【商魂】戦国時代における商人たち【経営】
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0001人間七七四年
2007/03/09(金) 21:14:41ID:9ThxcHozまた斉藤道三や小西行長のように商人から大名になりあがった人物。
戦国時代の「商法」「経営学」「交易のルート」など、商行為についての話題をここでしたいと思います。
また、合わせて「商人・資産家とされる戦国時代の人物のお金にまつわるエピソード」について語ってみませんか。
0002人間七七四年
2007/03/09(金) 21:31:11ID:OFGfmnys0003人間七七四年
2007/03/09(金) 22:51:48ID:4xrC0vUQ0004人間七七四年
2007/03/09(金) 22:58:07ID:m4WKt2DR0006人間七七四年
2007/03/11(日) 00:44:06ID:8gfIiuQOところで、もともと今井家は何の商売してたんだろ。
鉄砲屋しかイメージがない。
大坂の陣以後の江戸期にも繁栄続いていたのかな?
(小西行長の本家筋の薬屋は、江戸期も大坂で薬屋を営んでいた)
0007人間七七四年
2007/03/12(月) 01:07:21ID:y99GGXTJ武士並みに勇猛に戦うのが普通だったり。
0008人間七七四年
2007/03/12(月) 08:30:02ID:HLxwnbsZ0009中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2007/03/12(月) 09:25:28ID:BYA7b0uaやり方によっちゃもっと業務拡大できたんじゃないかな
0010人間七七四年
2007/03/13(火) 20:37:32ID:H6IFKeay階級は下の癖に、頭の上がらぬ存在だったんだろうなあ。
0011人間七七四年
2007/03/14(水) 15:43:15ID:Ad5Mm2uOいへやすは茶屋四郎次郎と懇意にしてたが
0013人間七七四年
2007/03/17(土) 14:51:23ID:HLBGFppm0014人間七七四年
2007/03/17(土) 16:57:02ID:/iFqkDHzなんでこんな変な名前名乗ってんの?
史板に聞きに行くのめんどいからおせーて
0015人間七七四年
2007/03/18(日) 21:41:33ID:iUtS93h3太郎の子が小太郎で太郎の孫が孫太郎
次郎の次男が又次郎で次男の三男が二郎三郎
いわゆる「輩行」って奴だな
0016人間七七四年
2007/03/18(日) 21:43:40ID:W4P9XR5h0017音楽奴隷 ◆5c/UstWSY.
2007/03/18(日) 22:02:13ID:aeUHCC550018人間七七四年
2007/03/29(木) 21:20:03ID:722Ebcoyうまくやれば血沸き肉踊る大河にもなりそうなんだが>小西行長
0019人間七七四年
2007/03/29(木) 21:32:42ID:EMP7VS6E行長の場合だと最終的な救いが宗教になっちゃいそうだからまた扱い難しいし。
0020九條殿@前関白 ◆1Ixlm5F0XU
2007/03/29(木) 21:55:32ID:/7EsixjR権力に求められるまま歴史の表舞台に登場するもその権力に一切屈することなく
己の信念を貫き茶の湯を究極の域にまで高め大成させた宗易とその悲劇
合戦描写が少なくなるかも知れないが
3話に一回くらい忠興が脈絡もなくブチ切れるとかにして臨場感を持たせる
ナレーションは山上宗二
0021人間七七四年
2007/03/30(金) 08:30:55ID:xZJmLXHe・・・いや、なんでもない
>>17
釘一本残らなかったらしいからな、売れる物は根こそぎかき集めていた
まあ、戦災の補填の一部くらいにはなるだろうさ
0022人間七七四年
2007/05/06(日) 00:36:02ID:ASY6ZRTh0023人間七七四年
2007/05/06(日) 01:39:57ID:TzJhXJJf会合衆による合議制だし
0024人間七七四年
2007/05/09(水) 23:31:31ID:xaP68LGIいつかって?
それは明治時代に江戸時代には存在しなかった
「士農工商」を宣伝するようになってから。
明治になって資本家と労働者の対立が激しくなってから
労働者が悔し紛れにその言葉を信じたがった。
リアル江戸時代には「武士」「町人」「農民」しかない。
考えても見ろ。農民より職人・商人が下なら
その下に被差別階級などいらないだろ。
0025人間七七四年
2007/05/11(金) 02:54:29ID:3nCNKLJO農民の子の加藤清正や福島正則が大商人の子の小西行長を
「商人上がり」と馬鹿にしているところを見ると、
そういう"風潮"は有ったのかもよ
0026人間七七四年
2007/05/11(金) 03:02:00ID:kpZTbWa6っていうか、体力バカは、よく知的だけど、運動神経の鈍いやつを
ばかにするようなもんだよ。
石田とか小西の経理系も、農民あがりの体力をバカにしてたみたいだから
単に種族の違うものを嫌悪してるだけでしょ。
0027人間七七四年
2007/05/11(金) 03:04:02ID:kpZTbWa6っていうか、福島・加藤の当時のDQNの意見を当時の風潮と
とらえるなんてあほちゃう。やつらこそ当時の風潮として
バカにされてたでしょ。
0029人間七七四年
2007/05/23(水) 01:42:25ID:PrDUaIJD南部支配下に入ってから衰退してしまって
名前の残る商人が出てこなかったってことなの?
0030人間七七四年
2007/06/28(木) 23:52:03ID:SGlKxviZ0031人間七七四年
2007/07/01(日) 03:25:20ID:+FhOatHU0032人間七七四年
2007/07/04(水) 21:51:02ID:wgnj5smv鴻池は父親が波乱万丈すぎるんだよなぁ。
0033人間七七四年
2007/07/24(火) 20:11:17ID:O5mFCXR30034人間七七四年
2007/08/16(木) 23:46:16ID:lso+8U1C全然違う。
だいたい日本では戦国時代どころか、最低でも室町から江戸時代まで、都市ってものの民生は
(村落もそうだが)ずーーーっと自治体内の有力者による合議で運営されてた。
上級権力が介入する事は殆ど無かったと言っていい。
あと、堺は基本的に三好氏の商業都市だけどな。最初信長に反抗したのもそのため。
バテレンが「堺は自治都市で〜」なんて、間抜けな報告書書いたのも、堺を指導していた
三好氏勢力が畿内追い出されたから堺の町衆がその自治のみならず、防衛や外交を
自分達でやらざるを得なくなったせい。それみてキリシタンバテレン勘違い。
0035人間七七四年
2007/08/21(火) 07:14:30ID:6YofpmJlだが、鴻池のような掛屋を兼ねた大坂両替商はその限りじゃない。
大坂両替商は諸藩の蔵物販売や代金送金を行っていたため大名の方も借金をチャラに
出来なかったのだ。彼らがいなければ藩の財政も儘ならない。
さらに、大坂両替商は諸藩の藩札の信用を地方の豪商とともに受け持つ事も多く、
藩経済に対する影響力もなかなかのものがあり、
「大坂豪商ひとたび怒れば、天下の諸侯恐れるの威あり」と言わしめた。
0036人間七七四年
2007/08/26(日) 04:02:15ID:rDIo3Ejmそれは戦場の死者の遺留品の掃除(強奪)は近隣の農民がやっていた。
そして骨董を扱う商人に売りつける。
いつどこで戦争があるか不明なんだから、それが効率的。
0037人間七七四年
2007/10/10(水) 16:48:23ID:oGz26LwK0038人間七七四年
2007/10/10(水) 17:57:00ID:eOrcaiZE0040人間七七四年
2008/01/20(日) 00:11:04ID:RUcDFe6Z0041人間七七四年
2008/04/24(木) 14:50:06ID:w7pLCVaH親父でしょ?商人だったのは。
0042人間七七四年
2008/04/24(木) 15:23:49ID:AC4t7AaM0043人間七七四年
2008/04/24(木) 16:22:01ID:4IaNQrlk小西行長は、若い頃堺の小西家から備前福岡の魚屋(とどや)に養子に入り魚屋弥九朗とよばれていた。
魚屋は宇喜多家の出入商人でその縁で織田家(秀吉)との交渉の副使を任され、宇喜多家に仕えるようになった。
高松城水攻め時は船奉行を務め後に秀吉が宇喜多家に行長を請い秀吉の家臣になった。
0044人間七七四年
2008/07/22(火) 02:04:24ID:8wtz8bSa0045人間七七四年
2008/09/27(土) 22:17:36ID:kbHjCSHa0046人間七七四年
2008/09/28(日) 10:47:04ID:2PCb0JDX武蔵:次原氏、長谷部氏、野中氏、山口氏
下総:福田氏、新井氏
安房:岩崎氏
駿河:友野氏、松木氏
甲斐:松木氏、坂田氏、田辺氏、田草川氏
下野:庭林氏
会津:梁田氏
0047人間七七四年
2008/09/29(月) 01:56:02ID:PJpZcXvt連雀商人も広域で活動していたので、今川義元などの大名は
その統制を行っているよね
0048人間七七四年
2008/09/29(月) 02:30:33ID:N4IOjbb50049人間七七四年
2008/10/04(土) 01:08:13ID:WH76WNMm商品流通を押さえるさらなるメリットが「税収」と「価格操作による利ザヤ」ですね。
0050人間七七四年
2008/10/04(土) 01:12:33ID:KMMByJPC0051人間七七四年
2008/10/04(土) 01:14:57ID:WH76WNMmその調達「資金」をどうやって確保するかですね、肝心なことは。
0052人間七七四年
2008/10/04(土) 01:41:08ID:NtnQKeCxその上、盗賊が頻繁に出没し命の危険すらある。
0054人間七七四年
2008/10/04(土) 09:20:01ID:G359Osug0055人間七七四年
2008/10/04(土) 10:48:25ID:KMMByJPC江戸時代です。
> 1730年に江戸幕府が、大阪堂島米相場会所に対し米の先物取引を許可したのが、日本での
> 商品先物取引の始まりである。これ以前にも、1568年に開設されたロンドン(イギリス)の取引所や
> 1531年に開設されたアントワープ(ベルギー)の取引所があったが、近代的な商品先物取引の嚆矢は
> 上記の堂島米会所といわれている。当時は現物の米の代わりとして契約数の書付けを交換し、
> 現在でも先物取引の契約数を「枚」と呼ぶなどその名残が残っている。
>
> 堂島米会所は、米を取引対象としていたので、当然、商品市場であるが、当時の日本で、米は貨幣的な
> 役割を果たしていたこと、金本位制と銀本位制が混在していたことから、米を仲立ちとして金と銀の
> 交換レートが実質的に決定されるという役割も持っていた。このことから、商品としての米よりも貨幣としての
> 米の側面が高く、実質的には商品市場というよりも為替市場として機能していたと分析する研究者もいる。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86%E5%93%81%E5%85%88%E7%89%A9%E5%8F%96%E5%BC%95
0056人間七七四年
2008/10/04(土) 20:50:02ID:G359Osugおおっ。丁寧な説明ありがとうございます。
日本の大商人は大抵相場でその身代を作ったイメージだったので、いつ頃相場が始まったか知れて勉強になりました。
戦国時代は投資は投げ銀くらいだったってことなんですかね?
0057人間七七四年
2008/10/05(日) 03:49:53ID:ByVI+pDC統治者にとっては旨味が多いですね。
街道や橋梁、港湾などを支配下に置けば、それだけで租税収入が得られますから。
0058人間七七四年
2008/10/06(月) 19:03:03ID:YNxqUHCg毎年の台風による河川の増水や高波のよる被害、地震等々を考えると、維持や修理の費用がかなりの部分を占めていたんじゃないのかなと。
0059人間七七四年
2008/10/08(水) 05:02:53ID:/p88S2Je維持・管理コストや普請の労働力をどこで確保するかですよね。
0060人間七七四年
2008/10/08(水) 05:56:06ID:/6fe4BVu利潤の多寡に関わらず、厳重な管理が求められただろうね。
0061人間七七四年
2008/10/08(水) 09:38:28ID:W2CT4zmt領民をタダ働きさせてたからそんなに維持管理費は掛からんよ。
0062人間七七四年
2008/10/09(木) 14:40:00ID:ZrJKyjBL0063人間七七四年
2008/10/10(金) 00:28:07ID:N2FPWHKC0064人間七七四年
2008/10/10(金) 10:11:25ID:MrdiCSaE0065人間七七四年
2008/10/10(金) 12:08:43ID:Gr+/n/0H0066人間七七四年
2008/10/11(土) 17:53:13ID:/3CFF7TLそういう要素もあるけど、一般の単純労働者の賃金なんて当時は元々大した事無かったんじゃないかと。
(全体から見れば。)
それよりも、職人工人などの専門的な技術者(集団)を抜きに建築建設は難しいし、そっちの方の費用はタダってわけには。
普請関係の談合は江戸時代かららしいけど、袖の下なんかはこの時代もあったわけだよねw
0067人間七七四年
2008/10/12(日) 07:52:17ID:H7w8cSBq職人工人は城下町に住まわせ、組織化する事で大名の支配下に組み込んでいったみたいだよ。
建築士にあたる頭脳は大名個人が持ってる事が多く、縄張りが出来ると浪人でも万石級のオファーがあった。
これは安土桃山以降になるから戦国時代かというとちょっと違うけど。
土木建築の技術は戦国大名にとってとても重要で、その有無が政治的評価になってたりするんだね。
でも治水の本格的な工事は安土桃山以降が目立ち、戦国時代にその例は少ない。
やっぱり軍備重視だと大規模な干拓や治水は出来ないからね。
名主の自主的な開発に任せるしかなかったのかな。
0068人間七七四年
2008/10/14(火) 19:08:23ID:4sgu2AoM確かに、道頓堀とかの○○堀は現代でも残っているけど、安土桃山〜江戸以降のものが大半ですね。
0070人間七七四年
2008/10/15(水) 00:27:03ID:RuVhJhZU信玄の治水事業なども一代でやり遂げたわけではないしねぇ。
0071人間七七四年
2008/10/15(水) 18:42:39ID:5Q5tJwbL(河川航行にも関所はあったし、田畑への利用、漁業権的な縄張りとかの色々な取り決め。)
学生の頃、中世史やってた奴に色々聞いたんだが、酒の席だったんでうろ覚え。スマヌ
0072人間七七四年
2009/01/02(金) 22:45:41ID:hmrtlV5P■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています