★★★名族 六角氏について語ろう★★★
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0001人間七七四年
2007/04/30(月) 00:25:36ID:38W/qyPM楽市楽座の創始でもある六角氏
の繁栄と没落の歴史を語りましょう。
0002人間七七四年
2007/04/30(月) 00:28:19ID:rTUH2RODあんなに簡単に信長に殲滅されたのは何故でしょう。
観音寺騒動はそれほど影響が大きかったのでしょうか。
0003人間七七四年
2007/04/30(月) 00:35:40ID:w+GIntyK&
観音寺騒動の重臣処刑で臣下の信用を失う
のダブルコンボ
もっとも観音寺騒動は
前時代的な六角家の体質から仕方無かった事かもしれない。
同じような大名体質の毛利も重臣の井上を粛清してる。
0004人間七七四年
2007/04/30(月) 00:41:29ID:OB3HGR7W0005人間七七四年
2007/04/30(月) 00:52:07ID:oJkKs0Wo秀頼の師範なんかをやってる。
今川氏真なんかも剣術の使い手だったりするし
なんか意外だ。
こういう家を滅ぼした大名って
惰弱で文化に耽ってるイメージがあるから。
0006人間七七四年
2007/04/30(月) 00:55:38ID:9ELOfEuY久政は破ってる
0007人間七七四年
2007/04/30(月) 00:59:26ID:s4A414d30008人間七七四年
2007/04/30(月) 01:07:30ID:rTUH2ROD久政はなかなか優れた人物に思えてくる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E4%BA%95%E4%B9%85%E6%94%BF
0009人間七七四年
2007/04/30(月) 01:16:46ID:s4A414d3信長に負けたり、優れた将ではあるんだろうがツメが甘い感がある。
0010人間七七四年
2007/04/30(月) 07:17:16ID:m4Wii13Uその気になればいつでも殺せたろうに
止めささないからゲリラ活動されたりしてるのに
それとも信長初期=追い詰めて滅ぼす余力がなかった
信長末期=わざわざ殺す価値もなくなった というふうに巧くやり過ごせたのかな?
義賢も義治も天寿全うしてるのは不思議だ
0011人間七七四年
2007/05/01(火) 22:21:21ID:BnWaDBxM0012人間七七四年
2007/05/04(金) 00:55:49ID:iQPmeMdP六角の野郎が単独講和したために…
0014人間七七四年
2007/06/10(日) 04:18:43ID:enJairP20016名無しさん@そうだ選挙に行こう
2007/07/29(日) 04:58:11ID:5eBCqSSs0017人間七七四年
2007/08/01(水) 09:15:14ID:UczQve3n0018人間七七四年
2007/08/01(水) 13:46:41ID:ITTxSEz40019奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/08/01(水) 23:59:40ID:gBs/+xIo0020人間七七四年
2007/08/02(木) 03:58:34ID:o4rPsSYWキリンビールのロゴマーク作った人でもあるが
0021人間七七四年
2007/08/27(月) 20:24:22ID:5U6SbxxU0022人間七七四年
2007/09/01(土) 04:20:24ID:x1hDn15+0023人間七七四年
2007/09/02(日) 03:38:42ID:S2fOeiBT元祖・楽市楽座の人だっけ? 一城一国令(城割)とかも。
0024人間七七四年
2007/09/02(日) 18:10:50ID:qTj6swZo0026人間七七四年
2007/09/27(木) 02:55:31ID:ppzTSM4W0027人間七七四年
2007/09/27(木) 07:10:40ID:vacYy9t+0029人間七七四年
2007/09/28(金) 00:03:07ID:8I2o486V0030人間七七四年
2007/10/16(火) 10:37:55ID:Ataf/MRd聖徳太子や嵯峨天皇が縁起に出てきて すごく歴史があるね。
0031人間七七四年
2007/10/24(水) 07:04:04ID:oKk/FIlI0032たられば君
2007/10/24(水) 09:19:18ID:w3bwv5Wk0034人間七七四年
2007/10/26(金) 04:49:05ID:wOqwDUftこれを裏付ける一次資料とかあるの?
0035人間七七四年
2007/10/26(金) 19:46:53ID:btEO0NXp佐々木哲がいくら頑張っても、偽系図説が全否定されたわけでもないし
0036人間七七四年
2007/10/27(土) 18:58:20ID:p8lpY8KRすごく胡散臭いとは思うがばっさり削るだけの見識もないので触らないでいるが
0037人間七七四年
2007/10/27(土) 20:26:06ID:xkvWF84w「独自の研究」とか貼った方が良さそうだなw
0038人間七七四年
2007/10/27(土) 20:38:31ID:fOqQLUu70039人間七七四年
2007/10/27(土) 21:20:06ID:2ekJ8y+Y0040人間七七四年
2007/11/15(木) 14:36:59ID:JgvtHkIM0041人間七七四年
2007/11/15(木) 19:57:13ID:JIvXsaQy0042たられば君
2007/11/15(木) 22:03:43ID:e/lBtL130043人間七七四年
2007/11/16(金) 18:06:14ID:r/qwZRcQ滅びちゃったの?
0044たられば君
2007/11/16(金) 19:41:29ID:lNCTreVM京極も六角も
0045人間七七四年
2007/12/04(火) 15:42:20ID:NdWa2UB20046人間七七四年
2007/12/20(木) 16:26:43ID:pBjAQ5rC0047人間七七四年
2008/01/07(月) 21:42:31ID:vI4ZvpRf0049人間七七四年
2008/01/07(月) 22:44:18ID:dpZ8Hp+R長政>>六角家(承偵・義治)>>久政だったから
0050人間七七四年
2008/01/09(水) 00:15:02ID:H7iwddhY佐々木は名字(武家様)。
当初は使い分けていたが江戸時代にムチャくチャになったんだよ。
佐々木の宗家は、あくまで六角家。
京極家は、あくまで庶家(巨大すぎではあるが)。
六角家が京極に命令することはあるが、反対はない。
0051人間七七四年
2008/01/09(水) 01:43:49ID:a4xbzgej0052人間七七四年
2008/01/09(水) 13:49:35ID:Q6Mz8SAX近江の守護は六角
近江の分郡守護と出雲・隠岐の守護が京極
幕府は別にして
佐々木氏族としてみると
京極家は六角家の支族にすぎない
0053人間七七四年
2008/01/20(日) 23:44:28ID:Kbyz6OtEそうだけど、何か?。
0054人間七七四年
2008/02/08(金) 14:17:17ID:zxZU8Zn+義材以降はそれはそれは頼りにされたけど。
0055人間七七四年
2008/02/10(日) 18:27:43ID:LzaN2exa一族を争わせて漁夫の利を得るのは足利幕府がよくやる手口だしw
0056人間七七四年
2008/02/12(火) 05:36:37ID:I428IPkV0058人間七七四年
2008/03/02(日) 18:37:57ID:eLaXaYcs京極氏に高氏という名君がいて室町初期に差がついた
この2つも大きそうだ
0059人間七七四年
2008/03/03(月) 17:34:56ID:qJiE/g4bこのままじゃ六角家じたいがトンデモ大名になるぞ
0060人間七七四年
2008/03/19(水) 15:40:49ID:IzFBhXNa>鎌倉幕府が倒れるとき、六波羅探題側についたこと
時信ですか。最期まで北条仲時に助力したようですね。
ところで時信の時は偏諱?誰の?
0061人間七七四年
2008/04/04(金) 15:43:08ID:/9ucZUnnもしくは高時や守時とか
0062人間七七四年
2008/04/04(金) 18:00:29ID:5q0rjZsnwikipeの記事書いてんの本人じゃねーの?
>>59
あれはひどいな。
0063人間七七四年
2008/04/10(木) 12:39:23ID:GUntiG2e0064人間七七四年
2008/04/10(木) 23:08:49ID:twxJwYH4http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185234886/
0065人間七七四年
2008/04/28(月) 16:10:20ID:Dvw+Kbf+0066人間七七四年
2008/04/28(月) 16:50:15ID:c3aTUioA0068人間七七四年
2008/04/29(火) 10:36:15ID:50NQrZ3z0069人間七七四年
2008/05/15(木) 16:15:37ID:HuTtWqDf0070人間七七四年
2008/05/21(水) 12:07:48ID:YBVKVr0C0071人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/07(土) 10:15:02ID:FoxH+MAV0072人間七七四年
2008/06/23(月) 14:58:56ID:IShbO+kB0073人間七七四年
2008/07/08(火) 15:12:07ID:GlNgy7nD0074人間七七四年
2008/07/22(火) 01:01:27ID:ySH9vFQo0076人間七七四年
2008/07/25(金) 00:44:53ID:yOPJX69/0077人間七七四年
2008/07/25(金) 19:04:57ID:nMKSC/Vf近世まで大名として残ったのはまさかの復活劇を果たした京極だけ?
0078人間七七四年
2008/07/25(金) 21:06:36ID:7csxUzNY0080人間七七四年
2008/07/27(日) 07:07:07ID:zdkNC+Zz今時佐々木なんて腐る程いる
0081人間七七四年
2008/07/28(月) 02:22:47ID:lmu91bUs0082人間七七四年
2008/07/28(月) 22:28:57ID:61f06by2戦国武将だって家系の捏造しまくってんだ。
六角の末裔として誇りに思うも、信じないでスルーするもお前しだい。
0083人間七七四年
2008/07/29(火) 22:39:02ID:33Nfjn1P東北の佐々木率の高さは異常
歴史的な裏付けもハッキリしないし、一体なぜなんだぜ?
0084人間七七四年
2008/08/12(火) 17:00:45ID:X3WKrfMs0085人間七七四年
2008/08/13(水) 08:48:04ID:RzlQpoBw0086人間七七四年
2008/08/14(木) 01:32:42ID:frcSbaf/義治の阿呆さはともかくとして、どうもあの騒動は、
誰かが明確な意志を持って巧妙な筋書きを書き、
義治に実行させたようにおもうのだが。
はて蒲生賢秀はどれほど、この件に関与してたかのかな。
0087人間七七四年
2008/08/14(木) 09:05:16ID:mpslGPNv0088人間七七四年
2008/08/14(木) 12:31:40ID:L5mYeDGi比較するなら、能登畠山氏が重臣達から追放された事件か?
奇しくも六角氏と血縁関係にあるけど。
0089人間七七四年
2008/08/29(金) 15:24:36ID:4WKmmxid0090人間七七四年
2008/08/29(金) 15:29:42ID:jBBH8HqR騒動の何の真相?
筋書きって何が目的? 誰か得をしたの?
何が言いたいのかよくわからない。
ただのよくある大名と国衆との揉め事と何が違うといいたいのやら。
0091人間七七四年
2008/08/29(金) 17:53:09ID:gv/0dgL1義治式目なんて、明らかに大名権力を掣肘する傾向があるものだし
0092人間七七四年
2008/08/29(金) 20:25:56ID:x4bH3SqN0093人間七七四年
2008/09/11(木) 07:39:09ID:ipjkVRS10095人間七七四年
2008/09/27(土) 04:23:03ID:D68452Mw詳しく。
0096人間七七四年
2008/09/27(土) 08:17:35ID:2rV+hiuN0097人間七七四年
2008/09/29(月) 03:40:10ID:fRIdZNxj0098人間七七四年
2008/10/12(日) 22:43:41ID:JfZqbmFF0099人間七七四年
2008/10/13(月) 01:11:57ID:ziHm6GIl「歴史マニア」という定義があやふやすぎ。
小学生の歴史好きでも広義では「歴史マニア」だし、小学生レベルの捏造なんて簡単に見破れる。
しかし家系図学などに精通した「歴史マニア」だとそうそう簡単には見破れないはず。
また捏造することがよくあることなのかどうかはわからんよ。
家系の捏造は犯罪行為ではないし、捏造した本人が言い出さない限り表に出てこない。
ただ、歴史に詳しい者が家系図の捏造やデッチアゲに関わったのは事実かと。
戦国時代には公家がお金を貰って新興大名の家系図を作ってたのは
加賀前田家や秀吉の逸話からも間違いないと思われ。
まぁ、捏造捏造言う前に、自分ちの家系の伝承の傍証ぐらい自分でとってこいと思うがね。
菩提寺や過去帳、先祖代々の墓とか調べない奴が多すぎる。
0100人間七七四年
2008/10/13(月) 03:36:30ID:F5c7B24j0101人間七七四年
2008/10/13(月) 04:34:21ID:LV6nA7hO>菩提寺や過去帳、先祖代々の墓とか調べない奴が多すぎる。
程度の低い捏造をする家系にそんな発想があるわけない
菩提寺って何?ってレベルだろ
0102人間七七四年
2008/10/14(火) 20:14:53ID:tTt3h9o+そもそも「六角氏の残党」って家伝が本当なら、「六角氏の末裔」じゃなくて
「六角氏の旧家臣」なのでは?
まあ、六角氏から分かれて家臣となった家の可能性もあるけど。
0103人間七七四年
2008/10/25(土) 19:57:52ID:eiS/Rr2p0104人間七七四年
2008/11/13(木) 15:20:58ID:Fc6XYGqI0105人間七七四年
2008/11/13(木) 21:49:50ID:97vRefxp0106人間七七四年
2008/11/21(金) 21:05:28ID:EpFVySOS「六角義堯」なる人物がいます。
で、彼について「六角義賢の子」とする説もあれば
「義治=義堯は誤りである」という説もあって
一体、近江六角(佐々木)氏と、どういう関係にあったのか?なかったのか?が
いまいちはっきりしません。
一言で言うと、彼はどのような人物なのでしょうか?
義賢と直接の血縁関係にあった人物?それとも一族?それとも姓が同じだけで無関係?
0107人間七七四年
2008/11/22(土) 02:14:18ID:u4eRt8O00108人間七七四年
2008/11/22(土) 02:23:52ID:WkcwqPKN0109人間七七四年
2008/11/22(土) 03:03:34ID:BrM7EVvf彼らが一番活躍し得たのは応永の乱とかそこらだろう
0110人間七七四年
2008/11/22(土) 03:11:51ID:WkcwqPKNつーか、明応の政変で、軍事組織としての奉公衆が解体したから、戦国時代になっちゃったんだけどね。
明応の政変以降の奉公衆は軍事組織ではなく、将軍の警備隊みたいな感じ。
0111人間七七四年
2008/12/05(金) 15:02:18ID:BNtOmfPF0112人間七七四年
2008/12/06(土) 01:53:27ID:afTNyVFI0113人間七七四年
2008/12/22(月) 15:48:10ID:QgHBP6md0114人間七七四年
2008/12/23(火) 19:49:00ID:Q9vXw7xF0115人間七七四年
2008/12/31(水) 13:54:53ID:hyhb+Sqk早くたどり着かないとあかんぞ。
0116人間七七四年
2009/01/11(日) 00:20:40ID:bidf8gjd0117人間七七四年
2009/01/11(日) 01:48:18ID:njMVZWq2朽木に永平寺の直末で寺建立してる
0118人間七七四年
2009/01/27(火) 15:38:49ID:g6EkkVRT0119人間七七四年
2009/01/30(金) 20:01:07ID:C+qOQxgg尋ねたら子孫だそうです。
あちこち散り散りで、北海道から九州までいるそうです。
江戸時代は、差し障りあり他の氏名を名乗ってたけど、
明治になって昔の家名を名乗ることにしたそうです。
信ぴょう性は、不明。。
0120人間七七四年
2009/02/03(火) 23:35:48ID:991oKdKM0121人間七七四年
2009/02/04(水) 00:43:21ID:M7tLJolk0122人間七七四年
2009/02/13(金) 00:20:04ID:hzInXlMJ佐々木姓だしまさか子孫が調子のいい事書いてるんじゃねーだろうな
0123人間七七四年
2009/02/13(金) 00:23:34ID:z6O3/prA朝倉義景六角出生説の信憑性が気になる。
0124人間七七四年
2009/02/13(金) 02:45:54ID:caDOWz6v正直、氏綱の子孫の話など、かなり電波な印象を受けたな。
六角出生説も、推測だけで成り立ってる印象だね。
0125人間七七四年
2009/02/13(金) 09:24:54ID:PbRti8hc義景六角説だけは当たっているのかも知れん。
0126人間七七四年
2009/02/13(金) 13:05:01ID:23TqTx6e0127人間七七四年
2009/02/13(金) 13:05:44ID:23TqTx6e0129人間七七四年
2009/02/13(金) 14:08:23ID:qTxGyWJc数十本の旗を借りたネタがあるが
この頃織田とは友好関係だったのかな?
0130人間七七四年
2009/02/13(金) 19:08:45ID:xxBOhsmQ桶狭間合戦の頃って信長は斎藤義龍と対立中で、
その義龍と六角が対浅井戦略等もあって同盟中じゃなかったか?
義賢は義龍との婚姻に反対だったみたいなんでアレだが。
武功夜話が元ネタだということだし、信憑性は低いんじゃね?
0131人間七七四年
2009/02/13(金) 22:17:00ID:XAOgOlhBなんかうさんくさい史料を引っ張り出して継ぎはぎして自説に有利にように
もって言っているって感じ。
左馬頭と名乗る六角一門とかありえないと思うけど。
朝倉義景が養子ってのも、朝倉氏と六角氏が末代まで守ると取り交わした盟約(内容は書かれていない)
ってのが、養子の件に違いない!とか。
昔同じような内容で(日本史板だっかかな?)突っ込みいれたなあ・・・
0132人間七七四年
2009/02/14(土) 03:11:59ID:JEsfs14O0133人間七七四年
2009/02/14(土) 22:07:30ID:yzo7D2A40134人間七七四年
2009/02/21(土) 03:53:01ID:tSF9SM8L0135人間七七四年
2009/02/21(土) 05:49:42ID:n03iX7ZE佐々木みたいな電波にしか見抜けないよな。
気違いだけが暴ける真実というやつかw
0136人間七七四年
2009/02/21(土) 10:09:23ID:iZWzj2ZQ0137人間七七四年
2009/02/21(土) 10:15:11ID:iZWzj2ZQこの人は安祥松平氏と関係があるんでしょうか?
0138人間七七四年
2009/02/21(土) 10:35:58ID:7devNDV1意外にも、野武士っぽくてカッコよかった。
0139人間七七四年
2009/02/21(土) 15:18:29ID:eDN+YJBw0140人間七七四年
2009/02/21(土) 16:06:58ID:7WB/Cb5v京極氏の代官ではなく、公家の日野家の代官な。
大浦庄の代官で、大浦と争った菅浦が訴訟で敗れると、
菅浦征伐のために三河から軍勢を連れてきたとあるから(「菅浦文書」)
三河の松平氏と同族なのは確実だろう(安祥松平氏は益親の頃にはまだ成立していない)。
系図上では泰親の子とされ、信光の兄弟とされる。信光は長親の祖父。
活動時期は確かに信光と重なっている。
0141人間七七四年
2009/03/07(土) 15:11:14ID:9+UbqAd0そうなんだ
0142人間七七四年
2009/03/21(土) 15:31:16ID:gtsLozZN0143人間七七四年
2009/03/21(土) 21:47:44ID:XR8rbes3六角氏のページを読んで一気に代金をどぶに捨てた気分になった…
0144人間七七四年
2009/03/21(土) 22:22:49ID:wE7oMjgM0145人間七七四年
2009/03/21(土) 22:28:22ID:XR8rbes3取り上げられてる三代とは、氏綱、義久、義秀
0146人間七七四年
2009/03/22(日) 01:29:01ID:vveYrz810148人間七七四年
2009/03/23(月) 13:01:12ID:vciQMLDc0149人間七七四年
2009/03/28(土) 21:49:08ID:HwlqcNaL0150人間七七四年
2009/03/29(日) 20:54:08ID:CpcjzCjHこの盟約を子々孫々まで守ろうね って記述から
そんなに大事な盟約は、養子の件しかありえない(キリッ
逆に、期限付きの盟約って当時あったかな?
神に誓ったりするのと同じで、一種の決まり文句だと思うんだけど。
あと、六角氏から若狭武田氏に嫁入りしたという史料と、
義景の母親は、若狭武田氏出身だという史料を足したら、あら不思議。
やっぱり六角氏出身ということなんだよ! って斜め上の結論につながるらしい。
歴史読本探したら、もう次の号しか売ってなかった。図書館とかにあるかなあ。
0151人間七七四年
2009/04/08(水) 01:22:33ID:okTXbnzr歴史系出版社なのに過去の歴史から何も学ばないんだな
0153人間七七四年
2009/04/08(水) 12:05:05ID:M8QV63Q2節操ないからな。
相変わらず、研究者の論文から、作家のアレな文章までごった煮だし。
佐々木哲はこないだの執筆陣でも群を抜いて電波だし、まともに
相手している学者なんているのかね
0154人間七七四年
2009/04/08(水) 21:16:53ID:6foVl3roまじかよ?
0155人間七七四年
2009/04/09(木) 17:51:08ID:a9jqosZUバックナンバーアマゾンで買えるぞ
http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_ss_gw?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&url=search-alias%3Daps&field-keywords=%97%F0%8Ej%93%C7%96%7B&x=15&y=19
0156人間七七四年
2009/04/18(土) 13:14:28ID:CTMzxXjf0157人間七七四年
2009/05/01(金) 13:31:15ID:RJEO12pe0158人間七七四年
2009/05/03(日) 19:49:12ID:ezWzcjW70159奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2009/05/04(月) 05:27:58ID:RBnN/mDj0160人間七七四年
2009/05/08(金) 17:04:23ID:rVh7muhR親からは、信長と戦って負けた(?)から名前を変えさせられたと聞いたような
気もするけど定かではないです。
あと、関ヶ原の戦いではうちの一族は西軍・東軍に分かれて戦ったそうですが、
自分の直系のご先祖様は東軍についたらしいのですが、そうなんですか?
マイナーな人過ぎて分からん。
詳しい人教えてください。
0161人間七七四年
2009/05/08(金) 17:52:31ID:+EgToUTLそうなんですか?
といわれても困るんだが。
0162人間七七四年
2009/05/10(日) 00:05:23ID:g8wQQt0+0163人間七七四年
2009/05/12(火) 11:55:58ID:46Myve9d0164人間七七四年
2009/05/14(木) 19:34:17ID:1l3E6ACv今の苗字は澤。
家紋はひし形が4個あるやつです。
割菱というやつです。
0165人間七七四年
2009/05/14(木) 19:57:13ID:pMMSnyEChttp://kirisai.hp.infoseek.co.jp/meyui.jpg
これ?
これは四つ目結紋と言って、確かに六角佐々木氏の家紋。
割菱だと武田家の
http://www2.harimaya.com/sengoku/buke/takeda.jpg
これになってしまうが。
0166人間七七四年
2009/05/15(金) 20:46:09ID:Y3lR279R菩提寺のある場所はどこだ?
江戸時代から「沢氏」なら大和宇陀郡の沢氏の一族で、
家紋も割菱や四ツ目じゃなく本来は井桁紋で、角立太井筒紋を菱型の紋に間違ったんじゃね?
四ツ目を憚って割菱にするとは考えにくいし(出自を大事にするのが普通だからな)。
まぁ、先祖探しの基本は墓参りと菩提寺参りだ。
菩提寺があるなら過去帳が残ってるかもしれん(戦災等で無い場合もある)。
親や親戚の口伝のみって場合は絶対に信用するなよw
0167人間七七四年
2009/05/18(月) 20:30:05ID:j/y9kqb9先祖の墓は戦争(か区画整理)で移動されてしまいました。
お盆に家に帰って親に詳しく聞いてみます。ついでに墓参りもしようかな。
関係無いけど、もう亡くなったけど曾祖父は俳句やら茶道やら芸術に
通じた人だったらしいので、先祖も芸術に秀でた人だったらいいのにな
と思ってたんですけど。
さすがに関係ないかな。
0168人間七七四年
2009/05/30(土) 11:43:56ID:hTyjFiRW0169人間七七四年
2009/06/15(月) 15:53:06ID:swGkGtc30170人間七七四年
2009/06/18(木) 09:18:32ID:iVi+pVGp前半ならなんとか…
…ないか?
0171人間七七四年
2009/06/18(木) 17:34:51ID:jB6KrgdV0173人間七七四年
2009/06/18(木) 21:17:34ID:jB6KrgdV少しでもマイナーな人物を削除して役者の数を減らし、
視聴者の注意を一部の重要人物と有名人だけに集めさせる。
もちろんここには有名なイケメン俳優をもってくる。
この大河もまたイケメンと三傑が大活躍する話になるさ。
0175人間七七四年
2009/06/18(木) 22:11:24ID:jB6KrgdV天地人で山内上杉の存在がどうなされたかを考えたら、
とても期待できないってすぐにわかると思うよ。
これは六角氏に対する愛情からの助言です。
0176人間七七四年
2009/06/18(木) 23:30:24ID:/V46+sCb>上杉でいうと山内上杉が近いんじゃない?
は浅井氏の場合にそれに当たるのは京極氏ではないですか。
浅井氏にとって六角氏は戦火を交える敵である時期が長いですが。
>これは六角氏に対する愛情からの助言です。
これは出ないほうがマシという意味ですかな?それはそうかもしれませんな。
ところで「助言」って誰に対する助言ですか。NHK?
0177176
2009/06/18(木) 23:33:44ID:/V46+sCbの冒頭の「は」は削除漏れです。スマン。
0178人間七七四年
2009/06/19(金) 01:58:33ID:3rXlet5y越後上杉は山内の格下ではなく、むしろキングメーカー的な立場であるから、
京極氏とは異なる。
>助言
もちろん六角氏ファンに対する助言ですよ。大河に出ることなんか期待してると痛い目にあいますよ。
今年の大河の惨劇をみてくださいw
0179人間七七四年
2009/06/19(金) 08:26:20ID:V/VipQ6v…『愛』!
0181人間七七四年
2009/06/19(金) 11:07:25ID:CT6coxdE0183人間七七四年
2009/06/19(金) 16:12:50ID:x8GbehMJ0184人間七七四年
2009/06/19(金) 16:45:56ID:V/VipQ6v0185人間七七四年
2009/07/01(水) 17:14:41ID:Vy0qYiAR0186人間七七四年
2009/07/09(木) 16:07:24ID:Dp5Sv112義賢、義治の半生ならだいたいわかってるけど…
楽市楽座導入くらいかな?
0187莫邪 ◆Bakuya.ugA
2009/07/09(木) 22:43:50ID:gqKviI3S浅井久政を屈服させ、事実上近江一国を統一したり
0188人間七七四年
2009/07/09(木) 23:16:19ID:Dp5Sv112やっぱそのへんの時代が六角家最盛期みたいですね。
0189人間七七四年
2009/07/17(金) 15:59:07ID:kPdgPhmo0190人間七七四年
2009/07/21(火) 20:10:19ID:UTRMqaD8近江国の正式守護は、六角氏でした。その時、北近江守護は、
軍事部門に限り京極氏でした。
しかし後、北近江地域の軍事部門以外の権限も京極氏が吸収し、
事実上京極氏は、北近江半国守護になります。
京極氏が北近江の実権を握った結果、
六角氏は南近江守護になってしまいます。
その後、戦国時代になり北近江の京極氏は、浅井氏に下克上されます。
その結果、
北近江は、浅井氏が支配し、南近江は六角氏が支配することになりました。
そして、織田信長登場後、両者とも信長に滅ぼされることになります。
0191人間七七四年
2009/07/21(火) 23:43:46ID:DD6S+isd0192人間七七四年
2009/07/22(水) 00:21:41ID:5rexemMg三雲氏の子孫さんから貴重なお話を聞けたんだけど、このスレ覗いてたりしないかな・・・
0193人間七七四年
2009/07/22(水) 00:26:24ID:Y3pViGHH貶してるんだか有り難がってるんだか・・・・w
0195奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2009/07/22(水) 07:40:06ID:6sG4oOSP0196人間七七四年
2009/07/22(水) 20:50:59ID:5rexemMgスレを立てたのは俺、そこへ子孫の方がこられた。
当然、有り難がってるよ
「三雲成持の話題だけで1000を目指すスレ」(159)
0197人間七七四年
2009/07/23(木) 01:08:52ID:k079aLZS夏休みにでも行こうかな
0198人間七七四年
2009/07/23(木) 10:50:33ID:6VjvDSY9もう復活はあきらめて甲賀あたりでひっそり人生すごしたんでしょうか?
0199人間七七四年
2009/07/24(金) 06:37:44ID:k8vqh8VO諸説あり。
縁戚の能登畠山を頼ったとか、本願寺に属してたとか。死んだのは京都。
とりあえず表舞台には信長にやられた後出てこない
0200人間七七四年
2009/07/24(金) 20:29:26ID:sE/DRGYx六角は東軍側で戦って家康が所領を与えようとしたけど断ってる
0201人間七七四年
2009/07/25(土) 00:26:43ID:zh7v1rmgまたまたご冗談を。
0202人間七七四年
2009/07/25(土) 11:07:18ID:trzOmXuX少なかったんじゃないか?
被官は多かったろうが、信用できる支配関係にある豪族・国人が少なかったんだろう。
0203人間七七四年
2009/07/25(土) 13:22:11ID:VGBg7LRJ0204人間七七四年
2009/07/25(土) 18:50:00ID:NvvJACl10205人間七七四年
2009/07/25(土) 18:59:46ID:VGBg7LRJ土地にしても人にしても、多くは間接的な把握に留まっている。
これに対して戦国大名は、その領国の土地も人も、ほぼ直接に把握している。
これが点と面の違い。
0206人間七七四年
2009/07/25(土) 19:33:24ID:NvvJACl10207人間七七四年
2009/07/25(土) 22:27:43ID:QaMXR1Dp0208人間七七四年
2009/07/25(土) 23:29:20ID:4PadFD6L家来って書いてるから把握しにくいんじゃないかな?
守護大名の家来は大きく言うと2種類あり、直属家臣と国人衆。
直属家臣は領地を守護から知行されるという形をとることが多く、守護の直接支配を受ける。
国人衆は朝廷や幕府から与えられた土地を昔から守り続けていることが多く、
行動方針は地縁に基づいているため守護の命令を必ずしも聞かない。
守護大名は直属家臣<国人衆であるため>>205のいう点の支配が多いが、
戦国大名は国人衆の家臣化を進めて直属家臣>国人衆となり、面の支配を行うようになる。
大雑把にいうとこんなもんか。
206は国人衆も守護の直属家臣だと見なしてるんじゃないかな?
0209人間七七四年
2009/07/25(土) 23:37:09ID:0j5mKzY6武田・上杉なんかが信長に遅れを取った大きな一因だよね。
0210人間七七四年
2009/07/26(日) 01:10:18ID:cREjXz9lいや、むしろ信長の体制は、武田、上杉に比べてすら立ち遅れていた。
仕組みとして守護大名と大差無いのが信長の織田家。
彼は晩年になってようやく戦国大名化したといってもいい。
0211人間七七四年
2009/07/28(火) 19:15:09ID:lvp0IyJA信用して、大丈夫なのか?
http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/26215/1/cdats-hub7-4.pdf
また、江戸初期編纂の六角氏の伝承の江源武鑑(偽書とも言われる)にも、該当年次に、楽市はありませんでした。なぜ、楽市という先駆的な事跡を記録しなかったのでしょうか?
安土楽市令は、信長の天下布武の朱印状。美濃加納楽市令は、信長の花押。
に対して、今堀日吉神社文書のほうは、六角氏の当主の花押はなく、家臣の連署状である。
他にも、今川氏真の富士の浅間神社の門前市の楽市のほうが先だという主張もあるらしい。
六角、今川といずれも信長に敗れ去ったという共通点。負け惜しみか?
神社の古文書というのも怪しい。
0212人間七七四年
2009/07/29(水) 08:57:39ID:y3UfHl7j0213人間七七四年
2009/07/31(金) 12:23:12ID:SbW9K6WD0214人間七七四年
2009/08/12(水) 01:38:52ID:GuoFKKya0215人間七七四年
2009/08/19(水) 21:47:56ID:5tBwqBWx0216人間七七四年
2009/08/31(月) 15:24:48ID:zWh1QhNz0217人間七七四年
2009/09/14(月) 15:29:11ID:dmQpSkLs0218人間七七四年
2009/09/15(火) 08:31:14ID:v89eKfeB0219人間七七四年
2009/09/15(火) 20:51:34ID:PH3Bhlvh三代約5、60年に亙って影響を与えたと思うが?
細川氏のように強い影響を与えたというわけではないが、
足利氏の分裂・細川氏の内訌で衰えゆく幕府を支えた一方の雄だとは思うぞ。
0220人間七七四年
2009/09/16(水) 08:12:58ID:ur3Jf2i50221人間七七四年
2009/09/16(水) 20:54:05ID:hPZoh3SA幕政に関わりがあったかといえば??だが、
足利義輝と三好長慶の対立では義輝を擁護してる。
三好氏も足利氏側に立つ朽木・六角を警戒していた。
長慶の義輝に対する最終的な妥協は背後にいる六角義賢に対する牽制とも取れる。
能動的に幕府に関わることのみが「幕府に対する影響力有り」というわけではあるまい。
義賢個人よりも「六角氏」という看板の影響力が重要なわけで。
0222人間七七四年
2009/09/16(水) 21:43:56ID:l8Y4Cd+k0225人間七七四年
2009/09/29(火) 15:15:13ID:zvwpTz6F0226人間七七四年
2009/10/09(金) 15:02:05ID:tWGd3wYx0227人間七七四年
2009/10/10(土) 17:41:16ID:oYDNSNrI0229人間七七四年
2009/10/11(日) 16:46:51ID:k31OjwBM畠山家はどう?
0230人間七七四年
2009/10/14(水) 22:58:12ID:GdOiooOk0231人間七七四年
2009/10/23(金) 15:37:06ID:Wh7DcGIS0232人間七七四年
2009/11/04(水) 15:48:28ID:UcwDFKo60233人間七七四年
2009/11/14(土) 15:35:22ID:jyCSqZPJ0234人間七七四年
2009/11/24(火) 20:45:48ID:cmD7RtEYコレが六角家滅亡の原因のひとつではあるし?
まぁこれだけ長く続いた大名家だと一族や家来の中でのいろんな派閥争いや闘争が起こるのはしかたないだろうけど。かなり残念。
0235人間七七四年
2009/11/24(火) 22:28:15ID:fY1FyHFC0236人間七七四年
2009/12/02(水) 12:43:55ID:2Q2gx/Bh六角義治は当たり前の努力として守護権力の強化に取り組んで、
六家老はじめ重臣たちは当たり前の反応として大名専制の試みに反発した
結果的には、義治が後藤殺害という形で打ち出した改革への試みは、
重臣団の抵抗に守護権力が全く弱体化している事をさらけ出しただけに終わった。
古今東西よくある話に過ぎない。
この時期にやらなくても、ってのも数年後を考えたら却って遅すぎたぐらい。
0237人間七七四年
2009/12/03(木) 20:35:01ID:efT23ZBX0238人間七七四年
2009/12/03(木) 20:53:44ID:efT23ZBXもちろん浅井長政が主人公なんですが六角氏は四大特徴のある強敵として描かれてました。
@日本一ともいえる日置吉田流の弓術隊
A五畿内一の騎馬隊
B琵琶湖を完全支配する水軍
C精悍無比の甲賀武士団
確かに小説なんで多少はオーバーに描かれてはいると思うんですが実際はどうだったんでしょうか?
0239人間七七四年
2009/12/11(金) 04:58:19ID:cBqAkqSd良くも悪くも六角の軍隊は国人の寄せ集めなので。
そう言うシステマチックな軍隊を作るためには、大名権力の強化が必要だった。
それをしようとした。でも失敗した。
0240人間七七四年
2010/01/10(日) 09:00:50ID:tl+EREPn0242人間七七四年
2010/02/13(土) 06:26:40ID:TBa0UuH3まあ名門だから騎馬武者は多いとは思うけど
0243人間七七四年
2010/02/13(土) 20:22:27ID:GRlooN5z@当主や家臣に弓の免許皆伝持ってる人はいるけど、
弓隊が特筆するほど六角の戦いで活躍したって記述は見た記憶が無い。
Aこれも確か義賢が馬術の免許皆伝だったはずだが、騎馬隊の活躍も見たことないな。
B琵琶湖水軍(堅田衆)は、それ程戦闘力無い。末期は浅井と六角の間でいったりきたりしてる。
完全支配?してたと言えるのかな・・・半ば独立勢力的に動いてたような
C甲賀の国人衆が軒並み六角に好意的だったのは事実だけど、末期はその辺も離反した連中多いからなあ
また甲賀出身の国人衆が六角配下として活躍したってのも「鈎の陣(長享・延徳の乱)くらいのような
0244人間七七四年
2010/03/11(木) 16:43:09ID:3TnXr/uB@については、蒲生郡誌に、三雲三郎左衛門が弓隊を組織して京都での三好との合戦で松永久秀の部隊を退けたという記述がある。
0245人間七七四年
2010/03/11(木) 16:52:01ID:FG/VMiAj以前むすみ氏って読んでたよorz
0246人間七七四年
2010/04/28(水) 02:46:42ID:6BSazFy3縄張りとか、何か情報ありますか?
ネット上だと伊豆の山中城ばかりがヒットして
城郭に関する本も何冊か調べたんですが
やはりマイナーなのか、近江山中城の情報がないんですよね…
0247人間七七四年
2010/09/13(月) 20:54:09ID:OaKUJGRl信長にボロ負けしたイメージが強すぎて可哀想だね
でも何でボロ負けしたんだろう
0248人間七七四年
2010/09/13(月) 21:01:07ID:XbIv01Km0249人間七七四年
2010/09/13(月) 21:26:49ID:LBSOPPrqつーか、観音寺城落された後も何年間もゲリラ戦やっているわけだから、
本拠が落ちたらそれで終わりの大名(武田・朝倉とか)と違って即滅亡とは言えないのでは。
優勢な敵に対してはさっさと城を明け渡して伊賀・甲賀地方に引き篭もるってのが伝統的な戦術で、
観音寺は平時の館、伊賀・甲賀地方が他の大名で言う詰めの城ってイメージ。
後北条氏が上杉・武田に小田原城を包囲されても領国支配体制が崩壊しない(秀吉には負けちゃったけど)のと同じで、
他の大名と違う防衛システムが出来上がっているとか。
0250人間七七四年
2010/09/13(月) 22:54:43ID:XbIv01Km朝倉とか武田は有力一門(朝倉景鏡・穴山信君とか)が寝返ることで
一応、(一時的にだけど)御家存続には成功してるので
本拠落ちておしまいというわけではない。
一部の一門が勢力を残したまま降伏するのが勝ちなのか
当主自らゲリラ戦しなきゃならないといけないほうが勝ちなのか
結果は瞭然じゃないの
0251人間七七四年
2010/09/14(火) 00:58:16ID:HswwrTbU長慶と対峙すれば良かったんじゃないかなぁ
0252人間七七四年
2010/10/16(土) 22:38:17ID:Zo19u32m戦国IXAというヤフーの無課金ゲーがあるんだけど
ここで六角同盟を作ったので六角好きの人は来てちょー
(六角家は大名として存在しないので、浅井家の中にいます)
http://w008.sengokuixa.jp/alliance/info.php?id=35063
0253人間七七四年
2010/10/16(土) 22:39:57ID:nSpzLkX8雨森弥兵衛くらいしか登場してなかったきがす
0254人間七七四年
2010/10/25(月) 06:19:01ID:vcUEhMyA六角勢は皆無だね。蒲生さん辺りはいてもよさそうなもんだが
そこ出自の武将が充実してるのって織田・徳川・上杉・武田くらい?
あとはスカスカだよね
んで、なんで東北が伊達じゃなくて最上なのか気になるw
0255人間七七四年
2010/10/25(月) 15:31:41ID:5gf0kgkA0256人間七七四年
2011/02/05(土) 09:20:59ID:JwPwSN/O0257人間七七四年
2011/02/05(土) 15:29:09ID:S82ZZblY0258人間七七四年
2011/02/05(土) 16:22:37ID:ZjgjOKxN六角ゲリラパターンは斎藤龍興もそうだよね。
0259人間七七四年
2011/04/19(火) 21:53:37.47ID:WIvXuDQY0260人間七七四年
2011/07/20(水) 19:51:49.06ID:tnaTvlOP0261人間七七四年
2011/09/04(日) 16:17:05.77ID:SrktjNeZ佐々木哲は六角氏と見做しているみたいだけど、
江州宰相(足利義晴)を六角義久とか言っちゃう人だからな・・・
0262人間七七四年
2011/09/06(火) 10:59:15.95ID:XapTZmhA0263人間七七四年
2011/09/06(火) 15:12:19.77ID:F2KR8B/u0264人間七七四年
2011/09/06(火) 18:21:26.89ID:a4xOGbXR六角義秀だよね?
0265人間七七四年
2011/09/06(火) 19:14:12.19ID:WIXzBOBG0266人間七七四年
2011/09/06(火) 19:32:15.93ID:WIXzBOBG六角義治は天正元年くらいから義堯と改名して足利義昭と鞆にいる
0270人間七七四年
2011/09/07(水) 01:15:10.40ID:2r/URuVt和田惟政の所とか矢島とかに
0271人間七七四年
2011/09/07(水) 07:41:56.07ID:L8SXHiUP六角氏綱の子孫は、織田・豊臣・徳川・細川・三好・武田ら他の大名側の史料にも登場せず、
唯一根拠となるのが沢田源内の著作のみで、後は日記等に登場する氏名不詳の人物を
苦しい理屈でこじつけただけですけど、それは「デタラメ」と言わないの?
0272人間七七四年
2011/09/07(水) 07:50:36.76ID:L8SXHiUP足利義栄と足利義昭はどちらも左馬頭だから、
「左馬頭殿」と呼んでも区別できないから
「江州殿」と呼んだんでしょ
0273人間七七四年
2011/09/07(水) 08:13:07.88ID:8OvkAMwN0274人間七七四年
2011/09/08(木) 23:01:58.24ID:Tw6rEOXA実名敬避俗で実名で呼ばれず敬称で呼ばれている高位の人物である為に実名史料がほとんど無く
三次史料の信長公記に登場しないと言うだけで存在を必死に否定してるだけだろアホが。
と言うか存在してると信長に不利になるから意地でも認めないだけ。
0275人間七七四年
2011/09/09(金) 00:27:46.07ID:vvHR0HHL佐々木氏も似てた理由を著書でちっとも触れてないし。
0276人間七七四年
2011/09/09(金) 06:14:58.88ID:/MFBXcoH六角氏綱子孫の話で実名敬避俗は当てはまらないのでは?
実名敬避俗とは諱を避けることであるが、
例えば、「義久」という諱だけで呼ばれている人物を
こじつけで六角氏と認定しているだけでしょ。
そもそも高位なら朝廷側の記録に「源義久」と必ず残るよ。
六角氏綱の子孫は織田・豊臣・徳川・細川・三好・武田ら
他の大名側の「一次史料」にも登場していないよ。
0277人間七七四年
2011/09/09(金) 06:20:22.70ID:/MFBXcoH活動時期がかぶらなくて、年代的に花押の形が継続している人物は同一人物と見做す、
というのが歴史学の原則だと思うけど、
それを否定したら、他の改名した人物についても同一人物だと認定できないよね。
0278人間七七四年
2011/09/09(金) 06:45:46.19ID:/MFBXcoH>信長(略)は、九月二十六日江州殿とともに義昭を奉じて京都に入洛を果たした(『お湯殿の上の日記』永禄十一年九月二十二日条)。
>この江州殿は義秀だろう。ただし義秀が傷病に苦しんでいたことを考えれば、実際に入洛したかどうかは疑問である。
>『言継卿記』に江州殿の記事がないことからも、彼自身の入洛はなかったと考えられる。
『お湯殿の上の日記』には、信長と江州殿しか登場せず、江州殿を六角義秀と仮定すると「足利義昭に相当する人物」が登場しない。
『言継卿記』には、信長と足利義昭しか登場せず、六角義秀に相当する人物は登場しない。
二つの史料を合わせて解釈して、江州殿=足利義昭、となる。
「江州殿は傷病に苦しんでいたから『言継卿記』に登場していないだけ」という理屈では、
『お湯殿の上の日記』で、「足利義昭に相当する人物」が登場しない理由にはならない。
0279人間七七四年
2011/09/09(金) 11:42:27.32ID:Zs7aZw6y亡命後の大半は越前にいたのに
一時的に近江にいたからと言って江州様などと呼ぶと主張するのは恣意的解釈過ぎる。
そもそも上洛行動時の義昭や信長は三好派の一部公家からは賊呼ばわりされたりしてる。
また時代によって敬称が変わっている人物が別の家の史料で名前が違うからといって
別人とか存在が確認されないと言う主張もおかしい。
0280人間七七四年
2011/09/09(金) 11:58:09.72ID:6jTPSgNW恣意的というよりむしろ説得力あるだろう
0281人間七七四年
2011/09/09(金) 17:12:26.66ID:Zs7aZw6y吉田神社経由による非公式の左馬頭任官じゃねぇかw
だから賊呼ばわりされてるわけだが。
0282人間七七四年
2011/09/09(金) 19:04:11.85ID:/CPCAqlb『言継卿記』や『多聞院日記』に、足利義昭や織田信長は記載され、六角義秀は記載されていないのに、
『お湯殿の上の日記』に登場する「江州殿と信長」という二人のなかに足利義昭は含まれず、六角義秀が含まれる、
というのは変だと思いませんか?
>>279>義昭を江州様(ママ)と呼ぶなどと一次史料で一切出てこないし、
六角義秀を江州殿と呼ぶ一次資料も無いですよ。
足利義昭の父・義晴は「江州大樹」「江州宰相」と呼ばれていたのに、
奉じている足利義昭を差し置いて六角義秀を「江州殿」と呼ぶ方が変だと思いませんか?
0283人間七七四年
2011/09/09(金) 19:40:25.58ID:Zs7aZw6y信長らと違い義昭の入京は遅れてるのも知らんのか
0284人間七七四年
2011/09/09(金) 19:52:23.16ID:/CPCAqlb0285人間七七四年
2011/09/10(土) 01:23:26.27ID:qCbcylC40286人間七七四年
2011/09/10(土) 05:57:10.10ID:pD9k8QDJ「公方」「上意(様)」「将軍」と日によって異なっているから、
書き手が異なる『お湯殿の上の日記』でも表記のゆれが発生するのでは?
0287人間七七四年
2011/09/10(土) 13:32:57.38ID:KGkZvNDDなので、例のブログの記事(下記参照)は、ブログ主の想像か沢田源内の創作(『江源武鑑』?)が根拠だと思われます。
『お湯殿の上の日記』『言継卿記』『多聞院日記』の該当箇所には足利義昭と織田信長しか登場せず、
六角義秀に相当する人物は登場していないことを確認しました。
http://blog.sasakitoru.com/200602/article_55.html
>信長(略)は、九月二十六日江州殿とともに義昭を奉じて京都に入洛を果たした(『お湯殿の上の日記』永禄十一年九月二十二日条)。
六角義秀実在説を唱える人は、最低でも「江州殿」が登場する一次資料を提示しないと今のところ信憑性が全く無いでしょう。
そのうえで「江州殿」が六角義秀か足利義昭かを議論すべきでしょう。
0288人間七七四年
2011/09/10(土) 13:50:12.41ID:OjaJWX+V変だと思ってたんだ。永禄十一年通して無かったのか。
ブログの中の人はどういう勘違いをしてるのかな?
0289人間七七四年
2011/09/10(土) 13:58:15.46ID:58vp2u2A「てうしとの(江州殿)・かつさ(上総)」とあるそうだけど。<永禄十一年九月二十二日の条
0290人間七七四年
2011/09/10(土) 14:21:50.86ID:KGkZvNDD「ひかしよりてうしとのかつさいて候につきて(以下略)」
永禄十一年九月二十六日の条
「一てういんとのきよみつまで御しやうらく
みつふちきやうふのたゆふみやうはんまいらせられて
おたのかつさおほせつけられ 御けいこかたく申付られ候よし
御申候よし くわんしゆ寺申さるる」
「一てういんとの」=一乗院殿=足利義昭
「おたのかつさ」=織田上総=織田信長
「みつふちきやうふのたゆふ」=三淵刑部大輔
「一てういんのふけ」(永禄十一年十月六日の条)
「をたの大将(略)ふけより(不明)」(永禄十一年十月八日の条)
「ひかしよりてうしとのかつさいて候」で「江州殿(と)上総」と読むのはかなり恣意的。
0291人間七七四年
2011/09/10(土) 14:37:44.64ID:58vp2u2A0292人間七七四年
2011/09/10(土) 14:53:45.52ID:KGkZvNDD「こかのちこ御めんにて けふさんたい申さるる ひきにきぬ二ひきすへてまいる
きちやう所にて御たいめん なかはしより御てうし まき色々まいる
御やうきうあり」(六月六日)
「なかはしよりたいの物 御てうしまいりて 御やうきうあり
あしたとくしやうしゆゐん御みやくにまいる」(七月二十二日)
「上らふより御てうし みるまいりて よし田より御はらいまいる」(七月二十九日)
「御やうきうあそばす 大す しん大すけ殿 長はし御三人より御てうし
たいの物まいる」(八月二日)
八月三日から七日、九月六日などに「てうし」が出てきます。
0293人間七七四年
2011/09/11(日) 01:06:17.23ID:xlbodad+足利義昭の可能性はゼロなんだよな…
0294人間七七四年
2011/09/11(日) 07:20:45.70ID:qWWnWTA6「六角義秀と織田信長が足利義昭を奉じて上洛」と解釈した
某ブログの中の人のデタラメさがはっきりした、ということ。
0295人間七七四年
2011/09/11(日) 13:24:49.19ID:ryMfLZC90296人間七七四年
2011/09/11(日) 14:04:39.59ID:Ho0RcIzj「なかはし」=長橋局=勾当内侍
「上らう」=上臈、ら女官が多いね。
「みつふちきやうふのたゆふ」は
「みつふちひやうふのたゆふ」とも読めるので
同じ日の『多聞院日記』にある
細川兵部大輔(藤孝)のことですね。
0297人間七七四年
2011/09/12(月) 02:40:17.19ID:j3bi6vuF足利義昭だと捏造解釈して破綻すると今度は「御てうし」と同一視を開始し「上使殿」だと無理くり解釈するとかwww
次々と大嘘を繰り返し吐いててワロタw
何で西からではなく東からやってくるんだよw
じゃあ上使って誰のことを指してんだと認識してんだよw
0298人間七七四年
2011/09/12(月) 06:17:05.77ID:Q1gmsADrとしたうえで、「江州殿」を六角義秀に比定していたから、
「江州殿」という人物が一次資料に出てくるとしたら、それは足利義昭だろう、と思いました。
しかし、原典にあたったところ、「ひかしよりてうしとのかつさいて候につきて」という記載
だったので、他の用語例から見て、「てうしとの」を「江州殿」と読むのは不可能と判断しました。
「東よりてうし殿」を「一てういん」と同一視するつもりは全く無いですよ。
「てうしとの」は足利義昭のことではなく、もちろん六角義秀のことでも無いと思います。
>>297が「東よりてうし殿」を六角義秀のことと考えているのでしたら、根拠をお願いします。
0299人間七七四年
2011/09/12(月) 06:28:07.91ID:Q1gmsADr「信長(略)は、九月二十六日江州殿とともに義昭を奉じて京都に入洛を果たした」と解釈することこそが捏造だと
思うのですが、>>297はどのように考えているのでしょうか?
0300人間七七四年
2011/09/12(月) 06:33:08.75ID:r0rpjYdiだから、義昭の上使という考えはできる。
0301人間七七四年
2011/09/12(月) 12:51:54.01ID:+bqaPzEl誰かしらみつぶしに調べないかな?
0302人間七七四年
2011/09/12(月) 19:44:22.18ID:4RzvFmDN「かうしふとの(江州殿)」という記載が見つからなかった以上、
もはや「てうしとの」はどうでもいいような気もするけど
0303人間七七四年
2011/09/12(月) 21:14:43.88ID:rJ/UTNXr0304人間七七四年
2011/09/12(月) 22:07:45.95ID:j3bi6vuFまさか御てうしが同一だとバカな勘違いをしてるのか?
0305人間七七四年
2011/09/12(月) 23:01:51.64ID:r0rpjYdiだから「てうし」が「江州」になるのが最初からおかしい。
0307人間七七四年
2011/09/13(火) 02:16:35.06ID:rv0JWCr70308人間七七四年
2011/09/13(火) 06:05:18.76ID:mMQbYspXとあるなら「こうしとの」に読めるということはないだろうが、
もしも「こうしとの」を「江州殿」を読んでいたとしたら、筆者の素養を疑われるかと
0310人間七七四年
2011/09/13(火) 07:47:18.05ID:mMQbYspX0311人間七七四年
2011/09/14(水) 21:15:46.52ID:7NTrY9XGし
しゅ
す
とか読めるしな
0312人間七七四年
2011/09/15(木) 06:27:01.61ID:Hr/Jv2T+「こうし」と書いて「江州」と読ませるなら、
せめて同じ用例を見つけないと無理
0313人間七七四年
2011/09/15(木) 07:39:06.88ID:Hr/Jv2T+「ひかしよりてうしとのかつさいて候につきて」を
「六角義秀と織田信長が足利義昭を奉じて上洛」と解釈するには、
@「てうしとの」を「こうしとの」の誤記と仮定
A「こうしとの」を「かうしふとの」=「江州殿」と読む
B「江州殿」を六角義秀と推定
という3段階の論証が必要だけど、Bは
近江守護なら「江州殿」と呼ばれるはずだ、という希望的推測であり、
少し前に「江州」と呼ばれた人は足利義晴であることを考えるとかなり苦しい。
そもそも六角義秀が近江守護ということ自体を証明するのも無理だろうけど。
0314人間七七四年
2011/09/17(土) 13:00:22.87ID:wuG3Rhxpかつさ(上総:織田信長)を敬称つけずに呼び捨てなのは、『お湯殿の上の日記』記入者の立場からでしょ。
てうし”との”って敬称付きで、かつさの前に記載しているってことは、
朝廷の序列からみて、織田信長と同列に置けない立場ってことだよね。
それからみても、てうしとのが、大名クラスの武士を指しているってことはないんじゃないの?
上使(天皇の使者だから本人の位にの高さに係なく)とか足利義昭を指すというならともかく。
0315人間七七四年
2011/09/18(日) 13:57:07.50ID:SKtlWOcjまた同時期の書状で義秀が登場していて
江州殿が義秀である可能性は高い。
義秀遠行之趣絶言語儀候 承禎帰国者近可有之条
各尤油断有之間敷候 武田事若州可相催之間寄特候
委細沢田兵部少可申述候 謹言
五月十一日 信長
浅井備前守殿
そもそも義昭が江州殿とする合理性がない。
江州殿の地位を継承したの者が承禎親子から大本所と呼ばれる義堯だろう。
そしてその2人の間に氏郷が存在し
朝倉と信長が和睦した同日付けの信長→山岡宛で
国主が還附候とも〜と近江の国主が存在してることを示している。
氏郷は蒲生郡に比叡山を再建したことは
信玄→上野(義昭側近)での織田を倒して比叡山を復興させると言ってるのにつながる。
お湯殿の上の日記で「かめこまん 中御たるしん上申」と書いてあり
亀寿(義秀)と中(氏郷)が一緒に音物を献上しているなど
義秀の後見人と見られ、義秀と義堯の後見をしていた人物だろう。
六角本家は朝廷と関わりが深く、承禎親子は朝廷との関係が深くないのが史料から見える。
0316人間七七四年
2011/09/18(日) 16:05:36.73ID:SKtlWOcj江州大樹と呼ばれていたのを拡大解釈してるに過ぎない。
大樹とは将軍のことを示唆しており
将軍の義晴が幕府を観音寺城へ移転させたから江州大樹と呼ばれていたに過ぎない。
義昭は将軍にすらなっておらず、そもそも観音寺城にすら入城できなかったのに
江州殿を義昭とするのこそ希望的観測。
江州宰相は参議=相公の地位にいる者に付けられるもので
六角義実であり、この人物が京都政界に参加してる時期に
六角嫡子の幼名である亀(義秀)が天皇家にいろいろと献上してる記事が登場する。
観音寺城にいた義晴と近衛尚道の娘の婚儀にも四郎殿親子が登場しているが
六角四郎の子息が亀だと思われ、その三ヵ月後に義晴が入京したが
六角四郎(江州宰相)も供奉してる。
0317人間七七四年
2011/09/18(日) 21:33:10.22ID:Xnc5cLlI足利義昭が入京直前(永禄十一年九月二十二日以降)にいた観音寺城内の桑実寺は、
足利義晴が仮の幕府を置いていた場所だということを知らんのか?
「亀」が六角氏というのもこじつけだよ。
足利義晴の幼名も亀王だし、この時代の人の幼名は鶴亀松竹梅ばかりだよ。
「義秀遠行・・・委細沢田兵部少可申述候」の文書も沢田源内が偽造した文書だとわからないのか?
六角義実が参議になったという記録は全くない。
「こうしとの」を「江州殿」と読める類例を教えてくれw
0318人間七七四年
2011/09/18(日) 22:53:51.61ID:EzYQ/Ox8『戦国遺文』読んだら、その違う花押を使っている書状だけ「治(花押)」なんだよね。
他の数十通の書状は全部「義治(花押)」と名前を略してない。
「治(花押)」だけ六角氏じゃない、全くの別人なのではないかと。
0319人間七七四年
2011/09/19(月) 09:38:03.85ID:I8qv9F3F(一時期、義治の記録が残っていない時期だけ義堯の記録がある)
義治後期(元亀頃)の花押と義堯初期の花押が同一型
こういうときは同一人物とみなす
(別人だということを証明するのは難しい)
0320人間七七四年
2011/09/19(月) 13:04:26.89ID:UhCeUBB6>>足利義晴が仮の幕府を置いていた場所
知ってるが、その義昭が入った時期は承禎らが甲賀へ撤退して
六角氏伝統戦術の甲賀・伊賀でのゲリラ戦に移行した時期でしょう。
そりゃあ承禎らがいなくなったんだから入れるが
しかしそれは入京直前の話であり屁理屈に過ぎない。
>>鶴亀松竹梅ばかりだよ
そんなことないよ。
>>沢田源内が偽造
その根拠は?
>>六角義実が参議になった
系図を信じるか信じないかは任すが
丸亀藩主京極氏旧蔵の六角佐々木家系略や
沙沙貴神社所蔵佐々木系図で従三位参議兼近江守として義実が記される。
幕府から近江守護に補任され、朝廷から国司である近江守の官職ももらい
父の氏綱も近江守に補任されているので江州殿と呼ばれるに相応しい。
>>類例を教えてくれ
類例を探すなんて言ったら外の言葉もみんな類例のない事例がたくさんあるだろ。
そんな無理な要求をするもんじゃないよ。
少なくとも「こう・し」を「江・州」とあてることは不自然ではないでしょ。
>>319
活動時期はかぶってる。
義治の書状での署名で以前まで義治の下に花押していたのが
天正3年までに「治」や「右(右衛門)」の下に花押を書く変更をしており
義堯はそのまま変わらず義堯の下に花押してる。
しかも明らかに「治」ではなく「堯」と書いて花押し続けてる。
義堯が江州殿の後継に成長したために義治が変更している証拠で
しかも義治の花押も弧を描かなくなっている。
河田文書(上杉)や吉川文書(毛利)で義堯は
また別な花押が使用されてるし(書止めが跳ねたり跳ねなかったり)
そもそも承禎から山中文書において
池田景雄(六角重臣で信長に仕えていた江州衆)が義堯の使者として
承禎の元へやってきて父子相談したと書いてある。
三河方面のことや三好甚五郎ら四国衆渡海、義堯挙兵を義昭が期待してること
なども書いてある。
このことから義堯が承禎親子と反対に信長方に付いていたのも明らかで
信長と上洛戦を主導した江州殿の後継者であることもわかる。
お湯殿の上の日記における亀千代(義堯)が1552年11/27に髪置をしているが
公家式では2歳で行われるため元亀3年で22歳(義治は亀松丸と呼ばれたから別人)
坂内文書においては承禎はまだまだ若輩の義堯を大本所(天正4年)と呼んでおり
義治は承禎を御屋形(永禄9年)や大御屋形(元亀元年)などと呼んでおり序列も判明する。
また黒川文書で義堯はくわしい内容は賢が申すと書いており、承禎が義堯の下の格付けである。
謙信宛の書状でも承禎は謹上と書いて宛名を書いており厚礼だが、義堯の謙信宛には上所がない。
義堯は武田や本願寺や義景遺児や小早川や一向一揆にも
書状を出しているが、いずれも義治のものとは思えない。
0321人間七七四年
2011/09/20(火) 06:58:58.23ID:Io5DmSXy>将軍の義晴が幕府を観音寺城へ移転させたから江州大樹と呼ばれていたに過ぎない。
義昭は将軍にすらなっておらず、そもそも観音寺城にすら入城できなかったのに
江州殿を義昭とするのこそ希望的観測
と言っていたから、足利義昭は(足利義晴が仮の幕府を置いていた観音寺城内の)
桑実寺にいた、と書いたのだが。
しかも「ひかしよりてうしとのかつさいて候につきて」を本当に「江州殿」と解釈できるなら、
まさに該当記事の日辺りに桑実寺に入っているのは、天下に対して、
「江州大樹」の子がその後継者たることを示したものだろ。
六角義秀(?)と織田信長に触れながら、(桑実寺にいる)足利義昭のことに触れない、
と解釈するほうが「屁理屈」だろうが。
大内氏も亀童丸であり、足利義晴(江州大樹)も「亀」だったのに、
名字不明の「亀」を全て六角氏と解釈するほうがおかしいだろ。
まともな史料に登場しない「沢田兵部少」が信長と浅井長政の取次をする、
という時点で沢田源内が作った、と考えないほうが毒されすぎ。
>丸亀藩主京極氏旧蔵の六角佐々木家系略や沙沙貴神社所蔵佐々木系図で従三位参議兼近江守
それが朝廷の記録に残っていない理由は?
織田・豊臣の記録から抹消されたと主張するのは陰謀論者の典型だが、
徳川や他の大名の記録にも残っていないという時点で気づけよ。
>「こう・し」を「江・州」とあてることは
文語と口語がごっちゃになっていないか?
「江州太守」「江州刺史」と「江州殿」は全く違うぞ。
土岐氏が「濃州殿」と呼ばれるような事例があるか?(どうでもいい話だが)
0322人間七七四年
2011/09/20(火) 21:22:27.07ID:kfRdPj7T佐々木氏の本を信じれば、その頃すでに六角義秀が元服しているのだが…。
定頼・義賢父子の名前はあるし、場所も坂本だから、参加しない理由は無いはず。
0323人間七七四年
2011/09/21(水) 02:23:24.72ID:chjeUqWEだから陣代を担がなくちゃいけなくなって、
そのせいで内部分裂してる。
0324人間七七四年
2011/09/21(水) 19:32:47.16ID:UN0bvUfZ佐々木六角氏の先祖の何人かが豊臣方に味方したので徳川に味方した先祖は姓を佐々木から澤に変えたという話を祖父から聞きました。
家紋は墓にも彫ってありますが丸に隅立て四目です。
50年ぐらい前までは滋賀県の大津市に貸家もあって月に一度、家賃を受け取りに行くのに一緒に行ってました。
明治になってからかどうかわかりませんが最後は曽祖父は京都で造り酒屋をしていました。家の宗旨は曽祖父から日蓮宗でした。
大津市近辺で佐々木系澤氏について何かご存知の方はおられないでしょうか?
祖父も父も年配の親族も死んでいますので詳しいことはわかりません。
0325人間七七四年
2011/09/21(水) 21:00:46.81ID:/DAJDIAD六角義治と六角義堯の活動時期がかぶると言っているのは
「先度被申候、池田使昨夕来候、上文候所も無之候、申談之候間、
然處義堯之文申旨候者、夜前申来候者事、申□□能□候、何共
難計躰之条、昨夕父子迄相談候、夜中ニ人被越候、子細事、
一途於覚之可申候、書中ニハ難申置候、□□具不申、相申次第、
是有間敷候、乍□其□候、申子細共候、□□□□三州表之儀
候、可寄候、又四国衆等え者、渡海之事申遣候、三好甚五郎
罷上など申候、二□□□□、以上申来候、猶京都相聞候、出座
之儀者、態可申候、此砌弥郡中之儀、才覚可為肝要候得、
猶青可申候、恐々謹言、十月二日 承禎(花押)」(山中文書)
を元亀三年と解釈し、
「狛修迄之内、存聞届候、尤神妙候、東北此通候間、馳走肝要候、
猶賢可申候、謹言、二月廿日 義堯(花押)黒川修理進殿」
(黒川文書)を天正二年と解釈しているからでしょ?
三好甚五郎を誰だと考えているか知らないですけど、
政勝は元亀二年に一任斎と呼ばれているし、
可正は元亀三年では若すぎますよね。
三州表は武田勝頼時代(天正三年頃)の話でも矛盾しませんよ。
黒川文書の年次比定の根拠は七月十五日付承禎書状で
辻和泉守という別人が使者になったときの文書とからめて
天正二年と判断している時点で無理がありますよね?
ここで「賢」を義賢と解釈するのもどうかと思いますが・・・。
0326人間七七四年
2011/09/21(水) 21:08:27.24ID:/DAJDIAD「光源院殿御代当参衆並足軽以下衆覚」
(足利義輝時代と足利義昭時代)なら
たとえ病弱でも名前くらいは記載されるはず
ですが、六角義賢と義治しかいませんね。
0327人間七七四年
2011/09/22(木) 08:31:21.60ID:XCNTIja2>佐々木六角氏の先祖の何人かが豊臣方に味方したので徳川に味方した先祖は姓を佐々木から澤に変えたという話を祖父から聞きました。
残念ですが、この手の”本当は○○氏の子孫だが、追求を逃れるため・・・”ってのはよくある話ですが、眉唾ものだと思います。
大坂の陣参戦者でも、合戦直後はともかく、ずっと犯罪者扱いで徳川家から追われたわけではありませんから。
例えば、肥後細川家の家老米田是季(長岡監物)は、一旦細川家を離れて大坂入城していますが、
元和8年に元の細川家に帰参しています。
まして参加した当人でないなら、そこまで身を隠す必要はないと思います。
0328人間七七四年
2011/09/22(木) 19:48:40.98ID:OGtK8PvC聞いた話では追求を逃れるためではなく姓を変えるのが条件のような形でそのまま徳川の配下になったようです。
大津近辺でかなりの土地持ちだったそうなので暇が出来たら戸籍をたどってみることにします。
0329人間七七四年
2011/09/24(土) 11:18:16.41ID:y1dydDyr『天文三年甲午六月八日江州於桑実御台様むかへニ御祝目六』(内閣文庫所蔵)で
「六角殿ゑほしにて御参、御色直ニハ四郎殿父子御参」とある「四郎」とは「六角四郎」
と解釈しているけど、前段の「六角殿」と「四郎殿父子」とを同じ六角氏と考えられのかな?
そういうときは「六角弾正少弼殿」「同四郎殿父子」と同じ名字でなおかつ区別がつくように
書かれると思いますが。
あえて同じ六角氏だと解釈するなら「六角殿と四郎殿(の)父子」と解釈するのでは?
すなわちここでの「四郎殿」は六角義賢と言うのならわかりますが。
0330人間七七四年
2011/09/24(土) 13:10:50.59ID:y1dydDyr1519年12月 佐々木四郎・・・隆頼?定頼?
1520年 六角高頼死去
1521年 六角義賢誕生
1525年 5月 六角高頼?(朝倉始末記)
1526年 5月 某隆頼願状・・・定頼?
1534年 5月 御曹司様伊崎へ御参・・・義賢?
1534年 6月 六角殿(略)四郎殿父子・・・定頼&義賢父子?
1534年 6月 大樹坂本御滞留六角四郎并小原等供奉仕云々・・・義賢?
1534年10月 四郎殿様御在京・・・義賢?
1535年 5月 御曹司様・・・義賢?
1535年 7月 四郎殿様・・・義賢?
1535年12月 御曹司様・・・義賢?
1536年 御曹司様・・・義賢?
1537年 1月 某宗能安堵状
1537年 六角定頼 近江守護補任
1537年 5月 御屋形様御祝言・・・定頼
1539年10月 六角上洛子息上洛今度左京大夫云々・・・義賢
1541年10月 佐々木四郎公能
0331人間七七四年
2011/09/24(土) 23:13:37.36ID:7UiMBtR2>「六角殿ゑほしにて御参、御色直ニハ四郎殿父子御参」
(婚姻の儀式?に)六角殿が烏帽子姿で参上した。
その後の御色直しには(六角殿に加えて)四郎殿親子も参上した。 ってことで、四郎殿父子は六角一族って解釈でいいのでは。
前の文章と関連しない人物の場合なら、(例えば)細川四郎殿父子みたいにはっきり判るように書くような気がする。
ただ、普通に考えると、御色直しにだけ出席が許されている四郎殿父子は、どちらにも出席している六角殿より
地位が低いと思うんだけど、佐々木さんはそう考えないんですね。何故か。
現代の場合でも結婚式>>披露宴>>2次会って感じでランクがあって、血縁が近かったり社会的地位があって招待されないと
より大事な場面には出席できない。
六角殿が(六角)四郎殿の代理ってのも考えにくい。
ただ六角殿って書いてあったら当然当主を指すわけで、代理なら六角殿の代理の○○殿という感じではっきり書くと思うので。
0332人間七七四年
2011/09/25(日) 10:04:38.27ID:OUR7uMoZ>1537年 六角定頼 近江守護補任
>1537年 5月 御屋形様御祝言・・・定頼
これって、年齢的に考えて、義賢のことじゃないの?(数えで17)
0334人間七七四年
2011/09/28(水) 14:55:36.43ID:j0tXiWJd家督を継ぐ=守護職補任ってほぼ同時期だと思ってました。
官位は家督を継いだあとも、だんだん家格にしたがって上がっていく場合がありますけど。
ってことは高頼が死去した後、1537年に定頼が守護になるまで20年近くは近江守護は空席?
後、例えば同時期の下記に挙げたような人たちも、家督は継いだけど正式な守護になっていない可能性もありますかね?
系図などの記録では守護の肩書が付いていますけど。
駿河守護
今川氏輝
1526年 家督相続(14歳)
1536年 死去(24歳)
能登守護
畠山義続
1545年 家督相続(?歳:姉妹が義賢室なんで同年代と考えると20代半ばくらい?)
畠山義綱
1551年(?歳:父義続と共同統治、おそらく10代)
1566年(下克上で追放、おそらく20代半ばから後半)
0335人間七七四年
2011/09/28(水) 20:15:01.00ID:wpiw8HHB六角定頼が隠居したのなら17歳での守護職補任もあるだろうけど
9年後に定頼が管領代になっているから、まだ定頼が守護じゃないかな?
六角義賢と畠山義総女の婚姻は1539年だろうし。
0337人間七七四年
2011/10/07(金) 19:19:56.12ID:9Z1gya1rなぜ義賢と確定できるのか不思議でならない。
0338人間七七四年
2011/10/08(土) 00:38:45.19ID:WI2y5qaS後藤とか蒲生のような最有力家臣にもいるしね。
0339人間七七四年
2011/10/08(土) 18:58:49.25ID:dQS7AVeP六角氏の被官が一字拝領しちゃうほうがおかしい。
鎌倉時代だったら、御家人同士で、烏帽子親から貰うってことはあるけど。
室町将軍が幼いからって、各地の守護や国人が管領や御一家の一字を貰ったりせずに、
ちゃんと将軍の一字を拝領しているのと同じ。
0340人間七七四年
2011/10/09(日) 10:16:40.82ID:Ey2WDJcT「猶青可申候」・・・青地氏か青木氏か青山氏
「猶賢可申候」・・・大原賢永?
既に承禎と名乗っていた人物を「賢」とは言わないだろ。
0341人間七七四年
2011/10/09(日) 10:30:17.86ID:d3ln5Fo0家臣ならちゃんと大原賢永とか大賢とか名前+職名なり書くだろう。
そもそも上位者がわざわざ承偵なんて呼ぶわけもないし。
0342人間七七四年
2011/10/09(日) 10:38:24.23ID:Ey2WDJcT0343人間七七四年
2011/10/09(日) 11:43:51.60ID:Ey2WDJcT上位者と言っても親子兄弟(同じ佐々木名字)だからとかじゃないか?
0344人間七七四年
2011/10/09(日) 14:06:37.35ID:KmXqjglS2 江州殿は義昭のことと主張して論破される
3 すると「かうしふ」は江州と読めないよ絶対に!
こりゃあ、いくらなんでも節操なさ杉じゃね?
さらに都合が悪いと沢田源内が偽造した文書に違いないと根拠すら挙げずに主張する始末。
そもそも佐々木氏郷(丸亀京極家と懇意)と
沢田源内を事実誤認で同一人物にしちゃうアホが建部賢明。
さらに沢田源内が生まれた時期に
江源武鑑が沢田源内によって著述されたとトンデモ発揮w
大系図評判遮中抄において沢田源内を乞食農民出身と中傷しまくり
ついでに建部賢明の主家の六角高定側が嫡流だと主張して
義治側の定賢が怒ってうちが嫡流だと争いになるバカぶり。
建部賢明の方が明らかにデタラメばっかり広めてるのは明らかな罠。
0345人間七七四年
2011/10/09(日) 14:21:31.32ID:9KzMFHBJ0346人間七七四年
2011/10/09(日) 15:26:50.82ID:Ey2WDJcT武田家にいたのは佐々木次郎であって義治では無い
0347人間七七四年
2011/10/09(日) 15:30:27.35ID:Ey2WDJcTそもそも「江州殿」という表記はどの史料にも見られないのに
「てうしとの」を「江州殿」と曲解した者が元凶だろ。
0348人間七七四年
2011/10/09(日) 15:43:23.53ID:9KzMFHBJ火病発症して今までの議論推移を全否定wちゃぶ台ひっくり返しワロタwww
0349人間七七四年
2011/10/09(日) 15:49:54.15ID:Ey2WDJcTちゃぶ台ひっくり返しというか、
今まで議論してた連中は(どちら側も)、
フィクションである「江州殿」という言葉を前提に議論してたマヌケ達だと思う。
0350人間七七四年
2011/10/09(日) 18:11:22.61ID:KmXqjglS承禎の書状
「猶京都相聞候」ってのが
京都に義昭がいる天正元年以前でないと辻褄が合わない。
近江の池田氏が織田側におり、池田の主人と見られる
義堯がこの時点ではまだ織田側にいることになる。
そしてその義堯が織田側から離反する内容であるが、
義治が織田側になっていた記録は存在しない。
親子というのを承禎と義治と解釈する方が自然。
10/2に三州表のことなど極秘情報の話をしており
10/3に信玄が西上作戦を開始したのと関係があると思われる。
義堯の書状
家臣の狛修理を「狛修」と呼んでいながら
別の家臣を「賢」と呼んだとするとダブルスタンダードで不自然である。
やはり承禎のことを指している(家臣だとたくさんいるからそれこそ職名を書くだろう)
しかも父に対しての書状なら猶賢被可申候と書くであろうし
また義治が父に出したのなら大御屋形と記述するはずで
いくら当主でも「賢」と呼び捨てにすること自体が不可解。
そもそも義治が父と離れた場所にいたとする記述は存在しない。
こちらの書状は東(武田)北(上杉)の共闘を匂わせているので
天正2年以降の書状でないと辻褄が合わない。
詳しくは>>320にて。
0351人間七七四年
2011/10/09(日) 18:16:40.36ID:KmXqjglS結局、大内氏当主の義興が亀童丸・義隆(1507年誕生)も亀童丸&足利義晴(亀王丸)しかいなかったのかね?
