家康は本当に野戦の達人?
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0001人間七七四年
2007/03/11(日) 00:04:50ID:jgwWrmey本当にそれほどの戦上手なのでしょうか?
0417人間七七四年
2007/03/31(土) 01:36:53ID:73hXRIm1実際に勝利したのは劉邦でしょ
0418人間七七四年
2007/03/31(土) 01:37:21ID:YRn6SxHJ0419人間七七四年
2007/03/31(土) 01:38:22ID:nMZqVN4O妙な理屈で誤魔化すなよ
0420人間七七四年
2007/03/31(土) 01:39:43ID:IUXasId5だからそれを補う政治能力が家康にはあると言ってるだろが
戦略的にみたら西軍から挟み撃ちの形になった関ヶ原でも、
自身の地位と権威を背景にした政略を駆使して、
東軍をまとめながら、西軍を瓦解させる事に成功するんだから
もしただの平凡人なら、三成が蜂起した時点で終わってる
0422人間七七四年
2007/03/31(土) 01:41:41ID:nMZqVN4O次に標準でも、才能のあるものの中での標準つう意味だと…
お前が春厨だよ、標準は標準だよ、標準でないなら標準とは言わないでくれよ
0423人間七七四年
2007/03/31(土) 01:42:00ID:+J048fXa尊氏は戦で負けてるが室町幕府を作った
同時代で戦で天下人に勝った人間は日本史でもいる訳で
0424人間七七四年
2007/03/31(土) 01:44:08ID:nMZqVN4O家康は軍事指揮能力が優秀だった、だから天下を取れた
なんの矛盾もない文章だ、最初からそう言えよ
0425人間七七四年
2007/03/31(土) 01:44:13ID:IUXasId5真田や長野、島津あたりはとっくに天下取れてるわなw
しかしそれだけで国が治まらないから政治的な才能とかも必要になる
要は自国を守りながら領土拡張に成功するような大名ってのは、
オールマイティープレイヤーである事がもとめられるわけだ
どれか一つ飛びぬけて優秀なだけじゃダメなんだよ
全てにおいて優秀でなければ
その中でみれば家康の場合合戦能力は標準的なものを具えていて、
それ以上に政治能力の方が高い、ってなる。
0427人間七七四年
2007/03/31(土) 01:45:46ID:UVRZWrWg>中の上とは他の大名で言うと誰が相当するの?
異論はあるかもしれないが、伊達政宗。
伊達政宗は対佐竹・東北勢連合軍に対して劣る兵力で奮戦している。
これが家康の三方が原に似ていると思う。
摺上原はほぼ同数の兵力(伊達がやや多い)だが芦名は内部分裂状態。
序盤苦戦で最終的に伊達勝利。
規模も経過も違うけど、関ヶ原と似ていると思う。
また政宗は大崎義隆を攻めた際、大崎軍よりずっと多い兵力で攻めながら撃退されている。
ここが上田城攻めを連想させる。
>野戦の達人の基準とそれに該当する人物
達人の基準 上ほど良い。
・敵より劣る兵力で大軍を撃退、より良いのは壊滅。もちろんより少ない兵力でより
多い敵を倒すほど良い。(奇襲、強襲は問わない)
・大体同数兵力だが味方の犠牲を少なく、敵の犠牲を多くする。
・これらを一度ではなく複数回こなす。また敵にこれらをさせない。何度もこれらを敵に許した
場合、以前に自分が上記を行ったとしても達人には含めない。
・なお敵対した者があまりにも経済力・石高などで乖離していた場合、いくら撃退しても戦略、政略面で
押し切られるのは仕方ないので、戦略、政略面が原因の敗北と見られる場合は戦略、政略面で評価する。
自分が達人と考える人物
毛利元就 長野業正 鈴木重秀 吉川元春 立花宗茂
真田は昌幸だと思うが、上田城攻めは野戦よりも篭城戦の面が強いので入れなかった。
また自分が戦歴をよく知らない人物は入れていない。
0428人間七七四年
2007/03/31(土) 01:48:57ID:IUXasId5中の上とかいうと一見悪評価に見えるけど、
これは雑魚を意味するのではなく、
十分すぎるほどの能力を意味するよな
0429人間七七四年
2007/03/31(土) 01:48:58ID:nMZqVN4O後になっても軍事力が無ければ政治力なんて無きに等しい
どっちが先かと言えば軍事力だろう?
その軍事力を蓄えるのに、軍事指揮能力が標準で、周りに圧するものが
蓄えられるのか?
0430人間七七四年
2007/03/31(土) 01:53:39ID:IUXasId5> 押し切られるのは仕方ないので、戦略、政略面が原因の敗北と見られる場合は戦略、政略面で評価する。
関ヶ原なんかその典型だよね
五奉行の一人である三成と五大老筆頭の家康とでは、
政略を進めるに当たってどちらが有利かと言うと、目に見えているわけで
前田や毛利などを立てないといけない三成が東軍に政治工作を施すよりも、
家康のほうがはるかに有利
だからこそ政略を駆使して東軍の危機を乗り切る事も出来たのだし
そういう状況下であれほど家康を苦戦させた三成は評価があっていいと思うけどね
0431人間七七四年
2007/03/31(土) 01:56:45ID:IUXasId5三河一向一揆の鎮圧方法をわかって言っているのか?
「元に戻す」と一向寺院と和解しながら寺院を更地にして、
「元に戻すとは元の野原にするということだ」と捨て台詞
そしてそのあとの徳川家の軍政を知った上で言っているのか?
この当時から家康は石川・酒井両家老とは、
別に本多忠勝や榊原康政など家康直轄の旗本衆を自軍の主力の一つにして、
徳川の専制体制を築こうとしているのだが?
0432383
2007/03/31(土) 01:58:23ID:UVRZWrWg中の上とかいったのがあいまいでいけなかったみたいだ。
中の上とか上の下とか書いたのは普通より良いけれども文句なしで達人とはいえないよ
位の意味で書いたのよ。
はじめからこう書けばよかったな・・・。
0434人間七七四年
2007/03/31(土) 02:00:12ID:nMZqVN4Oそんなのが大将で勝てるわけがないよ
0436人間七七四年
2007/03/31(土) 02:03:32ID:nMZqVN4O吉良と今川の関係から、清康のはっちゃけぶりまで知ってるよ
0437人間七七四年
2007/03/31(土) 02:04:51ID:H4VngCHj>>427
政宗は野戦で勝ちは
摺上原で勝ったぐらいしか無いような気もするが
長野業正は兵力で劣っているけど武田や北条に負けているとされている
また武田に勝ったと言うのも・・・野戦かって気がするけど?
あと鈴木重秀は謎過ぎるので入れるのは変
0438人間七七四年
2007/03/31(土) 02:05:10ID:IUXasId5だとしたらお前は神君神話を持ってしか家康を評価できないただの馬鹿
家康の魅力は神君神話が破られたところから発見できる
0439人間七七四年
2007/03/31(土) 02:05:20ID:73hXRIm1合戦の才能がある人物を見出し、合戦をさせるのが大将に必要な才能なわけで
ID:nMZqVN4O
家康に「軍事才能」がない。と記述してるわけじゃないからな
自分は家康は野戦の達人に値すると思ってるし
そのラインが>>427より、低めだとは思うがね
0441人間七七四年
2007/03/31(土) 02:08:46ID:nMZqVN4O一向一揆じゃ敵対してたんだぜ、その後も改宗した訳じゃない
相変わらず真宗だぞ、因みに家康は浄土
近所に浄土の寺があるが、住職はいない
0443383
2007/03/31(土) 02:17:15ID:UVRZWrWg>家康の寡兵で大軍破ったもう一つの例として吉田城の攻防
前にも書いたが有名どころしか挙げてないので入れてない。
また自身が良く知らないと言うのもある。
>長野業正は兵力で劣っているけど武田や北条に負けているとされている
自分が調べた限りではそういう内容のものは見つけられなかった。
>また武田に勝ったと言うのも・・・野戦かって気がするけど?
>あと鈴木重秀は謎過ぎるので入れるのは変
これらは不適切だったと思うので外すよ。
重秀は織田軍と野戦で戦って引き分けたこともあるみたいだが、篭城戦の面の方が強いし。
業正も同様。
0444人間七七四年
2007/03/31(土) 02:24:43ID:j86id7tMまず、関が原と大坂の陣なわけだが。
双方とも勝ったが、極めて不味い状況に陥ったのは確か。
小牧・長久手から関が原まで10年以上も、合戦を家康は経験
していない。その間の戦術理論の発達に家康が追いついていなかった
のではと考える。
最近のトレンドだと、野戦築城が発達したっぽいけど。
その手の経験を学び損ねて関が原以降、戦機を感じることができなくなった
ではないかと思う。
0446人間七七四年
2007/03/31(土) 02:38:10ID:H4VngCHj吉田城というか東三河の争奪戦の一つだが
一宮の後詰とかでぐぐれば見つかるかもしれないが
史料によってまちまちだが
だいたい
松平勢2000〜3000が今川勢8000〜2万が包囲する一宮かどこかの包囲を突破して
中の兵と合流し、今川勢を撤退させるという話し
その結果今川は東三河を喪失することに
氏真が兵を率いたとも武田信虎が兵を率いてたとも言われている
他に武田信虎が駿河で不穏な動きをしたため今川は兵を退いたとも
長野業正は確か
志賀城救援で武田に敗れたという話しのほか
河越夜戦後、戦場に出ない憲政に代わって北条氏と戦って負けたという話し
0447人間七七四年
2007/03/31(土) 02:41:56ID:323m4ooz外堀を埋めると約束させたうえに内堀まで埋めるという
手段に出ることで城の防御力を著しく低下させたのは
家康の政治家という面の能力かと愚考
家康は相手に付け込むの本当に上手いよね
小牧といい大坂の陣といいね
0448383
2007/03/31(土) 02:54:23ID:UVRZWrWg>一宮の後詰
ググッてみたところ数件でてきた。
が、複数の資料が言ってる事がまちまちの部分が多い気がする。
氏真が傍観とか信虎が謀反を起こしそうだから引き返したとか言ってるのもあるし。
それと後詰軍が包囲を破ったみたいだけど、包囲軍のうちのどれくらいの数と
戦ったのかわからない。
これではちょっと評価し辛いな。
>志賀城救援
「志賀城 業正」でググッたが自分が調べた限り上杉憲政の援軍としか出てこないんだが・・・。
0449人間七七四年
2007/03/31(土) 03:09:23ID:H4VngCHjまあ分かるのは家康が大軍を破ったってことぐらいだな
>包囲軍のうちのどれくらいの数と戦ったのかわからない
これはほとんどの場合分からないだろ
むしろわかる方が怪しい
でもこれで評価しづらいなら長野業正 鈴木重秀 吉川元春 立花宗茂
の評価はもっと難しいと思う
0450383
2007/03/31(土) 03:30:38ID:UVRZWrWg立花宗茂は朝鮮の役などで十分評価できないか?
まあ元春は良くわからん部分も多いが、一応山陰方面軍で活躍してるし無敗。
九州の大友戦でも下手撃ったわけじゃないし。
一宮の後詰の話は包囲軍の数があまりにも乖離しすぎててどの数字で評価していいか困る。
仮に徳川三千、今川一万として包囲を破って城に入った。で、今川は何らかの理由
で引いた。
破ったこと自体は評価できるが、城に入ってしまえば篭城戦になるし、今川は
なぜ徳川を攻めなかったのかわからない。
元春を達人とする評価は異論ありかもしれないが、俺の家康評は下手糞や並ではないけど
達人と文句なしで言えるレベルとはいえないから変わらない。
0451人間七七四年
2007/03/31(土) 04:17:45ID:+J048fXa二人の親父より評価高くていいぐらい
朝鮮役だけじゃなくて、肥後の一揆の時の進退の巧みさも評価出来る
ただまぁ、万単位の将ではない
万単位の兵を率いなければならなかった家康と純粋には比べられない
けど、そういう運用は秀吉、秀長の方が家康より優れてた
0452人間七七四年
2007/03/31(土) 05:13:50ID:vuf4KVVX同意
同単位なら朝鮮派遣軍のが強いと思う
0453人間七七四年
2007/03/31(土) 09:13:26ID:3ZRnNP0V野戦築城に対する攻撃は、敗北もしくは出血を強いられた勝利となっています。
嚆矢といわれる長篠の合戦は周知のとおり、小牧の対陣は双方手を出せず、
関ヶ原は裏切りで(これの異論は今回は置いといてください)、大阪夏の陣に
おける天王寺合戦は東軍の大苦戦。
これは家康がいない他の戦でも同様の結果になります。
つまり、野戦築城の構築はことそれに攻めかかる将の戦術能力を無効化する
事ができるという事になるのでしょう。
おそらくそれを圧倒する手段はただ一つ、それを飽和する戦力を叩き込む。
そういう意味では安土・桃山時代以降の戦は戦術など勝敗に左右されない
時代に達していたのでしょう。
0454人間七七四年
2007/03/31(土) 09:37:39ID:DP5v8hy2論旨がつかみにくいけど、大阪夏の陣は、
”それを飽和する戦力を叩き込む”戦だったゆえに苦労したのでは??
移動力が徒歩に頼る場合(第一次世界大戦まで)、
局地的に不必要な人数を集めて失敗した例は多いよ。
0455人間七七四年
2007/03/31(土) 09:45:06ID:VmOgNBCx確かに個人の戦略が戦を左右する時代から、
総合的な権力政治力がものをいう時代に変わってきてるな。
家康は個人の戦略はそこそこ、総合的な権力は他を圧倒しているから
やっぱり達人だわw
0456人間七七四年
2007/03/31(土) 09:56:20ID:j86id7tMであるなら、余計な評価低くなる。
なぜなら、関が原の合戦は必然的な決戦ではなくて、
家康が主導して作り上げた決戦。
つまり、自ら不味い設定で戦った事になる。
最低限の物見出すこと位すりゃ敵の野戦築城の仕上がりが理解できるし、
そもそも各将の調整の取った様子も無い。
合戦初期は霧が出ているんだから、厄介な接敵が比較的楽にだったわけだし。
家康が陣場野に出た理由って東軍が押されて、陣地から西軍が
出撃して東軍がかき乱されたからじゃなかったっけ?
この状態で野戦築城も糞もないと思うんだけど。
ここでも一つ評価が下がる。
家康、予備隊投入下手糞。
大垣城から敵兵力を引き剥がすという事に成功したわけだし。
そもそも、強いて戦を強要せずとも良い状態だったわけだが。
家康の為に弁護すると、関が原は政治が足かせになった戦かもね。
黒田長政にちょっと下がりなされって命令だしても、
空気読めよって素で返されそうだ。
0457人間七七四年
2007/03/31(土) 09:57:25ID:3ZRnNP0Vあれは攻撃一波の破砕に乗じて突撃していった結果として生じたものですから
防戦に専念していたら三倍の兵力は常識的かと
家康も大阪方は今回も篭城を主として考えていたのか、戦間期にも大鉄砲を大量
生産させています。
0458人間七七四年
2007/03/31(土) 10:14:34ID:3ZRnNP0V家康としては関ヶ原において陣場野に前進したのは状況を見定めようとした為でしょう。
霧が晴れたといっても合戦後、土砂降りになったというから視界は依然悪いでしょうし、
後、西軍の反撃は東軍の攻勢を破砕した後とも考えられます。
そして、西軍も反撃に失敗してそこの小早川が裏切りをという流れではないのでしょうか
ちなみにあそこで小早川が動かず、千十手になった場合、双方は兵を引き(東軍は菩提寺
山城、西軍は佐和山城か?)再び、対峙になるかと。
その点では家康にとっては大敗をしない限り、西軍を後退させることができるという事ですから
家康は統率が取れていない西軍に大敗することはないと判断し前進したのでしょう。
0459人間七七四年
2007/03/31(土) 10:21:25ID:73hXRIm1後世で事情を知ってるから書ける事が混ざりすぎてない?
その時の家康の視点からみてやらないと、減点はいくらでもできちゃうだろ
0460人間七七四年
2007/03/31(土) 10:43:12ID:DP5v8hy2さすがに篭城は考えてないと思うけど。「堀を埋める」という政略的成功を収めた後で、
家康も「兵糧は3日分でいい」とかいってたというし伊達政宗も鉄砲騎馬隊を披露してるし
夏の陣の攻め手は野戦前提の用意してたのでは?
本筋から外れるけど17,18世紀に野戦では戦術で2,3倍の敵を追い散らした例はあるよ。
(ナルヴァの戦い、ロスバッハの戦いetc..)
戦場に多量の兵士を送り込むのは必勝法だけど、その質の確保ができるのは、
国民軍が成立してからじゃないかなぁ…それまで戦術を無視できるほどの大軍、
というのは現実的考えだとは思えないとおもうなぁ…
0463人間七七四年
2007/03/31(土) 15:03:31ID:3ZRnNP0V正確には篭城というより、小牧の陣みたいな対峙戦を警戒していたのではないかと
家康としては短期間で終わる野戦が望む所でしょうが、対峙戦も警戒していたかと
兵の質に関しては戦国期日本は侍・足軽がどの程度の存在であったかから始めない
といけないでしょう。
欧州基準の封建兵ではないし、傭兵とも言い切れない、徴集兵では断じてない。
これらの存在がどの程度の組織力を有すかはそう簡単には結論は出ないかと
0464人間七七四年
2007/03/31(土) 19:24:22ID:iwdmAPdO野戦の達人かと言われると言葉のイメージからすると難しい。
野戦の達人と言えば、馬上戦況を見ながら自在に兵隊の出し入れをするイメージかな。
姉川の戦いではこのイメージに合ってる。
0465人間七七四年
2007/03/31(土) 19:34:35ID:weE/wF3O家康が師と崇めた信玄は野戦能力はどう思う?
0466人間七七四年
2007/03/31(土) 20:11:50ID:s9USCrTBそもそも横槍入れたのが榊原康政だったり本多忠勝だったり果ては信長から援軍に寄越された稲葉一鉄だったり書によりバラバラ
信玄も言われているほど野戦能力ないよね。上田原合戦では五千で二千の村上勢に大敗しているし、川中島合戦でも劣勢の上杉勢に大打撃喰らってる
三方ヶ原合戦は二倍以上の兵力で押し潰しただけ(いわゆるおびき出し作戦説は、江戸期初期以前のものは信玄贔屓の軍鑑すら取っていない)
0467人間七七四年
2007/03/31(土) 21:43:15ID:nMZqVN4Oあれだけの負け戦なのに、家康側の重臣に死者がいない
本多や榊原、酒井・大久保に一人くらい死者がいても良い筈なのに、いる?
家康が馬上、大便を漏らすくらいの負け戦に、有名どころの討ち死にがいない
少し腑に落ちない、いや大いに疑問がある、これは家康の宣伝ではないのか?
織田殿の三千くらいの応援では信玄は討てません、つう泣きじゃないのか?
0468人間七七四年
2007/03/31(土) 21:45:57ID:nMZqVN4Oふざけんな! って言いたい、食ってる暇があったら逃げろと・・・
0469人間七七四年
2007/03/31(土) 22:00:58ID:nMZqVN4Oふつう一揆と言えば住民が領主に謀反することなんだが
三河一向一揆の場合、寺に課せられた税に対して寺が怒り
それに吉良や家臣が加担して一揆になった
疑問とは、寺に課税して一揆の元をつくったのが
他ならぬ家康ではないかと思えるのだが…狙いは三河再統一だ
0470人間七七四年
2007/03/31(土) 22:15:39ID:nMZqVN4O家康の松平は主流ではなく傍流だ、だから親戚筋の松平には不満な連中がいたし
当然、吉良は復権を狙っている、その不満分子を誘い出して再統一しなければ
先々の禍根となる、よって一向一揆なのだが、その実、シャッフルして
内閣改造したんだと考えたい、関が原の前に裏切り者が出ないようにしたみたいに…
0471人間七七四年
2007/03/31(土) 22:19:23ID:nMZqVN4Oあれがあったから長篠の戦には信長自ら出陣しなければならなくなり
それが武田を滅ぼした要因なんだと思う
つまり家康の負け戦っぷりが宣伝効果満点だったと・・・
0472人間七七四年
2007/03/31(土) 22:23:34ID:weE/wF3O武田が快勝するも家康らを仕留め損ね、大きな戦果がなかったのは同意だが
0473人間七七四年
2007/03/31(土) 22:37:11ID:nMZqVN4O家康側の重臣が討ち死にしてないんだぞ? おかしいと思わないのか?
川中島にしても長篠の戦にしても、重臣たちの死屍累々だぞ?
家康が討ち死に寸前な戦いで、それを庇って重臣の二人や三人
討ち死にするのが当り前じゃないのか?
0474人間七七四年
2007/03/31(土) 22:59:48ID:3ZRnNP0Vttp://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/m215.html
これを見ると国人領主級が3人ほど死んでるな
0476人間七七四年
2007/03/31(土) 23:16:09ID:nW1M6RjS本多忠真、鳥居忠広、鳥居信元、成瀬正義、
松平康純、米津政信、中根正照、夏目正吉
忠勝の叔父とか鳥居一門とか二俣城城代の中根とか死んでるな。
0477人間七七四年
2007/03/31(土) 23:18:41ID:BdtLKJwv関ヶ原で家康が苦戦したことは同意だが一つ質問
>なぜなら、関が原の合戦は必然的な決戦ではなくて、
>家康が主導して作り上げた決戦。
これはどういう意味かな?
1:家康は天下取りの為一大決戦を望んで色々と策謀してきた
2:赤坂まででてきた家康は三成と野戦で決着をつけようと関ヶ原におびき出した
1なら同意だが、もし2の場合だと、
関ヶ原での合戦は家康が誘ったのではないとする意見も強く、
いまだあの関ヶ原の決戦がどのようにして起こったかをはっきりと示す史料はなく、
断言は出来ないと思うのだけど、どういう意味で書かれたのだろう?
0478人間七七四年
2007/03/31(土) 23:28:47ID:PKpUhUfN三成以上に、家康にとってより必要だったと。
三成は極端な話、家康が死ぬのを待てるなら待ちたかったわけで。
0479人間七七四年
2007/03/31(土) 23:41:50ID:nMZqVN4O千人も死んで、これなら大っぴらに信長の御出馬を願えるな
でも与力の信長家臣に犠牲者が少ないのは、さすが三河人だな
0480人間七七四年
2007/03/31(土) 23:49:30ID:+J048fXa0481人間七七四年
2007/03/31(土) 23:51:35ID:nMZqVN4O馬上ウンコとか、お粥とか小豆餅の食い逃げとか、エピ盛り沢山だろ?
家康自ら負け戦を吹聴してるんだから・・・
0482人間七七四年
2007/03/31(土) 23:57:54ID:Ka1jeT0w関ヶ原 大阪 長篠 桶狭間
7割載る
姉川 山崎 賤ヶ岳 延暦寺
4〜5割載る
小牧長久手 本願寺
2割載る
高松 小田原 刀根坂
1割載る
川中島
三方ヶ原はこの次くらいだな
0484人間七七四年
2007/04/01(日) 00:06:43ID:2tQGrZPNでも一向一揆を調べて逝くうちに考え方が変わった
石橋を叩いて渡らない、なんてイメージは家康ではないぞ
一向一揆の元、寺に課税するなんてのは、今も昔もない
それをした家康は喧嘩を売ったんだ、従わない家臣を炙りだしたんだよ
三方が原でも負け戦を敢えてしたんだよ、落合ドラゴンズが負け試合を創るようにな
家康は並じゃないどころか、天才だったんだよ、だから天下を取れた、間違いない
0486人間七七四年
2007/04/01(日) 00:10:45ID:2tQGrZPN千人も死んで重臣が死んでない? んなばかなだよな
0487人間七七四年
2007/04/01(日) 00:14:10ID:BJfRPzYE家康が仕向けたってのは煎元増夫あたりの説だったな
それ鵜呑みにして興奮してるのか?
一向一揆もどういう経緯で起こったかよくわからんし、仮にこれが家康主導だったとして、
そこからなぜ三方ヶ原はわざと負けた、だから天才だに至るのかがわからん
お前とりあえず黙ってろ
0488人間七七四年
2007/04/01(日) 00:15:32ID:2tQGrZPN三成に口実を与えている、挙兵を促しているんだ
さらに福島らの裏切りを最後まで用心しているし
三河一向一揆の経験が生きているよな
兎に角、家康は受身のようにみえて実は攻めているんだな、これが
0489人間七七四年
2007/04/01(日) 00:19:00ID:2tQGrZPN最後に、もっと珍説を披露しようかな
桶狭間、実は家康が信長を手引きしたんだと考えていると言ったら
またバカにするだろうなぁ…
大高城攻めをしていた家康なら、その前を信長を通せば
桶狭間に出ることができるんだがな、、珍説だよな
逝ってよしって? もう逝くよ、怒るなよな w
0491人間七七四年
2007/04/01(日) 01:50:48ID:kb9d4fRD>断言は出来ないと思うのだけど、どういう意味で書かれたのだろう?
家康が決戦を決意したって意味合い程度。
状況からみて、双方の思惑の流れから関が原がおこったのであり。
どっちがどっちを誘ったのも判断しにくい。
でも、最終的には家康が関が原に出ることを決意したからこそ
決戦が生起したわけで。
攻勢に出た東軍イニシアティブもあった。
論理的帰結で”家康が主導して作り上げた決戦 ”となる。
・・・いやさ、あんたの言いたい事も分かるよ。
関が原合戦の舞台図描いたやつがわからんちんっつー事でしょ。
でも、それって意味あるの?
0492人間七七四年
2007/04/01(日) 02:00:47ID:BJfRPzYE誤読だったら申し分けないのだけど、
>>456を読んで感じたのは、
「家康は自らこの決戦を画策しながら、
肝心のところで失敗しているから野戦は下手だ」と読めたのね
要は関ヶ原での決戦を望んだ首謀者でありながら本番でダメじゃないか、と
だから家康は戦下手だぜ、と
「家康が主導して作り上げた決戦」
とあったからそのように理解していたのだけどね
けど、その意味で行けば、
関ヶ原に主導的に誘い込んだのはいずれだったのかわからないのだから、
「関ヶ原に誘いながら合戦に苦しむ家康は野戦下手」
という批判はありえないと思ったわけよ
0493人間七七四年
2007/04/01(日) 02:05:55ID:BJfRPzYE>論理的帰結で”家康が主導して作り上げた決戦 ”となる。
けどそれは「家康が主導的に画策して関ヶ原決戦に成った」って意味じゃないじゃん
「家康が主導的に作り上げた」のではなく、
「家康と三成の双方が関ヶ原で決戦に臨むことを決意した」というのが正しいんじゃない?
0494人間七七四年
2007/04/01(日) 02:11:47ID:BJfRPzYEなにも>>456の見解全てを否定したいわけではないのであしからず
「家康が関ヶ原に三成をおびき出しながら、
合戦に苦しんだのは野戦下手」というのに疑問があっただけだから
「家康は関ヶ原で勝つべくして勝った」などというつもりはない
あんなの戦術としては負けていながら、
政治力で戦争に勝利したようなものだからね
0495人間七七四年
2007/04/01(日) 02:31:29ID:kb9d4fRDだんだん言葉遊びじみてきたな・・・。
あっさり、言っちまう。
西軍にすでにイニシアティブなんてものはなかったんだよ。
関が原にあの日いかなきゃ、後方遮断されておしまい。
詰んでいた。以上。
0496人間七七四年
2007/04/01(日) 02:45:10ID:fP1rFGZQで戦上手ならあそこではどんな手が打てたと思う?
0497仙台藩百姓
2007/04/01(日) 02:55:07ID:d7PdRpAF秀秋の気分一つで戦況を左右されるようじゃ
0498人間七七四年
2007/04/01(日) 03:33:38ID:R6zFpEIb別に言葉遊びをするつもりはないよ
疑問だったのは、
「関ヶ原での野戦はすべて家康の思惑通り」
ということだけでこの点をはっきりさせたかっただけだから
0499人間七七四年
2007/04/01(日) 03:47:51ID:tRTmfZDP0500人間七七四年
2007/04/01(日) 03:54:30ID:R6zFpEIbそれなら異論なし
自分がいうのは、あの関ヶ原での合戦は、
「関ヶ原の地で合戦をするべく家康が仕組んで、
家康の思惑通りに運んだ結果、起こったものである」
というような狭義の意味でだから
0501人間七七四年
2007/04/01(日) 07:37:20ID:IJxyWYlfだが結局は西軍に包囲される絶対不利の布陣を取られ、
毛利の傍観と、愚鈍の小早川秀秋の気まぐれ頼みの勝利だろ。
関が原での家康はただそれだけを気にかけていた。
野戦の才などこれっぽっちも示していない。
たまたま秀秋が臆病風を吹かせて西軍を攻めてくれたから勝てたものの、
朝鮮での戦場の時のような躁な精神状態だったならキレて家康に攻めかかり、東軍は負けていた。
0502人間七七四年
2007/04/01(日) 08:05:25ID:vKvti1a30503人間七七四年
2007/04/01(日) 08:13:57ID:IJxyWYlf秀秋は戦闘が開始した後も日和見を続け、どっちを攻めればいいのか逡巡していた。
つまり東軍か西軍のどっちに転んでもおかしくは無かったわけだ。
お前レベルが低すぎる。
0504人間七七四年
2007/04/01(日) 08:29:16ID:akcNsTGW軍に家康の配下を目付として従軍させたりと明らかに東軍派だったけど、
関ヶ原本戦で意外と東軍の旗色が悪かったから去就に迷ってたのは事実だよな
家康はもう少しで戦前に緻密に積み重ねた調略をフイにするところだった
0505人間七七四年
2007/04/01(日) 08:36:03ID:tRTmfZDP鉄砲を撃ってけしかけた説は真偽が怪しいし。
0506人間七七四年
2007/04/01(日) 09:01:31ID:IJxyWYlf話を混同している。
秀秋が戦の形勢を傍観し攻撃目標を決めかねていたのが優柔不断であり、
家康からの西軍攻撃を催促する砲撃に怯えたのが臆病だ。
>鉄砲を撃ってけしかけた説は真偽が怪しい
なら秀秋は何を契機に西軍攻撃を決意し実行したのか。
つまらん茶化しはシラける。
0507人間七七四年
2007/04/01(日) 09:09:19ID:tRTmfZDP家康の陣と小早川の陣の、位置と距離を調べてみ。
だから根拠は何かと>>502も書いたのだろう。
自分も聞きたいな。
0508人間七七四年
2007/04/01(日) 09:26:07ID:IJxyWYlf砲撃の射程距離など問題ではない。
家康が秀秋を砲撃した「行為」こそが秀秋を西軍攻撃に踏み切らせた引き金になったと言っている。
攻撃してきた相手に憤慨もせずに、それに腰を抜かして怯え裏切りを敢行した愚行は、まさに「臆病風」そのものだろう。
君の言う所の
>鉄砲を撃ってけしかけた説は真偽が怪しい
の根拠は何か。明確に示してみろ。
それさえ出来ずに反論するな。
0509人間七七四年
2007/04/01(日) 09:32:54ID:tRTmfZDP関ヶ原の陣形図みてみ。探そうと思えばそう難しくないから。
その上で書き込むように。
0510人間七七四年
2007/04/01(日) 09:51:07ID:akcNsTGWだから怪しい与太話だと言われてる
関ヶ原の戦いで家康が何もせずに爪を噛んで小早川の裏切りを待ってるだけだった、
というのが江戸時代如何にも都合が悪かったから考え出された逸話だと思われ
0511人間七七四年
2007/04/01(日) 09:55:11ID:IJxyWYlfだから、砲撃の射程距離など関係ないって言ってんだろ。
どうでもいい事に話をすり替えて、己の論拠の無さを誤魔化そうとすんな。
君の薄っぺらさにはウンザリだ。
0512人間七七四年
2007/04/01(日) 10:00:52ID:IJxyWYlf東西両軍どちらが優勢なのか戦局を注視していた秀秋が、
自軍が布陣している松尾山に砲撃された事に気付かないわけねーだろ。
「怪しい与太話」はそっちの主張だろうに。
0513人間七七四年
2007/04/01(日) 10:18:57ID:akcNsTGW「敵味方押し合い、鉄砲放ち矢さけびの声、天を響かし、地を動かし、
黒煙立ち、日中も暗夜と成り、敵も味方も入り合い、錣をかたむけ、
干戈を抜き持ち、おつつまくりつ攻め戦う。切っ先より火炎をふらし、
日本国二つに分てここを詮度とおびただしく戦い、数ケ度の働きこの節なり」
多少文学的な誇張は混じってるだろうが、東西十万を超える大軍が鉄砲を撃ちあい、
怒声を挙げその硝煙の為に関ヶ原が暗くなってしまうほどの大激戦だったわけよ
そんな状況で比高300メートルにも達するかという松尾山の山頂に陣取ってた秀秋が、
数キロ離れた桃配山に居た家康の本陣からの威嚇射撃に気付くのは不可能だと言われてるわけ
よしんば家康の陣から鉄砲が撃ちかけられてるのが見えてもまさか自分の陣に撃ってるとは思わないだろう
普通に盆地中央で戦ってる東軍の援護射撃をしてると思うだけ
0514人間七七四年
2007/04/01(日) 10:28:35ID:K/yJW8NL普通に鉄砲隊が押し出して行って松尾山の麓から撃ったんじゃないの?
普通敵の玉が届く距離にお互い陣張らないだろ…
0515人間七七四年
2007/04/01(日) 10:37:41ID:IJxyWYlf関が原での戦闘中、家康は自軍を鼓舞するため、
本陣を桃配山から前進させたことを知らんのか。
小早川が陣取る松尾山に裏切りの催促の砲撃をしたのはその後だ。
実際に関が原古戦場を訪れた人の感想はこうだ。
「私の当初のイメージでは、この関が原の古戦場は広大な土地での各陣ゆとりを持った戦いという感がありましたが、
実際現場に行くと、私のイメージとはかなり違い、各武将の陣地はひしめき合っていました」
つまり机上の布陣図と実際の距離感は全然違うということだ。
家康がこちらに砲撃してきたことくらい、
朝鮮の地でそれなりに戦の場数を踏んできた秀秋が気付かないわけがないだろ。
しかも布陣している所は見晴らしの良い高地だ。
戯れ言もいい加減にしてもらいたいもんだ。
これは
0516人間七七四年
2007/04/01(日) 10:38:36ID:vKvti1a3鉄砲で威嚇だの講談話は嫌いじゃないが、今は俺はそんなこた聞いて無い。
これで理解できないなら土台、俺の聞きたい所もわかろうはずも無いんで気にせんでいいわ。
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