トップページsengoku
1001コメント478KB

【武田】2万5千で上洛【信玄】その47

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年2007/02/19(月) 17:26:44ID:6p/Z1wyU
前スレ
【武田】2万5千で上洛【信玄】その46
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1164030811/

ここでは「武田は上洛できたのか?」から始まって。現在では
「どうすれば武田は上洛できたのか」
「どうして武田は上洛できなかったのか」
など、武田と織田を中心にした戦国時代の話が扱われています。
ネタによっては場所は東北から九州まで、時間は室町から江戸まで
幅広くカバーしております。

テンプレ
>>2-30ぐらい?
0002人間七七四年2007/02/19(月) 17:42:48ID:Hm5rmZaT
6スレまとめ
>1-12 >31-36テンプレ

>17-18包囲網の実情
>20-46信玄がそのまま進軍して尾張に侵入したら
>47-57 73年4月家康は近江に出陣する積りだったか・当時の信長の危機感の薄さ・
>58-65包囲網側の各自の思惑・畿内政権

>66-80信長と信玄継いだ時の状況・両者の差 成長速度の差の原因
 >82-108信玄-謙信同盟のIF・信玄の戦術能力・三増峠と駿河攻めの関係
 >99-100氏康の病状
>116-131 >150上杉を攻め続けていたら

>120-212武田騎馬軍団の虚実・戦国時代の騎馬隊
 >192武田北条の騎馬率
>213-231武田軍の強さの要因・北条との戦い・関東の状況
>234-258騎馬・当時の馬の流通

>260-295信玄はどの程度の大名だったか信玄の戦略戦術・各大名との比較・甲斐の国力
 >291信玄信長が戦った大名の石高

>296-315信玄の租税民政治水財政
 >301培養秘録 >315武田家の諸税
>316-340信虎追放・クーデーターや謀反の成功失敗

>341-377 >387-392信玄の戦績・戦略戦術論勝敗の定義
 >360-385薩田峠の戦い >378薩田峠の戦い年表
>398-415人身売買
>416-430武田による初期段階の美濃攻めの可能性
>431-448武田による日本海経由の上洛の可能性・北陸の状況

>466-485 72年の織田武田の国力・織田家による農村政策治水事業
>486-498木曽三川の治水
 >496木曽三川の治水リンク
>512-575騎馬隊
 >525三河兵の特徴
>550-578専制体制・大名の権力・家臣分裂

>576-652兵農分離・農兵の割合
 >600-618信長の小兵力で戦った例
 >600-638全農民中軍役につく農民の割合・動員力の限界
  >630全農民中軍役につく農民の割合計算例
 >639-647損耗による農村への影響・金米の貸出 >644信長による無償提供扶持米
 >648-652兵站と長期戦

>655-750略奪・大名の戦争費用・災害・戦に参加する農民・雑談
 >667藤木久『飢餓と戦乱の戦国をいく』
 >681過去ログ
>751-890>967-騎馬隊について・雑談煽り
 >797織田の騎馬運用
 >894上田市歴史・生島足島神社文書リンク
>892-966各大名の戦績・第二次伊勢長島・戸石崩れの影響
 >892一般論による信玄の戦績一覧リンク
 >924各大名の騎馬率
0003人間七七四年2007/02/19(月) 17:43:19ID:Hm5rmZaT
上洛の可能性 ↓以下で上洛可能
・信玄が健康で長命
・足利浅井朝倉松永本願寺三好残党六角残党らも包囲網一致協力
・三方ヶ原の戦い後、徳川家を早期に攻略乃至は降伏
・武田軍が甲斐に帰らず1年以上遠征可能
・上杉が空になった信濃、上野を 襲うことは決してない
・北条も軍艦の記載のように援軍を出す
・三河尾張国境の 水野家が離反する
・織田との決戦で勝利する
0004人間七七四年2007/02/19(月) 17:43:51ID:Hm5rmZaT
各国の石高及び動員兵力(石高は太閤検地のもの)
ちなみに、万石あたり250人は比較的低い動員率、
無理すればもっと動員できるだろうがそういう兵力は基本的な守りに残すと解釈。

関東
上野:49万6千石/12400

甲信・中部
甲斐:22万8千石/5700
信濃:40万8千石/10200
飛騨:3万8千石/950
美濃:54万石/13500
近江:77万5千石/19375

東海
駿河:15万石/3750
遠江:25万5千石/6375
三河:29万石/7275
尾張:57万2千石/14300
伊勢:56万7千石/14175
志摩:1万8千石/450

北陸
越後:39万1千石/9775
越中:38万3千石/9500
越前:49万9千石/12500(慶長検地では68万石)
若狭:8万5千石/2125

畿内
山城:22万5千石/5625
大和:44万9千石/11225
摂津:35万6千石/8900
河内:24万2千石/6050
和泉:14万1千石/3550
伊賀:10万石/2500

四国
讃岐:12万6千石/3150
阿波:18万4千石/4570
淡路:6万2千石/1550

各国の石高及び動員兵力(石高は太閤検地のもの)は以下参照
ttp://homepage3.nifty.com/ksatake/
0005人間七七四年2007/02/19(月) 17:45:20ID:Hm5rmZaT
1572年(元亀三年)十月三日(信玄、古府中を出立)の各勢力の状況

