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石田三成は女だった

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0001人間七七四年2007/03/05(月) 02:23:01ID:kkU1I50N
福島正則・加藤清正との争いは痴情のもつれから
0002人間七七四年2007/03/05(月) 02:26:09ID:kkU1I50N
関連スレ

織田信長は女だった
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1171281420/


↓顔の人
0003人間七七四年2007/03/05(月) 02:56:16ID:2HiN3S8A
\(@∀<)b
0004人間七七四年2007/03/05(月) 03:27:48ID:UWyqP2dT
(o´Å`o)
0005人間七七四年2007/03/05(月) 12:23:02ID:GM5XPL0Q
女だったらどうなるんだ
0006人間七七四年2007/03/05(月) 12:34:35ID:sqjNtACg
いい加減にしるwwwwww
0007人間七七四年2007/03/05(月) 16:38:54ID:uAapteq4
そもそもお茶の温度の機転だけで取り立てるなんてアリエナスw
よっぽど可愛かったに違いない。清純派美少女。
寺から払い下げを受けた秀吉、さっそく初夜権を行使。

女としての楽しみも覚えた美津たん、ある夜の太閤殿下との寝物語で朝鮮出兵を要求。
その代価として大サービス!
大喜びの秀吉は子種を大放出。なので秀頼はもちろん美津たんの子。

三成として出てくる男は全員影武者。架空の武将と言った方がよし。淀殿は実は幽閉されていて、大阪城に入ったあの女性こそ、秀頼生母・美津たん!
0008人間七七四年2007/03/05(月) 17:52:54ID:PrW29u4K
まぁ、実際、156cm。遺骨の鑑定をした偉い先生が、
最初、女骨かと思ったという華奢さだったそうですが。
0009人間七七四年2007/03/05(月) 19:13:12ID:rTbAsSDp
そんなわけないだろうが!もうこのスレ終わり
0010人間七七四年2007/03/05(月) 19:40:13ID:uAapteq4
美津たんが佐吉という男名前でお寺で奉公していた頃のこと。
鷹狩りの最中に休憩に立ち寄って喉がカラカラだった秀吉に、ガブ飲みできる温めのお茶を出し、
以降2杯目、3杯目と徐々に本格的な味わいのある熱い茶を差し出す美津たん。

このこまやかな気遣いは女性にしか考えられない!
しかも戦国時代随一の美少女ぶり。好色な秀吉が触手を伸ばさないわけがない。
その日のうちに大量のお布施と引き換えに寺から請け出された美津たん。あっという間に、秀吉さまのお相手を仰せつかるようになりましたとさ!
0011人間七七四年2007/03/05(月) 20:05:50ID:o8nEQtnu
そんな無茶な
0012人間七七四年2007/03/05(月) 20:21:36ID:+FfIU4qT
でも寺小姓ってのは元々坊主の性欲処理の為に置かれた者だから
初体験は秀吉じゃないよ
0013人間七七四年2007/03/05(月) 20:41:03ID:uAapteq4
羽柴のお殿様の妾になって、運命ががらりと変わった美津たん。
寺での目も当てられない貧乏暮らしから一転、お城での豪華な生活。

秀吉様の夜のテクニックは最高、しかも各種の媚薬や強壮剤が使い放題。
美津たんはすぐに女としての官能のとりこになりました。

若い美津たん、殿のご寵愛によるあまりの悦楽に導かれて、子供も産みました。
でもねね様の手前、みんなお寺に預けたり、身分を隠して商家に養子に出したり…。

後々、太閤殿下からあまりに愛されてるので、嫉妬深い淀殿のいじめに遭いました。
でも、殿下やねね様がかばってくれて、憎い淀殿はついに幽閉されました。

替わりに美津が淀殿として大阪城に入り、秀頼はあとつぎになりました。
0014人間七七四年2007/03/05(月) 21:34:51ID:uAapteq4
石田三成という武将として史記に登場するのは全部架空の記録か影武者なわけだが、
ここでその一人一人について順を追って見ていくことにしよう。

まず第一はシズガタケ七本槍の三成。

これについては、従来の三成男性説の中でも、実際に手柄を立てたという説と、
政治方面での才能を見込んだ秀吉が名前を入れさせたという説がある。

しかし実際には、美津たんの美貌を惚れ込んだ無名の武者が大手柄を立てたと見るのが正しい。
彼は褒美として美津たんを妻として下賜されるよう願い出て無礼討ちとなっている。

しかし、後になってこのことを深く後悔した秀吉が、美津たんから名を取り、
石田三成という架空の武将を七本槍の一として勲功抜群と称した。

秀吉が彼の菩提を篤く弔ったことは漏れの脳内で有名な事実であり、
のちに美津たんとの子の出家先として選んだことも深く頷けるところである。
0015人間七七四年2007/03/05(月) 21:54:42ID:wKYTBHrI
>七本槍
最低限の知識くらい持てよ基地外wwww
0016人間七七四年2007/03/05(月) 22:26:25ID:uAapteq4
>15

とんでもない小火だな。仮想スレでディテールをつついて基地外呼ばわりとは。

いったい何がそんなに気に食わんというのだ。三成の戦績についての記録をオレが詳しく知らんからか。
知識といっても文献史学や考古学などからの伝聞にしか過ぎんだろ。それを事実だと言い切れるのか?

自分が信じるに至っている内容が、絶対の事実や「最低限の知識」と言い切れるのか?
それこそ文献や小説や大河ドラマに出ていたからか?

仮想スレの楽しみ方について勉強支那押して鯉。
0017人間七七四年2007/03/05(月) 22:53:59ID:35M2GKh+
もう戦国武将は全員女でいい
信長も秀吉も家康も信玄も女な
0018人間七七四年2007/03/06(火) 07:44:57ID:dRhZxdrs
通説では、石田三成という男はたった一人の妻を相手に、
十数人の子を産ませたということになっているが、いくら何でも不自然w
真相は、その多くが影武者の子で、5〜6人が秀吉と美津たんの子とみるのが正当。

前述の通り秀吉は手討にしてしまったあの無名武士の菩提を篤く弔っているし、
後年、それらしき子弟を二人、この菩提寺に預けているようである。
いずれにせよ架空武将・三成の生い立ちとしては、美津たんのそれが伝承されているし、
記録上のその戦績は全て影武者(名跡を継いだ武将と見てもよい)が挙げたものか、
美津たんの手前もあり罪滅ぼしがしたかった、秀吉による捏造である。
0019人間七七四年2007/03/06(火) 07:45:41ID:dRhZxdrs
通説では、石田三成という男はたった一人の妻を相手に、
十数人の子を産ませたということになっているが、いくら何でも不自然w
真相は、その多くが影武者の子で、5〜6人が秀吉と美津たんの子とみるのが正当。

前述の通り秀吉は手討にしてしまったあの無名武士の菩提を篤く弔っているし、
後年、それらしき子弟を二人、この菩提寺に預けているようである。
いずれにせよ架空武将・三成の生い立ちとしては、美津たんのそれが伝承されているし、
記録上のその戦績は全て影武者(名跡を継いだ武将と見てもよい)が挙げたものか、
美津たんの手前もあり罪滅ぼしがしたかった、秀吉による捏造である。
0020人間七七四年2007/03/06(火) 08:09:15ID:tORQPlYr
大谷とはバトロワの杉村&千草的関係キボン
0021人間七七四年2007/03/06(火) 20:36:29ID:TRomGOjl
次に、小牧・長久手における三成について。
この戦は、二つの意味において特殊なものであった。

一つは、本物の美津たんが石田三成として戦場に出た唯一の戦いであること。
もう一つは、美津たんが褒美として他の武将に下賜されるという約束がなされ、
秀吉のもとから手放されかけた唯一のケースであることである。

柴田勝家や織田信孝・滝川一益など、旧織田家中での反対勢力の
大部分を一掃した秀吉だが、今度は家康が織田信雄を擁し挙兵した。
厳しい戦いになるのを見越した秀吉は、総力を結集して迎え撃った。

この戦で、信長子飼いの功臣である池田恒興と森長可が討ち死にしている。
これについて従来の学説では、激戦のせいで偶然死んだのだという立場と、
織田家の重臣である彼らを煙たがった秀吉が仕向けたのだという説がある。

しかし、こうした俗説をなす学者たちは、重要な事実を見過ごしている。
石田佐吉こと傾国の美女・美津たんの存在を全く忘れているからである。
以降、その詳細について順序だてて説明していこう。

この戦いの勃発にさきがけて、美津たんに第一子の妊娠が判明した。
もちろん秀吉との間の盛んな夜の営みの結果である。二人は大喜びだ。
夫婦の素晴らしい愛と快楽とは、神秘なる生命の受胎をもたらしたのである。

しかし、当然のことながら美津たんは秀吉の正室ではない。
糟糠の妻・ねね様がいらっしゃるし、他にも立派な家柄の側室もいる。
美津たんは石田家の娘だが、寺に預けられ男の子として扱われた身分である。

そこで秀吉は、美津たんを身重のまま他の武将に与えてしまおうと考えた。
そうすれば羽柴家の中での序列や跡目の争いは避けられるし、
生まれた子が男ならば無理やりその武将の嫡子に据えてしまえばいい。

早速、今回の戦いで勲功一番の者に美津姫を下賜するというお触れが出された。
さらに、そこで目をつけられたのが、恒興と長可の二人である。
秀吉はこの二人には特別に長く美津たんとお目通りの機会を与えたし、
戦陣でも三成として出陣する美津たんの護衛を命じ傍近くにはべらせた。

二人は、美津たんの魅力にすっかり取りつかれてしまった。
もっともこれには、この両名は小娘にうつつを抜かして命を落とすような
腑抜けではない、と指摘する向きもあって、真相は確定していない。

あるいは彼らは、秀吉政権下での自分の家の安定のためと、
あとは美津たんの美貌と器量の良さに冷静に目をつけて、
自分の息子の嫁として美津たんを貰おう、と思ったのかも知れない。

それはともかく、結果としてこの二人は戦死してしまった。
秀吉もそれ以来、美津たんを三成として戦場に出すことも、
賭け物にして武勲争いをさせることもしなくなったということである。
0022人間七七四年2007/03/06(火) 23:32:30ID:5w2oJDFy
美津が一番いっぱいせっくるしてたのは左近でしょ?左近じゃないとやだ
0023人間七七四年2007/03/07(水) 00:36:32ID:IoV/GQAW
いやいやいや。そこは大谷吉継だろ。
病が移るから・・・と拒否する吉継に迫る三成。
0024人間七七四年2007/03/07(水) 08:52:30ID:Dw7pZsW0
俗説では、石田三成という武将の生年は1560年であるとされることが多いが、
それは秀吉による捏造か、またはいずれかの時点での影武者の年齢からの逆算であろう。

秀吉との出会いや出産、また(女性としての)表舞台での活躍年代から考えて、
早くても1565年以降とするのが妥当である。すなわち阿茶の局とほぼ同年代である。

さて、家康との戦いで、秀吉が美津姫を「下賜」しようとした武将がもう一人いる。
信長の次男、織田信雄である。
この頃の秀吉はまだ、色に溺れきるより、政治的観点から女性を扱う冷静さも見られる。

大敗し二人の戦死者まで出しては、早めに戦を収束させなければ、国内の統率に関わる。
そこで懐柔の対象とされたのが信雄である。秀吉は機会を捉えて、美津姫を送り込んだ。

当時、確実に妊娠していた美津を相手に、信雄がどこまで為し得たかは疑問が残る。
しかし、二人きりの部屋から美津姫の艶やかな嬌声がしたとの証言は残っているし、
後年、信雄自身もその時のことを側近に漏らしていたようである。

何はともあれ、美津姫は信雄に引き取られることなく、秀吉のもとに帰還した。
0025人間七七四年2007/03/07(水) 09:25:06ID:PYz/Mx9Z
純粋にネタスレとして楽しみたいんだけど長文厨がキモくて楽しめない…
0026人間七七四年2007/03/07(水) 14:05:58ID:QEB++iFA
さこんとみつたんはなかよしトゥナイト
まくらのなかはあぶらげでいっぱい
0027人間七七四年2007/03/07(水) 20:52:12ID:Dw7pZsW0
寝上げ
0028人間七七四年2007/03/08(木) 08:46:10ID:WU8P4HAe
エロ小説よりレポート書かなきゃ
0029人間七七四年2007/03/08(木) 09:31:33ID:tU2rSe+T
それより小学生〜中学生向きの少女漫画雑誌
「りぼん」の附録がエラいことになってるんだが
ttp://file.mootoko.blog.shinobi.jp/up33332.jpg
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