家康は本当に野戦の達人?
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0001人間七七四年
2007/03/11(日) 00:04:50ID:jgwWrmey本当にそれほどの戦上手なのでしょうか?
0356人間七七四年
2007/03/30(金) 16:04:56ID:PWbEBRbE>>353は>>343で「宣教師の記録には鉄についての記述はない」って指摘されてるよ。
ソレを覆す資料持ってこないと…傍から見るとキレてるっぽく見えてるよ。
0357人間七七四年
2007/03/30(金) 16:08:59ID:7qJvNQHA>極論にはなりにくい点、妥当性という点から参考材料にはなるよ。
ってのと
>>>347
>憶測ではなくてちゃんとしたソースがあるのですよ。
>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E7%94%B2%E8%88%B9
ってレスが繋がらないんだが。
ちゃんとしたソースって事でwikiを挙げてる事に対して疑問を投げかけただけで、
鉄甲船がどうこうとかはどうでもいい。
0358人間七七四年
2007/03/30(金) 16:14:40ID:7qJvNQHA>また、信長は精神異常者で、自殺を図るも、単に自殺しては格好がつかないので、
>最も信頼を置いていた光秀に、自分を攻め込むように命じ、
>光秀は単にその命令に従っただけ、という説もある。
こんなんも記載されてるぞ。
どこの学者の出した学説だよ。
まだ京子ちゃん説の方がマシだわ。
0359人間七七四年
2007/03/30(金) 16:26:01ID:SjZpc7E2俺の説もwikiにいれてちょ
実は本能寺の変は存在せず
きっかけは秀吉の謀反で
それを征伐しにいった山崎の戦い
羽柴vs信長明智連合の戦いで信長が戦死したという説
0360人間七七四年
2007/03/30(金) 16:30:45ID:7wdCfhUU詳しい史料があったら私も知りたい。
>>357
もちろんwikiはちゃんとしたソースですよ。
「憶測がない」わけじゃないことをちゃんと証明してくれてる訳でもあるし。
むしろ、少しも調べもせずに否定する姿勢が俺としては問題だと思うね。
ちゃんと調べていればwikiの記述だって頭ごなしに否定するようなことはないはず。
それにwikiで不十分なところをちゃんと論で指摘も出来るはずだからね。
0361人間七七四年
2007/03/30(金) 16:37:38ID:tpQI3aAM他にいくらでも該当スレあるだろうに
関ケ原とか明らかに違うんだからそっちでやれよ
0362人間七七四年
2007/03/30(金) 17:08:41ID:7qJvNQHAまぁ頑張ってくれ。
一級資料を基にした学会でも認められてる説から眉唾な説まで
玉石混合のwikiをちゃんとしたソースです!って胸を張る恥ずかしいマネは俺にはできんわ。
俺だってwikiを引用する場合もあるが、同様の史料でも同じ説を採ってて、
wikiの文体の方がわかりやすいかなって思った場合とか、wikiで記述されている
説の裏づけが取れる場合でしか引用しない。
0363人間七七四年
2007/03/30(金) 17:56:04ID:7wdCfhUUwikiそのものじゃなくて、この場合wikiに記載されていた記述に関してね。
鉄甲船についてよく知らなかった者に対してはwikiぐらいがちょうどいいし、
それで十分だと思ったからつかっただけで。
それにwiki自体の記載に間違いは無いと思ったからね。
wikiの記述の内容に異論があるなら別だけど、繰り返していうがそういう場合
はwiki以上の説得力のある論を代わりに提示してくれ。
なんで情報においての摂取選択が出来ない人がおおいんだろう・・・w
0364人間七七四年
2007/03/30(金) 18:02:50ID:7qJvNQHA何いってんの?
ソースの提示を要求されて、そのまま「ちゃんとしたソース」と前置きして
wikiのURLだけを引っ張って来た事に関して疑問を投げかけてるのであって、
鉄甲船がどうとか俺はどうでもいいと思ってるし、関係ない。
「wikiをちゃんとしたソース」
と言い切ってることがおかしいと俺は一貫して言ってるわけで
ID:7wdCfhUUが
「wiki(の間違った記述などを理解できる知識が前提としてあれば)ちゃんとしたソース」
後から言い換えてる時点で後出しだろ。
摂取選択ってわけわかめな新語を出してる時点でもう頭悪い春厨なんだろうけど。
取捨選択だろ。
0365人間七七四年
2007/03/30(金) 18:10:15ID:XstLZy2Wソースとなるかは、疑問である
ID:7wdCfhUUは、この程度のことも読み取れないのか?
0366人間七七四年
2007/03/30(金) 18:19:09ID:7wdCfhUUどうでもいいのにこんなに躍起になるなよw
wikiだって記述さえ間違いなければ信頼できるでしょ。
逆に史料にしたって万能ではない。
ちゃんと取捨選択しないとね。って言ってるのw
0367人間七七四年
2007/03/30(金) 18:21:46ID:7wdCfhUUだからこそ、wikiの記述が信頼できると判断して載せたわけで。
内容も良く知らないで批判しているから、その記述が信頼できるかどうかが
判断できない=信憑性がないって単純に決め付けちゃんでしょ。
0368中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2007/03/30(金) 19:16:00ID:d8f1gWj/0369人間七七四年
2007/03/30(金) 19:19:49ID:8PlqLjff0370人間七七四年
2007/03/30(金) 19:37:15ID:7wdCfhUUこんな一般論でこの調子じゃ・・・・w
0371人間七七四年
2007/03/30(金) 20:11:38ID:8PlqLjff多聞院日記だけじゃなく、当時の史料にこういう記述がある
だから鉄甲船はあったんだろう
これで良かったんじゃない?
0372中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2007/03/30(金) 20:15:23ID:d8f1gWj/一ヵ月分の小遣い貯めて買え
0373人間七七四年
2007/03/30(金) 20:21:04ID:8PlqLjff鉄張りの記述があるのって
信長がでかい船作ったのは確かだろうが、
直接確かめたわけじゃない多聞院の記述だけ信じるのもねえ
0374中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2007/03/30(金) 20:25:06ID:d8f1gWj/本能寺で細川藤孝を殺し
丹羽長秀を発狂させ
誠仁親王を切腹させ
秀吉に将軍職を断らせてる
すばらしい一級史料
0375人間七七四年
2007/03/30(金) 21:17:29ID:MCn2DJXi本当に高度な技術を必要とする外洋航海能力は真似できずに、
鉄を張っただけなところがそこはかとなくテキュン臭い・・・
0376人間七七四年
2007/03/30(金) 21:43:35ID:YifgDL/wこれでFA
ソース出せ!っていわれてwikiのURL張っちゃう程度の頭なんだから相手にするなよ。
0377人間七七四年
2007/03/30(金) 21:56:31ID:Sq4o32r20378人間七七四年
2007/03/30(金) 21:57:43ID:fiaLeYIN何スかそれ?w
0379人間七七四年
2007/03/30(金) 22:07:31ID:YifgDL/w議論するときの参考には使えんよな。
例を挙げると
>秀吉は「豊臣幕府」を開くために足利義昭へ自分を養子にするよう頼んだが断られた、という説もある
今時学会でこんな説掲げてる学者は3人くらいしかおらんだろ。
何百年新井白石ら御用学者に踊らされてるんだよ。
0380中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2007/03/30(金) 22:10:56ID:d8f1gWj/ま、その説のソースを2ちゃんで最初に紹介したのは俺様なんだけどな
その後その史料名のグーグル検索数が倍増したのはいうまでもない
0381人間七七四年
2007/03/30(金) 22:50:40ID:Ezs79xQ9>陣形図からいって東軍が先に関ヶ原に到着したということはありえない
わかりやすく書くます。
1:東軍:じゃ大坂攻めるから
2:西軍:やべぇ、松尾山あたりで迎撃しよう
3:西軍移動開始
4:東軍移動開始(5時間以上後)
5:殿の宇喜田隊と先鋒の福島隊の接触があるも戦闘せず
6:それぞれが陣を敷く。
東軍は西軍の移動距離の1/2でおまけに街道道だった。
陣を敷いたのは西軍も東軍も午前4時〜6時の間。
おまけに夜、雨が降っていたし、朝は霧が出ていた。
どうやっても東軍が西軍の詳しい布陣を知ることができません。
ちなみに、家康がわけわかんない状態で切れて旗切りつけたのが6時半。
>西軍が通過するのを全員指をくわえて眺めていたことになる
西軍は移動をばらさせない為にいろいろ制限した。
松明を使わない。私語の禁止。馬の口も縄で括った。
実際諜報が、西軍の移動を検知したのは5時間以上後。
分かったとしても当時の軍隊に夜戦が可能じゃないので、
指くわえて見守るしかない。夜間行軍ですら冒険な時代です。
追記:
>えーと、東軍より西軍の方が陣敷くの遅かったはずじゃなかったっけ?
これ自分の発言だが訂正しよう。大体同時間だ。
>関ヶ原の東軍の布陣に難癖をつける人もいるが、
>あれは死地に飛び込む形で、やはり一気に決着をつけるための陣形。
>持久戦に持ち込まれたりしたらたまったもんじゃないからのう。
相手は、冷たい雨の中を間道を7時間程歩いて、
ついたら、一時間ほどで戦闘しなきゃいけない軍勢
こっちは3時間ほど街道道歩けてそのまま軍勢整える程度でよい状態。
おまけに、なんか敵の半分が主戦場から2時間程離れた山でやる気なさそうにいる状態。
こんな好条件なので、突っ込むのもひとつの手だと思います。
0382人間七七四年
2007/03/30(金) 23:01:28ID:XzSOcxws同意
0383人間七七四年
2007/03/30(金) 23:31:16ID:GbZhKZ+j家康の野戦で有名どころは姉川、三方が原、長久手、関ヶ原って所だが、以前も出たように
姉川は後世の誇張だし、関ヶ原は別段鮮やかに勝ってるわけでもない。
残るは三方が原、長久手だが三方が原は徳川、織田連合軍は武田の半分以下という兵力差が
あったので(しかも織田軍は家康指揮下じゃないし)勝てなかったとはいえ家康を責める
ことは出来ない。
鮮やかに勝ったのって長久手しかないわけだが、まず秀吉軍は秀吉の直接指揮下にない秀次
を総大将とする軍だったし、この時の徳川・織田軍は一万一千、秀次軍は約二万四千だが、その
二万四千を一度に相手にしたわけではない。この二万五千は池田恒興・森長可・堀秀政の第一軍(約一万)、
羽柴(この頃はまだ三好か)秀次・木下祐久、利匡・長谷川秀一・長浜州の第二軍(約八千)、
中川秀正・木下利久・尾藤知宣・徳永寿昌・小川祐忠・瀬田正忠の第三軍(約六千)に分散して
いた(この分散は家康が意図的に行わせたものではなく、秀次軍が独自に行ったもの)。
家康はこのうちまず第二軍を叩き、第二軍の危機を知って引き返してきた一軍(第一軍の池田隊は引き
返す前は岩崎城攻めの最中で疲弊)を叩いた。
第三軍は第一軍、第二軍の敗走を知って逃げてしまったのでそもそも戦闘に不参加。
よって家康は野戦は下手糞ではないが飛び抜けて優秀なわけでもない中の上くらいの上手さだと思う。
0384人間七七四年
2007/03/30(金) 23:35:26ID:GbZhKZ+j× この二万五千は池田恒興〜
○ この二万四千は池田恒興〜
0385人間七七四年
2007/03/30(金) 23:41:32ID:xWGkivuf秀次なんて赤ん坊同然じゃないの?
0386人間七七四年
2007/03/30(金) 23:50:50ID:XstLZy2W各個撃破は当然すぎることじゃないの?
>383の野戦の達人の定義は、寡兵で大軍に勝つことなのかね
自分は、家康はトータル的にみて、野戦の達人と言えると思うけど
戦国時代通して、トップクラスには入らないと思う
ただ、秀吉みたくボケもせず、長生きしたので、経験もあって
関が原以降は、野戦のトップクラスの達人になったと言えるかもしれない
動員できる兵力の関係もあるしな
関が原にはいる時期に、家康より野戦が強そうな実績もある武将って
島津義弘くらいでしょ?
0387人間七七四年
2007/03/30(金) 23:57:00ID:3KYDAr8O本能寺後の天正壬午の乱とかは
ただ小牧長久手後は軍制を甲州流に変えたせいか
旧武田家臣が弱いせいか
家康が大軍指揮になれていないせいか
野戦での直接的な戦闘力は落ちたような気もする
0389人間七七四年
2007/03/31(土) 00:40:14ID:UVRZWrWg>>383の野戦の達人の定義は、寡兵で大軍に勝つことなのかね
寡兵で大軍撃破が唯一の野戦の達人の条件とは言えないが、野戦でそれが何度もできたら
文句無しで達人だろ。
普通、自軍が寡兵の場合は城に立てこもるとか決戦を避けるのが常識だし。
ほぼ同数の兵力で大勝と言うほどではなく単に勝った、ということで寡兵で大軍撃破を何度も
している者と同列に扱うことは出来ない。
また圧倒的多数で少数を難なく撃破するのは野戦能力と言うより戦略とかの面のほうが強くなる。
それに各個撃破というが、長久手の家康の場合各個撃破しようとはじめから考えてたとは
言えない。
あらかじめ分散して行動していた秀次軍を結果的に各個に戦うようになり、勝った。
だから中の上と評したわけ。
まあ中の上が低すぎなら上の下くらいでもいいけど。
0390人間七七四年
2007/03/31(土) 00:49:28ID:73hXRIm1言わんとしてることは、解るのだが
ようは、どのラインで「野戦の達人」とするかの違いくさいな
自分も、家康は上の下くらいだと思うけども
その上の下は充分野戦の達人に値すると思ってるかあね
0391人間七七四年
2007/03/31(土) 00:50:11ID:IUXasId5中の上とは他の大名で言うと誰が相当するの?
あと寡兵で大軍に勝つ事は確かにすごい事だが、
この点ばかりを重視し始めると、
真田とか長野以外ほとんどは野戦の達人とはいえなくなるんじゃないか?
0392人間七七四年
2007/03/31(土) 00:52:30ID:IUXasId5あとあなたの考える野戦の達人の基準とそれに該当する人物を上げてくれない?
そうしないと判断基準がわからないから評論の仕様がない
0393人間七七四年
2007/03/31(土) 00:54:43ID:IUXasId5>姉川は後世の誇張
「神君家康公が信長公を救われた」というような活躍も疑問だが、
かと言ってだったら何が行われていたのかもよくわからない戦い
どこまでが実態でどこからが誇張かわからない
姉川については判断保留が妥当じゃないか?
0394人間七七四年
2007/03/31(土) 00:59:58ID:H4VngCHj2回の上田城攻めと関ヶ原
大坂冬夏の陣と
小田原攻めに参加、葛西大崎一揆鎮圧
九戸鎮圧にも参加していたか?
大局的にはともかく
戦場での能力を考えるならどれもあまり誇れるものじゃないとは思う
>>389
つまり
上の上が正面から野戦で寡兵で大軍撃破を何度もしている者
と言うことか?
そんな無謀なやつなんて信長島津立花ぐらいしかいないんじゃないか
0395人間七七四年
2007/03/31(土) 01:03:02ID:IUXasId5戦術については自分の国を守り他国にも侵略する事ができる、
標準的軍事指揮能力を備えていた、
これが妥当なのかな?
それを事前準備の政略で補うという
0396人間七七四年
2007/03/31(土) 01:10:06ID:73hXRIm10397人間七七四年
2007/03/31(土) 01:14:50ID:nMZqVN4O天下を取った、つうことなのか?
他の軍事的指揮能力に優れた武将は何をしていたんだい?
0398人間七七四年
2007/03/31(土) 01:14:53ID:IUXasId5野戦の達人の基準がわからないわけ
例えば純粋に合戦当日の合戦指揮能力だけを見て判断するのならば、
ここに政略とかは関係ないじゃない
単純に兵の動かし方にどれだけ長けているかを判断すればいいわけで
逆にその合戦の起こる原因から、
合戦当日に至るまでの全プロセスを見た上で能力を問うのならば、
政略・戦略を無視する事は変
で、前者のイメージがこのスレでは強いようだから、
政略・戦略の能力についてはわけてみているんだがね
0399人間七七四年
2007/03/31(土) 01:17:00ID:IUXasId5単純な話
1:天下取りに臨むような地域に住んでいなかった
2:天下取りを望めるほどの地位と実力がなかった
3:合戦能力はあったが、政治的才能がないために不利益を被ってしまった
このあたりじゃない?
0400人間七七四年
2007/03/31(土) 01:19:52ID:IUXasId5つかなんで、
標準的=たいした事ない
になるんだ?
標準的というのは良くもないが悪くもないものであり、
特別に貶めて考える必要ないだろ
家康の場合の「標準的」と言うのは、
他の領土拡張に成功した大名と同様、
自分の国を守れて他国に侵略するだけの能力を持っているということなんだから、
これは十分高い評価になるんじゃないの?
もっとも上のレスじゃ自分の言葉も足りなかったのでそこは詫びるが
0401人間七七四年
2007/03/31(土) 01:21:30ID:73hXRIm1天下人に求められる才能は、軍事的才能以外のことだからでしょ
>>398
政略・戦略に長けてる人物程、結局戦術的に楽ができるわけだしな
家康が寡兵で勝利した例が少ないってのは、むしろ褒め言葉じゃないのかね
実際に家康も勝利のが敗北より多いし、達人で良いと思うけども
これは所詮自分の定義だからね
0402人間七七四年
2007/03/31(土) 01:23:30ID:nMZqVN4O違うのか? 標準的な大名が天下を取れるなら、、どうなるんだ?
0403人間七七四年
2007/03/31(土) 01:24:21ID:+J048fXa戦争が強くて天下とれるのはゲームの中だけ
0404人間七七四年
2007/03/31(土) 01:26:16ID:nMZqVN4O0405人間七七四年
2007/03/31(土) 01:26:45ID:IUXasId5総合的な判断をするなら家康には合戦の才能は十分あると思うよ
関ヶ原でも西軍蜂起で不利な状況下、
西軍の基盤の脆弱性をついてここから西軍を崩そうとして結果成功してるし
それに「筋書き通りに全て進まなかったから、戦略的才能はない」なんてのは変な話で、
最初から最後まで全て思い通りに行くことのほうが少ないだろ
予想外の出来事を前にどのように対処できるかも大事な才能なわけで
とりあえずそれらを含めて、
「野戦の達人」の基準がはっきりしないから、評論の仕様がないと思うのだが
0406人間七七四年
2007/03/31(土) 01:27:19ID:nMZqVN4O0408人間七七四年
2007/03/31(土) 01:30:47ID:IUXasId5標準=天才より劣る
と考えるお前が変
戦国大名で生き延びる事が出来た連中というのは、
それこそ多かれ少なかれ修羅場を経験して生き延びてきているのだから、
それなりの才能は持っていたとみるのが普通だろ
0409人間七七四年
2007/03/31(土) 01:31:27ID:nMZqVN4O城攻めなんて下策だと孫子も言っているようだし
0410人間七七四年
2007/03/31(土) 01:31:44ID:73hXRIm1少なくとも、歴代の天下人よりも戦争が強い人物は沢山いる
項羽と劉邦が一番わかりやすいんじゃないの?
戦争の強さだけなら項羽だけど、天下取ったのは劉邦でしょ
あと、誰も家康が戦争弱いとは書いてない
0413人間七七四年
2007/03/31(土) 01:33:28ID:nMZqVN4Oそれより家康が天才だと認めた方が理にかなってないかい?
0415人間七七四年
2007/03/31(土) 01:35:50ID:IUXasId5だからよく読めよ
この場合の標準というのは、
才能がないものの集まり、を意味するんじゃなく、
才能あるものの集まりを見て標準としているんだから
つかお前春厨か?
前から短レスで下らんこと書いてるよな
0416人間七七四年
2007/03/31(土) 01:36:21ID:nMZqVN4O標準的は軍事指揮能力の家康が勝ち残り
天才が滅び、天下はおむすびころりんと家康の元に転がりこんだ…
んなばかな
0417人間七七四年
2007/03/31(土) 01:36:53ID:73hXRIm1実際に勝利したのは劉邦でしょ
0418人間七七四年
2007/03/31(土) 01:37:21ID:YRn6SxHJ0419人間七七四年
2007/03/31(土) 01:38:22ID:nMZqVN4O妙な理屈で誤魔化すなよ
0420人間七七四年
2007/03/31(土) 01:39:43ID:IUXasId5だからそれを補う政治能力が家康にはあると言ってるだろが
戦略的にみたら西軍から挟み撃ちの形になった関ヶ原でも、
自身の地位と権威を背景にした政略を駆使して、
東軍をまとめながら、西軍を瓦解させる事に成功するんだから
もしただの平凡人なら、三成が蜂起した時点で終わってる
0422人間七七四年
2007/03/31(土) 01:41:41ID:nMZqVN4O次に標準でも、才能のあるものの中での標準つう意味だと…
お前が春厨だよ、標準は標準だよ、標準でないなら標準とは言わないでくれよ
0423人間七七四年
2007/03/31(土) 01:42:00ID:+J048fXa尊氏は戦で負けてるが室町幕府を作った
同時代で戦で天下人に勝った人間は日本史でもいる訳で
0424人間七七四年
2007/03/31(土) 01:44:08ID:nMZqVN4O家康は軍事指揮能力が優秀だった、だから天下を取れた
なんの矛盾もない文章だ、最初からそう言えよ
0425人間七七四年
2007/03/31(土) 01:44:13ID:IUXasId5真田や長野、島津あたりはとっくに天下取れてるわなw
しかしそれだけで国が治まらないから政治的な才能とかも必要になる
要は自国を守りながら領土拡張に成功するような大名ってのは、
オールマイティープレイヤーである事がもとめられるわけだ
どれか一つ飛びぬけて優秀なだけじゃダメなんだよ
全てにおいて優秀でなければ
その中でみれば家康の場合合戦能力は標準的なものを具えていて、
それ以上に政治能力の方が高い、ってなる。
0427人間七七四年
2007/03/31(土) 01:45:46ID:UVRZWrWg>中の上とは他の大名で言うと誰が相当するの?
異論はあるかもしれないが、伊達政宗。
伊達政宗は対佐竹・東北勢連合軍に対して劣る兵力で奮戦している。
これが家康の三方が原に似ていると思う。
摺上原はほぼ同数の兵力(伊達がやや多い)だが芦名は内部分裂状態。
序盤苦戦で最終的に伊達勝利。
規模も経過も違うけど、関ヶ原と似ていると思う。
また政宗は大崎義隆を攻めた際、大崎軍よりずっと多い兵力で攻めながら撃退されている。
ここが上田城攻めを連想させる。
>野戦の達人の基準とそれに該当する人物
達人の基準 上ほど良い。
・敵より劣る兵力で大軍を撃退、より良いのは壊滅。もちろんより少ない兵力でより
多い敵を倒すほど良い。(奇襲、強襲は問わない)
・大体同数兵力だが味方の犠牲を少なく、敵の犠牲を多くする。
・これらを一度ではなく複数回こなす。また敵にこれらをさせない。何度もこれらを敵に許した
場合、以前に自分が上記を行ったとしても達人には含めない。
・なお敵対した者があまりにも経済力・石高などで乖離していた場合、いくら撃退しても戦略、政略面で
押し切られるのは仕方ないので、戦略、政略面が原因の敗北と見られる場合は戦略、政略面で評価する。
自分が達人と考える人物
毛利元就 長野業正 鈴木重秀 吉川元春 立花宗茂
真田は昌幸だと思うが、上田城攻めは野戦よりも篭城戦の面が強いので入れなかった。
また自分が戦歴をよく知らない人物は入れていない。
0428人間七七四年
2007/03/31(土) 01:48:57ID:IUXasId5中の上とかいうと一見悪評価に見えるけど、
これは雑魚を意味するのではなく、
十分すぎるほどの能力を意味するよな
0429人間七七四年
2007/03/31(土) 01:48:58ID:nMZqVN4O後になっても軍事力が無ければ政治力なんて無きに等しい
どっちが先かと言えば軍事力だろう?
その軍事力を蓄えるのに、軍事指揮能力が標準で、周りに圧するものが
蓄えられるのか?
0430人間七七四年
2007/03/31(土) 01:53:39ID:IUXasId5> 押し切られるのは仕方ないので、戦略、政略面が原因の敗北と見られる場合は戦略、政略面で評価する。
関ヶ原なんかその典型だよね
五奉行の一人である三成と五大老筆頭の家康とでは、
政略を進めるに当たってどちらが有利かと言うと、目に見えているわけで
前田や毛利などを立てないといけない三成が東軍に政治工作を施すよりも、
家康のほうがはるかに有利
だからこそ政略を駆使して東軍の危機を乗り切る事も出来たのだし
そういう状況下であれほど家康を苦戦させた三成は評価があっていいと思うけどね
0431人間七七四年
2007/03/31(土) 01:56:45ID:IUXasId5三河一向一揆の鎮圧方法をわかって言っているのか?
「元に戻す」と一向寺院と和解しながら寺院を更地にして、
「元に戻すとは元の野原にするということだ」と捨て台詞
そしてそのあとの徳川家の軍政を知った上で言っているのか?
この当時から家康は石川・酒井両家老とは、
別に本多忠勝や榊原康政など家康直轄の旗本衆を自軍の主力の一つにして、
徳川の専制体制を築こうとしているのだが?
0432383
2007/03/31(土) 01:58:23ID:UVRZWrWg中の上とかいったのがあいまいでいけなかったみたいだ。
中の上とか上の下とか書いたのは普通より良いけれども文句なしで達人とはいえないよ
位の意味で書いたのよ。
はじめからこう書けばよかったな・・・。
0434人間七七四年
2007/03/31(土) 02:00:12ID:nMZqVN4Oそんなのが大将で勝てるわけがないよ
0436人間七七四年
2007/03/31(土) 02:03:32ID:nMZqVN4O吉良と今川の関係から、清康のはっちゃけぶりまで知ってるよ
0437人間七七四年
2007/03/31(土) 02:04:51ID:H4VngCHj>>427
政宗は野戦で勝ちは
摺上原で勝ったぐらいしか無いような気もするが
長野業正は兵力で劣っているけど武田や北条に負けているとされている
また武田に勝ったと言うのも・・・野戦かって気がするけど?
あと鈴木重秀は謎過ぎるので入れるのは変
0438人間七七四年
2007/03/31(土) 02:05:10ID:IUXasId5だとしたらお前は神君神話を持ってしか家康を評価できないただの馬鹿
家康の魅力は神君神話が破られたところから発見できる
0439人間七七四年
2007/03/31(土) 02:05:20ID:73hXRIm1合戦の才能がある人物を見出し、合戦をさせるのが大将に必要な才能なわけで
ID:nMZqVN4O
家康に「軍事才能」がない。と記述してるわけじゃないからな
自分は家康は野戦の達人に値すると思ってるし
そのラインが>>427より、低めだとは思うがね
0441人間七七四年
2007/03/31(土) 02:08:46ID:nMZqVN4O一向一揆じゃ敵対してたんだぜ、その後も改宗した訳じゃない
相変わらず真宗だぞ、因みに家康は浄土
近所に浄土の寺があるが、住職はいない
0443383
2007/03/31(土) 02:17:15ID:UVRZWrWg>家康の寡兵で大軍破ったもう一つの例として吉田城の攻防
前にも書いたが有名どころしか挙げてないので入れてない。
また自身が良く知らないと言うのもある。
>長野業正は兵力で劣っているけど武田や北条に負けているとされている
自分が調べた限りではそういう内容のものは見つけられなかった。
>また武田に勝ったと言うのも・・・野戦かって気がするけど?
>あと鈴木重秀は謎過ぎるので入れるのは変
これらは不適切だったと思うので外すよ。
重秀は織田軍と野戦で戦って引き分けたこともあるみたいだが、篭城戦の面の方が強いし。
業正も同様。
0444人間七七四年
2007/03/31(土) 02:24:43ID:j86id7tMまず、関が原と大坂の陣なわけだが。
双方とも勝ったが、極めて不味い状況に陥ったのは確か。
小牧・長久手から関が原まで10年以上も、合戦を家康は経験
していない。その間の戦術理論の発達に家康が追いついていなかった
のではと考える。
最近のトレンドだと、野戦築城が発達したっぽいけど。
その手の経験を学び損ねて関が原以降、戦機を感じることができなくなった
ではないかと思う。
0446人間七七四年
2007/03/31(土) 02:38:10ID:H4VngCHj吉田城というか東三河の争奪戦の一つだが
一宮の後詰とかでぐぐれば見つかるかもしれないが
史料によってまちまちだが
だいたい
松平勢2000〜3000が今川勢8000〜2万が包囲する一宮かどこかの包囲を突破して
中の兵と合流し、今川勢を撤退させるという話し
その結果今川は東三河を喪失することに
氏真が兵を率いたとも武田信虎が兵を率いてたとも言われている
他に武田信虎が駿河で不穏な動きをしたため今川は兵を退いたとも
長野業正は確か
志賀城救援で武田に敗れたという話しのほか
河越夜戦後、戦場に出ない憲政に代わって北条氏と戦って負けたという話し
0447人間七七四年
2007/03/31(土) 02:41:56ID:323m4ooz外堀を埋めると約束させたうえに内堀まで埋めるという
手段に出ることで城の防御力を著しく低下させたのは
家康の政治家という面の能力かと愚考
家康は相手に付け込むの本当に上手いよね
小牧といい大坂の陣といいね
0448383
2007/03/31(土) 02:54:23ID:UVRZWrWg>一宮の後詰
ググッてみたところ数件でてきた。
が、複数の資料が言ってる事がまちまちの部分が多い気がする。
氏真が傍観とか信虎が謀反を起こしそうだから引き返したとか言ってるのもあるし。
それと後詰軍が包囲を破ったみたいだけど、包囲軍のうちのどれくらいの数と
戦ったのかわからない。
これではちょっと評価し辛いな。
>志賀城救援
「志賀城 業正」でググッたが自分が調べた限り上杉憲政の援軍としか出てこないんだが・・・。
0449人間七七四年
2007/03/31(土) 03:09:23ID:H4VngCHjまあ分かるのは家康が大軍を破ったってことぐらいだな
>包囲軍のうちのどれくらいの数と戦ったのかわからない
これはほとんどの場合分からないだろ
むしろわかる方が怪しい
でもこれで評価しづらいなら長野業正 鈴木重秀 吉川元春 立花宗茂
の評価はもっと難しいと思う
0450383
2007/03/31(土) 03:30:38ID:UVRZWrWg立花宗茂は朝鮮の役などで十分評価できないか?
まあ元春は良くわからん部分も多いが、一応山陰方面軍で活躍してるし無敗。
九州の大友戦でも下手撃ったわけじゃないし。
一宮の後詰の話は包囲軍の数があまりにも乖離しすぎててどの数字で評価していいか困る。
仮に徳川三千、今川一万として包囲を破って城に入った。で、今川は何らかの理由
で引いた。
破ったこと自体は評価できるが、城に入ってしまえば篭城戦になるし、今川は
なぜ徳川を攻めなかったのかわからない。
元春を達人とする評価は異論ありかもしれないが、俺の家康評は下手糞や並ではないけど
達人と文句なしで言えるレベルとはいえないから変わらない。
0451人間七七四年
2007/03/31(土) 04:17:45ID:+J048fXa二人の親父より評価高くていいぐらい
朝鮮役だけじゃなくて、肥後の一揆の時の進退の巧みさも評価出来る
ただまぁ、万単位の将ではない
万単位の兵を率いなければならなかった家康と純粋には比べられない
けど、そういう運用は秀吉、秀長の方が家康より優れてた
0452人間七七四年
2007/03/31(土) 05:13:50ID:vuf4KVVX同意
同単位なら朝鮮派遣軍のが強いと思う
0453人間七七四年
2007/03/31(土) 09:13:26ID:3ZRnNP0V野戦築城に対する攻撃は、敗北もしくは出血を強いられた勝利となっています。
嚆矢といわれる長篠の合戦は周知のとおり、小牧の対陣は双方手を出せず、
関ヶ原は裏切りで(これの異論は今回は置いといてください)、大阪夏の陣に
おける天王寺合戦は東軍の大苦戦。
これは家康がいない他の戦でも同様の結果になります。
つまり、野戦築城の構築はことそれに攻めかかる将の戦術能力を無効化する
事ができるという事になるのでしょう。
おそらくそれを圧倒する手段はただ一つ、それを飽和する戦力を叩き込む。
そういう意味では安土・桃山時代以降の戦は戦術など勝敗に左右されない
時代に達していたのでしょう。
0454人間七七四年
2007/03/31(土) 09:37:39ID:DP5v8hy2論旨がつかみにくいけど、大阪夏の陣は、
”それを飽和する戦力を叩き込む”戦だったゆえに苦労したのでは??
移動力が徒歩に頼る場合(第一次世界大戦まで)、
局地的に不必要な人数を集めて失敗した例は多いよ。
0455人間七七四年
2007/03/31(土) 09:45:06ID:VmOgNBCx確かに個人の戦略が戦を左右する時代から、
総合的な権力政治力がものをいう時代に変わってきてるな。
家康は個人の戦略はそこそこ、総合的な権力は他を圧倒しているから
やっぱり達人だわw
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