家康は本当に野戦の達人?
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0001人間七七四年
2007/03/11(日) 00:04:50ID:jgwWrmey本当にそれほどの戦上手なのでしょうか?
0301人間七七四年
2007/03/29(木) 01:05:43ID:fzp/J8mkそれだけ強いってことさ
0303人間七七四年
2007/03/29(木) 01:10:17ID:IoHIy8+H中国大返し・賤ヶ岳で見せた機動力は世界の名将に共通の能力。
は?小牧長久手?ザコを2・3匹たおしたら勝ちなの?
0304人間七七四年
2007/03/29(木) 01:13:34ID:fzp/J8mk0305人間七七四年
2007/03/29(木) 01:14:27ID:8aBhgUFe誰も秀吉を家康に比べて愚かなどと言ってないんだからそう興奮しなさんな
とりあえずあなたの「野戦の達人」の基準は機動力なのかい?
基準があったら教えておくれ
0307人間七七四年
2007/03/29(木) 01:24:46ID:IoHIy8+Hしかしいくらかは基本的な法則があって、機動力はそのひとつ。
0308人間七七四年
2007/03/29(木) 01:26:17ID:IoHIy8+H0309人間七七四年
2007/03/29(木) 01:26:54ID:fzp/J8mk0310人間七七四年
2007/03/29(木) 01:28:58ID:IoHIy8+H0311人間七七四年
2007/03/29(木) 01:30:49ID:fzp/J8mk0312人間七七四年
2007/03/29(木) 01:36:29ID:IoHIy8+H大阪冬の陣で損害を受けたから秀頼>家康とか言ってるようなもんだ。
0313人間七七四年
2007/03/29(木) 01:40:00ID:fzp/J8mkジャンケンでもするか?
0314人間七七四年
2007/03/29(木) 01:41:11ID:v/MNnPeW関ヶ原での家康を「総大将」として評価すべきなのは、
合戦当日の現場指揮よりも、
西軍に比べ、合戦まではるかに東軍の統一性を保持させた事だろうね
家康が合戦までに西軍諸将に政略を働いたように、
逆に三成らにもそのチャンスがあったのに、
(つか「豊臣家御為の旗印で諸侯を統一させようとしたっぽいが)
東軍から西軍への調略というのは大きく成功していないからね
この点の評価はあっていいと思うよ
0315人間七七四年
2007/03/29(木) 01:41:35ID:IoHIy8+H0316人間七七四年
2007/03/29(木) 01:42:50ID:VDID+pNZ0318人間七七四年
2007/03/29(木) 01:48:46ID:v/MNnPeWごめん間違えたw
>東軍から西軍への調略というのは大きく成功していないからね
lこれは「東軍から西軍に寝返らせようとした調略」の事ね。スマソ
0319人間七七四年
2007/03/29(木) 01:51:53ID:IoHIy8+Hどちらかが滅びるまで戦うなんて秀吉も家康も思っていない。
特に秀吉は仕掛けられた側で、勝算なんてない状態なんだから
講和できれば十分なわけ。
0320人間七七四年
2007/03/29(木) 01:53:26ID:IoHIy8+H西軍は最初から無理としか言えんなww
0321人間七七四年
2007/03/29(木) 01:54:03ID:bUCguwfI0322人間七七四年
2007/03/29(木) 01:55:20ID:v/MNnPeWいつ小牧長久手の話題になったんだw
あれについては最初家康の敷いた秀吉包囲網によって、
秀吉はピンチの状況になるし、
その後の小牧長久手の長対陣、局地戦の敗北などから、
秀吉が家康との戦争を嫌っちゃって、
家康には対話路線、信雄とは講和、そして秀吉包囲網の瓦解を働いて成功させたって話で、
天下分け目というような戦いではないわな
0323人間七七四年
2007/03/29(木) 01:59:37ID:IoHIy8+H劣勢が長く続いて、大名と家臣の間の関係が崩れていって
最後に軍事的圧力をうけて潰れる。
武田だって長篠のあと7年ももってるだろ。
0324人間七七四年
2007/03/29(木) 02:13:28ID:TukBAZH1>家康が佐和山、大坂を攻めるという情報を流したら
>西軍が関ヶ原に移動したので、東軍もそれに追随したということだと思ったが
移動時間として、東軍は3時間程度、西軍は7時間程度。
殿の宇喜田勢と先鋒の福島勢が軍勢移動中に接触している。
西軍はそれほど移動に難渋した。
おまけに移動は夜間。陣形とか分かるのか?
決戦となっているが、実際は緒戦は遭遇戦の様相だったわけだ。
家康が関が原で非難されるべき要素はそこらへんにある。
つまり、索敵進撃するところを無造作に前に出すぎて、
小勢の西軍にあっさり叩きだされたわけだ。
0325人間七七四年
2007/03/29(木) 02:18:55ID:bUCguwfI三成は野戦の達人と言われただろうか?
0326人間七七四年
2007/03/29(木) 02:23:09ID:ZpoUESAj0327人間七七四年
2007/03/29(木) 02:27:44ID:ST7Xh63h0328人間七七四年
2007/03/29(木) 02:27:45ID:VDID+pNZ君はいったい何が言いたいの?誰も家康>秀吉なんて書いてないし
秀吉が、野戦の達人じゃないとすら書いてないわけで
0329人間七七四年
2007/03/29(木) 02:32:20ID:kFX+JyT70330人間七七四年
2007/03/29(木) 02:36:59ID:HcsFkxnzそのあたりも結局真相不明なわけでな
なぜ三成は関ヶ原にでたのか、
なぜ家康もこれを追う形で関ヶ原に出たのか
決定的な史料がないんだよな
三成のほうが行動は先だったのは確かみたいだけど
ただ家康としては関ヶ原ではなく菩提山だったかを本陣に、
もう少し東のほうで野戦をしたかった、みたいな話があるね
こうすれば吉川は西軍を裏切ってさっさと東軍に味方する、と言ってたために
逆に関ヶ原が決戦場になった事で吉川は、
「これじゃ裏切りは出来ない。傍観する」
と黒田あたりに返事してたはず
0333人間七七四年
2007/03/29(木) 06:53:58ID:EXr4kDYcだから生き残るために自分より優れたやつの真似をする必要があった。
その点、家康・三河武士団と同タイプの信玄・甲州武士団が近くにいたのは
家康にとって幸運だったといえる。
強敵だったとはいえ、絶好のお手本とすることができた。
戦にしても、時折常人には思いつかない奇想天外な作戦を敢行する信長・秀吉や
戦闘時の駆け引きに抜群の冴えを見せた謙信などの天才肌の武将より
戦闘行為に移る前の駆け引きを入念に行う生真面目秀才肌の信玄のやり口の方が
凡人家康にとっては真似しやすい。
後年、敵だった武田家臣を多く召抱え、徳川軍団を甲州流に一変させたのも
家康が異常なくらい信玄に傾倒していたという証左だろう。
家康自身も自分の器の程をよく知っていたと思われる。
0334人間七七四年
2007/03/29(木) 09:02:19ID:VDID+pNZ奇抜かは別としても、家康も充分柔軟なタイプだと思うが
>生き残るために自分より優れたやつの真似をする必要があった
>強敵だったとはいえ、絶好のお手本とすることができた。
この時点で充分柔軟じゃん
信長にしても、奇想天外な作戦等なく
外交等も駆使し兵力をやりくりして、最重要な戦線に常に相手より
大兵力を揃えるというのが根幹にあるわけで。だから凄いんだけども
だいたい、信長だって、他人の優れた政策は模倣して
自分なりにアレンジを加えて使用してるよね?
信長が天才、家康が凡人っていうのは否定しないけども
>>333のような「イメージ」があるのは間違いないけども
信長の実像にしても、家康の実像にしても、偏ってるのだけは確か
0335仙台藩百姓
2007/03/29(木) 10:26:58ID:/FGXgWhU戦に関しては完全に劣化版だおね(≧ω≦)
明らかにオリジナルより落ちるお
0336人間七七四年
2007/03/29(木) 10:39:24ID:pQf45IfXそれは部分的に取り上げるだけで普遍的には言えないので反論になってないね。
信長は以前の古い中世的なものを、戦術に関しても、城作りや
街づくりに伴う戦略に関しても一新してきたけど、家康には
目新しい功績はあんまり聞かないしね。
ただ、ドラスティックな改革が成功すれば、後はそれを忠実に実行
する堅実さが必要になってくるので、それが悪いっていうんじゃなくて
時代の流れが家康の性格にうまくあっていたんだと思うね。
0337人間七七四年
2007/03/29(木) 13:01:13ID:nruq5C5T楽市楽座だって、後世規制緩和政策をそう統一して呼んでいるから「アレンジ」と見なせるわけで個々の条文や実施状況を見れば例えば六角氏のそれとはかなり違うよ
0338人間七七四年
2007/03/29(木) 13:13:39ID:aKLkdrRd0339人間七七四年
2007/03/29(木) 13:20:00ID:nruq5C5Tそりゃ『鉄鋼』の船はなw
だが宣教師の記録や、多聞院日記(「鉄の船也」)という一級史料に記載があるから鉄甲船は存在したよ
もっとも木津川で毛利水軍を撃退した後どうなったかは不明
朝鮮出兵時の日本最大の船「日本丸」がその後身という説もあるがこれについての証拠は無い
0340人間七七四年
2007/03/29(木) 16:12:12ID:KompaEyG家康=スキピオ
みたいなもんでしょ。
敵であり、師弟みたいな。
0341人間七七四年
2007/03/29(木) 16:16:20ID:0XlangSKこれはガチ
0342人間七七四年
2007/03/29(木) 18:38:14ID:eC0ieAZo何を言いたいのかよくわからんが、
陣形図からいって東軍が先に関ヶ原に到着したということはありえない
西軍が通過するのを全員指をくわえて眺めていたことになる
http://www.ginet.or.jp/sekigahara/rekishi/reki1_1.htm
0343人間七七四年
2007/03/30(金) 00:59:41ID:fhA4ae0eそもそも何を持って鉄甲船と呼んでるのかわからんが、ほぼ全面鉄装甲化した
ような船は無いよ。
まあ部分装甲程度のものならあったかも知れないけど。
水軍を率いた九鬼家の資料にも鉄甲船の話なんて全くでてこないし、宣教師の記録って
オルガンティノのことだろうが(違ったらすまんが)、オルガンティノは船に備え付けてあった
大砲や鉄砲と言った武装と船の大きさに驚きはしたがやっぱり装甲に関しては何もいってない。
多聞院日記は英俊が聞いた噂の話で英俊は実見してないから一概には信用できない。
0344人間七七四年
2007/03/30(金) 01:09:29ID:XstLZy2W>>337の宣教師の驚きも「こんな大きさの船はみたことがない」
って驚きともとれるよね
それを持って、信長が革新的な天才の一例とするには無理があるのでは?
信長の政策とか作戦とかには、革新的な部分は、少ないと思うんだが
むしろ、イデオロギー的な部分にこそ、革新的な面があったと思うよ
0345人間七七四年
2007/03/30(金) 02:07:58ID:DS+rHbr9それは>>337の言葉による説明で、
詳しくは
「王国(ポルトガル)の船にも似ており、このような船が日本で造られていることは驚きだ」
っていうことらしい。
信長が天才だといわれる由縁は、イデオロギーという部分もあるけど、それだけではなくて
戦で勝てる段階まで整える戦略面にあると思うね。
武田や上杉など力で勝てない段階にあるときは貢ぎまくって機嫌をとったり、
鉄砲の導入や安土城の築城などもあるし、鉄鋼船の例もある。
人材登用にしてもそれまでは家柄が良くなければ家老クラスまで出世なんて出来なかったのに、
信長の場合は極端に能力重視で登用していたしね。
使えるものは重用し、使えないものはアッサリ切り捨てる。
それを選ぶ目にしても実行するにしても信長ほど極端だった人は他にいないんじゃないかな?
信長が登場しなければ、戦国時代はもっと長引いて、日本の文化はもっと停滞してたんじゃないかと思う。
0346人間七七四年
2007/03/30(金) 05:33:48ID:HioPhrpB後、文化停滞はどうかな?
まあ秀吉の朝鮮出兵で陶磁器なんかの技術は飛躍的に上がったけど
(秀吉は信長が居なければ〜だから、信長の功績にしてもいいけど)
戦国時代は京文化が地方に流れていった時期だし、江戸時代は国内で爛熟していった時期だし
どっちがいいとは一慨に言えないし、長かったからどうなるとも言えない
0347人間七七四年
2007/03/30(金) 07:56:10ID:Gur5gyya0348人間七七四年
2007/03/30(金) 10:21:09ID:7wdCfhUU憶測ではなくてちゃんとしたソースがあるのですよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E7%94%B2%E8%88%B9
〜らしいとしたのはどの文献からの引用か不明だから。
信頼できるかどうかはどれだけ核心を突いているように思えるかどうかで
判断すればいいでしょ。
そもそも歴史の通説なんてころころ変わるし、その時代に生きた当事者でしか
真実はわからないわけだからな。
0349人間七七四年
2007/03/30(金) 12:57:37ID:1zpsWloS0350人間七七四年
2007/03/30(金) 13:00:55ID:PWbEBRbE朝鮮の役のとき秀吉が船の防護用として鉄板を出せ、と各地に指示したから、
そのころには船に鉄の防護版を張るのは普通な方法だったぽいし、
鉄を防御に使う障害は、たぶん技術的な問題じゃなくて予算的問題じゃないかと思うから、
「信長が鉄板張った船を発注した」というのはありそうなことじゃないかなぁ…
効果があったかどうかは別にして。
0351人間七七四年
2007/03/30(金) 13:20:58ID:7qJvNQHA0352仙台藩百姓
2007/03/30(金) 13:34:41ID:iJ6ZH6lD0353人間七七四年
2007/03/30(金) 14:09:18ID:7wdCfhUUこの船は信長が伊勢国において建造せしめたる、
日本国中で最も大きく、また最も華麗なるものにて、
(ポルトガル)国王の船に似たり。余は行きてこれを見たるが、
日本においてかくの如きものを造ることに驚きたり、
…これによりて大坂の市は滅亡すべしと思われる。
船には大砲三門を載せたる…。
ろくに調べもせずに否定だけするならまったく知識がなくても、小学生にでもできる。
「それは違う」っていうだけでいいわけだからね。
それにwikiは誰でも閲覧、書き換えができることから、少なくとも独りよがりの
極論にはなりにくい点、妥当性という点から参考材料にはなるよ。
ソースとして不十分なら、少なくともwiki以上の説得力をもつ論を提示してから批判してください。
0354人間七七四年
2007/03/30(金) 14:41:34ID:1zpsWloS>この船は信長が伊勢国において建造せしめたる、(ry
の出典を出せばいい
ソースについての認識を指摘されてるのに、逆切れされても
0355人間七七四年
2007/03/30(金) 15:03:55ID:7wdCfhUU指摘に対しても感情ではなくちゃんと説明してますよ。
これを指摘と呼べるかどうかは別としてね。
>>349 >>351
0356人間七七四年
2007/03/30(金) 16:04:56ID:PWbEBRbE>>353は>>343で「宣教師の記録には鉄についての記述はない」って指摘されてるよ。
ソレを覆す資料持ってこないと…傍から見るとキレてるっぽく見えてるよ。
0357人間七七四年
2007/03/30(金) 16:08:59ID:7qJvNQHA>極論にはなりにくい点、妥当性という点から参考材料にはなるよ。
ってのと
>>>347
>憶測ではなくてちゃんとしたソースがあるのですよ。
>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E7%94%B2%E8%88%B9
ってレスが繋がらないんだが。
ちゃんとしたソースって事でwikiを挙げてる事に対して疑問を投げかけただけで、
鉄甲船がどうこうとかはどうでもいい。
0358人間七七四年
2007/03/30(金) 16:14:40ID:7qJvNQHA>また、信長は精神異常者で、自殺を図るも、単に自殺しては格好がつかないので、
>最も信頼を置いていた光秀に、自分を攻め込むように命じ、
>光秀は単にその命令に従っただけ、という説もある。
こんなんも記載されてるぞ。
どこの学者の出した学説だよ。
まだ京子ちゃん説の方がマシだわ。
0359人間七七四年
2007/03/30(金) 16:26:01ID:SjZpc7E2俺の説もwikiにいれてちょ
実は本能寺の変は存在せず
きっかけは秀吉の謀反で
それを征伐しにいった山崎の戦い
羽柴vs信長明智連合の戦いで信長が戦死したという説
0360人間七七四年
2007/03/30(金) 16:30:45ID:7wdCfhUU詳しい史料があったら私も知りたい。
>>357
もちろんwikiはちゃんとしたソースですよ。
「憶測がない」わけじゃないことをちゃんと証明してくれてる訳でもあるし。
むしろ、少しも調べもせずに否定する姿勢が俺としては問題だと思うね。
ちゃんと調べていればwikiの記述だって頭ごなしに否定するようなことはないはず。
それにwikiで不十分なところをちゃんと論で指摘も出来るはずだからね。
0361人間七七四年
2007/03/30(金) 16:37:38ID:tpQI3aAM他にいくらでも該当スレあるだろうに
関ケ原とか明らかに違うんだからそっちでやれよ
0362人間七七四年
2007/03/30(金) 17:08:41ID:7qJvNQHAまぁ頑張ってくれ。
一級資料を基にした学会でも認められてる説から眉唾な説まで
玉石混合のwikiをちゃんとしたソースです!って胸を張る恥ずかしいマネは俺にはできんわ。
俺だってwikiを引用する場合もあるが、同様の史料でも同じ説を採ってて、
wikiの文体の方がわかりやすいかなって思った場合とか、wikiで記述されている
説の裏づけが取れる場合でしか引用しない。
0363人間七七四年
2007/03/30(金) 17:56:04ID:7wdCfhUUwikiそのものじゃなくて、この場合wikiに記載されていた記述に関してね。
鉄甲船についてよく知らなかった者に対してはwikiぐらいがちょうどいいし、
それで十分だと思ったからつかっただけで。
それにwiki自体の記載に間違いは無いと思ったからね。
wikiの記述の内容に異論があるなら別だけど、繰り返していうがそういう場合
はwiki以上の説得力のある論を代わりに提示してくれ。
なんで情報においての摂取選択が出来ない人がおおいんだろう・・・w
0364人間七七四年
2007/03/30(金) 18:02:50ID:7qJvNQHA何いってんの?
ソースの提示を要求されて、そのまま「ちゃんとしたソース」と前置きして
wikiのURLだけを引っ張って来た事に関して疑問を投げかけてるのであって、
鉄甲船がどうとか俺はどうでもいいと思ってるし、関係ない。
「wikiをちゃんとしたソース」
と言い切ってることがおかしいと俺は一貫して言ってるわけで
ID:7wdCfhUUが
「wiki(の間違った記述などを理解できる知識が前提としてあれば)ちゃんとしたソース」
後から言い換えてる時点で後出しだろ。
摂取選択ってわけわかめな新語を出してる時点でもう頭悪い春厨なんだろうけど。
取捨選択だろ。
0365人間七七四年
2007/03/30(金) 18:10:15ID:XstLZy2Wソースとなるかは、疑問である
ID:7wdCfhUUは、この程度のことも読み取れないのか?
0366人間七七四年
2007/03/30(金) 18:19:09ID:7wdCfhUUどうでもいいのにこんなに躍起になるなよw
wikiだって記述さえ間違いなければ信頼できるでしょ。
逆に史料にしたって万能ではない。
ちゃんと取捨選択しないとね。って言ってるのw
0367人間七七四年
2007/03/30(金) 18:21:46ID:7wdCfhUUだからこそ、wikiの記述が信頼できると判断して載せたわけで。
内容も良く知らないで批判しているから、その記述が信頼できるかどうかが
判断できない=信憑性がないって単純に決め付けちゃんでしょ。
0368中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2007/03/30(金) 19:16:00ID:d8f1gWj/0369人間七七四年
2007/03/30(金) 19:19:49ID:8PlqLjff0370人間七七四年
2007/03/30(金) 19:37:15ID:7wdCfhUUこんな一般論でこの調子じゃ・・・・w
0371人間七七四年
2007/03/30(金) 20:11:38ID:8PlqLjff多聞院日記だけじゃなく、当時の史料にこういう記述がある
だから鉄甲船はあったんだろう
これで良かったんじゃない?
0372中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2007/03/30(金) 20:15:23ID:d8f1gWj/一ヵ月分の小遣い貯めて買え
0373人間七七四年
2007/03/30(金) 20:21:04ID:8PlqLjff鉄張りの記述があるのって
信長がでかい船作ったのは確かだろうが、
直接確かめたわけじゃない多聞院の記述だけ信じるのもねえ
0374中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2007/03/30(金) 20:25:06ID:d8f1gWj/本能寺で細川藤孝を殺し
丹羽長秀を発狂させ
誠仁親王を切腹させ
秀吉に将軍職を断らせてる
すばらしい一級史料
0375人間七七四年
2007/03/30(金) 21:17:29ID:MCn2DJXi本当に高度な技術を必要とする外洋航海能力は真似できずに、
鉄を張っただけなところがそこはかとなくテキュン臭い・・・
0376人間七七四年
2007/03/30(金) 21:43:35ID:YifgDL/wこれでFA
ソース出せ!っていわれてwikiのURL張っちゃう程度の頭なんだから相手にするなよ。
0377人間七七四年
2007/03/30(金) 21:56:31ID:Sq4o32r20378人間七七四年
2007/03/30(金) 21:57:43ID:fiaLeYIN何スかそれ?w
0379人間七七四年
2007/03/30(金) 22:07:31ID:YifgDL/w議論するときの参考には使えんよな。
例を挙げると
>秀吉は「豊臣幕府」を開くために足利義昭へ自分を養子にするよう頼んだが断られた、という説もある
今時学会でこんな説掲げてる学者は3人くらいしかおらんだろ。
何百年新井白石ら御用学者に踊らされてるんだよ。
0380中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2007/03/30(金) 22:10:56ID:d8f1gWj/ま、その説のソースを2ちゃんで最初に紹介したのは俺様なんだけどな
その後その史料名のグーグル検索数が倍増したのはいうまでもない
0381人間七七四年
2007/03/30(金) 22:50:40ID:Ezs79xQ9>陣形図からいって東軍が先に関ヶ原に到着したということはありえない
わかりやすく書くます。
1:東軍:じゃ大坂攻めるから
2:西軍:やべぇ、松尾山あたりで迎撃しよう
3:西軍移動開始
4:東軍移動開始(5時間以上後)
5:殿の宇喜田隊と先鋒の福島隊の接触があるも戦闘せず
6:それぞれが陣を敷く。
東軍は西軍の移動距離の1/2でおまけに街道道だった。
陣を敷いたのは西軍も東軍も午前4時〜6時の間。
おまけに夜、雨が降っていたし、朝は霧が出ていた。
どうやっても東軍が西軍の詳しい布陣を知ることができません。
ちなみに、家康がわけわかんない状態で切れて旗切りつけたのが6時半。
>西軍が通過するのを全員指をくわえて眺めていたことになる
西軍は移動をばらさせない為にいろいろ制限した。
松明を使わない。私語の禁止。馬の口も縄で括った。
実際諜報が、西軍の移動を検知したのは5時間以上後。
分かったとしても当時の軍隊に夜戦が可能じゃないので、
指くわえて見守るしかない。夜間行軍ですら冒険な時代です。
追記:
>えーと、東軍より西軍の方が陣敷くの遅かったはずじゃなかったっけ?
これ自分の発言だが訂正しよう。大体同時間だ。
>関ヶ原の東軍の布陣に難癖をつける人もいるが、
>あれは死地に飛び込む形で、やはり一気に決着をつけるための陣形。
>持久戦に持ち込まれたりしたらたまったもんじゃないからのう。
相手は、冷たい雨の中を間道を7時間程歩いて、
ついたら、一時間ほどで戦闘しなきゃいけない軍勢
こっちは3時間ほど街道道歩けてそのまま軍勢整える程度でよい状態。
おまけに、なんか敵の半分が主戦場から2時間程離れた山でやる気なさそうにいる状態。
こんな好条件なので、突っ込むのもひとつの手だと思います。
0382人間七七四年
2007/03/30(金) 23:01:28ID:XzSOcxws同意
0383人間七七四年
2007/03/30(金) 23:31:16ID:GbZhKZ+j家康の野戦で有名どころは姉川、三方が原、長久手、関ヶ原って所だが、以前も出たように
姉川は後世の誇張だし、関ヶ原は別段鮮やかに勝ってるわけでもない。
残るは三方が原、長久手だが三方が原は徳川、織田連合軍は武田の半分以下という兵力差が
あったので(しかも織田軍は家康指揮下じゃないし)勝てなかったとはいえ家康を責める
ことは出来ない。
鮮やかに勝ったのって長久手しかないわけだが、まず秀吉軍は秀吉の直接指揮下にない秀次
を総大将とする軍だったし、この時の徳川・織田軍は一万一千、秀次軍は約二万四千だが、その
二万四千を一度に相手にしたわけではない。この二万五千は池田恒興・森長可・堀秀政の第一軍(約一万)、
羽柴(この頃はまだ三好か)秀次・木下祐久、利匡・長谷川秀一・長浜州の第二軍(約八千)、
中川秀正・木下利久・尾藤知宣・徳永寿昌・小川祐忠・瀬田正忠の第三軍(約六千)に分散して
いた(この分散は家康が意図的に行わせたものではなく、秀次軍が独自に行ったもの)。
家康はこのうちまず第二軍を叩き、第二軍の危機を知って引き返してきた一軍(第一軍の池田隊は引き
返す前は岩崎城攻めの最中で疲弊)を叩いた。
第三軍は第一軍、第二軍の敗走を知って逃げてしまったのでそもそも戦闘に不参加。
よって家康は野戦は下手糞ではないが飛び抜けて優秀なわけでもない中の上くらいの上手さだと思う。
0384人間七七四年
2007/03/30(金) 23:35:26ID:GbZhKZ+j× この二万五千は池田恒興〜
○ この二万四千は池田恒興〜
0385人間七七四年
2007/03/30(金) 23:41:32ID:xWGkivuf秀次なんて赤ん坊同然じゃないの?
0386人間七七四年
2007/03/30(金) 23:50:50ID:XstLZy2W各個撃破は当然すぎることじゃないの?
>383の野戦の達人の定義は、寡兵で大軍に勝つことなのかね
自分は、家康はトータル的にみて、野戦の達人と言えると思うけど
戦国時代通して、トップクラスには入らないと思う
ただ、秀吉みたくボケもせず、長生きしたので、経験もあって
関が原以降は、野戦のトップクラスの達人になったと言えるかもしれない
動員できる兵力の関係もあるしな
関が原にはいる時期に、家康より野戦が強そうな実績もある武将って
島津義弘くらいでしょ?
0387人間七七四年
2007/03/30(金) 23:57:00ID:3KYDAr8O本能寺後の天正壬午の乱とかは
ただ小牧長久手後は軍制を甲州流に変えたせいか
旧武田家臣が弱いせいか
家康が大軍指揮になれていないせいか
野戦での直接的な戦闘力は落ちたような気もする
0389人間七七四年
2007/03/31(土) 00:40:14ID:UVRZWrWg>>383の野戦の達人の定義は、寡兵で大軍に勝つことなのかね
寡兵で大軍撃破が唯一の野戦の達人の条件とは言えないが、野戦でそれが何度もできたら
文句無しで達人だろ。
普通、自軍が寡兵の場合は城に立てこもるとか決戦を避けるのが常識だし。
ほぼ同数の兵力で大勝と言うほどではなく単に勝った、ということで寡兵で大軍撃破を何度も
している者と同列に扱うことは出来ない。
また圧倒的多数で少数を難なく撃破するのは野戦能力と言うより戦略とかの面のほうが強くなる。
それに各個撃破というが、長久手の家康の場合各個撃破しようとはじめから考えてたとは
言えない。
あらかじめ分散して行動していた秀次軍を結果的に各個に戦うようになり、勝った。
だから中の上と評したわけ。
まあ中の上が低すぎなら上の下くらいでもいいけど。
0390人間七七四年
2007/03/31(土) 00:49:28ID:73hXRIm1言わんとしてることは、解るのだが
ようは、どのラインで「野戦の達人」とするかの違いくさいな
自分も、家康は上の下くらいだと思うけども
その上の下は充分野戦の達人に値すると思ってるかあね
0391人間七七四年
2007/03/31(土) 00:50:11ID:IUXasId5中の上とは他の大名で言うと誰が相当するの?
あと寡兵で大軍に勝つ事は確かにすごい事だが、
この点ばかりを重視し始めると、
真田とか長野以外ほとんどは野戦の達人とはいえなくなるんじゃないか?
0392人間七七四年
2007/03/31(土) 00:52:30ID:IUXasId5あとあなたの考える野戦の達人の基準とそれに該当する人物を上げてくれない?
そうしないと判断基準がわからないから評論の仕様がない
0393人間七七四年
2007/03/31(土) 00:54:43ID:IUXasId5>姉川は後世の誇張
「神君家康公が信長公を救われた」というような活躍も疑問だが、
かと言ってだったら何が行われていたのかもよくわからない戦い
どこまでが実態でどこからが誇張かわからない
姉川については判断保留が妥当じゃないか?
0394人間七七四年
2007/03/31(土) 00:59:58ID:H4VngCHj2回の上田城攻めと関ヶ原
大坂冬夏の陣と
小田原攻めに参加、葛西大崎一揆鎮圧
九戸鎮圧にも参加していたか?
大局的にはともかく
戦場での能力を考えるならどれもあまり誇れるものじゃないとは思う
>>389
つまり
上の上が正面から野戦で寡兵で大軍撃破を何度もしている者
と言うことか?
そんな無謀なやつなんて信長島津立花ぐらいしかいないんじゃないか
0395人間七七四年
2007/03/31(土) 01:03:02ID:IUXasId5戦術については自分の国を守り他国にも侵略する事ができる、
標準的軍事指揮能力を備えていた、
これが妥当なのかな?
それを事前準備の政略で補うという
0396人間七七四年
2007/03/31(土) 01:10:06ID:73hXRIm10397人間七七四年
2007/03/31(土) 01:14:50ID:nMZqVN4O天下を取った、つうことなのか?
他の軍事的指揮能力に優れた武将は何をしていたんだい?
0398人間七七四年
2007/03/31(土) 01:14:53ID:IUXasId5野戦の達人の基準がわからないわけ
例えば純粋に合戦当日の合戦指揮能力だけを見て判断するのならば、
ここに政略とかは関係ないじゃない
単純に兵の動かし方にどれだけ長けているかを判断すればいいわけで
逆にその合戦の起こる原因から、
合戦当日に至るまでの全プロセスを見た上で能力を問うのならば、
政略・戦略を無視する事は変
で、前者のイメージがこのスレでは強いようだから、
政略・戦略の能力についてはわけてみているんだがね
0399人間七七四年
2007/03/31(土) 01:17:00ID:IUXasId5単純な話
1:天下取りに臨むような地域に住んでいなかった
2:天下取りを望めるほどの地位と実力がなかった
3:合戦能力はあったが、政治的才能がないために不利益を被ってしまった
このあたりじゃない?
0400人間七七四年
2007/03/31(土) 01:19:52ID:IUXasId5つかなんで、
標準的=たいした事ない
になるんだ?
標準的というのは良くもないが悪くもないものであり、
特別に貶めて考える必要ないだろ
家康の場合の「標準的」と言うのは、
他の領土拡張に成功した大名と同様、
自分の国を守れて他国に侵略するだけの能力を持っているということなんだから、
これは十分高い評価になるんじゃないの?
もっとも上のレスじゃ自分の言葉も足りなかったのでそこは詫びるが
0401人間七七四年
2007/03/31(土) 01:21:30ID:73hXRIm1天下人に求められる才能は、軍事的才能以外のことだからでしょ
>>398
政略・戦略に長けてる人物程、結局戦術的に楽ができるわけだしな
家康が寡兵で勝利した例が少ないってのは、むしろ褒め言葉じゃないのかね
実際に家康も勝利のが敗北より多いし、達人で良いと思うけども
これは所詮自分の定義だからね
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