戦国ちょっといい話
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0001人間七七四年
2007/02/23(金) 22:33:24ID:OA17Uaqt0002人間七七四年
2007/02/23(金) 22:39:51ID:h1u8d7l0そんな忠告を無視し無謀にも3倍の兵力に喧嘩を売りボロ負けして奮戦したものの武将1人死んで壊滅状態で帰ってきた自分の軍
普通はここでブチ切れるか見捨てるかなのに何も言わず更にはそいつがピンチに陥った時に大軍を率いて駆けつける・・
信長マジいい奴じゃん
0003人間七七四年
2007/02/24(土) 02:05:11ID:4R0Iz8uw0004人間七七四年
2007/02/24(土) 03:13:27ID:mG1IIf9w無類の大酒飲みで福島正則にすすめられた大盃の酒を見事に飲み干し名槍・日本号を賜った逸話は『黒田節』(『筑前今様』とも呼ばれる)として今も語り継がれる。
無分別で向こう見ず、わがままな性格で武辺一筋の男だったが主君の如水は必ず役に立つ漢だと信じて重用し、生涯で76の首級をあげた家中随一の猛将として黒田家の筑前入国後に18000石を得た。
死の間際に少壮の頃に如水に「兄と思い、兄弟一体となって奉公せよ」と命じられたその兄貴分の栗山利安の見舞いを受けた。
その時友信は「これまではおこがましいと思い口にはせなんだが、御身の恩により人となることができた」と言って手を取り共々に号泣したと伝えられている。
母里と栗山は、張飛と関羽みたいな間柄だったのかな?ムチャクチャな母里を栗山がいつも制して面倒を見て、みたいな…
それを考えたら母里の臨終の際の逸話は何だかホロリと来ます。
0005人間七七四年
2007/02/24(土) 07:03:58ID:YLe8txzl; ' ヽ
.;' ヽ ヽ
; ヽ )
; .,, ノ ,.==- =; ☆
( r| j. 'uー、 ,,.=f ∠
': ヽT  ̄ i } ___×
ノ . i ! .r _ j / \〜〜/
彡 | \ 'ー-=ゝ/ =ャ =ャ ノ') |(ヽ
人、 \  ̄ノ / /. | |ク
-‐  ̄ ' ーイ ̄ー-- 、 ノ 入.|.|( }
母里太兵衛(1556〜1645)
0006人間七七四年
2007/02/24(土) 13:22:07ID:zndyjgTw信長厨って訳わからんところに感動するよなw
普通、信玄が対家康戦に全生命力を注ぎ込んだおかげで救われたと見るから、
何も言えるわけないだろ
0008人間七七四年
2007/02/26(月) 01:22:06ID:HNOYswQm0009人間七七四年
2007/02/27(火) 09:20:20ID:cYHNmDA6どんなの?
0010人間七七四年
2007/02/27(火) 11:15:54ID:MbAiNPua上杉謙信が関東へ遠征を行った際、上野平井城主千葉采女が降伏し、娘の伊勢姫を人質として送ってきた。
謙信は伊勢姫を目にした瞬間に心を奪われ閨房に入れようとした。伊勢姫も何かと気にかけてくれる謙信に惹かれていた。
だが重臣柿崎景家に「降将の娘を娶るのは傾国の元である」と諫められ、謙信は思いとどまった。謙信のもとに嫁ぐのは叶わぬ思いであると悟った伊勢姫は落胆し、青龍寺に入って剃髪しまもなく世を去ってしまう(一説には自害)。
これを知った謙信は深く悲しみ、生涯不犯の思いをより強くしたという。
何度も言うが真偽は定かではありません。
0011人間七七四年
2007/02/27(火) 12:22:32ID:4NuuaG+l0012人間七七四年
2007/02/27(火) 13:29:28ID:MbAiNPua大谷吉継の鼻水話?
0013人間七七四年
2007/02/27(火) 15:02:56ID:GgaN+b7M0014人間七七四年
2007/02/27(火) 18:01:36ID:dctY35Ay0015人間七七四年
2007/02/28(水) 23:33:11ID:i+CRI3+Rそりゃギリシャでも有名な話だな。
10年たっても里見は小田原城を落とせず北条に勝てないでいた。
そこで巨大な木馬を小田原城の近くにおいて船で撤収。
北条軍は木馬についていた札を見て里見は撤退したんだと思い木馬を城内に入れてしまった。
勝利の宴が終わった真夜中に木馬から里見軍が行動を開始。
姫を救いだし、見張りを殺して近くに隠れてた里見の水軍を呼んで小田原は火の海とかした。
0016人間七七四年
2007/02/28(水) 23:43:32ID:cRMcc1rf0017人間七七四年
2007/02/28(水) 23:52:06ID:bCEgIDWq足利義明の娘、鎌倉尼五山の一位太平寺住持・青岳尼のことだろ。
実際は青岳尼を奪うためだけに鎌倉に上陸したわけではないようだ。
戦国恋愛物語として脚色されてるきらいはある。
詳細は(有隣新書「太平寺滅亡」三山進)でも読んでくれ。
0019人間七七四年
2007/02/28(水) 23:56:47ID:3obLOicD隆景「マジでもういいよ。無茶すんな。」
宗治「だが断る!」
0020人間七七四年
2007/03/01(木) 11:48:03ID:XHQnjNAbこれは近畿を平定し、信長の勢力が日に日に盛んになっていった頃のことである。
近臣たちがへつらって「このように強大になるとも知らずに平手政秀が自害した(政秀は若い時の信長の素行
を改めさせようと諫死した)のは短慮でした」というと、信長は顔色を変えて怒り、「わしがこのように弓矢を執れ
るのは、みな政秀が諫死したことのおかげである。自分の恥を悔やんで過ちを改めたからこそだ。古今に
比類ない政秀を、短慮だというおまえたちの気持ちがこの上なく口惜しい」と言った。
信長は事あるごとに政秀を思い出し、鷹狩りや河狩りに出たときなどは、鷹が捕った鳥を引き裂いては、その
一片を「政秀、これを食べろ」と言って空に向かって投げ、涙を浮かべたことが度々あったという。
0021人間七七四年
2007/03/01(木) 16:30:59ID:FQhm2BnZ0022人間七七四年
2007/03/01(木) 20:58:53ID:PS1CVjIN関ヶ原へとつながるわけだし
0023人間七七四年
2007/03/01(木) 23:15:06ID:0w4iNBRZ0024人間七七四年
2007/03/02(金) 06:45:06ID:GEh3EBk4まぁ戦国博士のおまえが言うなら間違ってないか
0025人間七七四年
2007/03/03(土) 09:10:12ID:c5VcC6v/0026人間七七四年
2007/03/03(土) 13:02:10ID:P7Zs6lZZそこに大谷の鼻水が… 〓 続く 〓
0027人間七七四年
2007/03/03(土) 13:09:33ID:P7Zs6lZZ「すまぬが湯をくれぬか、喉が渇いた」
「石田、これを飲め」
「おお大谷、かたじけない」
0028人間七七四年
2007/03/04(日) 10:55:23ID:jVKZdNQI0029人間七七四年
2007/03/04(日) 12:07:22ID:dUJDTyK/0030人間七七四年
2007/03/04(日) 12:48:07ID:tqBGfX9Yグレート小鹿がなにか?
0031人間七七四年
2007/03/04(日) 13:20:54ID:VT1/aFd8ちょwwwwww
0032人間七七四年
2007/03/04(日) 20:08:46ID:D7MrSMDk体が不自由そうで、普通恵んでくれる人を求めて移動するはずなのにいつも同じ場所にいたので気になった信長は近所の者に事情を聞く
するとその男は先祖の罪(源義経の母を殺した)でそこから動けない物乞いだという
ある日、そこに立ち寄った信長は近隣の人々を集めて反物を与え、その物乞いの暮らしが立つようにしてやってくれと頼んだ
天下を左右する大名が、乞食一人にわざわざ情けをかける姿に人々はありがたいことだと言い合った
魔王と呼ばれる信長の意外な一面を現すエピソード
0033人間七七四年
2007/03/04(日) 23:01:54ID:r5gHPvox藤堂高虎の軍に従軍していた藤堂高刑が吉継の小姓の湯浅五助を発見した時、
五助はうずくまっていたので勝負してみると五助は「待ってくれ。今、ここに主君の首を埋めたが、
主君の面容を敵に見せるは恥辱となるので埋めたのだが、私の首の代わりにここに埋めたことを秘して欲しい」
と頼んだのを高刑は「武士の面目にかけて他弁は致すまいぞ」と誓い、五助の首を取った。
このことを伏せ、主君の高虎に同行して徳川家康に見せると「五助ほどの者が主君の行方を知らぬはずがない。
もしかしたら五助は首を隠したのではないのか?」と聞くと高刑は
「私は知らない事はないが、五助と他弁をしないと誓って首を取ったので
このことはどなた様にも言えませぬ。どうぞ、私を御処分くだされ。」と言ったので家康は
「これほどの律儀者がいるとはな。首のありかを言えば高虎の手柄になる物を」と言って褒美を高刑に与えたという。
0034人間七七四年
2007/03/04(日) 23:46:52ID:xewO2Meq晩年は老いに勝てず、1人で起き上がり飯も喰えぬ有様だったという。
そこへ家臣の1人が「殿、戦で御座る!!」と告げると
城外で一斉に兵たちのトキの声が聴こえてきた
すると、今まで寝込んで起き上がれずにいた義弘の目がクワッと見開き
1人で起き上がり飯をたらふく喰らったという。
勿論、戦というのは、義弘を奮い立たせようとした家臣たちの嘘だった訳だが
老いても戦と聴くだけで奮い立った義弘の凄まじさが垣間見える逸話だね
0035人間七七四年
2007/03/04(日) 23:56:14ID:A0ndiNtvそれ見て政宗がドン引き
0036人間七七四年
2007/03/05(月) 00:06:30ID:mVrxP8Ch0038人間七七四年
2007/03/05(月) 09:34:52ID:Cm9vwNwe0039人間七七四年
2007/03/05(月) 19:19:55ID:YoQFh5Tn江守さんと中尾が収録中に大喧嘩で 若手有能ディレクターがパニクるようなもん
(昔ながらの人は またかw と思うだけ)
0040人間七七四年
2007/03/05(月) 19:26:41ID:daS9Iu1D何だ面白い喧嘩かよw
0041人間七七四年
2007/03/05(月) 23:38:18ID:ekD+ugRz0042人間七七四年
2007/03/05(月) 23:58:58ID:4RBUXT6r輝宗「政宗!わしに構うなー!撃てえぇぇー!!!」
カッコよすぎだと思う
0043人間七七四年
2007/03/21(水) 03:59:50ID:aN0Yi7WS前に何かの小説で秀吉が飲んだって読んだ気がしました。
0045人間七七四年
2007/04/19(木) 00:30:55ID:tB+DVSdj0046人間七七四年
2007/05/22(火) 17:09:28ID:cdSjjlts0047人間七七四年
2007/06/24(日) 19:57:52ID:VuJsiU9T実際は
輝宗「うわー、俺拉致られた」
政宗「ヒヒ…撃てぇっ!」
輝宗「ちょっ…ぐわぁー!!」
だったけどな。
0049宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/08/06(月) 02:30:52ID:O+SFZHhX家臣戸川秀安の息子孫六を助けたこと。
0050人間七七四年
2007/08/07(火) 15:20:55ID:Oa7Kwbjr黒門の戦いとか、唐入りで小西救援とか、関が原後の島津と合流とか
0051人間七七四年
2007/08/19(日) 07:32:34ID:zqsfKVqu0052人間七七四年
2007/10/06(土) 12:33:47ID:mnWlNcj/0053人間七七四年
2007/10/10(水) 15:28:25ID:oGz26LwK0054人間七七四年
2007/10/11(木) 16:26:21ID:HzmBeWdw0055人間七七四年
2007/10/11(木) 16:53:18ID:oxcwdwVP今に見てろ。今日一つも首を挙げられなくとも、次は十も首を取れるぞ」
そうして慰められた奴が見事武将を討ち取り刀を授けられましたとさ
…別にいい話じゃねぇな
0056人間七七四年
2007/10/11(木) 17:09:32ID:HzmBeWdwきっとみんなそうやっていいあっていきてたんだろうね。
0057人間七七四年
2007/10/14(日) 04:28:11ID:unPCZziN0058人間七七四年
2007/10/16(火) 22:53:45ID:AbgAATqf特に自害の時、兄の義久が放った追手がなかなか自分を殺してくれないので
自分で腹を切ろうとしたんだけど病気で刀が握れなかったから
そこらへんの石で頭をぶってみたけどやっぱり死ねなくて、しかもむちゃくちゃ痛かった。
その時に
「女性は子供を産むとき、死ぬような痛みを味わう。自分の死後はその痛みを少しでも和らげてやりたいものだ」
と言ったという。
0059人間七七四年
2007/11/02(金) 22:55:40ID:iTfQMC59/:::::::ヽ____/::::::::ヽ、
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0060人間七七四年
2007/11/02(金) 23:02:16ID:Ypc2+khU信長の横にいた家臣がその無礼を怒り殺してやる!といきり立つと信長はそれを止め「何の不安もない民のくらし…わしはあのような平和な国を作りたいのだ」と言ったと言う。
それを寝たフリをして聞いていた農民の顔は猿顔だった。
0061人間七七四年
2007/11/02(金) 23:24:03ID:+syzwGFg0062人間七七四年
2007/11/02(金) 23:33:21ID:KtETW5PHその家臣が酒持って海に飛び込んで
「船より泳いで参った!」
っていう奴か
0063人間七七四年
2007/11/02(金) 23:49:39ID:Ypc2+khU伊達輝宗の遺徳を慕い殉死が相次いだ。その中には低い身分から異例の出世をした者もいた。
謙信が佐竹義重の武勇をみて「我が武略を真に継げる人物はあなただけです。この長刀は老後に杖として使うつもりでしたがあなたに託そうと思う」と言って刀を贈った。
しばらくして手取川で織田軍5万を2万で破った謙信は死去した。義重はこの宝刀を大切に想い武神の魂としていつも手入れを欠かさなかった。
義重もいつしか歳をとり息子の義宣に我が武略の魂として長刀を与えた。
少し経ってから義宣に会った義重は何やら見た事がある刀を見かけて不思議に思って聞いてみた。「なんだその刀は見た事あるな?」
すると義宣はニコニコしながら答えた。「あぁこれは過ぐる日に父上からもらった長刀です。なんか長すぎて柄に収まりづらくて使いづらいから短く切断しました♪だいぶ使い易くなりましたよ!」
それを聞いた義重は悲しい表情をして空を仰いで「あぁ我が武神も去ったか」と嘆息した。その後義宣は常陸一国から転封され出羽秋田に飛ばされた。
0065人間七七四年
2007/11/04(日) 01:33:49ID:luPKBsQo0066人間七七四年
2007/11/04(日) 03:36:49ID:RhVo/1S4一国の大将が扱い易さを優先って・・・。
大将が刀持って戦う時点で負け戦な訳で・・・。
0067人間七七四年
2007/11/04(日) 05:00:54ID:ZvUB45gzたしなみとして大名が剣術をやるのはおかしいこととは思わんが
むしろ自ら切りかかって北条勢を七人だか討ち取った義重のほうが実際は・・・
関ヶ原の時も義重が口出ししたせいでどっちつかずな態度になってしまったしな
0068人間七七四年
2007/11/04(日) 05:30:53ID:fpD70y5Fそれやる人の違いで受け取られ方も違うんじゃない?
家康とかなら常に対処を怠らない例とかにされそう
0069人間七七四年
2007/11/04(日) 06:50:59ID:eBU6j+Zb0070人間七七四年
2007/11/04(日) 21:27:50ID:fWaDnDwh0071人間七七四年
2007/11/05(月) 01:20:58ID:Nbjn+SO40072人間七七四年
2007/11/05(月) 17:46:22ID:JDHDPfjo計画を随時見直す器量があるって話だろ。
高度経済成長期の高速道路計画を当初の計画通り引きたがっている奴に見習わせたいね。
0074人間七七四年
2007/11/29(木) 23:18:41ID:PiLPkE9l0076人間七七四年
2007/12/05(水) 07:36:52ID:aUdSVvTA伏見城に秀吉の安否を気遣い駆けつけた話。
又、その時のねねの放った言葉
『でかしたぞ 虎之助』
0077人間七七四年
2007/12/07(金) 08:25:01ID:rXtkUlcR0078人間七七四年
2007/12/07(金) 20:15:24ID:QgR+6BKz捜しに来た話は泣けた
0079人間七七四年
2007/12/07(金) 21:04:36ID:MxNDvGJG0080人間七七四年
2007/12/14(金) 08:17:54ID:dZDUB2DK0081人間七七四年
2007/12/14(金) 21:19:54ID:iPdqIKGe0082人間七七四年
2007/12/14(金) 21:28:52ID:+u5ssGaf0083人間七七四年
2007/12/15(土) 00:40:15ID:23irqrVa子供の時に歴史漫画読んで感動した
0084人間七七四年
2007/12/16(日) 01:17:46ID:ZgFpHUs70085人間七七四年
2007/12/16(日) 11:48:57ID:XHoSdCcR0086人間七七四年
2007/12/16(日) 17:08:09ID:jUyV9Epl敗色が濃くなった三好方の武将加賀須野与一高房は、追手の土佐勢から逃れるため、中富川に架かる橋の下に身を隠していたが、激戦つづきで風邪をひいていたので、
どうしようもなく咳き込んでしまった。橋上の土佐勢はすぐさま高房を捕えて首を刎ねたのであった。高房は死に臨んで「拙者は咳を止められず敵の刃にかかるが、
死後は咳で苦しむ人々を助けてやるのだ」と遺言したという。いまも咳止大明神はその地に祀られ、「せきどめさん」として親しまれている。
0087人間七七四年
2007/12/16(日) 17:38:05ID:y8htaFRT0088人間七七四年
2007/12/16(日) 19:03:55ID:jUyV9Epl0089人間七七四年
2007/12/16(日) 23:36:36ID:jW4n4EPS鬼武蔵と言われた猛将だが戸次川の戦いのさい敵将長曽我部信親を討ちとるが長曽我部の家臣谷忠澄が遺体の返還を願い出ると涙を流しその遺体を返還した
更に岡豊城まで僧を同行させた。
0090人間七七四年
2007/12/17(月) 02:45:39ID:NV4bBqEi0091人間七七四年
2007/12/17(月) 16:07:41ID:GuWE6vdG阿波へ侵攻したものの、新開道善が拠る富岡
(牛岐)城を攻めあぐんでいた。知勇兼備の
新開道善を降すには謀略しかない、と考えた元親は、
丈六寺において和談を開きたいと持ちかけた。
これに応じた新開道善は「四国平定のあかつきには
阿波のうち勝浦郡を与え、富岡城を安堵する」という
土佐側の条件を容れて両軍の和睦が成立した。
新開主従は土佐側のもてなしを受けてすっかり油断。
気持ちよく酔って城へ戻ろうとしたところを、
床下に隠れていた元親の刺客が主従を襲った。
謀られた、と新開道善たちは覚り、
数にまさる敵兵相手に勇戦したが、
たちまち全員斬り殺されてしまった。
この時、縁の板に血痕が飛び散り、
あとで拭っても拭っても落ちない。
そこで、縁からはずして、天井板にしたのだ、という。
新開忠之(道善)墓碑には「天正九年十月十六日」のことと刻まれている。
◆寺内を貫くように走る県道(堤防道路)の道沿いに
新開道善の廟所がある。現在では「禁酒の神さん」として親しまれ、
御神酒徳利を供えて願かけをする人もいるそうである。
0092人間七七四年
2007/12/23(日) 00:48:27ID:H4vgtw/D仇敵最上義光と争い西軍についたことにより改易され石見国津和野に流された。
配流先津和野の領主は宇喜多家の一族である坂崎直盛である。
後に坂崎直盛は大阪の陣で戦功をたてるものの、その件(俗に言う千姫一件)に
よって自害、改易となった。
坂崎直盛の十三回忌、彼の墓を立てた者こそ、誰あろう小野寺義道であった。
江戸幕府により取り潰しにあった者の墓を建てる者などなかなかいる者ではない。
配流時代に遇してくれた坂崎直盛の恩に報いるためのことであった。
後に、小野寺一族は津和野の新領主亀井氏の臣下となり厚く遇されたという。
0093人間七七四年
2007/12/24(月) 13:17:39ID:+XnDSDjrに勧められるも小さな岩屋城で700かそこらで島津の大軍相手に奮戦し
時間を稼いで全員玉砕。息子宗茂も島津軍を長期戦に巻き込み、豊臣軍の
九州上陸で撤退する島津軍への猛攻に繋げた話は泣ける。父招運の自己
犠牲が息子宗茂の運を招いた。
宗茂は関が原には西軍で参戦し(後方の為に無傷)撤退の際にボロボロの
島津軍と一緒になり「この機会に父上招運様の仇を討ちましょう。」と進言
する家臣の意見を退け、島津軍を警護して無事に九州まで送り届ける。その
後、東軍側から攻められた宗茂を救援する為に島津が援軍を送った話も良い
話では。
0094人間七七四年
2007/12/24(月) 13:43:21ID:04yOinvc0095人間七七四年
2007/12/24(月) 14:25:22ID:5763bfxN0096sage
2007/12/24(月) 16:08:33ID:viy/F7Oi0097人間七七四年
2007/12/24(月) 16:10:06ID:viy/F7Oi0099人間七七四年
2007/12/24(月) 18:37:43ID:mDspgypy最も、毒殺した後ろめたさから、ともとれるけどね。
0101人間七七四年
2008/01/04(金) 00:24:23ID:nSXe2Dkn初代木下延俊(ねねの甥)は遺言で日出藩3万石の内、1万石を嫡男俊治の弟
延由に分け与えるように江戸家老長澤市之丞に告げるが長澤は「かしこまり
ました。5千石を延由様に分けます。」と答え「違う1万石じゃ。」と主君
から言われるも「5千石確かに承りました。」と応えるのみで、遺言として
5千石を延由に分封した。
日出藩では延由は島津に助け出された秀頼が一子「国松丸」を延俊が自分の
子として匿っていた。との言い伝えが有り、その真偽は定かでは無いが長澤
市之丞は主君延俊の死後22年を経て徳川幕府から正式に延由の分封を認め
られるのを見届けると「切腹」して自ら命を絶っている。
日出藩3万石の内1万石までの分封で幕府から見咎められるのを恐れ、遺言を
変えて5千石にし、朱印を幕府から頂く事で自らの役割を果たし主君の命に背
いて5千石減らしたお詫びに切腹したのではなかろうか?
ちなみに幕府へ「延由」を延俊の弟「延次」として申告している。
0104人間七七四年
2008/01/21(月) 10:27:27ID:phXkk6ot0105人間七七四年
2008/01/21(月) 16:25:15ID:HJZ6a2SQ0106人間七七四年
2008/01/21(月) 20:08:34ID:D4r7+gMv『殿〜!今宵は栗酢益で御座いマス。』
『うむ!ならば休戦じゃ!足袋を用意せい!』
全米が鳴いたわ…。
0107人間七七四年
2008/01/21(月) 20:36:51ID:CaFm7dar停戦中に初めて日本でクリスマスパーティが開かれたのは有名な話
0109人間七七四年
2008/01/21(月) 22:06:54ID:ckQxaEiA0110人間七七四年
2008/01/22(火) 00:02:17ID:6wQKnb20大関に昇進したとき師匠の三根山は
「大受は良くしゃべったかい?そうか、そうか、なんのやましいこともないんだからね」とポロリ
0111人間七七四年
2008/01/22(火) 00:12:33ID:6wQKnb20千代の富士連勝中・・
アナ「この連勝はどこまで続くんでしょうね・・。
大鳴門親方(故人)「止めるっていっても、ガチンコの大乃国しかいないんだからね・・。」
おかげでその後二度と解説に呼ばれなかったらしい。
麗しき師弟愛
板井
大鳴戸親方は、「すまなかった・・・俺の力がないばかりに」と謝ってくれた。
私は、入門以来親方の事を増悪した事もあったがこの一言を聞いて許してあげる事にした。
0112人間七七四年
2008/01/24(木) 21:49:53ID:8FNmf2rqただ、色々説はあって、久秀の相手は三人衆だったり義継だったり
後、一時期信長と争った際にもクリスマス休戦があったとか(これは日付的に無理があるが)
初めてっていうのは大内氏領内っていう異説もあり
0113人間七七四年
2008/02/05(火) 23:33:03ID:k5mX57XW0114人間七七四年
2008/02/06(水) 00:24:00ID:nSI9whPX「姉か妹はいないか?」
0115人間七七四年
2008/02/07(木) 18:32:25ID:VLBPkDDt他にも死んだ平手の事をなじった家来を強く叱責する話もありますね
平手政秀の息子(孫?)を家康へ援軍として送り討ち死にさせてしまった信長の無念が聞こえてくるようです
0116人間七七四年
2008/02/07(木) 22:34:34ID:xDk3rSLG紀州の雑賀衆は元親に味方して、二千余の兵を援軍として送ったが、海が荒れて遅刻。
ついたときは、戦いが終わり、三好方の勝瑞城も落ちていた。
雑賀衆は遅参を恥ずかしがり、
「これから讃岐の三好方の城を攻めにいく」
といったが、元親は、
「志はうけとった。海をこえてはるばる来てくれたというだけで、十分にありがたいし、嬉しい」
といい、新たに阿波から紀伊にかけての海上の警備をたのんで雑賀衆を帰した。
そのさい、米二百石と馬、鞍、太刀、脇差しなどを、援軍のお礼として雑賀衆に与えた。
(南海治乱記)
0117人間七七四年
2008/02/08(金) 11:23:23ID:XFDlxjNE0118人間七七四年
2008/02/08(金) 14:03:57ID:ynMgaej+その雑賀が、本能寺前には織田方に付いてたのは皮肉だな。
0119人間七七四年
2008/02/08(金) 14:18:16ID:OmMwztJ8の話はネタではなく本当にあった話だ。
正確には「止めるといっても、一人しかいないんだから・・・」
アナ「・・・」
0120人間七七四年
2008/02/09(土) 18:48:15ID:br4oOdDzかねてより宗茂と新興があった東軍の大名のなかには彼の武名を惜しんで、
召し抱えたいというものも多かったが、宗茂はそのいずれも丁重に断った。
彼は、
「我が身惜しさに、太閤との誓いを裏切り、親しき友を討つようなものたちの仲間入りはできない」
といった。
そして、
「わしは天に誓って、わが生き方を恥じておらぬ。天運あれば、きっとふたたび立花の名を興す時がこよう」
と家来たちには言った。
しかし、その機会はなかなか訪れなかった。
宗茂は肥後を追われ、京都、江戸と転々と住まいをかえて、流浪した。
江戸の高田、宝祥寺の一隅を借り住まいとしていたころのことである。
宗茂が国もとを出たときの路銀はとうに消え失せ、主従は日々の米にこと欠いていた。
由布雪下、十時摂津ら、宗茂の家来たちは槍、甲冑も売り払って金銀を得たが、それでもなお食えない。
彼等は、宗茂に隠れ、傭われ人足や托鉢僧、ひどいものは乞食に身をやつして銭をかせぎ、なんとか日々を暮らしていた。
0121人間七七四年
2008/02/09(土) 18:48:59ID:br4oOdDz由布雪下らはありがたくそれを頂き、その飯で干飯をつくることにした。
干飯とは元来は陣中食であるが、平和な時代は、食べるものに無いときの備蓄食である。
つくりかたは単純。日に飯をさらして乾燥させるだけである。
秋晴れが続き、江戸ではしばらく雨がふっていなかった。
これならば大丈夫、と、由布らは、飯を干したまま、いつものように宗茂ひとりを寺に残し、みなで人足の仕事をしにいった。
ところが。
どういうわけが、この日にかぎって、天に雲わき、午後、にわかに雨がふりだした。
人足仕事は雨のために早く終わった。
由布や十時ら急いで、寺にもどった。
道すがら、
「しまったぞ」
と十時摂津がいった。
「飯はダメになってしまうだろうな」
十時は朝鮮・碧蹄館の戦さで武名をあげた男だが、このときは干し飯のこと頭がいっぱいであった。
雨にぬれれば、干し飯は食べられなくなる。それは一大事であった。
そして、この心配は十時ひとりのものではない。ほかの家来たちもそうだった。
「大丈夫だ」
と家来のひとりが十時だけでなく、自分をも励ますようにいった。
「殿は聡いかただ。この雨をみて、きっと干し飯を屋敷のなかにしまってくれている」
そのとき、最年長の由布雪下が、
「馬鹿なことをいうな」
と叱った。
「馬鹿なこと?」
十時や家来たちは驚き、由布に問い返した。
「そうじゃ」
由布は言う。
「大将は雨をみて、兵を考え、民を思うものじゃ。殿は大明まで知られた日の本一の大将ぞ」
もし、と由布はしわがれ声をくぐもらせていった。
「目前の干し飯などという些事に心を奪われるようでは、殿の人品、地に落ちたのじゃ」
十時らは黙った。
「もし、そうであれば、立花の家が再び天下に立つ日などない」
「そのとおりじゃ」
十時は顔をあらためた。
他の家来たちも、みな静かに深くうなずき、みな一様に暗く、神妙な顔になった。
祈るような気持ちで、家来たちは、寺の門をくぐった。
雨は激しさをましていた。
萩の花のさく庭をみた。
板の上のならべられた握り飯は雨にうたれている。
みるも無惨に崩れ、あるいは流れ、地面におちて、泥にまじっていた。
家来たちは呆然としてそれをみたあと、屋敷のほうへ顔をむけた。
そこでは宗茂は端然として書見をしていた。
「殿!」
十時が吠えた。
大きな身体をふるわし、手を雨の中にあげ、万歳、とさけんでいた。
ほかの家来たちも声をあげて叫び、笑った。濡れた飯をすくいあげて、雨になげるもの、抱き合って泣きあうもの。
宗茂はわずかに顔を庭にむけると、書見をやめた。立ち上がった。
「爺」
といった。
ひとり、天を仰いでいた由布雪下がその声に、その皺と戦さ傷だらけの顔をむけた。
「なんだ、みなは、雨がそれほどうれしいのか?」
「そうですな」
由布の頬に涙が雨とまじっている。
「うれしいですわい」
0122人間七七四年
2008/02/09(土) 19:09:56ID:br4oOdDz誤字です。
120
新興→親交
0123人間七七四年
2008/02/09(土) 19:46:33ID:zObmg3rQ0124人間七七四年
2008/02/09(土) 20:52:51ID:wjBTXWHo前述の立花宗茂の父親・高橋紹運があばた面になっても結婚を迫った話とか。
明智光秀も似た様な話あったしなぁ。
0125人間七七四年
2008/02/09(土) 21:54:26ID:QCD0h5Rq宗茂は名将だが坊ちゃん育ちで生活力が無かったらしいから、
家臣も苦労したんだな・・・。
0126人間七七四年
2008/02/09(土) 22:51:35ID:lGoZtsvn「お腹壊してないからこんなにしなくて良いのに…」とか言ったらしいしな、宗茂。
まあ、大人物だよww
>>123
でも旧領にもどしてくれたよ。
0127人間七七四年
2008/02/09(土) 22:59:32ID:PGBpABlL大半は内職するか、親族の仕送りで凌いでたのに。
伊東さんみたいな人もいたけど……
0128人間七七四年
2008/02/09(土) 23:15:50ID:Jff7NhoL0129人間七七四年
2008/02/11(月) 00:58:35ID:SNhucDVi見るのが好きなのだ。どれくらい好きかというと、毎年、土佐国分寺の十七夜の法会に、土佐中の力自慢をまねいて相撲大会をひらかせていたぐらいである。
その元親の耳に、「相撲日本一」の名をうけた男がいる、という噂がきこえた。
(だれが日本一と呼んだのかはわからないが、信長もかなりの相撲好きだったので、
あるいは信長がそう名付けたのかも知れない)
和泉の住人、小島源蔵という男である。
元親は彼を土佐の岡豊に招いた。
(土佐には大男が多いときき、小島から出向いたという話もある)
土佐の男たちも興奮した。
「源蔵を倒せば、わしが日本一じゃわい」
と、みな腕まくりして、前浜にやってきた。
しかし、源蔵の姿をみて、多くが戦意喪失した。
元親に実際に仕えた高島孫左右衛門の「元親記」によれば、
この源蔵、190a近い大男で、しかも肥満し、ふつうの人の二倍の大きさの袴をはき、
歳のころは二十七、八だが、四十歳に老けてみえたという。
(老けてみえることが、当時は強さのバロメーターだったのか?)
それでも、何人かは実際に相撲をとった。
これが、子供が遊ばれているようで、全く歯がたたない。
0130人間七七四年
2008/02/11(月) 01:00:14ID:SNhucDVi戦さではない。相撲についての軍議だ。
「わざわざ土佐者の武勇をきいて相撲をとりにきたのに、相手になるものがいないといって、
このまま源蔵を帰すのは無念である。ましてや、武勇で知られた我が家で、
だれひとり敵わないとなったら、家の名が廃る。どうにかならんかの」
「さようですな」
家老たちは真剣になった。
そのころ、家中で身体が大きく、腕っぷしの強い侍といえば、
「荒切り」で有名な江村備後、その甥の江村右兵衛、や久万豊後、岩神三郎衛門らがいた。
このうち、一番背丈が高く、力が強いのは、江村右兵衛である。
「右兵衛の武勇は家中一です。彼が勝てぬなら、誰もかてませぬぞ」
とみな言った。
ところが、その右兵衛が青い顔をしていった。
「勘弁していただきたい」
「なぜじゃ」
と元親。
「拙者の家は長宗我部家の家老職でござる。もし、負ければ、お家の名に傷がつきまする」
「相撲は戯れ言じゃぞ」
「しかしながら、源蔵は天下をまわって相撲をとっている男でござる。天下の大名に、
拙者の負けがしられ、お家の名を汚すのを畏れるのです」
そのとき、末席にいた久武兵庫という若い武士が、
「ならば、私がやりましょう」
といった。
「おまえがか」
久武は武勇の士だが、小兵である。しかも、久武の家も、江村と同様、
家老職であった。
「自信があるのか」
「ああいう大男は、力にたよって、技をしりません。先に相手の腕をつかめれば勝機はあります」
元親は半信半疑だったが、しかし、面白い勝負がみられる、というのなら、それでよい。
「よし、やってみろ」
といった。
そのとしの夏、八月十八日。
岡豊城下の犬の場において、相撲大会が開かれた。
行事は元親の家中きっての猛将・福留隼人である。
源蔵は数人と相撲をとった。しかし、誰も歯が立たない。
そのうち、久武兵庫の出番となった。
源蔵は兵庫が小さいのをみて、もろ手をあげて掴みかかった。
兵庫はこれをかわし、手足で相手をあしらい、間合いをとって、
土俵のなかをぐるぐるとまわった。
源蔵がさらにつかみかかった瞬間である。兵庫は相手の手首をつかむと、
そのままひねりあげ、足をかけて、一気に転ばせた。
それがちょうど元親の目の前であった。
元親はさすがに喜悦をそのまま顔にださず、むしろ敗れた源蔵の大力をほめたが、
あとで兵庫をよびだし、
「戯れ言とはいえ、勝負じゃ。あっぱれ、見事だったぞ。家の面目もたもてた」
といい、知行を増やした。
ただし、元親はちゃっかりしていて、
「これでそなたが日本一だが、今後は相撲をとるな」
「なぜです」
「そなたが、日本一ときいて、また相撲を挑むものがあらわれる。一度、二度は勝てても、そうそうは勝てぬだろう。
勝ち逃げすれば、相撲が日本一強い大名は、長宗我部じゃ」
0131人間七七四年
2008/02/11(月) 01:31:07ID:Une0k/aI0132人間七七四年
2008/02/11(月) 10:35:09ID:507szaCj0133人間七七四年
2008/02/11(月) 16:19:28ID:IwG0y4p/0134人間七七四年
2008/02/11(月) 21:13:22ID:xbBW0jk6ちなみに仲介したのはルイス・フロイスだとか。
0135補足
2008/02/11(月) 21:16:44ID:xbBW0jk6どちらにせよ、一方の当事者は久秀。
何かイメージに合わないw
0136小林健悟 ◆J0KKAAAa3U
2008/02/11(月) 21:41:11ID:K5pSj+CA織田信長も宣教師と友好保ちたいのを知ってて、
久秀はルイスフロイスに頼んで休戦したのかな。
0137人間七七四年
2008/02/11(月) 22:02:23ID:angnrTkjなんかいいなあ
0138人間七七四年
2008/02/11(月) 22:21:43ID:OfmLqPRJ0139人間七七四年
2008/02/11(月) 22:24:52ID:OfmLqPRJ0140人間七七四年
2008/02/12(火) 00:50:46ID:1eppAz3kキリシタンに友好的な態度を示している。
0141人間七七四年
2008/02/12(火) 02:03:01ID:5Josafzy0142人間七七四年
2008/02/12(火) 13:24:58ID:Ae8IrA+b縄を打たれた盛政を見た秀吉は慌て、繰り返し謝罪し縄を解くよう御側衆に命ずる
秀吉は賤ヶ岳の盛政采配に感激し家臣になってくれと二時も口説き続けた
秀吉 「加賀、越後、関東好きなところをやる。頼む俺の家臣に加わってくれ」
盛政 「筑前殿の計らい誠に嬉しく思いますが、こたびの敗戦は某の責任でござる」
「勝家殿の恩を忘れる事も出来ず。某の命数が続けば必ず筑前殿の首を取ります」
ここまで明確に否定されて、さすがの秀吉も家臣化を諦め死罪を言い渡す
切腹を命ずるも断固拒否。市中引き回しの上磔を所望する盛政でした
そこへ盛政に討たれた中川清秀の息子が秀吉呼ばれ
秀吉 「この男がお前の父を殺したのだ。憎いだろう?」
息子 「いえ父上を討つ事の出来る武将は大変立派な武将と思います。勝も負けるも兵家の常、憎いなどと思いません」
盛政 「なんと立派な御子息をお持ちか。この方が我が娘の婿なら嬉しいかの」
数年後秀吉の勧めで仇同士の子供だった二人が婚約する事になりました
天国の盛政からみると「なんだあのサル結構いい奴じゃん」と思っていた事でしょう
※盛政を捕らえた農民ですが厳しい褒美が出されました
秀吉「農民の分際でなんと言う事をしてくれたのだ。お前らへの褒美は磔よ」
と全員死罪となりました
0143人間七七四年
2008/02/12(火) 13:41:18ID:6zB4poEt0144人間七七四年
2008/02/12(火) 13:47:50ID:EF2T3KE/いい話なのだが、これを見るだけでも太閤が百姓の出というのは、
ちょっと無さそうだな。
0145人間七七四年
2008/02/12(火) 14:18:18ID:nvqDIdHlその「盛政の娘」つーのが中川清秀の息子より10歳も年上だったというのも付け加えてやって下さいw
※ただし、年齢についてはガセ説もあり
0146人間七七四年
2008/02/12(火) 21:39:18ID:23zv5JA+「俺が漏らしたことにしてやるよ」
と言って馬を交換した話
0147人間七七四年
2008/02/12(火) 23:03:49ID:+wQtuA3A( ・ω・)=つ≡つ
(っ ≡つ=つ
/ ) ババババ
( / ̄∪
0148人間七七四年
2008/02/13(水) 11:59:22ID:8yQq65od急にレベルがさがって萎えた
0149人間七七四年
2008/02/13(水) 12:33:43ID:TFb30F/V0150人間七七四年
2008/02/15(金) 17:55:47ID:0uoVosyf0152人間七七四年
2008/02/15(金) 18:48:17ID:0uoVosyf0153人間七七四年
2008/02/17(日) 10:25:50ID:ypAyuJ3Oって、わざわざ止めるなよ>>151ただでさえ過疎スレなのに…
0157人間七七四年
2008/02/20(水) 11:52:46ID:+s/8Qs03古典を真似るという事(それが自身の生き方と合致したからというのは前提だが)はよくあったみたいだね。
0158人間七七四年
2008/02/21(木) 01:45:54ID:r0PIigKI敵方の超有名人真田幸村の娘
できすぎだろ
0159人間七七四年
2008/02/21(木) 10:41:28ID:Tzi/RAHC敵方の超有名人徳川秀忠の娘
できすぎだろ
0160人間七七四年
2008/02/21(木) 11:52:21ID:n0PrSX4/秀頼は千姫のことをとても愛しており、二人は仲が良かった。
千姫の髪を秀頼自ら切っているのを、侍女に目撃されている。
0161人間七七四年
2008/02/21(木) 12:49:41ID:L+pAfE1Oマジレスした>>160に全俺がない(ry
>千姫の髪を秀頼自ら
深曽木の儀式の事かな
0162人間七七四年
2008/02/23(土) 02:15:02ID:tqY2dWWe真田安房守昌幸は関ヶ原戦で見事、徳川の大軍を撃破するも、
主戦場で西軍が敗れたため、紀州九度山に配流された。
さいわい、長男の信之と三男の昌親が東軍についたため、真田の家名は残り、
また信之が昌幸に仕送りをしてくれるため、生活には困らなかった。
(もっとも大名生活が長かったため、無駄遣いが多く、随伴した信繁が困ったという)
昌幸はいずれ再び、天下に大乱がおきて世に出る日を願って日々をすごしていたが、
もともと老齢であるうえ、紀伊は雨がおおく、節の病に悩まされた。
昌幸は病床で手紙を書いた。
相手はかつての家臣の大熊伯耆守というものである。
彼は関ヶ原のあと、出家して夕庵と名乗っていたが、
いまだに信州に在し、真田家と親しかった。
「そこもとは不自由ないか。わしは万事不自由じゃ。
治りかけた病いもまた出始めて、散々の体となっておる。
愚痴もついつい出て、源二郎(信繁)にもたしなめられてばかりじゃ。
ところで、そちに頼みがある。
蔵人(昌親)に、持ち馬のなかでも特に爪がよく、悍の強い若駒を一頭、
わしのところへ送ってくれぬか頼んでくれ。
紀州までは骨折りだとはわかっておるが、たっての願いじゃ。
悍馬を見て楽しみ、病中の慰めにしたい」
九度山での生活も十年を過ぎていた。
老いて、病もあり、気力をなくしかけていただろう。
それでも、これではいかんと考え、
荒々しく元気な若駒をみて、家康を震え上がらせた往年の自分を思い出したい、
と願ったのかもしれない。
(脳中での昌幸の想像図は丹波哲郎でお願い)
0163人間七七四年
2008/02/23(土) 04:02:59ID:Q8mq32Sgはなしがいい話ということがああるが俺にはただのへたれとしか思えん
0164人間七七四年
2008/02/23(土) 07:52:48ID:DNeuvG6j0165人間七七四年
2008/02/23(土) 22:39:32ID:YduX162m井伊直孝の芋鍋とか
秀吉の牛蒡と農民の逸話とか
そんな感じの話、他にも有りますか?
0166人間七七四年
2008/02/24(日) 02:27:58ID:Mw5shG410167165
2008/02/24(日) 21:39:16ID:CSOemgdp考証とかソースとかあやふやなので、あくまで寓話的
なお話として、読んでください。
蒲生風呂(1)
幼少の頃からその才を、織田信長に認められた蒲生氏郷。
彼は若くして城持ち大名となった。だがそのため新たに多く
の家臣を雇ったため、古参の家臣に十分な恩賞を与える事が
できずにいた。
そんなある日、氏郷は手柄を立てた古参の家臣に言った。
「手柄を立てたお前に恩賞を与えたいが、あいにく金も所領
も無い。だがせめてその労をねぎらいたい。明日、我が屋敷
にお前を招いて、酒宴を開きたい。明日ばかりは戦も政も忘
れ、主従も忘れて楽しもうではないか。」
恩賞など思いもかけぬ武骨な家臣も、主君の心遣いに感激
し、この誘いを快諾した。
0168165
2008/02/24(日) 22:10:33ID:CSOemgdpあくる日、屋敷に赴いてきた家臣を氏郷は自ら出迎え、
こう言った。
「よく来てくれた。まずは風呂につかり、日頃の疲れを
癒してくれ。」
促されるままに風呂につかる家臣。しばらくして外から
氏郷の声がした。
「湯加減はどうだ?ぬるくはないか?」
家臣は、
「そういえば、少々ぬるい様でございます。」
と答えた。
「そうか、しばし待て。薪を足すからな。」
再び氏郷の声。家臣は思った。(妙だな、下人にわしが
直に申し付ければ良いものを…?)
いぶかしんで外を見た家臣は驚いた。薪を足していたのは
他ならぬ、氏郷であった。
「どうだ、湯は温まったか?まだぬるいか?」
脇目も振らず、一心に火を焚く氏郷。顔も手も、すすで
真っ黒である。
0169165
2008/02/24(日) 22:30:40ID:CSOemgdp家臣は涙で声も出ない。(氏郷さまが自分のために風呂を
沸かしてくれている。何と言う果報だろう!)
次第に適温を超え、熱くなる湯。だが家臣は涙が止まるまで、
風呂からあがる事は出来なかった。
以降、蒲生家では氏郷自ら沸かした風呂につかる事が、金や
所領に変えられぬ最高の恩賞となった。
家臣達はこれを「蒲生風呂」と呼び、これに入れた者は蒲生家
家中で羨望の眼差しと、尊敬を集めたのであった。
〜終わり〜
0170人間七七四年
2008/02/24(日) 23:43:11ID:55Ni4wbN0173人間七七四年
2008/02/25(月) 01:19:58ID:v3gTAO1wすごいなぁ。こんなエピソードあったらそりゃ意外と戦功ないのに名将扱いされるわな。
ノブレス・オブリージュという言葉がふと浮かんだけどちょっと違うな。
それはそれとしてこのスレの今後が楽しみだなぁ
1 6 5 三 部 作 の 残 り が 。
0174人間七七四年
2008/02/25(月) 07:06:08ID:r1wNkCjo0175人間七七四年
2008/02/25(月) 07:17:02ID:sCEZDaA0一存は兄弟が争うものではないと兄を城に送り出した。鴨部兄はいたく感激し、「今度会うときは戦場ぞ」と誓いあった。
そして鴨部兄弟は戦場で一存と戦い傷を負わしたが兄弟共々、一存みずからの手により討ちとられた。
0176人間七七四年
2008/02/25(月) 13:52:49ID:hM269Z8R風呂の価値はどれほどだったのだろうか?
0177人間七七四年
2008/02/25(月) 14:40:24ID:iXEB7j440178人間七七四年
2008/02/25(月) 17:26:47ID:y7ObxNu50179人間七七四年
2008/02/25(月) 18:13:36ID:r1wNkCjo0180165
2008/02/25(月) 22:02:49ID:bg+5s1AL稚拙な長文ですが、読んで頂ければ光栄です。
芋鍋(1)
徳川四天王の一人、井伊直政の次男である井伊直孝の
若き頃の逸話である。
直孝は父同様、その才覚を徳川家康に見込まれ、若くして
周囲に一目置かれる存在となっていた。
政務に勤しむ直孝に、ある老臣が声をかけた。
「直孝、お主の様な若者が仕事に励んでいるのは嬉しい。わし
たちも励みになる。そなたを見込んで話すが、実は我々年寄り
連中が集まり、二月(ふたつき)に一度、合議をしておる。
どうだ、お主も来ないか?」
聞けば、参加する者たちは徳川家古参の、歴戦の武将達だった。
直孝に否やがあろうはずも無く、喜んで参加を希望した。
0181165
2008/02/25(月) 22:46:21ID:bg+5s1ALさて、その日がやって来た。直孝にしてみれば、憧憬の的であった
武将達が集まり、ざっくばらんに語り合っている贅沢な酒宴だ。
ある者は手柄を立てた時の話、ある者は戦の仕様を考証し、ある者は
名高い武将と戦った時の思い出を語っている。一つ一つの話に直孝は
感銘を受けていた。
宴もたけなわとなった頃、大鍋が運ばれてきた。鍋の中には、よく
煮えた芋が入っていた。皆が思い思いに椀に取り分け、黙々と食べは
じめた。芋の入った椀が直孝にも廻って来た。一口食べた直孝は驚い
た。まったく味が無いのだ。それどころか、まるで泥を食べたような
土臭さであった。思わず直孝は言った。
「申し訳ございませぬ。この芋は、私には少々味が足りぬ様でござい
ます。塩か醤油はございませぬか?」
すると老臣は箸を置き、直孝に向き直ってこう言った。
「実はお主を誘ったのは、この芋鍋を食べて欲しかったからじゃ。」
0182165
2008/02/25(月) 23:24:37ID:bg+5s1AL老臣は続けた。
「家康公の若き頃は、我らは毎日このような味も無い芋鍋を
食べていた。そして今も徳川家のために働いてくれる足軽達、
田畑を耕す農民達の中には、この芋鍋すら満足に食えぬ者も
いる。我らはその事を決して忘れぬよう、こうして集い、芋
鍋を皆で食べているのだ。」
さらに老臣は続けた
「これからはお主のような若者が、徳川家の政事の中心となる
であろう。だからこそ、お主に伝えたかった。我らの手柄や戦
の仕様、ましてや、もうこの世におらぬ武将の話などでは無い。
この芋鍋の味を決して忘れてくれるなよ。」
直孝は芋をたいらげると、老臣達に深々と頭を下げ、言った。
「この味、生涯忘れませぬ。」
他の徳川四天王をはじめ、徳川創業の功臣の二代目が次々と冷遇
粛清されていく中、直孝は幕府の信任厚く、彦根藩主そして大老と
出世し、後に名君として歴史に名を残す事となる。
彼が名君となりえたのは、芋鍋の味を忘れなかったからかもしれない。
〜終わり〜
0183人間七七四年
2008/02/25(月) 23:27:29ID:CuyCmIJt0184人間七七四年
2008/02/25(月) 23:36:59ID:2Pg1oOwR0185人間七七四年
2008/02/25(月) 23:56:04ID:2AHSziks0186人間七七四年
2008/02/26(火) 00:17:22ID:P9VZodvV水を差すようで悪いが井伊直政の話じゃなかったか?
老将は大久保忠世で。
ウィキペディアにも載ってる。
0187人間七七四年
2008/02/26(火) 00:35:33ID:NQMU+PHB0188165
2008/02/26(火) 00:39:19ID:ta9QI9nZウィキペディアを見たら確かにそう書かれてました。
自分が覚えていたのは井伊直孝の話としてでした。
もし不快、不信に思われたのならお詫びいたします。
個人的に、寓話として考えていますので、詳細等を
検証していませんでした。申し訳ありません。
0189人間七七四年
2008/02/26(火) 00:59:06ID:pFZjfTiHだから>>167で「あくまで寓話的なお話」
って書いてるじゃん。せめて3部作全部書いてもらってから突っ込めよ。
秀吉と牛蒡と農民の話は他に知ってる奴いるのか…?
0190人間七七四年
2008/02/26(火) 01:04:20ID:IMBWUip30191人間七七四年
2008/02/26(火) 01:05:01ID:P9VZodvV不快になんて思ってないし糾弾しようとも思ってないよ。
wikipediaが間違ってる可能性だってあるしね。本当はどっちの話なのか知りたかっただけです。
逆に不快に思ったらごめん。評判いいみたいだから続けてくれ。
0192人間七七四年
2008/02/26(火) 19:38:01ID:UyaM/8pC死ね
0193人間七七四年
2008/02/26(火) 20:01:59ID:EtQP9Fq+力抜けよw
0194人間七七四年
2008/02/26(火) 20:06:29ID:ToqOw7Uq殺伐してんだね・・・帰るわ。
0195人間七七四年
2008/02/26(火) 20:41:47ID:UyaM/8pCお前もちゃんとレス嫁よw
0196人間七七四年
2008/02/27(水) 08:54:58ID:4oQ8gfb50197人間七七四年
2008/02/27(水) 10:08:54ID:o7cs3o1hみんな批判する時はちょっといい話風にアレンジするか
ちょっといい話してからにしようぜ。
0198人間七七四年
2008/02/27(水) 13:19:40ID:XBnAj46N0199人間七七四年
2008/02/27(水) 18:40:52ID:GV+bQUWr0200人間七七四年
2008/02/27(水) 19:32:05ID:Sk7WN71e「ある老臣」って書いてるのに、それは〇〇の事では?とか…
そんなの言われたら逸話やら、ちょっとした話しやら書けんぜ?
話しの善し悪しの議論はOKだが、内容が本当か嘘か?正確な話しか?
なんてのは無粋だと思うよ。
0201人間七七四年
2008/02/27(水) 20:57:18ID:ustTlmSK秀吉の逸話が聞きたい!!
0202人間七七四年
2008/02/28(木) 17:54:24ID:wwyr8Ipbどっちが正しいか人物想像する時は結構重要
0203人間七七四年
2008/02/28(木) 18:39:47ID:5AHVVbn8確かに一理あるね。ただ書く人も専門家は少ないと思う。
まあ前置きに>>167みたいに書いてあったら、突っ込まないほうが良いかと。
0204人間七七四年
2008/02/28(木) 18:45:47ID:yWbtjQSFただし逸話なんていい話も悪い話も結構使いまわされてるんだから
どっちも正しいこともザラだよ
親子とか、似た立場とかなら特にね
0205人間七七四年
2008/02/28(木) 19:43:16ID:wwyr8Ipb逸話を軽く見てる人が居たのでちょっとレスしてみました誤解してたら申し訳ない
0206人間七七四年
2008/02/28(木) 20:09:12ID:5T+XVqlIどっかいけ。
0207人間七七四年
2008/02/28(木) 23:30:46ID:ajpHTEoa下らんレスは俺で最後だ。いいな?
0209人間七七四年
2008/02/29(金) 00:33:18ID:+4DExott7年ほど前の正月休みに両親と尾張のサル実家(もんじゃ焼き屋)に
食べに行った時の話。
両親と3人で鉄板を囲んで食事をしているといきなりキングサルが
玄関から入ってきた。もんじゃ焼き屋に似合わないカブキ者ないでたちで。
サルが「俺いつもの〜」と言って二階へ上がろうとすると、
店内にいた足軽集団が「サルさん!」「サルさんかっけー!」などと
騒ぎ出し、サルが戻ってきてくれて即席サイン会になった。
店内に13、4人ほど居合わせた客全員に店内にあった色紙を使い
サインをしてくれた。
高校生達がサルの母校清洲城の足軽部だとわかったサルは
いい笑顔で会話を交わしていた。
そしてサルは「またな〜」と二階に上がっていき、店内は静かになった。
私と両親はサルの気さくさとかっこよさに興奮しつつ
食事を終え、会計を済ませようとレジに向かうと、朝日姫(カズ妹)が
階段の上を指差しながら
「今日のお客さんの分は出してくれましたから。また来てくださいね」と。
あれには本当にびっくりした。
0210165
2008/02/29(金) 07:51:10ID:y5aGk3HI>>191さん、こちらこそ、すみません。
多忙により、しばらく書けませんでした。
この話も考証等はしていません。ご考慮下さい。
秀吉と牛蒡(1)
羽柴秀吉が関白に就任し、豊臣秀吉と名乗り始めた
頃の話である。人臣の位を窮めた秀吉に、各国の大名
や豪商、有力者達が祝いの品を贈っていた。
その頃、秀吉の故郷である、尾張中村でも秀吉に祝
いの品を贈ろうと、農民達が話し合っていた。しかし
当時の尾張中村は寒村であり、特に名産も無く、農民
達は何を贈り物とするか決めあぐねていた。ある者が
言った。
「そういえば、秀吉様が墨俣に城を建てた時や、長浜
に城をいただいた時、この中村の牛蒡をお祝いとして
差し上げたら、たいそう喜ばれた。今度も牛蒡を贈っ
たら良いのでは?」
皆、(関白さまに牛蒡など…)と戸惑ったが、他に換
わる金品は無い。せめて丹精した牛蒡をと、農民達は
選りすぐった牛蒡を持ち寄り、村の代表者に託した。
0211165
2008/02/29(金) 08:21:03ID:y5aGk3HI大坂城に着いた尾張中村の一行は驚いた。城の大きさ、
賑わう人々、そして城に続く長い行列。皆、立派な格好を
し、金や刀や絹織物、中には精悍な駿馬を携えている者も
いた。すべて秀吉への贈り物である。みすぼらしい格好で
行列の端に並ぶ、中村の農民。そこに羽柴秀長の一行が通
りかかった。秀長は農民達の中に、見知った顔があった。
「おお!中村の者達ではないか、久しいのお!どうした、
なぜ大坂に?」
農民達は秀長に、秀吉さまに牛蒡を贈ろうと思ったが、
あまりにみすぼらしいので、貴方に預けて早々に帰りたい、
と伝えた。秀長は言った。
「ばかもの。はるばる尾張中村からの使者を無碍に帰せる
ものか。よし、わしと共に城に来い。」
秀長は農民達を連れ、城に入った。農民達は城の台所で待つ
よう言われ、しばらく待っていた。
0212165
2008/02/29(金) 08:48:51ID:y5aGk3HI台所の奥からドカドカと足音が近づいてきた。それは
秀吉であった。秀吉は駆けるように農民に近寄り、喜色
満面で言った。
「中村の者達、よく来た、よく来てくれた!嬉しいぞ!
それに、また牛蒡を持って来てくれたのだろう?ありが
たい、まことにありがたい。」
農民一人一人の手を取り、感謝する秀吉。望外の歓待
を受け、農民達も安堵した。酒宴が始まり、秀吉や秀長、
おねや母のなかも加わって、しばし時を忘れ賑わった。
あくる日、秀吉は帰ろうとする農民達に言った。
「お前達を手ぶらで帰す訳にはいかん。土産として、尾張
中村の年貢を永年免除とする。どうだ?土産になるか?」
農民達は秀吉に感謝歓喜し、意気揚揚と尾張中村へと帰った。
0213165
2008/02/29(金) 09:25:03ID:y5aGk3HIそれから数年経った。年貢が免除された尾張中村では、
農民達は裕福な生活を送っていた。ある者は家を豪華な
屋敷に造り替え、ある者は蓄財し、商いを始めた。
皆が再び集まり話し合った。
「わしらがこんな贅沢に暮らせるのも秀吉様のおかげだ。
お礼として何か贈ろう。皆で金を出し合って、刀や駿馬
を取り寄せよう。」
こうして農民達は立派な刀や精悍な駿馬を携え、再び大
坂城へ赴いた。
あの時のように、城の台所で待つ農民達。駆けんで来
る秀吉。農民たちは言った。
「秀吉さまのおかげで、我々も豊かに暮らせる事が出来
ます。立派な名刀と駿馬を買える余裕も出来ました。ど
うぞお納めください。」
すると秀吉は怒気を含めて言った。
「ばかもの!何故、牛蒡を持って来なかった!」
あっけにとられる農民達。秀吉は心底落胆して言った。
「墨俣に城を建てた時、長浜城主となった時、そして大坂
城を建て関白となった時。お前達はいつも牛蒡を持って来
てくれた。ありがたかった。まだ俺が中村の百姓だった頃
を思い出せた。」
0214165
2008/02/29(金) 09:48:52ID:y5aGk3HI秀吉は続けた。
「わしは武士となって、信長さまのもとで必死に働いた。命
がけで働き出世した。それは、わしは貧しい農民たちが戦な
ど無く、豊かに暮らせる国を造りたいと思っていたからだ。
だが、武士として働いている内にその思いが薄れ、民をない
がしろにしようとする。欲が出るのだ。」
秀吉は農民を見渡し、言った。
「お前達の牛蒡は、その欲を消してくれた。自分が偉くなる
度にあの牛蒡を食べ、農民達の事を思い出した。だからこそ
再び働き、出世した。そして今は日本の王として働いておる。
今こそ、この国の民達が豊かに暮らせる様にと思ってな。あ
の時の牛蒡はわしにとってどんな金品よりもありがたかった。
農民達の期待に応えねば。そう思った。」
0215165
2008/02/29(金) 10:23:00ID:y5aGk3HI秀吉は毅然として農民たちに言った。
「それなのにお前達は暮らしが豊かになると、百姓の基本
を忘れ、金品を集め刀や馬を俺に贈ると言う。そんな物は
大名か商人のすることだ。お前達が牛蒡を忘れる様な国を
造るつもりは無い。」
農民達は恥じ入り、秀吉に誓った。
「今度こそ、我々が丹精した尾張中村の牛蒡を贈ります。
われら必死に働きます。お許しくだされ。」
秀吉は言った。
「お前達の牛蒡、待っておるぞ。」
天下人となった羽柴秀吉は「豊臣」の姓を賜り、豊臣秀吉
と名乗り始める。秀吉は「豊臣」(しんをとませる)と言う
姓に、己の真の理想を見ていたのであろうか。
〜終わり〜
0217人間七七四年
2008/02/29(金) 17:48:27ID:70O2V7SO0218人間七七四年
2008/02/29(金) 21:45:09ID:aPQdYiT8乙!!!!
ただ後半はオイラの知っていたのと少し違う
農民達は恥じ入り、秀吉に誓った。
「今度こそ、我々が丹精した尾張中村の牛蒡を贈ります。
われら必死に働きます。お許しくだされ。」
秀吉は言った。
「許さん。お前達は奢ってしまった。年貢を永年免除は取り止めとする。精進せよ」
ソースは20年くらい前読んだ武将逸話集のオイラの記憶。
0220人間七七四年
2008/03/01(土) 06:49:35ID:a6bmDcrR初めて聞いたよ
確かに秀吉じゃないなw
性格的に信長あたりに感じる
0221人間七七四年
2008/03/01(土) 10:03:42ID:YUcp+Aga家康なら言うかもしれない、老臣と井伊の芋鍋の逸話があるからさ。
まあ秀吉らしい話だね。
0224人間七七四年
2008/03/01(土) 21:21:07ID:bXSxGPBu橋のたもとだったらしい。屋敷に呼んで引見するみたいな堅苦しい形式じゃなく。
0225人間七七四年
2008/03/01(土) 21:35:20ID:9Iinhq+T0226人間七七四年
2008/03/01(土) 22:49:10ID:rvpF2kxG黒人奴隷ヤスケの話は信長の人柄を感じさせるようでいいね。
0227人間七七四年
2008/03/01(土) 23:40:43ID:Bbw4Bzzz内政と戦の両輪で目の回るような忙しさの丹羽長秀を武田を討伐してもう後始末くらいしかやる事の無い
甲斐に派遣して「やる事が無い」と丹羽が連絡すると「そのまま草津に湯治に行け」と連絡が帰ってきたらしい。
まぁ、「下手な奴に任せるくらいなら五郎左に任せとけ」と言って丹羽の仕事を増やしてたのも信長なんだけどね。
0228人間七七四年
2008/03/01(土) 23:43:48ID:DeJJZELx0229人間七七四年
2008/03/02(日) 00:17:49ID:sS6hz24Z老臣と井伊の芋鍋の逸話と家康を結び付けるとかおかしいだろ。
>>227
その話は初めてだ。なんか戦国時代のツンデレみたいなエピだなw
0230人間七七四年
2008/03/02(日) 00:26:27ID:j0sBj4WX光秀の怨恨とはどうしても思えないんだよね
0231人間七七四年
2008/03/02(日) 00:45:49ID:RuAUMaHj0232人間七七四年
2008/03/02(日) 01:07:00ID:WbULzXh20233人間七七四年
2008/03/02(日) 04:09:07ID:9CHqtdsi家康は信長と逆で世間的にはいい奴ぶってるけど中身腐ってるイメージがある
0234人間七七四年
2008/03/02(日) 12:21:43ID:lDWhEOCM0236人間七七四年
2008/03/02(日) 15:15:45ID:9CHqtdsi0237人間七七四年
2008/03/02(日) 15:48:52ID:3J2971oz直家「わしが死んだら誰が殉死してくれるかなっ♪」
家臣「我らの代わりに坊さんを殉死させて、あの世の道案内させます」
直家「坊さんか…じゃあ殉死は禁止でいいよ…ショボーン」
という逸話はいい話っていうか、直家ちょっとかわいい。
0238人間七七四年
2008/03/02(日) 16:54:20ID:j0sBj4WX0242人間七七四年
2008/03/04(火) 18:28:56ID:rehVFhf9違うわ!幼い秀家を残して先立つから心配で一人でも多く家の人間を残すために殉死を遠回りに禁止したんだよ
しかし後に家臣団が分裂して御家騒動を招くある意味泣ける話し
0244人間七七四年
2008/03/04(火) 18:56:12ID:QpaBEaQI0245人間七七四年
2008/03/05(水) 00:46:39ID:+o13HlIF関が原後の大津城にて縛られた石田三成
藤堂高虎は三成を見るとすぐに馬を下りて、敗戦前の三成に接すると変わらず
「このたびの戦において貴公の部隊の戦い振りは、敵ながら誠に見事でござった。もし貴公の目から見て我が部隊の至らぬ点があれば、ぜひ御教授願いたい。」
と、慇懃に語り掛けた。すると三成は少し黙した後に
「されば貴公の部隊には鉄砲隊に高い身分の指揮者がいなかったように思えた。改善すれば鉄砲隊の威力も大きく変わってこよう。」
と答えた。高虎は三成の助言に感謝し、それから藤堂家の先手の鉄砲頭には千石以上の家臣を配するのをしきたりとした。
0246人間七七四年
2008/03/05(水) 01:11:46ID:OGy3fuUG0249人間七七四年
2008/03/06(木) 20:48:02ID:TzDlHsg6加藤嘉明にはある宝物があった。
それは南京の陶器である10枚そろった「手塩皿」。
大事な客が来た時は、いつもこの手塩皿でもてなしていた。
ところがある日、側近の若者が誤って皿を一枚割ってしまったのである。
若者は青くなり、打ち首になるだろうと死を覚悟した。
しかし嘉明は残りの9枚を持ってきて、なんと残らず全て割り始めたのである。
これには若者も驚いた。
すると嘉明は、
「残りの皿をそのままにしておくと、この皿を出すたびにお前は仲間から白い目で見られる。
だったら全て無くしてしまえばいいのだ」
と言って笑ったそうな。
0251人間七七四年
2008/03/06(木) 22:22:21ID:0JfMix+bやがて、棚にきっちり収まるという理由で
全巻揃えで置いてあった医学書の一冊を
同僚が持ち出した上汚されてしまう。
「買って返すよ」
「今では版が変わって表紙の色が違うんだ。
揃わないじゃないか!」
結局全巻を破棄する主人公。
廊下を直行するのを優先して患者を突き飛ばす等、
却って神経質な部分が先鋭化する。
0253人間七七四年
2008/03/08(土) 18:39:27ID:o43UDBHB249ではないが確か名将言行録が出典かと。
加藤嘉明つながりで一つ
あるとき嘉明の小姓たちが火鉢の周りに集まって火箸を焼き、
熱くなった火箸を灰に突き立ててそれを掴んだ人の反応を見ると言う
悪戯をしていた。
そこのやってきた嘉明。
「おまえたち、集まって何をしているのだ?」と言い、あろうことか火箸つかんでしまった。
しかし、嘉明は灰に「一の字」を書いて悠然と話を続けたという。
一説には、"火箸を掴んだ時、手から煙が出ていた"と言うが小姓たちに咎めはなかった
0254人間七七四年
2008/03/08(土) 20:10:37ID:nl1IT7aQなるほど、藤堂高虎と仲が悪いわけだ、と思うw
0255人間七七四年
2008/03/11(火) 20:46:16ID:dcy8dP3g0256人間七七四年
2008/03/12(水) 06:20:08ID:YAYrsoGu2人は、直接会うことはなかったが、互いに文のやりとりで思いを深めたという。
しかし、周知の通り、武田と織田はその後、敵対し、二人が結ばれることはなかった。
信玄の死後、武田攻めの大将を務めたのは、奇しくも信忠だった。
信忠の指揮により、武田は滅びたが、松姫は辛くも武州に落ち延びた。
その消息を知り、信忠は迎えの使者を出したが、松姫が出立せんという時に本能寺の報がもたらされたとの話も。
生家の滅亡、許嫁の死を背負い、松姫は誰にも嫁がぬまま、仏門に入った。
そして、武田家とともに、信忠の死を弔ったという。
さらにその傍ら自ら織物をするなどし、落ち延びる際に連れて行った兄・勝頼と盛信の幼い姫のみならず、
土壇場で武田家を裏切った小山田信盛の姫も、別け隔て無く育てたという。
0257人間七七四年
2008/03/12(水) 10:11:47ID:18k4JdmL煙が出るくらい熱されてたら色変わってるわ
馬鹿だろwww
0260人間七七四年
2008/03/12(水) 14:06:57ID:YKeNRmqq0262人間七七四年
2008/03/13(木) 13:31:29ID:Fzf2foCM片桐且元が忠臣だとしたらの話
0263人間七七四年
2008/03/15(土) 02:58:20ID:orFHkYdU「従わずんば、滅ぼされまするぞ!」はマジ号泣。
0264人間七七四年
2008/03/22(土) 22:58:13ID:GA9D+HlV三代目加賀藩主、前田利常は能を見るのが趣味だった。
利常が能を見る時、家臣たちは利常の前に座り、利常は
いつも家臣の後ろから能を見ていた。家臣たちは利常が
見やすいように頭を下げ、低い体勢で能を見ていた。
(これでは家臣たちに、能を楽しんでもらえないな…)
そう考えた常利は、自分の座る所に畳を積み重ねた。
そうすれば、家臣たちは頭を下げる必要が無くなるからだ。
利常の温かい心遣いに、家臣たちはみな、感激した。
0265人間七七四年
2008/03/23(日) 06:03:24ID:/9M3T9ey一人目が「見える」といい二人目は「ぱっとみ見えないけどよく見たら見つけたよ」といって
三人目が「残念ながら見えません」というと
三人目に「本当の目を持っているのはお前だけだなぁ・・・」って嘆息した人がいるらしい
全然いい話じゃないかw
0266人間七七四年
2008/03/24(月) 02:29:38ID:KUPjjepb0267人間七七四年
2008/03/24(月) 03:00:59ID:FMk3TVsVマジいい話だなW
0268人間七七四年
2008/03/24(月) 03:10:51ID:FMk3TVsV信玄の家臣は、「家康、もう脱糞かよW」と笑ったが、信玄は「家康、このタイミングでわざと脱糞して我が軍の士気を緩めようとは油断ならぬ男よのう。」と警戒したという。
0269人間七七四年
2008/03/24(月) 14:02:41ID:Y6Rd8lBQそれってもしかしてこんな星?
★
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今夜は妙に星がきれいだクマ・・・
∩∩ _,,-''"
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(.゙ー'''", ;,; ' ; ;; ': , '
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0271人間七七四年
2008/03/25(火) 07:09:51ID:uV5s77dQ0274奇矯屋onぷらっと@FreeTibet ◆SRGKIKYOUM
2008/03/30(日) 23:27:58ID:iV3A+udV0275人間七七四年
2008/03/31(月) 08:22:40ID:8Xb3/SEz夫の松平広忠と離縁した。於大の方の実家である水野家が尾張の織田信秀の傘下に入ったため、
敵対する駿河の今川義元の側に所属している広忠とは一緒にいられなくなったからだ。
於大の方は松平家の武士に護衛されて水野家に送り返されることとなったが、
水野家との国境まで来た時、彼女は護衛の武士に「後は近くの百姓に頼んで送ってもらうから
あなたたちは引き返してください」と言った。武士たちが理由を聞くと、於大の方は答えた。
「水野家の当主である兄は気性の荒い人なので、あなたたちを殺してしまうかもしれません。
もしそんなことになれば、両家の間に取り返しのつかない禍根を残します。今はわけあって
不仲になったとはいえ、いつかは和睦する日が来ると信じています。今、兄に短慮なことを
させては将来の和睦の妨げになりましょう。ともかく、ここで引き返してください」
松平家の武士たちはやむなく言うことに従って、於大の方を土地の農民に託して別れたが、
それでもやはり心配なのでこっそり跡をつけた。しばらくして完全武装した水野家の武士たちが
於大の方を迎えに現れた。
水野家の武士たちは於大の方にお送りの松平家の侍たちはどうしたのかと問うと、彼女は
松平家の者たちは国境で引き返したのでもういないと答えた。すると水野家の武士たちは
「それは残念。お送りの侍どもは全員討ち取れ、との殿のおおせでありましたのに」と、つぶやいた。
0276人間七七四年
2008/03/31(月) 12:48:46ID:k1XHQ6pGというより水野DQNすぎるw
さすがはあの勝成を輩出した一族
0277人間七七四年
2008/04/01(火) 08:23:44ID:4RUV594y彼は重臣たちとの会議は毘沙門天をまつる毘沙門堂で行うのを習慣にしており、重要な命令も
毘沙門堂で行うことにしていた。
ある日、謙信のもとに領内で大規模な一揆が発生したとの知らせが届いた。これは一大事と
謙信はその場で配下の武将に出撃命令を下した。それを聞いた重臣たちは「そのような命令は
毘沙門堂で行うのが習慣ではありませんか?」と問うた。すると、謙信は「今は一刻を争う。
毘沙門堂に皆を集める余裕はない」と答えた。
重臣たちは、それでは毘沙門天が怒るのではないかと心配したが、謙信はこう言い返した。
「もたもたして一揆の鎮圧に手間取るほうがよほど問題だ。それにこの越後の地で毘沙門天が
盛んに信仰されているのは私が手厚く保護しているからだ。むしろ私の方こそ毘沙門天から感謝
されてもいいくらいだ。これくらいで怒るはずがない」
熱烈な毘沙門天の信者と思われていた上杉謙信。だが、実は信仰一筋に縛られていない柔軟な
思考の持ち主であることを示すエピソードである。
0279人間七七四年
2008/04/01(火) 13:26:41ID:xX/2pVfh0280人間七七四年
2008/04/01(火) 22:11:10ID:nzF2SrKr0281人間七七四年
2008/04/02(水) 08:30:06ID:zO5UfsSwたしか「決断の条件」というビジネス書の中で紹介された話だったと思う。
家の本棚のどこかにまだあるはずだから調べてみるよ。
0282人間七七四年
2008/04/02(水) 08:32:57ID:Vl2ADTQe0283人間七七四年
2008/04/02(水) 08:38:56ID:zO5UfsSw朝鮮との戦が始まる頃、日根野備中という武士が出陣の費用が足りないので、如水のところへ
借りに行くと如水は快く貸してくれた。後日、返済の金が用意できたので備中は礼として大きな鯛を
持って金を返しに行った。
如水はその大きな鯛を家来に渡して料理するように命じた。その際、「鯛の頭と骨は捨てずに
吸い物にせよ」などと細かく指示するのを見て、備中は心の中で、なんてケチな男だと思って如水を軽蔑した。
そして、備中が借りていた金を返すべく差し出すと、如水は受け取ろうとせずに こう言った。
「あの金は差し上げるつもりで渡したものだ。わしが日ごろから倹約を心がけているのは
このような時のために人の役に立ってもらいたいと思うからだ」
これを聞いて、備中は恥じ、また感心したという。
0284人間七七四年
2008/04/03(木) 08:13:41ID:tPS37zTe色々と調べてみたが、上杉謙信と毘沙門天のエピソードが載っていたのは
「決断の条件」ではなく、松下幸之助 著の「人を活かす経営」という文庫本だった。
勘違いして申し訳ない。
あらためて読み返してみると間違えて書きこんだ箇所がいくつかあった。まず一揆が発生したのは
越後の領内ではなく隣国。そして、謙信は配下の武将に出撃命令を下したのではなく、間者に
様子を調べてこいと命じている。ずいぶん昔に読んだせいか、色々と記憶違いをしていたようだ。
0285人間七七四年
2008/04/03(木) 23:13:37ID:YYdVkKdh0286人間七七四年
2008/04/04(金) 18:32:51ID:sLw6T0urある日、半兵衛が人々の前で合戦の話をしていると、その最中に息子の左京(後の竹中重門)が
座を立って退出し、しばらくしてから戻ってきた。
戦物語の途中に座を立つことがあるか、と、半兵衛が息子に対して叱りつけると、左京は
小便に行っていたのです、と言い訳した。すると、半兵衛は「ならなぜ小便をその場で垂れ流さないのか。
竹中の子が合戦の話に夢中になるあまり、小便をもらす粗相をしたと言われるのは当家にとって名誉なことだ」
と、言った。
0287人間七七四年
2008/04/04(金) 22:12:48ID:W6iw6qV+0288人間七七四年
2008/04/04(金) 22:35:50ID:Nxvs+W9W0289人間七七四年
2008/04/05(土) 18:09:17ID:AxDMz359悪逆な戦国武将として名高い松永久秀が織田信長のもとで活躍していたころ、久秀は信長に
陣中の兵士について訴えた。
「兵士たちがたびたび陣を抜け出して近くの町に入り浸り、乱暴狼藉を働くので風紀が乱れています」
これを聞いた信長は秩序を取り戻すために、陣中の兵士たちが町の中に入ることを禁じた。
町へ買い出しに行くこともできなくなった兵士たちは困り果てた。そこへ松永久秀は直属の部下を
ひそかに町に派遣してまんじゅうを買い占めさせ、そのまんじゅうを陣中の兵士たちに売りつけると、
飛ぶように売れた。調子にのった松永久秀は娯楽に飢えた兵士たちに遊女を世話することまでして
大いに儲けた。
信長が発した町への立ち入りを禁ずる命令がうまく利用されてしまったわけである。
0290人間七七四年
2008/04/05(土) 21:40:23ID:QnA2qhkj0291人間七七四年
2008/04/05(土) 22:43:47ID:c/4K8Fzwある時、黒田官兵衛が「秀吉様から恩賞として約束頂いた領地が、いっこうに頂けない。約束の書状が溜まるばかりだ。」
それを聞いた半兵衛は、ではその書状を見せて欲しいと言った。
官兵衛から書状を受け取った半兵衛は、そのまま囲炉裏に放り込み、すべて灰にしてしまった。
唖然とする官兵衛にこう言った。
「この様な書状があるから、欲が出て秀吉様に疑心を抱く事になります。
秀吉様にあらぬ嫌疑を抱かれぬ様、ご懸念致して下され。」
さすがに官兵衛はその意味を悟り、黙ってうなずいた。
0292人間七七四年
2008/04/05(土) 23:18:34ID:8P5N4Yqt家康以下の偉大なやつらがみんな死んだ後に政宗が百万石の話を蒸し返して脅したら井伊の息子が激怒して書状を破いて「こんなものは御家の為になりません」と威圧されて
政宗が恥じ入ってショボーンした話。
0293人間七七四年
2008/04/05(土) 23:38:01ID:i+XIg6gN諸藩が二条城の普請を命じられたとき、彦根藩では軍学者岡本半介が奉行となった。
これは実質諸藩の競争だった。
堀を掘るときに排水が問題となり、諸藩は必死に排水を行ったが、半介は休むよう命じた。
その後作業を再開したときには既に彦根藩の受け持ちの部分の水は
もっと深く掘った藩のほうへ流れ排水されていたので簡単に掘り進めることが出来た。
また、諸藩が堀の底を平らにしているときに半介は何もしなかった。
幕府の目付けが理由をきくと、「これは甲州流で、敵が底を移動しにくいようにわざと底をデコボコにしてある」といった。
せっかく平らにした諸藩もまたデコボコに直さねばならなくなった。
次に江戸城の彦根藩普請総奉行の際、岡本は作業を遅くやらせ、諸藩が天井を完成させると言うときに、
また天井造りに取り掛かっていなかった。
そのとき、岡本は幕府の目付けを呼んで天井を造るので裏を確認してほしいと頼んだ。
当時、本多正純失脚をめぐって『宇都宮釣り天井事件』の風聞が流れていたので、
目付けたちは不覚だったと天井の奥を確認することになり、諸藩はせっかく完成させた天井をまた剥さねばならなくなった。
その隙に半介は天井を完成させた。
0294人間七七四年
2008/04/06(日) 01:14:50ID:KW73pYH70295人間七七四年
2008/04/06(日) 05:48:02ID:cxGpYPXZ明智光秀の父が亡くなり、盛大に葬儀が営まれた。
焼香が始まり、家臣達の番になった。家臣の中に
立派な風格を持った者がいて、彼の順番は三番目であった。
だが、彼の焼香の作法は立派な武将のそれとは違い、
刀を置き、頭を床に擦り付ける、まるで農夫の様な振る舞いであった。
周囲の者は「なんと立派な武士と思ったが、まるで作法がなっておらん。
これでは故人も、うかばれぬぞ。」と冷笑した。
それを聞いた光秀は立ち上がり、周囲に言った。
「この者は明智家の重臣だ。もちろん作法の心得もある、だが元は農夫だった彼を見込んで、
父が武士に取り立てたのだ。彼はその時の恩を忘れずに、皆に笑われようが
農夫の作法で焼香したのだ。これが真の忠義では無いのか。」
冷笑した者達は深く恥じ入り、顔を伏せた。
0296人間七七四年
2008/04/06(日) 07:49:46ID:IwMXXO2r板倉勝重が若い頃、近所の家に強盗が押し入って家の者を殺害し、そして、それをごまかすために
家に火をつけるという事件が起きた。
焼けた家と焼死体を見た近所の人たちは、火の不始末か何かで火事が起こり、逃げ遅れて
焼け死んだのではないかと推測したが、ただ一人、勝重だけは「これは殺人だ。何者かに殺された後に
火をつけられたんだ」と主張した。近所の人たちがその根拠をたずねると、勝重は、
「焼けた被害者の鼻の穴には火事によるスス汚れが全然ない。生きている間に火事が起きたのなら
大量のススや煙を鼻に吸い込んでいるはずだ」と、答えたので、人々はなるほどと感心した。
その後、殺人の線で捜査が進められると程なくして下手人が捕まり、事件は無事に解決した。
0297人間七七四年
2008/04/06(日) 15:15:41ID:t01Me+ar0298人間七七四年
2008/04/07(月) 00:07:47ID:SRGLb9zG時代の違いといえばそれまでだが、何がいい話なのかわからん。
まあ作り話だとは自分も思うからつっこむだけ野暮だが。
0299人間七七四年
2008/04/07(月) 06:36:13ID:QhUoDocNまあ要するに、出世して偉くなったからといって
身分の低かった頃の恩を忘れてはいません…て事を家臣は光秀の父に伝えたかったんじゃない?
0300人間七七四年
2008/04/07(月) 14:21:09ID:MRst6QYT0301人間七七四年
2008/04/07(月) 14:48:29ID:fIzxg3NEお陰様でこうして立派に武士として振る舞うことができるようになりましたって姿を見せてナンボだと思うよな。
0302人間七七四年
2008/04/07(月) 18:19:42ID:B+wjS4A4反乱を起こし、自分の城に立てこもった。しかし、反乱はすぐに失敗し、松永久秀は城を織田の軍に
包囲されて絶体絶命の危機におちいった。
覚悟を決めた久秀は息子に「城を出て、信長を討つ算段をせよ」と命じた。久秀の息子は、父とともに
死ぬ覚悟だったのでいやがったが、久秀にどうしてもと頼まれると、必ず信長を討つと誓って城から抜け出した。
ところが、久秀の息子は城を出た後に包囲していた織田軍の兵士に見つかり、あっけなくつかまってしまった。
それを知った織田家の兵士たちは「父親を見捨てて逃げ出した卑怯者」と悪口を言い合った。しかし、信長が
「父親の久秀に言いつけられてやむなく城を抜け出したのであって、卑怯な気持ちから逃げたのではあるまい」
と、かばったので、皆は悪口を言うのをやめた。
信長はたとえ相手が憎い仇の息子であっても、間違った事実によって非難されるのはほっとけなかったのである。
0303人間七七四年
2008/04/08(火) 00:24:06ID:JTAm2W/h秀吉はこの虎を大層気に入り、自分のペットとして飼うことにした。
餌は何が良いかという段になって、生きた動物が良いと言うことで村々に飼い犬を供出させることにした。
とある猟師某は近隣でも評判の愛犬家だったが、その猟犬を数日後に献じる様に沙汰があった。
それから某は今まで以上に愛情を注ぎいだ。
「お前は日本一の犬、明の虎に破れるにせよせめて一矢報いて来い」と
普段自分が食べれないようなご馳走を犬に与えて最後の時を惜しんだ。
そして某の犬は虎の檻に放り込まれた。
虎はいつも通りのそりと起きあがると悠然と犬に歩み寄る。
しかしこの犬は今まで生き餌とされた犬と違いその虎に臆することなく毛を逆立て威嚇する。
小敵の戦意に構わず虎は犬を食い殺そうとしたその時、あっと犬が素早く虎の喉元に食らいついた。
虎は驚き何とか振りほどこうと暴れ回り、前足で犬を引き剥がそうとする。
犬は毛が抜け皮が裂けはらわたが露わになってもなお、虎からはなれない。
それでも必死に虎は暴れ回るが次第に弱まり、そして遂には息絶えた。
秀吉はこれを聴くと犬を激賞し、飼い主に遺骸と褒美を与えたという。
0305人間七七四年
2008/04/08(火) 01:43:34ID:mGIjbfQU0306人間七七四年
2008/04/08(火) 09:48:54ID:XWcBwO9D0307人間七七四年
2008/04/08(火) 10:12:05ID:A291MLyv0308人間七七四年
2008/04/08(火) 11:25:28ID:Nt1l9ALvということだけは分かった。
0309人間七七四年
2008/04/08(火) 11:29:21ID:l9k1FnwD0310人間七七四年
2008/04/08(火) 23:02:31ID:+AzFJ4Cy0311人間七七四年
2008/04/08(火) 23:43:56ID:iaqb0hoL0313人間七七四年
2008/04/10(木) 16:58:59ID:Y9i5op8R直孝がその家臣の家に行くとその唐犬が直孝を見るなり大声でほえた。
父譲りの気性の持ち主だった直孝はかつての主を忘れたかと激怒し、
「あの犬はうるさいので耳を切ってしまえ!」と命じた。
そこへ岡本半介がやってきて直孝の前にはさみを差し出した。
直孝が「これはなんだ!?」というと半介は「はさみです。」と答えた。
直孝が「そんなことはわかっている。何をしようというのだ?」というと
半介は「殿が犬がうるさいから耳を切れとおっしゃるので殿の耳を切ろうと思いました。」
と答えたので、直孝は半介に免じて犬を許した。
0314人間七七四年
2008/04/10(木) 17:26:58ID:Jf+APSdh0315人間七七四年
2008/04/10(木) 17:46:04ID:iFheOoQS0316人間七七四年
2008/04/10(木) 18:21:57ID:MkzFG86a俺がその場に居たら間違いなく泣いちゃうぜ!!
0317人間七七四年
2008/04/10(木) 23:18:26ID:TbASQNo9直政も結構きつい性格だったらしいが、息子の直孝もなかなか、
しかもポーカーフェースだったのでその怖さはひとしおだったらすぃ。
朝鮮通信使で来日した<丶`∀´>さんが直孝の名前を挙げて「怖い人物」と明記しているくらい。
半介ぐらいの性格の家臣で丁度釣り合いがとれていたのだろう。
でも苦言を呈するのもそんな殿様では命がけだけどね。
>>315
あの話はある意味感動するw 一歩間違えば怪談だけど。
0318人間七七四年
2008/04/10(木) 23:53:43ID:jBWk4zRT0319人間七七四年
2008/04/12(土) 13:00:10ID:OHoByaqTこれ、下手したら言った奴の耳が削ぎ落とされてもおかしくないな。
半介とやらはどこまで命知らずな奴なんだ。
0320人間七七四年
2008/04/12(土) 14:00:47ID:Yjtabery0321人間七七四年
2008/04/13(日) 14:57:01ID:AqjKZIq2羽柴秀吉と柴田勝家が争っていたころ、勝家配下の武将佐久間盛政が突出して秀吉方の
砦に侵攻して来た。
砦を守っていた武将は高山右近、中川瀬兵衛の二名で、それぞれ300人ずつ手勢を従えていた。
高山右近は敵の侵攻に対し、「こちらは合わせて600人しかいないから、ここで無駄死にするよりも
一時撤退して本隊と合流してから戦おう」と主張し、それに対して中川瀬兵衛は「敵の進撃を少しでも
遅らせるためにここで籠城しよう」と主張した。
結局、二人は喧嘩別れになり、高山右近率いる300人の兵のみが砦から撤退した。残った中川瀬兵衛の
軍勢300人は佐久間盛政の攻撃を奮戦して受け止め、全滅するまで戦い、進撃を遅らせることには成功した。
世間の人々は命がけで戦った中川瀬兵衛を勇者としてほめたたえ、戦友を見捨てて逃げた高山右近を
臆病者として非難した。だが、部下の命を無駄に死なせたくないと撤退を選んだ高山右近と、部下を死なせる
ことになっても全体の勝利に貢献したいと思った中川瀬兵衛。本当に正しかったのはどちらなのだろうか。
0322人間七七四年
2008/04/13(日) 16:25:35ID:UsfC1+4C0323人間七七四年
2008/04/13(日) 17:59:25ID:4T6p3u6I当時なら中川。現代なら高山が正しい…だと思うけど。
ただこの戦いに限れば、戦死しても無駄死にでは無い気がする。
0324人間七七四年
2008/04/13(日) 18:02:37ID:Njo99i/G0325人間七七四年
2008/04/13(日) 20:15:16ID:RoMbE5lx高山の選択で正解!
0326人間七七四年
2008/04/13(日) 21:17:58ID:5SAhL3Iqその後さらなる敵軍に包囲される危機が迫っていたので、先陣の援軍要請を無視してほぼ無傷で撤退してしまった。
急を聞いて駆け付けた豊臣の援軍が現れてた時には先陣の池田や森は討ち死に。
戦上手の堀はこんな感じの行動をしてる。
やはり一戦して小勝でも良いからポイントを稼いで一気に撤退するが解答だろう。
秀吉に激怒された秀次が堀を恨んだかどうかは知らんがな!
0327人間七七四年
2008/04/13(日) 22:19:53ID:jk3Vh3es両方とも残って籠城していても、
両方ともに撤退していても全滅する可能性が高いんじゃないか?
2つに分かれて片方が籠城して時間稼ぎしたから
結果的に高山の撤退が成功したんだと思う。
0328人間七七四年
2008/04/13(日) 22:21:30ID:5R3g+BX/中川思考の武将
道雪、宗茂、紹雲、家久、義弘、元春、左近、幸村、謙信
高山思考の武将
信長、秀吉、義久、宗麟、隆景、元就、家康、氏康、政宗
0329人間七七四年
2008/04/13(日) 22:49:44ID:5SAhL3Iq中川思考でなおかつ佐久間ごときレベルなら勝っちゃいそうなメンバーだなw
柴田も敵数を誤認して撤退しそうw
このまま後詰めに敦賀で待ってるよ〜って伝令出して勝手に追撃戦に移りそうだわw
高山思考のメンバーは確かに残っていたら全滅しそうなメンバーだから撤退して後詰め待ちした方がいいな。
まーこの後に秀吉は神速の行軍しちまったわけだが。
0330人間七七四年
2008/04/13(日) 23:06:10ID:M5rKbxS9寓話的だし、信長らしくないので信憑性は低そう。
朝倉氏が滅亡し柴田勝家が越前に入ったころの話。
越前国内で女狩りをする者がおり、勝家の手の者が捕らえ尋問すると
主君信長から越前の美女を集めて連れて来るように命令を受けたという。
越前はまだ平定したばかりで民心もまだ織田家になついておらず、
ここで主君の評判を落とすようなことはまずいと考えた勝家はその者を処刑、
信長には「殿の名を騙り無道を働いた者を処刑しました」とそらとぼけて報告した。
これに信長はぐうの音も出なかったという。
0331人間七七四年
2008/04/14(月) 00:02:00ID:kyYFtFzN一銭斬りの信長がやるかなぁ……?
0332人間七七四年
2008/04/14(月) 02:03:51ID:H4CDA6lwむしろ、北陸での織田軍の動きを見ると勝家の言動の方が疑問
0333人間七七四年
2008/04/14(月) 05:08:16ID:sPRE/2bvしない気がするがな。
0334人間七七四年
2008/04/14(月) 05:55:19ID:VkCeGrOK0335人間七七四年
2008/04/14(月) 10:42:23ID:0x/v80tJ0336人間七七四年
2008/04/16(水) 23:51:17ID:7E1xM/5V0337人間七七四年
2008/04/18(金) 02:59:18ID:n2WOmkCO黒田官兵衛は謀反を起こした荒木村重を説得するべく、
秀吉に命じられて村重の有岡城へと赴いた
しかし官兵衛は有無言わさずに村重に牢屋に閉じ込められてしまう
有岡城へ説得しにいった官兵衛が行ったきり帰ってこない
このことを知った信長は官兵衛が村重に寝返ったと勘違いし、
人質にとっている官兵衛の息子・松寿丸(のちの長政)処刑するように秀吉に命じる
秀吉は迷った挙句、信長の命令なので従おうとしたが、
竹中半兵衛が独断で信長には松寿丸を処刑したと報告し、密かに匿って
石田正継(三成の父)の元へ隠しておいた
やがて有岡城が織田の軍勢によって落城し、中からやせ細った衰弱した男が出てきた
足に障害を持っており、知っているものが彼が官兵衛であることに気づいた
秀吉は官兵衛が生きていたと知って喜んだが、官兵衛の息子を殺してしまったことに
罪悪感を覚えて素直に喜ぶことができなかった
するとそこに半兵衛が密かに松寿丸を匿っていたという報せが届いた
これに秀吉は自分の面目が立って喜び、官兵衛の方も息子の命を助けてくれた
半兵衛に感謝しても感謝しきれぬ思いを抱いた
しかしその時既にことの功労者である半兵衛は世の人ではなく、
中国攻めの陣中で没していた
官兵衛は息子の恩人である半兵衛に感謝の言葉を直接言えなかったことを深く悲しんだと言う
一方信長は生前の半兵衛が自分に内緒で松寿丸を匿っていたと知ると呵呵大笑した
「さては半兵衛め、またしてもやられたわ」
と呟いたという
半兵衛はその以前にも秀吉に進言して、柴田勝家の軍勢から無断退却させ
信長に反抗したことがあった
半兵衛が官兵衛の息子・松寿丸を匿ったことは
ある意味彼なりの信長への挑戦だったのかもしれない
0338うりうり
2008/04/18(金) 05:26:34ID:BWEn9XYLこれ最強。
今の政治家に読んでもらいたい。
0339人間七七四年
2008/04/18(金) 08:25:02ID:H668oxs4ザビエルが道端でキリストの教えを説いていると一人の男が質問してきた。
「キリストの教えを信じない不信仰者は死後に地獄へ落ちるそうだが、それなら、去年亡くなった
うちの祖父はキリストの存在自体知らなかったのだから地獄へ落ちてしまうのか?
祖父はとても良い人で周りから尊敬されていたのにおかしいではないか。あなたの説く教えが
それほど素晴らしいものなら、なぜもっと早く来てくれなかったのだ?」
この質問にはさすがのザビエルも返答に困り、後に本国への手紙で、日本において布教するには
論理学の知識が必要である、と報告した。
0342人間七七四年
2008/04/18(金) 20:21:07ID:m1X5EycBで、そいつが後に創価学会を開いた池田大作とかいうオチじゃなくて?
0343人間七七四年
2008/04/18(金) 21:17:33ID:v1tQ0FkT0344人間七七四年
2008/04/18(金) 22:51:29ID:SZKvyQZsもしかしてそいつが、西洋に近代哲学をもたらしたんじゃないのか?w
デカルトが登場するまで、西洋人なんて聖書の解釈しかしてなかったような
もんだしさ。
0345人間七七四年
2008/04/19(土) 00:15:47ID:tYh2libV0346人間七七四年
2008/04/19(土) 00:59:28ID:ChcgRmDQその後宣教師たちは
「私たちが教える前は、あなたたちは神の存在を間違って認識して、信仰していただけです。
だからあなたたちの先祖も救われます。アマテラス=デウス、ブッダ=デウス、まめちしきな」
みたいなノリで日本人を洗脳していったとか・・・
0347人間七七四年
2008/04/19(土) 01:17:57ID:5Bb3quh4みんな同じものだと言ってた宇宙飛行士がいたな。
0348人間七七四年
2008/04/19(土) 06:55:27ID:3PLfkouw同族嫌悪ってやつか
0349人間七七四年
2008/04/19(土) 08:28:20ID:nBwHh70u自己嫌悪かも?
0350人間七七四年
2008/04/19(土) 19:52:28ID:/Zoeg4ZK黒田長政が関が原後、捕らえられた三成に丁重に接したというのは
幼いころ石田家に匿ってもらったということもあったのかな?
>>337じゃないけど正継の逸話を一つ。
石田家が統治する近江4郡は豊臣時代を通じてもっともよき民政地だった。
太閤に近侍し、日本全国をとびまわりめったに自分の統治地に帰ってこられない三成に代わり、
民政は主として父の正継(隠岐守入道)が担当した。正継は学問があり、
人柄も温和で土地では「藤右衛門どの」とよばれて親しまれた。
正継は農民に対し
「苦情があれば、じかに申し出よ」
と制限つきながら直訴主義をとった。江戸期にもこのようなことは無く
正継は非常によく仁慈をもって、農民の面倒をみていたといえる。
石田家の領地に上坂郷という地があった。
この地には、近江の浅井家に滅ぼされるまで上坂氏という有力な国人衆があった。
正継は上坂氏の零落ぶりを気の毒がり、そのうちの一人を豊臣家に推挙した。
さらには知行地も故郷の上坂郡の一部に設定してやったりもした。
ところが昔、上坂氏に搾取しつづけられていた上坂郡の農民はみなこれを喜ばず、
「いまさら上坂に殿様面して帰ってこられても困る」
と誰もがそっぽを向いた。
ところが、正継はあくまでも面倒見のいい領主であった。
大名でありながら、領民である上坂郡の農民に対し、下世話にも調停者になってわりこんだのである。
文書のなかで正継は
「昔を思えば旧主ではないか。道で出会えば、腰をかがめるだけでよいのだよ」
それだけの礼でよいのだ、上坂氏が昔のように重々しくのしかかって搾り上げるわけではないから礼をつくすだけでいい、ということである。
「でなければ草木も枯れるよ」
と最後に軽妙に付け加えた。
0351人間七七四年
2008/04/20(日) 23:11:16ID:DThkshzH0352人間七七四年
2008/04/22(火) 01:25:48ID:yrAOp9UW0353人間七七四年
2008/04/25(金) 02:37:25ID:kOsvs7oEしかし、甲州は腹の中で大笑いしてたんじゃね?
0354人間七七四年
2008/04/26(土) 17:30:30ID:HXFsGIba0355人間七七四年
2008/04/28(月) 23:03:54ID:7dbiUPZF0356人間七七四年
2008/04/29(火) 00:21:54ID:DPO+XD2Mそうだったの!?
なんちゅうエエ話や〜・・
0357人間七七四年
2008/05/01(木) 18:39:42ID:f5qmCC8Cその後、関ヶ原の戦で、松寿丸⇔長政は竹中半兵衛の息子、重門を
石田方から徳川方に付くよう説得し、共に丸山で陣をとった。
そして両家の良い関係はその後も。。。
0358人間七七四年
2008/05/02(金) 12:07:40ID:fwlkkh19竹中半兵衛死後、信長は重門に家督を継がせず(自分の命に背いたからか?)
一家は一時離散する。
>>357の続き。
徳川幕藩体制では5000石の旗本となり、竹中半兵衛の威名により8万石格の待遇を与えられる。
重門の次男から分かれた分家は黒田家家臣となり、幕末では本家と戦う。
この時竹中姓を「岩手」に改めた。
鳥羽伏見の戦いでは本家の重固は陸軍奉行となって総指揮に当たるが、
拙劣な指揮で「半兵衛は一代限り」と言われた。
0359人間七七四年
2008/05/02(金) 14:15:01ID:vRTsoegcやったりとそんな時代もあったんですね。
まだそれほど信長が脚光を浴びてない時期、宗滴が「出来るものならあと三年
長生きして信長の行く末を見てみたい」といった話は有名ですが、宗滴とあと
信長の破滅を予見した恵瓊の卓見はなかなかすごいと思う。
0360人間七七四年
2008/05/02(金) 14:42:43ID:hWCdIFvS信長の破滅を予見した恵瓊の話ってのは後世の創作だって事は有名だよ。
0361人間七七四年
2008/05/02(金) 14:51:44ID:G02EFeUrその半兵衛の子孫が和泉元弥
0362人間七七四年
2008/05/02(金) 14:53:27ID:04mdqQMU江戸時代になって旗本(交代寄合)となり、但馬に領地をもらって帰ってきた。
帰郷した豊国はかつて毛利と結んで謀叛を起こした重臣の武田高信
(結局毛利に使い捨てられて殺された)の息子をはじめ、
かつて自分をひどい目に合わせた旧家臣の子を快く召抱えたという。
0363人間七七四年
2008/05/04(日) 17:42:18ID:FAk23FWfスレタイ嫁
(゚听)養分イラネ( ゚д゚)、ペッ
0364人間七七四年
2008/05/04(日) 17:53:07ID:8gfY2BQu人がいいな
0366人間七七四年
2008/05/05(月) 10:26:26ID:V6rgTU/A伊達政宗が江戸城に登城すると、控えの間に石見が居た。政宗が
控えの間に居る間中、じっと政宗を見つめていた。政宗は石見に
近づき訊ねた。
「なぜ俺をじっと見ている?何か言いたい事があるのか?」
石見は答えた。
「最近江戸ではどこかの大名が謀叛を起こす、と噂しております。
そこで大名の方々のお顔を拝見致しましたところ、謀叛を起こす
のはあなた様以外にいません。もし戦になれば真っ先にあなた様
の首をいただこうと、お顔を覚えようとしておりました。」
それを聞くと政宗は大笑いし、石見に言った。
「お前は大層な目利きだ。お前のような、勇ましい武士がいると
なれば、俺もうかうかと謀叛は起こせまい。気に入った、いつで
も俺の所に遊びに来い。お前とはもっと語り合いたい。」
政宗の豪胆さに石見は感じ入り、政宗とは真の友となって様々な
事を語り合ったと言う。
0369人間七七四年
2008/05/05(月) 13:47:09ID:sHa0RM4P0370人間七七四年
2008/05/10(土) 14:25:27ID:Q1kUKD9u用意させておいた舞台で兄弟3人交代で能を舞い、招待された領民の喝采を浴びた。
このことで信長からのお咎めは一切無かったという。
0371人間七七四年
2008/05/10(土) 14:41:41ID:Q1kUKD9u>>369
重朝は伊達政宗に仕えているから当然政宗の顔は知っている。
その後水戸家に召抱えられる。
水戸の家老鈴木家党首は石見守を名乗っているから、
>>366は子と考えるのが普通。
0372人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/07(土) 23:24:27ID:gc3XR7nF岩屋城が落城して間もなく、敗戦を知ないまま立花山城から立花宗茂の使いの兵が高橋紹運宛の書状をもって岩屋城へきた。
が、時既に遅く全員玉砕の岩屋城。使いの兵は島津軍に捕らわれ、そのまま従うよう命じられる。
立花宗茂の使いの兵はそれを断りこう言った
「一つだけお願いがあります。その書状を読むのは私の首をとってからにしてください」
その答えに島津の将は心を打たれ、書状を読まずにその兵の縄をほどき、立花山城に無傷で送り返した。
0373人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 10:06:54ID:s/ItF2dT関が原の戦いで西軍に味方したため、戦後領地を没収され浪人となった
宗茂。彼を見捨てず、虚無僧や物乞いまでして宗茂を支え続けた家臣達。
その主従愛に感動した徳川秀忠は、彼を筑後柳川十一万石の大名として
取り立てた。
かつての領地に返り咲いた宗茂と家臣達は、さっそくかつての家臣を呼び
寄せ、新たな家臣を雇った。たちまち宗茂の屋敷は家臣達であふれかえった。
そこで宗茂が浪人時代から支えてきた家臣達が進言した。
「家臣も増え、今の屋敷では手狭でございます。そこで屋敷をもっと大きく
建て替えて、部屋も廊下も広くいたしましょう。」
0374人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 10:25:39ID:s/ItF2dTだが宗茂は首を振って言った。
「いや、屋敷は狭いままで良い。」
家臣達は「何故?」と首をかしげた。
宗茂は目に涙を浮かべて言った。
「なぜなら俺が浪人となっても、お前達は俺を見捨てず、
物乞いをしてまで俺を支えてくれた。俺にとってかけがえ
の無い、愛しい家臣だ。もし屋敷を広くすれば、お前達と
こうして顔を合わせる事も減り、疎遠になるだろう。
それは嫌だ!それなら屋敷が狭いほうが、俺は嬉しいのだ。」
家臣達は涙で言葉も出なかった。
0375人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 11:34:30ID:ZvQLYTCp0376人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 18:18:31ID:3w7sYWMn0377人間七七四年
2008/06/18(水) 20:26:48ID:35ygH+wf0379人間七七四年
2008/06/18(水) 23:45:31ID:bplewm2a0380人間七七四年
2008/06/19(木) 00:50:04ID:BLObJ4RQ園児を迎えに来た母親が子供に向かって
「ほら、○○、ちゃんといい子に勉強しないとああいう人達みたいになるんだからね」
と言っていた。
あーハイハイって思ってたんだが、そこを通りかかった下校中の高校生2人が
A:「なぁ、B。皆が便利になる道路作る人と、子供にろくな事吹き込まない大人、
なるとしたらどっち?」
B:「そら道路作るに決まってるだろw勉強してろくな大人にならんのじゃ意味ねーww」
みたいな事を大声で言ってくれた。
ダメ出しで
「僕はあのおじさん達好きだよ。トラック見せてくれたもん」
0382人間七七四年
2008/06/19(木) 15:23:27ID:3035ZDN5いい話だね。俺は現場で働く人達は好きだ。
0383人間七七四年
2008/06/19(木) 17:09:57ID:O7ZtwGh20384人間七七四年
2008/06/19(木) 17:57:50ID:XfP/8aL60385人間七七四年
2008/06/19(木) 18:25:58ID:G6IsV8A8母親が子供に向かって
「ほら、秀頼、ちゃんといい子に学問しないとああいう武断派みたいになるんだからね」
と言っていた。
あーハイハイって思ってたんだが、そこを通りかかった高台院と正則が
高台院:「なぁ、。皆が便利になる天下作る家康と、子供にろくな事吹き込まない大人、
付くとしたらどっち?」
正則:「そら天下作るに決まってるだろw勉強してもろくな大人にならんのじゃ意味ねーww」
みたいな事を大声で言ってくれた。
ダメ出しで
秀頼「僕はあのおじさん達好きだよ。虎見せてくれたもん」
かくして加藤清正は東軍に付いた。
0386人間七七四年
2008/06/19(木) 19:48:31ID:jIeZNaKm0389人間七七四年
2008/06/20(金) 00:32:07ID:9YeDq+7i0390人間七七四年
2008/06/20(金) 11:33:16ID:HwpJsyKf上に立つ者の気配りの話だね。
宮本伊織(戦国時代じゃないけど)の豆腐の話も好きだ。
0391人間七七四年
2008/06/20(金) 12:39:06ID:WVRRZLLz0392人間七七四年
2008/06/20(金) 13:10:00ID:HwpJsyKf京都の東山に松茸がたくさん生えていると聞き、
「松茸狩りをして遊ぼうではないか」と言い出した。
家臣たちが下見に行くと、すでに京の人々がほとんど採って
しまい、僅かしか残っていない。
そこで、彼らは、あちこちから松茸を取り寄せて、
こっそりと山に植えることにした。
夜を徹して作業を続け、何とか間に合わせたのである。
秀吉はお祭り騒ぎのようにして、やってきた。
見ると、そこらじゅうが松茸だらけ。
「これは見事」と、非常に機嫌がよい。子供のように、
はしゃぎながら松茸を採っていた。
すると、傍にいた女性が、秀吉の袖を引いて
「これは自然に生えたものではありません。誰かが、
植えたものでございます。殿下にはそれがお分かりになりませんか」
と、小賢しく言った。
秀吉は、手を振って、さえぎり、
「こら、言うな。俺たちを喜ばせようとして、皆がやったことだ。
これだけ植えるには、相当の苦労があったはずじゃ。その気持ちを
ありがたく受け取ってやらねばならぬ」とニッコリ笑ったと言う。
0393人間七七四年
2008/06/20(金) 13:11:58ID:+v/z8d76京都の東山に松茸がたくさん生えていると聞き、
「松茸狩りをして遊ぼうではないか」と言い出した。
家臣たちが下見に行くと、すでに京の人々がほとんど採って
しまい、僅かしか残っていない。
そこで、彼らは、全裸になり、
こっそりと山に埋まり逸物を出した。
夜を徹して作業を続け、何とか間に合わせたのである。
秀吉はお祭り騒ぎのようにして、やってきた。
見ると、そこらじゅうが松茸だらけ。
「これは見事」と、非常に機嫌がよい。子供のように、
はしゃぎながら松茸を採っていた。
すると、傍にいた女性が、秀吉の袖を引いて
「これは自然に生えたものではありません。誰かの、
モノでございます。殿下にはそれがお分かりになりませんか」
と、小賢しく言った。
秀吉は、手を振って、さえぎり、
「こら、言うな。俺たちを喜ばせようとして、皆がやったことだ。
これだけ植えるには、相当の苦労があったはずじゃ。その気持ちを
ありがたく受け取ってやらねばならぬ」とニッコリ笑ったと言う。
0394人間七七四年
2008/06/20(金) 13:29:39ID:2L0Xtorlボケちゃってたんじゃね。
0395人間七七四年
2008/06/20(金) 13:32:52ID:HwpJsyKf15歳で姫路藩(小笠原家)に仕官し、20歳で家老になる。
主家が小倉11万石に転封されてから筆頭家老。
彼は接待・宴席で豆腐料理を出されるとことさら喜んだ。
この噂は藩内はもとより近隣の国にも広まっていった。
そのため伊織がらみの宴席では豆腐がメイン料理となることが多かった。
晩年、使える女中が
「殿様はほんとうに豆腐がお好きなんですねえ」
と言うと、伊織はにこやかに笑って、
「本当に好きなものは他にあるのだが、
政務を司どるものが贅沢好きでは下に対してしめしがつかない。
それに、豆腐好きということにしておけば、余計な気遣いもさせなくて済む」
と言って女中に他言無用と約束させた。
0396人間七七四年
2008/06/20(金) 14:37:02ID:CiaSuIHl0397人間七七四年
2008/06/20(金) 14:46:56ID:4MXeX9CK0399人間七七四年
2008/06/20(金) 15:58:07ID:4MXeX9CK0400人間七七四年
2008/06/20(金) 17:11:02ID:O2sj2jZw宴席で喜ぶ伊織……ところがここで女中がネタばらし。
いたたまれずに、恐縮する隣国の家老。「もう伊織殿に豆腐を出したりしないよ!本当さ!」
0401人間七七四年
2008/06/24(火) 00:07:41ID:sAyQLnQG送った手紙
「神父を日本に連れてくる者は、同封のリストにある商品を持ってくれば、大儲けは間違いありません。」
0402人間七七四年
2008/06/24(火) 08:14:41ID:pLwcfFln0403人間七七四年
2008/06/24(火) 21:33:34ID:hk4CorD10404人間七七四年
2008/06/25(水) 02:39:34ID:VNfLBS+I0405人間七七四年
2008/06/25(水) 06:52:28ID:CfkIzz580407冬広
2008/06/25(水) 13:07:41ID:zaTUmH0Hある戦で前田利家と佐々成政が、二人がかりで稲葉某って豪傑を倒した。
曲がったことの嫌いな二人は、「稲葉に致命傷を与えたのはおめーだろ」って首の譲り合い
を始めるもお互い譲らず、果ては取っ組み合いの喧嘩になりそうになった。
そこに通りかかった柴田勝家が、「この首いらないの?じゃ、おれが貰う」って言って、唖然
とする二人を尻目に稲葉の首を勝手にもっていってしまった。
そして、二人は不承不承、主君・織田信長の城に帰還した。
すると、柴田が来て「利家・成政、殿がお呼びだぞ」って二人を呼んだ。
二人は「殿が何の用事だろ?」って不審に思いながら拝謁すると、上座に信長・そばには勝家が
ニコニコして座っている。
「そちたち、豪傑稲葉を打ち取ったそうだな。これは手柄である。しかも、その首を譲りあうとは
近年ない奥ゆかしいことだ。これも手柄である。いきさつはすべて勝家から聞いた。そちたちの手柄は
2つあることになるから、2人共に褒美を遣わす」って二人とも褒められた。
以後、2人は信長に一層の忠誠を誓い、粋なはからいをした勝家を兄貴と慕ったという。
0408人間七七四年
2008/06/25(水) 13:46:19ID:Fwrhh91j0409人間七七四年
2008/06/25(水) 14:05:37ID:A9rXzuB8関ヶ原の伏見城攻撃の時の話。
醍醐寺に石田軍の徴発部隊が、攻城戦に使う木材の伐採にやって来た。しかし醍醐寺領内は豊臣政権により
「山林竹木等守護不入」の権利を確認されていた。当然醍醐寺の側は徴発を拒否。だが石田側は武力に任せ
強引に山林の伐採を開始。醍醐寺側はこの暴挙に、寺の数少ない寺侍たちが出てきて抵抗をしようとするが
多勢に無勢。それどころか醍醐寺への攻撃すら仕掛けてくる始末。このまま醍醐寺の山林は禿山にされるのか。
その時である
醍醐寺領内の村々の半鐘が、一斉に鳴った。
それと同時に武装した村人たちの軍勢が石田軍の部隊を包囲したのである。
形勢は逆転した。石田軍は既に伐採した木材も打ち捨て、ほうほうの体で逃げて行った。
醍醐寺の山林はその後も長く、山里の村々を潤した。
表舞台では語られない、歴史の一コマ。
0411人間七七四年
2008/06/25(水) 23:28:04ID:vXzkvdnQとしまつでしんさんが佐々と前田に
「おまいら戦場で何やっとるのだ!あ゛〜もおぉ」
このシーンよかったよ
0412人間七七四年
2008/07/01(火) 10:19:04ID:1jK2N4rUまだ関ヶ原の前肥後を小西と半分こしていた頃
小西といさかいがあり天草に出陣
弓の名手の木山なんとかとぶつかる
木山が得意の由美を使うと清正は「一騎打ちなら正々堂々と太刀で戦わん」と叫びてにもつ槍を捨てた
それを見た木山も弓を捨てくまんとしたその時清正はすぐに槍を拾い木山をつきころした
木山は「おのれ、たばかったな卑怯者め」と泣き言を言いながら絶命をしたが
清正は勝てばよかろうなだーというようなことを言いすて平然としていたという
朝倉宗滴の教えを守った武士の鑑といえるだろう
ちなみにこの話後日談があり木山の息子が復讐と清正を狙い熊本築城の人夫にマジって潜入機械をうかがっていたが
気づいた清正は井戸掘りの作業をさせ一緒に作業をしていた他の人足ともども上から岩を落とし殺したその井戸は今もある
ついでに木山親父を見事討ち取った戦いのときに敵のこもる城に和平の使者を送り
受け入れた敵兵に襲い掛かり皆殺しにした。完全勝利としてやったりと快活に笑ったという
朝倉宗滴の教えを(ry
さすが武士のかがみわが故郷熊本の神様清正公である我らも見習いたいものだ
0413人間七七四年
2008/07/01(火) 10:21:31ID:f1JLPO1W0414人間七七四年
2008/07/01(火) 10:45:56ID:WuA6UoxH0415人間七七四年
2008/07/01(火) 13:07:07ID:lym/e5Mo0416人間七七四年
2008/07/01(火) 19:50:07ID:4D3OYN/q合計で2男9女を生んだまつは、すごい女だな・・・強い女だ。
0417人間七七四年
2008/07/01(火) 20:37:05ID:wQjV1Y0I0418人間七七四年
2008/07/01(火) 21:24:57ID:MDi3ThSK0419人間七七四年
2008/07/03(木) 14:05:43ID:NrVxmQhJ義に篤く礼を重んじる蒲生氏郷の話
知行200石の六角子四郎(承禎の子)が秀吉に謁見する時
92万石大名氏郷はかって主従関係だったことから、太刀持ちを務めた。
0420人間七七四年
2008/07/03(木) 21:35:06ID:t3anU763横手五郎の話じゃないんだよね
横手五郎は怪力なので やはり井戸掘り作業をさせて
岩を落としたがみな受け止めるので 砂で生き埋めにした
その話なら熊本城内の石碑に書いてあったけど
0421人間七七四年
2008/07/03(木) 22:19:45ID:QPyJnnLwしかしこの木山弾正、島津に赤井城を落とされたのが天文13年(1544)で、
討ち死にしたのが天正17年(1589)って同一人物かね
0422人間七七四年
2008/07/05(土) 12:09:12ID:MSxhTdI6ある若者が可児才蔵の武勇を知り、試合を申し込んだ。
当日現れた才蔵は、甲冑に旗指物という姿、さらに銃を構えた配下を一人連れていた。
驚いた若者が「1対1のはずだが?」と言うと、
「わしの試合とは全てこのような実戦である」と答えた。
0424人間七七四年
2008/07/08(火) 14:17:52ID:iF2xuY9a0425☆中山鹿之助☆ ◆.Ooo.qq.q.
2008/07/08(火) 17:18:57ID:jFqDvhLUカッコイイハナシダナー・゚・(ノ∀')・゚・。
0426人間七七四年
2008/07/08(火) 17:28:45ID:pnB6AJ3l俺はむしろ、司馬遼の「おれは権現」での臆病な才蔵のイメージがあったから、この逸話
はしっくりくるなw
0427人間七七四年
2008/07/09(水) 02:48:44ID:Xyz7FeGiところが謡われているような松がない
どうしたのだと聞くと枯れちゃったとのこと
みっちゃんはそりゃいかんここには松があるべきと新たに植えました
それを信長が知り(猿経由だったような)
うぬもたまには面白いことするのると珍しく褒めた
したらばみっちゃんは
いやそんなことないっすよ云々カンヌンといってしまた
信長いつもどおり逆ギレみっちゃんをぼこぼこにしましたとさ
どうやらアドリブがにがてだったようですな
どうもこれも本能寺の遠因の一つらしい
0428人間七七四年
2008/07/09(水) 03:27:38ID:VUAyqzJB0429人間七七四年
2008/07/09(水) 04:42:46ID:/xQBFMz10430人間七七四年
2008/07/09(水) 09:46:06ID:dm3qyj1K「余は武勇では到底、父・清正には及ばない。もっと、大力の持ち主になりたい」って、家老の飯田覚兵衛
に語った。
忠広を暗君だと思っていた飯田は、主君がめずらしくまともな反省の弁を述べたので、
「大力でないのは生まれつきゆえいたし方ありませぬ。しかし、その分学問に励まれて知将になりなされ」って励ました。
それを聞いた忠広は薄ら笑いを浮かべ、
「大力であれば、戦場で鎧を2重に着込むことができ、命を落とさずにすむだろ。余が大力になりたいと言ったのはそういう
意味じゃ。覚兵衛は何か勘違いしておるのう」と言った。
覚兵衛は、やっぱバカ殿じゃん…と暗澹たる気持ちになったとさ。
0431人間七七四年
2008/07/09(水) 10:12:32ID:7CyMyOiZ0432人間七七四年
2008/07/09(水) 10:15:38ID:6GPekp4E毛がもじゃもじゃになるんですね、わかります
0433人間七七四年
2008/07/09(水) 10:22:03ID:7CyMyOiZ「我々は人差し指や中指を使うのに」
0434人間七七四年
2008/07/09(水) 13:41:10ID:dm3qyj1K光秀が仕官できずに流浪していたころ、彼の家に客が訪ねてきた。
光秀は客をもてなしたいが、放浪の身で貧しかったので、妻のひろ子に愚痴をこぼした。
ひろ子は
「妻というものは、こういう不意の事態に対する心構えができていまいます。殿はもてなしの
準備に気を使わないで下さい」といって、酒肴を買いに行き、光秀は大いに客をもてなすことが
できた。
客が帰った後に
「そなたのおかげで明智の面目を保つことができたが、あれだけのごちそうを買える金をどこから
工面したのだ?」とひろ子に聞くと
「実は、私の髪を売って金に換えました」と答えて、ひろ子は被っていた頭巾を取った。
なんと、ひろ子の腰まであった自慢の黒髪は無残にも根元から切り取られていたのだ。
光秀は大いに驚き
「いかに落ちぶれたとはいえ、我が妻にそのような思いをさせるとは、自分が情けない。
よき主君に仕え、もう二度とひろ子にこのような思いはさせぬぞ。」と堅く誓いあった。
「 月さびよ 明智が妻の 咄せむ 」
これは、この逸話を詠った、松尾芭蕉の句である。
0435人間七七四年
2008/07/09(水) 13:50:21ID:gfSUNhue0436人間七七四年
2008/07/09(水) 13:59:18ID:7CyMyOiZ弟は落語家。
0437人間七七四年
2008/07/09(水) 14:21:42ID:dm3qyj1K織田家の猛将で知られる佐々成政は、越前の郡持大名から越中の国持大名に抜擢された。
佐々は、領地が増えたので新規の家臣の求人募集をした。
なんと、募集要項には「武功自慢求む」とあるのみ。
仕官希望の牢人の面接官には、佐々自らあたり、武功自慢の内容がビックな者はどんどん取り立てた。
しかも、求人1000石の応募者には、1500石で採用。求人500石の応募者には、700石で採用といった具合に
牢人衆に大盤振る舞いをした。
見るに見かねた側近が
「殿が大盤振る舞いをするから、牢人の中にはホラやウソの武功自慢をする不届き者がいます。いいかげ
んな採用はお控えください」と諌めても
「ホラでもなんでも、ワシの手足になる者なのだから、構うまい。それに、武功自慢が三度のメシより好き
何だもん」と一構に気にしない。
果たして、佐々成政のうわさは近隣諸国に広まり、結果的に名のある牢人衆を多数召抱えるころができたとさ。
0438人間七七四年
2008/07/09(水) 21:02:38ID:Ws6Dkeqy裏話ってあるものだな
0440人間七七四年
2008/07/09(水) 22:22:40ID:wZ74xq1p福島正則は粗暴で人を罰することも多かった。あるとき、近習の一人の武士がわずかなことで咎められ、一切食事を与えられず城内の櫓に閉じ込められた。
後日、もう餓死している頃だろうと思って正則が櫓に出向くと、その武士は餓死するどころか、顔色ひとつ衰えていなかった。
0441人間七七四年
2008/07/09(水) 22:24:03ID:wZ74xq1p0442人間七七四年
2008/07/09(水) 22:25:14ID:wZ74xq1p0443人間七七四年
2008/07/09(水) 22:29:05ID:Da7T3WmI0444人間七七四年
2008/07/09(水) 22:54:00ID:h8vz+p1c0445人間七七四年
2008/07/09(水) 22:56:07ID:7CyMyOiZとある法令が守られず、当時徳川の名物と言われた三奉行、仏の高力清長、鬼の本多作左衛門重次、
どちへんなしの天野康景が会議を開いた。
高力「法令が厳しすぎて守れないのだ。もっと守りやすい法令に改めるべき」
天野「いや、むしろ罰則を厳しくして、法令を徹底させるべきだ」
じっと聞いていた作左衛門、触れ書きの板を持ってこさせおもむろにこう書いた
「まもらねば、さくざがしかる」
これを城下に掲示したとたん、法令は遵守されるようになった。
0446人間七七四年
2008/07/09(水) 23:56:41ID:dm3qyj1K確かに明智妻の話は、北条時頼と佐野の話・蜀漢劉備と狼の肉の話、に似てるな〜とオモタが、更に原典となる
故事はあるんやろね。
0447人間七七四年
2008/07/10(木) 02:05:30ID:6R3v8Heb彼の嫡男隆元は、戦国の世には珍しい愛妻家で、側室を持たなかった
次男の吉川元春は、ブスと評判の嫁を貰ったが、やはり側室を置かなかった
そして、なんと三男の小早川隆景もまた、奥さん一筋であった
上の二人は後継ぎが生まれたのでまだしもだが、隆景には生まれなかった
にもかかわらず、側室を置かなかったのである
戦国一、嫁さんを大事にした一族と言えるだろう
0448人間七七四年
2008/07/10(木) 02:51:01ID:seV6O5kC家臣の山内元興に当てた手紙
「銀子100枚でいいから貸してくれないか!?絶対返すから!」
0450人間七七四年
2008/07/10(木) 12:50:45ID:FlIi8GSC「まもらねば、さくざがほる」
これを城下に掲示したとたん、法令は遵守されるようになった。
0451人間七七四年
2008/07/10(木) 12:56:01ID:e2dWpqn3真田昌幸と島田兵四郎
慶長5年(1600年)第2次上田合戦の時のことである。
秀忠の使番である島田兵四郎は,
本陣から攻城中の上田城をはさんだ場所に陣を張っている,
石川隊に連絡をつけなければならなかった。
上田城を迂回していくと大幅に時間を浪費してしまう。
そこで兵四郎は剛胆にも
「」上田城の門の前から城内を通りぬけさせてもらいたいと大声で頼んだ。
その報告を受けた昌幸は興がり、機嫌良く兵四郎に会うと
「後の合戦のために城内をよく見ておくが良い。また戦場ではわしの顔を忘れるなよ。」
と、自らの顔をよく見せたあと、城内を案内して廻った。
0452人間七七四年
2008/07/10(木) 18:21:55ID:ZVTe9j0Qサクザはその辺の民衆にも読みやすいように
法令の発表の際にはわかりやすい文体で平仮名で書いてたんだよな
甲が乙に〜とかはやらなかったんだよな
単なる鬼ではない
隻眼片足で秀吉のおかん焼き殺そうとしたけどな
0453人間七七四年
2008/07/10(木) 18:55:46ID:seV6O5kC北条征伐で秀吉が駿府城に入った時も、秀吉の前で家康罵りまくったりw
これを思い出した
秀吉の元に諸侯が集まった時、秀吉がそれぞれの家の家宝や秘蔵の品をたずねてみた。
それぞれ宝剣や茶道具などを自慢し合う中、最大の諸侯である家康は一人黙っていた。
秀吉が「徳川殿はいかなる宝をお持ちか?」と尋ねると、家康は、
「わたくしは、ご存知のとおり先祖代々片田舎におりますれば、そのような宝物は何も持っておりません。
ただ、事起これば自分のために命を捨ててくれる家来が五百騎ほどおります。これが私の宝でございます。」
0454人間七七四年
2008/07/10(木) 18:58:59ID:pO1YtQBM家臣『親方さまの汁なら三回はかけて欲しいぜ♪』
氏康『あぁ君臣が仲睦まじい…これで北条も安泰だ\(^_^)/』
信玄『ワシに学んだとは!北条に離間策は通じぬな。穴どるべからず』
0455人間七七四年
2008/07/10(木) 19:23:29ID:567QXLwH0456人間七七四年
2008/07/10(木) 20:21:49ID:uMxE+C22舟遊びに興じた。秀吉は饅頭を用意して、船に乗り合わせた大名
達に配った。皆、美味そうに饅頭をほうばる中、長宗我部元親は
饅頭を少しかじって、そのまま紙に包んだ。
それを見咎めた秀吉が訊いた、
「長宗我部、その饅頭が気に入らぬか?」
長宗我部は答えた
「いえ、秀吉様に頂いた貴重な饅頭を、私一人で食べるのはもっ
たい無き事。持ち帰って家臣達と分け合って食べます。」
秀吉は大いに喜び、用意していた饅頭をすべて長宗我部に与えた。
一時は四国全土を席巻し、「土佐の出来人」と謳われた
長宗我部元親。彼ですら戦国の世で生き残るには、こうした心遣い
が必要であったのかもしれない。
0457人間七七四年
2008/07/10(木) 22:46:18ID:ZUVezt6Vさくざwほっちゃいかんだろww
0458人間七七四年
2008/07/10(木) 22:51:20ID:seV6O5kC0459人間七七四年
2008/07/11(金) 10:18:00ID:PCi+oieC0460人間七七四年
2008/07/11(金) 12:01:29ID:nm+y5XnBあの話には実は続きがある。
交渉の結果無血開城となった忍城、そのことを知らせた三成に対し、秀吉からの返答は
「約束は関係ない。城の者どもは皆殺しにしろ」
だった。
三成はそれに強硬に反対。「我らは天下人たる秀吉様の名をもって約束したのである。天下人の面目のためにも
無血開城を許すべき」との強諫状を秀吉に送りつけた。
秀吉はそれをしぶしぶ認め、結果、忍城は無事無血開城された。
が、
秀吉はこの三成の行為にかなりの不快感を持ち、見せしめのため、秀吉草々頃からの家臣であり
三成を秀吉に推挙した、三成の妻の伯父に当たる、尾藤左衛門尉知宣を、下野那須野ヶ原に於いて斬殺した。
0461人間七七四年
2008/07/11(金) 13:04:01ID:rD2d70ZHま、秀吉の実像を知っている人なら驚かない話ではあるな。
0462人間七七四年
2008/07/11(金) 13:38:12ID:jUkSEDN2城内で開かれた軍儀で真田信繁が
「敵の準備が整う前に奇襲を掛け、出鼻を挫けば、豊臣に味方するものもさらに増えよう」
という提案に将達も賛成した。藤又兵衛は「では私がそれを仕ろう」と言った。
信繁は自分にまかせろといい、
又兵衛は、「信繁様は一軍の大将なのだからもしものことがあってはまずい」と言い、
ついには喧嘩になってしまったため、城を出ての奇襲は却下となった。
武将として戦功の無い信繁の焦りと自信過剰の又兵衛。
なんとも残念な情けない本当の話。
0463人間七七四年
2008/07/11(金) 13:46:06ID:nm+y5XnBその頃家康は
自軍の兵たちに自ら、竹束による鉄砲除けのやり方を教え、「最近の若い者は戦のやり方をまるでわかっとらん」と
怒っていた。
0464人間七七四年
2008/07/11(金) 14:28:25ID:U8OSaxyE0465人間七七四年
2008/07/11(金) 15:08:44ID:veEi+yPH0466人間七七四年
2008/07/11(金) 15:42:02ID:/8IbI/UW岡山県苫田郡西加茂村大字行重字貝尾部落で、
都井睦雄、数え年で22歳が、
ゲートル、猛獣用狩猟用口径12番9連発銃を手にし、
日本刀腰に下げ、匕首2本をポケット入れ、
貝尾部落の電線を切り、部落全体を暗闇にしたうえ、
自分はナショナルランプを胸に、
頭に2本の懐中電灯をさし、村人30人あまりを虐殺した。
まず都井は、一緒の部屋に寝ていた祖母のいねの首を手斧で斬りおとした。
首は約1mほど飛んだ。その上、猟銃を身体に無茶苦茶に撃ち込んだ。
続いて隣家の丹羽イト(47)方に侵入、就寝中のイトに瀕死の重傷を負わせる。
かたわらに寝ていた娘つる代(21)日本刀と猟銃を以って殺害、
続いて寺井好二方に侵入、一家を全滅せしめたうえ、
返り血を浴び悪鬼のごとく荒れ狂い、深い眠りに落ちていた付近民家を片っ端に襲った。
人とは思えぬ野獣のような叫び声を上げ、貝尾部落の住民を戦慄せしめた。
都井はそれから猟銃と日本刀を以って29人をたてつづけに殺害した。
返り血で全身血まみれになり付近の山中を逃げ回った都井睦雄は、
山中で自分の心臓を猟銃を撃ち抜き、自らの命を絶った。
「阿部定に負けんような、どえらい事してやる」
0467人間七七四年
2008/07/11(金) 15:48:21ID:qjLtY+6O(・∀・) <こらえてつかぁさい
0468人間七七四年
2008/07/11(金) 15:53:27ID:RQ4Wx2V70469人間七七四年
2008/07/11(金) 15:58:46ID:nm+y5XnB前田利家が秩父寄居の鉢形城をとりかこむと、封鎖された城側は戦意を失い降伏。無血開城された。
この、無駄な血を流さない鮮やかな戦果に利家も喜んでいると、早速秀吉から書状が届いた。
「こんなに早く書状が来るなんて、関白様もお喜びか!」と、書状を開くと、そこには
『誰が勝手に城兵の命を助けて良いと言った?』
この書状にハッスルした利家公、八王子城攻略で高名な皆殺しをやってのけました。
0471人間七七四年
2008/07/11(金) 19:39:37ID:nm+y5XnB三成の奉行に平塚越中守という者がいた。世に知られた武士であったので、彼が浪人していた時
徳川家康も仕官を誘ったが
「家康公はケチなので嫌でござる」
と言い、気前の良い石田三成の元に使えた。
やがて関ヶ原が起こり、平塚は落ちのびる最中生け捕りにされた。
かつての事を覚えていた家康は引き出された平塚に「わしの誘いを断り三成に使え、この様か」と嫌味を言う。
それに平塚は「何を言うか!徳川殿とてかつては今川に人質にされ、戸田にさらわれ織田に売られたような身で
あったではないか!」と家康を散々に罵り、「さあ、早く首をはねよ!」と啖呵をきった。
それを聞いて家康はにやりと笑い
「さても憎い奴だ。お前のような奴に一瞬しか苦しまない斬首はもったいない。生かして世の苦しみを味あわせよ」
といい、縄を解き召し放してしまった。
左右の者たちが「何故あのような無礼なものを!これでは処罰になりませぬ!」と抗議すると
家康は、「あ奴は見所のある奴だが、苦労が足りぬ。苦労して人を磨けば、わしの息子達の家臣にしたいほどの、
良い武士になるであろう。そう見込んだから、命を助けたのだ。」といった。
この平塚越中守の名が、紀伊家初代、徳川頼宣の家臣の中に現れるのは、この暫く後の話である。
0472人間七七四年
2008/07/12(土) 00:16:12ID:iKrK589Q家臣一同その作業にてんやわんやの目に合うも、提灯業者大いに潤う。
0473人間七七四年
2008/07/12(土) 00:27:52ID:iKrK589Qそれを指摘されると「うるせー俺の城は実戦向きなんだよ」と、良くわからない言い訳をする。
0474人間七七四年
2008/07/12(土) 01:18:13ID:iKrK589Q長享元年(1487年)伊勢新九郎、幕府にまた出張に出される。ついでに甥っ子がピンチだったので助ける。
永正元年(1501年)伊勢新九郎、甥っ子と鎌倉観光を楽しむ。「こいつも成長したなあ」と、しみじみする。
永正二年(1505年)伊勢新九郎、甥っ子の嫁の世話をする。京都の名家のお嬢様だ。
永正十三年(1516年)伊勢新九郎、伊豆三島大社に参拝し、甥っ子の戦が上手く行ったことを神様に感謝する。
でも恥ずかしいので甥っ子には内緒だ。(約500年後、気の利かない地元の史家にばらされる)
0476人間七七四年
2008/07/12(土) 11:04:47ID:iKrK589Q・伊達政宗、自邸に将軍の御成りが決まり、幕閣一同下見に訪れる。そこで将軍への進物の話になり、
政宗、長さの違う二振りの脇差を出してきて、「どっちがよろしいかな?」と聞いてくる。酒井忠世と土井利勝が
「長いほうかな?」と答えると、その答えを何故か気に入らなかった政宗、急に怒り出し
「短いほうでも、お前のわき腹ぶっ刺せるんだぜ」
と、良くわからない威嚇を始める。幕閣一同笑ってごまかす。細川忠興呆れる。
・伊達政宗、友達で旗本の加々爪忠澄の額を、何を思ったか突然ひっぱたく。忠澄もとっさにひっぱたき返す。
→そのまま場外乱闘。拳と拳で男の友情を確かめ合う。細川忠興呆れる。
・伊達政宗、島津家久を呼んで茶会を企画。余興として能でもしようと思い立ち、喜多七太夫の所に
「役者貸せ」と言いに行くも、七太夫「あいにくその日はみんな予定が埋まってまして…」
これに激怒した政宗「来ないと言うのなら、お前ら全員斬り殺す!」と、堂々のジェノサイド宣言。政宗は本気だ。
困った七太夫、島津家久に泣き付く。訳を聞いて途方にくれた家久、友達の立花宗茂や寺沢広高と相談の結果、
「いたたたたたた?あれ?急に、おなかが、痛、いたたたたたた、急におなかが痛くなったよー、これじゃ茶会は無理、
残念だけど延期するしかないなあーいたたたたた(棒読み)」
と、不登校の小学生みたいな言い訳をして、五日間の延期に成功。細川忠興やっぱり呆れる。
0478人間七七四年
2008/07/12(土) 13:10:20ID:wM2GQ6nA0479人間七七四年
2008/07/12(土) 14:14:36ID:jmDXDfNF0480人間七七四年
2008/07/12(土) 14:31:52ID:o3th/Art0481人間七七四年
2008/07/12(土) 17:07:17ID:BowFtQy6島津家久ってとこで笑った
西国無双のDQN忠恒様さえも途方に暮れる役回りにしてしまう
政宗おそるべし
0482人間七七四年
2008/07/12(土) 17:34:24ID:iKrK589Q自分の、幼い4人の子供たちにあてた手紙
『鳥取城は、昼夜あわせて200日も耐えてきました。しかし、兵糧も尽いたので、
父は一人腹を切り、城兵を助け、吉川一門の名を上げたのです。
その、幸せな物語をどうか、皆から聞いてください。」
0483人間七七四年
2008/07/12(土) 22:09:30ID:1LXiI71w>>474
なんかの日記のガイドラインですか
>>482
それは「ちょっといい話し」というより「泣ける話し」のような。
0484人間七七四年
2008/07/13(日) 00:41:09ID:+yWH91Rb朝廷への参内を認められ、参議に就任。毛利家始まって以来の殿上人である。
御所を出たのは夜中の10時。だが輝元うれしさのあまり、付き添いの小早川隆景引っ張って
豊臣秀長のところに「参議になったよ!」報告に駆けつける。が、当然既に門は閉められており、
門番から「もう遅いんで明日来てもらえますか?」とたしなめられる。
隆景、ひどく恥ずかしい思いをする。
0485人間七七四年
2008/07/13(日) 15:31:50ID:+yWH91Rb信長は将軍の新邸や御所の新築をするため、各地から資材を集め、かつての室町幕府の政庁、花の御所が
あった場所からも石材をどんどん搬入させた。それを見た京都の市民、御所の女房言葉で、団子の事を
「いしいし」と呼んだ事から、「これがホントの花より団子か」と、信長、変な感心をされる。
0487人間七七四年
2008/07/14(月) 10:10:15ID:6awfvRt+ちなみに、三成は伯父を殺されたのが相当堪えたのか、この後の奥州征伐では、秀吉に言われたとおり、
九戸などで「城兵の命は助けると約束して降伏させる→皆殺し(女子供含む)」をやって、秀吉からの信頼を
回復します。
0490人間七七四年
2008/07/14(月) 13:50:43ID:INEJa3iz大坂夏の陣の5月ごろから食が細くなった重成、
「落城近しの風聞に接し、食が進まないのか?」の問いに、こう答えた。
「昔、後三年の役のおり、末割四郎という者がいた。
この者は臆病もので、朝の食事も喉に通らないほどだったが、
敵陣で首を切られた時、切り口より食い物が出てきて恥を晒したそうな。
俺も首を取られるだろうが、骸の臓物を見苦しくないようにしたいから謹んでいるのだ」
0491人間七七四年
2008/07/14(月) 21:08:57ID:6awfvRt+領民たちに「農民も商人も、戦えるほどのものはすべて参戦せよ!」と、悲壮な総動員を訴える。
ただし
「見苦しい格好をしているものはその限りではない」と、ファッションへの強いこだわりも見せる。
0492人間七七四年
2008/07/15(火) 01:19:32ID:AlKY6CLr土井利勝のところに秀忠と家光が御成りになるという話を聞いた忠興、利勝のところに贈り物をした。
幕府の筆頭人として世をときめく土井利勝は、しかし、己の身を慎み、大名たちからの贈り物は一切受け取らない男だった。
この時も、「私は大名からの贈り物は一切受け取っておりません」と断る利勝に、使者は、
「主人が申すには、とにかく見るだけ見てほしい、と言っております」とのこと。
利勝が何かと思って開封するとそれは、よく贈られる高額な品物ではなく、忠興自らが目利きした、ありふれた感じの
掛け物や香台などの道具類だった。
「これは…?」
ふと、何かを悟った利勝、なんとその贈り物を、そのまま受け取った。
そして御成りの日、御成りの間には絵の類が一切飾られず、床の間には鳥の子紙の貼付壁の前に、
忠興の送った道具類だけがさりげなく置かれていた。それは高価なものではないが、一つ一つの品の確かさといい、
全体の調和といい、素晴らしいものだった。そしてその飾りつけは、忠興の審美眼の高さをさらに強調していた。
幕府の芸術監督である小堀遠州も、ただただ感心したと言う。
後でその話を聞いた忠興、「利勝は芸術と言うものを良くわかっている」と、喜んだ。
0495人間七七四年
2008/07/15(火) 17:22:38ID:AlKY6CLrちがうよ。「見苦しい格好で戦場出られると敵から笑われて恥ずかしいから」って言う理由。
さすが「装束の北条」の面目w
0496人間七七四年
2008/07/15(火) 20:30:05ID:AlKY6CLr新将軍義勝の元に、死亡した将軍義教を弔うために高麗から使節がやって来た時、
そういえばあいつはどこに行ったのかねえ、と、その話題が出た。
高麗使節が「それはどのような人物なのですか?」と聞いてきたので、幕閣たちがそれを説明すると、
かの使節、みるみる顔を青ざめさせ、こう叫んだ、
「そいつ!今我が国を襲撃している倭寇の頭領!!」
一同、則繁が元気でいることを知りほっとする。
0497人間七七四年
2008/07/16(水) 01:38:03ID:jrnwjRYY京には、今は亡き斉藤義龍の妻が隠棲していた。その女が、美濃斉藤家に伝わる茶道具の名品を、
義龍の形見として持っていると言う事を知った信長、早速その名品を自分に献上させる様に命令した。
だが、彼女はそれを拒否。信長の使者を追い返した。これを聞いた信長は、女を殺してでも奪って来いと
怒った。その時、稲葉、安藤、氏家の、西美濃三人衆をはじめとする、今は信長に仕える旧斉藤家の家臣たちが、皆
信長への面会を求めてきた。何事かと召し出すと、彼らは、「義龍公の奥方から茶道具を取り上げるとの事、
どうか、考え直していただきたい」
さもなくば、
「我ら一同、この場で腹掻っ切ります」
これには信長も、彼らの要求を呑むしかなかった。
美濃系の武将の家に、長く伝わったお話。
0498人間七七四年
2008/07/16(水) 05:51:30ID:6d2eLwz4信長系のオチだと本当に腹切らせたとかなりそう
秀吉系のオチなら後で美濃衆の縁者を処刑したってなるのは確実
0500人間七七四年
2008/07/16(水) 12:40:57ID:d+m9FLXMそんで、倭寇として備中・河内まで攻め込んでくるんだよなw
壮大なロマンを感じさせる武将やなぁ 100点
0501人間七七四年
2008/07/16(水) 17:44:50ID:Jh04Gc8Rそれは言継卿記に出てくる壷事件の事なんだろうな。
美濃国人の佐藤が岐阜に滞在していた言継卿に語った話として出てくる。
0502人間七七四年
2008/07/16(水) 20:12:32ID:wbYBbw2Uとある秀吉が攻め取った城で幽霊が出ると騒ぎになっていた
多くの者が討ち死にした場所ではよくある話です
夜になると先の城主が恐ろしい形相で城内を歩き回っているそうで
城の女達は祟りを恐れ浅野長政に相談しました
長政は早速御祓いをしたのですが一向に効果が無く秀吉に報告したのです
長政:毎晩先の城主○○が城内を歩き回っておるようです
秀吉:何を申しておるのだ、○○はとうにこの秀吉が討ち果たしておるわ
長政:それが亡霊となって徘徊されておるようで、いかがいたしましょう?
秀吉:そはまことか?アハハこれは近頃無い楽しい話じゃ
長政:相手は亡霊ですぞ、御祓いも意味無くどの様な災いがあるか
秀吉:あ奴この秀吉にたて付くから成仏出来ぬのじゃ、こんな楽しい事があるか
秀吉:わしに逆らうと成仏出来ぬ様になるぞ、と世に広めよ
長政:はぁ・・・
「秀吉が大はしゃぎした夜から幽霊は出なくなったそうです」
○○の名前忘れてしまったスマソ
0504人間七七四年
2008/07/16(水) 20:35:44ID:jrnwjRYY後の関白秀次の父、三好武蔵野守は自分の髭が自慢で、
ある人から「こんな立派な髭は日本では見た事がない。舶来物の髭ですな」
と言われ大いに得意になった。
そこで、会う人会う人に自分の髭を「どうでござるこの髭、ここだけの話、舶来ではなく日本産の髭でござるよwww」
と、吹聴してまわっていたそうな。
秀吉、自分の一族の将来に深刻な不安を感じる。
0505人間七七四年
2008/07/17(木) 00:55:18ID:tjjOvyw7別所長治かな?
0506人間七七四年
2008/07/17(木) 01:37:17ID:MUg3pPyl成仏してる気がする。辞世とか死に際見たら(3人中だと別所かなぁ?)
0507人間七七四年
2008/07/17(木) 10:14:01ID:Hx6YqQ5Mというのは不名誉この上ないことだろ
0508人間七七四年
2008/07/17(木) 10:58:52ID:zfOtEsuw0509人間七七四年
2008/07/17(木) 11:54:19ID:4Rtj3R4Y0510人間七七四年
2008/07/17(木) 18:30:59ID:aEbMU9HC0511人間七七四年
2008/07/17(木) 18:42:35ID:q86cL6uf城に詰めている家臣の一人が「ああ、若様のためにも、せめて殿があと3年生きてくれれば…」と、言うと
それを聞いた同僚がポツリと
「高価な毒薬さえ手に入れられれば…」
その場にいた家臣一同「何でだよ!」と総ツッコミ
そう言った本人は「ホラ、高価な毒薬は3年たって人を殺すと言うじゃないか」
病床の氏郷、自分を心配する家臣への感謝と、自身の家臣選びの目利きへの疑問の、二つの気持ちを同時に抱く。
0512人間七七四年
2008/07/18(金) 17:13:41ID:KzaGCBJBある時、信長が家来に対して「槍の柄は長いのと、短いのとどっちが有利か」と質問した。
この質問に対して、上島主水は「短いのが有利」、羽柴秀吉は「長いのが有利」と答えた。
双方の言い分を聞いた信長は、
「双方に足軽50人を付けて、3日間の猶予をやる。4日目に両者で模擬戦をやって、どっちの言い分が正しいか確かめよう」
と言った。
主水は、早速50人の足軽を集めて、短い槍で長い槍に打ち勝つ方法を伝授し、朝から晩まで猛特訓をした。
他方秀吉は、集まった足軽50人と飲めや歌えやの宴会三昧で、一向に稽古をしなかった。
そして、4日目の模擬戦当日となった。
馬場の東西に主水の短槍足軽50人と、秀吉の長槍足軽50人が陣を作る。
試合開始の太鼓が鳴るや否や、秀吉隊は素早く3隊に分散して主水隊に襲い掛かり、リーチが大きい長槍を振るって敵をなぎ倒し
突き伏せて、勢いに圧倒された主水隊の足軽は猛特訓で身につけた槍術を使う間もなく勝負は決してしまった。
試合後に信長は
「個人戦なら主水の短槍が有利であろう。しかし、集団戦なら秀吉の長槍が有利である。個人戦で勝つ工夫をした主水も集団戦で勝つ工夫
をした秀吉も、双方の心がけはあっぱれである」と言って、双方に褒美を与えたとさ。
0513人間七七四年
2008/07/19(土) 00:36:53ID:xajQCAlt当時秀吉の御伽衆の中に、二徳という者がいた。
かれがいつも調子のいい事を言うのをこにくらしく思っていた秀吉は、悪戯をしかけてみた。
二徳を呼び出すと「今日は非常に立派な鶴を献上された。これを生き造りにしてお前に食わせてやろう」と言う。
そんな気持ちの悪いもの食わされてはたまらない、と思った二徳
「わたくしは、愛宕権現に願をかけておりますので、ただいま生ものを食う事ができません」と言った
「なんじゃと?いい加減な事を言うと釜茹でにするぞ?一体何の願をかけておるのじゃ?」
「太閤殿下の事で」「わしの?」「はい。殿下が臆病になられますように、と願をかけております」
わしを臆病にするとは何事か!と、言い出しそうな秀吉に二徳は、「殿下はあまりに命知らずでありまして、
戦場でも鉄砲などにお構いなくどんどん進んでいってしまいます。もし鉄砲の弾に当たってお果てになられたら、
私はどうしたらいいいのか…。それゆえに、臆病になられますようにと、精進し権現様に祈っておるのです」
秀吉はこの答えを気に入り、二徳をほめ、褒美をとらせた。秀吉の悪戯を見事に切り替えしたお話。
0514人間七七四年
2008/07/19(土) 00:39:33ID:ZyON3uCE有名な吉四六さんも秀吉に絡んだ逸話がなかったっけ?
0515人間七七四年
2008/07/19(土) 02:29:03ID:3l4HsHeKちょっと調べてみたが秀吉の御伽衆でとんち話だと曽呂利新左衛門か。
あるとき、秀吉が新左衛門に褒美をとらせることになりました。
秀 吉 :「新左衛門、何でも褒美のものをとらせよう。何がよいか?」
新左衛門 :「はい、それでは米粒をいただきとうございます。
今日から将棋盤の目の数だけの日数、毎日いただきとうございます。」
秀 吉 :「どのくらいほしいのじゃ?」
新左衛門 :「はい、今日は1粒、明日は2粒で結構でございます。
毎日その前の日の2倍の米粒をいただきとうございます。」
秀 吉 :「米粒だけでよいとは、おまえはなんと謙虚なやつじゃ。
その願い確かにかなえようぞ。」
新左衛門 :「ははっ。ありががたき幸せ。」
家 臣 :「秀吉様、たいへんでございます。」
秀 吉 :「どうした。」
家 臣 :「81日も褒美をあげれば、国が潰れてしまいます。」
秀 吉 :「なんと言うことじゃ。早く新座衛門ここへ呼んでこい。」
新左衛門 :「秀吉様、どうされたのでしょうか。」
秀 吉 :「そなたには、参った。褒美を他のものに替えてくれんか。」
新左衛門 :「承知いたしました。」
インドの古代象棋の説話でもあったよなぁ、これ。
0516人間七七四年
2008/07/19(土) 04:02:59ID:upL91i52秀吉のプロバカンダのせいで
>試合後に信長は
こっからしたしられてないよね
神智の太閤様に逆らった旧態依然の愚物としてし描かれてない(名前もまず出ない)
信長がはちゃんと双方みてて偉いな
0517人間七七四年
2008/07/19(土) 05:19:59ID:L97ruCNa0518人間七七四年
2008/07/19(土) 11:36:38ID:ujPURHeIこの逸話は絵本太閤記から引用したが、意見の対立する争点について、とりあえず両者に証明の機会を与えるって
パターンの逸話は、1次史料である信長公記にも3つほどある。
信長って独裁者みたいなイメージもあるけど、それ以前に科学的実証主義者でもあるわけだ。
0519人間七七四年
2008/07/19(土) 14:00:28ID:xajQCAlt何があったか松井の到着が送れて、せっかくの料理が出すに出せない。
料理人が「今日のメインディッシュに用意した塩鯛が、焼けすぎてしまいます!」と愚痴を言う。
それを聞いて幽斎は一句
来ぬ人を まつ井の浦の夕めしに 焼き塩鯛のみをこがしつつ
おなかがすいてイライラしていたご相伴一同、これにはどっと笑って場の雰囲気も一気に良くなったとか。
幽斎のインテリ文化人らしいお話。
(定家の「来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の身もこがれつつ」のパロディ)
0520人間七七四年
2008/07/19(土) 23:06:19ID:ZyON3uCEいい話ではあるんだけど
同伴衆もそれに見合う教養がないと座が和まないと思われ
・・・
ま、戦国〜江戸初期じゃ武将レベルはこれが普通だったんでしょうか。
秀吉の子飼いはこのレベルに達してるか怪しそうなのがいるがw
0521人間七七四年
2008/07/20(日) 01:48:35ID:JYeJ6fnx京の綾小路で、ある家の女房が屋根の吹き替えをしていたところ、足を滑らせて下に落ち、
運の悪いことに、ちょうどその落下地点に隣の家の女房がおり、下敷きになった隣の家の女房は
首の骨を折って死んでしまった。
これに怒った、死んだ女房の夫は「うちの妻を殺すためにわざと屋根から落ちたのだ!」と言いたて
京都所司代、板倉伊賀守訴えた。
訴訟を聞いた板倉は
「よしわかった。では、隣の家の女房をお前の妻がいた場所に置き、お主は同じように屋根から落ち、
憎い女を殺すがよい」
男は「そんな事をしたら自分が下手をすれば死んでしまう」と、訴訟を引っ込めた。
0522人間七七四年
2008/07/20(日) 10:35:04ID:0NerwLrvどっちに転んでもうまい話じゃないかこれは。
0524人間七七四年
2008/07/20(日) 12:17:23ID:JYeJ6fnx連歌会をしに集まった。先に庭をぶらぶらしていると、桃や柿の木の下に、弓矢を持たせた人形が
いくつも置いてある。公家たちが「これは何ぞや?」と尋ねると、紹巴は「成った実を荒らす、トンビ除けでございます」
と言う。
それを聞いた、連歌の腕前では紹巴のライバルの烏丸卿
「いやいや、トンビではなく、カラス除けではないのかな?」
紹巴師匠、一本取られる。
0525人間七七四年
2008/07/20(日) 12:49:16ID:E75Eeo1K悔しいぜ
0528人間七七四年
2008/07/20(日) 14:09:16ID:f9+sE7vw連歌会に顔出すぐらいだから決定的なほど仲が悪いわけでもなかろうし
0529人間七七四年
2008/07/20(日) 17:45:49ID:IcuAKWbl藤孝は若いころは、
「歌詠みなどは公家児女がやることで、武士なら恥ずかしくてやってられない」
と見向きもしなかった。
ある時、敵将を追っていたが、途中で見失いあとへ引き返そうとすると、藤孝の供の一人の侍が馬の口
を押さえて、「いま少し追撃するべきです!」と進言した。
藤孝は首を横に振って
「長路、すでに人馬も疲れて追いつくことが困難だし、そもそも敵はすでに遠くに逃げてしまっただろう。」
と言った。
すると、その侍が、
「歌の心を持って考えてみまするに、
『君はまだ遠くには行かじ わが袖の 涙もいまだ冷ややかならねば』
という古歌があります。いま、敵の乗り捨てた馬をなでてみますと、鞍がまだ温かですから、
敵はそう遠くへは逃げておりますまい。」という。
藤孝はそれを聞いて感心し、侍の助言どおりに追って行くと、まもなく敵に追いついて、敵将を
捕虜にするという戦功をたてることができた。
それ以来、藤孝は歌道を好み、ついに歌道の達人になったという。
0530人間七七四年
2008/07/20(日) 19:42:06ID:JYeJ6fnx大広間に雑煮の膳が並べられたのを見ていると、よりにもよって信長の膳だけ、箸が片方だけしか置いていないのを
発見。
「これは、どういうことだ?」
見る見るうちに機嫌が悪化する信長、硬直する家臣一同、凍てつく空気、その時である、
末席にいた、当時まだ木下藤吉郎と呼ばれた秀吉が進み出た
「やあやあ!これはめでたい!上様が今年から、諸国を片はしに取られると言う吉兆でございますぞ!
ああ、めでたやめでたや!」
信長、機嫌を直す。家臣一同、秀吉に深く深く感謝する。
0531人間七七四年
2008/07/20(日) 21:12:35ID:JYeJ6fnx正月のご挨拶に諸大名が出仕してみると、信長の機嫌がまたえらく悪い。
「昨夜、このような夢を見た
どこかへの出陣で、具足をつけて馬に乗ったところ、その馬の足が四本とも突然折れて、
わしは地面に投げ出された。これはいかなる兆しであるか?」
一同、それは凶兆だろうと思うが、そんな事を言えば大変な事になると思い押し黙る。
その沈黙に、ますます機嫌の悪くなっていく信長。硬直する諸大名。凍りつく大広間。その時である。
またも木下藤吉郎進み出て
「やあやあ!これはめでたい!その夢はすなわち、合戦に出るたびに勝ち(徒歩)武者の武名をお上げになる
お告げでございますぞ!いやはや千秋万歳千秋万歳!」
信長、機嫌を直す。諸大名再び秀吉に深く感謝する。
0532人間七七四年
2008/07/20(日) 21:52:20ID:qCnkLbV+前田家には源義経の愛妾、静御前が使ったといわれのある薙刀を家宝としていた。
ある時、徳川幕府より使いがきた。
「我が徳川家も、静御前の薙刀を所蔵しておる。前田家の薙刀は、贋物ではない
か?」
前田家の家臣達は困った。こちらが本物と言えば、幕府の機嫌を損ねる。だがこち
らが贋物と言えば前田家の面目が潰れる。
だが前田利常は、幕府の使者に笑って答えた。
「静御前は勇敢な女だった。義経のために、何度も戦った。その静御前の薙刀が、
一本のはずがあろうか。両家の薙刀は、いずれも本物である。」
その答えに、使者も家臣達も手を打って喜んだ。
0533人間七七四年
2008/07/20(日) 23:13:45ID:KkKvrnNm俺にとってこのレスの“いい話”といえる部分は、利常の言い訳によって
前田家臣だけでなく徳川幕府側の使者までもが気をよくし喜んだことだと思う
最初から前田家にいちゃもんをつけるつもりでなかった、
争いをけしかけるつもりでなかったということが好感を抱かせる
0534人間七七四年
2008/07/21(月) 01:04:53ID:OOwZN2h00535人間七七四年
2008/07/21(月) 01:16:44ID:lWN0SkMs義経の静御前は白拍子のイメージが強すぎて薙刀なんてとてもとても
0536人間七七四年
2008/07/21(月) 01:33:01ID:D7XUG4/Eあまり歴史を知らない職人が作ったんだろうから。
場所が悪かったね(笑)
0537人間七七四年
2008/07/21(月) 01:46:20ID:+Rkb0OTe噴飯ものもいい所だなw
0538人間七七四年
2008/07/21(月) 02:06:48ID:hCwRn/Fh0539人間七七四年
2008/07/21(月) 03:02:48ID:Uw2FX4Oi0540人間七七四年
2008/07/21(月) 03:19:42ID:OOwZN2h0koeiから源平無双でも出たのかと思って調べちまったよ
夏だな
0541人間七七四年
2008/07/21(月) 04:30:24ID:qOC5KNy60542人間七七四年
2008/07/21(月) 07:27:18ID:Ok6H5Gst0543人間七七四年
2008/07/21(月) 07:40:19ID:yZZwlGubこう言った話は、その変遷の課程も面白いんだよ。地域、地方で特色が出たりな。
歴史ってのは、そんな感じで楽しむもんだ。
まあ、日本の歴史教育は正解以外は全て誤り、って感じだから仕方無いけどね。
0544人間七七四年
2008/07/21(月) 07:46:12ID:lWN0SkMsそれは承知の上ですが、なにか?
0546人間七七四年
2008/07/21(月) 09:48:18ID:zVBDwMmJ全くの出鱈目でもなければ、巴→静に変わっていった話でもない。
0548人間七七四年
2008/07/21(月) 12:49:08ID:UMrtEbwD静御前=薙刀っていうイメージだったんだろう。
当時の歌舞伎や浄瑠璃、書籍を見ても
そういう所はけっこういい加減だよ。
(鎌倉武士が月代だったり、旗本みたいな恰好してたり)
逸話は後の時代に作られる事が多かったし
当時の感覚がベースになるから
その辺をくみ取ってあげようよ。
0549人間七七四年
2008/07/21(月) 15:01:32ID:OOwZN2h0吾妻鏡にそんな記述はない
静が薙刀の名手っていう根拠はなに?
0551人間七七四年
2008/07/21(月) 17:21:11ID:OOwZN2h0資料名出せ
0552人間七七四年
2008/07/21(月) 19:22:30ID:xD7fbnCn0553人間七七四年
2008/07/21(月) 19:31:41ID:+Rkb0OTe0554人間七七四年
2008/07/21(月) 19:38:19ID:6/fw3t8q0555人間七七四年
2008/07/21(月) 19:42:41ID:xP0+yu99長刀の名手ではなかったと証明するのも不可能だよな。
悪魔の証明ってやつ?
0557人間七七四年
2008/07/21(月) 19:52:58ID:xP0+yu99堀川夜討の時と西国行きの船が難破してから吉野で別れるまでの
逃亡中の間ぐらいかな。
0558人間七七四年
2008/07/21(月) 19:54:21ID:YNDj5C3/逸話自体あるんなら別にいい。
反応せずにスルーしろよ…
0559人間七七四年
2008/07/21(月) 19:56:57ID:+Rkb0OTe0560人間七七四年
2008/07/21(月) 20:42:14ID:+Rkb0OTeある初老の僧が、大変有能で気が利くので、義輝が「還俗して侍としてわしに仕えないか?」と言う。
しかしその僧は、
「わたくしは、8つ9つの頃に出家いたしまして、それから一心不乱に修行をし、ようやくこの齢になって
仏の道の何たるかが解るようになりました。もはや俗事に関わる気はございませぬ」
と、断った。
一同これに感じ入り、将軍はさらに仕官を勧める。そこで根負けしたこの僧は
「わたくしは無理ですが、私の息子ならば追い使って頂けますかと…」
義輝「…」
幕臣一同「…」
義輝「息子って…養子?」
僧「いいえ?実子。」
義輝「お前何歳のときに出家したって言った?」
僧「8つ9つ」
義輝「…」
僧「あ」
0561人間七七四年
2008/07/21(月) 20:47:25ID:qOC5KNy6巴御前の対として名前が出ただけでは?
実際、静御前が長刀を手にしていたなんて史料あるの?
>>550
なんでまったく史料を示されていない話を、あっさり信じちゃうのかね。
0563人間七七四年
2008/07/21(月) 20:52:52ID:qOC5KNy6静御前が長刀に通じてたやら、実際に戦ったなんて話あるのかね。
0564人間七七四年
2008/07/21(月) 20:54:19ID:qOC5KNy6お前ほどじゃないよ勝手に
>義仲、巴→義経、静に変換されて行った話って気付けよ
なんて解釈してる方がどうかしてる。
0565人間七七四年
2008/07/21(月) 20:58:27ID:qOC5KNy6誰もそう解釈した事実がないものを、2chで勝手に当然であるがごとく書いて、
語学力がどうだの同調しない相手は、史料も理論もなく、ハナから間違い扱い。
どっちがレベル低いんだか。
0566人間七七四年
2008/07/21(月) 21:06:38ID:UMrtEbwDただ、薙刀術が流行した江戸時代において
静御前は男型として名前が使われる位
一般のイメージとして薙刀になじみがあった。
逸話を作った人間もその時代を生きた人間だったので
「家宝の静御前の薙刀です」とするのは至極当然。
そもそも各藩に伝わる逸話は、後になってから
作られたモノが多いので、史実、史実と言うのは野暮な話。
0567人間七七四年
2008/07/21(月) 21:20:47ID:xP0+yu990568人間七七四年
2008/07/21(月) 21:21:51ID:xtDrDUqrあなたの主張も理解できますが、>>532の話の重要な所は、
前田常利の頓智のきいた対応の良さであり、彼が言った
薙刀の由来等は、また別の考証をすべきです。
少なくとも、このスレで行う議論では無いと思います。
また、以前にも書かれているように、逸話や伝承、寓話等の
話に、ソースとか徹底した理論考証とか必要でしょうか?
それならそれで、別にスレを立てて議論すべきと思います。
お気を悪くされたらすみません。
0569人間七七四年
2008/07/21(月) 21:33:37ID:xP0+yu990570546
2008/07/21(月) 21:55:58ID:zVBDwMmJ正直>>536とか>>540-542の言い方が目に余ったんで、
沈静化してやれと思っていかにも偉そうに書いてしまった。
馬鹿は俺1人なんで、この話題はもうこの辺でお願いします。
0571人間七七四年
2008/07/22(火) 00:08:11ID:MKtq69Fr今までだって信憑性は??な話あったのになんでこれだけ噛みついてるんだよ
0573人間七七四年
2008/07/22(火) 01:09:19ID:y6vZgg4n俺としては優れた逸話であれば、極論、レスする人間が創作したものでさえ可と思うわけだが
0574人間七七四年
2008/07/22(火) 02:01:37ID:HPOjLDMd一応、最低でも明治以前の文献にあるものに、準拠したものでないと
取り止めがなくなってどうしようもなくなると思うぞ。
歴史小説からエピソード引っ張ってこられてはさすがにたまらん。
0575人間七七四年
2008/07/22(火) 02:24:54ID:y6vZgg4n荒れるようなネタを投下された時だけは別だが。
どの辺まで許容するのかはスレ基準を設ければいいんじゃないか?
0576人間七七四年
2008/07/22(火) 02:58:51ID:y6vZgg4n奥州の独眼竜・伊達政宗には重臣後藤信康から献上された「五島」という愛馬がいた。
大坂夏の陣に出陣する折、政宗は五島に向かって言った。
「お前ももう歳だ。此度の出陣は長旅になるであろうから、留守を命じる」
政宗にしてみれば愛馬を気遣ったつもりであったが、
五島にしてみれば長年共に戦場を駆けてきた主人に留守を命じられたことは甚だ悲しいことであった。
もはや役に立たぬ身なればと、五島はその夜のうちに仙台城の崖から飛び降りて自殺してしまった。
政宗はその話を聞くとひどく心を痛め、五島の死んだ地に墓と神社を建立し、手厚く葬ったという。
※神社は現存する。
ま、一説には、死んだのは後藤信康自身とも言われているらしいが・・・・・・こういうオチだったら政宗らしいなw
0577人間七七四年
2008/07/22(火) 03:25:45ID:Itl1le1K0578人間七七四年
2008/07/22(火) 04:25:58ID:A61+beeF火に油を注いじまった男がいたんです
なにぃ〜?やっちまったなぁ!
男は黙って男は黙って太閤記!男は黙って太閤記!
在りもしない橋の下で籐吉郎が寝ているよぉ
0579人間七七四年
2008/07/22(火) 04:48:51ID:vmvEjo+D0580人間七七四年
2008/07/22(火) 05:10:08ID:vmvEjo+D隆景の「おまいは頭がよすぎるから即決で後悔するやろ?俺は前ほど頭が良くないから
後悔しなくて済むんだぜ?」や隆景没後に如水の「これでこの国から賢人は一人もいなくなった」などは
有名だが実は隆景は「こいつ俺との友情はともかく俺がいなくなたらなにするかわからん」と思っていたらしく
「如水が休息求めてきても俺の領内で絶対ヤスませちゃだめ」と遺言したという
(ちなみにお兄ちゃんの吉川元春の死が早くなったのは如水のせい。これも有名だが)
私情にとらわれず人を見る目があったんだね
死に際には同じころ病気で死にかけてた弟元清とどっちが先にくたばるか勝負しようぜ?とかもやたった
結果は2カ月弱の差で隆景の勝ち
この時期に重鎮が死にまくってなければ毛利の運命も変わったかもしれぬ
0581人間七七四年
2008/07/22(火) 10:00:56ID:UU1nkhLEhttp://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0582人間七七四年
2008/07/22(火) 17:57:05ID:2Ts8X6uJ「へえ、その頃って静が長刀の名手ってイメージがあったんだね。
やっぱり歌舞伎の影響があるのかな。」
などど軽く受け流せず、史実が気になって仕方ない人にはそのスレに行ってもらおう。
ここは逸話の信憑性を議論するスレじゃないし。
0583人間七七四年
2008/07/23(水) 15:06:13ID:6Sp4iF060584人間七七四年
2008/07/24(木) 23:20:27ID:dJY864Qrイ从、从从从从从ll|| |リ从////ノノ彡;j
jl从从从从;;;;;;;;;;;;从;;;;;/;;;;;;;;;、、、;;-ー、イ彡:}
(ミミ;;ッ''"゙ ̄ '、::::゙`゙''ー、/"´::: :::: |;;;;;彡|
}ミミ;;;} ::: {:: ゙:::::、::: :::ィ ,,:::: };;;;イ;;l
jミミ;;;;} ::: ヽ::::ミヽ:: | ノ W:: |;;;;彡:|
}ミ;;;;;;} ::: ヾ {:::::ミ ヽ j イ|从 ":::: };;;;;;彡{
iミ゙;;;ノ:::::: \'、 }}: l||イ /,ィ;;、、-ーーヾ'ァ;;イ、
{;;;;リ:レ彡"三三ミヽ,,リ{{,,ノ;;;;ィ≦==ミ'" |;;〉l.|
l"';;;l ゙'''<<~(::) >>::)-ら::ィ'ー゙-゙,,彡゙ .:|;l"lリ
|l ';;', ::: ー` ̄:::::::ミ}゙'~}彡ィ""´ .:::lリノ/
l'、〈;', ::: :::::::t、,j iノ:::、::.. ..::::lー'/
,、,,,/| ヽヽ,,', ::.、 :::::(゙゙( ),、)、ヽ::. イ ::::l_ノ
)ヽ"´ ''''"レl_ヽ,,,', ヾ'ー、:::;r'"`' ゙'';;"" ゙l| ::j ::: |: l,,,,
゙''(,l ', l| リ {"ィr''''' ーー''ijツヽ l| :" l |',`ヽ,
き 利 (l :'、 `',. 'l| |;;゙゙゙゙"""´ー、;;| ノ: / /リヽ \
. く い Z::::ヽ '、 ゙'t;ヽ ` ´ ノ;;リ ,r' // |
な. た >; :::ヽ ::ヽミニニニ彡'" , ':::::// |
┃ ふ フヽ ::\ : ミー―― "ノ , ':::: //: |
┃ う }ヽヽ :::::\::( ̄ ̄ ̄ /:::://: |
┃ な }| ヽヽ :::::`'-、竺;;ニィ':::// | l
// 口 (: | ヽ ヽ :::: ::::::... ::// | |
) ・・. を ( | ヽ ヽ:: ::::::... // リ. |
つ、 r、{ | ヽ ヽ // / |
ヽ '´ | ヽ ヽ // / |
0585人間七七四年
2008/07/24(木) 23:23:36ID:B0SwHMm5れが |ハ{{ }} )))ヽ、l l ハ
が |、{ ハリノノノノノノ)、 l l
い |ヽヽー、彡彡ノノノ} に
い |ヾヾヾヾヾヽ彡彡} や
!! /:.:.:.ヾヾヾヾヽ彡彡} l っ
\__/{ l ii | l|} ハ、ヾ} ミ彡ト
彡シ ,ェ、、、ヾ{{ヽ} l|l ィェ=リ、シ} |l
lミ{ ゙イシモ'テ、ミヽ}シィ=ラ'ァ、 }ミ}} l
ヾミ  ̄~'ィ''': |゙:ー. ̄ lノ/l | |
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>l゙、 ー、,'ソ /.|}、 l| |
:.lヽ ヽ ー_ ‐-‐ァ' /::ノl ト、
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0586人間七七四年
2008/07/25(金) 19:45:48ID:v5dv92iE北谷のファンと、「花のようだ」と形容される、セクシー系の稚児の集まる南谷のファンが、好きが高じて
お互いを罵り始め大論争、ついに比叡山全山が二派に別れ、武器を持ち出しての戦騒ぎになった。
これにあわてた比叡山指導部、西三条逍遥院を呼んで和解を仲介してもらう。
逍遥院「雪も花も、どっちもうつくしいじゃないか」と、みつをみたいな説得。
これに何故か納得した双方、兵を引く。
0587人間七七四年
2008/07/25(金) 22:53:11ID:vZXrVNwj0589人間七七四年
2008/07/26(土) 04:16:25ID:3924AfUh0590人間七七四年
2008/07/27(日) 14:11:58ID:bxkD3ohp一人好みの少年がいたので助命して信孝に嘲笑されたという。
0591人間七七四年
2008/07/27(日) 14:27:32ID:6ipNAtdLおまいら、信玄公の下へ帰って来い
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185534039/
0592人間七七四年
2008/07/27(日) 19:23:56ID:O9CAkoCd疲れていたのか、馬上でこくりこくりと居眠りしてしまった。それを近習が起こすと、
信長は「ぬ、寝て負ったか。ここはどこだ?」と尋ねた。
近習が「右手が六条、前は東福寺になります」
すると信長「…なるほそ、それで前の寺は白壁か」
近習「は?それは一体?」
信長「豆腐食う寺(東福寺)」
*当時、豆腐の事を「おかべ・白壁」と呼んだ。
何が凄いって創作か実話かは別として、信長の逸話で、こんなものが本当に残っているのが凄いw
0593人間七七四年
2008/07/27(日) 22:48:24ID:b7/BU+qz0594人間七七四年
2008/07/28(月) 04:49:30ID:RuJ8J0Si0596人間七七四年
2008/07/28(月) 13:49:28ID:RxWeJBh40597人間七七四年
2008/07/28(月) 14:48:16ID:h+huUjrq信長の父である信秀は病気が重くなり、ついには危篤状態になった。
信長は僧侶たちを集めて
「父の病が重くなったが、そなたたちの祈祷で直せるか?」と聞いた。
僧侶らは
「我々が念仏を唱えれば、神仏のご加護できっと信秀様の病は快方に向かいましょう」と答える。
それを聞いた信長は、
「ワシは神仏の加護など信じないが、お前たちがそこまでいうなら、その言い分が本当かどうかためして見よ」
と命じた。
僧侶たちは信秀快癒のために念仏を唱えるが、念仏の甲斐なく信秀は死去した。
信秀死後に信長は再度僧侶を集め、
「お前たちは神仏の加護で父の病が治せるといったが、父は死んだではないか。つまり、お前たちはうそ偽りを
述べたことになるぞ!」
と激怒して、僧侶たちをお堂に閉じ込めて火を付けて、僧侶たちを皆殺しにしましたとさ。
0598人間七七四年
2008/07/28(月) 16:18:23ID:eMyUUJ810599人間七七四年
2008/07/28(月) 20:36:45ID:ScVwZfWo0600人間七七四年
2008/07/29(火) 21:12:26ID:TZYCZPTg俺が読んだ逸話では
もうちょっと最後が皮肉屋っぽかったな
「此度の件ではまことに残念であった。
だがそなたらには今一度の機会を
与えようと思う。
まことに神仏の加護があるなら
助けに来てくれるよう心の底から
祈るがいい」
って、お堂に火をつけて外から
見守ったとか
0601人間七七四年
2008/07/30(水) 12:15:03ID:VUZ13N/K筑前において、永禄十二年五月の戦いで毛利が勝利を収め、
大友方の城である立花城は孤立。毛利方による開城交渉が始まった。
毛利方の使者、吉見正頼は、城方に対し誠意を持って説得し、篭城していた全ての人々を、
毛利家の責任において、大友方の陣まで送り届けると約束した。
開城後これの約束はきちんと実行され、立花城の守将であった立花親続、田北鑑益は
これに感銘を受けた。
ところが事態は急変する
山陰において尼子勝久が、周防において大内輝弘が毛利に対し立ち上がったのだ。
急遽引き上げる毛利勢。その混乱の中、立花城を摂取した部隊は取り残され、今度は
「毛利方」の立花城が、大友勢の中に孤立した。
先の戦で毛利に手ひどくやられた大友の諸将は、当然のごとく復讐戦をさけぶ。大友の大軍に、
立花城に篭る毛利方が血祭りに上げられるのは時間の問題であった。その時である。
「待たれよ」
そう言ったのは、先の立花城の守将、立花親続と田北鑑益であった。
「我らは先の敗軍の将である。このような事をいうのはおこがましいとは思う。だが、聞いていただきたい。
彼等毛利方は、我々と取り決めた開城条件を全て守り、篭城の諸衆を皆、無事にお味方の陣にまで送り届けた。
いったん城を占拠すれば、そのような約束は無視出来たにもかかわらず、である。彼らは信義を守ったのだ。
さて、ここで我が方が、情勢が有利になったという理由だけで、彼らを殲滅せしめれば、一体、大友の信義は
どうなる?卑怯者よ、それでも武士かと、天下の笑いものになるのではないのか?」
大友義鎮は力攻めから、交渉による開城に方針を転換。
やがて毛利方もその提案を受け入れ、彼らもまた、大友家の責任において、無事毛利陣まで送り届けられた。
その交渉の任に当たったのは、先の立花城城代、立花親続、田北鑑益の二人であった。
0603人間七七四年
2008/07/30(水) 12:26:50ID:VUZ13N/Kそのときの毛利の守将が、無事帰国した後出した謝礼の手紙に、田北が出した返事
「なあに、戦の習いでござるよ」
0604人間七七四年
2008/07/30(水) 12:46:07ID:MdEAsCtg0605人間七七四年
2008/07/30(水) 13:36:58ID:zjELSoi7信玄が岡田堅桃斎という高名な歌詠みを謙信のもとへ使者に送った。
謙信はこの名を知っていたので、「越の長浜」という名所へ案内し、酒宴などを催した。
堅桃斎は連れて来た童に投げ輪をさせるなどして、一日遊びつくして甲斐へ戻った。
1月ほどして信玄から「越の長浜の丈尺はどれほどでござろう?」という手紙が来た。
謙信はその地の奉行に測量を命じた。
その時、奉行の下役の若い美丈夫が
「武田殿のご依頼ならば測量は不要でござる。
先月殿と遊びに参った歌詠みが、投げ輪でしっかりと計っていかれました」と言った。
謙信は堅桃斎の曲者ぶりを見破っていた若者に感心して小姓とし、与六兼続と名乗らせた。
〜ここまでは知略に優れる彼の若きころの逸話として有名〜
で、この話には無理がある。
生まれたのが1560年。小姓になったのが1564年。
わずか4歳で奉行の下役とは・・・・・ありえない・・・・残念
0606人間七七四年
2008/07/30(水) 18:41:47ID:COKc/+Xw肥後赤井の城主木山弾正は豪勇をもって聞こえた武将であったが、島津の北上によって城を失い、
外戚の故をもって天草伊豆守に迎えられ、客将として本戸城にこもった。
天正17年、たまたま宇土築城の加勢をめぐって、天草の諸将は小西行長と対立し、ついに行長の天草攻めとなった。
行長は豊臣秀吉に上訴し、加藤清正の応援を得て、まず志岐城を攻めた。弾正は兵500を率いて志岐へ向かい、仏木坂に清正を迎えた。
単騎敵将清正を求めて、敵中深く突入し一騎打ちをいどみ、清正を組み敷き、まさに首級を挙げんとした時、
主君危うしと駆けつけた自分の家来の誤った槍にかかり、豪勇並ぶ者もない弾正も遂に戦場の露と消えたのである。
http://www.geocities.jp/amakusa_tanken/kiyamadanzyou.htm
0607人間七七四年
2008/07/31(木) 01:08:40ID:qK6BraY+その本の一節
「おしっこした時泡が立たない日は、大変な事が起こる。気をつけろ。」
0608人間七七四年
2008/07/31(木) 09:16:14ID:/pNTMpgN「四季農戒書」が真っ先に浮かぶんだが
………これは違うなw
0609人間七七四年
2008/08/01(金) 01:35:17ID:R/HRy/la「死ぬ気でやれば、案外何とかなる。」
0610人間七七四年
2008/08/01(金) 06:00:24ID:5GW9Vz3Wなんとかならなかった奴は死んでるんだから後世に言葉残せねーもん
そりゃ努力とか頑張れとか賛美されるわ
ダメだった奴は一切記録に残らない
地面に落下するときは力抜くと怪我しないってのとおなじ
なんとかなった奴らの数億倍の死ぬ気で頑張ってもなんとかならなかった連中は
あの世で「頑張れば何とかなるなんてうそやんねー」って言いあってるわ
0611人間七七四年
2008/08/01(金) 09:04:13ID:dYMuOgRx0612人間七七四年
2008/08/01(金) 09:56:31ID:eE1R9eK60613人間七七四年
2008/08/02(土) 00:21:49ID:erG7e+Q90614人間七七四年
2008/08/02(土) 09:27:06ID:QwgH301c0615人間七七四年
2008/08/02(土) 10:04:46ID:/ux0/23l上杉家としては…
むしろ鷹山あたりが言うべき言葉では
0616人間七七四年
2008/08/02(土) 12:27:24ID:8pYxIbDr「毒薬の入った膳を出されると
俺は涙目になる
持ってきた奴も涙目になる
みんな涙目になる
だから、わかる。」
0617人間七七四年
2008/08/02(土) 12:43:09ID:8+4he+Ff大坂城落城の時、一人の娘(16歳)が徳川の先陣を勤める伊達家の片倉隊の前に現れた。
白の鉢巻きに薙刀姿の娘を見た重綱は、捕らえるとそのまま国に連れ帰り、後妻とした。
(信繁と重綱とは何度か戦いを交えており、自分が死んだ後、娘を重綱に託そうとして、
梅に言い聞かせて置いた。)
重綱は、智勇優れた真田家の娘、梅を妻としたことを誇りにした。
そして片倉家の家紋はこれ以降、真田と同じ六文銭に変えられた。
時代は下り、松代藩三代藩主、真田幸道が伊達藩へ寄ったとき、
眞田と同じ家紋を付けた家臣がいるのを見てたいそう驚いたという話が残っている。
0619人間七七四年
2008/08/03(日) 01:39:54ID:oswDDz1E本宮ひろしとか島本和彦とか板垣恵介みたいな
勢いとはったりが真髄の漫画家に直江兼続公の生涯を描かせたら
面白いかも、と思った。
0621人間七七四年
2008/08/03(日) 02:23:47ID:oswDDz1E0622人間七七四年
2008/08/03(日) 07:36:12ID:qi3I4RE/めちゃくちゃつまらなそう。
0624人間七七四年
2008/08/03(日) 09:29:16ID:MNdZi/hQたしなみのない女房はあそこの手入れが悪くて臭い
しかも臭いことに気付かず男に向かう
美人でもわきがや口臭のある女房は近所迷惑だ
0625人間七七四年
2008/08/03(日) 13:07:29ID:yhAuYTru120万から30万石になった時、家臣をできるだけ解雇しないで
なんとか生活が立ち行くようにした手段は鷹山が手本にしたというから、
ま、なんだ、来年がたのしみだな。
>>617
重綱の戦ぶりを見て、娘を託せるのはこの男しかいないと
矢文で重綱に娘との婚姻を頼んだという説もある。
あの真田に認められたのだ、という感激が六文銭の家紋への変更となったんだろう。
伊達家きっての美男子で当時29歳、於梅も悪い気はしなかったと思うな。
0626人間七七四年
2008/08/03(日) 13:10:33ID:9d/1mrz5まあ、根本的に何とかなっていなくて、その場しのぎの世界に過ぎなかったから、
鷹山の時代にあんな大規模な改革にいたるわけだけどなー。
0627人間七七四年
2008/08/03(日) 16:10:10ID:hX+Cea4oえ? 片倉家の家紋って六文銭になったの?
主君政宗から九曜紋を拝領してるのに変えるはずないと思うんだが・・・。
重長が梅と同時に保護した大八の家紋じゃないか?
大八は信繁の次男で梅と同時に片倉家に保護され、片倉守信と名乗ってる。
確か息子の代で真田に復姓してたような・・・。
まぁ何にせよ幕府から信繁の血筋を守りぬいた片倉家は立派だな。
0629人間七七四年
2008/08/03(日) 16:46:57ID:9d/1mrz50630人間七七四年
2008/08/03(日) 17:15:03ID:9d/1mrz50631人間七七四年
2008/08/03(日) 18:02:58ID:F1013wgW政宗とは衆道関係で家臣の前でも接吻しあったほどなのに
小早川秀秋に頼まれた政宗が1度秀秋の相手してやれよとか
小早川の家臣と交換しても良いよって政宗が言ってたりと可哀相なんだがw
0632人間七七四年
2008/08/04(月) 13:11:47ID:WvCC6Y05助かったもう一人の娘「あくり」は徳川の家臣・滝川一積の養女となって、蒲生郷善に嫁ぐが、
敵の娘を幕府の許しも無く婚姻させるとは!といって一積が改易させられる。
(本田正純には報告許可を得てあった)
於梅のことはお咎め無しなのにww
本田正純には他にも「許可を得ていたのに」改易というのがあったな。
0633人間七七四年
2008/08/04(月) 14:20:42ID:SoF3ALnS0635人間七七四年
2008/08/04(月) 20:10:37ID:uqvSSQ7p0636人間七七四年
2008/08/05(火) 19:33:03ID:ABtOf6Ki219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/03/08(土) 21:56:37 ID:i4ZXIU7M
業正の娘たちはいずれも美女揃いだったので先を争って縁談の申し入れがあったそうだ。
あまりの人気ぶりに業正も生産が追いつかず娘を貰えなかった豪族が反抗したりして上州戦略に支障を来たした。
あと10人娘がいれば信玄に箕輪城とられずに済んだのに惜しい。
0637人間七七四年
2008/08/05(火) 20:44:34ID:Bisuc0Cm0638人間七七四年
2008/08/05(火) 23:47:17ID:/v/TPvAGというか豪族どもはどんだけ美人の嫁が欲しかったんだw
0639人間七七四年
2008/08/06(水) 09:46:15ID:xM69f+Ww0640人間七七四年
2008/08/06(水) 12:16:37ID:ufKHF8s9あと10人いればって、12人も嫁がせてんだよ。
徳川家斉みたいにやること無くて子作りマシーンならともかく、ふつう無理だよなwww
0641人間七七四年
2008/08/06(水) 12:22:13ID:rL17nwz+国人衆にしてみれば少々のぶさいくでも婚姻関係になりたいだろう
ましてや美女だなんてサイコーすぎる!
もらえなかった国人衆がふてくされるのもしょうがないな
0642人間七七四年
2008/08/06(水) 15:16:23ID:nLUX6M+q秀吉の松下の話
有名だけどねw
0643人間七七四年
2008/08/06(水) 15:26:21ID:NJ3H6Vx/0645人間七七四年
2008/08/06(水) 20:46:56ID:eC0470DG0646人間七七四年
2008/08/06(水) 22:02:33ID:YKcMesN4宣教師達の日本人拉致を
総理大臣の立場にあった秀吉が激しく憤った事
0648人間七七四年
2008/08/06(水) 23:37:50ID:zsxLtZ3i0649人間七七四年
2008/08/07(木) 02:22:12ID:9lSxK57Zそんな中、暇を持て余した大名たちは「香合わせ」に興じていた。
そこへ通りかかった伊達政宗は面白そうだと早速これに参加します。
大名たちは各々、弓、鞍などを賭けましたが、どういうわけか政宗は腰に下げていたひとつの瓢箪を景品としました。
周りは皆、「奥州の大大名ともあろう者が・・・」と、心のうちに蔑み、当然それを取ろうという者は現れません。
結局、その瓢箪は一番最後まで残り、旗本の一人が取ることで勝負は終わりました。
ところが、お開きとなり、皆が立ち上がったその時、政宗は瓢箪を取った旗本にこう言ったのです。
「瓢箪から駒という諺の通り、ほれ駒が出たぞ」
旗本が政宗の指差す方を見ると、そこには政宗が先程まで乗っていた名馬があるではありませんか。
こうして旗本は政宗の馬を豪華な飾りと共に譲り受けたのです。
初めは蔑んで笑っていた大名たちも、この時になってようやく政宗の意を悟り、大変悔しがったといいます。
という話だが・・・スレにあってんのか?
0650人間七七四年
2008/08/07(木) 02:39:29ID:hWZmnnHa守銭奴の気のあった前田利家、家臣を雇うのもそこそこに、蓄財に励んでいた。
ところが、佐々成政との戦が迫った時、兵も将も足りないことが露となった。
このとき松は怒りくるって、
「だから、銭をためるよりも前に、その銭で侍を雇えと言ったでしょう!
こうなったら、あなたの貯めた銭に槍を持たせて戦に行きなさい!」と、銭櫃とともに館から追い出したとか。
しかし、こんな痛い目に合っても、利家の蓄財癖は直らなかったそうです。
0651人間七七四年
2008/08/07(木) 08:38:45ID:kUOUQm5O0652人間七七四年
2008/08/07(木) 18:58:16ID:V1/O6rhV0653人間七七四年
2008/08/07(木) 22:21:03ID:/z9m4R/m0654人間七七四年
2008/08/08(金) 14:36:17ID:1ImAM3hhそれにともなう不正な帳簿が死後に発覚すると部下に迷惑かけるので
自分の棺桶に入れて証拠隠滅するように指示してなかったっけ
0656人間七七四年
2008/08/11(月) 21:04:13ID:ewA72rmA秀次、上人に向かって
「上人は 霞の衣 きりの数珠 あまけはなれぬそら念仏かな」
すると上人
「水鳥は 水に入りても 羽も濡れず 海の魚とて汐に染まばや」
これは秀次が「上人はそのような尊いお方なのに、女っ気が耐えない(あまけはなれぬ)のはいかがなものか?」
と、和歌で諭したのに対し、上人が「環境や外観がどうであろうと、大切なのは心の純潔であります」と同様に返したもの。
秀次の教養と洒落っ気の伺える逸話。
ちなみに秀吉はこれを、さっぱり理解できず、「そんなまどろっこしい話し方をするな」と叱ったとか。
0657人間七七四年
2008/08/11(月) 23:42:32ID:ewA72rmA当時京に上がってきていた、彼の北の方に届けてしまう。
北の方は勿論これに激怒し、義興を追求。それに窮して義興は、彼女をなだめるためにもなんのかんので
帰国する事になり、それによって、彼の存在で安定していた畿内の政情はまたもや乱れる事になったとかw
0658人間七七四年
2008/08/12(火) 00:27:12ID:uxnuT1zV0659人間七七四年
2008/08/12(火) 03:32:49ID:3QPS8PCli | ミ.\ヾヽ、___ヾヽヾ |
| i 、ヽ_ヽ、_i , / `__,;―'彡-i |
i ,'i/ `,ニ=ミ`-、ヾ三''―-―' / .|
iイ | |' ;'(( ,;/ '~ ゛  ̄`;)" c ミ i.
.i i.| ' ,|| i| ._ _-i ||:i | r-、 ヽ、 / / / | _|_ ― // ̄7l l _|_
丿 `| (( _゛_i__`' (( ; ノ// i |ヽi. _/| _/| / | | ― / \/ | ―――
/ i || i` - -、` i ノノ 'i /ヽ | ヽ | | / | 丿 _/ / 丿
'ノ .. i )) '--、_`7 (( , 'i ノノ ヽ
ノ Y `-- " )) ノ ""i ヽ
ノヽ、 ノノ _/ i \
/ヽ ヽヽ、___,;//--'";;" ,/ヽ、 ヾヽ
0660人間七七四年
2008/08/12(火) 03:56:07ID:/prcwaau一見していい話だけど、女性への情欲は内の心から沸き起こるもんで、
それに支配されてるっちゅうことはお前の羽はびしょびしょだしお前の魚はしょっぱいじゃないかと思う。
0661人間七七四年
2008/08/12(火) 07:13:45ID:0By7/lLV二人とも仙石秀久のせいで戸次川の戦いで戦死する
十河は九州仕置きの後改易
長曽我部は関ヶ原の後改易
でもそれから30年後に再び仙石と十河と長曽我部が共に味方として戦うときが来たんだな
十河存保の息子の十河存秀と仇敵長曽我部家の元大名長曽我部盛親
さらには憎き仙石秀久の次男仙石秀範
三人とも大阪の陣で大阪方について、そろって死んだ
人の縁の不思議な話
0662人間七七四年
2008/08/12(火) 07:30:17ID:0By7/lLV福島正則は広島城の石垣の無断修築の理由で所領召し上げの上、信州川中島に左遷される。
もっとも本人は確かに届出を出したんだが幕府が知らぬといってる以上届かなかったのだろう。
正則の家臣は憤慨したらしい。
それは、福島正則が1600年小山の陣で真っ先に家康についたから今日の徳川家があるんだ。
だからこの待遇はあんまりじゃないか、というものだったとか。
それに対し正則は特に怒ることもなくこういった。
「弓は敵がいるときこそ役に立つが平和の世になると袋に入れて蔵にしまう、最早それは必要がないからな。
つまりわしは弓なのだ。
乱世のときは清洲やら広島やらで戦いのために必要とされるが、
それが終わると川中島の蔵に片付けられる。それは仕方のないことなのさ」
0663人間七七四年
2008/08/12(火) 21:44:12ID:T9R1ehmp0664人間七七四年
2008/08/13(水) 09:14:33ID:jwL0GYAw0665人間七七四年
2008/08/13(水) 10:20:14ID:vW+GxY4dだろうな、黒田なんて2代目の時家老の栗山大膳が徳川に訴える
お家騒動起こしたけど先代の功績なんかで実質お咎めなしだったもんな
0666人間七七四年
2008/08/13(水) 10:44:27ID:RzlQpoBw弓とか何とか、特に関係ない。
0667人間七七四年
2008/08/13(水) 12:47:48ID:jZ/5Wl2ghttp://www.youtube.com/watch?v=-IUSZyjiYuY
【マスコミ】 毎日新聞、「毎日jp」の閉鎖を検討…変態報道の反発を受け★11
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1218587736/
「日本の母は息子の性処理係」毎日新聞が捏造記事
http://changi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1218507887/
毎日新聞が小額で日本で少女を買春する方法を紹介
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/news/1214808695/
【毎日新聞・変態報道】電凸のすさまじい破壊力
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1217987915/
【論説】 「毎日新聞『変態報道』騒動…"第四権力"として好き放題のマスコミだが、ネットにより力関係に変化が」
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1216165783/
【携帯】NTTドコモ、iチャネルの情報提供元を「毎日新聞」から変更。不買運動も影響か?
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1217066032/
【新聞・調査】“非常事態”「毎日」が前年比10万部減少
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1217044009/
【毎日・変態報道】“就活生を脱がす企画も”「毎日」系企業が出す「エロ雑誌」が過激すぎる
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1217170773/
【毎日・変態報道】『のまねこ事件』より大事に!毎日新聞は“全国の女性を敵に回した”
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1216091386/
【毎日・変態報道】 WaiWai記事をまとめた書籍の第3弾、講談社の子会社から各国に向けて発売予定
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1215573523/
【裁判】スーパー前で老人にひじ打ちして死亡させる 元毎日新聞販売店従業員(25)に懲役5年判決…茨城
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1217598110/
【毎日・変態報道】ひろゆき氏「『厳重な処分』なのに社長に昇進って何なの?」
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1216025307/
「押し紙」率7割!老舗販売店経営者が直言「毎日新聞は癌末期」
http://news.livedoor.com/article/detail/3394103/
0668人間七七四年
2008/08/14(木) 19:32:43ID:n/CYgwtO薩摩島津家は未だ君主権が弱く、秀吉の求めるとおりの検地など実行したら
反発を受け、何が起こるか解らない。
「とても無理だ」
と、検地の責任者である石田三成に書状で泣きついた。そこで三成、
「ならば、村の数だけ調べてよこしなさい。石高はこちらで適当に数字を作るから」
と、温情あふれる返答。
これには島津家、および後世の書類偽装役人、大いに感銘を受ける。
0669人間七七四年
2008/08/14(木) 20:00:58ID:4xoZcDaXだから改易された
それじゃかっこわるいから
確かに用無しだから捨てられた、でも昔は必要とされていたんだ!
って思い込みたくなるのが人情
0670人間七七四年
2008/08/14(木) 21:59:10ID:cJRY175Cそしてその適当に作った数字が
その当時の実質的な石高約40万石を遙かに越える60万石だったのですね
さすが三成、秀吉の懐刀といわれるだけありますね
0671人間七七四年
2008/08/14(木) 23:06:15ID:4xoZcDaXある日一益が何人かの家臣と亭で休憩をしてると周囲を警戒しながら餌を食べている鶴を見つけた。
しかしもう少し近くを見てみるとその鶴の周囲にじゃれあい、好き勝手に餌を啄ばんでいる沢山の雀がいるのを見つけた。
昔の自分と今の自分を比べた一益は家臣たちに呟いた。
「あの鶴はまるで私、大勢の雀は家来である貴様らのようだ」
「大名ともなればあの鶴と同じく一時として安心できるときはない、心配してばかりだ。
だが貴様ら雀はあのように自由気ままな暮らしが出来る」
「貴様らは鶴を羨んだり、また、鶴になろうなんて思わず、今の雀の楽しみを楽しみ給え」
晩年、一益は雀に戻ったわけだが実は幸せだったのかもしれない。
0672人間七七四年
2008/08/15(金) 00:58:32ID:KjR19Lpm秀吉が訳を聞けば、家臣に持って帰ると言う。
※一説には、それを聞いて感じいった秀吉が用意したまんじゅうを全部元親にやったとも言われている。
これは元親が家臣を思いやる一面を持っていたことを読み取れるエピソードである。
秀吉は四国征伐後は元親を土佐一国に封じた。
だが二歳下の元親を憎からず思い、嫡男信親を亡くした折には弔問し涙を流したという。それにより元親も多少の慰めは得ている。
成上がってきた自身と、土佐一郡から身を興した地方の大名である元親と、何か通じるものがあると思っていたのかもしれない。
(既出かもしれませんが…)
0673人間七七四年
2008/08/15(金) 05:13:47ID:B/ytWoGF0674人間七七四年
2008/08/15(金) 05:19:13ID:x4HorWIb>秀吉が訳を聞けば、家臣に持って帰ると言う。
このエピソード、正直、毒殺が怖かったんじゃないかと疑っている。
0675人間七七四年
2008/08/15(金) 12:02:49ID:EG1VjCK40676人間七七四年
2008/08/15(金) 12:15:05ID:uALgp32Yおぬしがそう思うのはかまわないが
せっかくスレタイ通りにかかれた
いい話なんだから、わざわざ
水を差さないでほしいな
0677人間七七四年
2008/08/15(金) 12:56:30ID:4NVzWqIG茶室で部屋掃除をしていた二人の近衆がふざけて暴れて壁に穴を空けてしまった。
速めに着いた加藤は二人から事情を聞き不問として帰した。
福島が来ると真っ先穴を見つけ
「なんだこの穴は?」
っと不機嫌になった。
加藤が事情を説明すると
「なぜその二人を切り捨てない」
と怒った。加藤は呆れて
「お前は戦はできても仁愛の欠片もない日本一人使いが出来ない奴だ。
若者達を成敗してどうする?子孫の事を思えば逆をとられよ」
と呆れられた。
0678人間七七四年
2008/08/15(金) 14:34:11ID:KVBHsnmJ「その家の主人が家臣を殺す事は、手足を切るようなもので最悪の行為です。
これ以上悪いことはありません。
一般に家臣を殺す事は、その主人に器量がないためで、器量のある主人は
家臣を殺すような真似はしません。
よくよく、心得て置いてください。」
実はこの手紙、元就が、家臣の中での最大勢力だった井上一族を粛清したすぐ後に書かれたものである。
無論隆景もその事は充分に知っている。その上で、元就は自身の苦悩と自戒を篭め、この手紙を書いたのであろう。
0679人間七七四年
2008/08/15(金) 16:12:29ID:VNn7FGvBこれは深イイ話だなぁ。
「お父さんを見習うな」
っていうことを伝えたかったのだろう。優秀な息子が育つわけだなぁ。
0680人間七七四年
2008/08/15(金) 19:09:36ID:l9DQSad/清正は部下に優しいから好きだな
まあ猛将だから優しいだけじゃないんだろうけどさ
親分肌なのがいいよね それにしても彼の配下はやんちゃなのが多いなw
茶器割って開き直る小姓とか
0681人間七七四年
2008/08/15(金) 23:45:00ID:eOgIQDwc本当に部下思いだから好きだ。
上司にしたい武将No.1だな。
0682人間七七四年
2008/08/16(土) 00:44:08ID:JuFABJ3e義重は政杞に、直々に戦功をたたえた書状を与えた。
時は過ぎて関ヶ原合戦のあと、佐竹家は出羽に国替えとなった。この頃政杞は既に老齢で、
「もうお供も出来ません」と、佐竹義宣から暇を取り、下総で帰農した。やがてこの地で死ぬが、
その時
「何かの役に立つ事もあるだろう」
と、義重の書状だけは後に残した。しかし、彼には娘一人しかおらず、この娘は結局嫁に入り、
浜野の家名は断絶した。
その下総に、新たに水野忠光が領主として入ってきた。彼は、どこかからかこの義重の書状の話しを知り、
「鬼義重と呼ばれたほどの武将の筆、是非拝見したい」と、自ら娘の嫁ぎ先にまで出向き書状を見た。
これによりその書状は有名になり、佐竹義宣まで父親の文章を見るために、参勤交代の折わざわざ立ち寄った。
そうして、沼尻の合戦からおよそ100年後、元禄11年(1698年)の佐竹藩の家臣名簿に、浜野久兵衛という名前が現れる。
浜野家は、佐竹藩において再興されたのだ。
侍の命がけの武功とは、子々孫々にまで影響を与えるものだ、と言うお話。
0683人間七七四年
2008/08/16(土) 05:51:20ID:MbkgHhMr0684人間七七四年
2008/08/16(土) 07:01:51ID:ynOi68BW0685人間七七四年
2008/08/16(土) 14:33:18ID:ht+w5s3g0688人間七七四年
2008/08/17(日) 12:56:15ID:H3zmpaat0689人間七七四年
2008/08/17(日) 21:45:44ID:lREbt1cOあんなものは武士の嗜む物ではない、と、いつも高言していた。
それを聞いた悪友の一人が、「しかし、お前の義兄は茶の湯好きとして有名ではないか」
と、ケチをつける。痛いところを突かれた若侍、「軟弱な義兄を懲らしめねばならぬ」と、義兄、中川清兵衛の屋敷に
忍び込み、彼自慢の茶の湯釜を盗み出した。
せっかく盗んだ茶の湯釜である、これで一つ茶の湯の真似事でもしてみよう、と、悪友たちに囃され、彼も
一通りやってみた。
「これは…以外に面白いものではないか?」
真似事をしているうちにふと、若侍の中に、そんな感情がわいてきた。
この若侍、後に天下一茶の湯宗匠、古田織部と呼ばれることになる。
0690人間七七四年
2008/08/17(日) 21:47:33ID:ZF46RlkB専ら小姓達に任せていた。皆、道雪に見込まれた若達で
あった。
ある時、道雪の屋敷に客が来た。接客は道雪の小姓達
が担当していた。その小姓の一人が緊張のあまり、客の
膳を取り落とし、料理を座にぶちまけてしまった。時は
戦国である。粗相のひとつで戦になる世である。詫びて
腹を切ろうとする小姓を道雪は制し、客に言った。
「私の家臣が粗相を致し、誠に申し訳ない。だが彼は、
ひとたび戦となれば、体の動かぬ私のかわりに、真っ先に
敵に向かって行く、勇敢な奴です。戦の粗相なら致し方な
いが、接客の粗相は主人の責です。どうかお許しくだされ。」
道雪の小姓達も一同に進み出て、「お許しくだされ。」と
平伏した。
これを見た客は、立花主従の絆に深く感動し、粗相を許した。
後年、道雪は死を陣中にて迎える。最期の命令は
「私の遺骸に甲冑を着せ、敵陣に向けてこの地に埋めよ。もし
この命に背けば、悪霊となって祟る。」であった。
だが家臣達は道雪の遺骸を敵地に捨て置き、逃げる事など出来
ない。皆は決めた。
「道雪様は皆で領地にお運びしよう。もし祟りがあって、道雪
様が枕元に立たれるなら、喜んで腹を切ろう。道雪様に見届け
て頂けるなら、これほどの幸せは無い。」
生涯三十七度の戦を戦い抜き、主君大友家を支え続けた道雪。
彼が守り抜いたのは大友家だけではなく、戦国の世に稀に見る、
主従の絆であった。
その絆は彼が薫育した愛息、立花宗茂に受け継がれていくのである。
0693人間七七四年
2008/08/17(日) 22:52:44ID:eSAH8351アー!な関係だったからなかなか泣けない。
もう、部下に愛され、部下を愛し、これ全部衆道だろー
衆道バンザイ!
0694人間七七四年
2008/08/18(月) 13:37:18ID:T+VQEqRd泣いた。・゚・(ノД‘)・゚・。
0695( ;‘e‘)チャーニィたん ◆charny.4eA
2008/08/18(月) 23:41:07ID:4SLctSGw0696人間七七四年
2008/08/19(火) 19:59:50ID:KzCpknPn0697人間七七四年
2008/08/19(火) 20:45:57ID:KPH//XjI0698人間七七四年
2008/08/19(火) 22:59:49ID:vjF5/6YL0700人間七七四年
2008/08/20(水) 20:25:41ID:vAyBjRy1酷く嫌っていた。かつて二条城で二人が出会ったとき、挨拶しようとした遠州を忠興は無視して
通り過ぎたこともあった。「遠州の茶道は武士のたしなむものではない」
忠興はそのように思っていたらしい。
その、遠州に危機が訪れた。
かれは幕府の依頼で五機内の天領の管理を任されていたのだが、あるときそこに、幕府の財政調査が入り、
遠州管理下での財務が、大幅な赤字に陥っていることが判明した。
「遠州は責任を取って切腹させられる」「小堀家もお取り潰しか」
遠州には、大名幕臣にも多くの弟子や友人がいたが、事は幕府天領の問題。幕府を恐れ、誰も、遠州のために
動けずにいた。
このとき、一人の大名が声をあげた。
細川忠興である。
「遠州は名高き数寄者である。このような過失により彼を滅亡させてしまっては、天下の名器を失うと同じではないか」
そしてかれは、すぐさま遠州に一千両を届けた。
これを聞いた遠州の友人、知人、そして茶の道を嗜む多くの者たちが、忠興に続けと、次々と遠州に寄付を申し出た。
たちまちのうちにその金額は借財の倍にもなり、遠州は無事、この危機を乗り切った。小堀家は、改易を免れた。
感激し、感謝の念を伝えた遠州だが、、忠興はそれ以後も以前と同じく、遠州の芸術を断固として認めなかったという。
0701人間七七四年
2008/08/20(水) 20:41:47ID:hSFS7ypL0702人間七七四年
2008/08/20(水) 20:48:36ID:pXv+Q8mT立花道雪は部下との
強い絆を物語る逸話が多いね(峻烈なところもあるけど)。
以下、蛇足ながら自分が知っているちょっと
違う逸話を(「武田信玄のリーダー学」に載っていた)。
戦場で手柄が立てられず、意気消沈している部下に対し道雪曰く、
「戦場の手柄は運に大きく左右されるものだ。
そなたの武勇のほどはこの道雪が誰よりも知っている。
わしのような不具者が今日まで生きてこられたのも
そなたの忠義あればこそじゃ。決して急いてはならぬ。
つまらぬ功を焦って討ち死にするなど愚の骨頂。
命を大切にし、長生きして、いつまでもちんば(原文ママ)の
道雪を守ってほしい」
その道雪の日頃の口癖(同じく武田信玄のリーダー学」より)
「もともと弱い兵などいない。もしいるとすれば、
それはその兵の長所を見抜けていないだけであり、
長所を見抜けぬ大将がいけない」
戦国の世にあって、肢体不自由という究極のハンデを
背負いながら猛将として名を馳せた道雪。
自身が深い苦悩を抱え、そして克服したからこそ、
「不具の自分にはお前たちが頼りだ」と
さらりと言えてしまうのだろうか。
0704人間七七四年
2008/08/20(水) 22:15:03ID:2qKAOkehその話後日談があるんですよね。
ある日建設中の二条城の御幸御殿に家光の命で下見にやって来た忠興と息子の忠利。
作事奉行の遠州は後ろの方に下がってうやうやしく腰を低くかがめっぱなしでつき従っていた
そんな遠州を忠興はガン無視、忠利が注意を促してもしらんぷり
結局一言も声をかける事なく検分終了。
後で忠利が「父上は小堀遠州をお忘れなさいましたか」と咎めると、
忠興は腰を低く屈めた遠州の真似をしながら
「それは袴腰を背うちにあてたる男か」と嘲笑った。
どうも遠州の卑屈な態度が忠興の気に触ったようです。
遠州を芸術家としては買っていた忠興も人間的には嫌いだったって事でしょうか。
遠州の逸話を調べると大抵上にはへつらい下に威張る俗物って話ばかりで自分もこの人は嫌いです。
0705人間七七四年
2008/08/20(水) 22:31:58ID:vAyBjRy1うーん、個人的にはもうちょっと複雑な、たとえば茶碗について、自分はどうしても気に入らないけど、世間的に
名品と呼ばれ大切にされるのは解る、ってのと同じような感覚なんじゃないかな?と、考えます。
0706人間七七四年
2008/08/21(木) 01:15:41ID:8nj9Q1lL岩城氏家臣の窪田十郎に討ち取られた。
のち十郎は捕らえられ、良直の息子綱元の元に引き出された。
父の仇とばかりに十郎は処刑されるかと思いきや、綱元は十郎を恨んではいないと言い、
「捕虜を斬るのは士道に反する」と、十郎を釈放した。
十郎はこれに感じ入り、綱元の家臣になっている。
0707人間七七四年
2008/08/21(木) 16:35:23ID:63KWg4k+守銭奴と呼ばれ周りからも煙たがられ更に家臣からも嫌われ賄賂を貰いまくる和泉
度重なる戦にて立花家に財政難がやがて訪れる、2度目の朝鮮出兵時立花家には戦に参加
出来る戦費などない、戦に参加できないことは当然御家の危機でありまた恥である。
そんな時小野和泉は守銭奴と呼ばれながらも貯蓄していた全ての財を立花家のために提供
和泉は周りから何を言われようと立花家のため悪役を買っていた、これを知った家臣達
は小野和泉こそ誠の忠臣と崇めたと言う。
0708人間七七四年
2008/08/21(木) 17:16:59ID:nA3clidC知っての通り、信長は茶器の収集家として有名であり、おそらく利休も、その信長のコレクションの中から
どれかを望むであろう、と、信長も考えていた。ところが利休は
「上様の、正宗の脇差をいただきたい」
「茶器ではなく、脇差じゃと?」
「はい。茶器ならば、上様は名物をたくさん持っておいでになりましょうが、
この利休には、名物を発見する目がございます。
とすれば、武将が持つ名物といえば刀剣。名に聞こえた信長公の正宗の脇差、是非所望したくございます。」
こうして利休はその脇差を拝領し、それは「宗易正宗」の名で、世に有名になった。
そのしばらく後のこと
利休は、その脇差の拵えを、本阿弥光徳の所に頼みに行った。その時一緒に、古い鞘も持ってきて、
「これは随分前に、町でたまたま見つけたものでして、なかなか結構なものだと思っています。
手に入れてからずっと手元に置いていたのですが、この脇差の拵えを、これで作っていただきたい」
本阿弥家の人々はあきれた。脇差は天下の正宗、しかも信長公より拝領の逸品である。それを、
どこのものともわからない町買いの古鞘に合わせるとは。
第一、町で見つけたような古鞘を秘蔵するような人間は滅多に居るまい。さても変わったお人だ。
そんな話をしている時に、分家筋の光二(有名な本阿弥光悦の父)が現れた。その話を聞き、古鞘を見た。
光二は唸るように言った。
「これは、かつて私が、名刀鳥喰国次にあわせて拵えた鞘だ!」
早速、光二がその鞘を、正宗にあわせて仕立て直した。やがて刀を取りに来た利休は、その出来栄えの見事さに
感嘆し、また光二も、利休の眼力に、深く感じ入った。
頼む人も達人。頼まれた人も達人、であったわけだ。
そして、「宗易正宗」はその鞘とともに、さらに天下に名高く喧伝されたという。
本阿弥家の記録に残るお話。
0709人間七七四年
2008/08/21(木) 17:24:23ID:63KWg4k+立花家改易になり加藤清正預かりになった宗茂と家臣団
清正家臣団に馬鹿にされ憤りを感じ宗茂は浪人となりこれに従う雪下と家臣団
雪下たちとは違い残る和泉、宗茂へ路銀を渡す、家臣団達からは非難の声も多々
残った和泉は、清正家臣団から馬鹿にされる毎日、自分を馬鹿にされても気にならない
和泉であったが、宗茂を馬鹿にするものが出てきた。
ある日宗茂と清正の比較話が出た時、和泉は無数に傷がある体を宴で見せ一つ一つ説明した。
傷の説明と約70枚の感状を見せると清正家臣団は問う「あなた程の人は家臣団に何人いる?」
和泉は「私程度は家臣団の中では、はいて捨てるほどおります」と言うと清正家臣団は驚いたと言う。
清正家臣団は2度と宗茂を馬鹿にしなかったと言う。
また、浪人となり食うにも困った宗茂に仕送りをしていた程、我が身を捨てて忠を貫いた。
和泉は立花家再興を見ずに没する(悲)
0710人間七七四年
2008/08/21(木) 19:12:53ID:5pjFeWJ9時代も国も違うけど、
三国志の魏の曹丕と
、呉の孫権の使者の
やりとりで似たエピソード
があったような気がする
0712人間七七四年
2008/08/21(木) 19:41:34ID:UsAFcNuI人間である以上贔屓目が入るから
「こいつ嫌いやなぁ・・でも作品は認めるぜ」ってのはなかなか難しいことですよ
細川忠興を擁護する気はないんだけど
0713人間七七四年
2008/08/21(木) 21:32:25ID:YUlSpdyI1.最上家の鮭延家臣に、裸亥之助というものがいた。あまりに太っていたため、あう甲冑がなく
裸で走り回るためそう呼ばれていた。
義光はこれを聞いて「いくら太っているからって、ブタ(亥)はないだろ、ブタは…
今日からは 武 太 之 助 って呼びなさい、なんちて♪」
と寒いオヤジギャグをかました。
2.庄内地方を上杉と争った最上だったが、結果的に外交で敗北、
庄内は上杉家のものとなった。しかし年貢とりたてが厳しく、一揆があいつぐ。
そんな中、池田讃岐という武士が一揆に加わり逃亡、最上領に逃亡し鮭延に
助けを求め匿われた。彼は天下のお尋ね者となったため、悪次郎と名乗った。
悪次郎は現地を開墾、治水灌漑をおこなった。住民はそれを感謝し、地名を
悪次郎に変えた。明治以降、あくどいイメージなので地名を変えるように行政指導が
あったが、住民は悪次郎という地名を守り抜き、現代まで残っている。
3.秀吉政権以降、由利十二党が最上配下となった。義光はとりまとめに苦労していたが、
あるとき十二党のものに「大井五郎という暴れん坊に困っているので殺して欲しい」と頼まれた。
義光はなんとかして五郎を山形城に呼び出して暗殺しようとした。
しかし、現れた五郎が鮭をまるごと平らげ、あまりに大食いなのを見てすっかり気に入り、
「あのー、わし本当はお前のこと殺そうとしてたんだよねー。
でもなんか気に入ったから殺さないからね? 何か困ったことあったらいつでもおいで」
とたくさんお土産を渡して家まで無事に帰した。
0714人間七七四年
2008/08/22(金) 13:22:14ID:PYV53LA1宗茂を馬鹿にされたところを簡単にしてしまったので伝わらないかも
和泉は、清正家臣団から「我が主は戦場で相手方の首級を幾つもあげてるし一番槍もあるが
和泉殿の主は如何だったのか?」(山路や木山打ちの話)との問いに
和泉は体にある67(だったかな?)のうち上半身の40箇所近い傷跡を見せた(鉄砲傷5箇所、致命傷傷あり)
その瞬間に宴の席が凍りついた。そこに傷の説明をする清正家臣団が「もういい夜が明けてしまう」と
口を開いたところに和泉の問いが...
和泉は「我が主を戦場で奮わせることがないように努めたがそなた達は主が奮戦してる時に
何処にいた!」(よく覚えてない)と問うと清正家臣団は黙ったままだったと言う。
和泉の奮戦話で驚いたのは、両足に鉄砲を受け野に伏したまま采を振るった
しかもその戦いに勝ってしまう←こんな武将は聞いたことないかも凄い
また、この和泉を誘ったのが上の方に書かれてた雪下こと由布惟信
惟信は自分の石高を切り分けてまで和泉の採用を道雪へ懇願した目を持つ名将
0715人間七七四年
2008/08/22(金) 22:56:18ID:aOuId1Tw0716人間七七四年
2008/08/25(月) 00:00:19ID:B9t2JU0xしかし、ほどなく家康から罪を許され、宗箇は浅野家に、1万石で仕える事となった。しかし、古田織部の
高弟でもあった宗箇は、武将としてではなく、茶堂として召抱えられた。これは、新たに大領の主となった
浅野幸長が、当時の上流社交の基本である茶道の基礎を、浅野家に打ち立てるために、宗箇のその方面の
才能を必要としたためであったが、それは、浅野家のほかの家臣からの嫉妬と嘲笑を買うことにもなった。
彼らは、
「我が殿はさすがに大身である。茶坊主を万石でかかえるとは。」と、あからさまに宗箇を侮蔑した。
幸長は「気にするな。一旦事あらば大いに働いてくれ」と、宗箇に脇差を与え、我慢するよう言った。
宗箇は「そのときは、この脇差に必ず、血をつけてご恩に報いましょう」と誓った。
浅野家の家中の者たちはそれをも「茶坊主が血をつけようとは。鼠の血か猫の血か」と、さらに嘲った。
やがて、大阪の陣が起こる
和泉国樫井で陣を張っていた浅野家は、大阪より、、勇将、塙団右衛門の部隊が接近との報を聞き、
一旦退却の方針を取った。が、宗箇は
「ならばわしは隠居する。隠居ならば軍令を守る義務は無い。」と、自分の部隊だけそこに残った。
やがて、やってきた塙の軍勢に踊りかかった宗箇の部隊は、先ず団右衛門の胸を槍で一突きに突いて
重傷を負わせ、さらに一気呵成に攻め立て、塙の部隊の武将の一人の首を、先の脇差にて取った。
この攻撃に、大阪方は壊乱した。彼はここにて、浅野家随一の戦功を立てたのだ。
自らの働きを持って、武将、上田宗箇は、自身の面目を保ったと言えよう。
戦後、宗箇は、浅野家家中一同の前で
「さてさて、ここにお集まりのお侍衆の中で、この茶坊主よりも手柄を上げた方はいらっしゃるかな?」
とやって、さらに家中の憎しみを買ったのは、まあ、これはご愛嬌w
0717人間七七四年
2008/08/25(月) 00:32:53ID:PZIS9tjA0718人間七七四年
2008/08/25(月) 07:55:54ID:h4fKZp6z0719人間七七四年
2008/08/25(月) 08:01:15ID:WsVaOkwpやりきれんだろうなぁw
0722人間七七四年
2008/08/25(月) 13:54:58ID:HCXDF2aH聚楽第に諸大名が集まったとき、伊達政宗が金貨を皆に見せていた。
まだ貨幣が珍しかった時代である。兼続は得意顔の政宗から扇で受け取ると、
その上でポンポンと羽根突きのように弾ませた。
政宗が「手にとって見られよ」と言うと、
「謙信公の頃から采配を振るったこの手に、卑しいものを持っては汚れます」
と応えた。
兼続の葬式、主君の景勝から銀50枚(350万円)、将軍秀忠からは銀70枚(500万円)の香典が下された。
本人は嫌っていたが、できるヤツには金は集まるものだ。
0723人間七七四年
2008/08/25(月) 14:11:51ID:fYwVtBmJ0724人間七七四年
2008/08/25(月) 14:42:29ID:HCXDF2aH主君の景勝は5大老、自分は秀吉から陪臣の身ながら30万石をもらった。
政宗よりも兼続のほうが秀吉の覚えもメデタイ。
もうイッパツ金の話。
安土城に「御幸御殿」が完成し、新年会も兼ねた、見物会が催された。
事前に「礼銭100文(5000円)を持参するように」というお触れがでていた。
当日受付には、なんと信長自ら立ち、入場料を受け取った。
ふだん見られない信長の顔を間近で見られるのと、狩野永徳の名画、金作りの調度品などを、
拝見できるのが100文では安い。
それよりも、信長の喜びを隠せない心境が垣間見えてなんとなくイイな。
0725人間七七四年
2008/08/25(月) 15:53:30ID:+tITRkdY羨ましかったけど、伊達家に嫌味を言っただけ
当時の上杉家は、伊達家とは違い財政面で上杉ほど困っていなかった。
上杉家はそれこそ財政難で金銭の工面に追われており、正宗も意地悪で金を
見せびらかしていたと言われている。
それとは別に当時の金は大変不衛生で疫病対策のため身分の高いものは触れたがらなかった
しかも兼続が言った一言が各方面に伝わりデフレの原因になったんじゃなかった?
0726人間七七四年
2008/08/25(月) 16:08:55ID:osrG6mSd天地人ではこういうのも取り入れてくれるのかね。
0727人間七七四年
2008/08/25(月) 16:28:28ID:vmPiHxL9当時の上杉は秀吉に上洛免除され、大阪城や伏見城を手本に広島城と同規模の城を築くよう期待されてた。
佐竹も新城の築城協力の為に会津に派兵したし。
0728人間七七四年
2008/08/25(月) 16:31:48ID:57A4j0Cm>>724
その大判をセンスでポイっと投げて政宗に返したとかっていう逸話だよな?
この逸話聞いて兼続って立派だなぁと思う人っているんだろうか…
あと関係ないが30万石ってのは与力含めての数で、直江領はもっと少ない
0729人間七七四年
2008/08/25(月) 17:23:05ID:n9/skD070730人間七七四年
2008/08/25(月) 17:43:42ID:oExGPRp30731人間七七四年
2008/08/25(月) 18:03:32ID:vmPiHxL9むしろ謙信以来の遺風に諸将も唸り感じいったと言える。
0732人間七七四年
2008/08/25(月) 18:07:20ID:OrfSqKYQ確か大阪城(だったかな?)の廊下で初めてすれ違った時、政宗が兼続に
「上杉の家臣が、大名の自分に会釈もしないのは無礼にも程がある。まさか俺の顔を忘れたか!」
兼続は「これは失礼致した。あなたとは戦場で何度もお会いしたが、いつも逃げて行く後ろ姿しか
拝見したことが無かった物で。まさか伊達様とは思わず大変失礼致した。」とやり返した。
本当に仲が悪いつーか…兼続の矜持も相当な物だったんだろうな。
0733人間七七四年
2008/08/25(月) 18:27:47ID:CCZtRgXJとっとと破るような武将。
0734人間七七四年
2008/08/25(月) 18:41:40ID:5viugfyz真っ先に信濃を逼迫させるような政策取れる訳なくね。
越後から信濃に通じる塩の道は元信濃領主に治めさせて守らせてんのに。
0735人間七七四年
2008/08/25(月) 18:52:54ID:57A4j0Cm上杉家や自分自身への誇りみたいなものを表すエピソードになるんだろうけどねぇ
>>732の逸話を聞くと
「いやいやww政宗だったら初対面でも分かるだろw」と思ってしまう
どっちにせよ、イイ話というよりは、直江の品格に傷が付きそうな逸話だが
0736人間七七四年
2008/08/25(月) 19:17:55ID:DOndinbpでもこんな作り話を基に人物の善し悪しを論じても始まらんなw
0738人間七七四年
2008/08/25(月) 20:32:52ID:vmPiHxL9兼続貶しの荒らし基地外が登場したらしいな。
0739人間七七四年
2008/08/25(月) 20:38:34ID:cztn1+k8むしろ秀吉が生きてた時代だったら
上杉は佐渡金山抱えて金がガバガバ取れてた時代じゃねーの?
景勝が秀吉に献上した大判は全国の6割を占めて
伊達を余裕で引き離して全国トップだったと思うが。
なんで金産出量トップの国のNO.2が
大判を羨ましがらなきゃいけないんだ?
0740人間七七四年
2008/08/25(月) 21:10:32ID:WUPV3f2O金そのものを披露したんじゃなくて、当時はまだ大判・小判とか
そんなに造られてなかったから、「私が考案した大判でござる!」
って感じのお披露目だったと思われる。
0741人間七七四年
2008/08/25(月) 21:25:38ID:cztn1+k8直江の無礼な行動を誰も何も言わなかったあたり
上杉家相手に政宗pgrって空気だったんじゃねーの。
0742人間七七四年
2008/08/25(月) 21:35:10ID:CCZtRgXJ0743人間七七四年
2008/08/25(月) 21:46:51ID:fYwVtBmJ0745人間七七四年
2008/08/25(月) 22:01:27ID:wXE9e13M最上家中鮭延秀綱配下に、に鳥海勘兵衛という若い侍がいた。
彼はある日、義光の奥方に仕える侍女に一目惚れしてしまい、ひそかに
恋文をやりとりするようになった。ところがある日、これが発覚し義光は激怒、
二人は死罪を言いつけられた。
これを聞きつけた鮭延秀綱は義光を諫め、勘兵衛がいかに勇敢か、過去の武功を説いたところ、
義光は二人を許し、勘兵衛に侍女を妻としてめあわせた。
これからおよそ半年後、長谷堂合戦で鮭延秀綱は志村光安とともに、
城の防衛にあたった。鮭延勢奇襲の際、あやうい秀綱を若武者が救い、
討ち死にした。鳥海勘兵衛であった。
彼の遺書には主君への感謝と、妻と過ごした日々の喜びが綴られ、
「この御礼には命をもって報いるしかない」と記されていた。
勘兵衛の妻は、夫の葬儀が終わると自害しあとを追った。
二人が夫婦であったのは、僅か半年ほどであった。
戦後、鮭延秀綱は義光にこの遺書を見せた。義光は号泣し、
かつて勘兵衛夫妻を罰しようとしたことを恥じて、手厚く弔ったという。
0747人間七七四年
2008/08/25(月) 22:13:37ID:ljKR4QoOちょっと批判されただけでうるさいうるさいw
0748人間七七四年
2008/08/25(月) 23:17:13ID:5viugfyz金を持ってなければ羨ましい故の負け惜しみみたいで中々言いづらい空気の中、
唯一伊達を超える金を抱える上杉の家宰だけが堂々とpgrして
陪臣ごときにpgrされた伊達に皆スッキリという話か。
0749人間七七四年
2008/08/25(月) 23:19:48ID:69bLGVeA兼続も芯の強さは見せたが、侮辱的な言葉を吐いて礼節や品格に欠けた受け答えだな。
当時政宗はまだ二十代、兼続も三十代と青年武将同士らしいエピソードだね。
0751人間七七四年
2008/08/25(月) 23:51:26ID:byq4RTz9むしろ「ちょっととんがった話」、「ちょっと嫌味な話」だと思うんだけど
0752人間七七四年
2008/08/26(火) 00:35:41ID:ttDF3EWe落胆する父元就に、厳島より一通の文章が届いた。彼が死ぬ八ヶ月前に、厳島神社に奉納していった物だという。
それには、こう書かれていた
「どうか、父を長生きさせてください。もし、父に巳歳の災難が降りかかると言うのであれば、どうぞ、私を身代わりにしてください。」
元就は、あふれる涙を抑える事ができなかった、と言う。
0755人間七七四年
2008/08/26(火) 04:09:44ID:WWmN0/t2隆元が死んだ1563年の毛利の事情はどうだったのか、
元就でなければ乗り切れない局面だったのか、
戦国にわかの俺にはわからない
0756人間七七四年
2008/08/26(火) 09:28:54ID:EdN5C6P5尼子との抗争長引いて大友にちょっかい出されたらやばい状況かな
0757人間七七四年
2008/08/26(火) 11:14:00ID:9Pi+BKu3誰か文章上手い人まとめてくれ
0758人間七七四年
2008/08/26(火) 21:06:53ID:73X+dYWH最上家は二代目藩主急死後、義光の孫・義俊が幼弱であるとして
義光の四男・義忠をかつぎあげる動きがあった
これの中心であったのが鮭延である
しかしこの動きが幕府に叛くものとされ、改易の憂き目にあう…
鮭延は幕府の土井利勝に気に入られたのか、古河に預けられ
五千石の身分となった
土井は優秀な官吏ではあったが武勇に功績がなく、そのため
武勇の誉れ高い鮭延を買ったのではとも言われている
ちなみに彼は長谷堂合戦では志村光安と並び活躍している
しかし鮭延は一切の政治から身をひき、五千石すべてを最上家から
己を慕ってついてきた家臣に分け与えた
また、改易の原因を作ったのを恥じたのか、鮭延家を意図的に断絶させた
彼の死後、その徳を慕った家臣は鮭延寺を建立し、彼をしのんだという
鮭オマケ
鮭延の主君・最上義光はあまりに鮭が好きなので、
「おまえは鮭喰らいたくて海とったろ」と後世言われたらしい
それは本当かどうかわからないが、家臣宛に
「鮭トンクスw 食べてみたけどマジウマー」と手紙を書いているので、好きだったのは確か
0759人間七七四年
2008/08/26(火) 22:53:43ID:bFEclT/R0760人間七七四年
2008/08/26(火) 23:12:57ID:Gf9PZXeg水戸黄門こと水戸光圀も鮭中毒患者、特に鮭皮マニアだったらしい。
0761人間七七四年
2008/08/27(水) 09:13:35ID:miiNU08i0762人間七七四年
2008/08/27(水) 13:39:17ID:VvhdqxeB毛利秀就が江戸城に登城した時、弁当のおかずに鮭の切り身入れてたら、
一緒に登城していた諸侯達が
「やや!その珍しいものは何ですか!?」
と、集まり、一口味見させてくだされと言って来て、秀就も人がいいから
どうぞどうぞと食べさせちゃったら、「おお!これは美味じゃ!」とみんなでパク付きはじめ、最終的に
秀就、自分の分が無くなった。ってお話が。
0763人間七七四年
2008/08/27(水) 14:04:54ID:hhWi3jzq0764人間七七四年
2008/08/27(水) 14:45:22ID:aTdWlCvn0765人間七七四年
2008/08/27(水) 14:55:52ID:WpZrE5MP関が原の合戦で小早川秀秋が4時間も悩んで、あげく大砲を打ち込まれて決心した、
という話が通説になっているが・・・
一番備を勤めた松野主馬、裏切りのことは極秘ゆえ事前に知らされてはいなかった。
そこに「西軍を攻撃せよ」命令が届く。
彼は激怒して「最初から東軍に属するならともかく、今に至って裏切るなど、そのような軍法はない」
と自軍をガッチリ固め、味方に対して壁をを作った。
小早川軍の動きを封じてしまったのだ。
再三の説得にも応じず時間は過ぎていく。
「主君の命を聞かないことこそ裏切りだ」と言われ、
それならばと自軍を引き連れて戦場を去って行ってしまった。
それでやっと小早川軍は動くことができた。
戦後小早川家を出奔したが田中吉政に3万石で召抱えられ、
晩年は本多能登守から500石を給され道栄と名のり安楽に余生を送る。
0766人間七七四年
2008/08/27(水) 17:50:13ID:R12uRgM5さてや、秀就。
翌日は自らも食すまいと、鮭一匹を持ち込み候。
それが今日のちゃんちゃん焼きになったそうな――
という逸話はない。
0767人間七七四年
2008/08/27(水) 20:38:59ID:PoBnvWko0768人間七七四年
2008/08/28(木) 03:53:46ID:didd8zyL0769人間七七四年
2008/08/28(木) 04:02:56ID:O/sOkD9k義光の良臣に男惚れする性格にもあるんだよな。
こういうところで謀略暗殺義光の汚名が少しでも払拭されるのは素直にうれしい。
義光は漢が漢に惚れる良い主人だけど
あんまり家臣を厚遇しすぎたのか
家臣に禄を与えすぎて最上直轄領少なかったんだよな。
0770人間七七四年
2008/08/28(木) 06:16:44ID:w2vsN6NG0771人間七七四年
2008/08/28(木) 10:02:41ID:8IRMi1FP豊臣の直大名になった時に
「わしは長年檜山館の家来だったがお前は晴れて天下の将軍(本当にこう表現してる)の
直臣になったんだな」と喜びながら天才丸(のちのry)に拝礼したことと
はるか未来で現当主が陸軍「上等兵」として人知れず戦死したぐらいしか逸話がない気がする・・・
0772人間七七四年
2008/08/28(木) 13:22:01ID:uP49F0F9●秀吉に謁見した際、徳川家康に褒められた綿入れをその場で家康に献上し、
蝦夷支配のための強力なコネを作った。(太閤の後は徳川だという先見性)
●アイヌから「鮭」を詐欺まがいの交換レートで大量に搾取した。
●九戸征伐で、率いたアイヌ部隊の毒矢の威力が凄まじく、諸大名を震えあがらせた。
函館の役所とか図書館ならなにかありそうだが
地元の人、なんかある??
0773人間七七四年
2008/08/28(木) 13:23:01ID:N4rc0YbF天下人となった秀吉は、恩も忘れて織田家をないがしろにしている。
権力って凄いな、と思わせるいい話でした。
0774人間七七四年
2008/08/28(木) 13:40:00ID:G4pZJsX6何でこんな男が天下を取れたのだろう?って思うことがある。
0775人間七七四年
2008/08/28(木) 13:43:01ID:fVKmKb7M0776人間七七四年
2008/08/28(木) 13:45:32ID:K3VUeCKK白人諸国が経営した南アメリカアフリカインド東南アジアと比べても
遜色ないくらいにえぐすぎる
0778人間七七四年
2008/08/28(木) 13:53:12ID:uP49F0F9ただちに遠江に1万3000石を与えた のは、プロパガンダなんだな、多分。
0779人間七七四年
2008/08/28(木) 14:12:44ID:CM7rQDHW鮭好き武将はかなりいたとおも
0780人間七七四年
2008/08/28(木) 16:42:42ID:KB7FEz5B九州征伐において如水が手料理したということは昔は九州でもとれていたのだろう。
0781人間七七四年
2008/08/28(木) 19:02:43ID:6aJtz8L/0782人間七七四年
2008/08/28(木) 19:23:15ID:X8Yhpdwu0783人間七七四年
2008/08/28(木) 20:10:27ID:7NHpwo7s謀略暗殺は別に戦国じゃ当たり前の話なんだけど、何故か義光は冷酷なイメージにされるのね。
どっちかって言うとむしろ、開墾したり水運整備したり寺社保護したり、領民に暖かい政治姿勢だったんだが。
命懸の開墾を計画した家臣に対し、全面的バックアップするとか、
改易後、酒田の商人に二君に仕えずと言わせたりね。
ああそうそう、ウィキによると義光は五千石程度の暮らしだったとか。
五十七万石なのに君主が五千石とかアリエナス
0785人間七七四年
2008/08/28(木) 20:35:59ID:g7rQe0/x鮭の皮使ってなかったけか
0786人間七七四年
2008/08/28(木) 20:47:54ID:K3VUeCKK陣羽織ってのは正装で日本からの綿繍か清の蝦夷錦
普段着は樹皮衣が主で獣皮衣や魚皮衣も地域によっては着てる感じだったはず
0787人間七七四年
2008/08/28(木) 21:54:14ID:Z6zoIXZYサケは今だと日本海側は福岡県まで、太平洋側は利根川あたりまでのぼってくるよ。
でも高知とか徳島でもたまに獲れる。
北海道だけでカナダの三倍のサケが川に上ってくるらしい・・・
そういえば何年か前、最上川でバカでかいキングサーモンが獲れたことがあったなw
0788人間七七四年
2008/08/28(木) 23:33:32ID:CM7rQDHW勉強になった
0790人間七七四年
2008/08/29(金) 11:26:04ID:UMiFod8hチェプケリというらしい
0793人間七七四年
2008/08/29(金) 14:24:04ID:LZQYPXp20794久秀
2008/08/29(金) 15:52:08ID:4wWGFuRJ0797人間七七四年
2008/08/29(金) 19:30:11ID:WNSJqYAG0799人間七七四年
2008/08/29(金) 20:19:34ID:LZQYPXp2戦国ちょっと悪い話
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1220008704/
0801人間七七四年
2008/08/29(金) 23:08:23ID:4VQ44jZH0803人間七七四年
2008/08/30(土) 02:02:43ID:bQqgPH4s0805人間七七四年
2008/08/30(土) 02:31:37ID:ovwOyXhGでも史実は史実な訳だしまあいいんじゃないですかね
0806人間七七四年
2008/08/30(土) 10:32:11ID:g1VXCmJV0808人間七七四年
2008/08/30(土) 12:51:56ID:k13OsBMO本多忠勝が娘婿の真田信之が父と弟の助命嘆願した時、強く取りなしたとかなんとか。
大久保長安は、武田家臣だった時の恩を忘れず、信玄の娘の信松院(松姫)の暮らしを支援したそうな。
0809人間七七四年
2008/08/30(土) 16:51:56ID:mtJEhULH0810人間七七四年
2008/08/30(土) 18:05:59ID:pc+O0ghU0811人間七七四年
2008/08/30(土) 18:07:05ID:pc+O0ghU0812人間七七四年
2008/08/30(土) 18:43:09ID:tNzXIThI0814人間七七四年
2008/08/31(日) 09:53:11ID:O/WsQd190815人間七七四年
2008/08/31(日) 13:49:42ID:AkpVdDD0和泉守護と九条家は、その領地の境界を争っていた。ある時、日根庄内の入山田村の住人二人が、
和泉守護細川氏の家臣によって拉致されると言う事件が起こった。
政基はすぐに、家臣の塩野兵庫助を、守護の滞在する堺へと派遣した。
くどくどと言い訳をする守護側に、塩野はこう言い放った
「所領問題に気に入らないことがあるのなら、それは百姓の責任ではない、和泉細川家と我が九条家の問題である。
九条家の家来である私が今ここにいる。私を拘束し、かわりに百姓を開放しなさい!」
同じ頃京では、政基の工作により、細川の本家である京兆家から「九条家は報復として、和泉細川家の
係累を人質に取るといい。我々も協力する。」との言質を取った。和泉細川家は追い込まれた。
結局、守護側は何も出来ず、拉致した百姓を開放した。
当時は公家であっても、地下の領民のためにすら、これだけのことをした、と言うお話。
0816人間七七四年
2008/08/31(日) 14:39:30ID:T0WBPrV40817人間七七四年
2008/08/31(日) 16:19:37ID:kvfRK2yaサクラマス(山女の降海型)かサツキマス(アマゴの降海型)
じゃなかったのか?
富山の鱒の鮨なんかはサクラマスだし
長良川名物はサツキマスだし
0818人間七七四年
2008/08/31(日) 18:27:39ID:GWTH4TzRインテリだからむしろ
民を大事にするメリットを意識している、ということなのかな
当てずっぽうだけど
>>815
ここまで体も張って、面倒な立ち回りもするなんて・・・イイハナシダナー
0819人間七七四年
2008/08/31(日) 19:06:12ID:vgn8GgQ/↓
↓
0820人間七七四年
2008/08/31(日) 20:15:53ID:hCXKI+sJそんな面子の問題。
0821人間七七四年
2008/08/31(日) 22:07:17ID:bOd7dXa10822人間七七四年
2008/08/31(日) 22:29:11ID:AkpVdDD0「守護が私に対して武力で攻撃すれば、入山田を含む九条家由緒の五ヶ村が、昔のように九条家領に
なってしまうことは目に見えているではないか。
私とともに討ち死にする者たちには気の毒だが、私が討ち死にこそ、幕府の処断によって九条家領が
回復される絶好の機会となる。私はむしろ、それを望んでいると言っていいくらいだ。
このようなことは、馬鹿でもわかる話だ。」
0823人間七七四年
2008/09/01(月) 01:10:44ID:OqZOmtq7永禄四年(1561)、武田信玄が上州に侵入してきた。
当地の大寺である長年寺は戦乱に巻き込まれることを恐れ、僧、受連は信玄から、
「予の軍勢がこの寺で略奪や暴力、破壊行為などの狼藉を行うことを禁止する」との制札を手に入れた。
が、戦乱は長引き、長年寺周辺も無事ではすまない状況になってきた。
寺に住んでいた200人あまりの僧俗に、受連は「このままでは危険である。皆、避難するように」と言った。
僧の一人が「しかし、我々がここから避難してしまえば、この寺は軍勢にどうされるか…」
受連「私が、守るよ」
彼は一人この寺に残った。戦禍は、たちまち長年寺に襲い掛かってきた。武田の足軽たちが
あるいは食物を、あるいは資材を、あるいは金銭を奪いに、長年寺に押しかけてきたのだ、そのたびに
受連は一人門前に立ち、戦場で荒くれている軍兵を前に、制札を掲げた。
「ここは保護された場所である!」
ある時は刀で脅され、ある時は暴行を受け、ある時は着ているものを身包みはがされたこともあったと言う。
やがて上州の情勢が落ち着く。避難していたものたちが、長年寺に帰ってきた。
そこには、
かわらぬ長年寺の姿と、痩せこけ、体中に傷を負いながらも、門前に立ち彼らを迎え入れる、受連の笑顔があった。
0824人間七七四年
2008/09/01(月) 01:34:43ID:1hH+R0Zj0825人間七七四年
2008/09/01(月) 02:09:49ID:A5W0CLpW0826人間七七四年
2008/09/01(月) 02:21:36ID:9kfSACql0827人間七七四年
2008/09/01(月) 02:27:11ID:+Ags8dIv0828人間七七四年
2008/09/01(月) 06:41:55ID:t8ppktj7うんこうんこしょんべんじゃーで大爆笑してる小学生に見えるから
そう思っちゃうのは個人の自由だし生まれ持った発想のくせとしてしょうがないとしても
人前ではそういうこと言わないほうがいいとおもうよ?
コメディアンでもない限りメリットのないバカにされかたで笑われるだろうし
0829人間七七四年
2008/09/01(月) 13:53:52ID:ridcVTZ30830人間七七四年
2008/09/01(月) 14:04:23ID:B120HDp+腐女子のアホをバカにしたかったんだろ
0831人間七七四年
2008/09/01(月) 14:23:41ID:6EdMc/940832フリーザ様 ◆LYPInvIoiQ
2008/09/01(月) 17:13:21ID:rPSxkFHq敵味方の区別がはっきりしてるんでしょう。
ある種ボーダー型の人格障害っぽい人もいるが
0833人間七七四年
2008/09/01(月) 22:14:37ID:fAL4m92t最上家臣・北楯大学が大堰を工事していたときの話。
ある日、工事作業員が大騒ぎしているのをききつけ、大学が現場に駆けつけたところ、
金銀のびっしりつまった壷があった。
どうしようかとまどう彼らに大学は言った。
「おまえたちの心がけがいいから、こういうこともあるのだな。とっておけ。
そういえばこのあたりの城主が、落城のときに埋蔵金を残したらしいぞ?」
皆は大慌てであたりを掘り進んだところ、次々を埋蔵金が出てくる。
こうした幸運もあってか、工事は予定よりずっと早く終わった。
実はこの壷…偶然ではない。夜中に大学と家臣たちが現場にこっそり埋めて、
わざと見つかるようにしていたのだった。
大学の親切心と機転のおはなし。
ちなみに大学は最上側で鮭がとれると、最上義光に献上していました。
義光はとても喜んで、彼にもいろいろプレゼントをあげたそうです。
義光が大学を大事にしたのは確かですが、さすがに鮭のせいではないかなと…たぶん
0834人間七七四年
2008/09/01(月) 22:35:20ID:hbA9Q5Os0835人間七七四年
2008/09/01(月) 23:46:30ID:bHiIscEa鮭は日本を平和にする魚だな
0836人間七七四年
2008/09/02(火) 00:06:21ID:gUjOvRnb鮭とサクラマスは重複して分布してるよ
全部鮭の仲間だけどね
鮭=シロザケは北海道から太平洋側は利根川まで、日本海側は福岡まで
サクラマスは北海道から太平洋側は神奈川まで、日本海側全域、九州南部まで
サツキマスは太平洋側神奈川から大分の一部まで
0837人間七七四年
2008/09/02(火) 00:33:32ID:hGBAUmey0838人間七七四年
2008/09/02(火) 09:00:12ID:V63xJhSo0839人間七七四年
2008/09/02(火) 09:10:30ID:5cxj1FlCさーもんあらん。
0843人間七七四年
2008/09/02(火) 18:34:09ID:rzFcpMRr0844人間七七四年
2008/09/02(火) 19:40:33ID:5guRsVTz0845人間七七四年
2008/09/02(火) 20:15:00ID:crBXjLyk0846人間七七四年
2008/09/02(火) 20:18:27ID:K8F46CFmずっといい感じだな、なごむわ
0847人間七七四年
2008/09/02(火) 21:02:02ID:IZkUsmREttp://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=66153
0848人間七七四年
2008/09/03(水) 02:32:22ID:ih8VIv8T推定されるマグニチュードは8.2〜8.4.阪神、淡路大震災の、数十倍の規模であった。
この地震は房総半島から東海、紀伊半島にいたる地域に、大津波を起こした。
伊豆半島も大きな被害を受けた。が、伊豆を預かる堀越公方の政庁は、この災害になんら具体的な
救済を行わなかった。伊豆の地には多くの死体が放置され、被災し、苦しむ人々が溢れた。
その時である
海上に、多くの船舶が現れた。まっすぐこちらに向かってくる。
「海賊か?」
住民たちは逃げようとした。しかしどこに?堀越公方の政庁は、自分たちを助けてくれない。
そうこうしているうちに、船は接岸し、侍たちが上陸してきた。
たくさんの医師を伴って。
侍たちは早速炊き出しをし、医師たちは被災した家々を回り、病人、けが人の治療をし、薬を調合した。
多くの命が、救われた。
この船を率いてきた大将も、いっしょにかゆを配り、病人を看病した。
この男の名は、伊勢宗瑞。後に北条早雲と呼ばれる武将である。
0849人間七七四年
2008/09/03(水) 03:12:18ID:RGznkm6T0850人間七七四年
2008/09/03(水) 05:29:15ID:eT2pQ3oU0852人間七七四年
2008/09/03(水) 06:52:09ID:4UlUAbTe0853人間七七四年
2008/09/03(水) 06:54:22ID:PrbyFGJi0854人間七七四年
2008/09/03(水) 09:25:39ID:pZnGoihf正しいありかたじゃないの
0855人間七七四年
2008/09/03(水) 09:56:54ID:SJtoyB9h最高の形だよな。
これが前田利家なら救援物資売りに来るぜ
0856人間七七四年
2008/09/03(水) 10:11:32ID:apumvUhL0857人間七七四年
2008/09/03(水) 10:15:16ID:7BYsnQNV人身はあまり掌握しすぎない方がいいw
まあ、徳川家康をして、領民が前領主の徳を慕うので治めにくい、と言わせた後北条の初代だし、そういう逸話もスレタイに合ってるからいいじゃん
0858人間七七四年
2008/09/03(水) 12:53:17ID:RGznkm6T俺たち汚れちまったのかなぁ
とか言ってみる
0859人間七七四年
2008/09/03(水) 13:28:20ID:W3hoAJfH0860人間七七四年
2008/09/03(水) 16:37:08ID:NVGcmZPtなんか泣けてきた
0861人間七七四年
2008/09/03(水) 23:03:44ID:7Yy5uT8T0862人間七七四年
2008/09/04(木) 05:40:02ID:WSPeQpVf0863人間七七四年
2008/09/04(木) 10:11:25ID:1NHg0sgh遅レスだけど、側室持たなかったのは立場的に無理だったからでは
・隆元
大内義隆の養女という当時毛利が臣従していた大内家から嫁をもらってる以上、側室なんて持てない
・元春
講談ベースに考えるなら、熊谷家との絆を考えた打算でブスを嫁にしてるから、
わざわざ側室を迎えて熊谷家との仲を微妙になんかしない
・隆景
二つに別れた小早川家を統一する為の結婚だったから、側室なんて持てない
まあそれを抜きにしても嫁さんを大事にしてるのは事実だろうけど
0864人間七七四年
2008/09/04(木) 14:17:57ID:6PKkhzKZ嫁さんに会う時は常に正装して、主君に対するかの如き振る舞いだったとか聞くぜ。
そんなよそよそしい夫婦関係なら、そら子の一人も出来んわ。
0865人間七七四年
2008/09/04(木) 15:16:45ID:+zwxPN6T元春の嫁さんは、本当はブスじゃなかったんだが・・・・・
後家さんになってしまって、親父が心配していたところへ元春の求婚で、感謝感激した。
というんであって、時代が経つにつれていつのまにやらブスということになってしまった。
0866人間七七四年
2008/09/04(木) 16:28:51ID:+y/K+54oゴクリ
0868人間七七四年
2008/09/04(木) 16:50:57ID:8NBH9hcu0869人間七七四年
2008/09/04(木) 22:55:08ID:duZbFBCJ0870人間七七四年
2008/09/05(金) 08:44:32ID:vp7tvVLA結果、関ヶ原で中途半端なことして、アレだからなぁ。
0871人間七七四年
2008/09/05(金) 10:08:37ID:YaJgxsYk元清が隆景と同時期に死んじゃわなければなぁ。
0872人間七七四年
2008/09/05(金) 12:01:37ID:5JzlzxVsもっともそれが性格的になのか、たかが1国人に過ぎなかったゆえなのかは不明
0873人間七七四年
2008/09/05(金) 15:05:24ID:pkMeJIpz天正十四年三月
徳川家康と北条氏政・氏直親子が伊豆にて、同盟締結のための会見を行った。
一同が集まって先ずは酒宴、と言う時、家康の宿老である酒井忠次、「余興に」と、
お得意の踊り、「海老すくい」を舞い始めた。
これは今で言う泥鰌すくいのようなもので、相当滑稽な踊りだったそうな。
これに一座大爆笑。その和やかな空気のまま。徳川と北条の同盟は、無事締結された。
締結直後に、北条側から酒井に向かって一言
「立派な海老がすくえましたなあ」
0874人間七七四年
2008/09/05(金) 15:21:22ID:IYcLe+69その後徳川家は北条という海老を捨て
豊臣という鯛につきましたとさ
0875人間七七四年
2008/09/05(金) 15:35:45ID:HuQOVOej0876人間七七四年
2008/09/05(金) 15:40:59ID:pkMeJIpz海老=同盟締結の事だよ。
ついでに言えばこの同盟のおかげで、家康は小牧長久手の対決に至るための、後顧の憂いが無くなったし、
北条も北関東戦略に集中できたし、と、双方に大きなメリットがあった。
あと、家康は関東征伐のぎりぎりの段階まで、北条に豊臣につくように説得しているわけで、しかも
氏直は、命を助けられ、早死にして果たせなかったが、「家康の婿」として、豊臣政権化で大名として
復活するはずだった。
この同盟は、かなり強固だったと言っていい。
0877人間七七四年
2008/09/05(金) 15:59:56ID:IYcLe+690878人間七七四年
2008/09/05(金) 16:11:03ID:pkMeJIpzんーっと、きちんと説明するとね?
徳川と北条はそれまで甲斐や信州をめぐって敵対関係にあり、実際に戦闘も行われているわけ。
それが色々な情勢の変化で、和平、同盟、と言う方向に行ったのだけど、ちょっと前まで戦火を交えていた
両家だから、当然反対派も存在し、会見の進め方次第ではどうなるか解らない、って状況でもあったわけ。
そこで忠次の海老すくいで、会談の雰囲気が良くなって、すんなりと同盟締結に持って行けた。
それについて北条側からも、ある意味感謝の念をこめて発言されたのが、
「立派な海老がすくえましたなあ」
って言葉なのよ。
0879人間七七四年
2008/09/05(金) 16:40:03ID:5nKgkDIO何か言いたいところだけど言って良スレが荒れるのはなんとしても避けたい。
0880人間七七四年
2008/09/05(金) 17:09:44ID:VgJpGR9x0881人間七七四年
2008/09/05(金) 17:18:00ID:R1QvOiAsちぇっ
0882人間七七四年
2008/09/05(金) 17:42:47ID:HRd83ObP0883人間七七四年
2008/09/05(金) 18:23:25ID:GgMwgVoX土佐人たちの大酒のみっぷりに苦慮しついに禁酒法発令
皆不満たらたらであるもののやむなくお酒は控えることに
所がる日元親自らこっそり酒を飲んでいるのを福留さんが目撃
ここぞとばかりに自ら作った禁酒法を自ら破ってしまった殿を責めまくり
元親平謝りに謝って禁酒法の条項を撤廃しましたとさめでたしめでたし
土佐人じゃないのに幕末の豊信は鯨海酔侯
なんだ?血筋じゃなくて風土が酒好きに影響しているのか?
0884人間七七四年
2008/09/05(金) 20:55:01ID:twwV9+mc0886人間七七四年
2008/09/05(金) 23:06:01ID:rgTrvICxあそこに住んでたら、周りにあてられてついつい飲みたくなるだろうな
0887人間七七四年
2008/09/06(土) 16:52:54ID:y6tdixCV一、町人に申し分があれば、書きたてて目安箱に入れること。(市民の意思や要求を把握する)
一、町人に訴訟したい事があれば、板倉家中のものに頼む必要はない。直接申し出る事。(直訴を認める)
一、訴訟、裁判において、他の有力者に仲介、斡旋を頼むようなことがあれば、理非にかかわらず負けとする。(裁判の公平性を確保する)
一、所司代の者だと言っても、町人の売り物を掛買い(値引き購入)させてはならない。(官僚としての規律を確保する)
一、法は町触れによってはじめて執行される。武家奉公人が所司代の命令だなどと言ってきたときは、所司代に通報する事。(法公開の原則)
これは板倉の治世の間ほぼ守られ、さらに彼に続く京都所司代の、基本方針となり、さらには幕府における
江戸、大阪などの都市行政においても、これが原則とされた。
彼が名所司代と京と市民からたたえられたのも、裁判においての手腕だけでなく、このような、自らを律し、
市民の話を聞き、公平であろうとする姿勢があったため、だったわけだ。
0888人間七七四年
2008/09/07(日) 00:07:33ID:BT+LsTAa秀吉が風呂に入っていると、蜂屋伯耆守がやってきて、お背中を流しましょうと言う。
それではと秀吉、やらせてみると、蜂屋、こう節をつけながら、リズミカルに背中をこすり始めた
「知行くれい〜 知行くれい〜」
そんな感じで背中を流してもらった秀吉、蜂屋に向って「今度はわしがお前の背中を流してやろう」
そんな、殿下に、勿体無い、と断るも、無理やり服を脱がせて、同じように節をつけながら背中をこすり始める秀吉
「奉公せい!奉公せい!奉公せい!」
蜂屋伯耆守、すっかり恐縮したそうな。
0889人間七七四年
2008/09/07(日) 00:12:24ID:QHHB6OoT0890人間七七四年
2008/09/07(日) 01:01:23ID:BT+LsTAa78 名前: 四十代(東京都)[] 投稿日:2008/09/06(土) 18:35:16.05 ID:kb9fMQ7A0
「巧すぎる絵師」の宿命としての真田幸村のトラブルとは対照的に、こんな心温まるエピソードも
残っている。
「花の慶次」に登場する徳川家康の外見が勝新太郎をモデルにしていることは有名であるが、
あるとき知り合いの演歌歌手の誕生パーティーに原が出席したときのこと。原が隅で料理を
つついていると、ホールの向こう端から全身白のスーツ姿にサングラスをかけた小太りの男が
つかつかと歩み寄ってくるのが見えた。誰あろう、その恐ろしげな風貌の人物こそ、かの勝新
その人であった。
勝は原の目の前に立つと、原の胸を、どんとひと突きした。「―――殴られる。」原はそのとき、
そう直感したという。原は勝に無断で、肖像を拝借して作中に徳川家康を登場させていた。真田
幸村の一件が頭をよぎる。しかし。勝はサングラスをはずし、ぐい、と原に顔を寄せると満面の
笑みを浮かべこう言った。「おめえ、絵が巧いんだな。」それだけ言うと勝は手を振りつつ去って
いったという。
数ヶ月して、原のオフィスに一本の見事な長唄三味線が届いた。紫檀製の胴には見事な綾文
(鑿で内面に彫られる模様細工)、既に昨今では珍しい本皮張りに、象牙の撥(ばち)。時価に
して数百万になろうかという逸品である。それは、三味線職人の次男坊である勝新太郎ならで
はの、原の作画に対する素直な評価、粋な贈り物であった。原は以後この三味線を何度も
作品中に登場させ、前田慶次に弾かせている。
0891人間七七四年
2008/09/07(日) 01:03:43ID:332D1d3M0892人間七七四年
2008/09/07(日) 01:32:08ID:wus4eEpj0893人間七七四年
2008/09/07(日) 03:22:35ID:0UV3iztH0894人間七七四年
2008/09/07(日) 06:28:25ID:OXsLOA7xカジワラ先生だったらこんないい話で終わらないだろう
0895人間七七四年
2008/09/07(日) 09:39:43ID:6w8L4YxR秀吉が大事にしていた鶴が
世話係の不注意で逃げてしまった
世話係がおそるおそる報告すると
最初は顔色を変え、しばらくは
無言の秀吉だったが
やがて静かに問いかけた
秀吉「あの鶴は唐(から)まで逃げたか?」
世話係「いえ…いくら何でもそこまでは…」
秀吉「なら良い、日の本の中ならどこでも俺の領地だ。領地の中にいるのなら、お前は逃がしたわけではない」
そいうって秀吉は世話係を咎めなかった。
秀長や利休がまだ健在の頃の話らしい。
0897人間七七四年
2008/09/07(日) 13:13:59ID:n9UNGfEW0898人間七七四年
2008/09/07(日) 13:48:46ID:BT+LsTAa戦争になったときのエピソード
孝景、陣中にいた会下僧にこう尋ねた
「戦争では、敵も八幡大菩薩、味方も八幡大菩薩に武運長久を祈るわけだ。その一念は
敵味方同じであろう。だが、その御利生は、どういう事に成るのであろうか?」
僧曰く
「それは、こう考えると宜しいでしょう。味方には現世安穏、敵には後生善処。」
0899人間七七四年
2008/09/07(日) 20:22:58ID:lVs96Nkf無粋な突っ込みだが・・・
無類の強さって言っても例えばボプサップに軽くぼこられる程度の奴だよ島津義弘なんて。
武蔵にすら勝てないし、別に言うほど強くないよ。
厨はどうも戦国最強って言うと本人が強いとかと勘違いするんだよな。
単に島津義弘軍が強かったってだけだからな。
0901人間七七四年
2008/09/07(日) 21:24:34ID:xkXUUxeZ厨とか見下して・・・。
可哀想な子。
0902人間七七四年
2008/09/07(日) 22:07:29ID:IPQCoSaY0904人間七七四年
2008/09/07(日) 22:30:17ID:OXsLOA7x0905人間七七四年
2008/09/07(日) 23:21:00ID:gwTNWcmY0906人間七七四年
2008/09/07(日) 23:35:22ID:BT+LsTAa新たに当主となった忠利に小倉城をゆずった忠興は、中津城を隠居場にした。
さて、いざ隠居してみると、家臣たちがぱったりと挨拶に来ない。確かに静かに余生を過ごしたいといった。
だがこれはどういうことだ!
「忠利!まさかお前が、わしのところに家臣が挨拶行かないようにと、言っているのではないだろうな!?」
こんな書状をもらった忠利、当惑し、家臣に「とにかく大殿様にご機嫌伺いするように!」と大慌てで要請
次の日から中津城には、ひっきりなしに家臣達が尋ねてきた。その、あまりの多さに忠興も閉口。
「誰がこんなに尋ねて来いと言った!?用のある人間だけ来ればいいのだ!」
と、やっぱり立腹。困った爺様である。
しかし、そのしばらく後に
「この間はわがままを言ってすまなかった。後悔している。」と、反省文を送ってきたりもした。
案外可愛げもある爺様であった。
0908人間七七四年
2008/09/08(月) 02:07:11ID:hT8ofVgfとりあえずさ。義弘本人がどれだけ強かったとか弱かったとか分からないよね?
家康とか狸親父なイメージだけど、武芸結構納めてるし。
義弘も初陣で一騎討ち制したりしてるし、名門武家の子として当然幼少時から鍛えてたわけだろうし、それなり以上に強かったと思うよ。
大体、精鋭って呼ばれる軍団の大将はある程度強くないと兵士に舐められる恐れもあるよね。
だから少なくとも君よりかはずっと強かったと思うよ。義弘。
0911人間七七四年
2008/09/08(月) 03:53:24ID:UTKCLwEi俺より強いってのは同意
でも黄色人種は黒人より武においては劣る
これ現実
なんかまともな反論せずにふぁびょってるやつが多いが、
>無類の強さを誇った島津義弘も
>晩年は老いに勝てず、1人で起き上がり飯も喰えぬ有様だったという。
そういう意味での無類の強さがあるとか本気で思い込んでいたのか?
だとしたらアホすぎる。ゆとりとかいうレベルじゃない。
バカは戦国板から出て行け。
0912人間七七四年
2008/09/08(月) 04:05:24ID:1fJ5tlZ4それただの揚げ足取りじゃん・・・
半年前の奴にレスするほどの事じゃ無いじゃん・・・
あと黄色人種が黒人に武において劣る「これ現実」の根拠を
まさかボクシングとかその辺のものを例示するんじゃないだろうね・・・
戦国板がお前みたいな奴ばっかりになったら自然と出て行くよ俺は・・・
0913人間七七四年
2008/09/08(月) 07:12:17ID:PolMUqli人殺してる人らの胆力に勝てると思えないけどなあ
殺し合いで勝てるかどうかって精神的な部分も重要だろ
0914人間七七四年
2008/09/08(月) 08:32:32ID:36gXWCE1誰が強い弱い議論は別スレでやってくれ。
0915人間七七四年
2008/09/08(月) 11:53:52ID:Lki0zbnp関が原の直前、伏見城上代・鳥居元忠は甲賀者を駆使して三成の動向を調べ、
逐一家康に報告した。
三成が挙兵し、伏見城は大軍に囲まれて孤立し、元忠は壮絶な討ち死にを遂げた。
この時、元忠を撃ち取ったのが雑賀党の首領、孫一だった。
実は鳥居家は鈴木家とは同族で、昔からの顔なじみだった。
「どうせ死ぬなら孫一に手柄を立てさせてやろう」
死を覚悟してなお配慮が働いたと思われる。
元忠の子・忠政は父の功により24万石の大名に引き立てられた。
0916人間七七四年
2008/09/08(月) 19:15:24ID:NLKdfSJs加増されて二十万石超えたのはだいぶ後年のようだけど、
それでも譜代ということを考えると石高的に非常に厚遇されているね。
元忠は家康の人質時代からずっと側近くで仕え続けてきたし、
家康にとっては忘れられない家臣なんだろうね。
そういえば、駿府の人質時代、鷹が飼えない家康が
トンビ?か何かを鷹の代用として飼っていたら、
元忠の父親が家康をしかりつけ、大将の心構えを説いた、
ていう逸話なかったっけ?
0917たられば君
2008/09/08(月) 21:38:07ID:qsmNJ5vOおもしろい巡り合わせだよね
0918人間七七四年
2008/09/08(月) 22:45:28ID:UTKCLwEiでもその二人に勝てる日本人が一体何人いた?
上には上がいるってことで、島津の肉体的な強さなんて無類とかいうほどのことでもないってこと。
これが残念ながら現実なわけよ。
だってここにいる誰一人お前がバカにするサップや武蔵に勝てないし、島津が素手で二人のどちらかに勝てる可能性は現実的に0に近い。
将軍と格闘家の違いくらいわかるだろ。
将軍としては日本有数でも、
>無類の強さを誇った島津義弘も
>晩年は老いに勝てず、1人で起き上がり飯も喰えぬ有様だったという。
それはこういう意味の無類の強さではないわけ。
その程度もわかんないんて本当に程度の低い住人だな。
0919人間七七四年
2008/09/08(月) 22:47:17ID:efwHKosz0920人間七七四年
2008/09/08(月) 23:00:23ID:UTKCLwEiここはお前の日記じゃねえから独り言はチラシの裏にでも書いとけヴォケ
0921人間七七四年
2008/09/08(月) 23:02:10ID:226Wq/+l0922人間七七四年
2008/09/08(月) 23:04:30ID:j53qBNH8スレの総意で優しく温めていこう寛容にいこうっていう空気をみんなでこつこつ作ってきたのに・・・
0923人間七七四年
2008/09/08(月) 23:08:34ID:HvZGQC+X俺にはさっぱり完全に見えない。
0924人間七七四年
2008/09/08(月) 23:12:11ID:226Wq/+l0925人間七七四年
2008/09/08(月) 23:12:41ID:3dKpsk/z0926人間七七四年
2008/09/08(月) 23:16:49ID:d9QbOQMp0927人間七七四年
2008/09/08(月) 23:32:37ID:xJwHlUi10928人間七七四年
2008/09/08(月) 23:37:54ID:WNPXAEfi0929人間七七四年
2008/09/08(月) 23:42:13ID:226Wq/+l奥羽の一大名でありながら、鮭を愛したため家臣領民
らを魅了し、また、もっとも妹を恐れた男・義光。
戦国の世でひときわDHA摂取量が多かったという。
0930人間七七四年
2008/09/08(月) 23:47:59ID:UTKCLwEi単発IDばかりって自演確定だなw
悔しかったら全員もう一度レスしてみろよw
0931人間七七四年
2008/09/08(月) 23:48:20ID:hT8ofVgf0932人間七七四年
2008/09/08(月) 23:57:05ID:d9QbOQMp0933人間七七四年
2008/09/09(火) 00:13:49ID:m3D1ZnPo0934人間七七四年
2008/09/09(火) 00:17:11ID:AJ8Bslu9バター焼きやムニエル、チーズ仕立てなどの対処をして凌いではいるが・・・・
0935人間七七四年
2008/09/09(火) 00:19:27ID:EG5ObHTrあぶらがのっていて、ただ焼くだけでもうまいとおもう。
塩味もちゃんとついてて。ウマー
0936人間七七四年
2008/09/09(火) 00:21:05ID:AJ8Bslu9真に申し訳有りません。
0937人間七七四年
2008/09/09(火) 00:28:36ID:4yrly1pt健康には悪いが塩をきつめに振るといい
0939人間七七四年
2008/09/09(火) 00:42:39ID:tKoq6fTI最上様には申し訳ないが
油のりのりのノルウェーサーモン(外国産ですまんね)に一塩して冷蔵庫で一晩
この塩鮭はうまい。
国産の場合、レモンの果汁と薄口醤油と酒とみりんを合わせた物につけ込み
網焼きするのもうまい。
大勢の単発ID(w)で鮭話とはいい話じゃないですか
0940人間七七四年
2008/09/09(火) 00:45:12ID:udPyiM2N0941人間七七四年
2008/09/09(火) 00:45:27ID:RZYZ7QZW0942人間七七四年
2008/09/09(火) 00:45:35ID:EG5ObHTr0943人間七七四年
2008/09/09(火) 01:32:06ID:oIgI/cTc彼は信玄の時代から、武田の次世代を支える逸材と期待されていた男であった。
さて、織田徳川による武田征伐が起こる。
御存知のように武田は次々と城を落とされ、家臣、一門が続々と寝返る中、
昌恒は常に勝頼の側にあった。やがて天目山に追い詰められ、勝頼が自害すると言う時、
彼は勝頼の自害の時間を稼ぐため、追って来る織田軍の兵を峡い崖道で迎え撃ち、
片手を蔦に絡ませ崖下へ転落しない様にし、もう片手で槍を振るい進軍を阻んだ。が、多勢に無勢、
後に「片手千人切り」と呼ばれるほど奮戦したものの、やがて討ち取られた。
しかし、彼が稼いだ時間のおかげで、勝頼たちは縄目の恥辱を受けることなく、自害する事ができた。
さて、戦後である。
この昌恒には、惣蔵と言う幼い息子がいた。織田の残党狩りを避け、親族のいた駿府の清見寺に匿われていた。
しかしそこは織田の同盟者である徳川家康の新領地。まもなくその存在は察知され、彼は徳川の手のものに
捕まり、家康の前に引き出された。
甲斐での、織田による残党狩りの禍々しい噂は、駿河にも聞こえていた。可哀想に、あの子も殺されるのだろう。
皆、そう思っていた。
ところが家康は、引き出されてきたこの、元の敵の子を、丁重に扱った。
「お主の父の最後は聞いた。わしは、お前の父のような侍を尊敬する。」
そしてこの少年に向かって言った。「出来れば、わしの息子、秀忠の、小姓になってくれないだろうか?」
彼は後、土屋忠直を名乗り、やがて上総国で2万石を与えられ、久留里城主となる。
侍の、命を捨てた忠誠は、自身も主家も滅びてもなお、子に福を与えることもある。と言うお話。
0944人間七七四年
2008/09/09(火) 01:35:59ID:w/ECGtwH最上さんの気持ちもわかるわ
0945人間七七四年
2008/09/09(火) 06:52:17ID:a8hYHeklこいつどういう突っ込みかすら理解できてねえwww
哀れwww
0948人間七七四年
2008/09/09(火) 10:14:30ID:Fm5c9pQxまぁ義弘最強とかは違うと思うが。
0949人間七七四年
2008/09/09(火) 10:38:42ID:S7JMGMmE0950人間七七四年
2008/09/09(火) 13:19:38ID:ALNK7WY10951人間七七四年
2008/09/09(火) 13:49:55ID:3gAlf+lt0952人間七七四年
2008/09/09(火) 14:38:42ID:bcCtVvW5吉川元春、1586年、天下人への道を突き進む豊臣秀吉の強い要請を受け、
弟の隆景らの説得により、隠居の身でありながら渋々九州征伐に参加した。
この時元春は膿性炎症(癌とも言われている)に身体を蝕まれていた。
そのため、出征先の豊前小倉城で死去した。
黒田如水が差し出した鮭料理を食べてしまったため、病状が悪化して死去したと言われている。
ただしこの当時、九州にて鮭を入手するのは、海運も発達していない上に、
産地である東北の大名がまだ秀吉に臣従していない以上、かなりの困難があったと思われる。
もし実話だとすれば、そのような貴重なご馳走に恐縮して断わるに断れなかった、
あるいは身体によくないと知りながら、食欲に勝てずに箸をのばしたというのが、真相ではなかろうか。
秀吉が元春を嫌っていたことを知っている如水が、「義理堅い元春なら断るまい」と食わせたか?
0953人間七七四年
2008/09/09(火) 15:08:25ID:ovKcbLCo死語だがKY
福岡にも一応鮭と九州で呼ばれるものは上ってくるよ。
鮭神社ってのは、炭鉱の塵炭で汚れてた川にまた鮭上って来たよ〜、これからはもっと上ってきてね〜っていう喜びと期待のあまりに建てられた神社だし。
毎年千匹放流して、帰ってくるのは一〜二匹みたいだけど、鮭は福岡にも来るよ。
川がきれいだった戦国時代には結構普通に上ってきてたと思うよ。
0954人間七七四年
2008/09/09(火) 15:11:04ID:8Tdn44Hu筑前嘉麻郡(現福岡県嘉麻市)には鮭神社ってのがあるぞ。
筑前國続風土記拾遺に上ってきた鮭を神の使いとしてた、って記述もあるし。
だから馳走した鮭は地元でとれたものかもしれんよ。
それで暖かいところの鮭だからアニサキスに当たったんじゃねぇかなぁ。
0955人間七七四年
2008/09/09(火) 15:15:00ID:oIgI/cTc商品の流通も相当機能していたようだね。北海道の昆布を琉球まで運んでるし。
0956人間七七四年
2008/09/09(火) 16:34:34ID:NPfF0RJy当時は福岡でも取れてた。
0957人間七七四年
2008/09/09(火) 16:34:47ID:a8hYHeklやっぱりどういう突込みかわかってねえwww
0958人間七七四年
2008/09/09(火) 16:36:51ID:5cT2/+HqそれWikipediaの文章そのまんまだね。悪いとは言わないけど、その記述の「食欲に〜」の部分は駄文だよね。
0959人間七七四年
2008/09/09(火) 17:00:45ID:3rZIxmGc0960人間七七四年
2008/09/09(火) 17:03:44ID:oIgI/cTc0961人間七七四年
2008/09/09(火) 17:09:00ID:S7JMGMmE鮭とかサップとかいい加減にして
0962人間七七四年
2008/09/09(火) 17:41:29ID:r+QBrM1Zその象徴が鮭と。
0963人間七七四年
2008/09/09(火) 20:48:50ID:avdKaLQq関ヶ原後。
庄内を新たに得た最上家は、さっそく年貢減免を行い感謝されていた…
最上義光(通称鮭様)は鮭大量入手ができる庄内・鶴岡に隠居しようと思っていた。
鮭様は「よーしはりきって庄内に城下町作っちゃうぞ!」と庄内出身の作業員に
賃金を大出血サービスした。すると配下の志村光安が血相を変えてこう言ってきた。
「殿! 作業員が賃金で不満を訴えておりますぞ」
「なぜじゃ」
「山形から来た作業員が、庄内の奴らばっかりずるいと不満を」
「あっ!」
ちょっと考えが足りない鮭様である。
鮭様は考えた。「せっかく喜んでもらえると思ったのだが…」
「じゃあ、山形のみんなにも同じだけ払いなさい」
鮭様、太っ腹である。
作業員は大喜び、はりきって仕事した。
しかし鮭様は息子を不可解な暗殺で亡くし隠居できず、
鮭まみれの晩年は送れなかった…ちなみにこの城下町、現在の鶴岡だが
城だけはなぜか粗末なつくりで、
あとでやって来た酒井家があきれるほどだったとか。
0964人間七七四年
2008/09/09(火) 22:21:22ID:s2BQ8KEg0965人間七七四年
2008/09/09(火) 22:51:19ID:wxjz7Dnl大名の娘である。自家の政治的立場のため、他家に嫁がせるのが当然の存在であった。
娘も毛利家のためにと、その事はよく理解していた。が、一人、それをたまらなく嫌がっている者がいた。
お父さんは、心配性だったのだ。
「あの娘はわがままに育ててしまって、他の家に嫁いだら、そこのしきたりに我慢できるわけがない!
いややっぱり無理だ!結婚なんてさせるわけには!」
姫の結婚話を切り出した毛利秀元に輝元は、そんな親バカ丸出しの手紙を出したりしている。
しかし毛利家の姫を、いつまでも独身のままにしておくわけにはいけない。
秀元が口説きに口説き、「では、一門のものでしたら殿も安心でしょう。」
それでも渋る輝元ほっておいて、秀元、一門吉川家の吉川広正との結婚話をさっさとすすめ、どうにか、結婚の
運びとなった。
結婚の日輝元は娘に
「この結婚に不満があるかもしれないけど、行儀を良くし、吉川の家中を広正と一緒にまとめていくんだよ。
お前は気が短いから、腹の立つこともあるだろうけど、そのときは我慢するんだよ」と、娘を切々と心配する
手紙を渡した。
「この結婚に不満があるのは誰のことかしら?」と、手紙を読んだ姫が、そう言ったとか言わないとか。
0966人間七七四年
2008/09/09(火) 22:54:25ID:b+pLbbNO0967人間七七四年
2008/09/09(火) 22:58:15ID:SBIxvPGhなんかすごい妻の尻に敷かれてそうだなw
0968人間七七四年
2008/09/09(火) 23:30:42ID:fOSjQu8b0969人間七七四年
2008/09/09(火) 23:44:59ID:tw3UapANwiki情報なので当たって無くても知らないw
0970人間七七四年
2008/09/10(水) 01:11:47ID:q4JQeDWc毛利元就は尼子と断交し、大内の傘下に入った。
英雄、尼子経久から家督を継いで間もない孫の晴久をはじめ、尼子家中はこれに怒り、「毛利討つべし!」との
声が大きくなった。その中、一人反対した者がいた。晴久の叔父、経久の弟、尼子久幸である。
「元就は、お前たちが考えているような、簡単な相手ではない。」
ここは戦よりも、外交的解決を図るのだ、と言う久幸に、主戦派は怒った。たかだか安芸の一国人に過ぎぬ
元就ごときに、数ヶ国を領する大尼子がなめられたままでよいと言うのか。
この久幸、かねてより、物事を戦にならないように謀り、経久の頃でさえそれが無謀と考えれば、その戦に
反対していた。
「下野守(久幸)殿は戦が恐ろしいのじゃ!だからいつも戦に反対しなさる。臆病野州と呼ぶが良かろう。」
臆病野州。あるいは野州比丘尼。主戦派は彼のことをこう呼び嘲った。彼はこの屈辱にじっと耐え、あくまで
この戦に反対したが、天文9年(1540年)、晴久はついに毛利征伐の命を下した。
尼子三万の兵が毛利家の本拠、吉田郡山城を攻めたこの戦い、当初の目論見に反し尼子は攻めあぐね、
天文10年正月十三日、尼子軍は毛利軍の猛攻と大内からの援軍の背面攻撃を受け大混乱に陥る。
このままでは、撤退も出来ず全滅もある。絶望的な状況の中、尼子側の一部隊が突出した。尼子久幸であった。
「臆病野州の最期を見よ!」
久幸は敵に突進し、先ず大内の軍を蹴散らした。大内軍は名のある家臣、深野平左衛門、宮川善左衛門が
あっという間に討ち取られた。後世に語り継がれたほどの、恐るべき武勇であった。
久幸のこの奮戦により、尼子は混乱状態から体勢を立て直す余裕が出来、退却をはじめた。
彼は、尼子の撤退を支援すべく暴れまわったが、毛利家臣、中原善右衛門尉に射抜かれ、討死した。
臆病野州と呼ばれた男の奮戦は、尼子軍の誰よりも、あれこそもののふであると、敵である毛利、大内両軍から
すら、高く称えられた。
0971人間七七四年
2008/09/10(水) 02:48:05ID:q4JQeDWcここが埋まったら移動してやってください。
戦国ちょっといい話2
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1220982424/
0972人間七七四年
2008/09/10(水) 08:02:34ID:MFaBil48そのエピソード、確か大河ドラマ「毛利元就」にも
とりいれられてたの、
読んで思い出した。
0973人間七七四年
2008/09/10(水) 12:44:25ID:c13BOxHEケチケチおじさんかと思えば何でも持ってけ〜とかなw
0974人間七七四年
2008/09/10(水) 15:24:45ID:q4JQeDWc商人曰く、これは大変に貴重な茶壷だという。茶のことを良くわからぬ牧野、これに大金を払って買い取った。
が、後にこれは真っ赤な贋物と判明。牧野はやすやすと大金を巻き上げられたのだ。
それを聞いた太閤秀吉。牧野をその茶壷とともに呼び寄せた。
「こんな贋物をつかまされたのか!わしが見ても贋物だとわかるわ!おぬしも馬鹿じゃのう。」
「はあ、まったく。馬鹿でございますなあ…。」
あまりにがっかりしている牧野を気の毒に思ったのか秀吉、
「よいよい。お主ほどの侍がこんなことで損をするのは、この太閤が許さない。」と、茶壷の代金に加え、
黄金一枚を添えて、牧野に下したのだ。
これを主君家康に報告すると、家康も面白がって、「なんと、贋の茶壷が金を産んだわ」
そしてこの茶壷は、「科銭の壷」と呼ばれ、天下に喧伝され、牧野家の家宝とされた。
贋物が、本当の銘物になってしまったお話。
0975人間七七四年
2008/09/10(水) 15:51:44ID:QSoso8nO0976人間七七四年
2008/09/10(水) 21:21:58ID:QWpZHWNvその人、長岡藩主の家系の牧野康成と別人なんだよな
なんだって同世代(6歳違い)で牧野姓で康成が2人いるんだ(読みや仮名は違うが)
0977人間七七四年
2008/09/10(水) 22:02:10ID:CE8wvKZJ0978人間七七四年
2008/09/11(木) 01:00:51ID:amhDpDud家臣、岩木道忠が尼子軍に左膝を矢で射られた。
医師に見せたが矢じりが体の中に残ってしまい、なかなか取れない。医師は
「切断しないと、無理です」
元就は、そうかと頷くと、いきなり岩木の傷口に口をつけ勢いよく吸い込んだ。
あら不思議!
矢じりが取れたではありませんか!
元就は医学に通じていたので医師の誤診を見抜いていたのだった
傷が治った岩木は感激して
「いよいよ、死を覚悟してあなたに尽くします」と誓った。
ところが元就は、
「こんな事ぐらいで、すぐ死のうと思うのは本当の忠義者ではない。
もっと別の事で俺のために働け」
といったという。
岩木はあらためて元就に忠誠を誓ったのであった
0979人間七七四年
2008/09/11(木) 01:10:16ID:KIzhuNfvなんで童話口調なんだww
0980人間七七四年
2008/09/11(木) 01:15:13ID:dd4UaSLm1570年っていったらもう結構歳なのにカッコいい
0981人間七七四年
2008/09/11(木) 07:32:54ID:QFTCJ2hK武田家墳墓の地、天目山へと落ち延びる勝頼一向。
そこに一騎の武者が追いかける。
名は小宮山友晴 かって勝頼の近習や一門を非難した事によって
謹慎処分を受けていたものである。
しかし武田家滅亡を聞き、最期のご奉公と勝頼一行に駆けつける。
友晴着到を受けた勝頼は涙を浮かべ、労を労ったという。
人間の興亡には、勇もあり、怯もあり、美もあり、醜もある。
0982人間七七四年
2008/09/11(木) 12:52:16ID:iXs1syze如水は、応募した浪人達に一騎当たり前金として銀300匁、
徒士には一貫文を当座の支度金として渡した。
この時、2重に支度金をもらったものがいた。
係りの役人からこの話を聞いた如水は、
「二重に金を取らせても味方になって働けばよい、
同じものが二度来ても景気付けにはなる。
俺が常に倹約して金を蓄えたのはこの時のためなのだ」
と、見て見ぬふりをするように指示した。
こうして数日で3600人が集まった。
この中に、荒牧軍兵衛、小城源兵衛、大塚角太夫などの一騎当千の兵がいる。
0983人間七七四年
2008/09/11(木) 12:56:45ID:qwcl/Om80984人間七七四年
2008/09/12(金) 00:03:44ID:srstFr0X尼子が和睦の使者として大杉という豪傑を使いによこした。
この男、周囲ニ尺もある杉の木を引き抜いたというので
大杉抜右衛門などというふざけた名前をなのっていた。
大杉を迎えた元就は大杉にいった。
「お前が剛力だということはよく知っている。そこにある大杉を引き抜いてくれまいか?」
といって庭にある大きな杉を指さした。
しかし、その杉は木の幹があまりにも大きい為、さすがの大杉も
「とても抜けそうにありません。」
と遠慮した。すると元就は、
「そうか、毛利家には、その木を抜ける者がゴロゴロしているぞ」
そういって側にいた小柄で痩せた男に
「お前、あの杉を抜いてみよ」
小柄な男は杉の木の前にいくと、あら不思議!
いとも簡単に杉の木を抜いてしまったではありませんか!
尼子の使者達はみんな呆気にとられた。
実は前日に元就は杉の木の根を全部切ってしまって、どんなに力の無い者でもすぐ倒せるように細工をしていたのだった。
大杉が元就の申し出を受ければアウト!
厳島の合戦以来の元就、一世一代の賭けであった!(嘘爆)
国に帰った大杉は
「毛利には私以上の力持ちがたくさんいて、とてもかないません」
かなりオチャラケて書いてしまった…
私の悪い癖だ…
0985人間七七四年
2008/09/12(金) 00:33:23ID:gxe663mu敵方から延沢満延引き抜きに成功した最上義光は、その剛力の噂を聞いて
なんとしても力比べしたくなった。そこで早速、勇士七名ほど家中より集め、
帷子一枚を皆来て延沢屋敷に押しかけた。
「いくらなんでもおれたちならば勝てるだろう!」と、勇士は延沢にとびかかったが、
延沢は軽々と投げ飛ばしてしまう。鮭様は凄い! と喜んでいたが、
そのまま延沢がこちらに突っ走ってくるのを見て顔色を失った!
「たすけてくれえ〜〜〜!」と近くにあった桜の木にしがみつく鮭様。
「そうはさせるか!」と鮭様にしがみつく延沢。両者はもみあったままだったが、
やがて鮭様は負けた…桜の木ごと延沢が義光を引き倒したのである!
こちらは正真正銘トリックなし、ガチである。
根っこごと木を引き抜いたのだ、延沢おそるべし!
義光は延沢の怪力にすっかり喜び、そのまま城に招いて宴会をして楽しく過ごしたとさ。
あまりの怪力をおそれた鮭様が延沢を毒殺した説がありますが、
これはガセですので念のため。
0986人間七七四年
2008/09/12(金) 00:35:55ID:5x8VrNeq0987人間七七四年
2008/09/12(金) 01:22:53ID:IeF+FpYt0988人間七七四年
2008/09/12(金) 01:30:15ID:gXeMNN/Iお侍がおった。
お正月、甥の舞木城主、俵秀賢に年始のあいさつに向かう途中、近藤林で子供に
いじめられる子狐を見た。子狐をあわれに思った照光は、子供たちに
「可哀想な事をしてはいけない。ほら、これを上げるからその子狐を私に譲りなさい。」
と、小銭を与え、子狐を、「もう、捕まるんじゃないぞ?」と、野に放してあげた。
さて、その日の夜。甥のところで御馳走になった照光、いい気分で帰っていると
目の前に、身なりのいい一人の老人が現れた。
「わたくしはは大袋の守護稲荷、稲荷新左衛門であります。我が眷属の子狐を
助けてくれた御恩をお返ししたく参りました。実は殿様、沼の北岸に要害の地があり、
ここに城を築けば、必ずや名城になるでしょう。」
こう言うと、その老人はたちまち消えてしまった。
その時は照光、「少し酔いすぎた」かと思っていたが、なんとなく気になり、
老人の言った沼の北岸を調べさせてみた。なるほど、天然の要害である。
たしかにここに城を築けば難攻不落は間違いない。しかし、いかにも縄張りが難しい
土地でもあった。
どうしたものかと悶々とした日々をすごしていると、七夕の夜、今度は屋敷に、
かの稲荷新左衛門が現れた
「縄張りはこのようにするのが良いでしょう」
と言うと、尻尾で地面に図面を書き始め、たちまちのうちに、文句の付けようのない
立派な縄張りが完成した。
「城が完成いたしましたら、私の主人である稲荷神が、その城を守護すると
申しております。どうか一角に、稲荷社を建立しますよう。」
そう言うとまた、たちまち消えてしまった。
照光はすぐさま、狐の縄張りどおりに築城を始めた。狐の図面に間違いは一つも無く。
立派な城が完成した。この城の名を館林城。あるいは狐が尾で図面を引いたことから、
尾曳城と呼ばれた。
戦国の世は、狐すら高度な軍事技術で恩返しをした、と言うお話。
0989人間七七四年
2008/09/12(金) 01:39:22ID:czP081DE0990人間七七四年
2008/09/12(金) 09:28:21ID:A4l0+ylM0991人間七七四年
2008/09/12(金) 14:35:18ID:/tRw9B3A0992人間七七四年
2008/09/12(金) 14:36:51ID:/tRw9B3A0993人間七七四年
2008/09/12(金) 14:38:21ID:/tRw9B3A0994人間七七四年
2008/09/12(金) 14:40:42ID:/tRw9B3A0995人間七七四年
2008/09/12(金) 14:41:49ID:/tRw9B3A0996人間七七四年
2008/09/12(金) 14:43:08ID:/tRw9B3A0997人間七七四年
2008/09/12(金) 14:44:25ID:/tRw9B3A0998人間七七四年
2008/09/12(金) 14:45:12ID:/tRw9B3A0999人間七七四年
2008/09/12(金) 14:45:55ID:uxnQHbbW1000人間七七四年
2008/09/12(金) 14:46:13ID:/tRw9B3A10011001
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゙|゙゙゙''' ‐‐''""' ';:::;r==,、 さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
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