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【武田】2万5千で上洛【信玄】その47

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0001人間七七四年2007/02/19(月) 17:26:44ID:6p/Z1wyU
前スレ
【武田】2万5千で上洛【信玄】その46
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1164030811/

ここでは「武田は上洛できたのか?」から始まって。現在では
「どうすれば武田は上洛できたのか」
「どうして武田は上洛できなかったのか」
など、武田と織田を中心にした戦国時代の話が扱われています。
ネタによっては場所は東北から九州まで、時間は室町から江戸まで
幅広くカバーしております。

テンプレ
>>2-30ぐらい?
0002人間七七四年2007/02/19(月) 17:42:48ID:Hm5rmZaT
6スレまとめ
>1-12 >31-36テンプレ

>17-18包囲網の実情
>20-46信玄がそのまま進軍して尾張に侵入したら
>47-57 73年4月家康は近江に出陣する積りだったか・当時の信長の危機感の薄さ・
>58-65包囲網側の各自の思惑・畿内政権

>66-80信長と信玄継いだ時の状況・両者の差 成長速度の差の原因
 >82-108信玄-謙信同盟のIF・信玄の戦術能力・三増峠と駿河攻めの関係
 >99-100氏康の病状
>116-131 >150上杉を攻め続けていたら

>120-212武田騎馬軍団の虚実・戦国時代の騎馬隊
 >192武田北条の騎馬率
>213-231武田軍の強さの要因・北条との戦い・関東の状況
>234-258騎馬・当時の馬の流通

>260-295信玄はどの程度の大名だったか信玄の戦略戦術・各大名との比較・甲斐の国力
 >291信玄信長が戦った大名の石高

>296-315信玄の租税民政治水財政
 >301培養秘録 >315武田家の諸税
>316-340信虎追放・クーデーターや謀反の成功失敗

>341-377 >387-392信玄の戦績・戦略戦術論勝敗の定義
 >360-385薩田峠の戦い >378薩田峠の戦い年表
>398-415人身売買
>416-430武田による初期段階の美濃攻めの可能性
>431-448武田による日本海経由の上洛の可能性・北陸の状況

>466-485 72年の織田武田の国力・織田家による農村政策治水事業
>486-498木曽三川の治水
 >496木曽三川の治水リンク
>512-575騎馬隊
 >525三河兵の特徴
>550-578専制体制・大名の権力・家臣分裂

>576-652兵農分離・農兵の割合
 >600-618信長の小兵力で戦った例
 >600-638全農民中軍役につく農民の割合・動員力の限界
  >630全農民中軍役につく農民の割合計算例
 >639-647損耗による農村への影響・金米の貸出 >644信長による無償提供扶持米
 >648-652兵站と長期戦

>655-750略奪・大名の戦争費用・災害・戦に参加する農民・雑談
 >667藤木久『飢餓と戦乱の戦国をいく』
 >681過去ログ
>751-890>967-騎馬隊について・雑談煽り
 >797織田の騎馬運用
 >894上田市歴史・生島足島神社文書リンク
>892-966各大名の戦績・第二次伊勢長島・戸石崩れの影響
 >892一般論による信玄の戦績一覧リンク
 >924各大名の騎馬率
0003人間七七四年2007/02/19(月) 17:43:19ID:Hm5rmZaT
上洛の可能性 ↓以下で上洛可能
・信玄が健康で長命
・足利浅井朝倉松永本願寺三好残党六角残党らも包囲網一致協力
・三方ヶ原の戦い後、徳川家を早期に攻略乃至は降伏
・武田軍が甲斐に帰らず1年以上遠征可能
・上杉が空になった信濃、上野を 襲うことは決してない
・北条も軍艦の記載のように援軍を出す
・三河尾張国境の 水野家が離反する
・織田との決戦で勝利する
0004人間七七四年2007/02/19(月) 17:43:51ID:Hm5rmZaT
各国の石高及び動員兵力(石高は太閤検地のもの)
ちなみに、万石あたり250人は比較的低い動員率、
無理すればもっと動員できるだろうがそういう兵力は基本的な守りに残すと解釈。

関東
上野:49万6千石/12400

甲信・中部
甲斐:22万8千石/5700
信濃:40万8千石/10200
飛騨:3万8千石/950
美濃:54万石/13500
近江:77万5千石/19375

東海
駿河:15万石/3750
遠江:25万5千石/6375
三河:29万石/7275
尾張:57万2千石/14300
伊勢:56万7千石/14175
志摩:1万8千石/450

北陸
越後:39万1千石/9775
越中:38万3千石/9500
越前:49万9千石/12500(慶長検地では68万石)
若狭:8万5千石/2125

畿内
山城:22万5千石/5625
大和:44万9千石/11225
摂津:35万6千石/8900
河内:24万2千石/6050
和泉:14万1千石/3550
伊賀:10万石/2500

四国
讃岐:12万6千石/3150
阿波:18万4千石/4570
淡路:6万2千石/1550

各国の石高及び動員兵力(石高は太閤検地のもの)は以下参照
ttp://homepage3.nifty.com/ksatake/
0005人間七七四年2007/02/19(月) 17:45:20ID:Hm5rmZaT
1572年(元亀三年)十月三日(信玄、古府中を出立)の各勢力の状況

●武田
・甲斐…100%(5700)
・信濃…95%(9690)
*飯山周辺は残す。
・上野…36〜43%(4450〜5375)
*倉賀野、松井田、箕輪など領地は広げているが、ほとんど北西山間部なのがネック。
 面積で言えば4割だが、石高では三分の一程度とする意見あり(上野の平野部は南東)。
 14郡中武田は吾妻郡 碓氷郡 甘楽郡 群馬郡の半分 故に石高的に3分の一 の説。
 利根川以西を領土とすると、これに録野、片岡、多胡郡が加わる。(約四割)
・駿河…100%(3750)
・飛騨…10%(95)
*72年7〜8月に飛騨諏訪城を落としている。これ以前の直接の軍事行動はなし。
 もともと飛騨の豪族は越中の対一向一揆で上杉と仲がいい。諏訪城主江間氏も逃亡
 して上杉氏を頼る。
・越中…?
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っているが、71年には謙信に落とされている。謙信は73年
 には加賀まで攻め寄せているから、その頃までに越中の武田勢はなくなっていたとみるべきか?
 松倉(富山)城主椎名氏を降すのは『北陸の中世城郭第15号』より1573年1月の可能性が高い
・遠江…7.8%(500)
*遠征前に陥したのは71年に国境の榛原郡小山城(この時高天神や掛川も攻めるが落せず)と犬居の天野氏のみ 天方等はこの時点では未攻略 。
 武田が本格的に東に出てくるのは、氏康が死んで同盟復活する71年後半(正式な復活は71年12月)。
 遠征後は20%ほどに増大
・三河…12%(850)
*足助城を落とし、賀茂郡一部・設楽郡ほぼすべて・八名郡一部を支配。ただし全て山地なのがネック。
・美濃…ほぼ0〜5%(0〜675)
*秋山信友が岩村城を落すのが72年11月。 それ以前に落していた恵那郡の小城を、どの程度に見積もるか?
 18(21?)郡中これだけでは最大5%もないとする意見。

総計25035〜26635
後北条と同盟。義昭や顕如ら畿内の反織田勢力と連絡を取り合う。背後に上杉と上野方面を巡って火種。
ただし、もともと高税率のうえ、69年以降は戦もそれまでの二倍以上。領国の疲弊はすでに始まっていた
とする説あり、ただしソースは少ない。継戦能力にも疑問。
0006人間七七四年2007/02/19(月) 17:46:08ID:Hm5rmZaT
●織田
・尾張…100%(14300)
・美濃…90%(12150)
*21(18郡?)郡中武田は恵那郡岩村周辺のみ 郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。
・志摩…100%(450)
*ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・近江…70%(13563)
*浅井・六角は追い詰め中。他には甲賀郡の土豪と野洲郡のいつ蜂起するか判らない一揆衆。
・伊勢70%(9923)
*桑名・三重郡の一揆衆。配下からも寝返られ、本城も明け渡され乗っ取り進行中の北畠氏を除く。
・三河…10%(728)
*水野氏など、桶狭間以前から織田についていた豪族。

総計51114
この他、畿内各地に協力勢力と敵対勢力あり。義昭とは抜き差しなら無いところまで。堺などの都市も抑える。
若狭の豪族たち(逸見・粟屋・内藤)、大和の筒井他、摂津河内和泉の細川畠山荒木などが味方勢力として存在。
池田和田淡路の安宅などはテンプレ時は旗幟をはっきりさせていない。

●徳川
・三河…78%(5675)
・遠江…92.2%(5875)
*両国とも、武田にどの程度侵略されているか。また調略如何によっては動員はさらに下がるかも。

総計11550
三方ヶ原の戦力を考えれば妥当か。ただし武田軍撤退後、特に遠江では支配率は グンと下がっているだろう。上杉と同盟。
0007人間七七四年2007/02/19(月) 17:48:48ID:Hm5rmZaT
■三方ヶ原の戦い後の情勢。

1572年
十二月 二十二日 三方ヶ原の戦い

1573年
一月  三日 武田軍野田城を囲む
北山城や摂津河内の国衆から義昭に付く者が続出する。信長は村井、島田、朝山日乗を講和の使者に出すが義昭は一蹴。
近江志賀郡の石山、今堅田に兵を入れる。
二月 十五日 武田軍野田城を落とす。
二十四日 柴田、丹羽、明智、蜂屋の軍が近江を攻撃。石山、今堅田も数日で開城。

三月 二十五日 信長、岐阜を出陣。
   二十九日 細川藤孝、荒木村重が逢坂に信長を出迎えて忠誠を誓う。

四月 三日〜四日 上京焼き討ち。二条御所を包囲。
   七日 調停の仲介により信長と義昭との和睦なる。
   八日 信長、京より岐阜へたつ。
十二日 武田信玄死去
柴田、佐久間らは六角氏が立て篭もっていた近江愛知郡の鯰江城を攻略。さらに百済寺も焼き討ち。

七月 足利義昭京より逃れる。

八月 朝倉・浅井両家滅亡。
0008人間七七四年2007/02/19(月) 17:49:21ID:Hm5rmZaT
■この情勢をもとにした推測。

織田は
近江に浅井・朝倉への抑えとして木下、磯野で合計七千ほど、
江南の抑えと京へのにらみに八千ほど、
北伊勢への抑えと尾張の守備に五千ほど、
美濃では岩村への抑えに三千ほど抑えに置くとすれば、
(基本的な任務は守備、現状維持)
計算上は2万8千ほどを対武田に向けられるのでは?

武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、
北条の援軍が二千〜三千で、
合計ニ万〜二万五千ほど?

武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、石高的には10万石3000ほど
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、石高的には6万石1500ほど
北条の援軍が二千〜三千で、
遠征軍合計実数二万五千ほど
信玄率いる遠征軍は石高的には84万石〜90万石で21000〜22500ほど+北条の援軍2000〜3000
+美濃へ入ってくる秋山隊が3000ほど
0009人間七七四年2007/02/19(月) 17:51:35ID:Hm5rmZaT
その他の勢力 東国

●長尾上杉
・越後…100%(9775)
*ただし、揚北衆特に本庄氏の扱いは微妙。
・上野…10%(1240)
*沼田・厩橋近辺と考えるとこれぐらいか? 武田・北条におされ気味。
・越中…20〜25%(1900〜2375)
*神通川以東(新川郡)松倉・富山は1573年正月まで攻撃中。72年〜73年にかけての遠征によって、越中の大部分を支配下に収める。
この時は越中から加賀にまで攻め込み、顕如から信玄へ援軍要請が行われた。
松倉(富山)城主椎名氏を降すのは『北陸の中世城郭第15号』より1573年1月の可能性が高い
・飛騨…三木氏や江間氏とは友好的。1572年の富山攻めでは江間氏が援軍派遣してる
・信濃…5%?(510)
*飯山城とその周辺は保っていた模様。最大見積もってもこの程度。

総計13425〜13900
・遠征能力○
遠征能力は高いが、北陸へ出陣中。仮に北信・上野に出陣するとしてもメリットは薄い? ただし史実
ではこれ以前も以後も関東への出兵を繰り返している。武田・北条・加賀を敵に回して織田・徳川と同盟。
関東の諸将(佐竹ら)とは疎遠になった。

●後北条
・遠征能力○
武田・上杉と並ぶ大国だが、武田とは同盟中。今回の武田西上でも援軍(二千~三千?)も出している。
数年前まで戦っていたとはいえ、手切れをしてまで武田を攻める事は無いだろう。北関東には他に敵
もいる。

●朝倉
・越前…100%(12500)
*寺社領については、明確な根拠を示さない限り否定されます。
・若狭…?
*守護武田氏は抑えているが意味なし。有力国人である逸見氏・粟屋氏などはこぞって織田について抗争中。
 朝倉軍の一部は粟屋氏の居城を攻撃していた模様。(武藤氏が反織田に回ったが、この時期の動向は不明)

総計12500+?
・遠征能力○
遠征は10000程度は可能か? 現在、越前にフラフラ様子み。70年の講和以降、浅井への援軍以外に
出兵なし。経済疲弊。一部軍役拒否の状態。若狭の支配圏は低下中、むしろ抑えるための兵力派遣
が必要。

●浅井
・近江…9.5〜14.5%(1850〜2825)
*伊香郡、高島郡の半分、浅井郡の小谷、山本山城しか残っていない。
高島郡はもう少し高いとみる説あり。これも考慮に入れた。

総計1850〜2825
・遠征能力△(朝倉が来れば助力可)
単独での侵攻は辛い。木下隊に苦戦。小谷城の眼前に虎御前山砦を築かれて押し込められる。

●六角
・近江…?
*愛智郡鯰江城で逼塞状態。甲賀の土豪がどれほと力になるか?

●松永・筒井(反松永)
・大和(11225、ただし双方合わせて)
*寺社勢力は心情的にも筒井派。土豪も多くが筒井につく。
・遠征能力×(両派とも)
大和で両派が泥沼の抗争中。お互い支援を求めて織田や三好と手を組むことに。
元亀三年の時点では織田の支援を受けた筒井側に有利。松永は押されっぱなし。
0010人間七七四年2007/02/19(月) 17:52:06ID:Hm5rmZaT
●長島一向宗+国人
計20000?
遠征しないが尾張は目と鼻の先。ただし動きは鈍い。守備力は高い。

●石山本願寺+雑賀衆?
計23000?
遠征準備は謎だが、近江まで歩いて1日。 ただし動きは鈍い。守備力は鬼。本願寺自身は織田と直接
軍事衝突は行っていない(するのは後年)。信長との外交ルートあり。
※もともと本願寺と一揆は別ものであり、絶対的な命令権があるわけではない。各地の一揆はそれぞれ
の権益を守るために支配者に抵抗した。また、兵力には老幼婦女が多数含まれていると考えられる。

●北畠
・伊勢…30%(4253)
*大湊など、伊勢湾の海上交易に大きな影響力をもつ。かつては南伊勢五郡を有したが、織田へ離脱
 するものが出る。
計?
・遠征能力×
織田による内部からの乗っ取り進行中。そのため勢力としては身動きとれない。隠居させられた北畠
具教は面従腹背。武田と接触をとっているが(根拠は不明)、実質どれほど動かせるかは不明(後年、
具教が討たれたときに北畠残党が挙兵するが、一族などの一部に留まる)。
ほとんど織田の一部とみなしてもいいとする意見あり(ただし、信雄が正式に跡目を継いで北畠軍が
織田の一環として行動するのは74年以降)。

●伊賀
六角に協力したり北畠についたり。基本的には中立。
0011人間七七四年2007/02/19(月) 17:52:38ID:Hm5rmZaT
その他の勢力 三好

三好一族の主だった頭(各国の支配率は不明、動員数は100%の場合)

 畿内
・本家:三好義継 三人衆との関係から信長に従っていたが、義昭と共に敵対する
・三人衆:三好長逸、三好政康、石成友通 これも一枚岩ではない。義継や久秀と
抗争の為に行動をともにしていただけ。特に石成は一人信長についた時期もある。
・三好笑岩 基本的に、四国三好家にちかい。信長以前は本家と戦い続ける。
・三好政勝 管領細川家の家臣。長慶を親の仇と長年争い続ける。

・摂津(8900)
・河内(6050)
・和泉(3550)
*ただし、この全てを三好一族が抑えていたわけではなく、細川、畠山、池田、和田、荒木、伊丹、など
 その他在地勢力が根を張り、反三好から織田につくものも多数いた。他に足利家につくものも多数いた。

総計18500-敵対勢力
・遠征能力×
反織田という形で立場は同じになったが、指揮が統一されたわけでもなく分裂状態のまま。
統一行動は難しいか。


四国
・阿波三好家:三好長治-篠原長房 基本的に、主筋になる細川家と争ったり講和したり。 畿内には
あまり関わらず。播磨方面で抗争があった模様?
・讃岐十河家:十河在保 阿波三好家と行動を共にす。
・淡路安宅家:安宅信康 四国三好家についていたが、1572年には義昭信長につく。

・阿波(4570)
・讃岐(3150)
・淡路(1550)
*安宅信康が織田についてしまったので、これは三好には加えられない。
  離反は確実であるが織田に付いたとも言い切れない。

総計9270-安宅氏の勢力
・遠征能力×
お互いに争ったり結んだり。このころには篠原長房との確執が表面化しだす。73年4〜5月に長房が
討たれた後は抑えられていた豪族たちが反旗を翻すことになる。
四国の三好家関連は、後にほとんど信長に属することになる

 おまけ
●足利将軍家
・山城…?
*北山城の国人が義昭に呼応し、明智の配下から離脱者が出たとの記録あり。また細川藤孝や石成友通
などの勢力もあり。細川・明智は織田勢力とみなしてもいい。和田池田伊丹などは義昭勢力。

総計不明
・遠征能力×(史実でも城に篭った)
0012人間七七四年2007/02/19(月) 19:13:29ID:ny25vxfw
武田勝頼が死なせた武将達


秋山信友、秋山光継、朝比奈信直、安倍勝宝、安部宗貞、跡部勝資、安中景繁、甘利信康、
雨宮家次、飯尾助友、依田信守、依田春賢、一条信竜、一条信就、今福昌和、今福丹後守、海野信親、
大熊友秀、大嶋長利、小原忠継、小原 広勝、小原下総守、小幡昌盛、小幡憲重、小山田昌行、小山田信茂、
小山田大学、鎌原之綱、金丸定光、川窪信実、葛山信貞、笠井満秀、小宮山友晴、高坂昌澄、高坂昌元、
五味高重、座光寺貞房、三枝守友、真田信綱、真田昌輝、諏方頼豊、常田春清、武田信堯、
武田信友、武田信綱、武田信勝、武田信実、武田信貞、武田竜宝、武田信豊、長坂光堅、土屋昌恒、土屋昌続、
内藤昌豊、内藤昌秀、名和宗安、馬場信春、馬場少輔、原昌胤、日向是吉、室賀信俊、望月義勝、
望月重氏、望月信永、望月信雅、横田綱松、横田康景、米倉重継、湯本善太夫、湯本九右衛門、祢津是広、
名和宗安、仁科盛信、山県昌景、山県昌満、和田業繁、



信玄公ならば・・・・・・・・・
0013人間七七四年2007/02/19(月) 19:17:11ID:qTN8KbaQ
>>12
もし信玄公なら自分も高坂も死んでいたことでしょう
0014人間七七四年2007/02/19(月) 22:00:37ID:eV2UliIE
勝頼を死なせた武将が混じっている気がする
小山田とか
あと寿命だか病死も混じってない

それだったら信玄だって一杯死なせていないかw
0015人間七七四年2007/02/19(月) 22:23:21ID:2abT60fL
武田晴信って上洛したことすらないの?京都の地を踏むことすら出来なかったのはかわいそうだな
景虎は2度上洛してるけど。
0016人間七七四年2007/02/19(月) 22:34:44ID:z2nhMmrr
前スレ>>989
>あっそうなの?俺が見当違いの奴にレスしてしまったんならお前はス
>ルーすれば言いだけだろ、何でそんなにムキになるのかなあ? 笑)
>それから俺が貼ったWEBに文句言い出したのはアンチの方だからね
>「騎馬軍団なんか存在しなかった」ってしつこつ言い張ってるのはね
騎馬軍団が存在しなかったと言い出したのは俺じゃないが、
君が貼り付けたWEBのページと君の意見が違うだろ?
と指摘したのは俺って言うだけだが。

つまり、
1:君と誰かが騎馬軍団の有無について話している。
2:騎馬軍団があると主張しているらしき君がWEBのページを貼り付ける。
3:君が貼り付けたWEBのページを読むと、そのページでは騎馬軍団はないと主張している。
4:俺が君にWEBのページについて突っ込む
という事なんだよ。

分かったかな?
0017人間七七四年2007/02/19(月) 23:35:42ID:ny25vxfw
>>14
具体的に。

それと小山田を離反させたのは他ならぬ勝頼の手腕。
信玄公ならあんな無様な滅び方しないだろ。
0018人間七七四年2007/02/19(月) 23:59:50ID:1c5cdu62
>>16  噛み付けば噛み付く程自分が哀れになってくるってのが理解
出来ないからガキは駄目なんだね、女の子に嫌われるよそういう態度
ばかりしてたら。笑)
お前が自分のレスしてる通りなのであれば、俺の意見なんてスルーす
れば良いことだろ、何でそれが出来ないわけ?
早く正直になれよ、WEBを見てやっぱり騎馬軍団が存在していたこ
とが悔しいんだろ?だからそんなにしつこく「せめて何かぎゃふんと
言わせてやらねば!」と思ってるんだろお前?
しかし新スレまで噛み付いてくること自体哀れで仕方がないよ。
0019人間七七四年2007/02/20(火) 00:05:28ID:Xr6RyoFI
武田信玄とその家臣団はやっぱり最強なんだね、信玄生前まで、一度も
領土を荒らされたことなかったもんな。

今川は駿河を北条に三河を織田に一時、北条は上杉に何度も荒らされて
るし武田にも攻められ、織田は包囲網などで度々、上杉は周知の通り、
家康も武田に攻められた。毛利は西国だから関係ないし。
0020人間七七四年2007/02/20(火) 00:14:22ID:Xr6RyoFI
>>16 おまえみたいな女々しい奴のレスなんて一々ちゃんと確認しない
んだが、今初めてはっきり見てやったよ。
WEBの内容と俺自身の意見が違うって?一度も間違ったことなんて言
ってないよ、てゆうか突っ込まれるような複雑なこと言わないし俺。
0021人間七七四年2007/02/20(火) 00:38:21ID:5D5RzXHI
>>8の武田おかしくね?

全て最大で見積もって、武田26000が石高的に捻出される。
北信上野上杉対策に-5000、ここで21000。
美濃秋山隊で-3000で18000。
これに北条援軍3000加わって21000で、これが信玄が直接率いて遠江三河あたりに持ってきた数。
まとめると、26000-5000の信濃上野防衛部隊-美濃別働隊3000=18000。
これに北条援軍3000で21000、これが三河まで進出してきた武田の総兵数。
美濃別働隊も加えた武田遠征軍総数はこれに3000をたして24000。
でも>>8だと
>信玄率いる遠征軍は石高的には84万石〜90万石で21000〜22500
この時点で美濃の別働隊を込みで計算しないとこの数字が出ないにもかかわらず、
>+美濃へ入ってくる秋山隊が3000ほど
で二重計算してね?
0022人間七七四年2007/02/20(火) 00:53:33ID:Z64SQjUP
>>21
動員基準が違うからでしょ

北信上野上杉対策に5千
美濃秋山隊で3千
は軍鑑史料講談などから考えて実数で
おそらく一万石辺り400人500人の動員としている

一万石辺り250人の動員ならそれぞれ
2500と1500になる

あなたの計算だと石高的に武田の兵力を26000と見積もるなら
北信・秋山も250人基準で控除しないと
0023人間七七四年2007/02/20(火) 01:01:50ID:oSEfGx1k
>>ID:Xr6RyoFI
前スレからあなたの意見は極端なんだよね
騎馬隊の運用が上手だからって他大名に対し決定的に上ってほどでも無い
信玄or家臣団が最強だってよく言えるよね
極右武田厨の鏡だよ
0024人間七七四年2007/02/20(火) 01:17:31ID:Z64SQjUP
>>17
小幡昌盛 室賀信俊とか
武田信貞は一条系は戦死だっけ?
0025人間七七四年2007/02/20(火) 01:20:32ID:Z64SQjUP
>>23
それ武田の騎馬の運用が他大名より上という史料どころか
以前に武田の騎馬隊の運用についてさえまともな史料やデータが出ていないと思う
ほとんど想像の類だけで語られている
0026人間七七四年2007/02/20(火) 01:28:31ID:Xr6RyoFI
>>23ならなんで今日まで武田のみが最強といわれたきたか理解してるの?
織田徳川との戦闘すら理解してないの?駿河攻略の今川北条撃退の仕方
知らないの?

それから日本一の山岳地帯で長い間戦闘してれば自然と騎馬の扱い方が
他大名より 圧 倒 的 に 優れているのは当然だね、もちろん騎馬
の特性をフルにいかしてきた信玄の利用の仕方こそが凄いわけだが。
なら聞くが武田以上に騎馬の扱い方に優れたとこがあるの?
0027人間七七四年2007/02/20(火) 01:32:47ID:3LCswd8M
縁もゆかりも無いであろう歴史上の人物の入れ込んだうえに
論戦相手を煽れるというのもある種の才能とでも言うべきですかね
0028人間七七四年2007/02/20(火) 01:34:54ID:3LCswd8M
と考えると武田騎馬軍団が最強とは言わなくても武田厨は最狂と認めても良いかもしれませんね
ID:Xr6RyoFIとかメガ豚とかキチガイに片足突っ込んでるような人が多いですからね
0029人間七七四年2007/02/20(火) 01:40:16ID:O9hIrJUd
>>26
抽象的な論拠だけで具体的な騎馬の運用法に一切触れてない件について。
0030人間七七四年2007/02/20(火) 02:02:11ID:Z64SQjUP
>>26
>ならなんで今日まで武田のみが最強といわれたきたか理解してるの?
何を分かりきったことを、
兵力3倍差とは言え後に天下をとった家康が野戦で唯一負けた相手だから
強かったことにしてもらっただけのこと

あと武田のみが最強?
そんなことは無いだろ講談で最強と言われてる大名は武田の他にもいる

>なら聞くが武田以上に騎馬の扱い方に優れたとこがあるの?
だからまず武田が優れていると言う具体的な事実を出してくれ

>それから日本一の山岳地帯で長い間戦闘してれば自然と騎馬の扱い方が
>他大名より 圧 倒 的 に 優れているのは当然だね、
もしこれが成り立つのであれば日本の歴史を通して甲斐信濃の人間は
優れていることになるが有名なのは壬申の乱と源平の木曽ぐらいで
その木曽も関東武士らを率いる義経に敗北

日本で最も騎馬の運用に優れていたと言われる義経は陸奥や関東武士を率いている
南北朝の争いでも甲斐信濃の将兵は目立たない
室町には小笠原が斉藤妙椿を攻めたけど負けているし
武田信長も関東の兵に負けている、結城合戦で活躍したけど

特に優れていると言う事実は浮かび上がってこないと思うが
関東や陸奥はそうでもないが

>もちろん騎馬
>の特性をフルにいかしてきた信玄の利用の仕方こそが凄いわけだが。
史実で具体的に示してくれ、
仮にフルに運用していたとするなら信玄の野戦の弱さは何
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