正則は武将として或いは行政官としてはともかく、政治家としては落第ってことだ。
豊臣家の滅亡も同様に、政治力の欠如の所為だと思うぜ。
それは秀頼に帰すのは酷だろうけど、大野ら中枢部の奴らの責任は重い。
0260人間七七四年
2008/01/11(金) 18:44:11ID:M6X+tEOL城を乗っ取られるような形になったのは、これは下策もいいとこだな。
戦国時代を通して見ても、こう言う例はほとんど存在しないんじゃないかな?
0261人間七七四年
2008/01/11(金) 20:57:52ID:0Zbg6/vN大野治長は徳川より知行を安堵された独立大名。
規模こそ違え、秀頼と同格の大名なんだな。
他家のリストラまでは断行できないとみるのが普通。
0262人間七七四年
2008/01/11(金) 22:37:09ID:778eTmvG徹底的に従順にふるまうなら、滅ぼさずにおく可能性もあったとは思うが、
利用価値なんてものは、一切ないでしょう。
0263人間七七四年
2008/01/11(金) 22:59:07ID:qdejj2QXなんであれ従順な大名家には価値はある。
しかも豊臣家が幕府に従順に尽くすなら、豊臣恩顧の大名家も従順になろうと言うもの。
まあ豊臣家を粗略に扱うことの不安定化要因の方が大きいけど。
大阪の陣とか、やらずに済むならやはりやらない方が楽だったのは確かだ。
0264人間七七四年
2008/01/11(金) 23:20:58ID:778eTmvG豊臣家が従順なら豊臣恩顧の大名も従順になるというのがもし事実なら、
それは豊臣家が恩顧の大名に未だに影響力を持っているってことになる。
そんなのは利用価値どころか厄介なだけでしょう。
あなた自身も言っているように、扱い云々で再び両家が険悪にでもなれば、
そのことは豊臣恩顧の大名にも影響しかねない、不安定要因になるってことなんだから。
要するに、もしも仮に幕府が豊臣恩顧の大名を直接抑えることが出来なかったなら、
豊臣家を利用して抑えるって方法もありえるだろうが、既に直接的に抑えることが出来るのなら、
今更豊臣家など持ち出してその影響力を認めてしまうのは、むしろ有害なことになる。
0265人間七七四年
2008/01/11(金) 23:21:31ID:M6X+tEOLでっかい戦争やって満足したかったからやった、って気もするなw
0266人間七七四年
2008/01/12(土) 01:01:32ID:oaGIUp1j0267人間七七四年
2008/01/12(土) 01:14:31ID:MdjPXGQp家老も家臣ももたない奇妙な大名。
よく、方広寺の鐘の銘文の一件で大蔵卿局を使者として出したことが
淀や大野治長の落ち度のように言われるが、
あれが豊臣家の正式な使者なんだよね。
片桐且元は豊臣家にとってはただの友好大名のひとりにしか過ぎないしね。
冬の陣の和議の豊臣側の使者が常高院なのも同じ。
豊臣家には女性しか使える家臣がいなかったわけだ。
そんな変わった大名が難航不落といわれた大坂城と莫大な金銀を持っていたら
おっかなくてしょうがない。これは潰すのが賢明だ。
でも、徳川に生き残らせる気があれば、生き残りは可能だったと思うよ。
上総・安房あたりに転封させて、親豊臣の大野・木村らから引き離す。
そこで付家老をはじめとする徳川譜代の家臣をごっそり送り込む。
千姫に男子が生まれればそのこを世継ぎとして国松は坊主にする。
女子しか生まれなければ徳川家から婿養子を送り込み、国松は廃嫡。
その後も徳川の血を濃くするような婚姻政策を続ければいい。
0268人間七七四年
2008/01/12(土) 02:43:28ID:MdjPXGQp戦争好きというのは不謹慎でしょう。
現代にあてはめると、米大統領選挙で共和党が全く話題とされていないのが
ブッシュのイラク戦争が米国民からいかに嫌悪されていたかを証明しています。
いかに乱世とはいえ、人殺しが楽しいという発想はないと思います。
ゲームとは違うのです。
殺されるのは生身の人間ですよ。
0269人間七七四年
2008/01/12(土) 04:42:12ID:oaGIUp1jなんで現代に当てはめるのかがわからない。
現代の感覚ではどんなにご馳走を食べれたとしても戦争に行く気にはならないが、
当時は白米が食べれるってんで志願者が多かった訳だしね。
欧州の十字軍なんて異教徒を殺すことが信仰の証だったくらい。
あとゲームとは違うからこそ躊躇なんてしないだろ。
何てったってリセットはない、自分が殺されたら終わりなんだから。
0270人間七七四年
2008/01/12(土) 04:57:34ID:MdjPXGQpあなた、自分の子供か恋人が死んだ場面に直面した経験がありますか?
あってなおこの言葉をいえるのですか>
0271人間七七四年
2008/01/12(土) 05:06:31ID:MdjPXGQp想像力が稚拙すぎる。
あきれて物がいえない。
0272人間七七四年
2008/01/12(土) 06:36:28ID:WXc3Cjfm巧くまとめてるわ
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E6%94%BF%E6%A8%A9
0273人間七七四年
2008/01/12(土) 07:25:15ID:8Teq3BKp現実的に考えて、何の影響力もないなんてことはあり得ないから。
たとえ誰も知らないような雑魚大名でさえ、
変な理由で取り潰されたらほかの大名だって良い気分はしない。
それが豊臣家の場合にイヤさが少し増すことを認めたからと言って何になると言うんだ。
0274人間七七四年
2008/01/12(土) 07:26:42ID:kC3i/5Qc家康は別に人格者でも平和主義者でも何でもなく
ただ自分たちの天下を子々孫々にまで安定させたいだけ
その為なら、躊躇無く豊臣家の人なんて殺せると思うけどな
だって自分がそうやって秀吉の約束を破り天下を取った人間なんだから。
0275人間七七四年
2008/01/12(土) 07:47:32ID:MdjPXGQp>想像力が幼稚なのは明らかにID:MdjPXGQpの方だと思うのは俺だけかな?
つうか文章くらいよめよ
想像力が稚拙すぎるを想像力が幼稚とどうして変えるのかなあ
ちなみに俺は家康は豊臣を滅ぼすつもりだったというのをこのスレで問うているわけ
それを「家康は戦争好き」という安易な理由でこたえた奴に対する返信なわけだろう
馬
0276人間七七四年
2008/01/12(土) 07:51:22ID:8Teq3BKp別に戦争が好きだったわけじゃないんじゃない?
それに、そういうのは手段の選択には多少影響するかもしれないけど、
豊臣家を潰すかどうかと言う基本的な部分までは影響してないんじゃないの。
0277人間七七四年
2008/01/12(土) 08:01:48ID:MdjPXGQpであんたは何を言いたいのかい?
結論からいうと危険極まりない豊臣は滅ぼすべきだった
そう俺は思っている
それは、家康が戦争好きでも豊臣が歯向かったわけでもなんでもなく
秀頼は織田秀信になりえなかったこと、すなわち徳川にとって有害無益の存在ということだ。
ただ、豊臣を滅ぼす手法についてはもうすこし上手な方法があったのではという思いはある。
それは、大坂の役のリスクだ。ただそれは結果オーライと俺は書いた。
本当は豊臣を骨抜きにして(乗っ取り)事実上滅ぼす方法もあったし、
それは家康にあと2〜3年の猶予があれば実現できた。というのがおれの意見だ。
0279277
2008/01/12(土) 08:05:07ID:MdjPXGQp0280人間七七四年
2008/01/12(土) 08:06:29ID:8Teq3BKpその「事実上滅ぼす」は家名は残るって事かな?
このスレ的にはそれは「滅んでない」と思うけど。
(「豊臣政権」じゃなくて「豊臣家」のスレだから)
0281人間七七四年
2008/01/12(土) 08:24:12ID:MdjPXGQp家康に時間敵な余裕があれば
「攻める」「攻める」とおどしておいて豊臣に牢人を雇わせて=金銀を使わせて
財政破綻を待つ そして
>>267 の方法で骨抜きにする
こうすれば、(実質的に豊臣は滅び)このスレ的には豊臣は残ったとおもう
実際、寺社の修復等で金を使わせて豊臣の金銀を払拭させたかったのだろうが、
大野治長らが優秀だったのか、思惑が外れて多額の金銀が豊臣に残ってしまった。
0282人間七七四年
2008/01/12(土) 09:35:35ID:G67b8TyW> 実際、寺社の修復等で金を使わせて豊臣の金銀を払拭させたかったのだろうが、
> 大野治長らが優秀だったのか、思惑が外れて多額の金銀が豊臣に残ってしまった。
あれはわざわざ豊臣家側に「私たちは幕府に反抗なんてしませんよ、その証拠にこんなに
寺社に金使ってます!」ってポーズを取らして上げられるようにした、ある意味徳川の側の
親切心だろ。
豊臣家の方がその意図をきちんと図れなかったり、歪んだ反発の仕方をしちゃっただけで。
実際に金があろうとなかろうと、アレで「金を使った」って事にしちゃえば、対外的には
「徳川のいう事を聞くのはいやだが金がないから仕方が無い。」、体内的にも「徳川に屈するのは
はなはだ遺憾だが金がないから仕方が無い。我慢せよ。」ってことで、ある程度対面を保ったまま
徳川体制に合流する事が出来たんだよね。
0283人間七七四年
2008/01/12(土) 10:34:06ID:kcQE6GXV>寺社に金使ってます!」ってポーズを取らして上げられるようにした、ある意味徳川の側の
>親切心だろ。
天下普請にも参加するよう何度か誘ってるしな。大阪方は拒否ったが。
0284人間七七四年
2008/01/12(土) 10:37:51ID:MdjPXGQp>ある意味徳川の側の 親切心だろ。
何もいう事はありません。
すごいね。ここまで考えられる貴君が・・・・
0285人間七七四年
2008/01/12(土) 10:45:12ID:MdjPXGQpこれは初耳だな
信頼できる話かどうか確認したいので、よければ文献を教えてくれないか
0286人間七七四年
2008/01/12(土) 11:40:41ID:7v5fOeNmいや、だから、そんな悠長なことしているうちに、
今は固まっている幕府の基盤が緩んでしまったらどうするの?
200年以上磐石だったといのは結果論に過ぎないのだから。
要するに早めに領地替えだの人質だのにおうじて、>>267のように出来るならそれでよし、
それを拒否したなら、さっさと滅ぼしてしまった方がリスクがむしろ低い。
それに大坂が財政破綻しかねないほどの浪人を抱えているのに、
実際には大坂を攻めないという状況は、大坂側の先制攻撃の可能性を残すことになる。
こっちから攻めていった方が明らかに確実だよ。
0288人間七七四年
2008/01/12(土) 12:04:26ID:du9jqtn1なんなんだw
0290人間七七四年
2008/01/12(土) 12:59:18ID:MdjPXGQpあなたの主張の根拠となる史料名を教えて下さい
それとも脳内ソースですか?
0291人間七七四年
2008/01/12(土) 13:27:00ID:RGpQOCWSときの流れとして記述があるな。ぱっと見一次史料名は見つからなかった。
0292人間七七四年
2008/01/12(土) 13:33:19ID:MdjPXGQp有難う
283が自信たっぷりだったので彼の返事を待つことにする
0293人間七七四年
2008/01/12(土) 16:02:21ID:nquzpx8i0294人間七七四年
2008/01/12(土) 18:06:40ID:WXc3Cjfm2ちゃんに没頭するとずっと覗いてるからな
0295人間七七四年
2008/01/12(土) 18:48:37ID:3Ven/tXw0296人間七七四年
2008/01/12(土) 20:17:22ID:8Ynf2dgKどうやってかは問題にせず100パーセント暗殺可能が前提
0297人間七七四年
2008/01/12(土) 21:17:37ID:ZwXqs4pA朝鮮出兵にかこつけて大規模な出兵準備を整えつつ、、
家康ちん大阪城に呼び出して、撲殺天使。
んで、出兵準備整ったら、家康ちん亡き後の江戸攻めて終わりんく。
これで豊臣安泰、君臣豊楽国家安康。w
0298人間七七四年
2008/01/12(土) 22:53:38ID:poWmfyIR嘉吉の変みたいに、口実を作って酒宴を開けばいいんじゃない?
徳川親子と家臣たちを招いてガンガン酒を振舞って
酔いが回ってきたところで馬を暴走させて門を閉じ
武装兵士たちを登場させて皆殺しにさせる・・・
赤松親子なみに完璧な作戦だな
0299人間七七四年
2008/01/12(土) 23:05:05ID:7v5fOeNmその嘉吉の変自体、義教の強権政治に対して、
次は自分がやられると思った赤松氏の行動な分けで。
0300人間七七四年
2008/01/13(日) 00:36:03ID:C0/fkXOT言いがかりの隙を与えなかったの家康の強かさを無視してるとおもうぜ。
0301人間七七四年
2008/01/13(日) 00:53:49ID:HseztdTf後で体裁が整えばいいだけのこと。
秀吉が家康を忙殺する必要に気づいたのが遅かっただけ。
0305人間七七四年
2008/01/13(日) 05:21:55ID:FhKkhgF3全ての表裏を見てきた家康に暗殺などできる隙があったはずないじゃん!
0306人間七七四年
2008/01/13(日) 06:42:13ID:2/qDzG7F何も家康を必ずしも殺すだけが方法じゃないと思うんだよね
問題は豊臣家を滅ぼしそうな存在の力を削ぐことにあるんだから
基本的には領地替えだけで事済むと思うんだけど。
勿論、政権内の内部強化や跡継ぎ問題、唐入りといった失策の取り止めなど
他にも取るべき処置は沢山あるけど
家康に関して言えば、殺さなくても僻地に追いやって封じ込める方法なんて
いくらでもある
0307人間七七四年
2008/01/13(日) 09:16:05ID:CzTdi7Rrタイミングが悪ければ瓦解する可能性もあった。
正味で言えば秀吉の方が有利ではあっただろうけど、勝ってもかなりのダメージは被る。
豊臣も徳川も、波乱を起こすにはリスクが大きいので様子を伺ってた状態で。
もっとも、唐入りがやりたかったので、政権基盤の長期的な安定化よりも
国内の統一を優先して急いだのかもしれないけど。
0308人間七七四年
2008/01/13(日) 12:11:31ID:umUbkMwn家康を暗殺するとどうなるか
@徳川家は徹底的に豊臣に対して反抗するだろう
これによって、国内平定は大分遅れる
A他の諸大名が次は自分が殺られるのではないかと思うことは確実
これによって、謀叛を起こす大名が勃発する
B家康暗殺というのは道徳的にも問題があり、秀吉は天下の信頼を失う
C秀吉を暗殺しようとする大名が必ずあらわれる
要するに、日本は再び戦国時代の世の中になる
そうなれば豊臣家の崩壊はむしろ早まるかもしれない
0309人間七七四年
2008/01/13(日) 12:50:59ID:CMjyIcFHいない気がするが・・・・・・・・・・・・・
跡を継ぐ者が居れば驚異だが、居ないなら危険性が見いだされたところで殺すだろ。
その場合、粛正の理由は作るだろうし、家康亡き配下の総兵力はせいぜいくらい3万だろ。
京への街道を押さえて、背後から伊達にでもやらせれば片は付く。
でも、秀吉は出身の負い目から家康に手をださかなった気がするから、
家康暗殺はあり得ないはと思うけどね・・・・・・・・・・。
家康暗殺しても秀吉存命中であれば体制には影響ないと思う。
何はともあれ、秀頼の時代は荒れる事はどのみち同じかなww
0310人間七七四年
2008/01/13(日) 15:25:05ID:GG8zVXgr特に暗殺の事実が露見した場合には、反抗の大義名分が立つので大変なことになるかと。
伊達なんか真っ先に家康につくでしょ。
あと、関東移封で石高250万というから、動員力は6万くらいでは?
0311人間七七四年
2008/01/13(日) 15:51:15ID:HzkbmXGY結局秀吉に助けを求めた奴が跡を継ぐだろうな。
もし抵抗する結果となったら中心は結城家を継いでいた秀康。
三男秀忠、四男忠吉のどちらかは秀吉に・・・ ??
結論。歴史にもしもは無い。www
0312人間七七四年
2008/01/13(日) 16:21:04ID:vFositQs秀吉=劉邦
家康=韓信
韓信の粛清に成功した漢王朝は四百年続いたが失敗した豊臣政権は2代で滅んだ。
0314人間七七四年
2008/01/13(日) 16:57:46ID:H9yntxIZそれを言ったらもしもは語れない。
0315人間七七四年
2008/01/13(日) 17:10:51ID:GG8zVXgr多分311の頭の中ではつながってるんだよ。
>>311
徳川家に後継者争いが絶対に起きないとは言い切れないが…
豊臣家の立場で考えた場合、
そんな起きるか起きないかわからないような展開を期待して
暗殺を仕掛けることは出来ない。
0316人間七七四年
2008/01/13(日) 17:29:16ID:H9yntxIZ家康が腹心集めて後継者を選ばせたとき意見は分かれていたと言うから争いはおこるでしょーな。
争わずに後継が決まっても、継げなかった者は不満を持つでしょう。
不満持たないように領地分割すると兵力ダウン。
0317人間七七四年
2008/01/13(日) 17:55:23ID:GG8zVXgrそれに、暗殺された場合はひとまず団結して事態に対処すると言う考えは当然あるはず。
それも上手くいかずに分裂する可能性はあるとしても。
0318人間七七四年
2008/01/13(日) 18:27:39ID:pbLuu68j秀康は秀忠との仲が良好だし、既に結城家があるわけだし
秀吉が死にかける前となると忠吉はまだ10代前半。
後継争いになる要素は極めて少ないように思うけど。
0319人間七七四年
2008/01/13(日) 19:11:55ID:umUbkMwn徳川家は結束して、みんな討ち死に覚悟で秀吉を殺しに行くだろうな
毛利・上杉・伊達・島津なんかも次は自分が殺られると思って秀吉に反抗
徳川征伐をするにも、天下の信頼を失った秀吉軍には味方が集まらないし士気も下がる
0320人間七七四年
2008/01/13(日) 19:30:12ID:Jk1+lnC/信長はそれが欠けていたから殺されたんだ。
0321人間七七四年
2008/01/13(日) 19:34:50ID:GG8zVXgr0322人間七七四年
2008/01/13(日) 20:14:55ID:TQX6DUcP0323人間七七四年
2008/01/13(日) 21:05:26ID:Rg2A+/p+問題はどれくらいの規模で軍事衝突があるか、
それは長引くのか?長引かせるのか?などを考える方が現実的っしょ?
もともと暗殺なんて、暗殺→後継争い→勢力衰退が目的なんだから争わないなら争わせるまでさ。
毛利・上杉・伊達・島津が個別に動いても、それだけじゃ各個撃破されるだけだよ。
簡単に兵站断たれるじゃんw兵站の為に戦いながら攻め上っていたら、
疲労のピークで叩きのめされるよ。
でも、上杉と伊達・結城が組んで豊臣を攻め、
岐阜・名古屋あたりの戦場で豊臣に従っていた毛利・島津が反旗翻せば判らないな・・・ ん?なんだか関ヶ原?
かつて信長がされたように、朝廷が号令して豊臣包囲網を敷けばいいかもでおじゃる・・・(ぉ
信長って信頼無かったんだぁ・・・そうだったのか・・・(ぉ
0324人間七七四年
2008/01/13(日) 21:19:47ID:r1FRSt2Xなぜ「絶対起きる」といえるのかを論じないと、まったくもって何の意味も無い
実際に徳川内部で対立があったとか、そういう兆候がみられるとか、そういった分析をせねば、あんたの希望的観測・妄想に過ぎない
毛利らが「個別に動く」などと論じてるものもいない
自分勝手に想定を作り上げて、それを批判して、一体何がしたいのか
妄想でなく、推測で話を進めてくれなければ、議論なぞできるわけがない
0325人間七七四年
2008/01/13(日) 22:10:14ID:+lVy5r+kまったくそのとおり。
北条貞時公が平頼綱一家を奇襲殲滅したときや
毛利元就公が井上元兼一家を奇襲討滅したときがそうだった。
家臣を成敗する理由など適当に作り上げればよいのだ。
なぜなら、主君は家臣の生殺与奪権を完全掌握しているからだ。
>>308
アレクサンドロス1世やチンギス=カアンさえも超越していた
羽柴筑前の恐るべき統率力・軍事力・戦術をもってすれば
徳川家を殲滅することなどいともたやすいことだ。
そうでなければ日本統一などできるはずがなかろう。
はっきり言えば、羽柴筑前は長生きさえしていれば
モンゴル帝国・イスパニア王国・大英帝国を遥かに超える
世界大帝国を築けていたかもしれない。
忠実な犬であった小早川隆景に命じて水軍を動員すれば
三大洋を制覇することも夢ではなかったのだ。
0326人間七七四年
2008/01/13(日) 22:18:25ID:+lVy5r+k現代における「戦争」は、公共事業という側面が最も強い。
戦争は多大な経済効果を生み出し、戦を仕掛けた側の者を大いに潤す。
旧イラク共和国を滅ぼした有志連合諸国がその好例だ。
筑前がこの考えを持ち合わせていれば徳川討伐を躊躇うはずも無かったし
羽柴秀次事件に乗じて最上家や伊達家などを一挙に族滅していただろう。
最高権力者に情けは要らない。必要なのは殺戮をためらわない残忍さだ。
0327人間七七四年
2008/01/13(日) 22:20:47ID:+lVy5r+k現代国家の最高権力者に当てはまらないということを
念のために付け加えておく。
現代と当時とでは人命の重さが全く違うのだから。
0328人間七七四年
2008/01/13(日) 22:22:59ID:kT5hSAVA0329人間七七四年
2008/01/13(日) 22:50:39ID:WdkDvwLeお気楽すぎるよ。平和ボケガエル。
あの時代、二男三男なんて良くて少し領地貰えるくらい。
跡を継げなきゃ、これまでヘコヘコしてくれた武将よりも貧乏に暮らす羽目になる。
下手したら生きていけない時代。
まったく腕も立たず学問も駄目な駄目駄目でも生きていきたいなら、
坊主になって高野山にでも行くしかない。
負け犬になりたくなければ戦って奪うしかない。
0330人間七七四年
2008/01/13(日) 22:55:51ID:WdkDvwLe胴衣
0331人間七七四年
2008/01/13(日) 23:01:08ID:WdkDvwLe小早川らが関ヶ原で裏切らなければ、兵力といい配置といい豊臣勢の勝利に終わっただろうな。
それに秀頼の出陣も必要だったな。総大将が決戦場に出てこないなんて興ざめだ。
0332人間七七四年
2008/01/13(日) 23:28:35ID:vFositQs秀頼がどっちかにつくとか無理だろ。だから清正や正則も徳川についた。
しかし戦後は後の祭りだったわけだが。そう持っていった家康が
一枚も二枚も上だった。
0333人間七七四年
2008/01/13(日) 23:36:23ID:RD7EK6Yd家康がいたからこそ曲がりなりにも政権運営できていた。
逆に三成が勝ったとして、島津・上杉とほぼ格も国力もほぼ同じ巨大勢力が出現するし、
宇喜多秀家なんかも巨大化するだろうから、室町幕府の二の舞になりそうだ。
なんというか豊臣け存続には、家康を如何に倒すかではなくて
如何に家康の協力を取り付けるかが重要な気がする。
0334人間七七四年
2008/01/13(日) 23:37:20ID:RD7EK6Yd○毛利・上杉
島津は派兵兵力からも微妙だな。
0335人間七七四年
2008/01/13(日) 23:40:07ID:2/qDzG7Fこれ以上ないほどに家康に対する期待なんて無意味だと結果が出ていながら
なぜ、ここに及んで、まだ家康擁護して三成の方を批難するのかが根本的にわからん
言葉悪いが、ゲーム好きの厨坊が通ぶりたいだけ。としか思えない
0336人間七七四年
2008/01/13(日) 23:48:20ID:2/qDzG7F>家康がいたからこそ曲がりなりにも政権運営できていた。
一体、何を根拠に持って秀吉死後、家康のお蔭で政権運営できてたのか・・
何でも書きゃ良いというものではない・・
>逆に三成が勝ったとして、島津・上杉とほぼ格も国力もほぼ同じ巨大勢力が出現するし
で、家康が勝った史実では、それ以上に家康の国力が巨大化したことは完全無視?
>宇喜多秀家なんかも巨大化するだろうから、室町幕府の二の舞になりそうだ。
何がどう室町幕府化するのか、またいつの時代の室町幕府化なのかも全く意味不明
>如何に家康の協力を取り付けるかが重要な気がする。
その協力を取り付ける前に、真っ先に反逆の為に動き出した家康・・
0337人間七七四年
2008/01/13(日) 23:53:32ID:GG8zVXgr史実は、三成が、淀が、秀頼が、
あの通りの行動をした結果だけしか示してない。
三成が違う行動を取ったときにどうなるかの推測に対して
「史実が〜」と言ってみても、直接は根拠にならない。
0338人間七七四年
2008/01/13(日) 23:59:33ID:GG8zVXgr0340人間七七四年
2008/01/14(月) 00:19:01ID:N6naiG6j>>333に根拠に基づいた推測と言える要素が少したりでもあるかい?
全く、根拠のようなものが示されていないんだけど・・
ただ分ってるのは、史実を省みた時、
勝者が家康だった場合、豊臣家にとって最悪のパターンになった。というだけ
三成が勝者だった場合、それ以上に最悪のケースになった。という根拠が全くない状態で
最悪のパターンを三成に当てはめること事態が、そもそもオカシナ話しだろ?
ならば、直接の根拠の全く無い推測と言われても仕方ないじゃん
0341人間七七四年
2008/01/14(月) 00:23:47ID:AfpXExO0IFなら家康を倒すIFだけではなく、取り込むIFもあり得るだろ。
家康が勝った「史実」で家康が巨大大名化したように、
とうぜん元々120万石越えの毛利・上杉がさらに肥大化すると、
またその巨大大名による政権闘争の可能性を、
室町幕府の様に守護大名が政権闘争に明け暮れ可能性があると言ってる。
というか少し考えてくれよ、333で全部読みとれることだが。
あと、306の
>家康に関して言えば、殺さなくても僻地に追いやって封じ込める方法なんて
あなた風に言えば、史実が関東という僻地に追いやった結果なんだが。
0342人間七七四年
2008/01/14(月) 00:37:04ID:N6naiG6j不毛だから議論したくないんだけど
家康を倒す必要なんかないけど、史実では
秀吉は、その家康を取り込むつもりで、政権内に組み込み
実際は死後に裏切られたんだよね
その事について何も具体的な改善案も示さないまま
そのまま史実と同じ方針で語っても、それは突っ込まれない方がオカシイと思わない?
後、史実では250万石あった家康は巨大化を通り越して天下を取っちゃったんだ
で、何で、元々その半分以下しかない毛利や上杉が家康以上に危険な存在に成り得るのかも
全く根拠が示されていないんだよね・・
で、両者が政権闘争に明け暮れるであろう根拠が、
その120万石時にどのように顕著に現れていたのかという史実的根拠も示されていないし
後、関東という僻地でも足りなかったという史実的根拠が出ている以上
それ以上に僻地にすればいい。という風に少しは考えてくれよ
0343人間七七四年
2008/01/14(月) 00:56:21ID:r9lkh07k0344人間七七四年
2008/01/14(月) 01:02:41ID:N6naiG6j史実で三成政権が実現していない以上、まず、それだけで仮定
なのに、その仮定を家康以上に最悪になったという見解も、さらに仮定
ついで、その三成を差し置いて毛利や上杉が家康以上に巨大化するというのも仮定
さらに、その両者が応仁の乱の再現のような争いを起こすというのも仮定
何故、三成が勝った場合、豊臣家滅亡に繋がった家康の場合より
最悪の結果になったのか、まず、その仮定を根拠に基づいて説明願いたいよ
で、毛利や上杉の膨張暴走する理由も
0345人間七七四年
2008/01/14(月) 01:36:36ID:FFYFLhNJ単に関ヶ原で西軍優勢のまま終わっただけだと、家康は余力を残したままになる上に
大義名分を残したままなので、西軍は直ちにまとまってかからないと結局同じ結果に成りかねない。
史実のように西軍がまとまりが無いままで
家康が秀忠の本軍と合流してまともな合戦になったら史実以上に勝ち目無い。
家康を晒し首に出来たというほどの勝利であれば変わってくるとは思うが。
0346人間七七四年
2008/01/14(月) 01:55:20ID:+AdZ7lbU天皇家が存続できてるようにさ。いつまでも天下に固執したため家ごと消されてしまったね。
0347人間七七四年
2008/01/14(月) 02:55:21ID:gB22HHwVけど、それは「存続」であって「安泰」じゃ無いような気がする。
半言いがかりで転封→改易なんて事が起こらんとも限らん。
安泰って事なら豊臣政権の存続(五大老五奉行の是非はともかく)が条件でしょ。
その為には三成が関ヶ原で徳川を壊走させ諸大名が離反→徳川本軍をも打ち破る。
ってなくらい見ないと、とてもとても。
ついでに俺にゃ二重縁組済みの宇喜多が巨大化する事にデメリットが全く見あたらないんだが、どうなんだろ。
0348人間七七四年
2008/01/14(月) 03:00:39ID:FSi/232m秀吉亡き世となっては最大の実力者は家康。
一度の人生、天下取りの好機が目の前にあって手を出さない男児が戦国の世にあるわけがない。
第一、秀頼の面倒を見てやる理由がネーよ。秀吉には貸しはあっても借りはない。
0349人間七七四年
2008/01/14(月) 03:00:46ID:r9lkh07kつーか秀吉の時代も豊臣体制、特に後半の10年間は家康の支えで
機能していたと言っても間違いじゃ無いのだが。
0350人間七七四年
2008/01/14(月) 03:31:09ID:FSi/232m最終段階で退路を絶てる位置にいる毛利と長宗我部が、池田・浅野らを突破出来れば家康の首取れるんだろうけどな。
相手も必死だから無理だろうな。
ひょっとしたら、逃げる途中、農民が偶然家康を仕留めるイベント発生するかもw
豊臣方は本拠地に近いから、早急に部隊を再編成して敵主力の追撃と、田中の三河を包囲するだろうけど、
家康は東海道使って逃走か?途中船か?それとも中山道か?中山道使うなら、江戸まで逃げたらどれだけ兵が残ってるかな?
中山道逃げなら、今頃、中津川市にあたりに古戦場まんじゅうが売られてるのかな?
浅野の甲斐で追撃を押さえながら背後で部隊編成して最後は関東かな?
考えると眠れなくなるよな〜
戦国自衛隊が豊臣側にいれば確実に家康死ぬんだけどなw
変な事書いてすまそ。
こんなスレ見つけてしまった我が不覚。。
0351人間七七四年
2008/01/14(月) 03:31:09ID:gB22HHwV347は>>333のつもりで言ってたんだが。アンカ無くてゴメン。
秀長が死んで以降だな。実質十年までは行かないような気がするけど。
ぶっちゃけ俺は豊臣家にとって最良のifは秀長が長寿だったって事だと思ってるよ。
0352人間七七四年
2008/01/14(月) 04:03:52ID:gB22HHwVその場合は向こうにもメリケン軍登場・・・て何その続・戦国自衛隊。
本隊と合流すれば徳川軍も豊臣追撃軍も一本化して第二の関ヶ原になってたかもしれない。
その場合戦場は馬籠あたりの平野だったのかも。いっそ諏訪まで戻るかな?
秀忠とは別行動をとったなら豊臣軍はどうするんだろ。
二手に分けるとしても主力は普通に徳川本隊と決戦に及ぶのか。
秀忠側に押さえだけ残して東海道を追撃するのか。
関東にいる秀康はどう動くのか。
俺も眠れん。どーでもいいが古戦場まんじゅうでさり気なく戦地を指定する君が好きだ。
0353人間七七四年
2008/01/14(月) 05:00:13ID:FFYFLhNJ>>宇喜多が巨大化する事にデメリットが全く見あたらな
それ言ったらそれこそ家康もじゃね?
秀家は結局大した権力を持たずに若いまま関ヶ原を迎えて終わってるから、
豊臣に従順な印象しかないが、権力を持った途端に豹変しないという保証はどこにも無いと思われる。
しかも家中にまとまりも無い家だし、そういう家の権力争いはマジでシャレにならん。
ちなみに彼の父親も関ヶ原時の秀家の年齢ぐらいまでは真面目な家臣だったと言う事を付け加えておく。
そのあと彼の父親がどう豹変したか、あえて言うまでもない。
0354人間七七四年
2008/01/14(月) 06:40:52ID:gB22HHwV>>権力を持った途端に豹変しないという保証はどこにも無い
それ言っちゃうと縁組って何の効果も無くなっちゃうんだけどなぁ。
関ヶ原は秀家の暴走だったという説も有るくらいだし、俺は信頼に足る人だったと思うがね。
>>それ言ったらそれこそ家康もじゃね?
いや、巨大化にも限度ってもんがあるでしょ。
備前57万石が5倍になったら流石にヤバイと思うが、150万石前後を与えて徳川幕府における親藩の位置に置けばいいのでは。
そもそも徳川が頭抜けて巨大なのが一番の問題っしょ。
徳川250万石の次に大きいのが毛利120万石ってのはいくらなんでもバランス悪いでしょ。
それと直家の場合秀家とは状況が全く違うと思うんだが。島村貫阿弥は居ないわけだし。
秀家を父親のように豹変させたいなら、秀頼に豪姫を暗殺させるくらいはしないと。
確かに宇喜多騒動はひっかかる。
無理矢理プラスに解釈しても、キリシタン層の支持は得られたんじゃないかって程度だしな。
0355人間七七四年
2008/01/14(月) 10:55:49ID:1MtbBm/T徳川が関東征伐の功という名目で駿府150万石から江戸250万石に移された
対して毛利は駿府より大坂に近い広島120万石に留め置かれている
それに徳川には家康という大物が生きているが、毛利では元就が死んで輝元に代わっている
危ないといえば危ないが、徳川の危険度に比べれば相当マシだろう
少なくとも、豊臣家をどうにか出来るような器量は殿様も家臣も持っていない
豊臣がするべきだったのは一門家の創出だろう
秀長・秀次・秀家を御三家にすれば良かったんじゃないか?
まぁ、秀吉は確かに一族に恵まれていないが……
元が農民だから仕方ないな
0356人間七七四年
2008/01/14(月) 13:42:08ID:uZ6Pc4vMその上で秀次がどんな形であれ生きていること
関白退任でも追放・出家でも生きていれば秀長が呼び戻して秀頼の後見にできた
諸大名とは広く交友してたし淀の押さえもできたかもしれん
あと秀秋をもっと厚遇しておけばよかったな
評価の低い人だが実際はそこそこ有能で分別もあったようだし
それと宇喜多秀家の評価だけどどちらかというと爆弾に近いぞ
自身が騒動の一要因となって家臣を大量退去させるし
最近では関が原は秀家の暴走に三成らが巻き込まれたといわれている
動く前に手を打たずに動いてから手を打とうとしている
内をかえりみず外に図らない軽挙な人物にしか見えん
朝鮮で武功を挙げた分タチが悪い
諸大名との調整ではなく討伐を主張しまくる人だろう
純粋といえば聞こえはいいが、要するにDQNかDQN一歩手前だ
それなら結城秀康あたりを厚遇したほうがいいだろうが徳川というか家康とのからみがあるからなあ
0357人間七七四年
2008/01/14(月) 13:56:51ID:ldFMI2cLそれほどうしろにいたわけでもないよーな。
0358人間七七四年
2008/01/14(月) 14:18:29ID:zJWa55o5そこは頭の使いどころだ。
徳川とて所詮は羽柴秀吉の家来に過ぎない。
足利義満公もあらゆる調略をめぐらして
大内義弘と山名氏清を討滅した。
0359人間七七四年
2008/01/14(月) 14:28:01ID:zJWa55o5この冷徹かつ恐るべき実行力は世界史上類例が無いほどであり、その行動力は
自国民と占領下民をなんと1億人以上(!)も虐殺しまくった
破壊と殺戮のスペシャリスト・毛沢東にも迫るレベルといえる。
0360人間七七四年
2008/01/14(月) 14:30:34ID:zJWa55o5殺戮を趣味としていなかったであろう羽柴秀吉とは次元がまるで異なるが。
0361人間七七四年
2008/01/14(月) 16:16:26ID:N6naiG6j権力を握らせると一番ヤバいタイプだ
ケ小平は家康と同類かな。失敗を繰り返して成長するタイプ
0362人間七七四年
2008/01/14(月) 17:16:09ID:yN7ON85X0363人間七七四年
2008/01/14(月) 19:27:38ID:N6naiG6j・天然タイプ ・天才タイプ ・堅実タイプ
天然タイプとは、本人の力が優れているのではなく、どこか抜けていて憎めないというタイプ
それ故に周囲に有能な仲間が集まってきて組織が運営されて行く
人に慕われる才能があるんだよね。ただし本人自身が、その事をよく分かっていないから
非常に危うい権力者になることも。伝説の良君になるか悪君になるか紙一重
天才タイプとは、本人にズバ抜けた能力もありその自覚もある
だから周囲は逆らえないし与えられた命令をこなす為に必死になる
徹底した能力主義になる側面、愚者に対する冷遇も酷いので反発も起き易い
このタイプも悪くするとワンマン、独裁者と言われるタイプ
堅実タイプとは、本人にもある程度能力があるが
それを支える周囲の協力の重要性を知っているタイプ
ただし、生まれついてのカリスマ性や人望などは低い
堅実に努力して成長するタイプと言える
ただし改革性が少なく、保守的になりやすい
0365人間七七四年
2008/01/14(月) 19:39:18ID:r9lkh07k中国と日本じゃ社会状況も権力者の立場も何もかも違うのに無理矢理に類型化しようとする
自分を省みようぜ?
0366人間七七四年
2008/01/14(月) 19:47:12ID:WLnMRpikかつての統制派を地で行きたいのかな?と思う。我らが東条さんになりたいわけだ。
しかし、たぶん、アメリカや諸外国から見れば、鴨としか写らないだろうと思うと、
そろそろ日本は、ある意味下克上を起こしていかないと・・・ なんて。。
つまり、技術者も図面の前に座ってないで、自らの開拓している物の価値を理解し、積極的に経営を学んで行くべきだと思う今日この頃。
持ち回りで片づく程度の椅子に座りたがる連中に任せていたら日本は潰れる。
木の根を掘り起こし、大きな石をよけ、田畑を開拓し、国を造り守ってきたご先祖様に申し訳がない。
新しい技術を開拓してる人を優遇するか、技術者が経営を自ら物にするか・・・
んじゃ皆さん靖国の桜の下でお会いしませう。藁
0367人間七七四年
2008/01/14(月) 19:58:02ID:N6naiG6j秀吉、毛沢東、劉邦、劉備、西郷隆盛、長嶋茂雄、Jブッシュ、ケネディー、ヒットラー
天才タイプの武将や有名人
信長、謙信、義経、曹操、項羽、高杉晋作、ナポレオン、星野、イチロー、小泉、さんま
堅実タイプの武将や有名人
家康、信玄、頼朝、孫権、ケ小平、大久保利通、桂小五郎、野村監督、タモリ、たけし
0368人間七七四年
2008/01/14(月) 20:04:16ID:r9lkh07kこういうのって見る角度を変えると全然変わってくるからなあ。
三英雄でさえ戦略的なものに焦点を当てると、信長は堅実タイプ、秀吉は秀才タイプ、家康は天才タイプ
と言っても間違いではない。
0369人間七七四年
2008/01/14(月) 20:29:22ID:N6naiG6jタイプで全てを判断するのは無理があるとは思う。
天然タイプ、天才タイプ、堅実タイプ、これらの中間のような人も沢山いるし
一概に言い切れないというのは正しいんだけど
ただ、その人の特徴という点で考えた場合に、大体、こんな感じになるのかな
と、思ったんだ。つまり、
他人から持ち上げられて組織を大きくするタイプなのか
他人を引っ張って組織を大きくするタイプなのか
他人と協力して組織を大きくするタイプなのか
そういった側面で考えると、こういったタイプに属するんじゃないかな?
0370人間七七四年
2008/01/14(月) 21:02:45ID:5kXknFx80371人間七七四年
2008/01/14(月) 23:11:37ID:2oROY8GN0373人間七七四年
2008/01/14(月) 23:36:10ID:lI6f61OCアントニウス→秀吉
アウグストゥス→家康
0374人間七七四年
2008/01/15(火) 03:33:26ID:9IoWbjBa0375人間七七四年
2008/01/15(火) 03:42:14ID:9IoWbjBa0376人間七七四年
2008/01/16(水) 17:35:29ID:KJ5SxMpF0377人間七七四年
2008/01/21(月) 20:52:31ID:Z20I3w8O家康を豊臣軍に入れる
0378人間七七四年
2008/02/02(土) 01:13:54ID:uVSPiP2w秀吉二世とか、二代目秀吉とかにしとけば、家康もうかつには
手出しできなかっただろう
0379人間七七四年
2008/02/09(土) 11:54:37ID:bXiSYch5そのおかげで世界都市の東京の今があるんだが!
0380人間七七四年
2008/02/09(土) 22:46:27ID:yrPAQ0cZそれなのに、なぜ東京23区民は江戸を建設した徳川家康をまるで慕わないのか
0381人間七七四年
2008/02/10(日) 01:24:38ID:OJpJ5QuK0383人間七七四年
2008/02/10(日) 13:41:28ID:wRVa4zDF0384人間七七四年
2008/02/10(日) 15:17:53ID:LOQ23EzY0386人間七七四年
2008/02/26(火) 13:34:12ID:LJld9IC3清正や正則が裏切ったのはそのせい
ただでさえ、累代の家臣がいないのに、秀吉アホすぎ
0387人間七七四年
2008/02/29(金) 11:29:12ID:IBTJzblc上のイベント後、まもなく病臥につき、容態は悪化の一途を辿り、
同 8月18日 太閤秀吉、病没
1599年4月27日 前田利家、病没
同 5月 4日 石田三成、失脚。佐和山に隠居(いわゆる七将のクーデター)
同 8月以降 前田利長、家康に屈服(芳春院を人質として江戸に)
1600年7月17日 三成、挙兵
同 9月15日 関ヶ原の合戦、家康の勝利
↑ こういう流れだよね、大体。上の流れで注目は、前田利家の病没の日と
三成失脚が一週間のできごと、という点だね。電光石火。クーデターとは、そう
いうものだろうけど、豊臣家の運命はここで決まったのかも知れない。
本来、「七将」を罰するべき大老筆頭が「七将」のオーナーなんだから、話になら
ないよね。だから、家康に伏見城を預け、政権の一翼を担わせた時点で豊臣政権は
崩壊のスイッチ・オンになったわけで、問題は、太閤の遺言がすべてなんだろう。
どうせ、滅びるなら、宇喜田秀家を繋ぎの後継者として指名し、(秀頼が十五歳に成長するまでの間だけだが)
宇喜田秀家が、関白になれるよう、以前から官位を上げ、左大臣にしておくべきだったな。領地も百万石超を与えるておく。
伏見城を秀家、大坂城を毛利輝元に預け、「前田家は代々豊臣家世継ぎの傳人(めのと)となる特別な家柄」と
遺言しておけばよかったね。
0388人間七七四年
2008/03/01(土) 00:23:35ID:E2TqCHom権利と、各大名の領土支配を公認する権利、という二つの柱で支配権が成り立っていたと言っていい。
ところが関ヶ原によって、領土差配権が、そして幕府の成立によって、武家の官位申請権も徳川の
ものとなった。豊臣権力というものは、幕府成立の時点で既に崩壊している。
もし秀吉家(あえてこう書く)が存続したければ、家康の将軍任官の時点で「豊臣」姓を捨て
羽柴に戻り、家康の幕下に入る必要があった。
0389モチ食べまする
2008/03/01(土) 10:35:41ID:sPD0VPe00390人間七七四年
2008/05/27(火) 20:32:52ID:H2curAwX<<戦国時代>>板は6/4日出陣
http://2ch.gepper.net/tour/t2/a9.html
詳しくは選対スレ
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211037643/
公式サイト
http://2ch.gepper.net/2ch.html
0391人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/09(月) 00:16:25ID:hHk0RP6t0392人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/09(月) 00:32:31ID:h1YinmG+本多か井伊と縁組できればいいほう>石田
0393人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/09(月) 00:35:48ID:F6eS57C40394人間七七四年
2008/06/09(月) 15:56:53ID:J3cuNzf60395人間七七四年
2008/06/20(金) 04:14:47ID:itv0kB4E加藤・福島みたいな子飼いの武将たちが家康に乗り換えたってのは、
石田三成や宇喜田秀家たち豊臣政権の中枢に子飼いの影響力が
皆無だったってことが大きいと思う。
彼らが淀君や石田三成が操る豊臣家に嫌悪感を持ってたとしても不思議じゃないし、
だとしたら豊臣家の崩壊ってのは秀吉末期に決定的だったんじゃね?
0396人間七七四年
2008/06/20(金) 06:31:06ID:gwnr1CGa0397人間七七四年
2008/06/20(金) 08:39:43ID:/DRgaWqh0399人間七七四年
2008/06/20(金) 13:45:01ID:iK0BRKqx石田も大谷も小西も片桐も子飼いだ。小西以外は所領は小さかったがな
石田の閨閥というか縁故って真田くらいか?
0401人間七七四年
2008/06/23(月) 23:52:34ID:3fXX3reT秀長没→秀頼誕生→秀次処刑→秀吉没→高台院退去→前田・毛利は頼りにならず→三成派敗滅→加藤・浅野没・福島改易
恩顧の家臣は二派分裂で殺しあった挙句に、残った方も次々無力化
家内には、幼子とその母親、乳母の息子たち、ちょくちょく訪ねて来る叔母くらい
結局、豊臣家に有能な成人男性が残ってなかったことが致命的だったんだと思われる
秀次を斬っちまった時点で終わり
それに引き替え、徳川家(松平含む)の係累の豊富さと来たら・・・内紛を起こさせなかった家康の器量は凄いな
一方、元服した息子たちも複数いたというのに秀吉に良いようにやられた織田家は情けないが
0402人間七七四年
2008/06/24(火) 00:19:05ID:sAyQLnQG徳川(松平)も織田も、その一族の係累の多さでそれぞれの守護大名家である吉良や斯波を圧倒したんだよね。
秀吉の場合は係累以前に、譜代家臣団が存在しなかったことが一番のネックだったんだろうけど。
0403人間七七四年
2008/06/24(火) 01:01:57ID:pEs7LFMY松平も一部には家康に反した勢力もあったようだけど
秀吉は、譜代はいなかったけど養子に準ずる子飼い家臣がいたから
彼らの内紛さえなければ、あそこまで酷い体制崩壊は避けられたかも
まあ、最後は親族不足に尽きるんだが
0404人間七七四年
2008/06/24(火) 01:02:24ID:pEs7LFMY秀吉・秀長+子飼い大名<武断派・文治派>
B.秀吉の庇護を必要としたor秀吉に早々に屈した大名 「現状維持でも、まぁいっか」派
宇喜多・蒲生・毛利+小早川・前田・真田・上杉・佐竹etc(宇喜多はAか?)
C.軍事的に屈した大名 「隙あらば逆襲を・・・」派
徳川・伊達・最上・島津・長宗我部etc
豊臣政権ってのは、Bの協力の下、Aの力でCを抑えて天下の統一を保っていた体制と言える
そのAの頂点だった秀吉・秀長が死去した時、彼らに代わるべき秀頼は幼少の身、秀次は秀吉自らが抹殺
秀頼成人までの中継ぎとして五大老を組織したものの、その中にはCに属する最大の実力者・徳川が!
(この人選をした時点で、秀吉はすっかり耄碌してたんだなぁ)
悪いことには前田利家が早々に死去&子飼い大名は二派分裂
これではAを維持できるはずもなく・・・
秀次を五大老の代わりに中継ぎに出来ていれば・・・
0405人間七七四年
2008/06/24(火) 01:57:08ID:sAyQLnQGいやあ、秀吉の政権は1にも2にも秀吉の武力と権威でのみ、諸大名を統制した政権ですよ。
後中枢で言えば家康も間違いなく豊臣政権中枢の人間だよ。
秀吉に「東国の仕置きはまかせる」とまで、公に言われている。
実際問題として家康が東国を押さえていたおかげで、秀吉は大陸出兵に専念できたし
秀次粛清なんて荒療治も出来た。秀吉の1代に限れば家康は本当に得がたい同盟者だった。
0406人間七七四年
2008/06/24(火) 03:05:24ID:1q/meJQDが、本当に秀吉が家康を当てにしていたかどうかは、いくらでも疑える
唯一(小牧山で)軍事的に屈伏させられず、外交力を駆使して臣従を頼まねばならなかった家康に対しては、
「東国を好きにさせてやる」くらいの相応の譲歩が必要だったのではないか
関八州を囲む佐竹・蒲生・真田・浅野といった面々は、家康への牽制役ではなかったか
家康を東国に追いやりシムシティに専念させたおかげで、その背反を恐れることなく、大陸を目指せたのではないか
中枢に置いて活用もしたが、秀長に先立たれ、秀次を排除した後の体制を維持する為のものであり、
実力から考えて家康を起用するしかなかったというのが妥当ではないか
「秀頼を頼む」の遺言も「秀頼を裏切らないでくれ」と解釈すれば、そこには実力者家康への恐怖が窺える
あるいは、死の床にあって朦朧とした秀吉の頭には、本当に家康への信頼があったのかも知れない
だが、健在だったころの秀吉は、家康を活用はしても信用はしていなかったように思う
尚、秀吉の武力は、右腕・秀長や長浜以来の功臣および賤ヶ岳前後からの子飼い武将あってのもの(A.)
また、その基盤は播磨・摂津にあり、播磨・備前攻防戦から味方についた宇喜多や、
信長後継としての地位が固まるにつれて臣従した毛利の協力も外せない(B.の半分)
0407人間七七四年
2008/06/24(火) 12:28:13ID:sAyQLnQG0408人間七七四年
2008/06/25(水) 09:25:24ID:ikt2uwdN領国経営に専念させたからその背反を恐れることなく…って論理が理解できない
>中枢に置いて活用もしたが、秀長に先立たれ、秀次を排除した後の体制を維持する為のものであり、
>実力から考えて家康を起用するしかなかったというのが妥当ではないか
これも、お前が何を主張したいのか理解できない
0409人間七七四年
2008/06/25(水) 12:43:56ID:A9rXzuB8その後は秀吉の個人独裁だけが残った。秀吉と言う存在が無くなれば体制の空白が生じるわけで
そこで実力者による騒乱が起こるのは必然。
0410人間七七四年
2008/06/25(水) 21:58:56ID:N/he1kJx摂津山城に秀吉(死後は鶴松)、大和紀伊に秀長(実弟)、近江に秀次(血縁養子)、
丹波に秀勝(織田からの養子)、京都所司代に浅野(ねね実家)
備前に宇喜多(幼少から育成)、加賀に前田(友、豪姫)、尾張に福島(母方血縁)
畿内を中心にがっつり身内で囲んでるし、反乱勢力には、東に福島、西に宇喜多、
北に前田が最前線となりうる
0412人間七七四年
2008/06/25(水) 23:33:02ID:cNiRritF秀次や秀勝の立場次第だな。特に秀勝は元織田勢力を糾合・掌握する切り札に成る可能性がある
鶴松にしたって生きていれば関ヶ原当時で12歳。大阪の陣では27歳と年齢的には十分
中身の出来がどうなるかはわからんが豊臣政府の形式を整える事は出来る年齢だ
書いてないが小吉のほうの秀勝(秀次の弟/秀保の兄)だって生きていれば結構な位置にいたはず
・・・というか、秀忠の妻が江与じゃなくなってたから、京極が妻頼りに寝返り出来なくなる
少なくとも頼れる親族は宇喜多秀家だけって悲惨な状況を脱せられたんじゃね?
0413人間七七四年
2008/06/28(土) 11:47:20ID:/DV93Txj関ヶ原の時点で有力者といえる立場にないと
0414人間七七四年
2008/06/28(土) 18:08:38ID:DHiMVK3c立ち退き要求を受け入れることの出来る年齢になっていれば少なくとも豊臣家の寿命は延びたと思われる
というか関ヶ原後3年で15になるなら十分じゃね?
12で元服って手もあるだろうし、存続は出来るんじゃね?
0415人間七七四年
2008/07/05(土) 17:17:13ID:7A64xVk3豊臣の家名を存続させるにはこれしかない。
0416人間七七四年
2008/07/05(土) 17:19:54ID:2oIztn+T0417人間七七四年
2008/07/05(土) 18:16:59ID:KJUzoLOf0418人間七七四年
2008/07/05(土) 19:15:51ID:g+qdg96d秀吉も老境に入って呆けた。天下を狙ってた頃の彼ならどんな手を使ってでも
殺しただろう。そもそも家康が猿に臣下するのはどう見ても無理があった。
0419人間七七四年
2008/07/05(土) 21:54:12ID:+39F/m1Y秀吉の優しさが仇となった。
0421人間七七四年
2008/07/05(土) 22:05:01ID:JHGB8TRx0422人間七七四年
2008/07/05(土) 22:23:46ID:lbTxHMdR0423人間七七四年
2008/07/05(土) 22:27:10ID:2oIztn+T> 朝鮮出兵前の絶頂期の秀吉なら
秀吉は九州征伐の時点ですでに大陸出兵のための布石を打っている。アレは秀吉政権の既定路線。
既定路線である以上、国内を混乱させてその政策の実地を大きく遅らせることが間違いない家康処分なんて
出来るわけがない。
0424人間七七四年
2008/07/05(土) 22:39:57ID:2oIztn+T信長流の「天下布武」、つまり武力制圧路線を捨て、朝廷の権威を後ろ盾とした戦争停止令路線へと変わったのだ。
秀吉はそのため、小牧長久手の戦線が膠着すると、突然朝廷にすりより官位を求め、前例のない急激な昇進を
やらせた(あまりに急激なため多少なりとも格好をつけるため、時計を巻き戻して官位の任命時期を改竄する
事までした。これは研究の結果証明されている)
つまり、武力を基盤としているものの、武力のみによらない「合法的政権」の体を作ったわけだ。
合法的とは、独裁者である秀吉自身も法に縛られると言うこと。
家康が明確な命令違反を犯さない限り、罰することは不可能なのだ。
そして当然家康は、そんな隙を見せるような人間ではない。
世の中の事はゲームのようには行かないのだよ。
0425人間七七四年
2008/07/05(土) 22:52:15ID:JHGB8TRx家康と戦う前には朝廷には依存しない政権を秀吉が構想していたというソースでもあれば教えてマジで
0426人間七七四年
2008/07/05(土) 22:57:33ID:2oIztn+Tソースも何も、秀吉は本能寺から小牧長久手戦線の膠着まで、朝廷から官位をもらっていないし
求めてもいない(これは小林清二氏の「秀吉権力の形成」あたりを読め)
信長のとき以上に旧権威から離れた立場で権力を作り上げようとし、それが限界にいたったのが
小牧長久手だ。
0427人間七七四年
2008/07/05(土) 23:20:50ID:JHGB8TRx(例えば1584年の年賀)
大坂城築城は前年から実施されているが、賤ヶ岳前にも山崎に巨大な城を築いているから差しさわりはない
0428人間七七四年
2008/07/05(土) 23:22:32ID:lbTxHMdR0429人間七七四年
2008/07/05(土) 23:25:23ID:2oIztn+Tへー、その「機会」とやらを言ってごらん?自称「俺は秀吉よりも頭がよく的確に後世まで続く政権運営できた」君?w
0430人間七七四年
2008/07/05(土) 23:40:21ID:JHGB8TRxそのまま天下の大軍で徳川本陣を囲んで滅ぼすつもりだったのか国替え命令を修正するのか?
0431人間七七四年
2008/07/06(日) 00:10:10ID:CpEqx+msまず小田原で信雄と謀叛起こす疑惑が立ったから北条を滅ぼした後で殺せるし難癖つけるのは簡単。秀吉が甘すぎたがそれも彼の魅力の一つ
0432人間七七四年
2008/07/06(日) 00:12:54ID:K5CrtqJ/> まず小田原で信雄と謀叛起こす疑惑が立ったから北条を滅ぼした後で殺せるし
北条攻めの大功労者の家康を!?徳川軍が北条攻めでどれだけ活躍したかわかって言ってるのか?
0433人間七七四年
2008/07/06(日) 00:33:34ID:CpEqx+ms当時の秀吉にはその冷酷さがなかっただけ
0434人間七七四年
2008/07/06(日) 00:49:37ID:K5CrtqJ/頼朝は命令違反を持って義経を
劉邦は具体的な謀反の罪の証拠があった上で韓信を
それぞれ粛清しているわけだが?
しかも武家の基本法中の基本法である「ご恩と奉公」の相互関係を判って言っているか?
秀吉と言えども武士集団の頭領として権力を得ている以上、その基本ルールからまで自由なわけではない。
北条征伐で言えば秀吉は家康の「奉公」に関して「ご恩」を与えなければ、武家としてのルールを破ることになる。
これは一徳川家にとどまらず秀吉の参加大名すべてが秀吉権力と言うものへの不信感を抱くに足りる。
だいたい朝鮮役後の豊臣権力の急速な求心力の低下は、秀吉と言う存在がなくなったことがその原因の
すべてではなく、朝鮮役参戦大名の「奉公」に対して、豊臣権力が十分な「ご恩」を与えられなかったことも
その大きなファクターだ。
君は権力と言うものの理解があまりに粗雑過ぎる。
0435人間七七四年
2008/07/06(日) 01:04:29ID:adVMe2kX出来なかったってだけだろう。小牧長久手がすべてを物語っている。
武力衝突においては実質家康勝利だったが、まずいと判断するや即座に策略により政治決着
させる秀吉も流石。総合的にかなわないと判断したんだろう家康は。
そして秀吉も遂に家康をどうにも出来なかったって事さ。
0436人間七七四年
2008/07/06(日) 01:33:20ID:CpEqx+ms0437人間七七四年
2008/07/06(日) 08:36:07ID:I/BUEAA2家康と対等とは言わないが、かなりの大打撃を与える戦が出来たんじゃないのか?なぜ関ヶ原に参戦しなかった。
もし前田利家が関ヶ原に参戦していれば、諸大名は家康ではなく豊臣側で戦ったろうに。
前田利家こそが歳代の裏切り者だ。なぜ参戦しなかった、臆病者め。そこまで家康が怖いか。
ねねもどうした。ねねは江戸末期まで生きているはず。なぜ自分の旦那が作った豊臣家がなくなっても自害もせず、
そしてなぜ家康はねねを殺そうともしなかったんだ?
不倫か?不倫なのか?豊臣家は内部からすでに崩壊していたというのか?
0438人間七七四年
2008/07/06(日) 09:35:31ID:ScoyO7IK0439人間七七四年
2008/07/06(日) 12:09:26ID:H9NvTI43長生きしすぎなのは一時オイトイテ。
露天商から夫婦2人で頑張って大企業になったら、妾の子が2代目になった。
妾は自分のお気に入りばかりを側近にして、一人の副社長(2代目を狙っていた)と喧嘩を始めた。
それでももう一人の創業時からの副社長の存在でなんとか平成を装ってはいたが、
彼の死と共についに派閥争いが収拾つかなくなった。
正妻は別荘で暮らしながら思った。
「こんな会社倒産すればいい・・・・」
0440人間七七四年
2008/07/06(日) 16:57:28ID:JDknzREr歴史を見てみると、内乱を止められない他人事で見てることしかできない政権は全て崩壊している。
とすると、その前段階である上杉征伐をまずやめさせないといけない。
淀と秀頼に演技させて、「爺だけが頼りじゃ!上杉などどうでもよいではないか。このまま大阪にいてたもれ。」
とかなんとか言わせれば良いのでは?
秀吉の意図も家康を政権に取り込んでしまうことで自ら己が主体である政権に対して弓を引くことの
ないようにすることがねらいのはず。
家康を会津に行かせてしまったため、三成のクーデター軍を受け入れるはめになってしまい関ヶ原にまっしぐら。
まあ上記のような知恵がはたらく家臣もいない豊臣と三成の大阪入りまでもが想定済みの家康とでは
はじめっから勝負にならないけどね。
0441人間七七四年
2008/07/06(日) 17:12:48ID:K5CrtqJ/もっと基本は、秀次を弑逆しなければ、さらに言えば秀頼が生まれてこなければ
「豊臣政権」と言うものはもっと安定していた。
0442人間七七四年
2008/07/06(日) 17:46:48ID:glDL+n8c0443人間七七四年
2008/07/06(日) 19:41:22ID:ScoyO7IK[名](スル)《「しぎゃく(弑逆)」の慣用読み》臣下・子など目下の者が、主君や親などを殺すこと。
「光秀が信長を―した本能寺の変」
し‐ぎゃく【×弑逆】
[名](スル)主君や父親を殺すこと。しいぎゃく。
大辞泉
0444人間七七四年
2008/07/06(日) 20:28:23ID:I/BUEAA2確かに秀吉は小牧で家康を倒した。だけど殺さなかった。
だから家康もその恩義で秀頼と淀に生き延びる可能性を与えたんだよ。
意地を通したから死んだだけ。
家康は何度も何度も敗北を味わい、信長、秀吉と自分より格下の相手に頭を下げ続けた。
秀頼も頭を下げ続け、家康が死ぬのを待っていれば良かったんだよ。
0445人間七七四年
2008/07/06(日) 20:55:44ID:gG0ngre20446人間七七四年
2008/07/06(日) 21:42:27ID:izdtGZJr秀頼が成人するまで秀吉の死をひたすら隠す
0447人間七七四年
2008/07/06(日) 21:44:56ID:JDknzRErこのスレはどうすればよかったかだから「秀頼が生まれてこなければ」は他力な仮定にすぎない。
秀吉が作れなくてもどっかから種もらってきてんだから。
秀次を弑逆しなくても → 豊臣秀次→源頼家 化
豊臣秀頼→源実朝 化
で、家康は北条時政化するだけ。
家康の腹黒さからすれば服部忍軍使って暗殺しまくりするんじゃ。
0449人間七七四年
2008/07/06(日) 22:06:52ID:JDknzRErそれもあくまで結果論であって、歴史にも詳しい家康のこと、豊臣がしっぽを出さず、追いつめられれば
暗殺でもなんでもしたろうよ。
秀次生かしてたって、大老筆頭として「殿ご乱心!」とかなんとかで幽閉したりできるだろうよ。
そこで我々も歴史に学ばなくてはならない。
政権を家臣に簒奪されようとしている状況でどうするか。
やはり大化改新のような暗殺クーデターしかないだろう。
三成は正攻法すぎた。百戦錬磨の家康に正攻法で挑むのはリスクが大きすぎる。
家康がまだ伏見城と大阪城を行ったり来たりしているうちに暗殺しとかないと苦しいだろう。
0450人間七七四年
2008/07/06(日) 22:14:20ID:K5CrtqJ/0451人間七七四年
2008/07/06(日) 22:24:53ID:JDknzREr誰も政権を信じられなくなり政権が不安定になる。」との意見により棄却されているが、
秀吉没後の家康には十分な罪状がありすぎるので、暗殺が成功していれば、勝てば官軍で
誰も文句を言わない。
万が一暗殺に失敗して三成が処刑されても西軍の戦力はほとんど温存されるし、それで家康が
調子にのれば秀吉子飼い大名も家康を警戒し結束するようになるだろう。
それから関ヶ原を起こしても決して遅くはない。
三成はいきなり正攻法、しかも豊臣を巻き込んで危険にさらしてるんだから。
そりゃ秀頼が出馬してれば勝機も大幅アップするが、負けたときのことも当然考えておくのが
賢いやり方。
0452人間七七四年
2008/07/06(日) 23:33:40ID:JDknzREr拒否すれば当然徳川征伐発動。
石田が多少調子に乗ってもせいぜい藤原氏の専横程度。幕府開いて大坂責めまでしたりはしないでしょ?w
徳川征伐にびびった外様もおとなしくなり、徳川幕府ほど盤石ではないが足利義満のときくらいの
平和は訪れるだろう。
徳川300年ほどは続かないが100年くらいはいけそう。
その間、鎖国はせず海外との交流を続け、西洋文明を積極的に吸収。
毛利が中国貿易、島津が南蛮貿易で力を付け、享保維新により政権奪取。
日本は史実より200年も早く近代国家への道を歩み始めるのであった。www
0453人間七七四年
2008/07/06(日) 23:36:02ID:K5CrtqJ/0454人間七七四年
2008/07/07(月) 04:51:51ID:YK4zDI6C>享保維新
享保って何年くらいか知ってるのか?
享保の改革始まるのが1716年、
明治維新が1867年〜だから150年くらいしか前じゃないぞ。
それに、イギリスで産業革命が始まったのが1800年代終盤からだ。
蒸気機関もまだ無いのに近代化とかw
一番ウケたのは
服 部 忍 軍
だけどなwww
影の軍団かよwwwww
0456人間七七四年
2008/07/07(月) 17:04:10ID:LRqN6GkB実は世良田次郎三郎が家康(竹千代時代に)を殺し
入れ代わる。
後に家康としてすごす。
また、今知られている史実とは、勝者に都合良く改ざんされている。
まあ、淀の殿の強欲さと
秀頼の甘えん坊(坊やだから致し方の無きこと)が、原因か。
0457人間七七四年
2008/07/07(月) 18:41:27ID:lM72wYmi0458人間七七四年
2008/07/07(月) 19:35:41ID:HWhLNpMVやり方はいくらでもあるものさ
足利義満がやったようにやるのもよし
>>446
空海は現在も禅定中だしなw
まぁ、秀吉の死を隠して時間を稼ぐというのはありかもな
0459人間七七四年
2008/07/08(火) 00:11:51ID:hHvfQ0H4ワロタW
0460人間七七四年
2008/07/08(火) 00:40:01ID:Z+SZrGyP征夷大将軍になって幕府を開いたから
0461人間七七四年
2008/07/08(火) 01:40:09ID:yJIATscJ0463人間七七四年
2008/07/09(水) 18:03:37ID:H4TGO57Q家康が五大老筆頭で政ごとを行い、前田利家が秀頼を後見するだと?
よくもこんな糞制度を考えたものだ。よっぽどもうろくしてたか政治センスのかけらもないね。
利家が家康より格下じゃ秀頼守りきれないし、五大老末席の上杉なんざ国元引きこもったままでも
政ごとになんの支障もないんだから大老の意味ないっての。仕事ないからいじけちゃってんでしょ?
俺が豊臣家が存続できるような制度考えたからおいおい披露するぜ。(実は今ちょっと忙しい)
乞うご期待!
0464人間七七四年
2008/07/09(水) 20:28:24ID:oYuyUS/R結局筆頭だとか何とか格付けまでして政ごとは家康が行う?だったら大老は家康一人で十分じゃん。
代替わりしたとたん家康側に付く前田なんか屁の突っ張りにもならないし。
でもこれも五大老に列せられたがための悲劇。きっと合議の名のもとに呼び出され恫喝されたりしたんだろ。
他の大老も誰も家康が主催する合議になんか参加したくないだろう。(引きこもり景勝w)
大老は家康一人で十分。大老の下に実務機関として五奉行や中老とかは置いてもいい。
で、俺の提案は家康から独立し、秀頼のみに従う評定衆みたいな役職を置く。
この評定衆が家康の行う政ごとが秀吉の遺訓に反していないか、結果的に豊臣を追い込むためのものでないか判断し、
もしこれに反していた場合、秀頼の名のもとに政ごとを正させたり場合によっては大老を罷免できたりする権力を
持たせればよかった。
0465人間七七四年
2008/07/09(水) 20:31:50ID:FCUjcMeqせっかく家康公が奸臣石田三成を排除してくれて
徳川家が征夷大将軍として日の本を治めるという難事を敢えて引き受けてくれたんだから
あとはおとなしく大和郡山か下総にでも転封してもらって一大名として気楽に生きていけばいいものを
義父であり舅である大御所さまの慈愛に気づかずにくだらない我侭を押し通したからな
律儀で温厚篤実な家康公ですら匙を投げるほどの愚昧な人物だったということだろう
0466人間七七四年
2008/07/09(水) 20:54:10ID:oYuyUS/Rしかし皆が家康の目付役を期待したほどの格だけはあるので評定衆の筆頭(おかざり)に持ってくる。
次席には関ヶ原で孤軍奮闘をやってのけた宇喜多秀家(まあ関ヶ原が起こるまでは実力は未知数だったが。)
そしてもう一人。実はこれがこの提案のポイントでもある。
みんな家康が最後の戦国武将の生き残りだからびびったって?みんな2代目世代だから家康にはかないっこ
なかったって?実は一人だけいるじゃん。戦国乱世を秀吉と共にかけめぐってきた頼りになる御人がw
黒田如水がいるじゃん。
あんまり悪知恵がはたらきすぎるんで、平時には「こんなヤツ危なすぎて近くに置いときたくね。」ってのは
わかるけど、家康に対抗するにはやはりコイツの力、知謀・策謀は必要でしょ?
秀吉にそんなかんじで放り出されたから関ヶ原では「じゃあやったろかい」って怪しい動きするけど、利家と
宇喜多を上に付けとけば良い方向に導いてくれるだろう。
この三人の評定衆を三成がつついて家康を牽制。
奉行ふぜいが家康を糾弾しても全く迫力に欠けるが、この3人連名の弾劾状なら・・・
ああ、見てみたかったな・・・
0467人間七七四年
2008/07/09(水) 21:09:30ID:1rFIj2+E0468人間七七四年
2008/07/09(水) 21:10:34ID:DAApYdpW秀吉が死ぬのが早かっただけ
あと10年長生きしとけば
徳川は何もできずに
豊臣の代替わりもすんなりいった
事件が起きても
伊達が暴れるぐらいで
徳川が同調して煽る程度
結局、家康一人の才覚で豊臣転覆が成功したようなもん
裏で商人や宗教勢力が糸を引いていたのもあるが
代替わりさえしっかりすれば
意外と豊臣政権はしっかりしてたと思うよ
0469人間七七四年
2008/07/09(水) 21:13:15ID:1rFIj2+E0470人間七七四年
2008/07/09(水) 23:16:55ID:gvGFrLDcだったら評定衆専属の奉行として真田も早めに入れとくかい?
真田入れとけば猿飛び軍団が使えるから、家康の服部忍軍と対等にわたりあえるなwww
0471人間七七四年
2008/07/10(木) 00:27:22ID:U9uls41r0472人間七七四年
2008/07/10(木) 00:45:28ID:2MqNls+Jこの世代で優秀な人材なんて
徳川の次世代家臣団しかないな
徳川以外だと島津か立花か
戦闘で使えるのは剣豪しかないだろw
0473人間七七四年
2008/07/10(木) 02:14:27ID:wyruEX3H服部忍軍w
0474人間七七四年
2008/07/10(木) 12:20:19ID:x6hRuPOtこれって史実モードで語ってるの?
小説モード?
リアル史実なら戯れ事なんだぬーん。
真田忍軍など明治辺りか?に、書かれた歴史小説だよ。
実際には存在しないんだが……小説妄想モード?
0475人間七七四年
2008/07/10(木) 14:59:15ID:e2dWpqn3存在したよ。
忍者というよりは主に修験者だが。
幸隆のころから、信濃の四阿山(あまやさん)の白山寺と呼ばれた山家神社を保護。
ここは神仏混交の聖地とされていて多くの修験者が集まった。
彼らを間諜(スパイ)として育成し、諜報・調略に利用していた。
俗に真田忍軍などと言われているが、確実に名前の残っているのは、
「来福寺左京」「禰津潜龍斉」
この二人は第一次上田合戦で徳川軍を神川で破ったことで有名(俺には)
あと「横谷左近」も知られた存在。
慶長5年8月一日付けで昌幸からの謝状が残されている。
関が原直前の情報収集にたいするものだ。
0476人間七七四年
2008/07/10(木) 19:12:41ID:TYF1fQe00479人間七七四年
2008/07/10(木) 20:22:06ID:1HnE+G4r0484人間七七四年
2008/07/10(木) 21:30:51ID:seV6O5kC0485人間七七四年
2008/07/11(金) 02:18:00ID:HKIb3AdFkoeiモードでございます
0486人間七七四年
2008/07/11(金) 13:05:21ID:jUkSEDN2信繁が大坂の陣で討ち死にした時
3つの首が信繁のものだとして家康のもとに届けられた。
そのうちの2つは穴山小助と望月六郎で、影武者を務めていた。
首実験に立ち会った叔父もわからないほど良く似ていたようだ。
最終的に前歯が欠けているものが信繁だろうということになった。
猿飛佐助のモデル:富沢一族の「唐沢玄蕃」。子供のころその身軽さから「お猿」と呼ばれていた。
信玄の重臣、下曽根岳雲軒のもとにいたが、上田城築城の時、昌幸の家臣となる。
霧隠才蔵のモデル:「霧隠鹿右衛門」
九度山の信繁の手足となって情報収集を行った。。
0487人間七七四年
2008/07/11(金) 14:43:24ID:z9VBgQxTで、真田十勇士は江戸時代の創作でも無いのだが・・・
0489人間七七四年
2008/07/11(金) 18:20:25ID:LNs382r+真田忍軍なんて居なかった→修験を使っての情報収集が元ネタなので近いものは実在
十勇士なんて創作だ→数名のモデルあり。うち数名は名前も同じ
ただこれだけのことだよな。何でお互いにそこまで必死なんだろう
ついでに、三好晴海・伊佐入道も三好政康・政勝兄弟がモデルだな
で、この政康・政勝兄弟も大坂の陣では東西別れて、しかも80越えなのに参戦してたんだよな
思いっきりスレ違いとはいえ、元気な爺さんだな
0490人間七七四年
2008/07/11(金) 19:31:18ID:2UqNvZJp0491人間七七四年
2008/07/11(金) 20:25:26ID:7886kbxy十勇士も、その内その存在を裏付けるような史料がひょっこり出てくるだろう
0492人間七七四年
2008/07/11(金) 22:49:36ID:vCWt1rAi0493人間七七四年
2008/07/12(土) 00:45:43ID:OunqE955懐かし漫画板にでも行ってください
0494人間七七四年
2008/07/12(土) 00:49:14ID:LCqGDuIdただの書状渡しのパシリだろ
勘助の役割を果たしていたのは
実質、馬場ね
啄木鳥戦法も馬場の提案
k
0495人間七七四年
2008/07/12(土) 01:34:47ID:INhQGG3lやっぱり、家康の子か孫を秀頼の養子にして嫡男に据えさせるのが手っ取り早いんじゃないかと。
0496人間七七四年
2008/07/12(土) 01:51:21ID:F6hDQ47Q0497人間七七四年
2008/07/12(土) 01:57:28ID:iKrK589Q本来は滅ぼしたくはなかっただろ。ま、滅ぼすって決めてからはノリノリで攻撃しかけているけどな。
大砲の集中活用って日本発の戦術の実験までしながらw
0498人間七七四年
2008/07/12(土) 14:05:11ID:JTfi1BDL国替えでも、人質でも、なんでも。
完全に臣従し、無害であることを証明できれば存続することも不可能ではなかっただろう。
0499人間七七四年
2008/07/12(土) 17:43:12ID:fU3vZyJi秀頼の器に触れて恐れを抱いたとかいう話が本当かどうか知らんけどね
0500人間七七四年
2008/07/12(土) 18:21:14ID:iKrK589Q12年ですよ12年。オリンピックやワールドカップが4回見られる。今年の北京の3回前のオリンピックが
どんなだったか覚えてる?その間家康は体調崩したことも1度や2度じゃない。当時の平均寿命は軽がる突破してる。
でも結局大阪の陣の段階まで、何もしなかった。
驚くのはその12年の間に、豊臣家と言うものが本当に何もしていないって事。勢力回復をもくろむでもなく、
かといって幕府との関係を良好に保とうとするでなく、現状維持、のみ。
これを無能と表現するなら、これ以上凄みのある無能は無いわな。
0501人間七七四年
2008/07/12(土) 19:51:43ID:EpBZgXap国替えに応じたとしても、宣戦布告されないという保障はないんだし、
その段階で宣戦布告されたら、戦おうにも、もう大坂城もないんだしな
やはり、大坂城は豊臣家防衛のための物理的手段として担保しておかなければなるまい
0502人間七七四年
2008/07/13(日) 01:20:31ID:yEqtsj0W家康は大して関与してなかったんじゃないの?
秀忠と天海土井あたりが中心で豊臣潰しを実行してたってとこでしょ
0503人間七七四年
2008/07/13(日) 03:12:05ID:IjNXd5X5豊臣家もよほど利口に立ち回らないと戦争回避は難しかったと思うよ。
むしろ冬の陣直前の真田らの立案、徳川本隊の上洛の前に機先を制して京を抑え瀬田に防衛線を張るという作戦の可能性を考えてみたい。
0504人間七七四年
2008/07/13(日) 08:44:10ID:TA9UGPLQ逆に宇治、瀬田に進出した大坂方を幕府軍が叩き潰せる機会にもなりえるし。
0505人間七七四年
2008/07/13(日) 09:04:39ID:+yWH91Rb> むしろ冬の陣直前の真田らの立案、徳川本隊の上洛の前に機先を制して京を抑え瀬田に防衛線を張るという作戦
これ自体が史実だとは…。
江戸期の軍学の臭いがぷんぷんw
0506人間七七四年
2008/07/13(日) 11:57:05ID:IjNXd5X5瀬田・宇治とは言わないまでも京、大和で戦う策は充分にありえた。戦列の調わない状態で家康がどう采配したかは興味深いところじゃん。
戦国の記憶も残ってるこの時代、錦の御旗、朝敵うんぬんはあまり意味ない。朝廷は最終勝利者を権威付けする機関に過ぎないから。
0507人間七七四年
2008/07/13(日) 19:53:57ID:SoXTUMVz当時としては異例の長寿の家康は、もうほとんど妖怪みたいなもんで、「できれば豊臣
を滅ぼしたくない」なんて人間らしい感情はもはや残ってない。
ただ、豊臣恩顧の大名がまだ残ってるんで、秀頼を滅ぼすとなったらさすがに抵抗する
のでは?って恐れてただけだよ。だからそいつらが一人また一人死んでいって徳川の天下
が安定するのをまってから滅ぼしにかかっただけ。
それまではひたすら臣従を求め、秀吉の遺産を浪費させ、できれば転封に応じてくれれば
殺生与奪も思いのままになるのにって思ってただけだろう。
ああ、豊臣家を存続させるにはだったな。
家康がここまで慎重を期すのはやはり大阪城に居城する豊臣家はまだまだ手ごわいということ。
豊臣家を存続させるには、逆に家康が豊臣にされたら困ることを一つ一つ考えて実行していく
ことが有効だな。
じゃあそれを考えてみよう。
0508人間七七四年
2008/07/13(日) 20:03:10ID:SoXTUMVz>>500 にはまったく同意で、家康は12年も待ったんだな。
だったらその逆、500の言うようになるべく早い目に勢力回復に動かねばならない。
タイミングとしては徳川幕府発足時点で浪人集め始め、秀忠2代将軍宣下で兵をあげるくらい
がいいんじゃね?
0510人間七七四年
2008/07/13(日) 20:30:45ID:SoXTUMVz大阪にいる豊臣が恐い、大阪にいられて困るのは、商業流通の中心、京や堺に近く
工業も当時の機内は最先端地域。こんなところにたくさん金持って巨大な城に住む
前の天下人の御曹司はやはり危険。
これに対して、江戸はいなか臭さが抜けきってない辺境の地だもんなw
となると、浪人集まったら早い目に領国(堺含む)の実行支配を再度確立にしたうえで、
秀吉の墓参りや朝廷への挨拶だとか理由をつけて京にも足を運び、朝廷や商人に豊臣ありき
を植えつけておく。堺の商人はもちろん豊臣の御用商人。最先端の商品は豊臣に優先して納入
させ、徳川には高値でふっかけさせるw
0511人間七七四年
2008/07/13(日) 20:39:41ID:SoXTUMVzこの頃になるともう水軍の指揮権も幕府に握られてるのかもわからないが、水軍
はぜひ整備しておきたい。
堺商人の交易の保護のためとか称して水軍を再編する。水軍が幕府に取り込まれる
過程で落ちこぼれたちょっと問題ありそうな荒くれも進んで採用。海戦に備えるぞ!
0512人間七七四年
2008/07/13(日) 21:03:02ID:SoXTUMVzさあそろそろ幕府の我慢も限界。毎日のように詰問状が届く。
何食わぬ顔でこれを無視し、長宗我部盛親に水軍と兵を預け、向かわせた先
はなんと土佐。山内一豊に再度豊臣への臣従を誓わすか、もし首を縦に振らぬ
場合は盛親に滅ぼさせてしまえばいい。
再び豊臣に臣従を誓った山内は陸路阿波蜂須賀を攻め、盛親は水軍を引き連れ
瀬戸内海を安芸に向かわせる。その報を聞いた福島正則は即座に豊臣方を表明。
加藤清正は言うまでもなく即座に反幕府の兵をあげる。
豊臣恩顧の大名を西国に配置した家康の領国配置が裏目に出て、家康憎しの毛利
島津も加わり、大阪以西は全て豊臣の下に結集される。
後顧の憂いがなくなった豊臣本体は満を持して京、瀬田、比叡へと進軍。
京を手中に収め機内を完全制圧。急いで軍備を整えようとする幕府に対して経済封鎖を敢行する。
0513人間七七四年
2008/07/13(日) 21:20:24ID:SoXTUMVzさてここからは持久戦。京に居座る豊臣本隊は動く必要はなにもない。
あわてて駆けつけてきた福島正則に、「お前なら得意だろう。岐阜、清洲を
落としてみよ!w」と申し付ければあっという間に落としてくるだろうw
その間に加藤に名古屋を攻めさせ、盛親水軍には紀州から伊勢方面を海賊がてら
攻めさせる。これを見た前田、上杉、佐竹も兵を上げ、徳川包囲網が完成。
幕府軍がようやく軍備を整えた頃には豊臣方の大軍勢は名古屋を出て東海道を江戸
目指して行軍中。いくつもの千成瓢箪が天高く突き上げられている。
豊臣伝統の機動力あふれる作戦展開に愚鈍な徳川方はなすすべもなく敗走を重ねた。
徳川なんちゃって幕府はたった2代わずか4年で潰えたのであったwww
0514人間七七四年
2008/07/13(日) 22:51:57ID:IjNXd5X5一番簡単なのは駿府に下向しちまうことだよ。三成が武断派と隠れんぼした時も家康のとこに逃げて助かってるだろ(笑)
懐に飛び込んだ兎は簡単に殺せない。家康ぐらいになったら同時代に怖いもの無し、一番怖いのは後世の評価なんだよ。大坂に時間を掛けたのもそういうことだし。
家康は後見人だから頭を下げても罰は当たらない。しかし江戸には行かないという戦略で、それじゃなくても熾烈な駿府(家康)−江戸(秀忠)の側近同士の権力闘争につけ込むわけです。敢えて懐に飛び込んで。
これが一番リアルで厄介な作戦では?(笑)
0515人間七七四年
2008/07/14(月) 07:06:34ID:8i/kfEL+三成をかくまったのは「関ヶ原起こさせるのに利用価値があったから」が定説。
秀頼にはどんな利用価値があるって言うんだい?まさか大阪の陣起こさせるためかい?w
江戸と駿府の主導権争いって言っても、共通の敵が現れたらまた結束して共同で対処するだろうよ。
主導権争いあるってんなら逆に利用するんじゃ・・・
「秀頼殿、江戸に参る必要はないぞ。秀忠は将軍と言ってもただのお飾りにすぎぬ。この家康、太閤殿より預かりし
この天下、秀頼殿にお返しする日まで秀忠の好きには決してさせぬゆえな。はっはっは〜。」
てなかんじで適当なこと言って江戸へは行かせず。江戸には・・・
「秀忠、秀頼めはそちをなめきっておったぞ!挨拶もわし一人にしておけば十分じゃと申してな。このまますまして
はならぬぞ。将軍の力を見せつけてやるのじゃ!」
結局大阪の陣勃発〜つwww
0516人間七七四年
2008/07/14(月) 08:21:07ID:6awfvRt+0517人間七七四年
2008/07/14(月) 13:03:26ID:xUW/kWVV0518人間七七四年
2008/07/14(月) 13:42:09ID:LMFCBJ8n誰がドコで唱えてる定説なの?
家康は三成を匿ってはいないし、三成も家康の屋敷に逃げ込んではいないのに
程度が低いな、ここ
0519人間七七四年
2008/07/14(月) 14:42:55ID:Bb0XlGHb清正らに殺されそうになったとき
0520人間七七四年
2008/07/14(月) 15:06:38ID:INEJa3izおもいっきり釣られてやろう。
閏3月3日に家康と互角の勢力を持っていた大老・前田利家が病死する。
その直後、三成と敵対関係にあった武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政、
細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の7将が三成の大坂屋敷を襲撃した。
しかし三成は事前に佐竹義宣の助力を得て大坂から脱出し、伏見城内に逃れていた。
この後7将と三成は伏見で睨みあう状況となるが、
仲裁に乗り出した家康により和談が成立し、三成は五奉行からの退隠を承諾した
0521人間七七四年
2008/07/14(月) 17:49:21ID:BIiytfIS0522人間七七四年
2008/07/14(月) 22:35:48ID:8i/kfEL+お前の言いぐさだと史料原文全て読んどかなきゃ2ちゃん書く資格ないんか
一瞬思っちゃったよwww
単純なオウム返しの術に沈黙しちゃうなんて、お前も程度低いなwww
0523人間七七四年
2008/07/14(月) 22:41:19ID:6awfvRt+0524人間七七四年
2008/07/14(月) 22:52:59ID:8i/kfEL+スレタイ日本語なんだけど全く読めないのかね〜www
オレはもう十分にスレタイに即した書き込みしたしな。
わかった、こいつ家康厨の荒らしなんじゃねぇか?
なに書かれてるか心配で心配でしょうがねぇんだろ?
ほんと家康信者は気が小さいやつが多くてしょうがねぇな。
そんな気が小さいんだったら、とっとと巣に帰って糞して寝てろwww
0525人間七七四年
2008/07/14(月) 23:32:39ID:8i/kfEL+とかなんとかどうせ言い出すんだろうwww
アンチ家康から始まって家康の思考回路研究しすぎて、なんか最近先の読める人間になってきた気がするwww
0526人間七七四年
2008/07/14(月) 23:39:56ID:XoejmX2U家康の屋敷には行かなくとも家康の仲介で命がつなぎ、家康の息子の軍勢に守られて領地に帰れているわけだから「家康に保護された」といえるんじゃないか?
0527人間七七四年
2008/07/15(火) 00:38:31ID:srmZPYnB>>520ではないが、>>520の間違いを含め説明すると
家康は仲介した訳ではない
伏見に逃れた三成は、同じく狙われた増田長盛と図って、襲ってきた七将に対抗する為に、
毛利輝元に出兵依頼をするも輝元はこれを拒否、しかし保護すると同時に上杉景勝と協議して事態の収拾を図る
するとそこに家康が介入してきて、三成の蟄居など、奉行側への一方的な裁定を下そうとする
これでは家康の独壇場になると、上杉景勝と毛利輝元は豊臣家の支持を得て動かそうとするも、
片桐且元らが家康を支持した為、景勝と輝元の仲介は不調に終わる
そして家康は自身の下した裁定に則って、秀康に佐和山へ護送させ蟄居させた
と言う訳で、家康は三成を保護したとは言えないよ
0530人間七七四年
2008/07/15(火) 01:26:55ID:AlKY6CLr否定とかそう言う問題じゃなくて、家康はどうしたって関わらざるを得ないポジションにいるって事。
輝元と景勝の二人だけで処理したらそれこそ越権行為だ。
0531人間七七四年
2008/07/15(火) 01:31:39ID:E+e2UzPU五大老制は豊臣政権の存続において、おおきな矛盾を含んでいた
0532人間七七四年
2008/07/15(火) 01:35:04ID:srmZPYnB>否定とかそう言う問題じゃなくて、家康はどうしたって関わらざるを得ないポジションにいるって事。
>輝元と景勝の二人だけで処理したらそれこそ越権行為だ。
それは今更書くまでも無く当然だし、誰もドコにも景勝と輝元の2人だけで処理とも書いてない
と言うか、何を持って越権行為なのか?
その理屈なら家康一人が決めたの裁定で処理した行為は越権行為なんだが?
何を言いたいのか、どうしたいのかが、まるでわからない
0533人間七七四年
2008/07/15(火) 01:48:54ID:AlKY6CLr何でそんな無駄に攻撃的なんだ?つーか、君の文書を見れば家康が無理やり介入してきて
勝手に処分を決めた、としか読めないぞ。
実際は五大老総意の、豊臣政権の処分、として三成の隠居は命ぜられている。
経緯はどうであろうと法的にも手続き的にも正しく処理されている。
0534人間七七四年
2008/07/15(火) 01:58:02ID:srmZPYnB攻撃的なんだとはこっちのセリフなんだが・・・
>家康が無理やり介入してきて勝手に処分を決めた、としか読めないぞ。
それは君だけ
処分を勝手に決め推し進めたのは書いてるが、無理矢理介入してきたなんて、どこをどう読んでそうなるのか、
文法的な解説をしてくれ
>実際は五大老総意の、豊臣政権の処分、として三成の隠居は命ぜられている。
>経緯はどうであろうと法的にも手続き的にも正しく処理されている。
ん?五大老の総意を証明するものを出してね
0535人間七七四年
2008/07/15(火) 02:02:46ID:AlKY6CLrなるほど。ケンカを売っているようだから買ってあげるよ。
じゃあその前に
> 毛利輝元に出兵依頼をするも輝元はこれを拒否、しかし保護すると同時に上杉景勝と協議して事態の収拾を図る
>
> するとそこに家康が介入してきて、三成の蟄居など、奉行側への一方的な裁定を下そうとする
> これでは家康の独壇場になると、上杉景勝と毛利輝元は豊臣家の支持を得て動かそうとするも、
> 片桐且元らが家康を支持した為、景勝と輝元の仲介は不調に終わる
> そして家康は自身の下した裁定に則って、秀康に佐和山へ護送させ蟄居させた
これを証明する証拠を示せ。
俺の知る限りこれは、まだ一部の論者の仮説に過ぎず、確定した論ではないはず。
これを真実だとする、証拠を示せ。
0536人間七七四年
2008/07/15(火) 02:10:32ID:srmZPYnB光成準治「関ヶ原前夜における権力闘争」読んでいるのだから、これにある厚狭毛利家文書の輝元書状の内容を
否定する史料が存在しないので確定なんですけど?
つか、これは仮説でも何でもなく書状に書かれてる内容まんまだぞ?
仮説とは、この論文の中で光成氏が書いてる、三成らが毛利を動かして(光成氏は輝元が三成らと連携してと飛躍させてるが)、
伏見の家康を襲撃しようとしたと書いてるようなのを言うんだが?
で、
>実際は五大老総意の、豊臣政権の処分、として三成の隠居は命ぜられている。
>経緯はどうであろうと法的にも手続き的にも正しく処理されている。
を証明するものをだしてね
0537人間七七四年
2008/07/15(火) 02:18:28ID:AlKY6CLrだから
なんで毛利側の一方的主張が「史実」になるの?
あの文章は毛利の側から「のみ」の見解を語っているに過ぎない。
まさか、それを頭から「真実」って信じちゃってるのか?
0538人間七七四年
2008/07/15(火) 02:24:02ID:srmZPYnBあのな、内容は毛利の一方的な主張でも何でもないだろ
事件の経緯を知る上で、これ以上の史料は今のところ他にないぞ
と言うか、そんな言い方するなら。毛利以外のこれに関する史料で反論してみろよ
襲撃事件の内容に関しての一級史料は少なく、内容も詳細なのはない
だから七将襲撃と言われても、正確な参加した将の名前さえマチマチなんだよ
史料の信憑性も語れず、反証も出さず、自身の主張の論拠も出さずに、
人の文章を曲解して、イチャモンつけて、言うことが>>537なら話にならんぞ
0539人間七七四年
2008/07/17(木) 13:23:33ID:NUgR5VY50540人間七七四年
2008/07/17(木) 23:59:10ID:1cpdo6Bbここはお前の来るべきスレじゃねぇってこった。
荒らしばっかしてんじゃねぇぞボケ!
0541人間七七四年
2008/07/18(金) 15:59:06ID:EB1tc5YF0542人間七七四年
2008/07/18(金) 20:13:45ID:ncU1AiNJ0543人間七七四年
2008/07/18(金) 21:11:09ID:YuDNMQIEコバ.秀も西軍でしばしツズ板の出羽。毛利も弁当をクッタと思いますぅ。
0544人間七七四年
2008/07/18(金) 21:16:41ID:byVLQQjj0545人間七七四年
2008/07/19(土) 06:43:25ID:xcyeddK7(ただし、×大阪の陣→D北条執権的政権乗っ取りに変化して豊臣存続の可能性は大きくなる)
勝利が秀吉の精神衛生によい影響をもたらし、寿命が延びるようなら話しは変わってくるが…
0546人間七七四年
2008/07/19(土) 07:13:55ID:pfDoOFo6家康単独じゃ政権取れなから、出兵継続なら戦争優先(あるいは講和条件の厳守)で求心力が出て豊臣家は割れないかもよ。
0547人間七七四年
2008/07/19(土) 09:07:58ID:mrspxi8R残念な事件だな。秀吉、執政職指名間違えたよ。史実では
五大老と言う言い方ではなく五人の奉行と言われてたって?
で、五奉行の方が五人の年りだったって。
決済機関→家康ほか>執行機関→三成ほか
決済機関に家康を入れたのが間違い。
宇喜多、浅野(長政)、中村、黒田(如水軒の方)、
毛利(秀包)、石田、増田の七人を決済、執行兼用
にし、合議制をとらせればよかった。
0548人間七七四年
2008/07/19(土) 09:28:31ID:7WoZetmd家康以外に誰かいる?
秀長が生きてた頃は、一門・外様の違いがあっても官職では同時に昇進していたんだぞ
0549人間七七四年
2008/07/19(土) 09:56:51ID:mrspxi8R秀包は例外中の例外なんだが・・・・・・気の毒だからね、本来なら
小早川を継いでいる人物だからね。彼は豊臣の譜代も同然。
徳川幕府の偉大なところは外様を政権に参加させなかったところじゃね。
幕末では規範が緩んじまったがそれは最後の数年のこと。あとは完璧。
0550人間七七四年
2008/07/19(土) 10:33:00ID:/On4qiLPあとは室町末期の大内義興くらいか
0551人間七七四年
2008/07/19(土) 11:04:28ID:xcyeddK7源将軍家は身内粛清し過ぎてアボン。
足利幕府は身内に関東まかせたら勘違いしだして関東公方名乗って内乱状態。
徳川は親藩を3家も作ったが、序列を決めけんかしないようにしておく。さらに幕政には参加させず、安政の大獄みても力も幕閣より下。
こんな仕組みよく考えれたって感心する。
普通なら将軍直属とかで幕閣介入できなくなり反乱起こしたり、へたに大坂城代なんかさせたら勘違いしだして大坂公方名乗りだして天下二分の内乱起きてただろうw
0552人間七七四年
2008/07/19(土) 11:36:21ID:LWC7xu2R>史実では五大老と言う言い方ではなく五人の奉行と言われてたって?
>で、五奉行の方が五人の年りだったって。
これは関ヶ原で奉行側が自分たちを豊臣家の年寄りと主張してるだけなんだよね
0553人間七七四年
2008/07/19(土) 11:38:00ID:mrspxi8R将軍ヌッ殺した赤松氏を再興させてるし、
応仁の乱の御輿(みこし)だった義視は
東軍→西軍にトレード。もう無茶苦茶だわ。
0554人間七七四年
2008/07/19(土) 18:43:43ID:BNsHymUs徳川幕府の恐ろしいところは、基本的に役職が世襲ではないこと
0555人間七七四年
2008/07/20(日) 15:50:34ID:5DK1NSWs一任し、その目付けとして@毛利秀元(小早川方式で半独立、伊予一国を毛利輝元
経由で賜らせる)A小西行長(肥後から近江に転封させる)の両名を任命する。
@A両名の連署と宇喜多秀家の印判があれば前田は豊臣家の領地経営と秀頼の旗本
衆を動員できると遺言していればどうだろうね。奉行衆の顔ぶれはそのままで奉行
衆と前田家の連絡は大谷、中村。石田三成は奉行と兼任して前田家の付け家老的相
談役。この体制は秀頼十五歳まで。
0556人間七七四年
2008/07/20(日) 18:32:28ID:0bWTg8BO事実、家康に屈服したし。
0557人間七七四年
2008/07/21(月) 07:16:34ID:kwxnn0rp最もベストな策を提案してきた。
・秀吉死去後の体制→大老は家康一人、秀頼後見かつ執政(家康)目付機関
として前田、宇喜多、如水+真田
・家康の横暴顕在期→家康暗殺
・関ヶ原前夜 →家康大坂引き留め。関ヶ原起こさせない。
・江戸幕府成立期 →軍備強化、水軍整備。水軍で豊臣恩顧大名攻めて再度
臣従誓わせる。西国大名まとめあげ江戸攻略。
おれがまだふれてないのは大坂の陣前夜。この絶望的状況でどうするか。
具体的な戦略については当時の真田案?とかの方がより具体的かつ状況
をよく把握しているはずなので譲るとして、豊臣家が存続する方法を考えてみたい。
0558人間七七四年
2008/07/21(月) 07:52:46ID:kwxnn0rp歴史をひもとけばこれと似た状況はあったし、その巨大な城の城主は生き残ってる!それは誰か?
当時からすれば未来の歴史だが、幕末の江戸総攻撃前夜、徳川慶喜はちゃんと生き残り、徳川家を
存続させている。朝敵の汚名まで着せられる絶望的な状況で。。。
これに学ぶのであれば、やはり幕府臣従はやむをえないかもしれない。
主従逆転は耐えられないからと公家化しようにも、秀吉は力があったから関白までなれたし豊臣姓まで
下賜されが、力のない氏素性の怪しい人間が公家になれたとしてもじり貧で終わりだろう。
武家として幕府臣従はやむをえないだろう。
その中で豊臣家生き残りの仕掛けをしていく必要がある。
0559人間七七四年
2008/07/21(月) 08:29:03ID:kwxnn0rp幕末は徳川滅ぼすのに時間食って江戸も焼け野原になったら諸外国に付け入られる
恐れがあったが、江戸初期はそういうのあまりないし。西郷は徳川家滅ぼすのに
こだわったが、西郷よりえらい人はいくらでもいたから西郷とは交渉の余地あるわな。
でも豊臣一番滅ぼしたがってるのが家康だからな。誰も止められんわな。
というわけで、やはりなんとか大坂の陣だけにかまってられない状況を作り出すことが
重要になる。具体的には一揆やキリシタンの反乱を起こさせたいね。
島原の乱がこの時期に起きてたらな。まだキリシタンの弾圧始まってないのか?
当時はスペイン、ポルトガルって言っても日本と対して技術格差ないのかな?
まあ遠洋航海技術とかは優れてるだろうから、軍艦や大砲買って徳川に対する
こけおどしに使う。
スペイン、ポルトガルにキリシタン操らせてキリシタンの反乱起こさせる。
徳川軍が大坂の陣にばかりかかわりきれない状況になったところで大坂無血
開城する。
ただし、兵は半数だけ投降するが、半数は島原に立てこもりさらに戦いを続行
するが、少年兵の自害等痛ましい事件が起きる。
さらに一部兵はスペイン製最新軍艦に乗って琉球にわたり西洋式城郭に立てこもり
戦闘を継続。だがあえなく降伏。
豊臣家は全て部下が勝手にやったことにして、有力外様として明治まで存続した。
0560人間七七四年
2008/07/21(月) 09:22:55ID:lbmLpDubまた違った局面もあったかもしれない。
秀忠が相手なら、お江と淀のパイプでなんとか交渉の余地も。
開戦をギリギリまで引き伸ばして時間を稼ぐか、冬の陣で和議をせずに外堀内堀のある状態で篭城を続けるか。
0561人間七七四年
2008/07/21(月) 09:42:12ID:JkkC5RUY0563人間七七四年
2008/07/21(月) 16:19:12ID:YP7lT4g0家康の存在がどれくらい重要なものだったのか。大坂方につく大名は出るのか、と
お江与の方が交渉押し切るのは望み薄じゃないか?
恐妻家つってもそこまで考え無しじゃなかろ・・・世継ぎ問題の事考えると無いとも言えないか
0564人間七七四年
2008/07/21(月) 18:38:38ID:yQDhfcZoポカはしないだろうなぁ
一年程攻囲して開城、重臣が何人か切腹して高野山に追放というお決まりのパターンかな
0565人間七七四年
2008/07/21(月) 19:08:06ID:noacz7kLそれ以前で考えなきゃ話にならん。さらに言えば関が原の役以前だよ。
ところで秀次って嵌められたんだろね?利休も因縁つけて苛め殺しだろ?
秀長病死でブレーキ役がいなくなったから。蒲生家の減転封も過酷すぎ。
最大の恩人小早川隆景への返礼が毛利本家への養子縁組話?関東の名家、
宇都宮氏の改易処分も情がなさすぎる。とどめは文禄、慶長の役だよ。
世界おばか政権ベストワンケテーイ。
あ、でもおれ豊臣ヲタなんだよ。秀吉大好き。好きだからこそ蹴っ飛ばし
たいぐらい腹立たしいんだが。天下の信を失うだけ失っておいて六歳の幼子
(実子?説あり)を残し、おっ死んじまった。無責任すぎるだろ。ゴラァ!太閤。
0566人間七七四年
2008/07/21(月) 20:05:22ID:lbmLpDub取れないだろうから、とりなそうとする大名なら出てくるかも。
あるいは逆にむしろ、秀忠新政権の力を見せつけるためにより積極策に出るかもしれないが、そいうことすると
なんか失敗しそうな気もするんだよな秀忠の場合。
0567人間七七四年
2008/07/21(月) 23:18:10ID:OOwZN2h0邪気眼の覚醒が必要
最もベストなんて言い回しからして中学生
0568人間七七四年
2008/07/22(火) 00:40:05ID:jxHwz1Wv0569人間七七四年
2008/07/24(木) 18:26:34ID:Jd0wUeu2秀頼に対する帝王学教育がなってなない。
そのてん家光に「世は生まれながらの将軍であるぞ」と言わしめた春日局はさすが。
大坂城に置いとかず、清正か如水あたりに預けた方がよかったんでは?
で、家康との対面で「世は生まれながらの天下人であるぞ!」って言わせたら、家康アドレナリン分泌血圧上昇して早くにおっ死んでたんじゃねぇかな。www
0570人間七七四年
2008/07/24(木) 21:24:21ID:00RUomyk0571人間七七四年
2008/07/24(木) 21:49:59ID:Wvz1hIr40572人間七七四年
2008/07/24(木) 22:21:21ID:QCUQx7pE0573人間七七四年
2008/07/24(木) 23:03:13ID:VVEv5fLs0574人間七七四年
2008/07/25(金) 00:19:01ID:N+UIK/Sa四国九州征伐先やって、上杉臣従させてから伊達征伐。
その後徳川北条まとめて成敗しる。
0575人間七七四年
2008/07/25(金) 00:43:40ID:N+UIK/Sa5ヵ国の大大名ったって半分以上は本能寺後のどさくさにまぎれて織田領からかすめ取り火事場泥棒しただけなんだし。
一国与えとけば十分でしょw
0576人間七七四年
2008/07/25(金) 00:54:31ID:mPBHyNI+徳川に頭が上がらないのよね
徳川北条伊達の同盟が成立してたら
余裕で豊臣は潰されたからな
結局、秀吉が家康に頼み込んで
北条潰しで反乱の線を切ってもらった
ここで実質、徳川の天下は決まったようなもんw
0577人間七七四年
2008/07/25(金) 03:27:45ID:xh3QNkg+秀吉の領土なんてとって数年なんだもん
脆いわそりゃ
0578人間七七四年
2008/07/26(土) 04:47:13ID:nJCjcAIwそこまでは言い過ぎじゃね。
秀吉は2度ほど対関東征伐軍を企画していて、
いちどは対徳川&北条を目指して軍事行動を起こしている。
上杉は信濃に出陣すべく軍を召集しているし、佐竹にいたっては実際に軍事行動までおこしている。
北畠が「オレ徳川と面識あるから和平交渉してみるわ」
と言い出さなければ、実際に秀吉の言う「富士山見に行く」が実行された可能性は大きい。
まぁ秀吉お得意のプロパガンダかもですが・・・
0579人間七七四年
2008/07/26(土) 07:20:45ID:zj8vj1jO越後に移封したのが間違いか?左遷と受け取ったのか。本来なら大幹部なのに。
長政のおやじ如水軒と秀治のおやじ名人久太郎は中国大返しのころの羽柴方の
大幹部。名人久太郎が幕領化したのは信長の使者として偶然その場に居合わせた
からだが、秀吉の信認は篤かった。長生きしていれば大老確実。夭折したため
その政治的遺産は息子秀治に継承されなかった。(父の功績によって)受ける
べき処遇を石田や増田に横領されたと怨念を持ったのか?親父の功績を否定され
たと言う共通認識が長政と秀治にあったかも知れない。
0580人間七七四年
2008/07/26(土) 07:50:50ID:Sl7rYgX90581人間七七四年
2008/07/26(土) 07:59:37ID:YyF0v3Ru0582人間七七四年
2008/07/26(土) 10:12:09ID:zj8vj1jO0583人間七七四年
2008/07/26(土) 10:48:03ID:mN+gm0QJ0584人間七七四年
2008/07/26(土) 13:25:31ID:zj8vj1jO信之とか。池田輝政とか。長宗我部盛親もそうだね。親父は隠居していたり、
隠居のふりをしていたり。二代目の最高は真田信之だろう。蒲生秀行は若すぎ
か。佐竹は義重が健在だったのに義宣がねー。ま、すべて石田が悪いってこと
で丸く治めましょう。二代目の最低はだれかな?前田屁たれ中納言利長卿かな。
前田肥前守に勇気があれば関が原の役はなかったかもしれない。
0586人間七七四年
2008/07/26(土) 19:17:40ID:Sl7rYgX90587人間七七四年
2008/07/26(土) 20:49:28ID:LGkxtX4X0588人間七七四年
2008/07/27(日) 07:19:59ID:jMpAuEJc→後金に北京攻められ豊臣朝滅亡→家康大坂幕府開くw
0589人間七七四年
2008/07/27(日) 12:18:56ID:H6W30KYX加賀征伐の時に一戦交えようとした利長
利長からの再三の及ぶ援助要請も無視した豊臣家
仕方なく母を人質に送り、その後は自家の存続に尽力し御家の安泰を保った利長
どこが最低なのかわからん
0590人間七七四年
2008/07/27(日) 12:50:18ID:jMpAuEJcそれを豊臣家に援助を要請するだと?甘えてんじゃないよ。
なんで幼い秀頼が前田援助できんだよ。逆になんでしなきゃならんのだ?
一戦交えれば良かったじゃんかよ。前田が先頭に立って家康糾弾すれば
よかったじゃんかよ。秀頼後見なら秀頼だきこんで家康追討礼ださせれば
いいだろ?それやらないで主家滅んでから豊臣が悪かったから
しかたなかったって正史書き換えてるからヘタレって笑われるんだよw
0591人間七七四年
2008/07/27(日) 12:59:02ID:bGZyQMNjそれは利家であって利長ではない。
0592人間七七四年
2008/07/27(日) 14:37:30ID:8nj6cdrE断れんかったのかな。利家遺言してなかったの?小説では大坂城を離
れるなっちゅう遺言があったってなってたが(司馬の関が原)司馬の
嘘なんだろうな。本当なら親父の遺言破って加賀に帰るのおかしい
っしょ?司馬もええ加減なストーリー書くなよっ、つうのは、置いとい
て、遺言はなくても大坂に居座れんかったんかな。それか、加賀に帰
る時、淀殿を軟禁し、秀頼を金沢に連れ去って囲い込んじゃえばよか
ったじゃん。傳人(めのと)なんだから。帰国するとは主人側から言え
ば「暇を与える」(やめさせる)を連想する。いくら親父の葬儀のため
っでもね。当時は参勤の制度はなかったんだが、めのとの帰国は職場放
棄だろ?ガキもいっしょに連れ帰れば職場放棄になんないよね。
0593人間七七四年
2008/07/27(日) 15:27:56ID:wXkeHyAz秀頼後見人が職場放棄してどうすんだ?
代替わりして直接言われてねぇからって次期天下人の後見人だよ?やりたくてもめったにできるお役目じゃない。
ちょっとできるやつなら代替わりで無効って言われても無理やり就任しようとするのが普通でしょ。
国もと帰っちゃうから家康にいいように情報操作されて、謀反の濡れ衣着せられる。
利家遺言で「秀頼を守れ。家康に気をつけろ。」くらい書いてるでしょ?
もし「これからは内府の世になろう。秀頼様よりもこれからは内府殿に従うのじゃ。」って書いてたら、親子ともどもヘタレ確定www
0594人間七七四年
2008/07/27(日) 17:12:23ID:bGZyQMNj「どちらが勝つかを、くれぐれも見誤らぬように。負ける方に不義理してもかまわん」とくらい書いてそうだぞあの男。
0595人間七七四年
2008/07/28(月) 05:59:00ID:EdAL5cUM前田家の家風風見鶏w
0596人間七七四年
2008/07/28(月) 11:24:11ID:5ySCzU+u家康を屋敷に招いたがその時利長を呼んで「分かっているな
?」と問いただした。
利家は暗殺させるつもりで聞いたのだが利長は「歓待の準備は出来ております」と
答えた為利家は家康と利長がやり合うのは無理と
諦めて家康にへりくだって頼みこんだ。
しかし実際は利長も暗殺と分かっていたが
自らの力量を考えワザととぼけたのだった。
という話があった。
武功夜話かなんかだと思ったんで講談モノだが。
0597人間七七四年
2008/07/28(月) 14:08:12ID:7l9kuQoqって言うくらいだから関が原終わって後の話だよね?
だったら淀殿と秀よりの子供を関東に人質に出して
参勤交代にも応じる。
これやったら、あとは片桐の働き次第で所領安堵できたかも。
なんせ千姫は家康の孫なんだし、そこまでして滅ぼす必要性がない。
0598人間七七四年
2008/07/28(月) 15:19:06ID:7L9nXA1bつまり直系の男は絶やしておかないと、数代後に自分の子孫が
やられるかもしれない。
頼朝の故事じゃないけど、家康は絶対にそういうことを考えていたはず。
そして、豊臣、という「源平藤橘」に並ぶ天皇の庇護を受けられる姓と
いうものの持つ意味かな。
秀頼の子供が先祖帰りでどえりゃあ武将になるかもしれん。
そうしたら徳川なんて三代で滅ぼされるかもしれない。
そうならないように、豊臣家の血筋は抹殺するのが家康最後の
大目標だったろうし、公家系も「豊臣」なんて新参者が消滅するのは
こっそり願いだったろう。
0599人間七七四年
2008/07/28(月) 15:29:44ID:xZybrq1C>>1のテンプレに
豊臣政権の維持
関が原後の豊臣家の存続
の二つのテーマが語られると書いてあるよ
>>597の解釈は正しいけど半分だけ正しい
つまり正確には自分が語りたい方を語れば
よいのじゃね
ところで肝心の淀殿人質&参勤交代受諾案
なんだけど。実行すれば戦争は回避できた
だろうね。でも呑めない要求だったんだろ
うな。淀殿浅井氏を説得できる者がいない。
プライド高そうな女だからね。息子でも無理。
0600人間七七四年
2008/07/28(月) 20:17:09ID:pLd6KqL/夢も希望もないが、それが歴史の冷酷さだ。
唯一の方法は、家康を暗殺すること、だろうけど
これこそ不可能だったろうしね。
0601人間七七四年
2008/07/29(火) 01:44:39ID:osBMZ4g+させず、播磨、近江、摂津に50万石の領地を与え、奥州は最初から上杉
を転封させる。逆に金吾が夭折し、小早川の養子話は最初からなし。隆景
には後、十年元気に生きてもらう。摂関家か親王を征夷大将軍に任命し、
幕府を伏見に開設し、管領は豊臣家の譜代を交代で任命する。とりあえず、
初代管領は宇喜多秀家。侍所の長官は石田、浅野、増田、長柄が一年交代で
勤める。親王、摂家将軍は世襲せず、豊臣家当主が公認を推薦する慣例を創る。
0602人間七七四年
2008/07/29(火) 02:43:04ID:qjBOUMuk優れてたが権力者が腐敗しまくるんだよね
鎌倉幕府なんて
代をかさねるごとに巨大になり
浪費、賄賂とかで財政は傾きかけてたが
組織としたら強固で執権の力は絶大だった
なぜ滅んだか分からんぐらいの奇跡の倒幕劇w
室町江戸とは比べられんほど
巨大だったのにw
0603人間七七四年
2008/07/29(火) 09:09:21ID:4mAJhtbW当時、豊臣家には莫大な直轄地と黄金があり、徳川とは比較にならないほど金持ち。
しかし、その直轄地は全国に散在しており、代官をおくだけだから
豊臣家直臣たる侍が兵力が極度に不足している。
この兵力不足も豊臣家滅亡の原因になったと思われる。
なので、この直轄地を整理統合し豊臣の息のかかった武将を
大名として任命し、兵力もそこで育成させるようにする。
(片桐勝元も豊臣の外務大臣とはいえ、数万石の大名に過ぎないので
三成レベルの大録にすればいいし、三成は70万石程度が妥当。
五奉行筆頭たるに相応しい録にする)
結果、そうすることで関が原時に大阪守備だけでなく、数万人単位、おそらく
4万は遊撃軍団として動員できるだろう。
しかしそうなると関が原の戦い自体起こらなくなる可能性があるが・・
0604人間七七四年
2008/07/29(火) 18:24:58ID:WSBNTt0iむしろ三成に70万石をやる事によって
さらに三成の敵を作るんじゃないか
仮に関ヶ原が起こったら自ら総大将になりそう
そうしたら毛利は敵になるんじゃない
戦ってくれる数は増えても敵の数も増えそう
0605人間七七四年
2008/07/30(水) 05:19:01ID:jk+HFUEz客将同士でも、いざこざが絶えなかったのではないか?
結論的には、最初から秀頼も出陣した上で、打って出る。そして一体誰に最終決定権があるのか(淀なんて論外)
を明確にし、畿内を制圧しながら東上し、決戦を長引かせることなく、一気に決着をつける以外になかったのでは?
0606人間七七四年
2008/07/30(水) 06:33:13ID:gfkOn0kh有力大名がひとりも味方についてくれず、浪人を大量に召し抱えただけの烏合の衆で、東上して戦うのは
さすがに無理だろう。それらを統括できる司令官もいない。
0607人間七七四年
2008/07/30(水) 07:20:23ID:gEFdg8zL0608人間七七四年
2008/07/30(水) 10:11:46ID:5AHSOotC篭城なんてするわけない。
そんなこと提案するのは弱腰でそれこそ信頼を失ってしまうから。
>>604
毛利が味方してくれないと挙兵自体が怪しくなりますね。
>>605
形式的には豊臣政権下での主導権争いだから豊臣家はそこまで
肩入れするつもりはなかったんでしょう。
もし豊臣家が本腰をいれて西軍を支援してたら
戦後家康に処分されていたはずだから。
>>607
徳川が秀吉傘下になったことで
豊臣の日本統一が現実的になった。
なので、それがなかったら日本統一はかなり困難になったかと思う。
0609人間七七四年
2008/07/30(水) 13:01:20ID:YMBBOTlU石山本願寺が難攻不落なのは城もそうだが毛利が水軍使って物資の支援してたから。
だから信長が木津川に船沈めて航行できなくしてから落城した。
大阪の陣は初めから回り全てが敵。
いくら食糧備蓄して金たくさんもってたとしても、籠城してればいつかは落城するのは
自明の理。
籠城は誰が見ても消極的な愚策。
0610人間七七四年
2008/07/30(水) 14:57:24ID:ktUqqYT3大坂夏の陣(1615)は北条が滅んだ小田原の役(1590)
の25年後。小田原の役で浪人した元北条の家臣がどこかの大名家
に仕官できたとすれば「やったー」ってVサインしてガッツポーズ、
鎧を着たままバク転宙返りのパフォーマンスをしたはずだ。
0611人間七七四年
2008/07/30(水) 15:50:39ID:exsO3Y6r家康の死を待つのは決して愚策とはいえないんじゃないか。
積極策に出たところで万に一つも成功するとは思えんし。
0612人間七七四年
2008/07/30(水) 20:33:24ID:ufZMbsaM0613人間七七四年
2008/07/31(木) 01:05:32ID:giOpDvMjその資金を着服するなど蓄財にうるさい一面があったという(『多聞院日記』)。また島津攻めに参加した大名に(恐らくは現地プレミアとして)割高な兵糧を売り付けようとして秀吉に止められている。
0614人間七七四年
2008/07/31(木) 01:16:38ID:giOpDvMj天下統一をした後の政策が・・・ねぇ。
名分が立たず、しかも惨めに失敗した対外遠征。
実の息子かわいさに養子を殺し、しかもその妻妾子供(普通は幼い女の子位は助けるもんだ)皆殺し。
淀城 聚楽第 名護屋城・・・趣味としか思えない大土木工事。
上記の政策を支えるのに必要な重税・・・。
・・・暴君だもんな。
横山光輝の「豊臣秀吉」だったっけ? 天下統一したところで
「老年の彼は、それまでとは比べ物にならない位愚かになった事も追記しておく」って
終わりで締めたの。
0615人間七七四年
2008/07/31(木) 02:16:52ID:SsQrQBd1刺客を放った上で家康の死を待つならいいが、それもしていないのなら他力すぎて策にもなってない。
家康の寿命待つにしても打って出る方がいいに決まってるだろ?
打って出て背走してから篭城しても遅くない。京あたりで一戦交えといた方がそれだけ時間食うんだし。
そこで善戦して膠着状態にでもなってみろ?あの福島正則が駆けつけてくれるかもしんないだろ?w
まあ冗談はおいといて、大名の中からもこっそりでも支援申し出る輩も現れるだろう。
篭城みたいな消極策ははじめっから負け戦。誰がそんな負け犬に味方するんだよ。
0616人間七七四年
2008/07/31(木) 02:58:47ID:SsQrQBd1「愚かになった」んじゃなくてそれが秀吉の限界なのでは?
戦に勝つ方法を考え、時勢を読み、人を懐柔し従わせる能力に優れ、それをいずれも
誰よりも早く、超スピーデイーにやってのける能力が卓越していた。だから秀吉が天下を
統一することができた。しかし、人を治める強固な体制を考える能力とかが不足していた
ことは否めない。その能力については家康の能力は神レベル。
スターリンや金正日も真っ青の管理体制構築してるし。
あと権謀術数で天下をひっくり返し簒奪する能力も神レベルw
0617人間七七四年
2008/07/31(木) 03:08:11ID:vx1VUdCQ刺客はなった時点で攻め寄せる大義名分できてしまうんだがな
その刺客がたとえ豊臣から放たれた証拠が無くても、むしろ他家から放たれたものであっても
銘文なんてメじゃないぐらい攻め寄せる口実になってしまう
籠城が下策なのは同意するけどさ、開戦前に刺客を放つのは無理な話だよ
0618人間七七四年
2008/07/31(木) 05:28:09ID:44ayXoUbそれに他力とはいっても、当時の家康の年齢を考えればいつ死んでもおかしくない。
実際、豊臣家が滅びてから1年経たずに死んでいるんだから。
一戦交えといた方がいいといっても、その一戦で決着がついてしまう怖れもあるから「いいに決まっている」
とは限らない。野戦勝負となると家康もむしろ望むところだろう。
0619人間七七四年
2008/07/31(木) 07:34:12ID:SJDJSo/S0620人間七七四年
2008/07/31(木) 07:43:20ID:DqoEXcF9野戦で大勢の決着はついても、即座に家が滅びることはあまりないでしょ?
たいがい城に逃げ帰って最後の籠城戦となる。
籠もった城が普通の城ならいざしらず大坂城でっせ?
幕府側に立ってみると野戦で勝利をおさめたのもつかの間、そこからようやく大坂責め。
普通に考えて最終勝利はまだまだ先。モチベーション維持するのはたいへんな
作業になる。
最初から籠城よりそっちのがよっぽど時間かせぎになると思うがね。
0621人間七七四年
2008/07/31(木) 08:42:54ID:71OUG5zl疑わしいぞ。小牧・長久手で軍事的に負けてるわけだしな。
0622人間七七四年
2008/07/31(木) 11:36:11ID:rzwZMRrM0623人間七七四年
2008/07/31(木) 11:52:39ID:kDQUA2eT0624人間七七四年
2008/07/31(木) 14:22:38ID:ic7brSRqそんなことよりも家康を朝鮮に送り込んだ方が良かったんじゃね?
断れば徳川攻めの口実になるし、行けば徳川は疲弊する。
朝鮮で家康に派閥を結成されるリスクはあるけど、豊臣が生き残る可能性はこっちの方が上だと思うんだが。
0625人間七七四年
2008/07/31(木) 16:26:37ID:vcKYxrtR秀頼公のために起こした豊臣家臣同士の争いだったはずが、終わってみればいつのまにか天下人に。
一戦交えて、負けてから籠城すればいいなんて考えは、家康相手に甘過ぎるだろ。敗者に抗弁は許されないのだから。
0626人間七七四年
2008/07/31(木) 18:09:24ID:o5vufHrO腹黒い狸じじい豚に抗弁なんかしても何も始まらんだろが。
家康相手だとなにが甘いんだよ?家康は100戦100勝か?ばかみたいな負け戦もやってるだろ?(脱糞w)
仮に家康が完璧だとしても、軍勢が大きくなれば中には比較的弱い部隊も含まれてくるのが普通。
弱そうな部隊、志気のあがらない部隊をすかさず見抜いてそこに集中的に強力な一撃を加えれば、全軍総崩れ
になる可能性だってある。徳川勢は真田に苦手意識ありありでびびりまくりなんだからw
打って出る価値は十二分にあるね。
0627人間七七四年
2008/07/31(木) 18:33:09ID:vcKYxrtR真田が指揮して、全軍がスムーズに動いてくれると思うのか?
0628人間七七四年
2008/07/31(木) 18:52:57ID:vx1VUdCQ諸大名の軍勢を各個撃破も出来るならアリだろう
ただ内通者が多く情報筒抜けの状態で奇襲できるかってなると相当厳しいし
紀伊浅野攻めのように不甲斐ない結果になると逆効果なのも事実
一当たりするのは士気・戦意の面で大いに結構だと思うが少なくとも大敗北はしない程度に戦わなきゃならん
敗者に抗弁は〜ってのはちょいとずれてるな
それは関ヶ原のような大敗北した場合の話で、一当てした後に籠城ってのは割と良くある手段だったはずだ
0629人間七七四年
2008/07/31(木) 19:59:21ID:2ilwCaBX立場的に派遣軍総司令になるだろうから、そうなると一元指揮可能となり、
朝鮮制圧に成功してしまうかもしれん
民心掌握上手いし
0630人間七七四年
2008/07/31(木) 21:12:24ID:D+A2AIsK前田帰国→因縁ふっかける→豊臣家への人質が何故か関東に
大坂西ノ丸に入場→滞在費用を豊臣家から出させる
都合の良いときに清正、幸長がぽっくり逝く
国家安康君臣豊楽で因縁ふっかける
これだけ固い決意の元に動いてる相手に対してよく15年も持ったと思うよ
0631人間七七四年
2008/07/31(木) 21:50:21ID:8Mw2WaLi0633人間七七四年
2008/08/01(金) 03:20:32ID:3wIxBr1C1590年に関東移封したばかりだから家康本人はまずいだろ?
0634人間七七四年
2008/08/01(金) 08:15:06ID:YB6ACl6u家康がドンガメ(どんくさい亀w)だっただけでは?
秀吉と家康の立場が逆だったら秀吉2年で徳川滅ぼしてるよw
0635人間七七四年
2008/08/01(金) 09:42:38ID:MmzzLvQN0636人間七七四年
2008/08/01(金) 14:33:21ID:67wRyH570637人間七七四年
2008/08/01(金) 16:58:42ID:eOe3GT6W0638人間七七四年
2008/08/01(金) 18:32:36ID:67wRyH570639人間七七四年
2008/08/01(金) 21:50:28ID:Ft7beD1hおそらくはそれゆえに秀吉も徳川を討伐するのでなく懐柔策にでたようなもん
なにより光秀の方が勝手に天下の謀反人になったしなw
織田の味方をしていた連中なら誰だって光秀討伐の大儀名分は振りかざせる
0640人間七七四年
2008/08/02(土) 02:51:37ID:o8wgP6ibやっぱ
家康が光秀を討つ大義名分はないw
討つには織田家の要請がいるだろ
秀吉が討ったのも表向きは
織田秀勝の行動
0641人間七七四年
2008/08/02(土) 06:37:51ID:QsD7Ya/h主君の仇である光秀を討つ大義名分は十分だが。
0642人間七七四年
2008/08/02(土) 07:36:44ID:UVP43K9/のツキっぷりは凄いものがある。天命を信じても仕方ない。しかし、だから
こそその後の人生では謙虚であるべきだったのに・・・・・・
スレタイの問いかけだが太閤には謙虚さが決定的に不足していた。これが彼の
死後、政権が崩れ去った最大の原因だよ。そもそも関東の宇都宮氏なんか何で
改易されなきゃなんないわけ?最大の恩人小早川隆景に金吾を押し付けるとは
どんな恩返しなんだよ。利休も恩人だろ?佐々成政への仕打ちも酷いな。お猿
さん調子に乗りすぎたよ。でなけりゃ滅んでないって。
0643人間七七四年
2008/08/02(土) 07:47:35ID:z2wtHtHb小牧・長久手の苦戦を普通とせずに、家康が特別だと考えたのも(半分は事実だが)
問題ではある
あれが普通と考えれば、もう少し謙虚に行動するようになったんだろうが
0644人間七七四年
2008/08/02(土) 07:58:38ID:C6DEvAev0645人間七七四年
2008/08/02(土) 08:00:23ID:UVP43K9/たしかに唯一羽柴が頭が上がらなかったのは家康に対してのみだ。
小牧.長久手の苦戦もその理由かも知れんが、はるか昔、越前金ヶ崎
の撤退戦での恩義が忘れられなかったんだろう。まあ、そういう
ところは太閤のいい所ではあるな。それが結局、(政権の)命取りに
なったんだが、皮肉なもんだね。
0646642
2008/08/02(土) 08:15:09ID:UVP43K9/コピペって>>642と>>565の類似かい。仕方ないだろ>>565書いたの
おれ自身なんだから。文章変えてるし、コピペの意味わからんわ。
おれ豊臣ヲタなんだぜ。否定的な言い方してるが、太閤も豊臣政権
にも思い入れがあるんだよ。それだけにダメなところはバッサリ斬
りたいんだよ。
0647人間七七四年
2008/08/02(土) 09:22:39ID:pU/3IQzQ頭が上がらない、という表現はどうかな。
一目おいていた、だと思うよ、正確には。
撤退戦もそうだろうし、勝家破った時点で、次は家康、なんて
今だから言えるわけで、軽んじて下手に攻撃してたら返り討ちにあってる。
実際にあいかけたし。
そういう適確に情勢と、人物、を見抜いたこと、そしてそれに完璧に対応したこと、
このあたりが秀吉のすごさだな。
謙虚さが足りない、と言うけど1582まではものすごく謙虚で気配りの人
だったんだよね。
晩年におかしくなったのは仕方ないと思うし、跡継ぎを満足に作れなかったのも
まさか自分が天下人になれるとは思ってなかったから、というのの傍証になる。
変の時点で40半ばだしね。
秀吉のすごさはまだまだ語りつくされてないと思う。
晩年のイメージでかなり損してるしね。
0648642
2008/08/02(土) 10:47:02ID:UVP43K9/弟の大和大納言の死も諌める者の不在に直結する出来事だった。
天下を取る前の気配りの人たらしも統一後の独裁もどちらも本当の
秀吉だと思う。苦労の反動か、何かで壊れちゃったのか。しかし、
家康への配慮だけは最後まで篤かったね。信じきってたわけでも
ないだろうが悪意をもてなかった。持たせなかった家康の勝ちだよ。
0649人間七七四年
2008/08/02(土) 11:07:02ID:kHgEhrPD山城摂津に羽柴本家、大和紀伊に羽柴大納言家(直弟)、近江に秀次(縁戚養子)
丹波に秀勝(養子信長四男)
子飼い
尾張に福島、駿遠三に中村堀尾山内、甲斐に浅野
子飼いではないが譜代に近い
備前に宇喜多、加賀に前田、越前に掘、阿波に蜂須賀
この布陣だけみれば少々のことでは天下は揺るぎそうもない
が、見事なまでに次々と死ぬ
0650人間七七四年
2008/08/02(土) 11:49:30ID:x1fjBoe+情勢は見抜いていたかもしれないが、人物はどうかな?
見抜いてたら腹黒狸や風見鶏、ヘタレ猪に基地害虎、総スカンの味噌すり坊主やKY商人とか
変なやからばっかり重用せんだろ?
善政敷いてた甥っ子や政治の能力も高かった茶の湯の達人粛清せんだろ?
唯一家康と対抗できそうなカリスマ軍師左遷せんだろ?w
0651人間七七四年
2008/08/02(土) 14:25:28ID:T9B5UE//身内にたいしてはそうかもしれないね。
人物を見抜く、というのは敵対する人物の能力を見抜く、という意味で
それは大したもんでしょう。
ちなみに信長と光秀を見てるから、あんまり優秀なのは近くに置きたくなかった
のかもね。ちょっと変なやからぐらいのほうが秀吉にしたら使いやすかったかも。
黒田に関してははっきり、危機感、持ってたろうし。
0652人間七七四年
2008/08/03(日) 09:01:30ID:yG6TOhYU0653人間七七四年
2008/08/10(日) 08:58:48ID:GXTJ+uIRもあり結果論かもしれないが)豊臣政権の崩壊を早めたわけだから、まずこれをやらないことだな。
大禄を与えざるを得なかったのは家康は臣従してからは律儀者としてしっぽを出さず、北条責めとかの槍働き
でも活躍したから。しかしそれにしても関東八州は与えすぎ。で、秀吉が関東八州を与えざるを得なかったの
は、小牧長久手合戦時の家康の所領がすでに5カ国の大大名だったから。やはり小牧長久手が引き分けだった
のが痛い。となるとやはり小牧長久手では絶対に家康を叩いておかなくてはならなかった。
となると小牧長久手は秀吉がまだ織田家臣完全に束ねる前に起きておりその意味で時期早尚だったと言える。
前にも少し書いたが、徳川征伐は後回しにすべきだったと思う。
別に完全に滅ぼさずとも軍事的にも秀吉優勢で決着をつければ徳川領甲斐信濃は旧織田領から火事場泥棒
したものだからまず三法師様に返還させてw徳川領は三河遠江の2カ国にしておく。
そうしておけば国替えでもせいぜい武蔵、相模、上総くらい与えればいいだろう(まだやりすぎか?)。
そうしておけば秀吉死語家康のみ他の五大老に比べても突出しすぎることはなかったろうに。
0654人間七七四年
2008/08/10(日) 20:26:05ID:lWEdNFVzそしたら徳川の所領が特に突出することもなかったわけで。
0655人間七七四年
2008/08/11(月) 18:23:08ID:42gAZTaV唐入り成功のあかつきには天皇を北京に御動座申し上げ奉り、太閤自身も
北京に引越し、日本にの関白には宇喜田秀家か織田秀信を就任させると言う
構想が太閤にあったとかどうとか。こんな資料ある?ガセ?知ってる方どな
たかいますか?
もう一つ。蒲生氏郷の松阪から奥州(黒川城)に転封が決まる前のこと。
太閤は諸侯に奥州黒川入府を誰にするべきか入札(他薦の投票のことか)
させたとか。諸侯の人気投票は細川忠興が一位だったが太閤は考え直し、
蒲生氏郷しかいないと言うことで氏郷が黒川城に転封された、と言う逸話。
これも資料ありますか?ガセでしょか?
もしご存知の方いらっしゃればお教えください。ヨロシクお願いしますです。
0656人間七七四年
2008/08/11(月) 18:36:59ID:42gAZTaVのところ、日本での関白の書き間違いです。日本語でオーケーと
自分を叱っておりますればお赦しください。
0657人間七七四年
2008/08/11(月) 20:16:54ID:LPv9/9t60658人間七七四年
2008/08/11(月) 21:41:09ID:42gAZTaVおお早速のレス有難うございます。
濫読が祟り自分の中でソースを確認できない場合が
多くて困っています。図書館でもう一度読みます。
重ね重ね有難うございます。
0659人間七七四年
2008/08/11(月) 22:30:40ID:SUDUxoY+いや、フロイスなんて面白くないから、ここで聞いたほうがはやいよ。
ひまがあったら、なんでも聞いておくれ。
0660人間七七四年
2008/08/17(日) 10:11:54ID:XFtaMfeX長く日本を治めることになってたら
近代日本は見栄を大事に国費を浪費しまくる
国になってたんじゃないかと思った
0661人間七七四年
2008/08/17(日) 12:35:46ID:EbgiiLl0江戸時代だって元禄期のような派手派手もあれば倹約倹約また倹約の時代もある
0662人間七七四年
2008/08/23(土) 10:16:06ID:MqfQP7GE0663人間七七四年
2008/08/23(土) 11:16:49ID:Wb3bMIe6国内の金、銀枯渇前に金や銀鉱山を獲得しないと。
0664人間七七四年
2008/08/23(土) 13:14:26ID:XgG/s7ec0665人間七七四年
2008/08/24(日) 10:06:49ID:0OsdWtZF大野治長との間の子を秀吉の子とたばかった。
秀次を殺害することもなし。
0666人間七七四年
2008/08/24(日) 10:46:59ID:fMsERhRE秀次なら、晩年秀吉があれほどまでに将来を案じ心配することもなかったろうし、滅びたなら滅びたで、
よくある戦国の御家滅亡みたいな感じ。
やっぱり幼君というのは詩になるな。
0667人間七七四年
2008/08/25(月) 00:30:01ID:wHtjjFY5大和郡山羽柴家の取り潰しは意味不明だと思う。
秀保の死因がわけわからないし、後継者がいたのにわざわざつぶす意味がわからん。
大和羽柴家は秀頼の政権継承に害になるようなもんでもない筈。
これで本家を守るべきの大身の一門衆が潰れちまっったわけだし。
0668勝海舟
2008/08/25(月) 00:34:40ID:DBCUH0xY0669人間七七四年
2008/08/25(月) 01:36:39ID:5XHNYCkj0671人間七七四年
2008/08/25(月) 09:29:44ID:bDICp3ST本人はどういうつもりだったのか
さげまんどころの沙汰じゃないぞこれ
0672人間七七四年
2008/08/25(月) 10:45:27ID:QLnlAieF0673人間七七四年
2008/08/26(火) 00:56:34ID:AiK4K8d8陰謀説やら内通説まであるくらいですね。
0674人間七七四年
2008/08/26(火) 02:28:06ID:Nj/Mdsoh明治維新すら今後はあおいちゃんとまきちゃんで語られそうな気がする。
0675人間七七四年
2008/08/26(火) 05:28:17ID:SMLM+c49秀長は果たして病死なのか。
家康は楽になった
0676人間七七四年
2008/08/26(火) 05:30:11ID:NL4yL5+m要は徳川を主として臣従するという決断を、どの時点で誰ができるかって話になる。
やっぱり秀頼次第なんじゃないの。
0677人間七七四年
2008/08/26(火) 17:04:12ID:5rUydZBOただ、どっちみち家康は暗殺かなんかしただろうけどね
清正とかあのあたりも全部暗殺説あるもんなー。
0678人間七七四年
2008/08/27(水) 18:53:50ID:1FgfZWy/大坂城内に残ってたのが七手組だの大野だの片桐だのの小物ばっかじゃあ終わって当然だろ。
秀吉が生きてた頃はいいけど、当主がガキのうちは大坂城内でそれを支えるべき
家執というか家老が必要なのに、大盤振る舞いで皆独立させちゃったから。
天下の豊臣家を内から支えるべき家老を一人もおかないで
徳川や前田が外からなんとかしてくれるだろうなんて甘いシステムが全く機能しなかったからねぇ。
0679人間七七四年
2008/08/27(水) 20:44:51ID:jAjHd4/B関ヶ原が起こって結果的に石田と宇喜多が潰れたが、本来なら彼らが支える位置にいたはずなんじゃないの?
活躍した家臣には支配地域内の領地を与えて統治を任せるのが当然な時代だから、
豊臣生え抜きの家臣も独立ってほどでは無いと思うぞ
というか少なくとも名目上は家康も利家も家老なわけで、豊臣政権のシステムに組み込まれていた
その態勢が脆弱だったのが問題なんであって、外から云々じゃないと思うけどな
0680人間七七四年
2008/08/27(水) 21:26:04ID:04r6+akm当時の慣例からしても、マザコンってのはないんじゃないかな。
今みたいに一緒に住んでいるわけでもないし。
が、発言力は圧倒的に淀の方が大きかったんだと思う。
0681人間七七四年
2008/08/27(水) 21:57:54ID:UsN7G9N+最期まで出陣もしないでママンとお城にひきこもって。
きもぃマザコン。
0682人間七七四年
2008/08/27(水) 22:22:04ID:XI13VxQX皆、やられるがままに、城も領地も明け渡している。
唯一、武力抵抗したのが豊臣家だけ。意地ですな。
0683人間七七四年
2008/08/28(木) 02:24:35ID:/OBrWx+N0684人間七七四年
2008/08/30(土) 06:47:10ID:v5llyoOT0685人間七七四年
2008/08/30(土) 07:11:33ID:bQ2LXszk0686人間七七四年
2008/08/30(土) 07:38:51ID:QGDuVJK40687人間七七四年
2008/08/30(土) 07:54:00ID:bQ2LXszk(史実では池田勝正だ、というツッコミはなしでお願いします)
0688人間七七四年
2008/08/30(土) 13:21:43ID:Wb/OhAhR0689人間七七四年
2008/08/31(日) 10:57:21ID:qQDKtsMG0690人間七七四年
2008/08/31(日) 17:47:17ID:3T+SFQWv0691人間七七四年
2008/08/31(日) 18:08:02ID:VP4H/5Pd0692人間七七四年
2008/09/03(水) 13:24:27ID:ih8VIv8T0693人間七七四年
2008/09/06(土) 20:08:15ID:tZTaaq9m0694人間七七四年
2008/09/06(土) 20:40:07ID:1vcJp+i+それでも武闘派は…ヤハリ東軍だろかね?。
0695人間七七四年
2008/09/06(土) 22:00:06ID:od10d18M武断派の旗頭として秀吉死後に跡目を争うことも可能だった
命あれば再起を狙えたのにそうしなかったのは阿呆やったからだろう
気狂いは家系だろう、秀秋もそうだし
0696人間七七四年
2008/09/07(日) 10:20:53ID:m/oD707M「大和大納言家は秀次に」と言ってればよかったんじゃね?藤堂高虎が秀次にちゃんと仕えるかが問題だが。
0697人間七七四年
2008/09/07(日) 11:11:48ID:AnkJjQ5Dくれていると家康を心底信用していたのかもしれないが、やはりその後の歴史を見ると
死ぬ前に家康を始末しておく必要があった。
でどうするかって?もし家康が秀吉の立場ならどうしたかって考えたら超簡単な方法あるよ。
家康的腹黒脳で考えたらねw
早めに病に伏し(仮病)政権を秀頼じゃなくて家康に譲ると言うだけでよい。
もし引き受けると言えば「謀反じゃあ〜!」、固辞すれば「わしの命が聞けぬのかぁ〜!」
どう転んでも徳川征伐を発動できる。
東海や東北の大名は朝鮮行ってないんだから兵力はあるでしょ?
徳川謀反の一大事なんで、明、朝鮮から有利な条件引き出せなくても講和のメンツも
立つし、引き揚げてくるときの徒労感もなくモチベーションも全然違ってくるわな。
速やかな兵引き揚げもできてまさに一石二鳥にも三鳥にもなる。
徳川の遺領をうまく分配できれば不満分子もなくなり派閥の対立もなくなる。
やはり家康が癌だったか。秀吉存命中に家康処分しておけば豊臣は盤石なりw
0698人間七七四年
2008/09/07(日) 11:17:55ID:AnkJjQ5D家康の尊敬する頼朝もそうやって範頼始末してるから、もし秀吉と家康の
立場が逆だったら絶対にそうしていたはずだ。
やっぱ秀吉は詰めがまだまだ甘かったな。
0699人間七七四年
2008/09/07(日) 11:53:22ID:YuOQKbeBこんなに頭の弱い人は初めて見た
0700人間七七四年
2008/09/07(日) 13:07:32ID:AzrvpKVPなんか、壬申の乱を思い出しちゃったな・・・・・・
0701人間七七四年
2008/09/07(日) 13:38:18ID:AnkJjQ5Dまさにそう。
それが頭にあったからこそ、秀吉が病に伏しても家康は平身低頭、演技を
続けていたんだと思う。
実は仮病でしたって言うのが、糞ちびるくらい怖かったんだろう。www
0702人間七七四年
2008/09/07(日) 18:16:09ID:AnkJjQ5D違ってるだろうな。
義経と違い寡黙に頼朝を支え続けたのに、結局謀殺された範頼ともろイメージいっしょw
秀吉も晩年はひどいことやってるけどそれでもファンは多いけど、これやっちゃうと
頼朝以上にファンいなくなっちゃいそうw
0703人間七七四年
2008/09/07(日) 18:44:49ID:mBvRHQMr0704人間七七四年
2008/09/08(月) 12:43:30ID:Lki0zbnpそうなると家康は堂々と秀頼を殺しに来るぞ。
単なる同族内の家督争いだから、朝廷の介入も「一家の内紛ゆえほっといてくれ」と拒絶できるし、
歴史通りの結末。
0705人間七七四年
2008/09/08(月) 15:33:10ID:S9YfVLcwそうなると、家康が秀頼を殺す理由がなくなるわけで。
0706人間七七四年
2008/09/08(月) 16:03:24ID:Sm/r4x3R大阪の陣と変わらんかも
0707人間七七四年
2008/09/09(火) 13:21:07ID:Hd2E2a4/なかなかいい考えだが、
現実、徳川240万石を改易できるかね。
三河武士は相当強いんじゃない?
0708人間七七四年
2008/09/09(火) 22:09:59ID:YTAoZlXuまだ徳川史観に毒されてる人がいるとはwww
時代を考えてみなよ
小牧長久手の時とはわけが違う
天下人秀吉が命令すれば日本全国の大名を動員できるんだよ。
朝鮮行ってる十何万の軍勢もほんの別働隊。
天下人として蓄財した莫大な財産もある。
しかも天下普請する前の江戸城なんて小田原城に比べても全然頼りにならないだろうし
徳川軍は朝鮮にも行かせてもらってないからこの頃はもう腕なまっちゃってたんじゃない?
東海東北大名の軍で江戸城取り囲んどいて、血に飢えた朝鮮帰還軍が帰ってきたら
みなで徳川フルボッコで終了ちゃうのん?www
0709人間七七四年
2008/09/09(火) 22:57:29ID:gnIl/Yv0唯一やる気が起きるとしたらむかつく三成を討伐する時ぐらいだ
そもそも豊臣なんてのは一体感の欠片もないバラバラな集団を秀吉がかろうじて繋ぎ止めてるに過ぎないから
一度朝鮮で躓いて不満が渦巻けばもう二度と団結することはできない
現に慶長の役からは秀吉が怖いから形だけ戦っているふりをしていただけだからね
0710人間七七四年
2008/09/09(火) 23:14:15ID:YTAoZlXuから。でも現実に朝鮮を見てきた武将達は「こんなチョソのいる土地はいらんわ。
日本がええずら。」ってみんな思ってたのだろう。必死に戦って戦果をあげればあげるほど
朝鮮転封が現実味をおびてくるんだからそりゃ厭戦気分にもなるだろう。
これに対して徳川領は240万石もある豊かな関東平野だよ。
それが東海東北大名の軍で既に取り囲まれてる状態だ。
遅れてきた朝鮮組にもチャンスはある。ちゃんと待たせてあるから。
さあ早い者勝ちで切り取りしだいだ。
そんなこと言われてみろ?おまえならどうする?
0711人間七七四年
2008/09/09(火) 23:33:05ID:VUyBXbYA0712人間七七四年
2008/09/09(火) 23:34:11ID:YTAoZlXu0713人間七七四年
2008/09/10(水) 05:34:26ID:ra/J1ODPより魅力のある要所を押さえているわけだし、秀吉が狂ったならもう見捨ててなんら問題なし。
0714人間七七四年
2008/09/10(水) 12:28:08ID:AjDiwzU3後に豊臣が滅びたこと知ってるからそんなことが言える。
だいいちスレ違いだしw
ここは後に滅んだ豊臣がどうすれば存続できたかを考えるスレ
その時代時代に身を置いてみて(あくまで想定ね)考えることができなければ
答えは何も見えてこない。
0715人間七七四年
2008/09/10(水) 13:03:55ID:PEfDYJ1q秀吉個人が家康に脅威を感じても秀吉政権に尽くしてきた内府を攻めるということが
他の大名にどう写るかわからん秀吉でもあるまい。
>>697は難癖に近いぞ。
0716人間七七四年
2008/09/10(水) 13:04:19ID:r+tZQUT+家康は固辞も承諾もしないよ。
「皆とともに、秀頼様をしっかり支えていきますから」と答えるに決まってる。
関ヶ原以後大阪の陣までの十余年、現実にそれで通したし通せたのだから。
そんな隙のある家康だったら、信長在世中にとっくに殺されてるわ。
0718人間七七四年
2008/09/10(水) 20:33:41ID:AjDiwzU3だから家康脳で考えたらって書いてるだろ?
難癖ばかりつけて他の大名が「えげつなー」思うような仕置きばかり行って
それにより盤石な徳川幕府作り上げたのが家康。
秀吉も締めるときは締めるけど、基本はみんな仲良く、秀吉を中心にみんなが
ハッピーになれる政権を目指したのではないかな。
そうでなきゃみんなで花見だ茶会だのってやるわけない。
でもそれがあだになって大大名が多く不安定な政権になってしまった。
それを反面教師にした家康は難癖つけまくりぃの締めるわ締めるわの恐怖政治
を行い徳川260年の礎を築いた。でもなんだかな〜
やっぱ秀吉に1票。
家康を倒し豊臣家を存続させるのだw
0719人間七七四年
2008/09/10(水) 20:37:06ID:U+J+/ihl鎌倉幕府みたいに
将軍を仮に立てて
豊臣は摂関家としての立場を確立すればいいだけじゃね
摂政政治ぐらいできただろ
0720人間七七四年
2008/09/11(木) 09:10:11ID:BmTJ07rl将軍家に献上し、
和泉14万石の国持大名として存続
官位も正四位下参議か
従四位下中将
で満足
これなら家康も秀忠も呑むやろ
0721人間七七四年
2008/09/11(木) 09:16:29ID:BmTJ07rl豊臣姓も名乗らず
松平賜姓の羽柴か木下で満足
これでどや?
0722人間七七四年
2008/09/11(木) 09:44:08ID:N7hUkJ/B「殺されたくなければ金を出せ」「殺されたくなければプライド捨てろ」ですね。
徳川らしいやり方だ。
0723人間七七四年
2008/09/11(木) 10:54:42ID:T1UOFAma0724人間七七四年
2008/09/12(金) 11:07:54ID:I5235C3Fプライドとはそういうもの。
0725人間七七四年
2008/09/12(金) 21:32:11ID:xaJAyISN秀頼の子の世代まで頑張ってもどうにもならんだろうな
慢性的に豊臣勢には政治力が欠如しすぎてる
まぁトップからして中国遠征とかやりだすぐらいだからしょうがないけど
0726人間七七四年
2008/09/23(火) 00:27:47ID:PVmbkiBX思ってたようだ。
0727人間七七四年
2008/09/26(金) 14:17:34ID:79k/tnmY0728人間七七四年
2008/09/26(金) 15:03:04ID:t6C5J58pそれより家康に全て謙譲するって言えばいいんだよ。
少なくない大名は後に復権できてる。
千姫の婿だし、家康だって後世に汚名の残りかねない非道は
やりたくなかっただろうから後に20−30万石くらいなら余裕で
復権させられるだろう。
なんていっても他大名とのバランスがあるからね。
15万石ってのはあまりに少なすぎだと思う。
一回反旗を翻した立花家だって12万石くらいで復興できてるし。
0729人間七七四年
2008/09/26(金) 17:44:32ID:79k/tnmY後漢みたいに
0730人間七七四年
2008/09/28(日) 13:18:14ID:0A7Ldu570731人間七七四年
2008/09/28(日) 14:36:12ID:9L/fvB7P建前なんだから、その後に勝手に将軍なったり幕府開いたりするのは言語同断であって
すぐに毅然とした態度をとらなかったことが豊臣の滅びた直接の原因。
しかしいかんせんその当時は秀頼はまだ幼い。
このときこそ豊臣恩顧大名が立ち上がらねばならないラストチャンスだった。
関ヶ原の東軍勝利には豊臣恩顧大名が大きく貢献しており、関ヶ原直後はまだ「おれ達が
内府を勝たせてやった」という意識も高かったと思う。それが幕府が成立する過程で徐々に
幕府の締め付けが強まっていき立場が逆転し抵抗できなくなっていった。
やはり家康が将軍になった時点でこれはおかしいとすぐに兵を挙げるべきだった。
すぐに清正とかが黒田、前田、福島と連携してすぐに大坂城に乗り込み家康に対して弾劾
を行い、五大老からの除名、そして家康にボコボコにされた豊臣官僚機構を再編し、
新五大老五奉行を任命し、勢力を盛り返すべきだった。
その頃なら如水もまだ野心が残ってるだろうし力になってくれるだろう。
そして徳川征伐を慣行するのだ。
秀吉存命中であれば家康くらい余裕でフルボッコできたであろうが、この段階ではもうそうは
いかないだろう。
でももう一度日本を二分する第二次関ヶ原くらいは余裕で起こせたはずだ。
家康将軍就任直後に堪忍袋を切らして挙兵しなかったことが本当に悔やまれる。
物言わぬ豊臣は滅びる運命だった。
0732人間七七四年
2008/09/28(日) 16:06:14ID:2PCb0JDX秀吉が関白の時代に将軍義昭が将軍として存在しており、形式上幕府は滅んでいなかった、
足利将軍家に変わって徳川が征夷大将軍となり、豊臣家とは別個に武家の棟梁として幕府を開くのは
先例にのっとっていたともいえる。
0733人間七七四年
2008/09/28(日) 22:16:14ID:bLuWGOhj>関ヶ原直後はまだ「おれ達が 内府を勝たせてやった」という意識も高かったと思う。
逆だ。家康がいたから三成を処刑することができた。
家康がいなければたとえ秀吉の死後でも反三成派が三成を倒すことなど不可能だった。
関ヶ原直後なら「内府のおかげでむかつく三成をぶっ殺せたうえに朝鮮でこき使われた分の恩賞まで頂戴できた」
という意識の方が強い。
家康以外の誰もが豊臣に恩義を感じていたなんて豊臣中心史観の捏造に過ぎないんだよ。
0734人間七七四年
2008/09/29(月) 09:07:19ID:M8brhNYVそれは違うでしょ。
秀吉死後半年ぐらいで反三成は三成を襲撃してる。
それも利家が死んだ次の日ぐらいじゃなかったか。
これからも、反三成派は秀吉個人の仲間の結束さえなければと、三成を襲撃する機会を伺えたのがわかる。
その時は家康が仲裁に入って三成は助かったわけだが、このあたりは家康が非常にうまくやったわけだ。
その時三成がやられていたら、豊臣恩顧の武将がまとまってしまうからね。
これは話がズれるが。
さらに関が原後も、家康がいかに東軍についた豊臣系武将に奪った領地をふるまったか、を見れば
家康のほうが豊臣系武将に気を配り弱気になってすらいた、みたいなことも言える。
豊臣系武将から見たら、自分たちの恩を売りこそそれ、「家康のおかげ」なんて思ってないでしょう。
0735人間七七四年
2008/09/29(月) 12:28:38ID:KtdIaZItまぁ中には俺が勝たせてやったなんて、状況が見えていない武将もいただろうが、家康から領地をいただいたということは
家康の臣下になったと同じこと。
だから大坂側としたら、この時こそ豊臣政権としての主張をする最後の機会だった。
将軍就任の時に何をしようがそりゃ完全に手遅れというもの。
0736人間七七四年
2008/09/29(月) 12:57:32ID:M8brhNYV低姿勢に領地を多めに配ったと言うのも、家康がうまくやったということだと思うんだよね。
領地の前、徳川に加勢した時点で臣下みたいなもんだろうが、先を読んでたということで。
ほんで、大阪方、みたいにまとまりがなかったのも惜しいとこだけど、これは信長や秀吉があまりに
巨大だったからどうしてもその後というのはそういう風になってしまうものなのかね。
その点、家康は偉大だし、人の弱点、欠点をいやというほど観察してたんだろな〜。
0737人間七七四年
2008/09/29(月) 15:41:44ID:OQV/dGRA事実上、徳川の足下と認めたことなんだよ。
つまり、清正や浅野や福島らも関が原前から豊臣政権の存続を
なんとしても守ろうという気概はなかった。
しかし、豊臣を見捨てる気持ちも持ってはいなかった。
いや、秀頼の妻は千姫だし、豊臣と徳川はつながりは多くて
豊臣を大切にすることが家康の意思に反するとは思ってもいなかった。
家康の危険性を見抜いていたのは三成だけだったんだよ。
0739人間七七四年
2008/09/29(月) 22:44:25ID:M8brhNYV重要な要因だから、家康の多いなる野望、危険性、それを感じたというのは理解できるけどね。
上でも書いたけど、襲撃事件の時に三成は家康に助けてもらってる。
その家康についたのが、逆に三成を襲撃した側の七武将なんだからなにおかいわんや。
ま、家康の反豊臣的な行動は秀吉直後からはじまってるわけだから、そのあたりからして
七武将たちがいかに、オマヌケ、だったかは事実で、それに対する形での三成の再評価という
視点になるんだろうけどね。
0740人間七七四年
2008/09/30(火) 00:30:22ID:1zZif5BHその襲撃事件で失脚して蟄居の身分になってるんだが
権力中枢から外されて自身の将来が不安になったんで関ヶ原起こしたとも言えるけどね
襲撃事件で助けを求めた輝元に軍勢を動かしてくれと頼んで断られ、仲介した輝元と景勝は豊臣家の賛同得られず、
結局家康の仲介受け入れ佐和山蟄居になった
その時輝元は(景勝は知らない)不満タラタラだったので、同じ反家康勢力を担いでのクーデターと言えるんだが
0741人間七七四年
2008/09/30(火) 01:54:56ID:oDbuMKfG違うと言うことでいいのかな。
で、結局家康に仲介されてるわけでしょう。
このあたりは、三成からみたら、助かった、ってことではないの?
ほんで、蟄居の身分から関が原まで持っていけたというのは三成の評価としなければならない
だろうし、各人思惑は様々だったろうが、反家康勢力というのには、自身の将来への不安や下心も
あったろうが、やはり、豊臣恩顧、豊臣家自身のことを思う気持ちも十分にあって
そのあたりを三成は活用したのではないか、という感じね。
もちろん、建前もあったろうし、それだけの武将もいたかもしれないが、家康の行動は露骨に
反豊臣だったから、少し先のみえる人たちは三成についた、こういうのを重視して三成は
思ってる以上に豊臣家への忠誠心があったのではないだろうか、というところだ。
末期の時のしぶとさも、自身の損得より、家康についた武将や家康を許さん、そんな風にも
受け取れる。
論点としては、私利私欲のためだといかに豊臣への忠誠心を強調してもあそこまでの大決戦は
起こせなかったのではないか、三成なりの正義はじゅうぶんにあったのではないだろうか、
そんな点だなも。
0742人間七七四年
2008/09/30(火) 02:22:07ID:/rHQbA/M定義があいまいなので多用したくはないんだけど)を脅かしかねん状態だった
んだよね。
三成としては、秀頼体制を守りたかったんだろうねやはり。
0743人間七七四年
2008/09/30(火) 08:19:14ID:gSOGoxMI三成が十分に勢力をかき集めて挙兵しやすいように、家康も陰ながら協力している。
まぁ三成もそれを承知で、戦場で倒してしまえると思ったんだろうが。
家康にとって、自分の野望を適格に見抜き、大会戦を企画してくれる人物は是非とも必要だった。相手がいないと戦さはできないからね。
0744人間七七四年
2008/09/30(火) 08:42:24ID:XoRi1DXkいやがった。
加藤・福島らは豊臣恩顧の国もち大名として、政権が徳川に移るのも致し方なし、
豊臣家は徳川政権で、大名として残ってくれればよいと考えた。
まぁ秀頼が成人して、ふたたび天下を差配できたら最高だけど、そこまで先のことは・・・
とか。
ってことでないかい?
0745人間七七四年
2008/09/30(火) 10:01:41ID:oDbuMKfG三成からしたら、つられたように見せかけて十分に自信があった、というのも確かだろう。
ずっと三成を軽視しすぎのように思うな。
家康はいったん関東に戻って三成挙兵の報を聞いた後も、すぐには動いていない。
もちろん上杉が背後にいるからなんだけど、これからも家康としては危険を覚悟でかなりの
勝負として関が原に臨んでいる。
あの時点では結構イーブンで、その意味でも三成を評価したいとこではある。
加藤たちは、家康が秀頼を本当に盛り立ててくれるとでも思っていたんだろうかね。
将軍として、関白家を尊敬し続けてくれる、と。
本人たちは朝鮮出兵で疲れて、平和な世がくることを望んでいたんだろうけどね。
あ、秀頼は関白にはなってないのは知ってるからね。
0746人間七七四年
2008/09/30(火) 12:35:44ID:ccND25Cbかといって徳川の横暴をみすごすことも政権の終わりを意味する。
豊臣本体の武力が低すぎたんだよ。全国に直轄地があって
効率経営で金はどんどん集まるけど相応の常備兵がいない。
そしてたとえ関が原で三成が勝ったとしても政権運営は大変だったはずだよ。
毛利、吉川、小早川は加増後にいったい石高はどのくらいに
なったかって話で。
あーなんかこれなんか読んだ本の受け売りみたいになってしまったw
0747人間七七四年
2008/09/30(火) 13:28:05ID:oDbuMKfG三成が勝ってたとしたら膨大な徳川系の土地を配分すればいいんだから、そうは問題には
ならないのじゃないの?
ほんで、効率経営じゃなくて、金山銀山たくさん持ってたからお金もちだったわけだし
常備兵がいなかった、というのもあまり聞かない話だな。
0748人間七七四年
2008/09/30(火) 14:16:35ID:2Dr2KcqJ> 三成が勝ってたとしたら膨大な徳川系の土地を配分すればいいんだから、
それはどういう勝利を想定しているんだ?
0749人間七七四年
2008/09/30(火) 15:12:02ID:oDbuMKfGあくまで仮の話だもんでね。
0750人間七七四年
2008/09/30(火) 15:58:43ID:bZ+y/5dT家康が討たれるか捕らえられて、秀忠が輝元なみのヘタレなら有りうるが。
0751人間七七四年
2008/09/30(火) 15:59:26ID:1zZif5BH家康に仲介されたからこそ蟄居の身分になり助かってないのだが、三成が仲介を依頼したのは輝元だしね
しかも三成は輝元に軍勢の動員を依頼しており、これの意味するところは軍事解決
襲撃事件で相手方に対して武力鎮圧を図ってた証であり、これを見ると豊臣家を憂いてとかではなく、
あくまで政権での保身、対抗勢力(この当時で言えば黒田・福島等)の徹底排除を考えていた
で、関ヶ原は宇喜多秀家首謀説もあるし、家康の行動は反豊臣とは言えない(独裁的ではあったが、
それは豊臣政権での話で、豊臣家に対して何らかの敵対行動を取った訳ではない)
んで、後に家康が幕府開いて豊臣家を滅ぼした結果から、勝手に
>少し先のみえる人たちは三成についた、こういうのを重視して三成は思ってる以上に
>豊臣家への忠誠心があったのではないだろうか、というところだ。
と思い込んでるだけ
三成信者なのはわかったから、そんなのはチラ裏でやればいいよ
0752人間七七四年
2008/09/30(火) 16:52:33ID:HoRLKhto後の徳川幕府にとって危険な大名の力を削ぐ役割も果たしてる
ナイスアシスト!
0753人間七七四年
2008/09/30(火) 16:53:58ID:2Dr2KcqJまあ実際、家康自身が、「自分が天下を取れたのは武田信玄と石田三成のおかげだ」って言ってるくらいだからなあ。
0754人間七七四年
2008/09/30(火) 17:02:18ID:oDbuMKfGそういう風に片付けられるとちとつまんないな。
で、家康が豊臣滅ぼしたとか、そういうのは何の関係もないと思うけど。
それに、家康が反豊臣とはいえない、というのがよくわからない。
秀吉の死後、ロコツに反豊臣の行動起こしてるわけでしょう。
一貫して豊臣勢力に対しての挑発をかけて、豊臣内部の仲間割れ状況を作り出して
それが関が原になってると思うが。
話が分散してわかりにくいが、三成が武力鎮圧を図るのは相手がそうしてきた以上当然で
七武将との対抗においてはもちろん自己保身なんだけど、これは「豊臣家を憂いていたかどうか」
とはまた別の話ではないか。
七武将側を、先が読めない、として三成からみたら、家康につくなんてそれこそとんでもない話で
豊臣家に反抗している家康、の敵になる、ということは三成は十分豊臣自体への恩顧、忠義
があったのではないか、とこういう論点ね。
あくまで関が原の時点で語ってるからね。
0755人間七七四年
2008/09/30(火) 17:22:02ID:1zZif5BH例えば?政権内での独裁権の強化ならわかるが、反豊臣とは?具体的にどうぞ
>一貫して豊臣勢力に対しての挑発をかけて、豊臣内部の仲間割れ状況を作り出して
>それが関が原になってると思うが。
思うのは勝手だが、仲間割れを作り出した状況とは?
黒田や福島と、三成や増田などの奉行衆同士の対立は秀吉生前からあったし、、何をもって仲間割れの状況を作ったと言えるの?
>成が武力鎮圧を図るのは相手がそうしてきた以上当然で
だから家康も三成も大した差がないって事だよ
自己保身の延長の話、対抗勢力の排除・権力拡大の行き着く先の家康だったってだけで、
三成も自身の石高や官位の低さ、譜代と言う立場だから家康排除と言う行動に出たまでで、
似たような事は輝元もやってる
>豊臣家に反抗している家康、の敵になる、ということは三成は十分豊臣自体への恩顧、忠義
>があったのではないか、とこういう論点ね。
だから豊臣家に反抗してるってのは三成を美化した言い分だよ、どちらも豊臣家を担いでいるのだから
家康は政権の筆頭で、それに対抗して軍事行動起こすのは、三成ら現奉行衆と対抗する側から言えば、
政権を乱す行為にしか過ぎないんだよ
彼らからすれば三成らの行為こそ政権を専横してる行為に見えるって事だよ
三成だけを都合良く見るから信者って言うんだよ
0756人間七七四年
2008/09/30(火) 18:20:54ID:oDbuMKfGあれ?詳しい人だと思ったからはしょったのだけど、なにか違ったか。
秀吉死後から、禁じられていた姻戚関係を繰り返してる、これが最初に
三成あたりから「違約」と咎められたわけでしょう。
それをとぼけてさらに開き直ってケンカうったりしてる。
この時すでに、豊臣方は二つにわれてしまってるでしょう。
このあたりは秀吉生前からあった対立が明確になったわけで、こういうのをまとめて
反豊臣的行動、仲間割れを作り出した、と表現したのだけど。
で最後の、どちらも豊臣をかついだ、なんて家康は明らかに建前、大義名分、でしょう。
豊臣を担ぐ気なんかあるわけないでしょう。
秀吉生前、家康とどういう関係にあったかは知ってますよね。
この二人は合戦までしてるんだから、家康はずっと反豊臣、であるわけですよね。
だからこそ、秀吉死後すぐに行動おこしたわけだし。
三成を都合よくみる、とか、信者、とか、そういうレベルの話ではないのだけど。
悪いが「家康も豊臣家をかついだ」なんてマトモに言ったら・・・・・だぞ。
そういう前提だと、こりゃ、どうしようもないが・・
0757人間七七四年
2008/09/30(火) 18:22:26ID:2Dr2KcqJ> この二人は合戦までしてるんだから、家康はずっと反豊臣、であるわけですよね。
> だからこそ、秀吉死後すぐに行動おこしたわけだし。
ゆがんだ認識してるねえ
0758人間七七四年
2008/09/30(火) 18:26:48ID:bZ+y/5dT秀吉が生きてれば秀吉の権力を脅かすことはできないけど、
逆にいうと秀吉からここまではやっていいよというお墨付きを得て行動できるわけだから。
その保証人が死んでしまうと家康が豊臣政権の実質的なNO.1になってしまう。
その上に豊臣政権自体が秀吉のワンマン政権であり晩年の5大老みたいな職制は所詮急ごしらえで、
家康にとって自分に有利に機能するかどうかはあやしく信用できなかったんだろう。
それまでの実力でいけば家康と対等といえるのは秀吉の引き立てがあった前田利家ぐらいで、
三成や秀家たちとは家康も比べられたくはなかったんだろうが、
三成や秀家たちは秀吉の遺言という形で対立する姿勢を見せていたので、
やられる前にやれという戦国の理論で謀略をめぐらせたんじゃないの。
それと関が原の勝利よりも輝元の大阪城退去のほうが家康には大きかったんじゃないかな。
家康なら戦はある程度の順序を踏めばおこせるけど無血の上に実質無条件退去なんて
今考えてもとんでもないことだわ。
0759人間七七四年
2008/09/30(火) 18:33:42ID:2Dr2KcqJ> 輝元の大阪城退去
輝元は本国空けてるから、時間がたてばたつほど
九州と近畿から本領侵食されてジリ貧になるだけですよ。
それに大阪城もお世辞にも一枚岩じゃ無いし。
意思統一されていない城で、しかも援軍の当ても無いわけで。篭城なんて無理無理。
0760人間七七四年
2008/09/30(火) 18:42:42ID:oDbuMKfGゆがむ、って・・
>>758
利家も重要な存在で、秀吉個人の友達みたいな利家をみかたにつけたということは
家康からみて、豊臣家に何の遠慮もいらないのですよね。
それと少し認識が違ってるから確認しておきたいけど、家康は五大老と言っても明らかに
格が違う。
信長とは対等の同盟をしていて、実質臣下だろ、みたいに言う人も多いが、秀吉配下の武将からみたら
最初から武家の生まれだし、その意味では主君秀吉よりも出自もしっかりしてるし、主君の主君の
同盟相手、ということなんだ。
輝元退去あたりも、戦国3大バカ殿にあげる人もいるよね。
でもやっぱり、関が原では危なかったわけだし、あそこでの勝利は大きかったんじゃないかな。
戦は起こせても勝てるかどうかは別問題だからね。
0761人間七七四年
2008/09/30(火) 19:24:59ID:7S6WIAChこれは一つの見方ではあるけど、必ずしも事実とは限らないよね。
臣従以降はずっと「律義な内府」で通してきたわけで、秀吉生前から野心バリバリだったと断ずる根拠はないんだし。
約定破っての婚姻も、単なる派閥作りで始めた事だった可能性は否定出来ない。
派閥作り=反豊臣ではないし。
関が原で勝った結果断トツの権力を持つようになったわけで、そのときになって初めて、
「あ、もう豊臣とかいらねえな。じゃ、自分で幕府開くか」
と考えたという可能性も否定出来ない。
最終的に家康が豊臣を滅ぼしたからって、徹頭徹尾「反豊臣」だったとは言い切れないぜ。
最初は鎌倉幕府みたいに執権政治を狙っていたのかもしれないんだから。
当時の北条氏を「アンチ源」とは言わないでしょ。
そういう可能性を頭から否定しているから「ゆがんでる」と言われているのでしょう。
0762人間七七四年
2008/09/30(火) 19:28:04ID:1zZif5BHその婚姻の件だが、これのどこが「反豊臣」なの?
これは家康の豊臣政権の中での権力強化の一環だし、その婚姻の件も反故になった
で、これに関して豊臣家から何らかの咎めあったの?
七将襲撃の件でも家康は豊臣家から支持を得られていたので、ああいう裁定を下せたんだよ?
君が「反豊臣」だと言うのは、あくまで家康が幕府開き豊臣家を滅ぼしたのと、関ヶ原のおりの三成らの大義名分に過ぎず、
この行為を豊臣家に対する反意だと見ていない
反意とするなら、その後も豊臣家の支持を得られてない
君は豊臣政権内での権力争いを、三成らを豊臣とし、家康を反豊臣と摩り替えてるんだよ
>この時すでに、豊臣方は二つにわれてしまってるでしょう。
>このあたりは秀吉生前からあった対立が明確になったわけで、こういうのをまとめて
>反豊臣的行動、仲間割れを作り出した、と表現したのだけど。
秀吉生前から明確に対立してるけど?これを作り出したなんて見当違いも甚だしい
反豊臣は上記参照
>悪いが「家康も豊臣家をかついだ」なんてマトモに言ったら・・・・・だぞ。
関ヶ原の折も担いでたんだが?
君は三成に関しては建前の豊臣家の為とか言いながら、家康に関してはその後の行動からの本音として、
反豊臣としているに過ぎない
だから君は信者と言うんだよ
つか輝元の大阪退去を非難してるのは何も知らない人だけ
0764人間七七四年
2008/09/30(火) 20:12:17ID:1zZif5BHその際、石田三成はどうしたでしょう?>>763
0765人間七七四年
2008/09/30(火) 20:16:07ID:xCe58/ZAあれで家康は秀吉の価値を考え直し、秀吉も降し難いと見て家康に人質攻勢をかけることになった
豊臣政権の体制にも関わる政治的にも大きな戦いですね
0767人間七七四年
2008/09/30(火) 20:17:31ID:oDbuMKfGだからさ、どうして秀吉死後以降の話に限定するの?
ずっと、小牧長久手からの関係を見ていれば、反豊臣、でしょう。
婚姻の件でも、権力強化、なんてのは建前だし、実際に禁を破ってる
わけでしょう。
ほんで豊臣家って秀頼は子供だし、名代として三成が「違約だ」って咎めてるでしょう。
わしは、別に豊臣政権内の話なんてしてないってば。
それをそちらが、ものすごく限定して、秀吉死後の話にしてるわけでしょう。
で、繰り返すが、家康が関が原で豊臣家をかついだ、ってこんな建前、社交辞令、お世辞
本気で受け取ってるの?
実際にその後もかついでるどころかどうしたか知ってるよね。
しかもこんな初歩の解釈問題で、信者、とかわけのわからないレッテル張りするのが
いくら2ちゃんでも不思議だ。
ほんで、生前から対立してた三成と加藤らが、実際に一触即発、つまり武力衝突の寸前までいったのは
家康が「婚姻問題」でその契機を作ったわけでしょう。
どんな政権だって意見の対立ぐらいあって、それが実際に行動に結びついたのは家康が契機、でしょう。
細かい点はともかく、関が原で家康が豊臣をかついだのは、本音か、建前か、これだけ答えてくれないか。
0768人間七七四年
2008/09/30(火) 20:20:22ID:2Dr2KcqJ小牧長久手の「敗戦」で、秀吉は、自分の政権の方針を大幅に変えざるを得なくなった事が最近はわかってる。
あの戦争は実際の話、家康よりむしろ秀吉の方に大きな影響を与えた。
「関白」による朝廷権威を背景とした武家支配と言う、不思議な体制をとることになったのは、すべて
小牧長久手が原因。
0769人間七七四年
2008/09/30(火) 20:21:48ID:2Dr2KcqJ小牧長久手の段階で、「豊臣氏」なんて人はおりません罠w
つーか君、ちょっと前に本能寺スレとかで暴れてた人?書き方がそっくりなんだが。
0770人間七七四年
2008/09/30(火) 20:21:57ID:1zZif5BHだから、君が三成を忠誠だ何だってのも「建前」に過ぎないって事だよ
家康の行為が建前に過ぎないって言うのは、後の行動を知っているから
だから三成を建前だけで賞賛し家康はその後の行動から「本音」はこうだと決め付け言う、
一方的な決め付けするから信者だと言ったの
その理屈がわからないの?
こんなの初歩の解釈なんだが
0771人間七七四年
2008/09/30(火) 20:23:41ID:1zZif5BH0772人間七七四年
2008/09/30(火) 20:25:33ID:oDbuMKfGだから、他の例、ではなくて秀吉と家康の関係の話ですよ。
家康からみたら、豊臣家倒せば自分が天下人でしょう、それは小牧長久手から続く
願望でしょう。
だからこそ、秀吉死後、すぐに禁を破って行動起こしてる、くりかえしだが。
シンプルにこたえてくれないか。
家康は1584からずっと関東移動、臣下の礼、と秀吉には屈辱的なことをされ、辛酸をなめてきた。
この家康が、関が原で豊臣家をたてる?
信じられない論理だが、家康はずっと豊臣に対して反抗してきた、このわしの
結論を、違う、というの?
こんなのは、歴史解釈の初歩で常識で共通理解と思ってきたぞ。
何十年も。
違うのか〜〜。
0773人間七七四年
2008/09/30(火) 20:29:34ID:1zZif5BH>、豊臣家倒せば自分が天下人でしょう、それは小牧長久手から続く願望でしょう。
んな妄想で決め付けられても・・・
>家康は1584からずっと関東移動、臣下の礼、と秀吉には屈辱的なことをされ、辛酸をなめてきた。
>この家康が、関が原で豊臣家をたてる?
思いっきり立ててるんだがね、何を勘違いしてるんだ?
関ヶ原は豊臣vs徳川と勘違いしてるのかな?戦後、豊臣家を守ったので戦勝祝賀まで受け取ってるがw
0774人間七七四年
2008/09/30(火) 20:30:17ID:oDbuMKfG三成を賞賛なんかしてないってば。
ただ、軽視しすぎでないか、という点から、忠誠心「も」あったのではないか、と言ってる。
家康も、その後の行動、ではなくて、ずっと小牧長久手以降、と言ってる。
頼むから、一方的に誤読しておかしなレッテルで言わないでくれないか。
こちらは、同じこと何回も繰り返してるでしょう。
0775人間七七四年
2008/09/30(火) 20:31:18ID:xCe58/ZA「律儀な内府」が幕府を開き豊臣を滅ぼしたように、
「豊臣の忠臣」がどうするかなんて判らん。
ボンクラ毛利輝元とお坊ちゃん宇喜多秀家がいる以上権力争いからの内紛になる可能性が高いよ。
これという調停者もいなくなったしね。
0776人間七七四年
2008/09/30(火) 20:35:02ID:1zZif5BH小牧長久手以降なら、「律儀者」で通り、秀吉の遺命で豊臣政権の第一人者で政権筆頭の立場だった家康ですが?
君のは結果からくる後付
0777人間七七四年
2008/09/30(火) 20:35:14ID:oDbuMKfGわしもだ。
関が原は、西西合戦というのでしょう。
だからこそ、家康は、どちらが秀頼の後継となるか、いう建前を利用して、西同士を争わせ、
それを利用して自分が天下人、将軍となったわけでしょう。
最後にはその秀頼をも殺してるし。
家康が最後に豊臣家を抹殺したことをどう判断してるの?
これは結果じゃなくて家康の一貫した行動の最終と思うんだが。
0779人間七七四年
2008/09/30(火) 20:37:17ID:2Dr2KcqJ> 家康が最後に豊臣家を抹殺したことをどう判断してるの?
> これは結果じゃなくて家康の一貫した行動の最終と思うんだが。
一貫してないよ。近世初期ならそこらへんに手ごろな研究書がたくさんあるから、読んで勉強してください。
0780人間七七四年
2008/09/30(火) 20:40:02ID:oDbuMKfG建前や社交辞令、をそのまま史料通り受け取り、そのまま、解釈した研究書なんて
何の意味もないでしょう。
でも、そちらの立場も少しわかったような気がする。
そういう研究書をずっと読んできてるわけでしょう。
0781人間七七四年
2008/09/30(火) 20:41:16ID:1zZif5BH君の理屈は秀吉が後に関白になって天下取ったからという理由で、
織田家に仕えてたのは〜というのと同じだと言う事に気づけ
ちなみに家康は豊臣家を当初から滅ぼすとはしていないが?戦勝後も臣下の礼を取り続けてるが?
>>778
本心かどうかの問題じゃない、では三成のが本心だと言う根拠は?
問題を摩り替えすぎ
0782人間七七四年
2008/09/30(火) 20:41:41ID:2Dr2KcqJ0783人間七七四年
2008/09/30(火) 20:42:32ID:xCe58/ZA豊臣が頭を下げた上で力を削げばいいと思ってたのは、大阪の陣前の行動で明らか。
それを自分たちの力を勘違いした豊臣氏が暴走して自滅しただけ。
滅ぼすなら70過ぎまで様子を見る必要はない。
秀忠に将軍をゆずったぐらいで行動を起こせたはず。
>建前や社交辞令、をそのまま史料通り受け取り、そのまま、解釈した研究書なんて
>何の意味もないでしょう。
それはあなた自身の説がそうでしょう。
0784人間七七四年
2008/09/30(火) 20:43:08ID:1zZif5BH>>764の問いにも答えられないぐらいだしね
0785人間七七四年
2008/09/30(火) 20:45:36ID:oDbuMKfG三成も、本心があったのではないか、と言ってる。
だから、三成は私利私欲100%、と言われれば、それまでだ。
ただ、途中から家康の話になったが、家康に関しては『律儀もの」や『臣下の礼」を
取り続けたのが本心かどうか、は重要な問題と思うぞ。
0786人間七七四年
2008/09/30(火) 20:47:55ID:1zZif5BH本心なんて全然重要じゃない、周囲はどう見ていたかが重要
秀吉以下が律義者として信用し、信頼度は抜群でした、以上
0787人間七七四年
2008/09/30(火) 20:48:25ID:oDbuMKfGいや、ちがうぞ。
わしは、それにはまず疑問を考える立場からはじめてるから。
というわけで、楽しかった。
783についてはいろいろ解釈があるが、またの機会にしようか。
0789人間七七四年
2008/09/30(火) 20:49:43ID:gSOGoxMIそのことについて、一切ブレはない。
豊臣家を完全に滅ぼすかどうかは、あくまで徳川の天下の障害になるかどうかの話で、天下運営の実務上の話。方針ではない。
0790人間七七四年
2008/09/30(火) 20:51:16ID:oDbuMKfG悪い、じゃもうひとつだけ。
家康が豊臣を殲滅する意思があったかどうか、という問題だから、本心が重要だと思うけど。
周囲がどうみているか、じゃないでしょう。
こういうように、いつも答えがズレてかえってくるのだよね。
0791人間七七四年
2008/09/30(火) 20:52:43ID:1zZif5BH三成は「等持院文書」で
太閤御渡海ニ相究リ候ヘ共 家康前田 御勿躰無きの由申され 中ニモ家康達て申され候
石治ハ迚も御越し候はゞ 此度然るべきの由申され候 御前に於て事外存分共ニ候
家康ハ兎角 前田と両人差越され 上の御存分仰せ渡さるべく候 当月来月ハ不慮の風御座候由候間
御一人自然の儀候ヘハ天下相果つる由申し上げらるニモ御合点ニ候
と秀吉の渡海に反対する家康・利家と激論を繰り広げてる、三成は秀吉の渡海推奨派なんだよね
家康は秀吉に万が一あれば天下が果てると押し留めてる
どっちが忠義に見えるでしょう?
家康が小牧長久手から一貫して反豊臣?
笑わせるのもいい加減に(ry
0793人間七七四年
2008/09/30(火) 20:55:32ID:oDbuMKfGありがとう。
最後に秀頼を殺したのは、豊臣家という天皇賜姓の直系男子の血を絶やす必要があった、
という天下運営の実務上の話、が出来てよかった。
これは家康が源平に詳しく、頼朝の故事に学んだもの、というところまでね。
0794人間七七四年
2008/09/30(火) 21:00:57ID:oDbuMKfGそうそう。本心はわからない。
また文書が残ってても本心かどうかはまた別の話。
だから、そのあたり詳しい人に、本心はどうだったのだろう、ときいてみたかったんだけど、
結局そういう、史料でしか語らない、という立場の人、ということがわかってきて、ね。
792さん自身はどう思われてるか、聞きたかったのだけど、本心はわからない、というのなら
それでおしまいにしましょう。
ただ、家康が小牧長久手から、反秀吉、にしておくね、反豊臣じゃなくて
という立場はかわらないから、またどこかで意見がぶつかるかもしれない。
そして、それはわしだけじゃないから、こなくていい、みたいなのはなしにしよう。
0795人間七七四年
2008/09/30(火) 21:03:35ID:xCe58/ZA史料抜きでもわかるエスパーさんですか?
0796人間七七四年
2008/09/30(火) 21:05:16ID:1zZif5BH>豊臣家という天皇賜姓の直系男子の血を絶やす必要があった、
>という天下運営の実務上の話、が出来てよかった。
こんなの主張してる人皆無だし、このスレでそんな話の欠片もない
ついでに反秀吉なんてのもどこにも根拠がない、本心は定かではないが、
史料から示す通り、従順かつ律儀に豊臣家に従属してる
それを何の根拠も示せずに只管「ただ、家康が小牧長久手から、反秀吉、にしておくね、反豊臣じゃなくて」
と言われても、それを推測させるものが秀吉死後の行動でしかないなら、結果論で何でも語れるんだよ
つか、根拠ない憶測で決め付け語る輩とは議論にもならんね
0797人間七七四年
2008/09/30(火) 21:15:32ID:oDbuMKfGそう、たぶん聞いたことのない話でしょう。
でもだからと言って、わけわからない、と言わずに少し考えてみてくれないだろうか。
詳しい人にこそ、聞いてみたいんだ。
こういう説も昔からあるわけで、自分が聞いたことない、このスレでも出ない、からといって
全く意味がない、とはいえないですよね。
791に軽く答えると、家康が秀吉渡海に反対したのは、秀吉が行くと自分も行きたくないのに
断れなくなるから、なんて単純な答えでどうでしょう。
>>795
史料から推測、もだけど、史料に書かれてることがすべて本心本音とは限りませんよね。
だから、行動、から推測する、というのもありと思うのですよね。
というか、合戦とか当時は殺し合いにまで行ってしまうわけだから、行動こそが「本音」という
解釈なんですよね。
こういうのについてはどうでしょうか。
これは、歴史解釈の手法の問題として、聞いてます。
そうそう、従属してる、のは事実ですが、本心はどうでしょう、という観点から
秀吉死後の家康の行動はどうでしょう、というように一貫して言ってるわけですよね。
お互いの基本手法が異なることを理解した上で、「根拠ない憶測」とか「結果論」ではないことも
理解していただくとうれしいですけど。
0798人間七七四年
2008/09/30(火) 21:26:22ID:xCe58/ZA史料に書かれてない行動なんかどこから引っ張りだすんだ?
やっぱりエスパー?
0799人間七七四年
2008/09/30(火) 21:33:48ID:oDbuMKfG別に史料を軽視してるとか、ウソ、とか言ってるのではなくて、より正確に判断するには、という
問題です。
だから、行動、が重要と言う立場なんですよね。特に合戦みたいな行動がね。
で、直系男子の血を抹殺、の話ですけど、これもいつか時間あったら教えてください。
源平にまで話が戻りますけど、家康の行動はそれを意識している、という推論です。
15年ぐらい前にはよく語られた説なんですけど、ご存知ない、というのには年齢ギャップを
感じますね。
0800人間七七四年
2008/10/01(水) 00:56:30ID:V5J5Vagn>こういう説も昔からあるわけで
では誰が唱えた説なのか、またどのような根拠を基に構築された拙論なのか説明すればいい
根拠もわからない一方的な話持ち出して「こういう説もある」なんて言われても誰も信用しないし、
議論の対象にもならんよ
極論言えば、何も知らない小学生なんかが言ってる戯言でさえ説になるから
>家康が秀吉渡海に反対したのは、秀吉が行くと自分も行きたくないのに
>断れなくなるから、なんて単純な答えでどうでしょう。
何が単純なのか理解できないが、そういう答えにしたいなら、
秀吉が渡海すると家康もしなければならないのを証明してから
君のはこういう風に一事が万事、憶測でしか答えてない
君のこじつけ方だと、小牧長久手で戦ったから以降は反豊臣なら、秀吉と敵対した大名全て反豊臣
大坂の陣で徳川に多くが味方したから、秀吉譜代の多くも反豊臣
>15年ぐらい前にはよく語られた説なんですけど、ご存知ない、というのには年齢ギャップを
>感じますね。
ならその拙論を紹介すればいい、自分は聞いた事もないけどね
0801人間七七四年
2008/10/01(水) 02:03:34ID:TSTYquRUたまげたな。
0802人間七七四年
2008/10/01(水) 16:07:53ID:9LMPCjgj0803人間七七四年
2008/10/01(水) 21:28:28ID:PoTrud0K・わしは大野治長の息子、これからは大野治頼と称します
0804人間七七四年
2008/10/02(木) 13:52:32ID:pye+Z8sj意地を張りすぎた女(淀)の浅はかさが、豊家を滅ぼした。
0807人間七七四年
2008/10/03(金) 02:27:17ID:NdI7ybOG0809人間七七四年
2008/10/03(金) 12:55:09ID:YkJqjbi+0810人間七七四年
2008/10/03(金) 13:03:19ID:pFcz+0GQ0811人間七七四年
2008/10/03(金) 13:15:55ID:NdI7ybOG織田一族にも位や領地与えた良い家臣になってる。
信孝殺しとかは、信雄がやった、だとか。
0812人間七七四年
2008/10/03(金) 13:19:20ID:pFcz+0GQミクシーなんぞ好きな奴が集まってるだけだから、議論が深くできるはずもないけど、
そこまで行くと気色悪いな。なんかの信仰みたいだ。
0813人間七七四年
2008/10/03(金) 15:02:22ID:NdI7ybOGゲーム感覚ならそれはいいんだが、ちゃんと自分の頭で
「成果をあげたことで恩はかえした」とかいろいろ言ってくるから
マジすごいわ。
今時の若者はあんな風なのかな。
0814人間七七四年
2008/10/03(金) 15:33:46ID:pFcz+0GQ0815人間七七四年
2008/10/03(金) 16:23:08ID:NdI7ybOG「楽市楽座をはじめた天才信長」「六角では?」「いいじゃないですか、そんなこと」と
もめてたりする。要は、あなたなんかには信長の天才ぶりは理解できません、だそうな。
・・2ちゃんよりある意味すごいぞ。
0816人間七七四年
2008/10/03(金) 16:49:53ID:35GFzvRM自分で手を汚したくはなかった秀吉だから、信雄次第で信孝も生き残れたろうし。
0817人間七七四年
2008/10/03(金) 17:00:02ID:pFcz+0GQ秀吉の体制って、今秀吉が好きだなんていっている人間が、まともに暮らせる世界じゃ無いと思うけどね。
例えば裁判とかでも、ちょっとややこしい内容になると、すぐに湯起請(熱湯の中に手を突っ込む)とか
火起請(熱した鉄を握らせる)をやらせる。
そりゃあ前の時代にも江戸初期にもそれはあったけど、秀吉の時代はやたら裁判の決着をこれでつける事が多い。
きちんと調べると秀吉の時代って、物凄く生き難い社会だったってことがわかると思うのだがなあ。
0818人間七七四年
2008/10/03(金) 17:20:58ID:NdI7ybOGてかさ、天下取りには逆臣の汚名は邪魔だから「いったんは許し寺に預ける、それを
殺したのは信雄、織田家再興のために秀吉は手をかしただけ」というのは「秀吉一流の
情報操作でしょ」とマジレスしたりするとそっからがすごい。
ま、しばらく上のほうでも「このスレでもきいたことない」というのには笑ったけどな。
0819人間七七四年
2008/10/04(土) 08:13:03ID:nvCWGnYh家康・・・天下簒奪して万全な状態になってから、平穏に暮らしていた母子に因縁付けて20万の軍勢で取り囲んで主家殺し
後生にアンチ家康を大増殖させる原因になったね。
十数年も待ったくせにやり方が超ヘタw
0821人間七七四年
2008/10/04(土) 09:59:37ID:Cjk809U/秀吉没後〜関ヶ原前後なんてふるにその立場を利用し主君と仰いでいた人
これを用が無くなったらポイ捨て
果てには因縁つけて血筋ごと滅ぼす
せめて直で主筋とは言えない秀忠の代でならまだわかるんだが家康の代で
こういうことをするのがね
表面的には2代将軍の御世ではあるけどどうみても家康の御世だし
0822人間七七四年
2008/10/04(土) 10:31:57ID:yPeOuI4m0823人間七七四年
2008/10/04(土) 19:51:47ID:DXWBgJX7日本で英雄が生まれなかった結末に・・・
もし家康が豊臣を残してたら
基本的に英雄だよ。
武田信玄と戦い
織田信長を助け ひどい目に合わされても耐え
秀吉を破り
朝鮮出兵もせず
豊臣を助け 盛り立て
基本的に虐殺なんてしないで
太平の世を築いた
それを自らの寿命だからか焦り、陰謀をもって叩き潰した
日本の歴史を刻んだ 「た ぬ き お や じ」 として
0824人間七七四年
2008/10/04(土) 20:27:52ID:IfYw1Jar0825人間七七四年
2008/10/04(土) 20:42:11ID:WrNTfTqP淀が人質に出ればよかっただけ。
他の大名が人質差し出しているところに、豊臣家だけが拒否してそれを黙認すればそれこそ天下人の資格なし。
みなからこぞってなめられるのは明らか。
0826人間七七四年
2008/10/04(土) 23:50:21ID:3V5l8nbV戦国を生き抜いた家康には我慢できなかったんだろ
0827人間七七四年
2008/10/05(日) 10:17:24ID:uMOxnMD5秀頼が将軍就任のお祝いに下向した時点で
豊臣は徳川傘下に入ったことだよ。
清正も浅野もあれで豊臣家が残れるってふんでたはず。
家康は明らかにあせっていた。(これはいろんな書籍でもよくある見方だよね)
時間をかける余裕も、度量もなかった。
秀頼って金は持ってるがたかだか60万石そこらの大名だよ。
千姫の婿なんだし 七手組とか豊臣の幹部には徳川の息のかかった人間が
山といたのに反旗なんてあげるわけもなく
なんであんなに警戒したのか・・・
0828人間七七四年
2008/10/05(日) 10:23:50ID:brlS+hoA秀信はなんだかんだで十万石程度しか与えられてなかったな
信孝は殺され、信雄は転勤断って改易か
臣従するってのはそういうことだ
それを断ってなお生き残れるなぞ、ありえん
0829人間七七四年
2008/10/05(日) 11:06:44ID:Gmlk1daZそれを受け入れる度量がアホ淀にもマザコン秀頼にも無かったという
だけの話だわな。
0830人間七七四年
2008/10/05(日) 11:57:42ID:AeEg7JdR秀忠の代で改易される可能性大。
家康が動き出す前に自ら大阪開城申し出た方がよかったのでは?
関ヶ原直後や家康将軍宣下直後では家康に押し止められる可能性大なので、秀忠将軍就任後に申し出る。
そうすれば有利な条件で移転先も選べたのではないか。
移転先はやはり豊臣恩顧大名の領地と接しておきたい。
具体的には備後あたりがベスト。
福島を頻繁に呼びつけて再教育w
豊臣恩顧大名との結束再強化できるし、万が一幕府に攻められても豊臣恩顧大名頼ったり、海路で逃亡しやすい。
0831人間七七四年
2008/10/05(日) 11:58:06ID:KW0qz/A7天下の堅城の大阪城に寄っていたのと、大阪城が豊臣の
シンボルだから、禍根を断ちたかったんだろうな。
0832人間七七四年
2008/10/05(日) 12:15:08ID:UGiXQn2e0833人間七七四年
2008/10/06(月) 06:59:13ID:k3wQqxDs十何年もじっくり時が来るのを待って、準備に準備を重ねて実行してる。
そのある程度長い時間の中に豊臣方としても生き残るチャンスがあるのだろうし、
このスレはそれをみんなで考えるスレ。
もちろん、そんなやり方じゃ生き残れない等の反論は大いに結構。
0834人間七七四年
2008/10/06(月) 07:49:33ID:tRFa/m6y淀や三成は秀吉の行為に誰もが感謝していると本気で勘違いしていた面がある
現実を無視した言動に終始すれば支持を失い家康が有利になるのは明らか
まず朝鮮で苦労をかけた大名に頭を下げて謝罪し二度としないから許してほしいと懇願するべき
そこで秀吉の恩を高飛車にふりかざしたのが豊臣の最大の敗因といっても過言ではない
0835人間七七四年
2008/10/06(月) 09:46:19ID:uKBhvrK7反抗を叫んでも一人の大名すら大阪城に参集しなかった事が、「豊臣政権」というものに対する
世間の評価だわな。
食い詰め浪人以外、まっとうな「生活者」は誰一人として、「あの時代には戻りたくない」って考えてたんだよ。
0836人間七七四年
2008/10/06(月) 10:17:17ID:kHwktDAuそれは定説なん?
0838人間七七四年
2008/10/06(月) 12:37:35ID:kHwktDAuありがとう、なんだ小説か〜。
長年あちこちで種蒔きまくっても実らなかったのに
淀との間でだけ二回も子ができるって変だよなあとは思ってたからさ、
ちょっと食い付いてしまった。
0839人間七七四年
2008/10/06(月) 12:40:46ID:uKBhvrK7つーか、秀吉には、近江時代に石松丸って実子が生まれてる、夭折したけど。
秀吉が種無しだったわけじゃ無いようだ。
0840人間七七四年
2008/10/06(月) 12:51:56ID:nv5Uhsr6当時の北海道はほとんど未開の地だったし
徳川にとっても何ら興味がないので
代替わりしようが豊臣を討つため策略なんてしないだろう。
対して豊臣は北海道東北に城を築き、いずれ千島列島や
択捉を支配すればいい。
8千の兵力でも十分だろう。
0842人間七七四年
2008/10/06(月) 22:51:08ID:GDCefYoo0844人間七七四年
2008/10/06(月) 23:03:38ID:uKBhvrK7あのころの徳川幕府はまだ大樹と言うほどではない。実態はまだ東国政権。西方はギリギリ近江までしか
直接支配できていないし、近畿以西には譜代を入れることすら出来ていない。
豊臣家に西国大名が2,3固まれば、日本を東西に分断できた可能性もそう低くなかった。
0846人間七七四年
2008/10/06(月) 23:28:50ID:uKBhvrK7そりゃ最大と言えばそうだが、逆に言えば「最大でしかない」とも言える。
後鳥羽上皇の承久の乱ですら、有力御家人が何人か上皇側についたことを考えれば、
義理でも大阪城には集まらなかった、豊臣政権というものへの、諸大名のある種の感情を
把握できるんじゃないかな?
0847人間七七四年
2008/10/06(月) 23:44:41ID:Pp0h7JI2まぁ、恩を感じてた奴らがあらかた死んで、二世三世が大名やってる時代だからね。
本当に家康はツイてる。親豊臣派大名暗殺の証拠となるモノはないけど、そう疑わざるを得ない。
0848奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2008/10/06(月) 23:46:00ID:Zy8aiRQk0849人間七七四年
2008/10/07(火) 00:03:02ID:zk5rrWVw藤堂や前田なんて真っ先に尖兵になって攻めまくってるよな
秀吉及び豊臣家への恨み晴らしとしか思えない
>>847
加藤嘉明とかいっぱい生き残ってるよ
0850人間七七四年
2008/10/07(火) 00:10:14ID:caQyWuTM無論政権に対するよいしょはあるにせよ、徳川の時代に入ると、文章とかで残っている庶民や庶民に近い階層の
平和への喜び方が具体的なんだよね。
農民が「これでむざむざと殺されるようなことのない世の中になった」、とか。
0851人間七七四年
2008/10/07(火) 00:11:00ID:H3UY/Qgwまぁ、いるにはいるがおそらく…
死んだ奴>生きてる奴
だと思うぞ?
特に、加藤清正、浅野幸長、前田利長、結城秀康、真田昌幸など…
昌幸が親豊臣というわけでないのは知ってるよ?念のため…
0853人間七七四年
2008/10/07(火) 00:30:47ID:H3UY/Qgw清正、幸長は二条城会見の時秀頼の護衛。
清正に至っては熊本城に「昭君の間」という意味深な部屋が…
利長、秀康は一朝事あらば大坂入城すると言ってたらしい
(先に言っとくがソースキボンとか言われても知らん)
昌幸は…
大坂の役まで生きてれば大坂入城したのでは?
これは美化かw
0854人間七七四年
2008/10/07(火) 01:06:36ID:xlidYZJa三つにわかれたら昌幸・信之・信繁で分かれるんだろ
0855人間七七四年
2008/10/07(火) 02:35:16ID:r+Svj6DO豊臣家は滅亡してた
0856人間七七四年
2008/10/07(火) 09:20:15ID:jekBeP0U・秀長の子孫はいるのか
・秀次に兄弟はいたのか
・豊臣姓を賜った家のうち、江戸時代も豊臣姓を称したところはどれくらいあったか
0857人間七七四年
2008/10/07(火) 12:27:05ID:NWXtZiRlしかも家康より年下が多くなかったっけ?
いかにも都合よすぎ。
ほんで、朝鮮出兵での国内厭戦感情をも家康は計算しつくしてなかったか。
秀吉が晩年おかしくなったこと考えると最後の最後まで家康は「鐘の文章」に
ケチをつけたりとか、それなりに筋を通して敵に当たったことはさすがとしかいいようがない。
だもんで、暗殺、としても証拠や形跡が残るようなドジはふまんかったやろな。
0859人間七七四年
2008/10/07(火) 14:07:29ID:Ap8tJKmi豊臣姓を賜ったというより高台院の系統で大名ではないし通常の名乗りでもないけど。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/豊臣氏
0860人間七七四年
2008/10/07(火) 20:03:12ID:MnXJr9n/秀吉なんて好きになれる要素が皆無だからな
0861人間七七四年
2008/10/07(火) 20:18:01ID:NWFScMoWものすごく重要なんだよね。
この意味、価値、を知ってたからこそ家康はその直系男子を絶やしたわけだし、
賜った秀吉もすごいが、抹殺した家康もすごい。
言わば朝廷の顔をつぶしたわけなんだが、有無を言わせなかったところに将軍宣下受けてから
抹殺行動に出るまでの十数年の家康の対朝廷コントロールのすごさが現れてる。
だからスレタイの、存続するには、の解答として、あやまっちゃえば良かったんだ、というのは
少々安易にすぎると思うんだ。
唯一成功したかもしれないのは秀頼に天皇一族とか公家の高位の娘をもらって、それに直系男子を産ませる、
ぐらいしか思いつかない。
ま、家康ならそれすらをも、というのはあるだろうが。
0862人間七七四年
2008/10/07(火) 20:22:49ID:caQyWuTM> 前にも出てたけど、豊臣、というのは源平藤橘以来数百年ぶりに現れた天皇賜姓だし、
> ものすごく重要なんだよね。
それについては意見の相違は大きいでしょ。
秀吉はなりふり構わず「新摂関家」を作らざるを得ない立場だった。
一方的な秀吉側の必要性からのみ生まれたのが「豊臣姓」。
それに朝廷まで含めた重要性があったとはとてもとても。
0863人間七七四年
2008/10/07(火) 20:33:40ID:yQjREWcj元々が無理矢理作らされた姓だし、「臣」の字をわざわざ入れたあたり見下した感じも受けるよな。
秀吉に藤原氏を名乗られる方がよほど屈辱だったろう。
0864人間七七四年
2008/10/07(火) 20:57:10ID:wUiwQ+Rv同じ嫌われ者の石田だけが味方だったわけだ
0866人間七七四年
2008/10/07(火) 22:13:45ID:H3UY/Qgw…ということになってるのかもよ?
徳川家御用達の学者が歴史をねじ曲げたかも…?
…もちろん、憶測に過ぎないが。
0869人間七七四年
2008/10/07(火) 22:57:20ID:NWFScMoW重要、という意味を誤解されてるかもしれないから捕捉だが
事情はどうあれ、天皇賜姓、というのは重大な価値と意味を持つ、ということね。
秀吉の一方的な必要性だからそこまでの価値はない、というのはどうかな。
朝廷から与えられた、と言う意味において源平藤橘と同等であり、これは軽視
すべきではないでしょう。
申し訳ないが、意見の相違、と言う問題ではないと思うんだ、これは。
863が言うように「臣」の字を入れたのもちゃんと重要な意味を持つと思う。
源平藤橘と同価値としても、あくまで「臣であるぞ」ということを強調して
何百年たっても、それを明確にわかるようにしてある。
さらに言うなら「この姓を持つものは臣と言わないとわからないような下賎な
ものでおじゃる」なんて見下した感じもあるな。
朝廷自らがその賜姓の意味の重要性を理解してたからこその
苦労と言うかね。
ちなみに、源平橘は1文字だけど、これに関しては何か論はあるのかな。
普通なら「豊」という姓になっててもいいと思うんだよね。
0870人間七七四年
2008/10/07(火) 23:28:38ID:jekBeP0Uあと伊達家の真田も豊臣姓では
0871人間七七四年
2008/10/08(水) 01:16:09ID:hIgzZJqC小出秀政・・数年補佐を続ける
片桐・・辛い立場を続ける
浅野幸長・・豊臣側で千姫の籠を受け取る
二条城での秀頼警護
加藤清正・・二条城での秀頼警護
福島正則・・秀頼の見舞い 米をくれてやる
脇坂・・大阪の陣で中立 池田輝政・・二条城の会議で出席
結城秀康・・豊臣への親近感
これくらいか
0872人間七七四年
2008/10/08(水) 01:41:37ID:18cvSks0秀吉の血筋は一応残っているんだね
0873人間七七四年
2008/10/08(水) 02:08:58ID:y9B7Yyit織田、木下、徳川って微妙につながってるんだな。
スケート織田あたりと徳川の子孫の鑑定してなにかわかんないかな。
0874人間七七四年
2008/10/08(水) 06:26:14ID:CGvaktyk朝廷にとって賜姓が重要というのはわかるが、家康が豊臣家を滅ぼした主因がその豊臣姓、というのがキミの意見なんだろ?
唯一滅亡を避けられた道が、皇族か高位公家の血を引く世継ぎを作ることだっけ?
姓がなんであろうが、天下人を主として認めず、その命令に従わなければ滅ばされる。国替にも応じず人質も出さないと、
徳川政権の面目つぶしておいて、豊臣姓でなければ滅ばされなかったとはとても思えないのだが。
家康がそこまで賜姓を重要視していたなら、豊臣に換わる新たな、そしてもっと価値ある姓を朝廷からもらうか、
あるいは今後二度と賜姓ができないように朝廷からその権限を奪うか、どちらかはしたはず。そういった形跡あるのかい?
0875人間七七四年
2008/10/08(水) 16:08:46ID:y9B7Yyitなんか話がよくわからない。
豊臣姓でなくてももちろん滅ばされたかもしれないよ。
ただ、直系男子の血を抹殺した理由の主因、がそれであろう、
というだけのこと。
誰も、豊臣姓でなければ滅ぼされなかった、なんて言ってないよ。
それと違う話だが、家康は朝廷を管理下に起きたかったわけだから、
新しい姓をもらう、というのはその体制において矛盾するから出来なかっただろうね。
ほんで、賜姓の権限を奪う、というのはちょっと意味不明だよ。
禁中諸法度なんかで勝手にできないようにはしてるようだが、
権限は奪う奪わない、というものでもない。
さらに家康が賜姓を重要視してた、というのは将来豊臣家が徳川家に謀反
おこさせないようにする、という意味においてね。
つまり徳川にうらみ持った豊臣の直系男子を抹殺する、という意味においてで
これは家康から見て重要でしょう。
0876人間七七四年
2008/10/08(水) 16:21:03ID:y9B7Yyit「新摂関家を作る必要」というのもちょっと違う意味合い。
関白になるだけなら近衛の養子になった時点でいいわけで「新」
を作る必要はない。
それを必要ではなく求めたのは、藤原家の一員でいるということは
関白であっても「藤原家」においてはその序列に従わねばならず
氏長者の言うことは聞かねばならない。
これでは秀吉はおもしろくないよね。
だから「なにかえぇ方法はにゃぁもんきゃ」と「新姓」をもらう、というすごいアイデア
を考え出したんだ。
その意味では、藤原、でいてくれたほうがいいし、近衛もそれは承知は
してたはず。
ほんで、姓、というのは父系一族を表すものだから、朝廷からその正統性を
未来永劫保障される、という意味でとても大きい意味を持つ、というのはあえて再確認
しておきたい。
本来なら「とよとみ の ひでよし」と呼ぶべきなんですよね。
しつこくて悪かった。
0877人間七七四年
2008/10/08(水) 16:29:12ID:/o7fKIwi> 「新摂関家を作る必要」というのもちょっと違う意味合い。
> 関白になるだけなら近衛の養子になった時点でいいわけで「新」
> を作る必要はない。
> それを必要ではなく求めたのは、藤原家の一員でいるということは
> 関白であっても「藤原家」においてはその序列に従わねばならず
> 氏長者の言うことは聞かねばならない。
> これでは秀吉はおもしろくないよね。
> だから「なにかえぇ方法はにゃぁもんきゃ」と「新姓」をもらう、というすごいアイデア
> を考え出したんだ。
違う。藤原氏のままだと、関白の位は五摂家の持ち回りにせざるを得ない。
秀吉の血筋で関白を独占するためには、「新摂家」を作らざるを得なかった。
0878人間七七四年
2008/10/08(水) 20:33:56ID:18cvSks00879人間七七四年
2008/10/08(水) 20:55:29ID:MI285G4T0880奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2008/10/08(水) 20:56:58ID:YteheQnO0881人間七七四年
2008/10/08(水) 22:28:10ID:y9B7Yyitそれもあるよね。
ただ、「新」を作ったからと言って独占できるかどうかは別問題かな。
何せ先例主義だから「持ち回りでおじゃる」になってしまうかもしれない。
ほんで、関白就任の時にはまだ秀頼は生まれてないし、複雑になるから
「ちょっと違う意味合い」というような微妙な言い方にしておいた。
「必要」というのは秀頼が生まれたのならそうだけど、1585の時点では
秀吉個人のわがままが強かった、という感じでね。
0882人間七七四年
2008/10/08(水) 22:32:12ID:/o7fKIwiだから秀次に関白位を継がせて、「新摂家」の先例を作ったわけで。
秀吉が死んであっさり藤原五摂家の持ち回り体制に戻ったけど。
0883人間七七四年
2008/10/08(水) 22:50:38ID:y9B7Yyitだったんだろね。あくまで建前だが。
で、持ち回りに戻ってうれしかったろうな、藤原家。
あの時点では家康に感謝してたんじゃないか、かなり。
0884人間七七四年
2008/10/08(水) 23:04:40ID:CGvaktyk朝廷から任命された征夷大将軍で幕府を開いた家康なんだが。新姓を賜ったとしてどこか矛盾するのかな?
豊臣姓でなければ滅ばされなかったとまでは言わないにしても、豊臣姓を賜った以上、(たとえ国替えに応じ
人質を差し出していても)直系はまず確実に滅ぼされていただろうと言うのがキミの見方なんだろ?
賜姓が日本史上重要であるのは否定しないが、そのことが家康の対豊臣戦略に影響を与えていたかはまた別の話。
恨みを買いたくないならば、豊臣家が徳川の天下を認め穏便に臣従してくれればベストなわけで。家康も本来はそれが理想だったろうがね。
0885人間七七四年
2008/10/08(水) 23:26:05ID:y9B7Yyit将軍なんてのは令外官でいつでもやめられる。
でも、姓、というのは、その「支配下」というか官位とかとは全然違う次元と
思いますよ。
で、「別の話」に関してやっと論が深まってきていい感じ。
つまり、家康としては徳川家の将来において、うらみを持つ相手に
復讐、滅ぼされるのを一番恐れるわけですよね。
これは、頼朝の故事にさかのぼって家康は「吾妻鏡」とか詳しかったらしいし、
当然最重要警戒なわけです。
で、「豊臣」というのが未来永劫朝廷からその庇護を受けられる、として
そんな危険な秀吉の「直系一族」がいたら、いつか自分の子孫が「朝敵」
みたいな状況を作り上げられて、やられるかわからない。
だから、事前にその禍根をたつ、という意味において、「賜姓」と「対豊臣戦略」
は別の次元でなく、密接に関連する、とこれがこちらの論の基本です。
最後の、うらみ、ですけど、これは当然秀頼親子ではなく、秀吉を裏切った、という
事ですね。
なので、秀頼親子が臣従したとしてもすでに「秀吉のうらみ」という事実が出来てしまってる
以上、家康はたぶん「やってしまった」とは思います。
元をただせば、「新」さえもらってなくて羽柴のままなら、秀吉が織田一族にしたように
家康もその存続を許したかもしれません。
0887人間七七四年
2008/10/08(水) 23:41:39ID:y9B7Yyitなんですよ。
「家康がそこまで考えていたのか」という話だと「そうです」
という根拠もあります。
スレチだからふれないけど。
なので、空想、とかじゃなくて、ご理解頂きたい。
884まではある程度共通理解できているので、ね。
ま、家康が「やってしまった」かどうかは推論ですけど、このスレ自体
そういうのを語るとこなので、それを前提に「ではどうしたら存続できたか」を
考えるのも、新しいお題、かもしれません。
0888人間七七四年
2008/10/09(木) 00:14:55ID:7l5IqVQc> 「家康がそこまで考えていたのか」という話だと「そうです」
> という根拠もあります。
> スレチだからふれないけど。
めちゃめちゃこのスレの趣旨にあっているように思うが…。
0889人間七七四年
2008/10/09(木) 00:44:19ID:FcjN81Ap消してしまいたいだろう
家康がやらなくても外様の藤堂や池田や伊達や最上辺りが
家康に豊臣滅ぼしましょうと我先にと献策してくると思うのだが
0890人間七七四年
2008/10/09(木) 02:32:13ID:bAVsZTMv0891人間七七四年
2008/10/09(木) 04:16:10ID:ZrJKyjBLよくある逃げ口上だから追及すんな
0892人間七七四年
2008/10/09(木) 08:27:13ID:Rk7ERrgdだから姓を賜ると徳川幕府にとってどんな都合の悪いことが発生するのかな? 「次元が違う」じゃなくて具体的に指摘してくれよ。
豊臣家が未来永劫朝廷の庇護を受けられるという説も意味不明。仮にそうなら(そう家康が認識していたなら)、
なおさら新姓を要請したはずだろうに。
姓が豊臣だろうと羽柴木下だろうと、秀頼たちの行動次第で、豊臣政権下の織田家のような生き残り方は十分可能だったと自分はみているがね。
家康が姓にこだわって何がなんでも豊臣家を消滅させようとしていたとする根拠を具体的にどうぞ。
日本史上における姓の重要性ではなく、家康の認識がそうであったという根拠をね。
どうもキミの意見は具体性に欠けるからみなも戸惑っているよ。
0893人間七七四年
2008/10/09(木) 09:22:30ID:7l5IqVQcそりゃあ改易したときはそれを自己利益になるよう利用したが、それは有能で有力な組織なら
状況に応じて必ずそうする物で、結果幕府の利益になったから改易も故意だったというのは
過程を無視した議論の飛躍に過ぎない。
それに大阪の陣に関しては、昨今は豊臣家側からの挑発説がだいぶ強くなってきたし、その説を
取らない人でも、戦争の始まる前後の、豊臣家の必要以上の好戦性は認めている。
夏の陣に至っては、大阪城は牢人に乗っ取られ、豊臣家はそれを制御できず逆に牢人達に乗っかって
開戦し滅んだ、ってのはもはや定説といっていい。
戦後幕府は、確かに豊臣宗家に係わる物をなるべく滅ぼそうとしたが、それは豊臣家云々と言うよりも、
大阪落城を逃げ延び拡散した牢人たちが、豊臣宗家をシンボルとして再び結集する事を恐れた(実際そういう
動きがあった)ための、戦後処理の一つだったと言い切れる。
豊臣姓がどうのこうのってのは、歴史をある種の伝奇的ロマン主義で見ているに過ぎないよ。
0894人間七七四年
2008/10/09(木) 11:33:26ID:02l36jLJ字で書けばわかるけど、まさに並び立ってる
平は長者的な家はない
藤は明確に公家
橘は没落
一代前は百姓だろうがなんだろうが秀吉の代で姓を賜ったからには以降直系で代を
重ねるごとにそこに重みというか権威がつく
新田氏族の系図を捏造して源氏の長者になりおおせた徳川「家」からすると家康の代は
ともかくとして、賜姓かつ旧主の直系一族というのは無形の圧力になるざるを得ないだろう
家格において源氏に代わり武家を統括しうる、始祖は実際その立場であった先例をもつ
家が豊臣なわけで、織田「家」や他の諸家とはその辺が違いすぎる
0895人間七七四年
2008/10/09(木) 11:50:47ID:IqVt5uUe「家康がそこまで考えていた」というのは「徳川家の繁栄のために
どこまで深くしつこく考えていたか」という意味で「豊臣家を抹殺する」
という意味においては、それは「徳川繁栄」の過程、一手段でしかなかった、
ということ。
だから、家康とか徳川時代の話になってしまって、そっちの方にまで
いったら、またレスは詳しくするけど。
0896人間七七四年
2008/10/09(木) 12:02:55ID:IqVt5uUe「姓を賜る」だけど、これをされたら一族が朝廷の完全な支配化になってしまうでしょ。
家康は朝廷をも支配下におきコントロールしようとした。
ただそれは非常に困難なことであり、下手したら「朝敵」みたいになってしまう。
だからとても微妙な問題で、あの時点で「姓を下さい」なんて下手にでることは
出来なかったし、他にも「秀吉と同じ手法を極力さけている」とか理由もある。
で、具体的にいうと秀吉政権というのは一種の王政復古の「公家政権」であり、家康はそれからの
脱却を目指していた、だから「賜姓」をもらうというのは同じ「公家政権」の延長になってしまうし、
これは都合が悪いどころか、絶対に家康が認められるものではなかった、と解釈してる。
秀吉が「公家政権?」「王政復古?」とは聞いたこともない、また妄想か、というのは
勘弁ね。
0897人間七七四年
2008/10/09(木) 12:16:34ID:IqVt5uUe「未来永劫の庇護」に関して、本来「賜姓」というのは「一族に与える」という
ものであって、一族でもない秀吉に与えた新姓を「賜姓」というのは厳密な意味では
間違ってるかもしれない。
なんだけど、与えることによって「一族に、または同格に認める」という意味になるから
使用していた。なにせ、豊臣、しか例がないからね。
で、これから言って「姓をもらう」という事実は朝廷から「一族としてその庇護」を受けられる、
というのは普通の意味だけど。「賜姓の意味が違う」と言われたらともかくここまではこれに関しては
共通理解だろうから、ね。
ほんで、「家康はなおさら新姓を要請」だけど、家康は朝廷の庇護なんか受けたくないわけですよね。
諸法度類で規定して支配しようとした、のでしょう。
だから、これに関しては「家康が新姓を要請しなかった」ことの理由の根本の再確認だけど
「家康は朝廷を支配下におこうとした」ということでいいのじゃないかな。
0898人間七七四年
2008/10/09(木) 12:26:55ID:IqVt5uUe最後の部分に関してはくり返しだけど、家康は満を持して鐘にイチャモン
つけて豊臣を滅ぼした。
これは決して思いつきやイヤガラセではなく、家康の「一族繁栄作戦」の最終手段であり
これに成功しないと非常に危険だった。
具体性に欠ける、いうけど家康が「吾妻鏡」とかに詳しかった、のは事実だし
当然そこから「頼朝の故事」に学んだ、というのも普通でしょう。
かなり具体的に説明してると思うけど。
だからこそ、前政権で自政権にうらみを持ち、しかも「姓」という朝廷の正当性をも持った
相手、は抹殺しなければならなかった。
「姓にこだわる」というのはその正当性の権威への畏怖、と自政権がその成立の根幹のために
「姓」にこだわれずそういった将来「朝敵」みたいな争いになったときの禍根を事前に断つ必要があった。
と、こういうのは十分「根拠」と思うけど。
0900人間七七四年
2008/10/09(木) 12:40:28ID:IqVt5uUe平に関して補足だけど、中世の子爵制度の特典を平だけは与えてもらって
なかったのが大きいのかな。
その後は清盛というバケモノが出るのだけどね。
で、「豊臣」というのは「姓」で「織田」や「徳川」は一般的に言う「苗字」。
これは伝奇的ロマンとかそういう話じゃなくて、明確に違うもの。
一番最初に戻るが「姓」というのを軽視しすぎてないかな。
さらに、言いすぎかもしれないが、誰かが言ってたんだが「一般的な
戦国の研究家はそういう律令国家以来の官位という側面からの氏姓
という知識がなく、そういった分析にまで及んでないのではないか」というのがあって、
これが「そんなの聞いたことない」というのにつながっていくと思う。
豊臣抹殺について「姓」という側面からの考察、これも今後は必要だろう、ということでね。
別に今までの研究を否定するわけではなくて、あくまでもプラスアルファ、ということなので
そこのところはよろしく。
0901人間七七四年
2008/10/09(木) 12:47:32ID:7l5IqVQc秀吉自身が豊臣と言う「姓」と、羽柴と言う「苗字」を、特に分けることなく違いを曖昧にしているんだが。
はっきり言って秀吉は、便宜以上の価値を豊臣と言う姓においてない。
0902人間七七四年
2008/10/09(木) 13:26:45ID:IqVt5uUe秀吉ではなく、家康の認識の問題ですよ。
秀吉自身は確かにわざと軽視してたか知らなかったかわからないが、そういうことには
無頓着だったかもしれない。
で、まとめるけど豊臣抹殺事件における姓の持つ重要性からの論なんですね。
どうして家康はもらおうとしなかった、とかそっちへ話がいくけど、これはまた別の論で
一応「秀吉政権と家康政権の構造上の違い」という面から説明はしておいたけど。
一族繁栄作戦として、家康は本当に細心にしてしつこくてどえりゃぁこと考えてて
その1602〜1613の一貫した作戦の最重要問題が、豊臣抹殺だった、というように
考えてるわけです。
家康生涯最大級にして最後の問題が、秀吉男子直系の血をどうするか、ということで。
こいった視点から、各質問には答えてきたのだけどね。
892さんの「生き残り方は可能」と明確に言っていただくと論点が明確でいいですね。
自分はその主張を否定するわけではなくあくまで、自分の視点に置いては「豊臣家存続
は難しかったろう」という結論なわけです。
豊臣滅亡も、大阪夏の陣の結果、というのは確かにそうですがもっと広い範囲で
「家康一族繁栄作戦」という視点からみているわけですね。
ところで「とよとみ の ひでよし」と呼ぶべき、というのに関してなにか意見ありませんかね。
0903人間七七四年
2008/10/09(木) 13:29:51ID:7l5IqVQc0904人間七七四年
2008/10/09(木) 13:53:31ID:IqVt5uUe何度も書いてるけど、将来豊臣男子直系の血を引くものが反乱起こした
時に、「朝敵」みたいな立場になるかもしれない。
だから家康は事前に禍根を断つ、行動に出た、ということですよ。
悪いけど、過去スレ読んでこちらの主張点を理解してもらえないかな。
0905人間七七四年
2008/10/09(木) 14:00:22ID:7l5IqVQc君の過去レス読んでみても、その説自体に根拠と言う土台が無いのだから、きちんとした議論が
出来るはずが無い。
0906人間七七四年
2008/10/09(木) 14:08:08ID:IqVt5uUe天皇賜姓、ということは朝廷と一本化する可能性もありますし
公家たちとの婚姻を繰り返しそうなったのが過去の四姓。
0907人間七七四年
2008/10/09(木) 14:12:48ID:7l5IqVQc0908人間七七四年
2008/10/09(木) 14:18:29ID:IqVt5uUeそれと、こちらは「天武八姓以来の姓の重要性」と「家康の一族繁栄作戦」という
二つの根拠を示してます。それを、伝記ロマン、と言われるのはかまいませんが。
そして、家康はその「可能性をも断とうとした」わけです。
これは家康論につながってしまいますので詳しくは述べてませんが。
0909人間七七四年
2008/10/09(木) 14:22:41ID:7l5IqVQc朝廷で藤原氏が勢力を張ったのも、賜姓のおかげではなく特殊事情。
つーか、大阪の陣前の豊臣氏は善意の被害者でもなんでもないぞ。
あの挑発的で好戦的な姿勢をどう見るんだキミは?
徳川の陰謀に乗ったとかそう言うことを考えているのかもしれないが、そんな単純なものじゃ無いぞ。
0910人間七七四年
2008/10/09(木) 14:28:06ID:IqVt5uUe話をもっていくのは本筋ではないような。
大阪夏の陣はいいのですが、こちらの論はそれを否定してませんよ。
夏の陣研究とか定説はよくわかりますよ。
なので、質問自体が横道にズレてます。
陰謀に乗る、とかそれは夏の陣の話ですよね。
こちらはそんなことを論点にはしてません。
0911人間七七四年
2008/10/09(木) 14:32:02ID:7l5IqVQcますます何が言いたいのかわからなくなった。
一回自分の主張を整理して、論点をきちんと提示してくれない?
0912人間七七四年
2008/10/09(木) 14:45:13ID:IqVt5uUe「夏の陣の結果豊臣家が滅亡した、家康の思惑は関係ない、そして夏の陣は
複雑な事情がある」といいたいわけでしょう。
ですが、どんな事情があれ、家康は豊臣親子を殺さなくてもすんだわけです。
追い込んだとはいえあくまで自害ですからね。
なのに、どうしてそこまで追い込んだか、この点はどうでしょう。
自分はそれに対する解答として「家康の繁栄作戦」と「姓の問題」をあげているわけです。
なので、そちらが夏の陣の研究、解釈から「豊臣親子を殺す事情があった」というのを
主張されるのはよろしいと思いますよ。
「挑発的で好戦的な姿勢から殺されても仕方ない」みたいな。
ただ、繰り返しですがもう少し幅広く解釈すべき、と思ってるだけです。ちょっと暴論
すぎるのを承知で言うと、夏の陣とか、豊臣からの挑発がなくても
家康はなんらかの形で豊臣殲滅に動いたとも思ってます。
これは、妄想、といわれそうですが1602〜1613の家康の行動は一貫している
そういった事実が根拠です。
よろしいですか、こちらの主張。
0913人間七七四年
2008/10/09(木) 14:54:48ID:7l5IqVQcでは、指摘させてもらいますが、最後まで家康は秀頼親子を殺そうとは思ってない。
殺してしまったがゆえに、後々戦後処理に非常に苦労する羽目になったわけで。
あと、その1602〜1613の家康の行動と言うのが、何を指しているか良くわからないけど、
対豊臣と言うことであれば、全く一貫していないよ。ギリギリまで豊臣の徳川への臣従を求めているのは確かだが、
それが決裂して大阪の陣になるのは最後の段階になってからだし。
むしろ、何をもって家康が一貫して豊臣家を滅ぼそうとしていたと確信しているのか、その根拠を聞きたい。
滅ぼす気ならもっと早くやってるよ。十年以上もおとなしく待ったりしない。ただでさえ高齢だったんだから。
何でよりにもよって死の前年まで、しかも本拠大阪を手付かずにしたままほおって置くのかと。
家康も、馬鹿じゃ無いんだから。
0914人間七七四年
2008/10/09(木) 15:05:40ID:S8u0shXz秀吉が「公家政権」というのはちょっと納得しかねるな
秀吉の力の根本も、論理も、、意識も武家のものだし
敢えて言うなら公家政権の中で武家政権が下克上をしたようなモノだと思う
この辺りは公家の中に引き摺られた清盛とも、公家から独立した頼朝や家康とも
一線を画す部分ではあると思う。近いのは足利義満か
0915人間七七四年
2008/10/09(木) 15:22:59ID:IqVt5uUeなるほど、論点を整理してもらってどうも。
で、外出の予定があるので、順番に答えますね。
理論物理の関係で、なんとノーベル賞ですものね、盛り上がりそう。
親子殺害の後、戦後処理に苦労したのは事実でしょうが、それは仕方ないと言うか
承知の上でしょうね。苦労はしましたが、徳川家繁栄を思えばそちらのほうが
重要でしょう。
1602〜1613の行動ですが、これはもちろん「徳川をいかに長持ちさせるか」という
1点においてです。
対豊臣関係のすべての文書を知ってるわけではないので、一貫してない、というのは
そうでしょうが、「臣従を求める」これに関しては一貫してませんかね。
そしてそれは豊臣からみたら屈辱ですし、そういう意味で対豊臣作戦も
一貫している、と思ってます。
最後ですが、関が原以降、いくら将軍宣下受けてもまだ豊臣恩顧勢力はいましたよね。
なので滅ぼすのも武力ではなかなかできない。
そして家康にとって、10年待ったというか、その間は政権基盤確定のほうが最重要でしょう。
もちろん一族繁栄のためです。なので、上にもつながりますが、武力で滅ぼそうとは
事実上できなかったのではないか。
そして、家康より年下の豊臣恩顧の武将が先に死んでいく。
暗殺説はともかく。
これによりかなり武力で倒す環境が整ったのは事実でしょうね。
さらに、自分の説ですが1602以降の政権基盤確定行動の最後となったのが、
御三家の祖になる子供たちの誕生、があるのではないか。
子孫がいないと苦労する、というのは家康は当然認識してたわけで、あの年で
御三家までできて、もう一族の将来に自信がもてたのではないか、というとこで。
なので、夏の陣がどちらの挑発か、これは研究家の判断を待ちますが、それ以前から
家康は豊臣殲滅の意思があり、それを実行した、と続くわけです。
逆にひとつ質問ですけど、「最後まで親子を殺そうとは思ってない」の根拠と
「ではどうして殺してしまったか」について教えてもらえませんか。
ここを聞いておかないと、先に進みませんものね。
それと余分かもしれませんが、1587家康が上洛、臣下の礼をとり、その後は
律義者で通った、みたいなのが前にに出てましたが、日本歴史の数ヶ月前の論文で
「1587以降の両者の複雑な関係」が論じられています。家康の対豊臣認識には
有用かと思われますので、参考までに。
0916人間七七四年
2008/10/09(木) 15:38:11ID:IqVt5uUeそう、一般的な言い方でないが、あえて豊臣ー家康の非連続性を
説明するのにわかりやすいかと。
信長からの三英傑の連続性からよく語られて「どうして〜」というのが多いのだけど、
政権の形、と背景はかなり複雑。
なので、どうしたら豊臣が存続できたか、についてもあくまで公家としての
立場を有利に強調する、というのが一番明解だと思うんだ。
家康がやった、天皇家との婚姻、もですよね。
0917人間七七四年
2008/10/09(木) 15:41:37ID:7l5IqVQc> そして家康にとって、10年待ったというか、その間は政権基盤確定のほうが最重要でしょう。
> もちろん一族繁栄のためです。なので、上にもつながりますが、武力で滅ぼそうとは
> 事実上できなかったのではないか。
基盤って、キミの説じゃ豊臣家そのものが徳川の政権基盤の最大の障害じゃ無いか。
一番重要なものをほおって置いて政権固めなんてできるものじゃ無いよ。
> さらに、自分の説ですが1602以降の政権基盤確定行動の最後となったのが、
> 御三家の祖になる子供たちの誕生、があるのではないか。
> 子孫がいないと苦労する、というのは家康は当然認識してたわけで、あの年で
> 御三家までできて、もう一族の将来に自信がもてたのではないか、というとこで。
この時代の幼児生存率の低さを考えてない。大体それ以前にもそれ以後にも家康に子供はいるし。
> 逆にひとつ質問ですけど、「最後まで親子を殺そうとは思ってない」の根拠と
> 「ではどうして殺してしまったか」について教えてもらえませんか。
> ここを聞いておかないと、先に進みませんものね。
どうしてもなにも、家康が殺したんじゃなく、勝手に自殺したのですがな。
求めてもいないのに自分から死んだ事まで、家康の責任にされても困るでしょ。
0918人間七七四年
2008/10/09(木) 16:10:12ID:IqVt5uUe政権固め、というのは朝廷対策とか寺社対策とか、和子入内、とかその他いっぱい
あったでしょう。
こちらがまず急務であって、豊臣の反乱、というのは将来に関してですからね。
当面は反乱もおこさないだろうし、もちろん警戒はしてたでしょうが、まずそういった
基盤作りに向かった、こんな感じです。
幼児生存率が低いから、こそですよ。
十分子供いっぱい作ったなのに、さらに、分家として全国にばらまいた、わけです。
このあたりで、少々子供がなくなってもどこからか養子をもらう、という形式を
作ったわけで、これは家康の「一族繁栄作戦の一つ」ですよね。さらに重要な意味もありますが
家康論ですので省略。
家康が「繁栄作戦」重要視してた、というのが主張です。
最後ですがなるほど、勝手に自殺した、ということですか。
だから家康の責任でもない、と。
でもこれ、こちらの主張を否定することにはなってないような。
家康としては、どんな形であれ直系男子を抹殺する意味があった、というのがこちらの
主張で、その通りになったわけですよね。
そちらの主張が「最後まで家康は秀頼親子を殺そうとは思ってない。」
というものなら、その根拠をお願いできませんか。
個々の点について質問され答えてきたわけですけど、そちらの基本の
主張が「最後まで家康は秀頼親子を殺そうとは思ってない。」というものなら
今度はこちらがその根拠についてお聞きしたいと思います。
別に論争をいどむわけでなく自分の論の確認のためにです。
よろしくです。
0919人間七七四年
2008/10/09(木) 16:49:30ID:jKEGoZ6n・秀頼の臣従下と淀君の江戸下向(人質)
・国替えによる大阪城明け渡し
にこだわってなかったか?
これさえクリアーできれば旧主討伐まではしなかったはず
ただ双方にとって譲れないことだから開戦となってしまったと
家康側は徳川家と幕府の安定のためには上記の条件が絶対だったけど、
豊臣はかつての家臣へ臣従することと豊臣の象徴である大阪城退去は受け入れがたかったんでしょう
折れるとすれば豊臣が折れるしかないんだけどね
片桐が交渉したけど交渉内容も講談とかも混ざって今一わからないんだよな
0920人間七七四年
2008/10/09(木) 16:51:47ID:7l5IqVQcどうも、淀殿周辺は和平受け入れ派だったようなのだが、秀頼とその側近層が暴走して
開戦してしまったようだ。
0921人間七七四年
2008/10/09(木) 17:01:12ID:jKEGoZ6n淀姫さまのわがままが通説ですからねえ
0922人間七七四年
2008/10/09(木) 17:05:46ID:7l5IqVQc調べればわかるけど、淀殿側近層はほぼ全員和平派。冬の陣の最中徳川と講和のため接触していたのも
淀殿周辺の人々。秀頼の側近層はほぼ全員主戦派。
0923奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2008/10/09(木) 20:05:14ID:gQuFFm3J0924人間七七四年
2008/10/09(木) 20:14:10ID:02l36jLJさすがにこれは無いだろw
ビルの屋上の手すりを撤去して一面に氷はって靴を脱がして手を背中でしばってから
目隠しして背中を強く押してるようなもんじゃん
最終的にビルから落ちたのは本人の意思だから関係ないし^^ってのはさすがに無理が
ありすぎるだろ
0925人間七七四年
2008/10/09(木) 20:41:09ID:jKEGoZ6nもっとも夏の陣を開戦した時点で死ぬしかないような気もする
豊臣も冬の陣開戦前はもっと味方が多いと思ってたんだろうな
認識が甘かった
0926人間七七四年
2008/10/09(木) 22:49:56ID:Ms/FRjEV北条氏直や織田秀信の例もあるが、数万単位の死者が出てるのだから
殺すべきでしょ
0927人間七七四年
2008/10/09(木) 23:10:39ID:4Eh3BdsB名字と氏姓についてなんにも解ってないんじゃね?www
秀吉が羽柴と豊臣を曖昧にしてたソースくれよwwww
豊臣朝臣関白羽柴秀吉なんて署名してたのか?wwwwねーよwwwwwwww
源平藤橘は単に皇后を輩出した氏だタコwww朝廷に一本化wwwイミフwwwwww
そもそも源平橘は皇別じゃねーかwwwwww
出自は源氏でなくても源氏長者の綸旨賜り既成事実的に源氏になった家康が豊臣にビビるとかあり得ないYOwwwwwwwww
独りで興奮しすぎだな
正直すまんかった
0928人間七七四年
2008/10/10(金) 08:00:50ID:Pw1S7/G6丁寧に答えてもらってなんだが、ずいぶんと観念的だなぁ。
・姓を賜ると一族が完全に朝廷の支配下になってしまう
・朝廷の一族として庇護を受ける
・姓を賜った相手と敵対すると朝敵扱い
賜姓にそういう意味合いがこめられているのは否定しないが、実際にそこまでの政治効果が発揮されていたかい?
豊臣家が朝廷に完全に支配されて、朝廷も豊臣家をあくまで庇護しようと、そういう行動に出ていたかい? 豊臣に限らず他の姓に対しても同様だが。
名目は名目。現実主義者の家康が、観念論だけで行動を決めるとは思えないよ。豊臣家を滅ぼしてしまうデメリットも大きいんだから。
朝廷そのものへの対策は入念だったが、そこさえ押さえておけば、賜姓の家にそれを覆すほどの政治効果はないよ。例もないし。
それに裏付ける根拠が吾妻鏡を愛読していたからってだけじゃね。清盛は頼朝にとって親の仇だが、家康は秀吉殺したわけじゃなし。
秀頼から穏便に政権の禅譲を受けることこそ、恨みも残らない徳川政権最善の策ではないのかな。
0929人間七七四年
2008/10/10(金) 08:40:36ID:J/qRxDti秀吉の甥で養子の秀勝の子孫も残ったし(しかも藤原氏の氏長者になってる)
それで良いじゃん
0930人間七七四年
2008/10/10(金) 08:57:27ID:Gr+/n/0H0931人間七七四年
2008/10/10(金) 09:07:59ID:PhtgbFis適当に羅列
平朝臣将門って人知ってるかな?
筑紫君磐井って知ってるかな?
彼らは朝廷から下される氏姓を持ってたかな?
答えは書いてあるよね。
皇室から別れて全国に繁栄している源氏の長者と新設の出自不詳の氏、どっちがより権威があるかわかるよね?
皇室に連なる氏があるのにわざわざ新しい氏なんか貰うかい?
言い換えればね、秀吉が豊臣朝臣を賜った理由はわかるかい?
馬の骨で氏が無かったからだよ。
新たに朝廷の臣下として認められる(豊臣朝臣下賜氏姓)
既に朝廷の臣下かつ分流でもあり幾人もの天下人を輩出している一族の筆頭者に認められる
どちらが支配者としての正統性をより確保出来ているかわかるかな?
建前上、日本人にはみな氏があったんだから、伝わってなくとも僭称して伝わっていたことにしてしまうのが普通。
秀吉の場合は出自の卑しさが知れ渡っていたからそれが出来なかっただけ。
名字の羽柴の由来は斯波の端(末流)から来てるなんて珍説もあるくらいで、
本当は源氏を僭称する意思もあったかもしれないし、家康みたいに知られずに僭称したかったでしょうよ。
0932人間七七四年
2008/10/10(金) 11:49:52ID:gBHdsgWG0934人間七七四年
2008/10/10(金) 13:54:32ID:J/qRxDti0935人間七七四年
2008/10/10(金) 14:26:42ID:FDCxvc/k0936人間七七四年
2008/10/10(金) 20:01:08ID:PhtgbFis平家と言ったら清盛家を指すのと同様に豊家と言ったら秀吉家を指すべきだろう。
0937人間七七四年
2008/10/10(金) 21:38:54ID:ich7J82E0938人間七七四年
2008/10/11(土) 00:04:49ID:5YeQO9U2よく生きている間だけでもトップでいられたよなあ
いくら恐怖政治で押さえ込んでも
あれだけ嫌われてたらクーデター起こされてもおかしくはないと思うんだが
人徳も人望もなさそうだしなあ
0939あんどろいど@
2008/10/11(土) 00:07:48ID:aDofMcF10940人間七七四年
2008/10/11(土) 00:29:32ID:B+Demoq7中学から高校に進学したとき、中学時代は性格面での評判が
悪かったのに、高校で態度がよくなった人っていたでしょ?
もちろん本人が高校入学を機に態度を改めたんだけど、
秀吉もそうじゃないかと思っている。
駿府時代に主君除いて四面楚歌だった反省から、尾張時代は
人たらしと呼ばれるくらいに態度を改めて、主君や先輩の
庇護に入ったり、同輩に仲間を作ったと。
でも元の性格は変わらないから、権力を得てからは
「人たらし」なんて阿呆臭くてやってられなくなったんだろうな。
これが家康だと、天下人になってからもあんまり
性格が変わってない感じに思える。
0942人間七七四年
2008/10/11(土) 10:06:56ID:gDWcWsGP0943人間七七四年
2008/10/11(土) 10:14:35ID:MjX6v2dd豊臣政権になってからその性格が特に変わったわけじゃ無い。リミットが存在しなくなったってだけだ。
0944人間七七四年
2008/10/11(土) 11:27:04ID:nX2bB1lFまぁこれは別に性格が変わったわけではなく、律儀な内府も狸ジジイもどちらも家康の一面だったんだろう。
状況に応じて使い分けていただけかと。
0945人間七七四年
2008/10/11(土) 11:57:48ID:IGUaZ/aDただ、そこら辺で家康は秀吉よりも、無茶な事をしなかった、この辺は経験の差
0946人間七七四年
2008/10/11(土) 12:15:04ID:qEpwQAv1秀吉も晩年狂っただけで、若い頃から「人たらし」の能力を発揮して
特に変わったとも思えない。
家康はそういうのを「反面教師」にするのが上手で、これはさすがとは思う。
0947人間七七四年
2008/10/11(土) 20:13:52ID:JdtgLxkU信長公からお借りしていただけ、今こそお返しします、とか言って。
そうすりゃ家康も反旗を翻す口実がなくなる。豊家も安泰。だったのでは?
0948人間七七四年
2008/10/11(土) 20:15:50ID:MjX6v2dd0950人間七七四年
2008/10/11(土) 20:50:54ID:MjX6v2dd家臣団が納得するわけないだろ。
秀信が後を継ぐってことは、秀信の側近、家臣団が豊臣政権を支配し、それまでの豊臣家家臣はその下に
付けってことだぞ?血の権威だけでそんな事できると思うか?
常識的に考えろ。
0951人間七七四年
2008/10/11(土) 21:28:57ID:3ZWea3zp0953人間七七四年
2008/10/11(土) 21:38:15ID:MjX6v2dd0955人間七七四年
2008/10/11(土) 21:50:07ID:jbEzG0nb>家臣団が納得するわけないだろ。
血は繋がってるだろ。広義的な意味になるが。
それ以前に筋が通ってる。
>秀信が後を継ぐってことは、秀信の側近、家臣団が豊臣政権を支配し、それまでの豊臣家家臣はその下に
>付けってことだぞ?
天下を譲り渡す前に、家臣団が納得するような制度を確立するしか無いな。
具体案は無いが。
>血の権威だけでそんな事できると思うか?
"朝廷"という血の権威の塊のようなものが…
0956人間七七四年
2008/10/11(土) 21:54:46ID:MjX6v2dd> 血は繋がってるだろ。広義的な意味になるが。
> それ以前に筋が通ってる。
何の筋だよ
> 天下を譲り渡す前に、家臣団が納得するような制度を確立するしか無いな。
> 具体案は無いが。
無いなら言うなよ。
> "朝廷"という血の権威の塊のようなものが…
じゃあ朝廷から皇子一人もらって跡継ぎにしろ
0958人間七七四年
2008/10/11(土) 23:16:28ID:7bzP0j9E0959奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2008/10/11(土) 23:37:22ID:CQW0CRxk0960人間七七四年
2008/10/11(土) 23:49:32ID:zuI8LVlr淀が妊娠した時点で恥を忍んでも姦通罪で処刑すべきだった
0961人間七七四年
2008/10/12(日) 10:22:34ID:AsVJsixx天下人の側室にそう簡単に手出せるもんじゃないと思うんだけど
0962人間七七四年
2008/10/12(日) 10:35:12ID:3uy/jsBP0963人間七七四年
2008/10/12(日) 10:56:57ID:8lBDQKKJよい案だと思うけどな。困ったときの三法師だのみ。
秀信には岐阜じゃなくて伏見にでも移ってもらえばいい。
秀吉が秀信より上に立って政権作った正当性って、関白になって官位が秀信より上回った
ってだけでしょ?
秀次殺して関白いなくなっちゃったんだから、政権は秀信に返上すべきだった。
でも秀信周辺は秀次の二の舞はごめんって断るかもしれないな。
そうなれば秀信改易する他なくなっちゃうし。
また、秀信が受けてくれたとしても、そうなれば家康はまず秀信に取り入って
豊臣謀反の兆しありで豊臣征伐。そのつぎに伏見の陣起こして天下穫るだけだしな。
案としては面白いけど、腹黒狸じじい相手にはまだまだ甘いわなw
0964人間七七四年
2008/10/12(日) 11:02:50ID:3uy/jsBP0965人間七七四年
2008/10/12(日) 11:09:02ID:8lBDQKKJ0967人間七七四年
2008/10/12(日) 11:25:40ID:8lBDQKKJ知らなくても淀周辺が気を利かしてやった可能性は十分あるとみている。
内堀の埋め立ては条約違反だと思っているが、腹黒狸相手に約束が簡単に守られると信じてる
方がどうかしてると思う。条約違反だと思った時点ですぐに武力で阻止すべきだった。
まあどちらにしても腹黒狸の思うツボだがね。
外堀だけの埋め立てに止めても、外堀あったときでさえ砲撃命中してるのに、外堀なくなったら
命中率上昇は必至だしね。
ずるがしこい腹黒狸とアホなダメな豊臣が際だってるよね。
0968人間七七四年
2008/10/12(日) 11:28:21ID:3uy/jsBPあったあった
戦国時代のトリビア
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1154407599/295
295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/09/03(水) 00:56:47 ID:ih8VIv8T
>>280
確認したが、こういうこと。
1:細川家と浅野家の、国元に送った書状に「講和条件としての堀埋め立ては内堀まで全て」と、明確に
書かれていること。
2:実際に埋め立ての作業をしていた大名のどんな記録にも、内堀の埋め立てに関しての、豊臣家からの
抗議があったと言う記録がないこと(櫓などの破壊についての抗議の記録は残っているのに)
3:巷説に、抗議する間もなくあっという間に埋め立てられたと言われる内堀の埋め立てだが、
実際この埋め立ては、内堀だけで一ヵ月半かかっており、もしこれが講和条件違反なら、その間に
豊臣家から抗議なり妨害なりが無いとおかしい事。(櫓の破壊ではやっている)
さらにいえば、「徳川による講和違反」という説の根拠になっている大阪の陣覚書などは全て、この時代より後世に
書かれたものであり、一次資料ではない。そして一次資料にはこれを講和違反とするものは一つもない。
よって、大阪城の内堀を埋めたのが徳川の謀略と言うのは後世の創作である。
0969人間七七四年
2008/10/12(日) 11:34:29ID:8lBDQKKJ0970人間七七四年
2008/10/12(日) 11:51:33ID:3uy/jsBP上手くまとめてあったから貼っただけだが?
ちゃんと知りたきゃ、吉川弘文堂の「戦争の日本史、関ヶ原合戦と大坂の陣」でも読め。
つーか内堀埋め立て謀略説なんて、今時まともな歴史家で使ってる人間いないぞ?
0971人間七七四年
2008/10/12(日) 12:21:29ID:m/74ipMuサボっていればいいと考えたんだろうな。
この辺の考えが甘いんだが。
0973人間七七四年
2008/10/12(日) 12:26:41ID:8lBDQKKJ豊臣方と幕府方で講和条件について当初の主張は当然違うだろう。
交渉過程の豊臣方の要求、幕府方の要求、その時々のいろんな内容の書状が存在し、
保存されており、それを後生の人間が最終的に決定した講和条件だと思いこんでいる可能性もある。
また双方で思い違いも当然あるし、当然腹黒家康はわざとそこを突いてきた可能性もある。
例えば交渉の過程では「惣堀を埋め立てる」と書かれていたとしよう。
これは当然外堀のことだ。しかしこれが最終的な講和条件で「総堀」にすり替わっていたとすれば
どうか?甘ちゃんな豊臣方はなんかの誤字脱字だろ、崩し字だから「総」に見えるんだろうって思った
としてもありえん話しじゃないと思うがね。
この時代直後の江戸の民衆が、腹黒家康の講談をありそうな話しってみんな思いながらみてたんだろ?
家康の本当の性格はわからんが、表面的な動き、行動、方向性はやっぱり全て腹黒と言われて
当然なものばかりじゃないのか?
0975人間七七四年
2008/10/12(日) 12:54:15ID:dViyWgAn普通は、一部を埋めるという儀礼的なもの
0976人間七七四年
2008/10/12(日) 13:20:36ID:9xwjZbBj儀礼的だの誤字脱字だの家康の陰謀だの見苦しい言い訳に過ぎない
0977人間七七四年
2008/10/12(日) 13:28:43ID:kOoKmZFK支えただろうし家康も好きにできなかった。
0978人間七七四年
2008/10/12(日) 13:30:34ID:dViyWgAnいやさ、その「全ての堀を埋める」の意味合いが当時の一般常識では
「全て堀を城割(これが一部の堀を埋めたり、土塁を崩すというもの)の対象とする」
という考えなんではないかという話
だからといって、徳川家が悪いという話ではなく、きっちり条件を確定していない豊臣家が
杜撰なだけなんですけどね
0979人間七七四年
2008/10/12(日) 13:45:14ID:3uy/jsBPだから堀の埋め立てに関して豊臣方からは、一切の抗議の記録が無いんだってば。
櫓なんかの破壊に関しては抗議の記録が、実際に作業担当した大名のほうに残ってるんだよ?
0980人間七七四年
2008/10/12(日) 14:13:58ID:kOoKmZFKしかし人の口まで閉ざすことはできず口伝で伝わったものが講談などに
反映されたということも可能性としてはありうるのではないだろうか。
0981人間七七四年
2008/10/12(日) 14:24:23ID:j41wAmoj講談レベルまで落とすのか
0982人間七七四年
2008/10/12(日) 14:34:11ID:iAmCnqHUまぁありがちではあるな。
0987人間七七四年
2008/10/12(日) 15:38:03ID:3uy/jsBP推し進めてきたのが、それこそ織豊系の連中だよ。その豊臣家が「自分達に当てはめられる時は旧来型」なんて
考えるとでも思うのか?
0988人間七七四年
2008/10/12(日) 21:23:59ID:9xwjZbBj全ての堀を埋めると約束しても堀を埋められるはずがないとか根拠のない思い込みをしていたんだろう
0989人間七七四年
2008/10/12(日) 21:36:16ID:EXpxDs3j0992人間七七四年
2008/10/13(月) 16:45:40ID:VdKNLamQ0993人間七七四年
2008/10/13(月) 23:18:24ID:m7lyFlhv豊臣家が存続するにはどうすればよかったのか【4】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1223907474/
0994人間七七四年
2008/10/13(月) 23:37:48ID:VdlLZlZV0995人間七七四年
2008/10/13(月) 23:47:23ID:1r6hhrRv0996人間七七四年
2008/10/14(火) 02:50:28ID:v+4j4ZZt0997人間七七四年
2008/10/14(火) 02:52:05ID:v+4j4ZZt0998人間七七四年
2008/10/14(火) 02:53:20ID:v+4j4ZZt0999人間七七四年
2008/10/14(火) 02:54:05ID:v+4j4ZZt1000人間七七四年
2008/10/14(火) 02:55:19ID:v+4j4ZZt10011001
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/ 秀家 ゙ヽ:::::::::', ごくろう。このスレはみごと統一された。
゙|゙゙゙''' ‐‐''""' ';:::;r==,、 さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
. |エi> ,' イiエ> レ'゙,r .,l }
i. / Y./ノ さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
l { .、 /
', ` '' ' rTヲ
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