●武田
・甲斐…100%(5700)
・信濃…95%(9690)
*飯山周辺は残す。
・上野…36〜43%(4450〜5375)
*倉賀野、松井田、箕輪など領地は広げているが、ほとんど北西山間部なのがネック。
 面積で言えば4割だが、石高では三分の一程度とする意見あり(上野の平野部は南東)。
 14郡中武田は吾妻郡 碓氷郡 甘楽郡 群馬郡の半分 故に石高的に3分の一 の説。
 利根川以西を領土とすると、これに録野、片岡、多胡郡が加わる。(約四割)
・駿河…100%(3750)
・飛騨…10%(95)
*72年7〜8月に飛騨諏訪城を落としている。これ以前の直接の軍事行動はなし。
 もともと飛騨の豪族は越中の対一向一揆で上杉と仲がいい。諏訪城主江間氏も逃亡
 して上杉氏を頼る。
・越中…?
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っているが、71年には謙信に落とされている。謙信は73年
 には加賀まで攻め寄せているから、その頃までに越中の武田勢はなくなっていたとみるべきか?
 松倉(富山)城主椎名氏を降すのは『北陸の中世城郭第15号』より1573年1月の可能性が高い
・遠江…7.8%(500)
*遠征前に陥したのは71年に国境の榛原郡小山城(この時高天神や掛川も攻めるが落せず)と犬居の天野氏のみ 天方等はこの時点では未攻略 。
 武田が本格的に東に出てくるのは、氏康が死んで同盟復活する71年後半(正式な復活は71年12月)。
 遠征後は20%ほどに増大
・三河…12%(850)
*足助城を落とし、賀茂郡一部・設楽郡ほぼすべて・八名郡一部を支配。ただし全て山地なのがネック。
・美濃…ほぼ0〜5%(0〜675)
*秋山信友が岩村城を落すのが72年11月。 それ以前に落していた恵那郡の小城を、どの程度に見積もるか?
 18(21?)郡中これだけでは最大5%もないとする意見。

総計25035〜26635
後北条と同盟。義昭や顕如ら畿内の反織田勢力と連絡を取り合う。背後に上杉と上野方面を巡って火種。
ただし、もともと高税率のうえ、69年以降は戦もそれまでの二倍以上。領国の疲弊はすでに始まっていた
とする説あり、ただしソースは少ない。継戦能力にも疑問。
0006人間七七四年2007/02/19(月) 17:46:08ID:Hm5rmZaT
●織田
・尾張…100%(14300)
・美濃…90%(12150)
*21(18郡?)郡中武田は恵那郡岩村周辺のみ 郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。
・志摩…100%(450)
*ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・近江…70%(13563)
*浅井・六角は追い詰め中。他には甲賀郡の土豪と野洲郡のいつ蜂起するか判らない一揆衆。
・伊勢70%(9923)
*桑名・三重郡の一揆衆。配下からも寝返られ、本城も明け渡され乗っ取り進行中の北畠氏を除く。
・三河…10%(728)
*水野氏など、桶狭間以前から織田についていた豪族。

総計51114
この他、畿内各地に協力勢力と敵対勢力あり。義昭とは抜き差しなら無いところまで。堺などの都市も抑える。
若狭の豪族たち(逸見・粟屋・内藤)、大和の筒井他、摂津河内和泉の細川畠山荒木などが味方勢力として存在。
池田和田淡路の安宅などはテンプレ時は旗幟をはっきりさせていない。

●徳川
・三河…78%(5675)
・遠江…92.2%(5875)
*両国とも、武田にどの程度侵略されているか。また調略如何によっては動員はさらに下がるかも。

総計11550
三方ヶ原の戦力を考えれば妥当か。ただし武田軍撤退後、特に遠江では支配率は グンと下がっているだろう。上杉と同盟。
0007人間七七四年2007/02/19(月) 17:48:48ID:Hm5rmZaT
■三方ヶ原の戦い後の情勢。

1572年
十二月 二十二日 三方ヶ原の戦い

1573年
一月  三日 武田軍野田城を囲む
北山城や摂津河内の国衆から義昭に付く者が続出する。信長は村井、島田、朝山日乗を講和の使者に出すが義昭は一蹴。
近江志賀郡の石山、今堅田に兵を入れる。
二月 十五日 武田軍野田城を落とす。
二十四日 柴田、丹羽、明智、蜂屋の軍が近江を攻撃。石山、今堅田も数日で開城。

三月 二十五日 信長、岐阜を出陣。
   二十九日 細川藤孝、荒木村重が逢坂に信長を出迎えて忠誠を誓う。

四月 三日〜四日 上京焼き討ち。二条御所を包囲。
   七日 調停の仲介により信長と義昭との和睦なる。
   八日 信長、京より岐阜へたつ。
十二日 武田信玄死去
柴田、佐久間らは六角氏が立て篭もっていた近江愛知郡の鯰江城を攻略。さらに百済寺も焼き討ち。

七月 足利義昭京より逃れる。

八月 朝倉・浅井両家滅亡。
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています