関が原で、もし小早川秀秋が東軍に攻めかかったら
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0645人間七七四年
2008/09/06(土) 05:19:16ID:FQ+THENb>秀吉の猶子だった秀家の姉を娶ったという意味は、毛利一族を政権内に取り込むという点で見ても小さくない。
秀元の妻だって豊臣一族の出身だし、決して広家が豊臣家のとの縁が深くなかったということはないよ。
形式的な姻戚関係が意味を成さない事は、秀吉と義兄弟の契りを結んだ家康の、豊臣家への邪心で立証されている。
政治工作で人間の心根までは変えられないという事だ。
つまり上記見解は、吉川広家が豊臣を嫌っていなかった、との立証には不十分というわけ。
>家康と上杉景勝が縁組みをしようとしていたことは
『厚狭毛利文書』の、秀吉没後の関ヶ原前夜ともいえる状況の中で発給された文書のなかに出てくる話だ。しっかりとした論拠がある
上杉景勝は、信長死後秀吉の対柴田勝家戦略で和睦して以来、ずっと親豊臣。
秀吉晩年、景勝の旧蒲生氏郷領への転封は、明らかに家康を牽制する役割を期待しての事。
つまり景勝と家康は仮想敵国だったわけ。
加えて景勝の腹心直江兼続と石田三成は肝胆合い照らす仲。
つまりこれで、アンタの掲げる史料は、ハッタリの嘘っぱちだと立証されたわけだ。
>歴史学で飯を食っている学者が、閣下のように史料や論拠の一つも出さずにものを言うわけが無いでしょ?
普通に史実を把握していれば、単に史料名だけで、その中身も吟味せずに、珍説を信じ込む愚行は犯さない。
この一事で、アンタが論拠とする史料とやらが、いかに実態のないイカサマか、明確になったわけだ。
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