六角高頼は亀・亀子・亀寿子と呼ばれており、
「かうのうり(江の瓜)を献上する」かめ・かめこ・かめしゆが
六角当主の幼名だとしても問題無さそうだが(大内当主も義晴もそう呼ばれないだろう)
六角嫡子の亀は鞍馬寺へよく行くが、江源武鑑では義秀の愛宕詣の記事がよく出てくる。
1541年の証如上人日記に佐々木四郎公能と言う公家風の名前の人物が記録される。
佐々木四郎は六角家当主を指しており元服前の実名が公能と判明する。
(1545年12/5に亀は元服している・義治の誕生も1545年)
1550年5月観音寺城にて大屋形義秀と朱書で書かれる犬追物書が存在する。
その一方で1550年6/26を最後に亀の記事は登場しなくなる(義晴の近江逃亡と義晴の死去の時期)
同一人物と考えても良さそうだし、これらの名前を義賢や義治のことだとするのは難しいだろう。
(江源武鑑が偽作家の沢田源内が書いたものとする建部賢明本人がそもそもデタラメ詐欺師)
もちろん江源武鑑に書かれているすべてが事実とは言わない。
0352人間七七四年
2011/10/09(日) 18:25:49.33ID:Z0HS1Tgp>「てうしとの」を「江州殿」と曲解した者が元凶だろ。
つまり佐々木氏が諸悪の根源ですね。わかります。
0353人間七七四年
2011/10/09(日) 18:32:33.57ID:Z0HS1Tgp>佐々木四郎は六角家当主を指しており元服前の実名が公能と判明する。
「四郎」で「公能」なのに元服前とか意味不明なのだが…。
0354人間七七四年
2011/10/09(日) 18:37:53.03ID:3tRnPQyo>六角嫡子の亀は鞍馬寺へよく行くが、江源武鑑では義秀の愛宕詣の記事がよく出てくる。
つまり、江源武鑑の記述が正しいという立場からいうと亀と義秀は同一人物ではないってことですね?
筆者が六角氏に連なる由緒正しい人物なら、すぐ隣国の愛宕山と鞍馬寺を間違うような知識も土地勘もない人物であるはずもないし、
鞍馬寺と愛宕山は歴史的には全く関係ないし、方角も全然違うから片方寄ったついでに立ち寄るばなんてことも考えにくいし。?
0355人間七七四年
2011/10/09(日) 18:39:33.83ID:KmXqjglSわざわざ詐欺を働いて六角嫡流を捏造する意味があるんでしょうか?
27歳で死去した氏綱には嫡男がいないとして義久の存在を否定し
従って、さらに義久の嫡男の義秀も存在しないとするが、
義実の実名が「鹿苑日録」によって義久だと判明し浅井久政の「久」の出所も判明するのに実在しないとするのはおかしいのでは?
(六角家臣の新藤久治・深尾久吉・山中久俊などもいる)
0356人間七七四年
2011/10/09(日) 18:45:48.25ID:KmXqjglS亀の公家風の名乗りに合致するが
さすがに元服したら六角当主として武家風の名乗りをするだろう。
京の北方へ詣でている事実は変わらず
愛宕詣というのは著者の勘違いか誤伝だろう。
0357人間七七四年
2011/10/09(日) 18:54:44.13ID:Z0HS1Tgp0358人間七七四年
2011/10/09(日) 19:21:13.95ID:9KzMFHBJ義秀や義堯を否定したいなら
じゃあ登場する亀にしろ四郎公能にしろ
観音寺城の義秀にしろ
いったい誰だと主張したいのか明らかにすべき。
また義賢が大本所様と呼ぶ人物は誰なのか明らかにすべき。
0359人間七七四年
2011/10/09(日) 19:45:49.50ID:Z0HS1Tgp0360人間七七四年
2011/10/09(日) 19:47:15.95ID:9KzMFHBJ1534年(天文3年)なら
六角殿→定頼
四郎→義賢13歳
四郎の子→義治マイナス11歳
よって成立しませんよ。
六角殿→後見人定頼
四郎→六角嫡流の義実24歳
四郎の子→義秀2歳
これだとちゃんと成立します。
0361人間七七四年
2011/10/09(日) 22:25:27.70ID:3tRnPQyo逆、逆。 Aの史料に だけ 出てくる亀とか、Bの史料に だけ 出てくる四郎公能が同一人物であることを説明しなければおかしい。
AとBの登場時期がちょうどタイミング良くずれているだけじゃ亀が四郎公能になったと説明するのは無理ありすぎ。
例えば、Bの史料に幼名亀とあったとしたら、Aの史料と結びつけて考えてもいいかもしれないけどね
>>360
六角殿→定頼
四郎→義賢13歳
四郎の子→後に夭折、当時0歳(義治の兄)
これでも成り立つわな。
また、
>六角殿→後見人定頼
>四郎→六角嫡流の義実24歳
>四郎の子→義秀2歳
六角嫡流がいるのに、後見人を六角殿とは呼ばないだろ。
箕作殿→後見人定頼
四郎=六角殿→六角嫡流の義実24歳
四郎の子→義秀2歳 箕作殿
とかならともかく。
0362人間七七四年
2011/10/09(日) 23:24:15.94ID:Z0HS1Tgp『天文三年甲午六月八日江州於桑実御台様むかへニ御祝目六』(内閣文庫所蔵)
の存在自体がよく分からないのだが。
2007年に出した本のくせに内閣文庫所蔵なんて書いている時点で残念すぎるが、
国立公文書館デジタルアーカイブで検索しても、全く引っかからない史料。
ちゃんと再検証できるように正確に書いてもらいたいものだ。
0363人間七七四年
2011/10/09(日) 23:26:14.55ID:Z0HS1Tgp0364人間七七四年
2011/10/10(月) 15:59:19.98ID:KUXVvoUf「観音寺城の義秀」という一次史料に出てこない人物を根拠にされても議論にならない。
「亀」と佐々木四郎公能が同一人物というのは、ブログ主の推測に過ぎない。
「大本所」とは、家督の義治(義堯)を隠居の義賢が第三者に示すときに使う呼称と考えても不自然ではない。
それよりも、史料で「大本所」とあるのを「大本所様」と改変するのは何故?
こういう恣意的な改変を行うと、主張の信憑性に関わるからやめるべき。
0365人間七七四年
2011/10/10(月) 16:09:09.84ID:9292VdDU言ってることが無茶苦茶。
否定のために無理くりイチャモンつけてるレベル。
そもそも六角当主の証明がなされているにも関わらず
あえて、それらを否定しようとする人物を、
では誰を指すのか証明もできずに否定なんて成立しない。
もう0歳を連れて行くなんて屁理屈レベル。
江源武鑑って初版が1621年で、承偵の次男の高盛(高定)が
死去したのが1620年と言う、まだ当事者達の多くが生きている時代にだろ。
虚偽が堂々と書かれてもバレる時代だし
しかも好評で、版を重ね続けてるし
自分の主家こそ佐々木嫡流と必死に主張してた建部賢明なんて
大嘘つきだし、
大系図評判遮中抄だって1700年代に出版だろう。
0366人間七七四年
2011/10/10(月) 16:14:37.02ID:KUXVvoUf>そもそも六角当主の証明がなされている
学術的な手順を踏んだ証明がされていないから皆批判しているのですよ。
0367人間七七四年
2011/10/10(月) 16:24:32.86ID:9292VdDU現在において
どんな高名な方が批判してるのが
学者名を教えてください。
その方の論文を読んでみます。
0368人間七七四年
2011/10/10(月) 16:29:08.54ID:KUXVvoUf「高名な方」は誰も賛同していない、という事実ならあなたも知っていますよね。
0369人間七七四年
2011/10/10(月) 16:36:07.66ID:qnmaXjYg>江源武鑑って初版が1621年で、承偵の次男の高盛(高定)が
>死去したのが1620年と言う、まだ当事者達の多くが生きている時代にだろ。
最大の当事者である六角高盛が死んだから出せたという考えもできる訳だが。
0370人間七七四年
2011/10/10(月) 16:39:55.41ID:9292VdDU総括すると反論できない。もしくは黙認してると言うことでしょ。
義治が義堯と違うのは>>320で花印の話が書いてあるでしょうが。
それに信長公記に義治が鯰江城に承禎と籠城してるとする時期に
明らかに義堯は別の場所にいるのが書状からわかるわけだが。
0371人間七七四年
2011/10/10(月) 16:44:12.53ID:9292VdDU佐々木一族やその親類筋が全滅して
堂々とウソを出版しても批判されなくなるなんて
トンデモ過ぎて笑えるw
0372人間七七四年
2011/10/10(月) 16:56:29.40ID:KUXVvoUf「義治が鯰江城に承禎と籠城してるとする時期に明らかに義堯は別の場所にいるのが書状からわかるわけだが」
と言われても説得力が無いですよ。
0374人間七七四年
2011/10/10(月) 17:42:03.71ID:KUXVvoUf>京都に義昭がいる天正元年以前でないと辻褄が合わない。
根拠不提示につき理由不明。
>近江の池田氏が織田側におり、池田の主人と見られる義堯がこの時点ではまだ織田側にいることになる。
ここの「池田」が池田景雄かどうかも不明だが、当時の池田景雄が織田方であったとしても
相手方の六角義堯が織田方、とは限らないのでは?
>親子というのを承禎と義治と解釈する方が自然。
繰り返すようだけど「父子」を「親子」と改変する理由がわからない・・・。
「父子」は六角義賢&義堯、あるいは六角義賢&大原賢永でもいいと思うが。
「狛修」については「黒川修理進」という同じ官途の者への文書なので区別のために
名字を付けただけかもしれないし、「賢」は弟の賢永のことかもしれないので
何とも言えないが、少なくとも「承禎」入道を俗名の「賢」と呼ぶ方が違和感ある。
むしろ「堅田某」のことではないかと思えてくる。
花押の年次比定については、根拠が示されていないのでノーコメント。
酒を飲んでいるので文意が通じなかったら言ってください。
0375人間七七四年
2011/10/10(月) 18:04:03.40ID:bnZPIV4f>六角高盛が死んだら
>佐々木一族やその親類筋が全滅して
>堂々とウソを出版しても批判されなくなるなんて
>トンデモ過ぎて笑えるw
筆者の出自や記述内容に当時の佐々木一族の側から見て問題がないイコール
彼ら一族の家譜などの別系統の史料と内容が一致するイコール
現代の我々がそれらと比較・検証して、なるほど江源武鑑は信頼性がある史料だねと納得が出来るってもんだろ?
比較できる史料マダー(チンチン AA略
偽書として非難したり、筆者を批判した人は当時からいたみたいですけど
これは佐々木一族側からの批判ではないのですか?
0376人間七七四年
2011/10/10(月) 18:33:50.85ID:qnmaXjYg0377人間七七四年
2011/10/10(月) 18:42:22.85ID:9292VdDU正直、なにを言ってるのか理解できないレベルなんだが?
イチャモン・思いつきレベルで書かれてもな。
ケチつけてるのって面白いの?
それと改変とか恣意的と書いてるが
別にワザとやってるわけじゃなくて、パッと見して
キー入力してるから、無意識に間違えてるだけ。
0378人間七七四年
2011/10/10(月) 20:04:24.36ID:qnmaXjYgなぜ批判したのかちっとも分からなくなる罠。
0379人間七七四年
2011/10/11(火) 07:54:35.94ID:6C+nketJ六角義久という通説に反する事柄を主張するなら
主張者が他者を納得させるような論拠を示さないと
誰からも認められない、ということがわかりませんか?
あなたがちゃんと説明できていないから、
周りの人が不備な点を指摘しているのですよ。
0380人間七七四年
2011/10/11(火) 08:41:47.37ID:zOZi9yHD否定した書庫を出せじゃなく、まず自分の主張を納得させないと。
0381人間七七四年
2011/10/11(火) 12:41:53.56ID:HrRDQDqK京都に義昭がいる時期しか成立しないだろ・・・
義堯の造反の話なんだから織田方だろうが。
>>「父子」は六角義賢&義堯、あるいは六角義賢&大原賢永でもいいと思うが。
じゃあいったい誰が出した書状なんだよw
同じ官途なんて関係ないだろ。区別目的なら別に普通に「狛」でいい話だろ。
根拠も何も「義治」や「義堯」の花押を見たことないから理解できんのだろ?
義堯のように鞆幕府にまで付いて行ってる義昭側近の一色昭辰(昭国)も天正3年8/24に元春に
修理大夫一色義辰(一色義道のことで父は一色庶流の一色義幸)の本国丹後の儀につき
輝元御出勢の刻は本意に任せるので頼みます。
などと書いてて、一色も六角同様に庶流は本国、その本国をどうこうできる
上位者の一色昭辰が義昭に同伴してるのがわかる。
>>378
江源武鑑が1621年(1615年に大坂夏陣)に出版されて好評な為に増版が繰り返され
その記述における六角家系に対して批判が始まったのは1700年代。
江戸時代中期に子孫同士の嫡流争いになり
故人となって反論不可能なことを良いことに
あれはウソと一方的キャンペーンで声高に喚いて、自分の主筋の佐々木高重が嫡流だと
建部賢明が主張して回っただけだろ。
しかも江源武鑑初版が出版された頃に生まれた人間と著者を誤認した挙句に
沢田源内と佐々木氏郷を同一視するデタラメの三重奏w
さらに完全な別人なのに、生きてたら俺がぶっ殺してやったのに悔しいとか言ってたら、
今度は「いやお前んトコも庶流だろ。義治は大原高定に家督譲ってねぇよ。だいたいかってにいろいろ引用すんなよカス」って佐々木定賢に激怒されてるしw
キチガイぶりを発揮して人格的にも疑われる建部賢明の主張を信じろと?
丸亀藩主京極氏旧蔵の六角佐々木家系略や沙沙貴神社所蔵佐々木系図が
完全に大デタラメとするソースは?
>>379>>380
朝から自演までしてwそもそも絶対に納得しないだろお前www
0382人間七七四年
2011/10/11(火) 18:30:05.02ID:HrRDQDqK×じゃあいったい誰が出した書状なんだよw
○じゃあいったい誰が父子宛てに使者を池田にして書状を持たしたんだよw
0383人間七七四年
2011/10/11(火) 19:01:08.89ID:HrRDQDqK天皇の諒闇中に狩りをした秀次を激しく批判する京童の落首を引用
そこから殺生関白と秀次が呼ばれるが、そもそも上記の話は捏造。
ウソまで作り出して秀頼の統治を正当化するキチガイ
川角太閤記では秀次が讒言を受けたと記述する。
川角太閤記
田中吉政に仕えた川角三郎右衛門が当時の武士から聞いた話をまとめた「聞書」である。
証言が収録されたものには明智光秀の旧臣でその後前田利長に仕えた山崎長門守や、
豊臣秀次の馬廻であった林亀之助などがおり、
本能寺の変や豊臣秀次事件などに関する史料としてしばしば引用される。
0385人間七七四年
2011/10/11(火) 19:54:42.84ID:Z28syD2D著名な学者で肯定否定含め言及した人を見た記憶無いぞ
0386人間七七四年
2011/10/11(火) 19:58:33.88ID:iIwZFnad『万松院殿穴太記』の生成 -『太平記』・『万松院贈左府を悼める辞』との関係を中心にして-
東洋文化 三二三号 二〇〇二年
で、徳川公が義秀という説を否定しているな。
史料を確認したら、実は徳「阿」が正しくて、徳阿という人物は以前から名前が出ているので、
義秀じゃないという流れだったか。
0387人間七七四年
2011/10/11(火) 20:14:14.38ID:iIwZFnad>天皇の諒闇中に狩りをした秀次を激しく批判する京童の落首を引用
>そこから殺生関白と秀次が呼ばれるが、そもそも上記の話は捏造。
ええっ、今時捏造説を信じているとは!?
狩りの件は複数の公家の日記に出てくる話なのだが…。
0388人間七七四年
2011/10/11(火) 21:31:56.07ID:b16Ak0VH京童の落書が公家の日記に書きうつしてあるソースは?
>>385
相手にしてないとするソースは?
0390人間七七四年
2011/10/11(火) 21:53:40.75ID:iIwZFnad佐々木哲
「万松院殿穴太記」作者と六角氏
ぐんしょ 三四号 一九九六年
で、すでに主張済。悪態をつく前に調べよう。
0391人間七七四年
2011/10/12(水) 13:01:20.97ID:wQ0rxzqL知らないことだったから
驚いたと感想をもらすと悪態になるもんなの?
それに2007年にも佐々木氏は徳川公の話を主張してるが
それに対して小野氏はなんら反論してないじゃん。
0392人間七七四年
2011/10/12(水) 20:42:17.30ID:ru4NNRty1996年に佐々木氏が徳川公義秀という主張
2002年に小野氏が徳川ではなく徳阿という反論
2007年に佐々木氏が徳阿説という反論に触れずに同じ主張を繰り返し
小野氏の反論に佐々木氏が再反論をしていないのに
なんで小野氏がわざわざ再々反論をする必要性があるんだ?
佐々木氏が小野氏の反論に対して何も再反論しなかった、という事実しかない。
0393人間七七四年
2011/10/13(木) 08:11:00.34ID:mhrpnH3D0394人間七七四年
2011/10/13(木) 09:17:54.99ID:v+RCixxmだがみたいに
0395人間七七四年
2011/10/13(木) 11:16:44.33ID:iHeQkVhkもし小野氏の言う通り近江での逝去時の義晴側近で
鹿苑院主妙安が敬意を称して
「徳川公」と呼ばれた万松院殿穴太記の作者が
実は「徳阿公」であるので相公とは別人だとしても
それが義秀の存在を否定することにはならないから
どうでもいい話じゃねぇか。
では義輝=大人相公の次席に位置する相公はいったい誰なのかと言う話で
江州宰相が相公と呼ばれ、御内書親子とも呼ばれていたわけで、
義晴死去時の御内所が義晴の正室慶寿院なので、
江州宰相がすでに亡くなっていて、まだ子の亀寿が御内書の役務を背負ってない、
または義晴臨終時に慶寿院が義輝の後ろ盾になるように頼まれてるから、亀寿の代わりに御内所だったということだろ。
0397人間七七四年
2011/10/13(木) 22:28:31.60ID:fw12BLVH>江州宰相が相公と呼ばれ、御内書親子とも呼ばれていたわけで、
>義晴死去時の御内所が義晴の正室慶寿院なので、
>江州宰相がすでに亡くなっていて、まだ子の亀寿が御内書の役務を背負ってない、
>または義晴臨終時に慶寿院が義輝の後ろ盾になるように頼まれてるから、亀寿の代わりに御内所だったということだろ。
えーと、これって
江州宰相は亡くなった足利義晴
御内所は義晴の正室慶寿院
御内所親子の子供の方は義晴慶寿院夫妻の長男で後継者となった義輝(亀寿)
幼い義輝の代理を母である御内所慶寿院が勤めることになった
ってことでなんの不思議もない文だよなあと理解するのは、私が馬鹿なんでしょうか?
0399人間七七四年
2011/10/14(金) 17:05:02.25ID:dlGi+E2Tこれか
http://logsoku.com/thread/hobby5.2ch.net/warhis/1089798657/
0400人間七七四年
2011/10/14(金) 19:29:29.64ID:8knof/SM六角承禎が4/13に石部城から信楽に向けて退城したのって
やっぱり天正2年4月(1574年)なのかな。
山中山城らが敵を追い払ったから無事に信楽に着いたことを書いた感状だけど
出した日付は12/24だから天正3年前後も信楽でまだ織田に抵抗してたのかな。
でも81歳で年齢的にもう残命はないし、しかも床に臥しているって書いてるから
もう病で立てないレベルくさいもんねぇ。
これだけ老いちゃ甲賀衆も見切りつけちゃうよな。
でも慶長3年(1598年)105歳まで生きちゃうんだよなwww
wikiは享年78歳とかデタラメ書いてるけど
承禎2人説とか絶対アリだろこれw
0401人間七七四年
2011/10/14(金) 19:40:01.57ID:dlGi+E2T0402人間七七四年
2011/10/14(金) 21:32:10.46ID:zQaHncTv承偵はさすがに生きてないとしてるよ。
0403人間七七四年
2011/10/15(土) 08:29:32.12ID:ECjeFOk9http://blog.sasakitoru.com/200602/article_62.html
>義輝のことを殊更「大人相公」と記し、上位の相公であることを強調している
「大人相公」とは「偉大な相公」といったような意味であり、「大人相公」より下位に別の相公がいるという意味ではない。
すなわち「大人」に比較級の用法は無い。
これは漢語の基本の問題であって根拠とかそういう問題ではない。
「江州宰相」や「某義久入道」が六角氏という佐々木氏の主張は彼の想像に過ぎず、
具体的な根拠は「六角佐々木氏系図略」や「沙々貴神社所蔵佐々木系図」のみ。
>『鹿苑日録』の用語法からすれば、江州宰相は現職の将軍か/将軍候補者である。
>(中略)しかも当時、足利氏で近江(つまり江州)に逃亡していた人物はいない。
という論理展開で、近江と京を行き来していた足利義晴は「江州宰相」ではない、という強弁。
0404人間七七四年
2011/10/15(土) 09:24:19.61ID:yAzSeTQTわざわざそんな事書かねぇよ超強弁にワロタw
0405人間七七四年
2011/10/15(土) 09:29:23.70ID:ECjeFOk90406人間七七四年
2011/10/15(土) 13:37:13.01ID:a9VfnoJCいかなり慣用的表現を今回だけ特別に使う意味がわからん。
0407人間七七四年
2011/10/15(土) 16:40:02.62ID:DxeJ7cPu信長厨が必死なのはわかった。
織田秀信に対する秀吉や
秀頼に対する家康みたいな者がいても不思議じゃないよな。
0408人間七七四年
2011/10/15(土) 18:16:57.73ID:kzwEzunc0409人間七七四年
2011/10/15(土) 18:54:21.43ID:v0rXKmjM天正4年以降になっても承禎お爺ちゃん近江や伊賀でがんばって抵抗してるよ。
11/25北畠具教が信長によって謀殺された後に
北畠庶子家坂内氏が逃亡し、具教の弟の朝親も還俗し坂内へ書状出してるし、
坂内も勝頼に書状だしてる。
その時に沙弥承禎の名前で坂内氏に12/18付けで書状出してるが
国司御一類御生涯付〜北畠殿相続無き場合はあなたが家督を継ぎなさい。
そのこと大本所へ意見しますよって言ってる。
ちなみに具教の正妻は承禎の妹。
年不詳12/7付け武田刑部大輔宛朝倉宮増丸(義景嫡子)書状では
佐々木源兵衛なる者が朝倉残党や加賀一向宗と連絡とってるし
これ吉川文書収録だから、鞆にいた義昭側近の若狭武田氏や大本所六角義堯に
佐々木源兵衛は関わりある人物だね。
天正6年に義堯は阿波・淡路の軍を率いて境に上陸するから、それ以前の文書だと思う。
六角氏は朝倉と北畠再興運動やってひたすら信長に対抗してる。
もちろん大本所と義治は花押が明らかに違うので別人。
花押が一緒に見えるとかほざいてるのは実際に見てないのに語ってるキチガイ
0410人間七七四年
2011/10/15(土) 21:04:00.97ID:HQ4kq2K5宮増丸が与三の家督相続のために動いているのに
0411人間七七四年
2011/10/16(日) 01:15:50.15ID:FDe567iK宮増丸=与三なのにw
また思い付きでケチつけたのバレたなw
0412人間七七四年
2011/10/16(日) 01:45:53.84ID:FDe567iKバカなやつがwikiに与三なんて書くから鳥羽景忠のことにされてるw
義昭側近の武田刑部のところに家督相続を認めてもらう為にまかりこす際に
佐々木源兵衞尉を使者に立てた。
0413人間七七四年
2011/10/16(日) 07:48:56.18ID:mT2kpovZ>ちなみに切腹した兄が喜三で本人は正確には興三であり、弟が三人いる。
「正確には」と言いながら「與」と「興」を間違えたり、
「宮増丸(義景嫡子)」「宮増丸=与三」と主張しながら「兄が喜三」「弟が三人」とか、
言っていることが支離滅裂なんだが。
>バカなやつがwikiに与三なんて書くから鳥羽景忠のことにされてるw
鳥羽与三景忠の兄は喜三景富なので、君の説明自体が鳥羽景忠のことになっているぞ。
「与三」の仮名を持つのは、鳥羽景忠以外にも経景系(尹景や景隆らの係累)が考えられる。
「宮増丸=与三」については是非とも根拠を示してほしい。
0414人間七七四年
2011/10/16(日) 10:09:30.13ID:tD1wHVfyそこまで書いてるってことは原文読んでるのは理解できるし揚げ足レベル。
あと與の簡体字が与なのも知らんくせに揚げ足取るのもみっともない。
與=与で間違いではない。
いくら朝倉支流でも鳥羽より朝倉の方が本流だろうね。
そもそも鳥羽景忠は鳥羽城で死んだんじゃなかった?
生きていたとする根拠史料ってあったの?
三郎喜三が兄の景富と同一とするのもどうかねぇ。
基本的に親子が景忠と景富って法則で順番に名前を継いでるから
景富は景忠の父か息子であると考えるのが法則に従うと自然。
0415人間七七四年
2011/10/16(日) 10:25:38.20ID:mT2kpovZ>與=与で間違いではない。
そんなこと常識なのに、どうやったら「興三」と変換できるのか尋ねているんだが?
鳥羽景忠ではない、というのは同意だから、
「宮増丸(義景嫡子)」「宮増丸=与三」の根拠を示してください。
0416人間七七四年
2011/10/16(日) 10:42:46.73ID:tD1wHVfyなんだ粘着質な方でしたか。
0417人間七七四年
2011/10/16(日) 10:48:20.75ID:mT2kpovZ0418人間七七四年
2011/10/16(日) 11:30:12.77ID:tD1wHVfy(本来の相続者の)兄も死んで私は若輩で憚られるけど他に相応しい者もいないから罷りこしたので、
(宮増丸は與三と自分のことを呼んで)家督相続を仰せ出して下さいと書いてるじゃんよ。
家督相続が認められたら牢人達を率いて越前に乱入しますとも言ってるし。
0419人間七七四年
2011/10/16(日) 11:43:34.08ID:tD1wHVfy自分が正統な家督相続者であると解説してるのに、
その後の與三が宮増丸と別人なら、
前置きとして登場する兄弟解説はいったい何だっだよって話なわけだ。
0420人間七七四年
2011/10/16(日) 12:11:04.21ID:mT2kpovZそれだけでは同一人物という根拠にはならないけど、言いたいことはわかった。
「宮増丸(義景嫡子)」の方の根拠は?
0421人間七七四年
2011/10/16(日) 12:17:19.93ID:1jl+/a2q義景嫡子と考えるのが自然。
あえて否定する理由はないでしょ。
否定するなら朝倉宮増丸をいったい誰と主張したいのか明示すべき。
0422人間七七四年
2011/10/16(日) 12:17:40.29ID:mT2kpovZそれだけでは同一人物という根拠にはならないけど、言いたいことはわかった。
「宮増丸(義景嫡子)」の方の根拠は?
0424人間七七四年
2011/10/16(日) 12:37:12.80ID:1jl+/a2q0425人間七七四年
2011/10/16(日) 12:40:36.47ID:mT2kpovZ織田信長に降った景鏡や景健が家督となったとも考えられるし、
或いは同名衆上位である与三右衛門景隆(景健の父)
の孫くらいにあたる与三が候補となったとも考えられる。
「朝倉名字の継承者がいない」という文書内容は、むしろ
義景嫡子ではないことの根拠になりそうな気がする。
そして、義景嫡子が生き残っていたら朝倉修理亮の文書に名前があるはず。
0426人間七七四年
2011/10/16(日) 13:01:57.42ID:1jl+/a2q若輩なのはわかってますが私がって意味だそ。
0427人間七七四年
2011/10/16(日) 13:18:41.48ID:mT2kpovZ「宮増丸」と署名しながら、
同じ文中で自分のことを「与三」とするのもありえないから。
0428人間七七四年
2011/10/16(日) 13:27:20.88ID:1jl+/a2q0429人間七七四年
2011/10/16(日) 13:33:46.59ID:zEbS8lv2当主が判断するのが無理な年齢なら後見人がつけばいい話なだけだし
0430人間七七四年
2011/10/16(日) 14:19:08.28ID:HwRoCTNt他に相続名字の者がいないと言ってることからも、與三が宮増丸本人だし、
義景不慮と死んだ義景を呼び捨てにしてんのは実子だからでしょ。
そう考えるのが自然。
違うと言うなら朝倉宮増丸はいったい誰だって話になる。
朝倉親類なら対抗できる者がたくさん出てくるからな。
0431人間七七四年
2011/10/16(日) 14:26:34.16ID:Wdx9UxGs0432人間七七四年
2011/10/16(日) 16:22:00.04ID:WXOwU8iX0433人間七七四年
2011/10/16(日) 16:32:05.76ID:h9aucCnR横レスすると、彼らは義景の嫡子じゃないでしょ。
嫡子なら、その点を主張することが、名跡継承の一番の名目となる。
そうしていないのは、義景直系が絶えてしまって、彼らと同じような立場のライバルが
他にも一族内から出てくる可能性がある状態だから。
他にいないってのは、ライバル達とは正当性が段違いっていう粉飾かもしれない。
義景を文中で呼び捨てにしているのは、他家に出した外交上の文書だから。
現代でも社外の人に自社の社長の話をするときに、「うちの○○が」みたいな感じで呼び捨てにするのと同じ。
0434人間七七四年
2011/10/16(日) 17:59:00.37ID:CxBThduU兄が三郎、喜三で次が與三なら、鳥羽三郎景忠・喜三景富・與三景忠の兄弟のことでよいのでは?
修理亮景嘉の次の序列くらいだから、二人が家督候補だったのでしょう。
0435人間七七四年
2011/10/16(日) 17:59:32.94ID:HwRoCTNtまた言い加減な妄想設定をダラダラと…
ライバルがいないから、当然のこととして
わざわざ主張する必要がないんだろ。
しかも義昭の元ともなれば、
朝倉の事情もすぐわかる話だし。
死んだ元就や隆元を
隆景は元就とか隆元と書状で書いたりするが、
家臣は日頼様と死んだ元就を呼んでいるわけだが。
0436人間七七四年
2011/10/16(日) 18:06:53.59ID:HwRoCTNt公儀(義昭)より立場が低いが
元春や隆景とは家格が劣らない朝倉嫡子だから若輩でも同格として呼び捨てにしてんだろう。
0437人間七七四年
2011/10/16(日) 18:15:52.98ID:HwRoCTNt朝倉宮増丸が兄や弟の説明してんのに、
その宮増丸はその兄弟とは一切関係ない人物だと曲解する精神が理解できないし、
三郎喜三を三郎,喜三に無理やり分割読みまで
持ち出してまで我田引水するんだから。
さすがに驚愕するわ。
0438人間七七四年
2011/10/16(日) 18:21:50.86ID:CxBThduUそもそも無関係だったらわざわざ「弟三人」の話などしない。
0439人間七七四年
2011/10/16(日) 18:26:52.71ID:HwRoCTNtもうお前の頭がおかしいとしか思えんわ。
0440人間七七四年
2011/10/16(日) 18:27:24.70ID:CxBThduU「三郎喜三」という仮名になることはないですよ。
「喜三」が諱だと言い張るのでしたら、それは構いませんが、
朝倉氏の場合それはないでしょう。
0441人間七七四年
2011/10/16(日) 18:31:07.20ID:CxBThduU>>437
>宮増丸はその兄弟とは一切関係ない人物だと曲解
私は「宮増丸は『弟三人』の中に含まれている」と言っているのですが、わかりませんか?
0442人間七七四年
2011/10/16(日) 18:42:05.25ID:HwRoCTNt原文が別れてないのに無理やり分割した挙句にそんな屁理屈を出してくるとはw
>>441
>>437で指摘されたから
また屁理屈を作り出した結果が>>438だろ。
だから俺は呆れ果てて>>439の発見をしたわけだ。
そしたら今度は最初からそう思ってたみたいな発言w
どうしようもねぇなお前って。
馬鹿馬鹿しくて相手にできんわ。
0443人間七七四年
2011/10/16(日) 18:43:38.58ID:HwRoCTNtすぐ揚げ足を取る人だから
訂正はキチンと書いとくわ。
0444人間七七四年
2011/10/16(日) 18:57:44.36ID:MoH9YP0Wあんな簡単な内容の書状を
屁理屈こねて究極の難文書にして面白いのか?
お前の主張どおりなら、誰も読解できないわ。
どんだけ複雑怪奇な文書内容にするつもりだw
注釈だらけの文書になるわ。
0445人間七七四年
2011/10/16(日) 19:10:20.30ID:MoH9YP0W鳥羽以外の朝倉系男子が完全壊滅してたとは思えない。
彼らより上位に位置する者じゃないと誰も納得しない。
宮増丸が家督権利者として義昭のところへ行くなら理解できるが、
景忠が家督継承者なら、なんでわざわざ若輩者の宮増丸が
派遣される必要があるのか理解不能。
しかも家臣筋のくせに増長して前当主の義景どころか
輝元や元春まで呼び捨てにするほど弁えが無い。
鳥羽ごとき家格で右馬頭輝元を呼び捨てにできるわけがない。
0446人間七七四年
2011/10/16(日) 20:29:34.63ID:D7hvilp80447人間七七四年
2011/10/17(月) 07:12:43.63ID:AfSgzdUvこれだからきもオタヒキニートはwww
0448人間七七四年
2011/10/20(木) 12:21:30.13ID:7p62LSmA六角スレが盛り上がるのは結構だが、いい加減飽きたわ
少しは三雲さんの話しろよ
0449人間七七四年
2011/10/20(木) 13:55:26.26ID:2bXrOAv4必死に成らざるを得ないからなw
もう佐々木晢に個人的恨みがあるレベルw
そんなら反論論文でも出せば良いのにな。
0450人間七七四年
2011/10/20(木) 20:48:39.03ID:gX7459rF0451人間七七四年
2011/10/21(金) 12:02:05.76ID:kzcReI6J>少しは三雲さんの話しろよ
肉付きよくて、抱き心地よさそう。
俺的には、十分ストライクゾーンだ。
0452人間七七四年
2011/11/03(木) 07:41:54.79ID:TAUQuFbuなんでリアル子孫が関係あるんだ?
「佐々木晢」ってw
0455人間七七四年
2011/11/03(木) 23:10:36.02ID:I68aTxIT0456人間七七四年
2011/11/03(木) 23:26:11.70ID:I6txM3/+0457人間七七四年
2011/11/04(金) 00:40:19.48ID:lCbeJwUn佐々木氏の説を取り入れた概説書とか書いた人いるの?
0458人間七七四年
2011/11/04(金) 08:35:35.58ID:ULnQVOGu0459人間七七四年
2011/11/04(金) 12:04:15.40ID:/kH+hJel0460人間七七四年
2011/11/04(金) 12:48:20.66ID:KDTnc1Ib現実には佐々木氏の研究が他の研究者の研究に引用されて役立ってるとかって無いだろ
反論だけでなく賛同もされても無いっていう
0461人間七七四年
2011/11/04(金) 15:45:59.19ID:/kH+hJel0462人間七七四年
2011/11/04(金) 18:03:51.54ID:8BD/HKyP0463人間七七四年
2011/11/04(金) 19:28:37.64ID:lCbeJwUn賛同派は勝ち負けとかなぜそんな低い次元の話をしてるの?
0465人間七七四年
2011/11/04(金) 20:54:04.09ID:7qKRe3YB天正三年五月四日の武田玄蕃頭宛佐々木承禎書状で「高盛(中務大輔)」としているが、
「至三州表有御出馬・・・随而中務太輔差下候処・・・猶高盛・落合八郎左衛門尉可申候」
という文面だから中務大輔(大原賢永?)と六角高盛は別人じゃないのか?
0466人間七七四年
2011/11/05(土) 13:11:08.09ID:sxdyxd5/0467人間七七四年
2011/11/05(土) 18:53:47.21ID:qUcTPNhC0468人間七七四年
2011/11/06(日) 02:55:52.59ID:UiJxZp+C0469人間七七四年
2011/11/07(月) 12:29:04.78ID:rJIjBwzU美濃焼きにもう押されてたの?
0470人間七七四年
2011/11/09(水) 19:35:53.26ID:8mn80UId誠以御神妙之至に候、御本餘之事、可隨御望候。委細徳永式部卿法印に申含候。恐々謹言。
九月廿八日 家康
佐々木少将殿(六角義郷)
義郷は家康の申し出を拒否した。
0471人間七七四年
2011/11/09(水) 19:59:06.73ID:E1EtzfuB0472人間七七四年
2011/11/09(水) 20:26:41.92ID:BpvqhmfT0473人間七七四年
2011/11/09(水) 22:06:25.98ID:5kKiDeuGその書状の説明で、身に一寸の功績無いのに貰えないって断わった義郷の潔癖さ褒めてんだよね。
だけどまだ家康の書状を持ってきた徳永の目の前で家康の申し出を断わるとかどうなんだ?とも書かれてるんだよね。
0475人間七七四年
2011/11/10(木) 03:00:41.48ID:CVrfvPAaそのツッコミを入れられるのは仕方がない。
そのツッコミ入れてんのが若狭小浜藩(大老酒井忠勝)のトコのヤツだから。
西軍に味方するように言われるが、拒否ったので殺してしまえって雰囲気になったが、
三成が義郷は近江の国主だから殺すと近江が治められなくなるから
今はそんな暴挙は止めた方がいいと言ったから助かった。
0476人間七七四年
2011/11/10(木) 19:10:21.48ID:VE0DMPpA0478人間七七四年
2011/11/10(木) 21:38:59.70ID:RebZiqDJ0479人間七七四年
2011/11/10(木) 22:18:12.80ID:VE0DMPpA>徳川幕府公認だからw
で、何に書かれてるの?
0480人間七七四年
2011/11/11(金) 01:30:01.91ID:gl6HPxDs0481人間七七四年
2011/11/11(金) 02:42:54.03ID:jvfgDeYLあんた明智光秀スレに居た人か
0482人間七七四年
2011/11/11(金) 19:01:55.70ID:8XUFvLL90485人間七七四年
2011/11/11(金) 20:38:05.59ID:8XUFvLL90486人間七七四年
2011/11/11(金) 20:45:25.81ID:5g2GUUMf子孫乙w
0487人間七七四年
2011/11/11(金) 20:48:35.45ID:jvfgDeYL佐々木哲厨乙w
0488人間七七四年
2011/11/12(土) 07:30:01.04ID:G/IsPAA9山内首藤家文書の(天正4年)10月2日及び10月3日
の六角義堯書状で「猶重而可申候」はどう読むのかな?
0489人間七七四年
2011/11/12(土) 08:52:09.78ID:kqjNZxtHだろう。よく使われることば。
0490人間七七四年
2011/11/12(土) 10:01:29.45ID:oREPsbGb0492人間七七四年
2011/11/13(日) 08:08:05.53ID:u6WjGNbbそもそも「佐々木京極氏古文書」所収文書だよ
0494人間七七四年
2011/11/13(日) 10:46:05.09ID:jT7hvLRT0495人間七七四年
2011/11/13(日) 11:10:54.76ID:94MmV3I+六角氏正統と認めてる発言してるね。
丸亀藩の京極高豊の子を養子にした氏郷が六角氏の家宝をあげちゃったよね。
0496人間七七四年
2011/11/13(日) 13:37:45.33ID:jT7hvLRT『京極氏家臣某覚書抜萃』を見ればわかるが、天和年間の稲葉丹後守正則を「諸司代(原文ママ)」としているし、明らかな偽書だよ。
0497人間七七四年
2011/11/13(日) 14:08:13.76ID:OX7wcNGi珍しくもない。
0498人間七七四年
2011/11/13(日) 14:14:45.04ID:jT7hvLRT0499人間七七四年
2011/11/13(日) 14:58:23.68ID:qF4e0XLA0500人間七七四年
2011/11/13(日) 15:03:44.46ID:6tzbLzI0東京大学史料編纂所が収集した
佐々木京極氏の関連古文書群それぞれの
入手経路や由緒書を調べてからレスをくれ。
0501人間七七四年
2011/11/13(日) 18:01:45.39ID:NgsnZZyX0502人間七七四年
2011/11/14(月) 13:04:56.28ID:XRiCTi7Q子孫乙w
0503人間七七四年
2011/11/14(月) 13:41:20.95ID:fcLqrAGI佐々木哲厨乙w
0504人間七七四年
2011/11/14(月) 20:37:39.33ID:5rcE2uGZ「子孫乙」と言っている方は被害妄想があるのでしょうか?
0505人間七七四年
2011/11/14(月) 21:56:12.89ID:IjQtto7O晢のいない2ちゃん戦国板と言うトイレの落書きだけで強がる可哀想な当事者…
0506人間七七四年
2011/11/14(月) 22:02:13.68ID:kn4yHGDT0507人間七七四年
2011/11/26(土) 15:53:04.59ID:dMaMUTD/どうみても明治頃のものであり、信憑性は無いだろ
0508人間七七四年
2011/11/28(月) 16:37:43.22ID:xL/Q/+tb5/7の高次宛ての家康書状では高次を大津宰相殿と書いてるから
佐々木少将殿が高次を指してると言う指摘はまったくのデタラメの思いつき。
0509人間七七四年
2011/11/28(月) 17:09:26.71ID:DMrKJuqaやっぱ佐々木少将は高次のことだね
0511人間七七四年
2011/11/28(月) 18:30:55.56ID:xL/Q/+tb9/7家康→政宗書状内で
「大津宰相殿」・「京極殿書状を披見」
と言った文面が書いてある。
譜牒餘録9/23井伊書状
「大津之儀」「宰相様」
やはり大津宰相のままで「佐々木」や「少将」
なんて言葉を高次に対しては使われてない。
0512人間七七四年
2011/11/28(月) 19:20:52.64ID:kKqzTG1V0513人間七七四年
2011/11/28(月) 20:41:02.33ID:l10fdn+z0515人間七七四年
2011/11/29(火) 01:12:07.61ID:14cV4inG高次に対して関が原以後に
徳川から「佐々木少将殿」と
宛名する書状を実例として
早く出して
あなたの主張の正しさを
証明してみせてくださいね。
楽しみだなぁ。
0516人間七七四年
2011/11/29(火) 01:18:08.55ID:mhOpZGiz0518人間七七四年
2011/11/29(火) 01:34:59.28ID:14cV4inG「京極宰相殿」宛てに下記の手紙を出してるんだがw
鮭は主に日本海からだし、まさか近江国を小国などと言わないよな?
殊に生鮭到来祝着之至に候 将又其国之儀雖小国候
爰元手寄に候間 先進上候處 御気に入御有付之由承候
左様候得者 弥令満足候 猶井伊兵部少輔可申候 恐々謹言
0519人間七七四年
2011/11/29(火) 07:49:31.35ID:PdUru3M50520人間七七四年
2011/11/29(火) 09:06:58.96ID:ySkqijlf>>470 の文書の信憑性のほうがあやしくなるんじゃない?
つまり、>>519
0521人間七七四年
2011/11/29(火) 10:20:24.98ID:nN+eudR50523人間七七四年
2011/11/29(火) 14:56:08.07ID:BypaRwfcどの学者や論文が
それを偽書状だと主張してるの?
まさかあなたが論破されたから
偽書状ニダと主張してるわけではありませんよね?
0524人間七七四年
2011/11/30(水) 21:36:55.41ID:Io4rHJiwそれを本物の書状だと主張してるの?
誰も学術的にはまともに主張していないから
誰もわざわざ偽書状だとは主張していないよ
0525人間七七四年
2011/11/30(水) 21:48:17.41ID:IR6OzQ+Pはいはいキチガイ乙
0526人間七七四年
2011/11/30(水) 22:16:47.02ID:XfoYC0Q20527人間七七四年
2011/12/01(木) 00:19:19.17ID:I9heP+/A0528人間七七四年
2011/12/01(木) 04:03:20.38ID:geMZdhtj必死にその書状は高次へ宛てたものだと
何度も繰り返し主張してたはずなのに
論破されると一転して偽書状だとか言い出すわけ?
とすると、最初に本物の書状と言う前提で
高次宛て書状だと粘着固執してた主張は
なんだったわけかねwww
0529人間七七四年
2011/12/01(木) 08:55:56.28ID:yuRirfQsえ?
まさか、最近レスしている人と佐々木少将=京極高次説をいった人が
同一人物とか(何の根拠もないのに)思ってないよね?
自分とその人と二人しかこのスレにいないとか思ってないよね?
誰でも書き込める匿名の掲示板だよ。
0530人間七七四年
2011/12/01(木) 13:11:22.98ID:hAi29xf5別人宣言キタっwww
0531人間七七四年
2011/12/01(木) 13:22:13.10ID:FptnXfO90533人間七七四年
2011/12/01(木) 18:44:44.17ID:LiO3+TCB0534人間七七四年
2011/12/01(木) 22:31:11.56ID:UNpSL3M5醜さ丸出しで私怨粘着する40代後半のキチガイ自演男ハケーンw
0535赤垣伝兵衛
2011/12/02(金) 19:10:51.58ID:TeCvsSZHお詫びに我が家の古文書を差し上げます
0537人間七七四年
2011/12/02(金) 20:06:16.75ID:GeNEOaSy■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています