家康は本当に野戦の達人?
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0001人間七七四年
2007/03/11(日) 00:04:50ID:jgwWrmey本当にそれほどの戦上手なのでしょうか?
0252人間七七四年
2007/03/28(水) 03:21:28ID:lVUsFf+Kとりあえず貼っとく。
たつじん 0 【達人】
豊富な経験と長年の鍛練により、その道の真髄を体得した人。
「―の境地に入る」「剣道の―」
――は大観す
〔「冠子(世兵)」、賈誼「鳥賦」〕達人は一部分にとらわれず全体を見通すので判断を誤らない。
三省堂提供「大辞林 第二版」より
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%C3%A3%BF%CD&search_history=&kind=&kwassist=0&mode=0&jn.x=30&jn.y=5
0253人間七七四年
2007/03/28(水) 03:25:03ID:mTkz+mdv>論拠ねぇ・・・上杉討伐時の家康は西軍蜂起に対して備えてた事実はないというのが論拠。
>西軍の蜂起を予測してたんならばもっと前から内応策を出してても良い筈だからね
西軍総大将となった毛利輝元とは会津出征前に、
義兄弟の契り交わしてたことは知ってるよね?
宇喜多についても家中の騒動に仲裁に入って、
自身の影響力のこそうとしてるし、前田については言うまでもないよね。
「三成が挙兵して西軍は挑んでくる」
ことをどれほど具体的な想像をしていたかわからんが、
反攻勢力を少しでも少なくしようと手を打っていたというのは事実だよ。
それに少なくともそれじゃ、
「家康は大名の各個撃破が目的だった」と断言できないよね。
そういうのは推測だよね。
>「戦略面でも「達人」と言われるほどの冴えを見せたかと言えば微妙」
家康の戦略を推測するしかない状況では、評価の仕様がないんじゃない?
それよりもその状況その状況でどう動いたかを見るしかないわけで。
「家康はこう動こうと戦略を立てていたがそれは出来なかった。
だからその才能は微妙だった」
このようにあなたの論拠は自分の推測を元にしているだけだよ。
>だいたいその後の家康の行動を含めて
その後の家康の行動について227のどこに書いてるんだい?
それにあなたの言うさえない家康の行動である内応策が生きて西軍は敗れるんだが?
そこを無視するのが変だと言ってるんだよ。
0254人間七七四年
2007/03/28(水) 03:33:55ID:mTkz+mdv227のいうように家康の思い通り進んだ戦いじゃないのは確かだよ
235に書いたように関ヶ原の合戦当日も東軍にとっては最悪の形で迎撃されたわけで
ただそういう不利な状況下で、家康の政略が働いて勝利しているから、
(これも敗れるかもしれないものだったんだが)
俺はそういう手を打った家康については評価するんだが、
227にすればそれは「微妙」に見える、と
このあたりは解釈の違いだから、
おそらくは永遠に決着つかないんだろうけどね
0255人間七七四年
2007/03/28(水) 03:41:47ID:mTkz+mdvだんだんイライラしてくるし、いい議論ができるとは思えん
「神君家康公は偉大で関ヶ原にも勝利するべくして勝利した」
みたいなのに異議を唱える意味で、
要は「なんでもお見通しの戦略の達人」に比べたら、
「それは微妙」というなら別に227に異論はないよ
0256人間七七四年
2007/03/28(水) 08:10:59ID:EMPQT0Zz小田原陣中のさなか、馬に乗って太閤(秀吉)の先手となって馬乗りをしてたところ、
谷川に人が一人やっと通れるくらいの橋が掛かってる場所に出くわしたんだな。
この時実は丹羽、長谷川、堀などの諸大名も居合わせていたんだけれども、
この三人は、家康は見事に橋を渡りきるかと思ってたら、当人は馬から下りて、
近習の物におんぶされて川を渡ったそうな。
それを見た将兵は笑い転げてたらしいけれども、この三人は
「さすがに海道一の馬乗りだ」と褒めちぎったそうな。
三人に言わせれば、馬上の巧者は決して危ないことはやらないのだそうな。
つまり、この馬の達人にしても、野戦の達人にしても、江戸時代になって
こういうエピソードなんかで誇張されたもんじゃないかな、て思うんだけどね。
0257人間七七四年
2007/03/28(水) 08:11:15ID:jbfFCUUS年月が立つに連れて下手になってる気がするの気のせいか?
少なくとも大軍率いての戦って実は、小田原と関が原と大坂の陣位で
あとはせいぜい一万チョイ程度しか動員できなかったし。それも武田氏滅亡当時位。
小牧・長久手の頃も大軍率いての同等の決戦じゃなくて、
緒戦の挑発と迎撃に成功してあとは逃げ回ったというのが現実だからな。
戦上手という評価は正しくても野戦の達人という評価ではないと思う。
つまり家康は、小勢での野戦統率能力はあるとしても、大軍率いての能力は疑問符がある。
ただ、純粋に将としてみれば、小牧・長久手とか関が原合戦の状況を作った様に能力が高いと見受けられる。
つまり、普通の戦術家にして実態は戦略家だったという当たり前の評価。
0258仙台藩百姓
2007/03/28(水) 09:33:20ID:fgCrZNBw結局のこのこ出て行って潰走しただけの話しだお
何とかなるだろぐらいの考えで出て行ったのは間違いないお
戦略的にも戦術的にも完全に失敗だお
0259人間七七四年
2007/03/28(水) 10:47:37ID://Kt1vR10260人間七七四年
2007/03/28(水) 12:02:53ID:vo5n6uvd0261人間七七四年
2007/03/28(水) 12:15:05ID:aL2+/YvY0262仙台藩百姓
2007/03/28(水) 12:30:06ID:fgCrZNBw0263人間七七四年
2007/03/28(水) 12:38:46ID:nvAMsi5i家康としては上杉討伐の際に、ここで三成が挙兵してくれないかな、とは思っただろう。
ちまちま各個撃破やっていくより、一気に決着つけたほうがどれほど効率良いことか。
それは後年の、三成のおかげで天下を取れた、という述懐にも表れている。
関ヶ原の東軍の布陣に難癖をつける人もいるが、
あれは死地に飛び込む形で、やはり一気に決着をつけるための陣形。
持久戦に持ち込まれたりしたらたまったもんじゃないからのう。
家康はいわれるほど安全主義の堅実な人間ではなく、危険な賭けに賭けるタイプだったように思う。
主家簒奪も秀吉のようにちまちま既成事実を作っていってやるというよりは、
一気に主従をひっくり返す革命的なやり方だった。
面白味がないとか派手さがないというのはそれを理解していないだけ。
0264人間七七四年
2007/03/28(水) 13:20:10ID:zeUWaDT20265仙台藩百姓
2007/03/28(水) 14:47:37ID:fgCrZNBw野戦と言うか戦術一般に関して凡庸であると言う事だおね( ^ω^)
0266人間七七四年
2007/03/28(水) 14:59:28ID:MkLaT4on摺上原を勝利だというくらい見苦しいってこった。
野戦での勝利が皆無じゃないだけ神君はすごい。
0267人間七七四年
2007/03/28(水) 18:29:11ID:XfMIVXTM0268人間七七四年
2007/03/28(水) 18:44:14ID:qCTTsVzsそれでは三河の一向一揆で死んでるわな
0269人間七七四年
2007/03/28(水) 18:47:28ID:rdQxeoIi考えてたんでない?一応、秀忠のスペアーの忠吉は参戦させてるけど。
0270人間七七四年
2007/03/28(水) 19:20:07ID:28Vr9+a90271人間七七四年
2007/03/28(水) 21:14:45ID://Kt1vR1三河一向一揆ではだれもまともに家康を相手にしなかったんじゃなかったっけ?
0272人間七七四年
2007/03/28(水) 21:52:13ID:jbfFCUUS>あれは死地に飛び込む形で、やはり一気に決着をつけるための陣形。
>持久戦に持ち込まれたりしたらたまったもんじゃないからのう。
えーと、東軍より西軍の方が陣敷くの遅かったはずじゃなかったっけ?
相手の布陣も知らずにどうして陣形云々と言えるのか不思議だ。
無論防御固めた西軍を崩す為の戦略機動ああなったのであり。
(もし西軍が動かなかったら、兵站線を守っていた大谷隊がやられる)
その結果不利な状態で戦端を開いたというのが、戦略的常識から導き出される公式であり。
それ以上でもそれ以下でもない。
0274人間七七四年
2007/03/28(水) 22:05:13ID:qCTTsVzs家康が姿を見せたら逃げ出した家臣もいたつう…
つうことは自ら前線に出たつう証であり
各個撃破できたのは戦術に明るい証明、、にはならんのか?
0275仙台藩百姓
2007/03/28(水) 22:23:15ID:fgCrZNBw家康はろくな戦歴がないお(≧ω≦)
0276人間七七四年
2007/03/28(水) 22:29:23ID:5dsEDlZq過剰評価されてるのは否めんな
0277人間七七四年
2007/03/28(水) 22:47:34ID:qCTTsVzsあれだけの大軍を指揮できるのは何人もいないぞ
0278人間七七四年
2007/03/28(水) 23:47:43ID:28Vr9+a9福島勝手に突っ込むわ、本多息子は酒飲んで崩れるわ
歴難でも疑問符が付けられてたぞ?家康の大軍指揮能力
0279人間七七四年
2007/03/29(木) 00:00:46ID:qCTTsVzs0280人間七七四年
2007/03/29(木) 00:02:33ID:d92z/65z>えーと、東軍より西軍の方が陣敷くの遅かったはずじゃなかったっけ?
初めて聞く説
家康が佐和山、大坂を攻めるという情報を流したら
西軍が関ヶ原に移動したので、東軍もそれに追随したということだと思ったが
0281人間七七四年
2007/03/29(木) 00:11:04ID:/aWdxWkv出たよ、結果論主義者
0282人間七七四年
2007/03/29(木) 00:15:10ID:fzp/J8mk0283人間七七四年
2007/03/29(木) 00:18:54ID:8aBhgUFe実際のところあのような陣敷きになったのはなぜかわかんないんだよね
今までは「家康が三成をおびき出した」とされてたけど、
近年では西軍は備えを用意しており、予定通りの行動だったのではないか、ともされるし
ところで家康の野戦能力を語るのはいいが、
とりあえず野戦能力を評価する上での基準と、
その基準に基づいて、家康の能力やその他諸将との能力を比較すればいいんじゃないの?
個人的には一国を守り、他国を奪うくらいの、
標準的な合戦指揮能力は具えていたと思うのだけど
けど上でもあるように家康で評価すべきは、
合戦能力より政治能力だと思うんだけどね。
関ヶ原も戦略上の不利を政略でカバーしようとしてた節あるし。
0284人間七七四年
2007/03/29(木) 00:23:06ID:fzp/J8mkだったら関が原も野戦じゃないか
それに勝利したんだ、野戦上手で間違いないだろう?
大一番の野戦、関が原に勝利して野戦上手と言っていかんのか?
0285人間七七四年
2007/03/29(木) 00:23:28ID:8aBhgUFe三成が西軍諸将を統率し、
家康の調略の入り込む隙を与えずにおけば、
十分西軍に勝利の目はあったと思うよ。
結局家康の政略が生きて、
合戦当日有利に駒を進めたつもりの西軍が、
石田・大谷・宇喜多・小西以外ほとんど傍観してろくに働くことなく、
そして小早川の攻撃で大敗しちゃうんだから。
総大将家が分裂、諸将もバラバラでは、
家康得意の政略が入り込みやす過ぎたんだよね。
0286人間七七四年
2007/03/29(木) 00:28:45ID:8aBhgUFe東軍にすれば実に不利な展開だったのを、
政略でカバーして勝った戦いなので、
これをもって家康の政治能力はともかくとして合戦能力が高いとみるべきかどうか…
まあ西軍蜂起後東軍をまとめつつ、
背後の上杉を動けないようにしながら、
西軍諸将切り崩しに務めて、弱体化させることを念頭に策を進めていった事は、
家康が決して無能ではなく才能を持っていることを示すものだとは思うがね
0287人間七七四年
2007/03/29(木) 00:36:03ID:fzp/J8mk不利でも何でも家康が負けるなんて思って戦った奴はいないと思うよ?
ちがう?
0288人間七七四年
2007/03/29(木) 00:41:58ID:8aBhgUFe家康の施した政略が関ヶ原でも西軍有利の状況下でも崩れなかったのは、
運という点はもちろんあるけれども同時に、
「五大老筆頭の江戸内府様」という家康の地位と名声を無視できないだろうね
しかし残念ながら一方の三成には家康ほどの地位と名声がなかった
この点も家康の政略を有利に作用させたというのは否めないだろうね
0289人間七七四年
2007/03/29(木) 00:42:32ID:VDID+pNZここでは、主に兵の将としての能力の議論になるんだろうけど
水準以上能力はあったとみるのが自然でしょう
でなかったら、武田との抗争に生き残ることも出来ないだろう
0290人間七七四年
2007/03/29(木) 00:47:03ID:fzp/J8mkつまり野戦上手な家康様のイメージの勝利だな
0291人間七七四年
2007/03/29(木) 00:47:43ID:8aBhgUFe「全て我が意のままに戦略と作戦を成功させ勝利しつづけた偉大なる大名」
なんているんかいな?
信玄は信濃侵攻の際に村上にてこずって、
結局これが上杉との大戦争の原因になって苦しむ事になるし、
毛利元就だって、有田中井手合戦で「全て我が意のまま」というほどに快勝したわけじゃない
伊達政宗の摺上原だって最初は押されてて、
「最初から圧勝した」というようなものじゃないしね
0292人間七七四年
2007/03/29(木) 00:50:56ID:8aBhgUFe秀吉が家康に難渋している、というイメージを与える意味では、
小牧長久手は家康にとって大成功
戦争としては徳川方は不利だったんだが、
家康との長期戦を嫌がる秀吉が対話重視路線に転向するや、
なかなか臣従せず、きっちり自分の存在感を世間にPRする事に成功してるわな
けどこれは「野戦上手」じゃなくて、
秀吉の状況を見極めた上で展開してきた外交策であり、
れっきとした政治能力の問題でしょ
0293人間七七四年
2007/03/29(木) 00:54:06ID:VDID+pNZ存在しないでしょう
どのレベルを指して野戦の達人とするのかが不明だけど
家康は、戦国時代を代表する野戦の達人だと思うけどな
同数で野戦をさせれば、家康に勝てる武将は、そりゃ存在したろうが
0294人間七七四年
2007/03/29(木) 00:54:34ID:fzp/J8mk野戦能力だろう?
0295人間七七四年
2007/03/29(木) 00:57:25ID:VDID+pNZ島津義弘みたいな、戦国でもトップクラスを持ってきて
それに劣るから、野戦の達人じゃないとは言えないでしょ。さすがに
0296人間七七四年
2007/03/29(木) 00:59:40ID:bUCguwfI0297人間七七四年
2007/03/29(木) 01:01:12ID:VDID+pNZ0298人間七七四年
2007/03/29(木) 01:01:24ID:8aBhgUFe「野戦の達人」の定義もはっきりしない状況では、
家康がそれに当てはまるかどうかなんて論評の仕様がないと思うんだがな
仮に
「すべて我が意のままに戦略を展開させさらに戦術も成功させることができる人」を、
「野戦の達人」とするならそんなのは家康含めて存在しないと思うよ
家康についていえば、三河統一戦や今川領侵攻、
その後の武田との抗争、対秀吉戦、関ヶ原、大阪の陣とみる限り、
国主として持つべき標準的な合戦能力はあった、と見るのが妥当じゃないの?
天才でもないが愚将でもないということで
0299人間七七四年
2007/03/29(木) 01:03:03ID:IoHIy8+H0300人間七七四年
2007/03/29(木) 01:04:41ID:8aBhgUFe多分真田親子や島津義弘あたりが候補に上がるんじゃないのかな?
>>296
政治の介入しない戦争などあるわけないわなw
ただ家康の戦争の勝利をみると、
「類稀なる戦術で華麗に勝利を収めた」というよりも、
政治的な策略を背景に勝利を収める場面が少なくないように思うよ
0301人間七七四年
2007/03/29(木) 01:05:43ID:fzp/J8mkそれだけ強いってことさ
0303人間七七四年
2007/03/29(木) 01:10:17ID:IoHIy8+H中国大返し・賤ヶ岳で見せた機動力は世界の名将に共通の能力。
は?小牧長久手?ザコを2・3匹たおしたら勝ちなの?
0304人間七七四年
2007/03/29(木) 01:13:34ID:fzp/J8mk0305人間七七四年
2007/03/29(木) 01:14:27ID:8aBhgUFe誰も秀吉を家康に比べて愚かなどと言ってないんだからそう興奮しなさんな
とりあえずあなたの「野戦の達人」の基準は機動力なのかい?
基準があったら教えておくれ
0307人間七七四年
2007/03/29(木) 01:24:46ID:IoHIy8+Hしかしいくらかは基本的な法則があって、機動力はそのひとつ。
0308人間七七四年
2007/03/29(木) 01:26:17ID:IoHIy8+H0309人間七七四年
2007/03/29(木) 01:26:54ID:fzp/J8mk0310人間七七四年
2007/03/29(木) 01:28:58ID:IoHIy8+H0311人間七七四年
2007/03/29(木) 01:30:49ID:fzp/J8mk0312人間七七四年
2007/03/29(木) 01:36:29ID:IoHIy8+H大阪冬の陣で損害を受けたから秀頼>家康とか言ってるようなもんだ。
0313人間七七四年
2007/03/29(木) 01:40:00ID:fzp/J8mkジャンケンでもするか?
0314人間七七四年
2007/03/29(木) 01:41:11ID:v/MNnPeW関ヶ原での家康を「総大将」として評価すべきなのは、
合戦当日の現場指揮よりも、
西軍に比べ、合戦まではるかに東軍の統一性を保持させた事だろうね
家康が合戦までに西軍諸将に政略を働いたように、
逆に三成らにもそのチャンスがあったのに、
(つか「豊臣家御為の旗印で諸侯を統一させようとしたっぽいが)
東軍から西軍への調略というのは大きく成功していないからね
この点の評価はあっていいと思うよ
0315人間七七四年
2007/03/29(木) 01:41:35ID:IoHIy8+H0316人間七七四年
2007/03/29(木) 01:42:50ID:VDID+pNZ0318人間七七四年
2007/03/29(木) 01:48:46ID:v/MNnPeWごめん間違えたw
>東軍から西軍への調略というのは大きく成功していないからね
lこれは「東軍から西軍に寝返らせようとした調略」の事ね。スマソ
0319人間七七四年
2007/03/29(木) 01:51:53ID:IoHIy8+Hどちらかが滅びるまで戦うなんて秀吉も家康も思っていない。
特に秀吉は仕掛けられた側で、勝算なんてない状態なんだから
講和できれば十分なわけ。
0320人間七七四年
2007/03/29(木) 01:53:26ID:IoHIy8+H西軍は最初から無理としか言えんなww
0321人間七七四年
2007/03/29(木) 01:54:03ID:bUCguwfI0322人間七七四年
2007/03/29(木) 01:55:20ID:v/MNnPeWいつ小牧長久手の話題になったんだw
あれについては最初家康の敷いた秀吉包囲網によって、
秀吉はピンチの状況になるし、
その後の小牧長久手の長対陣、局地戦の敗北などから、
秀吉が家康との戦争を嫌っちゃって、
家康には対話路線、信雄とは講和、そして秀吉包囲網の瓦解を働いて成功させたって話で、
天下分け目というような戦いではないわな
0323人間七七四年
2007/03/29(木) 01:59:37ID:IoHIy8+H劣勢が長く続いて、大名と家臣の間の関係が崩れていって
最後に軍事的圧力をうけて潰れる。
武田だって長篠のあと7年ももってるだろ。
0324人間七七四年
2007/03/29(木) 02:13:28ID:TukBAZH1>家康が佐和山、大坂を攻めるという情報を流したら
>西軍が関ヶ原に移動したので、東軍もそれに追随したということだと思ったが
移動時間として、東軍は3時間程度、西軍は7時間程度。
殿の宇喜田勢と先鋒の福島勢が軍勢移動中に接触している。
西軍はそれほど移動に難渋した。
おまけに移動は夜間。陣形とか分かるのか?
決戦となっているが、実際は緒戦は遭遇戦の様相だったわけだ。
家康が関が原で非難されるべき要素はそこらへんにある。
つまり、索敵進撃するところを無造作に前に出すぎて、
小勢の西軍にあっさり叩きだされたわけだ。
0325人間七七四年
2007/03/29(木) 02:18:55ID:bUCguwfI三成は野戦の達人と言われただろうか?
0326人間七七四年
2007/03/29(木) 02:23:09ID:ZpoUESAj0327人間七七四年
2007/03/29(木) 02:27:44ID:ST7Xh63h0328人間七七四年
2007/03/29(木) 02:27:45ID:VDID+pNZ君はいったい何が言いたいの?誰も家康>秀吉なんて書いてないし
秀吉が、野戦の達人じゃないとすら書いてないわけで
0329人間七七四年
2007/03/29(木) 02:32:20ID:kFX+JyT70330人間七七四年
2007/03/29(木) 02:36:59ID:HcsFkxnzそのあたりも結局真相不明なわけでな
なぜ三成は関ヶ原にでたのか、
なぜ家康もこれを追う形で関ヶ原に出たのか
決定的な史料がないんだよな
三成のほうが行動は先だったのは確かみたいだけど
ただ家康としては関ヶ原ではなく菩提山だったかを本陣に、
もう少し東のほうで野戦をしたかった、みたいな話があるね
こうすれば吉川は西軍を裏切ってさっさと東軍に味方する、と言ってたために
逆に関ヶ原が決戦場になった事で吉川は、
「これじゃ裏切りは出来ない。傍観する」
と黒田あたりに返事してたはず
0333人間七七四年
2007/03/29(木) 06:53:58ID:EXr4kDYcだから生き残るために自分より優れたやつの真似をする必要があった。
その点、家康・三河武士団と同タイプの信玄・甲州武士団が近くにいたのは
家康にとって幸運だったといえる。
強敵だったとはいえ、絶好のお手本とすることができた。
戦にしても、時折常人には思いつかない奇想天外な作戦を敢行する信長・秀吉や
戦闘時の駆け引きに抜群の冴えを見せた謙信などの天才肌の武将より
戦闘行為に移る前の駆け引きを入念に行う生真面目秀才肌の信玄のやり口の方が
凡人家康にとっては真似しやすい。
後年、敵だった武田家臣を多く召抱え、徳川軍団を甲州流に一変させたのも
家康が異常なくらい信玄に傾倒していたという証左だろう。
家康自身も自分の器の程をよく知っていたと思われる。
0334人間七七四年
2007/03/29(木) 09:02:19ID:VDID+pNZ奇抜かは別としても、家康も充分柔軟なタイプだと思うが
>生き残るために自分より優れたやつの真似をする必要があった
>強敵だったとはいえ、絶好のお手本とすることができた。
この時点で充分柔軟じゃん
信長にしても、奇想天外な作戦等なく
外交等も駆使し兵力をやりくりして、最重要な戦線に常に相手より
大兵力を揃えるというのが根幹にあるわけで。だから凄いんだけども
だいたい、信長だって、他人の優れた政策は模倣して
自分なりにアレンジを加えて使用してるよね?
信長が天才、家康が凡人っていうのは否定しないけども
>>333のような「イメージ」があるのは間違いないけども
信長の実像にしても、家康の実像にしても、偏ってるのだけは確か
0335仙台藩百姓
2007/03/29(木) 10:26:58ID:/FGXgWhU戦に関しては完全に劣化版だおね(≧ω≦)
明らかにオリジナルより落ちるお
0336人間七七四年
2007/03/29(木) 10:39:24ID:pQf45IfXそれは部分的に取り上げるだけで普遍的には言えないので反論になってないね。
信長は以前の古い中世的なものを、戦術に関しても、城作りや
街づくりに伴う戦略に関しても一新してきたけど、家康には
目新しい功績はあんまり聞かないしね。
ただ、ドラスティックな改革が成功すれば、後はそれを忠実に実行
する堅実さが必要になってくるので、それが悪いっていうんじゃなくて
時代の流れが家康の性格にうまくあっていたんだと思うね。
0337人間七七四年
2007/03/29(木) 13:01:13ID:nruq5C5T楽市楽座だって、後世規制緩和政策をそう統一して呼んでいるから「アレンジ」と見なせるわけで個々の条文や実施状況を見れば例えば六角氏のそれとはかなり違うよ
0338人間七七四年
2007/03/29(木) 13:13:39ID:aKLkdrRd0339人間七七四年
2007/03/29(木) 13:20:00ID:nruq5C5Tそりゃ『鉄鋼』の船はなw
だが宣教師の記録や、多聞院日記(「鉄の船也」)という一級史料に記載があるから鉄甲船は存在したよ
もっとも木津川で毛利水軍を撃退した後どうなったかは不明
朝鮮出兵時の日本最大の船「日本丸」がその後身という説もあるがこれについての証拠は無い
0340人間七七四年
2007/03/29(木) 16:12:12ID:KompaEyG家康=スキピオ
みたいなもんでしょ。
敵であり、師弟みたいな。
0341人間七七四年
2007/03/29(木) 16:16:20ID:0XlangSKこれはガチ
0342人間七七四年
2007/03/29(木) 18:38:14ID:eC0ieAZo何を言いたいのかよくわからんが、
陣形図からいって東軍が先に関ヶ原に到着したということはありえない
西軍が通過するのを全員指をくわえて眺めていたことになる
http://www.ginet.or.jp/sekigahara/rekishi/reki1_1.htm
0343人間七七四年
2007/03/30(金) 00:59:41ID:fhA4ae0eそもそも何を持って鉄甲船と呼んでるのかわからんが、ほぼ全面鉄装甲化した
ような船は無いよ。
まあ部分装甲程度のものならあったかも知れないけど。
水軍を率いた九鬼家の資料にも鉄甲船の話なんて全くでてこないし、宣教師の記録って
オルガンティノのことだろうが(違ったらすまんが)、オルガンティノは船に備え付けてあった
大砲や鉄砲と言った武装と船の大きさに驚きはしたがやっぱり装甲に関しては何もいってない。
多聞院日記は英俊が聞いた噂の話で英俊は実見してないから一概には信用できない。
0344人間七七四年
2007/03/30(金) 01:09:29ID:XstLZy2W>>337の宣教師の驚きも「こんな大きさの船はみたことがない」
って驚きともとれるよね
それを持って、信長が革新的な天才の一例とするには無理があるのでは?
信長の政策とか作戦とかには、革新的な部分は、少ないと思うんだが
むしろ、イデオロギー的な部分にこそ、革新的な面があったと思うよ
0345人間七七四年
2007/03/30(金) 02:07:58ID:DS+rHbr9それは>>337の言葉による説明で、
詳しくは
「王国(ポルトガル)の船にも似ており、このような船が日本で造られていることは驚きだ」
っていうことらしい。
信長が天才だといわれる由縁は、イデオロギーという部分もあるけど、それだけではなくて
戦で勝てる段階まで整える戦略面にあると思うね。
武田や上杉など力で勝てない段階にあるときは貢ぎまくって機嫌をとったり、
鉄砲の導入や安土城の築城などもあるし、鉄鋼船の例もある。
人材登用にしてもそれまでは家柄が良くなければ家老クラスまで出世なんて出来なかったのに、
信長の場合は極端に能力重視で登用していたしね。
使えるものは重用し、使えないものはアッサリ切り捨てる。
それを選ぶ目にしても実行するにしても信長ほど極端だった人は他にいないんじゃないかな?
信長が登場しなければ、戦国時代はもっと長引いて、日本の文化はもっと停滞してたんじゃないかと思う。
0346人間七七四年
2007/03/30(金) 05:33:48ID:HioPhrpB後、文化停滞はどうかな?
まあ秀吉の朝鮮出兵で陶磁器なんかの技術は飛躍的に上がったけど
(秀吉は信長が居なければ〜だから、信長の功績にしてもいいけど)
戦国時代は京文化が地方に流れていった時期だし、江戸時代は国内で爛熟していった時期だし
どっちがいいとは一慨に言えないし、長かったからどうなるとも言えない
0347人間七七四年
2007/03/30(金) 07:56:10ID:Gur5gyya0348人間七七四年
2007/03/30(金) 10:21:09ID:7wdCfhUU憶測ではなくてちゃんとしたソースがあるのですよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E7%94%B2%E8%88%B9
〜らしいとしたのはどの文献からの引用か不明だから。
信頼できるかどうかはどれだけ核心を突いているように思えるかどうかで
判断すればいいでしょ。
そもそも歴史の通説なんてころころ変わるし、その時代に生きた当事者でしか
真実はわからないわけだからな。
0349人間七七四年
2007/03/30(金) 12:57:37ID:1zpsWloS0350人間七七四年
2007/03/30(金) 13:00:55ID:PWbEBRbE朝鮮の役のとき秀吉が船の防護用として鉄板を出せ、と各地に指示したから、
そのころには船に鉄の防護版を張るのは普通な方法だったぽいし、
鉄を防御に使う障害は、たぶん技術的な問題じゃなくて予算的問題じゃないかと思うから、
「信長が鉄板張った船を発注した」というのはありそうなことじゃないかなぁ…
効果があったかどうかは別にして。
0351人間七七四年
2007/03/30(金) 13:20:58ID:7qJvNQHA■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています