トップページsengoku
1001コメント426KB

家康は本当に野戦の達人?

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年2007/03/11(日) 00:04:50ID:jgwWrmey
野戦の天才と呼ばれる徳川家康ですが、
本当にそれほどの戦上手なのでしょうか?
0083人間七七四年2007/03/14(水) 19:24:56ID:qR2AduDy
>>81
同意
0084仙台藩百姓2007/03/14(水) 19:47:22ID:KQt5pn6C
つうか家康の野戦戦歴てどの程度あるの?
家康が総大将つとめた大規模な野戦と言えば三方ヶ原のボロ負けと
長久手で秀次、池田親子らに勝ったのぐらいしか思いつかん
さあ、徳川厨よ出番だ
0085人間七七四年2007/03/14(水) 20:33:47ID:x/mThNUZ
>>84
オーソドックスに関が原。
0086人間七七四年2007/03/14(水) 20:47:53ID:unHmYNIk
>>85
>>82
0087人間七七四年2007/03/14(水) 21:26:40ID:/ua99SNN
>>84
大規模な合戦はしないのが基本なんだが
0088仙台藩百姓2007/03/14(水) 21:55:22ID:KQt5pn6C
後付け伝説の臭いがプンプンしますお( ^ω^)
0089人間七七四年2007/03/14(水) 22:09:18ID:8Iiaofod
関ヶ原の戦いが家康の野戦指揮能力を評価するのに値しないということは上で散々説明したけどな
0090人間七七四年2007/03/14(水) 22:10:50ID:nsBI89ca
関が原の家康は、これでもか、つうぐらい諸侯を篩いにかけ裏切りを見極めている
だからいざ戦の時には福島を始め、死にもの狂いだわな、日和見なんてとんでもない
野戦だが、あの信玄に寡兵でもって三方が原だ、自信があったつうより過信だろ
長篠の戦では右翼の柵のない所で勝頼を破っているし
0091人間七七四年2007/03/15(木) 00:04:59ID:eZuYkETq
すぐれた野戦司令官なら、戦場での采配のみならず戦場に出る前の準備も当然重視するわけで。
その結果、周到に張り巡らした準備のおかげで実際の戦場ではほとんどなにもしなくて勝利をおさめてしまう場合もある。
ある意味、最高の成果なのだが、それをもって「あれは政治力による勝利だから、野戦の能力とは別」という評価をしては
本末転倒な気もするな。
0092人間七七四年2007/03/15(木) 00:17:43ID:lWbpFoGU
秀吉の天下統一後に、大名として野戦指揮経験が
たくさんあった香具師は、かなり少ない
だから、家康は野戦の達人だって話になってるんだろ
政宗にも共通する話だな
0093人間七七四年2007/03/15(木) 01:00:52ID:fkZC/MsF
まぁ前田利家とかでさえ持ち上げられてるからわからんでもない。
0094人間七七四年2007/03/15(木) 01:01:28ID:gGOaQnmc
>>91
いいたいことは判るんだが>戦場に出る前の準備も これはまさに政治や謀略、戦略の
話であって野戦能力とは別だろう。
0095仙台藩百姓2007/03/15(木) 01:26:29ID:RvcohfXj
今更だがよくよく考えれば、皆が家康の武威を恐れていたとか
いかにも取って付けたような話しだお(;^ω^)
家康の戦国大名としての実績はたかが知れてるお
名の響いた大名に比べれば遥かに劣るお
家康の名声は結局長久手の一戦で秀吉に引き分けたと言う一点のみ
秀吉の武威にあやかったものだお
生涯に二回も本陣が潰滅し逃げ回ったとか
名が知れた大名の中では珍しいお
戦下手とは言わないまでもトップクラスに入る人物とは到底思えないお
0096人間七七四年2007/03/15(木) 01:56:14ID:RcKKxNDc
お前ら家康を馬鹿にしてるが、
じゃあ訊くが家康より野戦が
得意なやつは誰だよ。
0097人間七七四年2007/03/15(木) 02:13:30ID:ZtjUicNO
>>96
それはひょっとして釣りで言っているのか?
0098人間七七四年2007/03/15(木) 02:15:37ID:MpQjlezE
実際、「野戦」として勝利を収めたのなんて小牧長久手くらいだろ?
一度や二度の成功で、家康よりも得意なやつは誰だと言われても・・・
それくらいの成功なら結構多くのの大名が成し遂げてると思う。
関ヶ原は野戦っていうより謀略の発揮場所だったもんな。
明治時代に陸軍の指導にきたドイツ軍の参謀が、関ヶ原の東軍西軍の配置を見て西軍が勝つって断言したエピソードもある。
軍事の専門家から見て、東軍の布陣はそれほどお粗末なものだったそうな。
0099人間七七四年2007/03/15(木) 02:20:46ID:fkZC/MsF
>>98
軍事の専門家ですら負けると判断するような情勢で勝ったんなら間違いなく優秀じゃないか。

あと1度や2度の成功というけど、人生の中でんな大合戦の大将を何度も勤めてそのたびに勝ちを収めてる
大将なんてなかなかいない、かといって細かいのならば家康だってある。
0100962007/03/15(木) 02:23:05ID:RcKKxNDc
だから誰なんだよ。
どんどん名前を挙げれば家康は野戦の
達人じゃないと証明できると思うが。
逆に一人も名前を挙げられないのなら
やっぱり家康は野戦の達人だろ。
0101人間七七四年2007/03/15(木) 02:30:10ID:cLyQq1ZT
ご、ごめん。やっぱり野戦の達人です。
0102人間七七四年2007/03/15(木) 02:58:26ID:ZixpWA4G
じゃあ無難に信長・謙信・信玄・氏康・元康あたりと比較してどーよ?
0103人間七七四年2007/03/15(木) 02:58:46ID:iP8oQkE5
武田信玄?ボコボコにしてやんよ
  ∧_∧
  ( ・ω・)=つ≡つ
  (っ  ≡つ=つ
  / 狸 ) ババババ
 (_/ ̄∪
0104仙台藩百姓2007/03/15(木) 03:12:03ID:RvcohfXj
政宗公はもちろんのこと
信長、秀吉を始め北条、武田、上杉、毛利、島津あたりの方が遥かに実績はあるお
家康の前半生は結局武田との戦のみ
武田と共同で今川攻撃
信玄にボロ負け
勝頼と小競り合い
織田と武田征伐
勝頼は無能扱いされるが徳川単独ではどうにもならなかった
そして信長の死により独り立ち
北条と対峙し引き分ける
秀吉と対峙し引き分ける
あとは豊臣家臣としての活動で戦国時代は終了する
三方ヶ原以外は無難と言えば無難だが
名を広めるほどの名勝負と言うものもない
特別戦上手とする根拠は見当たらないお(;^ω^)
やはり名を上げたものがあるとしたら長久手のみだお
それにしたって普通の戦いだし
0105人間七七四年2007/03/15(木) 03:31:20ID:S/hGsVYo
>>99
いやだから関ヶ原は謀略が活きたんだって。
東軍の勝ちの経緯を説明されたドイツ軍人が
「戦は情報と云々が大切だ」
って悟ったのって有名な話しじゃね?
0106人間七七四年2007/03/15(木) 03:49:15ID:S/hGsVYo
長久手長久手っというが俺は長久手での家康の勝利もどうかと思うが。

長期的に秀吉対信雄家康をみれば秀吉の圧勝だろ?
家康は長い戦の一戦で勝利したにすぎない。
信雄と組んでる割りには信雄のフォローもまるでできず犬山まででてこられてるし。

長久手の戦いについては
当時の秀吉が尾張閥出身者の意見を何度も撥ね付けるのは
内部崩壊を引き起こしかねない危険な行為。
意にそぐわぬ作戦でもやらせるしかないといった感じ
この局地的大敗北で尾張閥の意見を多少スルー出来るようになって
少し好都合なんじゃね?

佐々は前田に負けるし長曽我部も陽動の役にたたない
毛利は動かない
上杉は親秀吉
関ヶ原とまではいかないが日本の大名そこそこ動かしてるが
家康状況悪すぎ。
0107仙台藩百姓2007/03/15(木) 04:07:11ID:RvcohfXj
よく徳川厨が上田合戦は家康と戦ってないからたいしたことないって言うが
長久手も秀吉を直接破ったわけじゃないし似たようなもんだお( ^ω^)
0108人間七七四年2007/03/15(木) 04:59:51ID:t2TBLNfN
>>107
「仙台藩百姓」って名前から、伊達政宗厨の臭いがプンプンするんだが・・・
0109人間七七四年2007/03/15(木) 06:48:27ID:eZuYkETq
たんに寡兵で大軍を破ったような戦さだけが野戦の達人かね。
達人になればなるほど、確実に勝てる戦さしかしなくなるものだが。

逆にいえば、一見優勢そうにみえてもまずいと思えば潔く引く見極めも達人の証。
信雄が絡め取られたとみるや、あっさり和議に応じた判断も非凡。
0110人間七七四年2007/03/15(木) 10:40:37ID:ntKt2F6/
「戦の達人」じゃなくて「野戦の達人」だからなあ…
0111人間七七四年2007/03/15(木) 10:48:08ID:39u4+XPZ
とりあえず直接指揮能力くらいの範囲に絞らないと話が散漫になるな。
0112人間七七四年2007/03/15(木) 11:02:41ID:ntKt2F6/
確実に勝てる戦、優勢な戦、であっても勝ち方というものは有るよなあ。
例えば長篠なんかだと信長、家康側の指揮能力はまあ評価に値すると思うけど。
達人と言えるかどうかはともかく。
0113人間七七四年2007/03/15(木) 13:47:02ID:gRFiNrrF
>>112
小牧、長久手の戦の戦力比調べているか?
同時期に伊勢方面でも滝川と戦っているわけだが
0114人間七七四年2007/03/15(木) 13:56:14ID:ZixpWA4G
秀次はともかく長久手の戦いで破った池田勝入と森長可は織田家で戦歴を重ねた一流の武将、
例え秀吉本人を破ったわけではないとはいえこの二人を打ち倒したのはそれなりに評価できると思うぞ
勝入の中入りの案自体は決して悪くないし
(途中本拠地強襲であることを忘れて岩崎城みたいなどうでもいい城攻めてたのは擁護できないが)、
だからこそ秀吉も作戦に許可を出したわけで
0115人間七七四年2007/03/15(木) 14:11:29ID:ZixpWA4G
長久手で三次秀次・池田勝入・森長可の別働隊を破ったのは4月9日、
家康&信雄の連合軍が滝川一益の籠る蟹江城を攻めだしたのは6月以降(落城は7月3日)のことだから
微妙に時期は被ってないな
まあそういうことを言ったなら家康だけじゃなく同盟者の信雄、
紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親、
北陸の佐々成政と対峙しなくちゃいけなかった
秀吉はどうなるのって話だがw
0116仙台藩百姓2007/03/15(木) 14:14:13ID:RvcohfXj
長久手(野戦)で秀吉相手に引き分けたから野戦が上手いみたいなイメージになったんだお( ^ω^)
後の戦い、関ヶ原や大坂の役でも野戦が得意だから野戦に持ち込んだとかいう
眉唾ものの噂が誠しやかに流布されてるけど
わざわざ城攻め好む武将なんているわけないお(;^ω^)
0117人間七七四年2007/03/15(木) 14:39:09ID:9eMd1xAI
蟹江攻めた頃秀吉は
押さえの兵残して本隊は大坂城に戻ってるよ
一ヶ月ぐらい前にね
0118人間七七四年2007/03/15(木) 15:02:07ID:gRFiNrrF
>>117
その結果蟹江合戦は、家康の大勝利
5倍も兵力保持していた秀吉って馬鹿なのか?
0119人間七七四年2007/03/15(木) 15:07:37ID:gRFiNrrF
>>116
戦術的には、家康の勝ち戦
戦略的に引き分けだよ
0120人間七七四年2007/03/15(木) 15:13:20ID:gRFiNrrF
>>115
秀吉に積極的に敵対したのは、佐々だけ前田に任せれば充分
0121仙台藩百姓2007/03/15(木) 15:20:40ID:RvcohfXj
確かに中入り許可したのは秀吉だから戦術的失敗だお( ^ω^)
でも、混成軍の大戦だとどこまで本人の采配と見るべきか難しいお
大坂の陣などで豊臣側に撃破された諸藩の評価も家康が負う事となるのと一緒だお
0122人間七七四年2007/03/15(木) 15:24:56ID:ZixpWA4G
中村一氏の治める岸和田城が雑賀・根来衆に攻められ落城寸前になったのもこの頃なんだが
紀州勢の圧迫に加えて長期間京を留守にすることは、
既に天下人として地盤を固めつつあった
秀吉にとって望ましいことではなかったということ
戦のことだけ考えていればいいこの頃の家康とは違う
0123人間七七四年2007/03/15(木) 16:04:32ID:gRFiNrrF
野戦の達人家康には、蟹江城を取られてもしかたがないわな
秀吉の故郷中村まで蟹江からなら、歩いて40分ぐらいか
0124人間七七四年2007/03/15(木) 20:17:13ID:S/hGsVYo
佐々は数で劣る前田の末森城を落とせず敗退
その後上杉前田に睨まれ動けない。
長曽我部は毛利、宇喜多に睨まれた上に四国完全統一も出来てない。
信雄はやる気なし。
北条は関東から出る気概を感じない。
伊達は地方で暴れてるだけ。

結局こんな状況で得するのは島津くらいか。
0125人間七七四年2007/03/15(木) 23:24:32ID:UpWvi3+D
あのな、家康が野戦の達人と言われだしたのは武田旧臣を配下に加えてからの話だぜ。
つまり最強武田軍団のおかげだよ。
0126人間七七四年2007/03/15(木) 23:29:19ID:vPcYrede
最強なのになぜ滅びたの?
0127人間七七四年2007/03/16(金) 00:08:10ID:UlKv3oSa
>>126
戦が強くても滅びてしまうのはよくある話。ハンニバルも最終的に負けたし。
0128人間七七四年2007/03/16(金) 00:20:41ID:93jtF8D/
長久手で勝ったと言っても秀吉に勝ったわけじゃない
これで秀吉が家康に負けたととらえるなら関ヶ原や大坂の陣での
外様大名などの苦戦も家康は○○に負けたとしないとならなくなる

無論長久手で少数の兵力で秀吉の一部隊に勝ったと言うのは評価すべきだと思うけど
例え、伊勢など他の戦線では負けていても

あと家康の野戦の評価なら
吉田城の攻防戦で今川の援軍の武田信虎を小兵力で破ったことや
天正壬午の乱で北条の大軍と小兵力で引き分けたことがある
0129仙台藩百姓2007/03/16(金) 01:06:26ID:7mlKzq9b
そういやそんなのもあったお
一宮で信虎と戦ったかどうかは分からんが
相手が氏真である以上評価されにくいお(;^ω^)
自分達で今川を貶たわけだし皮肉だお

天正壬午の一連の動きも
戦術的には評価対象になる程のものとは思えないお
政治的には家康が多少優位に立った感があるが
戦い自体は小競り合い程度しかなく本隊同士も動かず
対北条なら北関東のヘッポコ大名ですら正面からぶつかって勝利してるお
それ相手に睨み合って講和したのが野戦上手に繋がるとは思えないお(;^ω^)
0130人間七七四年2007/03/16(金) 07:11:20ID:Xu4pqfme
ハンニバルは、自分より戦さが強い相手に敗れて滅びたのだが
0131人間七七四年2007/03/16(金) 09:22:47ID:4B+JQXv8
普通に考えてハンニバル>スキピオだお
項羽やナポレオンとかも強くても負けたパターンか
0132人間七七四年2007/03/16(金) 12:02:50ID:cMihzzKu
スキピオも韓信もウェリントンも間違いなく優れた軍事指揮官だったが、
一般的にはハンニバルや項羽、ナポレオンの方が名将だと言われてるな
敗れるまでの実績が違うから
0133人間七七四年2007/03/16(金) 12:54:59ID:Vp4wu53D
>>131
スピキオ>ハンニバルとか無意味な不等号をつける気はないが、
スピキオとの直接対決でカンネーの再現されてんのに、
何を根拠にハンニバル>スピキオとか言ってるわけ?
ただの池沼?
0134人間七七四年2007/03/16(金) 14:27:37ID:DDlVJpwS
三方が原で傍観
後から来る織田本隊と挟み撃ち

どうして考えなかったんだろ
0135人間七七四年2007/03/16(金) 14:31:15ID:a587fV5T
>>126
最後は戦わずして崩壊してたじゃない
0136人間七七四年2007/03/16(金) 18:36:19ID:02RAb5ax
>>134
領地が荒らされるのを放置していたら領民から見放されるから
特に武田の乱取りは過酷なのにそれを防ごうともしない殿様に誰も年貢など納めてくれない
0137人間七七四年2007/03/16(金) 18:51:31ID:cQyXEIB3
>>136
それが事実だとしたら
何で三方ヶ原以降長篠までは決戦を避けて武田軍が荒らすのを放置していたのに
領民から見放されなかったのか
0138人間七七四年2007/03/16(金) 21:50:19ID:Um4QmC7R
見放されていた時期もあったんじゃない?
現にバタバタ離反されそうになってて、半分発狂して大賀弥四郎を
鋸引きで惨殺して周辺に見せつけたりしていたわけで。

江戸期になって史実の記録は捏造の限りを尽くして改竄していても
そうなんだから、当時の実態なんて怪しいもんだよ。
0139人間七七四年2007/03/16(金) 22:06:17ID:cMihzzKu
謙信の大軍にさんざ領土が蹂躙されても手をこまねいて見てるしかなかった小田原北条氏も、
その後領民に見放されたという話は聞かない
むしろ家康にとって心配だったのは家康に表向きは臣従してる遠江や三河の豪族達の離反だろう

0140人間七七四年2007/03/17(土) 00:57:20ID:pHt/f6QL
>>139
北条の場合しっかり城で守ってくれるし、
実際謙信は、北条と上杉の間をうろちょろしてる豪族の城は落とせても、
北条家の支城に関しては全然落とせてない。

そりゃ信頼感が違うだろう。
0141人間七七四年2007/03/18(日) 13:20:06ID:365BMVTf
謙信はちょっと頭を下げていればすぐ越後に引き返して何の統治も
していないからすぐ北条に帰服できるし、北条もそれを分かってるから
とやかく言わずに旧に復せるしなあ。

繰り返していれば習慣になるけど、三河駿河の境界線上の土豪たちの
去就はそう簡単じゃなかったろうしなあ。武田もヘタクソな統治を
してたから何とかなってたけど、もう五十年くらい時代が違ってたら
家康もとてもじゃないが持たなかった可能性もあるわな。
0142人間七七四年2007/03/20(火) 12:10:24ID:Clu/0zK+
家康が野戦の達人と言われたのは妥当な評価だろうね。
野戦の達人と言われたのは家康の晩年だったはず、
周りの大名は代替わりして2代目だったり、
元部隊指揮官が秀吉のコネで出世したりで
一国の大名として戦歴を重ねてきた指揮官が少なくなっていた時代だったはず。
だからその当時で野戦の達人と言えば太閤にも対抗した家康しか残っていない。
(まあ島津は匹敵する力はあったろうが知名度で劣っていた)
そんな状況での評価なわけだから野戦の達人と呼ばれたことは妥当だと思う。
実際に家康が野戦の達人ではなかったとしてもね。
俺も達人と言うより普通に良将くらいだとは思う。
0143人間七七四年2007/03/26(月) 13:33:06ID:/hGGXIH+
日本で唯一秀吉の大軍勢に野戦で敗北しなかった戦功を持つ武将が家康だ。
島津が家康に匹敵といっているが、島津は秀吉にバンザイしちゃっているだろ。
家康の手腕は島津を上回っているだろうが。役者が違う。
0144人間七七四年2007/03/26(月) 14:11:50ID:lY5v7j8F
長久手って三河兵が精強なのはわかるけど家康の采配がすげぇって
感はないよね。

中入り成功しちゃたまらんから全力であたったら敵が小城にかまったおかげも
あって捕捉&撃破、秀吉本軍に会戦はまずいので小牧にとって返した。という
訳で、水準以上の将ならだれでも同じ事をしたんじゃね?強行軍や遭遇戦勝利
を可能にする兵質があれば。

強行軍といえば秀吉の賤ヶ岳の合戦もそうなんだけど、こちらは機動戦を
予測して美濃に行くときに既に戻ることを準備している。自由自在の城攻めも
含め、秀吉の戦いには知略を感じるが、家康にはそれが感じられない。
陣形だけをとっても三方が原、関が原といちゃもんしかつけられてないし。
0145人間七七四年2007/03/26(月) 18:52:00ID:0Do5TauV
戦術指揮官としては島津義弘とかはかなり良いところまで行くと思うけどね。
ただし、政治家としては圧倒的に家康だし、太閤に勝っている実績もかなり派手だと思う。
ただ、家康の実績の内、どれだけが家康の野戦指揮官としての実力ゆえかって言うと判断が難しい気がする。

しかも家康の凄さって言うのは戦に関しては部下を上手く使いこなすって言う才というより
器的な凄さじゃないかって言う気もしている。





0146人間七七四年2007/03/26(月) 22:44:50ID:eewZTdYw
家康が「偉大なる東照大神君は完璧なる才能を持った偉人」
というような評価には違和感があるが、
逆に「家康が運だけ」といいたがるのは鈴木眞哉のうけうり
運をモノにするだけの才能はあるし、
運が巡るべく手は打っている

関ヶ原にしても鈴木や信者は「運がよかっただけ」と貶しまくるが、
家康の内応策が生きて勝利しているわけで、
少なくとも家康が手を打たなかったら、
こういう形での勝利がなかったことは間違いない

もっとも家康の才能は合戦の指揮能力より
保身に長けた政治能力の高さだと思うが
0147人間七七四年2007/03/26(月) 22:51:11ID:i3XeJFtu
鈴木某の本を読まなくても、運で天下が転がりこんできたのはよくわかる
0148人間七七四年2007/03/26(月) 22:56:22ID:GHYRSw41
運だけは言い過ぎだと思うが運の部分が大きかったのは事実
0149人間七七四年2007/03/26(月) 23:00:35ID:eewZTdYw
>>147
だからその考え方が鈴木ともろ一緒なんだってw
運という要素を無視しろとは言わんが、
それだけで思考停止してすべてを見ようとするのは、愚の骨頂

そんな事言い出したら、
例えば信玄だって幸運の限り

親父が甲斐の地ならしをしてくれて、
しかも家臣団や領民の不信を買っていたために、
クーデターを起しやすい環境にあったし、
信玄が得意とする策略の数々だってたまたま当たっただけで、
それは実際成功するかどうなるかわからない

高く評価される「信長包囲網」にしたって、
現実には朝倉の脱落という形で失敗しているしね

家康を「運だけ」と否定したいなら、
他にも当てはまる例は少なくないよ
0150人間七七四年2007/03/26(月) 23:03:42ID:eewZTdYw
>>148
運がめぐっても朝倉義景のようにわけわからんことするやつもいる
信玄西上にともなう信長包囲網で信長が窮地に陥り、
反信長勢最大のチャンスが到来するも、これをみすみす逃すのだから

少なくとも運がめぐってきたらこれを逃すことなく、
自身の糧にするだけの才能はある

もっとも信長とかと違って、そういう「運」が巡らなかったら家康の場合、
今川の有力家臣の一人でも満足だったろうね
0151人間七七四年2007/03/26(月) 23:04:30ID:eewZTdYw
>>150補足

>少なくとも運がめぐってきたらこれを逃すことなく、
>自身の糧にするだけの才能はある

これは家康のことね
0152人間七七四年2007/03/26(月) 23:14:46ID:/hGGXIH+
実力がなくては運はつかめない。
家康は相当の実力の持ち主だわな。
0153人間七七四年2007/03/26(月) 23:25:33ID:eewZTdYw
>>152
信長や秀吉、信玄、元就とかと比べると派手さがないし面白くないけどね

基本的に弱いものいじめが上手くて、
強いものには「律義者」を装いながら、ちゃっかりそれなりの地位を確保して、
隙あらばその強いものから全てを奪い去ろうとするような男だから

実際そうやってのし上がったのが家康だから、
「家康公は偉大英雄なのだ」と評価する気にはなれん

ただ、「運」というだけで思考停止するのには違和感があるだけ
0154人間七七四年2007/03/26(月) 23:29:22ID:/hGGXIH+
>>153
ほう、小牧長久手も武田との合戦も弱いものいじめだったのか。
家康よりも弱かった秀吉信玄像の持ち主か。珍しいねチミw
俺はむしろ、家康は常に自分よりも大きく強い敵と戦い続けてたイメージがあるな。
0155人間七七四年2007/03/26(月) 23:43:55ID:eewZTdYw
>>154
上に書き忘れたが、あと家康の大きな特徴の一つに、
「一度手に入れたものは誰にも渡したくない」というケチな部分があって、
その特徴から考えれば、武田との12年戦争は簡単に理解できる。

武田との合戦は相手が自身の領土に大侵略してきたから、
これを守るために迎撃しているだけのことであって、
武田領を侵略しようと積極果敢に好き好んでやっているものではないよ。
もし武田が何もしてこなかったら、友好関係を維持してたろう。
基本的にそんな大冒険するような男ではない。

そして設楽が原合戦の勝利の後、
武田が不利になるや途端に積極的に攻勢に出ていき、
最終的に武田滅亡に大きな役割を果たしているところから見て、
「強いものに積極的にいどむ」というイメージとは異なると思うが?

武田との抗争にしぶとく勝ち抜いたことは評価するべきだと思うし、
家康を無能者と見るのには違和感があるが、
かと言って「強いものに自ら積極果敢に挑んだ家康」というのは異なると思う。
0156人間七七四年2007/03/26(月) 23:47:50ID:/hGGXIH+
家康の対戦相手、今川、武田、浅井朝倉、北条(小田原役じゃなくて徳川8千で北条4万を破った甲州入りのときのな)、秀吉、関ヶ原西軍
こいつらと戦うのが弱いものいじめなら、家康どんだけ強かったんだ?
そりゃ野戦の達人といわれるわけだ。
0157人間七七四年2007/03/26(月) 23:49:55ID:eewZTdYw
小牧長久手についてもそう。

あの合戦が起こったときは秀吉の「天下」もまだ定まったわけでなく、
混乱状況にあったからこそ「勝てるかもしれない」と戦いを挑んだわけで、
もし秀吉が小田原攻めのような状況にあったら、戦いは挑んでいないだろう。

ただ、この小牧長久手の時の家康の最大の特徴は、
戦争としては秀吉に敗れるけれども、
小牧長久手の局地戦の勝利や秀吉が西国攻めなどもあって、
家康ら東国勢との戦争を嫌がっていると見るや、
わざわざ秀吉から人質までとって最終的に臣従し、、
豊臣政権の中でNo2的な独特の存在感を発揮するような立場に収まるところ。

こういう抜け目のない政治的駆け引きの才能が家康はズバ抜けて高いと思うよ。
0158人間七七四年2007/03/26(月) 23:55:50ID:/hGGXIH+
>>157
小牧長久手の何処が弱いものいじめだよ。
明らかに戦力的劣勢の中で秀吉の大群と対峙しているだろ。
自分よりも大身の敵と積極的にっ戦ったことに間違いはない。
甲州入りのとき北条の大軍と戦ったのも同じだ。
関ヶ原まで家康は自分の身よりも大きな敵と戦い続けていただろう。
0159人間七七四年2007/03/26(月) 23:57:31ID:eewZTdYw
>>156
今川攻めに参加するのは義元亡き後の、
混乱状況の今川家に対してであって、
駿河公方と呼ばれた当時の今川家ではない

武田については>>154のとおり

浅井・朝倉は織田との戦争に同盟国として参加しただけ
自ら挑んだものではありません

北条との戦いも北条家との全面戦争を行おうとしたものではなく、
あくまで旧武田領争奪戦として、いわば局地戦として争っただけ

秀吉との戦いについては>>157のとおり

関ヶ原については天下人秀吉に挑むのではなく、
秀吉亡き後の混乱状況下で、政治工作をフルに生かしながら、
抜け目なく天下を狙い、単独での勢力がはるかに劣る三成と全面戦争になっただけ
西軍があそこまで大きくなるのは家康にとって最悪のケースだったろう


合戦指揮能力とは別として、
家康が自ら戦いを挑むのは基本的に同等もしくは弱い相手だけです
ケンカ売られたら自分の土地を守るために戦いに臨むがね
0160人間七七四年2007/03/27(火) 00:00:12ID:qlehXNjn
>>159
今川も北条も小牧のときの秀吉も家康よりも大身であったことに変わりはない。
家康は関ヶ原まで自分よりも”大きな”大名と”積極的に”戦っていた。
弱いものいじめなどという表現は明らかにまちがっている。
0161人間七七四年2007/03/27(火) 00:00:19ID:SBoN7Xv6
信長の言うとおり岡崎に移って籠城すべきだったんだよ>信玄の侵攻
なんで浜松から突撃かました家康は戦略眼に疑問符が残る
ケチだから。みたいな馬鹿な説は言わないけど
0162人間七七四年2007/03/27(火) 00:04:25ID:DiF5STMY
>>158
家康の全てが弱いものいじめとは言ってないが?
「基本的に」家康の戦略姿勢はそういう「弱いものいじめ」にある、と言ってる

義元の在世中に義元に謀反を企てたか?
信長の健在中に信長に反旗を翻したか?
自分から積極的に信玄健在の武田領に攻め入ったか?
臣従後、生前の秀吉に反旗を翻したか?

小牧長久手については合戦そのものを評価することもいいが、
むしろそのあとの簡単に秀吉に屈しなかった、
政治的駆け引きを高く評価するべきだよ
あの政治駆け引きの妙が「五大老筆頭」の背景に大きく残っているんだから
0163人間七七四年2007/03/27(火) 00:05:22ID:DiF5STMY
>>160
大身であっても明らかに弱体化してるのよね
ここが大事
0164人間七七四年2007/03/27(火) 00:08:52ID:DiF5STMY
>>161
積極的に突撃かましたってか、
篭城してたら武田の先遣隊と小競り合いになって、
そのまま信玄に誘い出されたっぽいけどね<三方ヶ原

ただ領主としての地位を守るためには、
あそこで武田に戦いを挑まないと、全てが崩れかねない危機的状況だった

武田との遠江三河争奪戦で評価するべきなのは、
武田に戦いを挑んだ事もそうだけど、
それよりも浜松からの徳川支配体制を根本的に崩さなかったことだと思うよ
これは見事だと思う
0165人間七七四年2007/03/27(火) 00:10:11ID:7D/gh1nx
家康が弱いものイジメだというイメージは、
旧主である今川や豊臣をネチネチと痛めつけたをからそういう印象が有るだけで、
こと戦に関しては壮年の頃はむしろ無鉄砲といってもいいくらい
冒険家だったと思うが
0166人間七七四年2007/03/27(火) 00:11:31ID:DiF5STMY
誤解されては困るが、
家康が「弱いものいじめ」を得意とするから魅力的ではないと思うけれど、
才能がないとか運だけの凡将とかいうつもりはないからな
0167人間七七四年2007/03/27(火) 00:14:09ID:DiF5STMY
>>165
>壮年の頃はむしろ無鉄砲といってもいいくらい
>冒険家だったと思うが

例えばどんな戦いをもって?

武田との遠江・三河争奪戦の場合は、
自身の領主としての地位を守るためには絶対避けられないものだから、
これをもって冒険家とはいえないと思うよ
0168人間七七四年2007/03/27(火) 00:14:37ID:ltFOYC9V
>>162
戦略的に戦うのが間違ってる相手に攻めるのはただの馬鹿。
大国で名将が相手では三方ヶ原がいい例。
大国だけど凡将。でなければ逆転なんてできるわけないだろ。
0169人間七七四年2007/03/27(火) 00:19:22ID:7D/gh1nx
その三方ヶ原が家康にとってどうしても避けれない戦いだったという認識がそもそも誤り
神君家康公が勝つ可能性の極めて薄い戦いを自分から仕掛けて叩きのめされたのを、
民のことを考えて、とか止むを得ない事情が有ったから仕方が無いというのは典型的な徳川史観
大軍相手に城に籠って防備を固め、援軍や相手の包囲が緩むまで待つというのは戦国時代によく見られた当たり前の戦法
それをしたからといって武士の名が廃ったり、配下が全員家康を見捨てて離反するなんてそもそも有りえない
単なる判断ミスかそうでないなら若気の至りだろう
0170人間七七四年2007/03/27(火) 00:22:27ID:DiF5STMY
>>168
「積極果敢に強いものに挑んだ」というのに違和感があるだけ

あなたのおっしゃるとおり、家康の場合、
「勝てそうな相手とのみ戦をする。しかし止むを得ない場合は例外もある」
と手堅く戦略を立てて最終的に勝利を収めていったということ

ただこのケースは信長や特に元就なんかと比べると、
保守的であるし派手さがなく、あまり魅力的ではないと思う。
実際家康を批判する連中の多くは、こういうところを嫌うからね。
で、あげく「運がよかっただけ」と堂々と貶めることを言うやつも出てくる始末。

魅力的ではないとおもうから「弱いものいじめを得意」とかいたけれども、
しかしそれをもって無能とか運がよかっただけなどというつもりはない
0171人間七七四年2007/03/27(火) 00:27:42ID:DiF5STMY
>>169
誰も家康が篭城するつもりはなかったなどと言ってはおりませんが?

基本的に篭城策を推進したかったが、武田の圧倒的な侵攻を前に、
武田との国境周辺の「国人領主」を中心にどんどん武田方に下る始末で、
このままでは徳川家の支配体制が崩壊する危険性があるから、
いずれは出陣せざるを得ないという背景もあったと言ってる。

もっともおっしゃるように徳川の国人層や岡崎衆はともかくとして、
浜松の政権中枢は一致団結してて、
この武田侵攻で崩壊する事はなかったんだけどね

三方ヶ原そのものについては信玄の策が成功しただけで、
家康自ら積極果敢に打って出た彼本意の戦いとは言ってない
0172人間七七四年2007/03/27(火) 00:28:53ID:XgwDmN5i
野戦の達人はピンチになってでも一か八かの賭けで勝負することはあっても
特にそこまで切羽詰ってるわけでもないのにピンチになることはありません
0173人間七七四年2007/03/27(火) 01:30:53ID:U7ZxwuhP
>>15>>33>>41>>46>>47>>81
鈴木眞哉の影響をまともに受けているのがよくわかるレスだ

特に>>15>>33>>46>>47あたりは鈴木の著書のまんまだね
0174人間七七四年2007/03/27(火) 01:42:21ID:SPW7sRy1
>>172
誰か通訳頼むもちろん、100回声に出して読みました
0175人間七七四年2007/03/27(火) 01:44:18ID:U7ZxwuhP
>>174
わけわからんのでスルーした
しばらく雑談付き合ってもらえるかね?
0176人間七七四年2007/03/27(火) 01:46:06ID:l3ppT+JX
>>172は声に出して読みたくない日本語
0177人間七七四年2007/03/27(火) 01:48:53ID:U7ZxwuhP
>>172推測
>野戦の達人はピンチになってでも一か八かの賭けで勝負することはあっても

野戦の達人はピンチになったら一か八かの大勝負をする事はあっても

>特にそこまで切羽詰ってるわけでもないのにピンチになることはありません

特に大勝負をしなければならないほど切羽詰まっているわけでもない時に、
ピンチに追い込まれる事はありません


こういうことかね?
0178人間七七四年2007/03/27(火) 02:09:34ID:c48Ga2G7
>基本的に篭城策を推進したかったが
これソースよろしくね
0179仙台藩百姓2007/03/27(火) 02:26:44ID:cvm4Z/cl
篭城してればあんなに犠牲出さなくて済んだのに家康が阿保のお陰で酷い目にあったおね(;^ω^)
後詰めがあるのにわざわざ不利な戦い仕掛けるなんて
家康は信玄にビビって気が狂ったのかお( ^ω^)
0180人間七七四年2007/03/27(火) 03:02:00ID:hztCconM
信長、秀吉は天才だが家康は運が良い凡人のイメージがある。
失敗した経験を血肉にしていって天才タイプと渡り合った。

タイプとしては謙信に対する信玄に似てるのかな。
敵とはいえ絶好のお手本が近くにいたのも運が良いといえる。
0181人間七七四年2007/03/27(火) 04:24:13ID:9e2GE2Zu
長久手って分からないんだよなあ。
あれ、ただでさえより多くの人数抱えてた秀吉が間抜けに懐手して見てないで、本隊が消えて少なくなった家康陣を
落としにかかれば、家康は平地で腹背に敵受けて、一気に窮地に陥るよね。
秀吉に気付かれないような策打ったんだとしたら、神君の神謀とかで史書にかかれてても良さそうなもんだけど、そんな
のも見た事ないし、ただ秀吉が抜けてただけじゃないのかな。
目をつぶって突進したら勝っちゃったレベルの、ただの僥倖な気がする。

0182人間七七四年2007/03/27(火) 05:17:16ID:HwHyUNsO
>>180
同意
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています