関が原で、もし小早川秀秋が東軍に攻めかかったら
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
0001人間七七四年
2007/02/21(水) 02:02:54ID:ELPRAlm/家康の催促の砲撃に小早川秀秋が激高し東軍に襲い掛かったら、
東軍は総崩れ。
それを見た吉川広家もダンマリを決め込むと戦後立場がないので、家康を攻撃するにちがいなく、
家康は東西から挟み撃ちされ、関が原で戦死するのでは。
問題は、その後の豊臣体制だ。
0897人間七七四年
2009/05/27(水) 12:12:51ID:cr0A8KCB0898人間七七四年
2009/05/27(水) 12:13:42ID:OJbgzEBK0899人間七七四年
2009/05/27(水) 14:47:54ID:gTfwHtggその話は最近ガセと知ったんだ…
直前まで豪雨なのに山上布陣しちゃった西軍の方が不利っぽかったそうで
0900人間七七四年
2009/05/27(水) 14:54:47ID:SUGZ6G/A戦はなにがあるかわからんのだよ。
0901人間七七四年
2009/05/27(水) 18:06:04ID:w8YRJPUUやっぱり南宮山の毛利が重要
0902人間七七四年
2009/05/28(木) 00:35:32ID:pbU9ObI2戦闘中の東軍の左翼はがら空きで、そこを新手の軍勢に攻め込まれたら、一気に壊滅だ。
一部しか機能していない西軍に押されていた東軍豊臣系大名に、小早川勢の急襲に対応する余力など無い。
東軍の前線が壊滅して四散すれば、それまで傍観していた西軍諸将は一斉に動き出す。
勢いに乗って攻めかかる西軍の大軍に徳川勢だけでは戦線の維持は不可能。
それが可能なら、家康は小山会議で豊臣系大名の引止め工作を張り巡らしたりはしない。
毛利の押さえの池田らも、前線壊滅の報を聞けば一気に士気は萎え、
毛利勢が南宮山を駆け下りてくれば、逃げ去るのが道理。
家康の家来でもない彼らが必死で抵抗するなんて甘い発想は、
過大評価にも度が過ぎる。
0903人間七七四年
2009/05/28(木) 01:03:36ID:TRj6prs+0905人間七七四年
2009/05/28(木) 09:45:22ID:uZQXxTXIそれに毛利秀元は戦意があった訳だし、吉川も眼前で逃げ散る徳川勢を見ては傍観の振りは出来ないだろ
0906人間七七四年
2009/05/28(木) 09:53:33ID:Os9kUl130907人間七七四年
2009/05/28(木) 11:27:58ID:uZQXxTXI主家筋と争いとか有り得ねーよww
そこまで家康に忠義尽す必然性が吉川にあるのか?
0908人間七七四年
2009/05/28(木) 13:54:34ID:GCgnx82rしかしもし東軍が崩壊しないなら広家は動くまい
つまり頑張れ金吾って事
0909人間七七四年
2009/05/29(金) 04:29:28ID:GkLJRrp6だから前線が壊滅する前に家康が攻めようとしている小早川の
背後と側面をつけばいいんじゃないかという話なんだけど
小早川が東軍を攻めようとしている間に家康が
何の策もしないとは思われないし
>家康の家来でもない彼らが必死で抵抗するなんて甘い発想
それを言うなら吉川とかも三成の部下じゃないけど
そもそも南宮山の毛利とかは関ヶ原で戦うという重要な決定に
何の相談のなしに三成たちに勝手に決められたわけで
西軍の総大将であろ毛利一族でさえそういった重要なことを相談しようとしない
三成たちのために毛利たちが必死になって戦うとは思えない
なによりこれで勝ったら三成がさらに図に乗るだろうし毛利が三成の命令に
従ったという汚点が残る
0910人間七七四年
2009/05/29(金) 04:54:57ID:2yIpCEsl核となる実力者がいない どう転んでも負けてる
0911人間七七四年
2009/05/29(金) 11:56:20ID:yC4DAVgvでしくじって天下逃した人物っているの?
0912人間七七四年
2009/05/29(金) 12:41:27ID:qbKm5S+l0913人間七七四年
2009/05/29(金) 12:43:40ID:qbKm5S+l0914人間七七四年
2009/05/29(金) 16:27:25ID:dE9QNsb50915人間七七四年
2009/05/29(金) 17:09:03ID:lkSZoKJK0916家出猫
2009/05/29(金) 22:47:45ID:zhOaj44C0917人間七七四年
2009/05/30(土) 00:13:01ID:jVK1Gh/bただ家康が約束を破る所までは見抜け無かった
0918人間七七四年
2009/05/30(土) 12:08:29ID:QZGtuL0d0919人間七七四年
2009/05/30(土) 12:15:31ID:HSxfjWcL調査したら輝元の署名が入った西軍の関与を示す書状を大量に押収、そのため所領安堵は反故
回収・掃除くらいはしておけ輝元
0920家出猫
2009/05/31(日) 00:53:43ID:XU67bt6f一門含めたら小早川なんかもそうだからほとんど毛利じゃね
0922人間七七四年
2009/05/31(日) 22:38:18ID:tNz92NGz0923人間七七四年
2009/06/02(火) 03:14:07ID:U1k/VPUJ関ヶ原の小早川や南宮山の連中のほか
大津城攻めにも毛利元康、小早川秀包らの大軍勢が参加しているしね
当然大阪には輝元の本隊も居るだろうし
0924家出猫
2009/06/02(火) 13:40:46ID:XKa6zQ0pほんとによくわからん
秀吉軍と毛利軍だったらぜったい秀吉けちょんのはずだと思うんだけど
本能寺
0925人間七七四年
2009/06/02(火) 13:52:22ID:2ChLYOc2本能寺前後の毛利には天下など思いもよらなかったんじゃないか?
0926人間七七四年
2009/06/02(火) 14:52:23ID:ZQU7aZW1だったら潰してるだろうに。
毛利には天下を治めるだけの能力がないからだろうに。
0927人間七七四年
2009/06/02(火) 15:00:55ID:ZQU7aZW1やったぞ。家康の裏をかいたわ。それ、一気に攻め込めや。
関ケ原の戦に大勝した西軍は、逃げた家康を捕縛し大坂城門前にムシロを敷いて座らせた。
その中には、家康の謀臣本多正信もいた。
0928人間七七四年
2009/06/02(火) 19:17:35ID:EE2TRF3J0929人間七七四年
2009/06/02(火) 20:03:57ID:ZQU7aZW1秀忠の三万八千が関ケ原に着いていたら、家康は金吾ごときに焦る必要もなかったろうに。
0930人間七七四年
2009/06/02(火) 20:29:36ID:8O9Ob/6kそういう意味では天運は西軍にあった
家康はそれを人知で覆した訳で
0931人間七七四年
2009/06/03(水) 07:28:31ID:I8VbXHNr家康軍はたとえ関ヶ原で負けてもすぐ立ち直っただろうな
0932人間七七四年
2009/06/03(水) 20:35:18ID:kdgZFSXk家康は小早川軍が自軍を攻撃してきた場合の備えなど、何もしてないんだがな。
何の策もないのは、毛利の傍観と小早川の裏切りだけが頼みの家康だ。
小早川軍が東軍左翼に突入すれば、それに連動して日和見していた西軍諸将も東軍攻撃に参戦する。
それは史実と同様。
それで一進一退の前線の均衡が一気に崩壊し、東軍は総崩れ。
その影響は即座に後方部隊にも伝播する。
一旦崩壊した軍の統制など、どんな名将でも不可能。
当然南宮山の毛利勢や、長束、安国寺、長宗我部も参戦する。
戦局が明らかに西軍有利に展開すれば、吉川広家が戦意満々の毛利秀元をこれ以上押し留めるのは不可能で、
広家の傍観の前提である東軍勝利は霧散するため、広家は変節して徳川に襲い掛かる。
勢いに乗り参戦する数を増殖させる西軍と戦意喪失して数を減らしていくだけの東軍とでは、
どっちに分があるか子供でも分かる理屈だ。
しかも東軍は東西から挟み撃ち。どう間違っても東軍に勝ち目なし。
戦国武将が戦に臨んで考える事は、己の手柄のみ。
眼前に絶好の功名の機会が転がっているのに、政敵の戦後の隆盛を気にして何もせず傍観を選ぶキチガイは、
戦国の世のどこを探してもいない。
そんな事をすれば、西軍勝利の暁に武将としての信用を失墜させ失脚するのは広家自身。
それこそ吉川広家の戦国武将としての汚点だ。
>>910
単なる結果論。
0933人間七七四年
2009/06/03(水) 20:40:16ID:kdgZFSXk君個人がどう思おうと勝手だが、そう思う根拠はないだろ。
吉川家と秀吉との経緯を知ってれば、そんな想定は出てこない。
0934人間七七四年
2009/06/03(水) 20:46:50ID:kdgZFSXk家康が関ヶ原で大敗を喫すれば、家康の権威は完全に失墜。
もはや徳川に従う大名など全くいなくなり、家康は孤立無援。
運良く戦場から逃げ延び江戸に逃げ帰っても、
後日西軍の総攻撃を受け、秀吉の後北条氏征伐の二の舞。
徳川は消滅。
0935人間七七四年
2009/06/03(水) 21:59:30ID:Px/Z9zNeん?吉川家と秀吉の経緯とは?
元春が州征伐へ参加しなかった事?
本能寺の変の際の、秀吉追撃の事?
どちらにしろ広家は家督相続の件などで、豊臣家に対して、
不の感情などは抱いていないよ
あるのは、その件に関して尽力してくれた黒田父子を失脚させ、
後釜に入り、その決定を覆ようとした三成に対してと、
その三成と同調して、吉川家の既得権を奪おうとした安国寺にだね
0936人間七七四年
2009/06/03(水) 22:22:16ID:rdJgYEKT0937人間七七四年
2009/06/03(水) 22:27:47ID:kdgZFSXk毛利一族で秀吉が優遇したのは輝元と小早川隆景
吉川は終始冷遇
秀吉は中国大返しの際、元春が追撃を進言した恨みを忘れてはいないし、
元春自身隆景と違い、秀吉とはそりが合わなかった
元春以来吉川家の家風は嫌豊臣で、毛利本家と小早川は親豊臣
0938人間七七四年
2009/06/03(水) 22:40:25ID:NFHpGtT0藤堂が大谷に向かう前に松尾山に鉄砲を撃って、動かないことを確認した後に
進軍しています
第一、当日は西軍東軍ともに小早川は東軍よりというのは共通した認識です
0939人間七七四年
2009/06/03(水) 23:00:40ID:kdgZFSXk小早川秀秋の西軍攻撃は、負けた西軍からも勝った東軍からも軽蔑侮蔑の眼差しで見られていた史実で、
『当日は西軍東軍ともに小早川は東軍よりというのは共通した認識』は誤りです
0941人間七七四年
2009/06/03(水) 23:26:03ID:kdgZFSXkでは小早川秀秋が東軍を攻撃していたとしたら、どうだったのかね
西軍勝利の立役者として、戦後はヒーローだ
史実のように、後世にまで「裏切り金吾」の汚名は残しはしない
よって「傍観説」は明らかな間違い
お解かり?
0942人間七七四年
2009/06/03(水) 23:39:52ID:NFHpGtT0小早川が西軍なら松尾山城を占拠しないので、西軍の関ヶ原転身もなく
したがって関ヶ原合戦自体がありません
0943人間七七四年
2009/06/03(水) 23:44:31ID:kdgZFSXk関ヶ原が戦場となったのは、西軍が東軍を待ち伏せして迎撃するため
よって前もって松尾山に布陣していた秀秋は明らかな西軍
0944人間七七四年
2009/06/03(水) 23:50:11ID:fGpgh9Hk島津は日向に入り黒田加藤と泥沼。
前田は引きこもり傍観。
真田も越後を見ながら籠城。
上杉は最上を滅ぼし秋田氏と協力し伊達南部と対決。
結城は関東の守りに逃走。
佐竹は西軍に加担し伊達領及び関東への牽制。
四国は長曽我部が東軍領へ。
疲弊した西軍主力は近畿・東海道を抑える事くらいしかできない
0946人間七七四年
2009/06/04(木) 00:02:12ID:kdgZFSXkつまり東軍を待ち伏せしていた事に変わりなし
それとも、秀秋は東軍と同行して松尾山に登ったとでも
秀秋は東軍と全くの別行動なんですけど
0947人間七七四年
2009/06/04(木) 00:04:49ID:NjbXVL8I0948人間七七四年
2009/06/04(木) 00:10:00ID:8S9ZmGwF西軍首脳の同意一切無しに占拠したのに?
西軍は松尾山を秀秋が占拠したときに、叛意ありとして大垣城に誘って
幽閉しようとしてますが
大谷吉継なんか佐和山城に誘って、暗殺しようとしています
0949人間七七四年
2009/06/04(木) 00:20:48ID:eDGyVhKSでは秀秋の松尾山布陣は家康の了解を得ての事だとでも?
秀秋は全く東軍と別行動。
経緯はどうであれ、内心はどうであれ表面的には西軍。
だから西軍攻撃で後世にまで汚名を残したわけ。
東軍攻撃なら、若き豊臣の英雄としての輝かしい歴史的評価となる。
0951人間七七四年
2009/06/04(木) 01:07:40ID:eDGyVhKS挙動不審だろうが西軍は西軍。東軍ではない。
小早川秀秋の歴史的評価がそれを如実に証明している。
0952人間七七四年
2009/06/04(木) 02:10:04ID:IpoJQCLHあっぱれ金吾、見事タヌキを化かしたと
豊臣を救った英雄だったろうに
0953人間七七四年
2009/06/04(木) 04:44:40ID:LvnVnhu1たとえ小早川が西軍のままで家康側を攻撃したとしても圧倒的に有利になるとは思えない
南宮山が動く状況になれば勝機はあるだろうがそこまでいくとは到底思えない
毛利輝元が動く気配がない以上いずれは家康が勝つだろうな
0954人間七七四年
2009/06/04(木) 08:32:29ID:4uATmoEC吉川を冷遇とは?
小早川隆景を厚遇したのは確かだが、吉川が同等の待遇を求めてもいないし、
それ以前の隆景を厚遇したのも、元春死後
中国大返しでの恨み、秀吉とそりが合わなかったというのは、何の資料?
元春の書状などの一級史料では、そういう類の話は一切見られないのだけれど?
吉川家の家風が嫌豊臣なんてのも、証明するものは一切ないぞ?
吉川広家は黒田父子の尽力もあり、秀吉に直接家督を認められたり、
娘を側室にあげ、屋敷への行幸も願い出て認められてた
これだけでも嫌豊臣というのを示すもにはないが?
これらを覆したのが三成なんだけど?
0955人間七七四年
2009/06/04(木) 08:42:28ID:4uATmoECあれは西軍として行動していないから
伏見以後、伊勢への派兵要請を無視して、大和に滞在し、その間家康への謝罪に奔走
松尾山城への占拠も黒田家の軍監を陣内に引き入れての行動で、
その行動により、秀秋謀反として、三成らの西軍は大垣退去して笹尾山まで移ったんだよ
それに西軍が東軍を待ち伏せてたなんて、とんでもない話
あくまで関ヶ原への移動は秀秋の松尾山占拠にともない、大坂との寸断を恐れた結果
証拠にそれまで何か異動あれば伝えるとしていた毛利にさえ伝えずに、
大垣退去して毛利勢を激怒させてる
そして待ち伏せしてたという関ヶ原の笹尾山や天満には陣跡すら残ってない
あれは待ち伏せではなく、緊急的な撤退
>>932の秀元が戦意満々も嘘、そんな裏付けも取れない講談で史実語ったらダメだよ
0956人間七七四年
2009/06/04(木) 10:35:57ID:KufcxW6q0957人間七七四年
2009/06/04(木) 20:05:29ID:EwNBs3Zx小早川相手に威嚇射撃しているんだから備えはあっただろう
大谷も備えをしているのに家康がしなかった理由もないし
なんで家康が何もしないという前提で物事を考えているんだ
家康本体は戦闘に加わっておらずどの状態でも対応できるようにしてあるのに
何もしないとは思えないしそんな武将だったら天下なんて取れないと思う
0958人間七七四年
2009/06/04(木) 20:14:07ID:IpoJQCLH逃げる準備もしながら、金吾に問鉄砲くらわしたんだろうに
まー家康も賭けにでたってわけだな
0959人間七七四年
2009/06/05(金) 00:52:39ID:sE69CiYJ鉄砲云々は捏造だと思うな
実際に松尾山小早川陣から家康の前衛が展開したと思われるところは
はるかに下で距離も遠い
発砲炎は見えるかもしれないが合戦真っ只中では判らなかっただろう
とにかく200mくらいしか射程のない鉄砲で山上へ脅かしとか考えられない
0960人間七七四年
2009/06/05(金) 02:13:51ID:4LcFJcC3一種の最後通牒みたいなもんだ
0961人間七七四年
2009/06/05(金) 09:20:08ID:JfGzPrCZ「五本関原日記曰諸方合戦最中ニ黒装束ノ武者御前ニ参リ筑前中納言ノ旗
色何レトモ知レ申サスト申シ上ル問鉄砲打セヨトノ御意ナリ仍テ鉄砲打カケ
候」
「朝野旧聞褒藁」より
431 人間七七四年 2008/12/29(月) 22:43:10 ID:kj3kFZOp
「井伊家慶長記曰福島井伊向云々合戦始時節如何直政答云筑前中納言内通之義有
彼躰見軍始可只今予軍士熊谷内匠三浦十左衛門両秀秋陣遣暫相待可ト
又藤堂佐渡高虎来テ正則如問前如答フ高虎テタテアリト云テ吾陣帰鉄砲之者二十人
計召具秀秋陣向放タシム但玉ヲ入不然雖秀秋陣少モ騒不一向敵陣ヲ見ヲロス外無他
高虎来云秀秋心底疑処無云々」
「朝野旧聞褒藁」より
432 人間七七四年 2008/12/30(火) 07:29:45 ID:xoCLqKp5
「聿修録曰諸部既接戦筑前候観望山下未公(高虎)大銃発之脅乃始兵発」
「朝野旧聞褒藁」より
433 人間七七四年 2008/12/30(火) 21:59:17 ID:mwiWe42g
他、
>>430とほぼ同じなのが「濃州関原合戦答書」「一本関原軍記」「慶長記畧捗」
>>430に>>431>>432を組み合わせ、藤堂隊が家康の命による問鉄砲を撃ったとしているのが
「東西記」「別本慶長軍記」「本朝武林(稲葉)傅」
「黒田家譜」では福島の鉄砲隊二十人『のみ』を松尾山に撃たせよと使番に命じている
ほぼ同じ内容が「関原物語」「関原記考」
「落穂集」は使番として久保島孫兵衛、鉄砲隊は家康組下の布施孫兵衛とし
後は上記の内容をごった煮したもの
以上「朝野旧聞褒藁」より
434 人間七七四年 2008/12/31(水) 10:20:47 ID:DqylWB+D
以上より
小早川陣への銃撃は二度あったと推定される
一回目は藤堂高虎による牽制の為の銃撃
二回目は徳川家康の命によって福島正則から分派された
鉄砲隊(家康使番久保島が同行した可能性あり)による内応
催促の銃撃
家康本隊からの鉄砲隊分派は無かった可能性が高い
0962人間七七四年
2009/06/05(金) 10:03:12ID:nwMQycOSそんな感じ? だったらある程度のリズムとかとりながら一斉発砲してたのかな
戦場でそれを聞き取れたのかはよくわからないけど方向合わせてメガホン耳にあてれば聞き取れたのかな
つまり家康からの突撃命令の信号を敵陣深くにいるいまかいまかと待っていた秀秋に通じるまで時間を要したと
0963人間七七四年
2009/06/05(金) 10:09:13ID:JfGzPrCZ単に鉄砲撃って相手の反応見たり、恫喝したり
撃つという行為には特に変わりないけど、それを相手がどう受け取るかは
状況によって異なる
0964人間七七四年
2009/06/05(金) 10:14:59ID:nwMQycOS( ゚д゚ )「どっち?」
敵は大谷善継!
( ゚д゚ )「掛かれー皆殺しじゃー!」
0965人間七七四年
2009/06/05(金) 12:38:30ID:4LcFJcC3金吾め、やはり裏切りおったか!犬畜生に劣るわ!
大谷隊は小早川の裏切りに備えて用意していた六百の手勢を向かわせた。
家康
はははっ。小伜め、やりおったわ。
0966人間七七四年
2009/06/05(金) 13:38:27ID:E9+5KAGK吉川元春(きっかわ もとはる) 1530〜1586
毛利元就の次男で山陰方面の統治を任され、山陽方面を任された弟の隆景と「毛利両川体制」の一翼を担って当主輝元を補佐した毛利家武闘派筆頭の猛将。
徹底した秀吉嫌いで知られ、その九州島津攻めの際に嫌々参加したが小倉の陣中で病死した。
ざっとネット検索してみたが、どこを見ても吉川は嫌秀吉というのが一致した史観。
元春が病没するまでの一連の行動から、嫌秀吉なのは誰が見ても明らかだよ。
五大老には毛利一族からは、輝元と隆景が選ばれているが、吉川は除外。
0967人間七七四年
2009/06/05(金) 15:14:47ID:E9+5KAGK>秀元が戦意満々も嘘、そんな裏付けも取れない講談で史実語ったらダメだよ
「宰相殿の空弁当」というあまりにも有名すぎる逸話により、秀元に戦意があったは世間共通の常識。
ネットで調べてくれ。
ところで君が秀元の戦意を否定できる裏付けって何よ。聞かせてもらおうか。
0968人間七七四年
2009/06/05(金) 16:21:05ID:YETkvDLSネタ元は、関ヶ原後、瀬田まで引き換えして来た秀元が黒田の使者に対して、
食事中なので会わないと答えたのに由来
関ヶ原において、秀元が戦意満々だったとするのが何一つないので、
講談話で史実語るなと書いたはずだがね
秀元は関ヶ原において、積極的な意見、立場を示していない
そもそも決めれる権限もなかったからね
0969人間七七四年
2009/06/05(金) 16:33:31ID:YETkvDLSネット見渡しても?
そりゃ史実知らない君みたいなライトユーザーのが多いから、
当たり前でしょw
君はそのネットにから書かれてるのが、何を参考にしたのか知ろうと思わないの?
やけに一般の認知度とか書くけど、認知の是非すら疑問に思わないのであれば、
君とは語る事は何もない
一般に流布している小説や講談のイメージそのままを、史実と言うのだから
以前いた、ネットの世界が全て正しいと言って、
学術書など直に読まずに否定してた子そっくりだ
0970人間七七四年
2009/06/05(金) 17:09:53ID:GO9okKIp講談話を語ってるのは君だよ。
何しろ君には客観的裏付けがまったくないんだからな。
君が創作した単なる与太話にすぎない。
ネットに取り込まれた情報は現実社会に実在する史料に基づいてるんだがな。
君がこしらえた与太話など世間の誰も知らないから、ネットに取り込まれてないのは当たり前だろ。
君の説がそんなに有力なら、ネット内に君と同意見の記述が満ち満ちてるよ。
だが現実は反対の記述ばっかり。というか皆無。
いったい君はどんな「学術書」とやらを読んだんだろうな。
そのタイトルと著作者を明示してくれ。
0971人間七七四年
2009/06/05(金) 17:23:47ID:GO9okKIpそれと、吉川元春が秀吉を嫌ってなかったとする根拠は、どこから出てきたのか、
誰のどの著述を見ての意見なのか明示よろしく頼むよ
0972人間七七四年
2009/06/05(金) 18:55:41ID:XNXGf+Pnわざわざ登山してるとこを見るに戦意は無いように見えるけど南宮山なんて好位置を取ってるとこ見ると有るようにも見えるね
0973人間七七四年
2009/06/05(金) 19:27:02ID:NMYvo1Zj0975人間七七四年
2009/06/05(金) 23:57:55ID:vekDu6mb秀元に戦意がなかったなら、広家同様家康に密通していたことになるな
だが史実は広家の独断による家康への内応であり、秀元はそんな裏交渉など知らない
「宰相殿の空弁当」をネット検索して確かめてみろよ
君の主張の論拠など、どこにも存在しないぞ
君の寝言にすぎんのだからな
0976人間七七四年
2009/06/06(土) 00:00:02ID:WS42v7M5おいおいから弁当の逸話があるからそれで秀元が戦意があっただと?
正しいのは日和見して山をくだらなかったと言う事実のみだろ
戦意があればとうに参加してるわ
0977人間七七四年
2009/06/06(土) 00:26:35ID:rvVok+Jy行く手を広家に妨害されていたんだがな。
だから「宰相殿の空弁当」をネット検索してみろって。
0978人間七七四年
2009/06/06(土) 00:44:27ID:oA0pWzd10979人間七七四年
2009/06/06(土) 00:46:59ID:rvVok+Jy予想通り具体的論拠を何も挙げられず。
当然ネット内にも該当する史観は皆無。
つまり君の創作した与太話だと結論づけられたわけだ。
ところで、君が掲げる「信頼性の高い一次史料」って何かな。
抽象論はもう結構だから、具体名を挙げてくれよ。
どうせ無理だろうけどさ。全く期待してないから。
因みにネット内に存在する史観は講談や逸話の類ではないのであしからず。
君はまず基本的な語彙の学習から始めたほうがいいぞ。
0980人間七七四年
2009/06/06(土) 00:53:51ID:rvVok+Jy秀元は前進を妨げる広家を攻撃するわけにはいかんだろうに。
同じ毛利一門の味方なんだからな。
戦の最中に味方同士で内戦やる馬鹿なんて、戦国の世のどこを探したっていないぞ。
0981人間七七四年
2009/06/06(土) 01:06:21ID:oA0pWzd10982人間七七四年
2009/06/06(土) 01:14:47ID:rvVok+Jyそれが同門内での内輪喧嘩に発展することは必定だろうに。
それに秀元は広家の意向を足蹴にできる立場ではないぞ。
0983人間七七四年
2009/06/06(土) 01:28:01ID:rvVok+Jy痛いとこ突かれて、答えられない腹いせに個人中傷ですか。
論拠がないんだから仕方がないですよね。君の気持ちはよく分かりますよ。
0984人間七七四年
2009/06/06(土) 01:45:12ID:rvVok+Jy「宰相殿の空弁当」は厳然たる史実だぞ。
誰がどこでそれを否定しているのか説明してくれないかな。どうせ無理だろうけど。
秀元は広家のように家康に内通などしていないのに、何故戦意が乏しかったと言えるのかね。
是非教えてもらいたいな。どうせ無理だろうけど。
れっきとした史実を講談話と混同しちゃマズイだろ。
秀元の関ヶ原でのスタンスは一貫して東軍攻撃。
戦場でこれ以外の「積極的な意見、立場」って他に何があるんだろうな。
それに秀元は戦場にて何を「決めれる権限もなかった」のかね。
教えてもらおうか。どうせ無理だろうけど。
もっとマシな講談話を頼むよ。
0985人間七七四年
2009/06/06(土) 02:41:58ID:WS42v7M50986人間七七四年
2009/06/06(土) 03:20:17ID:rvVok+Jyライトユーザーが多かったら何故君の見解に沿う記述が皆無になってしまうのか、その因果関係を説明してもらおうか。
ネットにアップされている記述は、単に世に容認されている史観の反映にすぎない。
よってネット内に君の裏付けが無い事実は、君の見解が捏造だと実証している事になる。
そもそも君にとって偽りの史実だけが、ネットに蔓延るなんて事は有りえないだろうに。
勿論ネットの外にも君の主張の裏付けとなる文献など存在してない。
違うというなら、元春が秀吉嫌いではなかったとの論拠はどこから出て来たのか、具体的に明示してもらいたい。
それに大概の小説は史実に基づいて執筆されている事くらい認知しておいたほうがいい。
講談にフィクションが盛り込まれても、客はそれを識別できるし、
フィクションを真実と混同する低能は誰かさんくらいなもんだよ。
0987人間七七四年
2009/06/06(土) 03:31:07ID:rvVok+Jy面白いな
では誰の講談を論拠にしたのか明示してもらおうか
0988人間七七四年
2009/06/06(土) 03:50:27ID:rvVok+Jy家康が秀秋に威嚇射撃したからといって、その備えをしていた事にはならないし、
大谷が備えをしていたからといって、家康も同様だとはいえない。
その証拠に、家康は東軍諸将を督戦するため本陣を前進させ、東軍諸将の真後ろに位置づけしている。
東軍の左翼はがら空きだ。
もし家康が秀秋を警戒していたなら、本陣をずっと左に移動させて、
無防備の左翼を手当てしている。
小早川軍の自軍への攻撃など想定していなかった証しだ。
0989人間七七四年
2009/06/06(土) 04:22:52ID:rvVok+Jy秀秋は西軍の一員として伏見城攻撃に参加してるんだが。
東軍がそんな事しないだろ。常識以前の問題だ。
それに秀秋が関ヶ原に移動する前に病気と称して滞在していたのは近江だ。
そんな秀秋がいったいどうやって何のために家康への謝罪に奔走せなならんのだ。
答えてもらおうか。
西軍は東軍の佐和山・大坂進攻に対応しようと、緊急的に軍を移動させ関ヶ原で待ち伏せしたんだが。
秀秋の松尾山布陣も三成の要請を受けての事。でなければ秀秋がそこに布陣した理由がないだろうに。
同様に南宮山周辺には毛利勢や長束、安国寺、長宗我部らも三成の要請で布陣。
三成が大垣城を出て毛利勢を激怒させたなんて作り話もいいところだ。
毛利勢はその頃伊勢攻略戦で別行動。激怒する理由がない。
0990人間七七四年
2009/06/06(土) 04:46:38ID:rvVok+Jy元春が秀吉に己の処遇をどうこう要請できる立場か。そんな大それた事、他の大名でも出来ない。
元春は天正十年に不自然な隠居、四国征伐の不参加、九州征伐は再三の圧力でしぶしぶ参戦。
どう見ても秀吉から距離を置こうとしているのは明らか。
敏い秀吉がそんな元春の思惑を見抜けない筈もあるまいに。
秀吉は毛利の手前吉川家を取り潰す気はないのだから、広家の家督相続は当たり前。
別段広家が秀吉に感謝する事でもない。
広家の娘が秀吉の側室だって?おいおい。
三成が秀吉の意向に反する決定を下せる筈がないだろ。おいおい。
0991人間七七四年
2009/06/06(土) 07:19:53ID:F04rdFqtなお嬉しいんだけど。
0992奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2009/06/06(土) 07:44:27ID:+U0w1Pyd0993人間七七四年
2009/06/06(土) 12:36:30ID:PfB94wTEだから秀秋が東軍の先鋒の側面をつくなら後ろの家康がその側面と背後を
突けばいいという話なんだが
あと威嚇射撃をしたのに攻められる備えをしないなんてあるのか
あの威嚇射撃は秀秋の催促であるのと同時にもしこちらに攻めてくるのなら
返り討ちしてやるとの意思表示だと思う
0994人間七七四年
2009/06/06(土) 13:16:30ID:cdRXgL+x秀秋は伏見攻めの後に、病気と称して近江に滞在していたのはご指摘の通り。
秀秋については、8月28日付黒田長政・浅野幸長書状で家康に味方するように
言われてた他、『慶長記』によると9月3日、8日に家康に使者を送っているなど
「謝罪に奔走」かどうかはともかくとしても、積極的に接触を図っている。
松尾山布陣については、松尾山はこの時かなり整備されており、伊藤盛正(大垣城
主・西軍)が詰めていたんだけど、それを追い払って占拠する形で行われている。
これについては『稲葉家譜』などで言及されているな。
そして、小早川隊には>>955の指摘の通り、黒田長政の家臣と奥平藤兵衛がお目付役として
送り込まれている。で、三成ら西軍首脳もこの頃には秀秋のことを疑っており、『慶長記』
では「筑前中納言むほんと風聞候。仕置いたすへきとて出候由」と大垣を出て関ヶ原へ展開
した理由を指摘している。勿論これが関ヶ原へ展開した要因の全てとは言わんけど、少なく
とも秀秋が三成ら西軍の意を受けて行動していたとは言い難いと思う。秀秋については東軍
からも信用されていなかったようだし、まさに「旗幟不鮮明」という感じじゃないかな。
感じじゃないかな。
0995人間七七四年
2009/06/06(土) 14:10:04ID:RQqaZLNW0996人間七七四年
2009/06/06(土) 18:53:16ID:eTL95EIfレス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。