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豊臣政権の五奉行を語れ

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0001人間七七四年2007/02/18(日) 00:52:49ID:dxPoiF1R?2BP(22)
豊臣政権末期に政権の実務を担い
五奉行と呼ばれた五人の吏僚について語りましょう。

* 浅野長政(甲斐甲府22万石)
* 増田長盛(大和郡山22万石)
* 石田三成(近江佐和山19万石)
* 前田玄以(丹波亀岡5万石)
* 長束正家(近江水口5万石)

石田三成は単独のスレッドがあります
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150512127/
0002人間七七四年2007/02/18(日) 01:05:17ID:Ns+JJk0c
>>1

スレ立て乙


ところで前田玄以と増田長盛は家康に内通していたが
長盛は改易され、対照的に玄以は所領を安堵された。
この二人の処遇の違いには何の思惑があるのだろうか?
0003人間七七四年2007/02/18(日) 02:56:22ID:XsLFzqgD
( ´゚ω゚` )
0004人間七七四年2007/02/18(日) 04:05:30ID:Lla0lUGp
みんな仲悪すぎ
0005人間七七四年2007/02/18(日) 04:30:28ID:zgNWr4HN
>>2
玄以は公卿や僧侶に独自の人脈を持っていたからでは?
0006人間七七四年2007/02/18(日) 06:42:44ID:egXvf89Y
バックボーンがバラバラなメンバーだな
0007人間七七四年2007/02/18(日) 21:07:26ID:AXktzvJz
西軍の中心人物であるにもかかわらず助命されたのは、前田玄以もそうだが、
伏見城や関ヶ原に出兵せず、自らの手を汚さなかったためと思われる。
ただ、家康は長盛を仇敵と憎んでいたらしく、大阪落城の直後に自殺させている。
前田玄以の孫3人も同じ頃自殺させられており、家康の執念深さはすさまじい。
0008人間七七四年2007/02/19(月) 15:42:18ID:Kyed5sTd
基本的に各分野のエキスパートの能吏集団。
浅野長政はまとめ役だったのだろうが
執行官としての威厳をもっと持たせるために
みんなもう少し禄高を上げてやって欲しかったね。
0009人間七七四年2007/02/19(月) 15:46:49ID:NO8hR+zn
いや、奉行衆の石高は妥当なところだと思うぞ
ただでさえ君主の側近に侍り大きな権限を持ってるのに、
大封まで与えてしまえば増長してしまうでしょ
0010人間七七四年2007/02/19(月) 16:15:54ID:WaE+hLi+
>>1
末席の長束カワイソス。
0011人間七七四年2007/02/19(月) 18:53:02ID:XoZHkt38
>>10
長束は新参で一番若かったからね。
但し、実質15万石程度の実収があったとか
0012人間七七四年2007/02/19(月) 21:01:03ID:Hm5rmZaT
長束、前田、増田の三奉行は石田三成が謀反をおこしたと本気で
思っていた。だから西軍の動向を家康に通報していた。
0013人間七七四年2007/02/19(月) 21:02:44ID:WaE+hLi+
>>11
長束殿が一番若輩だったんですな。勉強になりました。
0014人間七七四年2007/02/19(月) 21:06:31ID:JluL+MCR
浅野家が一番生き残ったわけだが、
太閤の義弟でありながらも実は、
一番の親家康派だったからか?
0015奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/02/19(月) 21:33:47ID:M0+uGTfs
家康自体が秀吉の舎弟分だと考えれば回り義兄弟だし。
0016人間七七四年2007/02/19(月) 23:41:06ID:XwmrQxjH
>>14
北政所様系だからじゃね?
0017人間七七四年2007/02/23(金) 00:33:41ID:VfjGe/cB
長束正家
同じ奉行として、関係深かったが戦意はなかったようだ。

前田玄以・増田長盛
長束同様の関係だが自分が惜しかったか裏で三成を裏切った。
0018人間七七四年2007/02/23(金) 15:03:01ID:9t7DjJAN
関ヶ原の後、豊臣恩顧の大名をまとめるために、淀殿が五奉行体制を構築しなおせば良かったのに。
例えば新五奉行に、加藤清正・福島正則・浅野幸長・前田玄以・蜂須賀至鎮とか
0019奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/02/23(金) 22:24:05ID:vEvm0MMq
行政官僚に大大名、しかも親藩で武闘派っぽいのってのはどうなんだろう。
0020人間七七四年2007/02/24(土) 02:53:35ID:KBHJoCn7
豊臣家や秀頼に対する淀殿の影響力は絶大だったろうが、
豊臣政権に対する影響力なんて皆無に等しかったと思われ
0021人間七七四年2007/02/27(火) 07:50:56ID:/5i3iC2A
長束だけが、他家から移籍してきた外様か。
0022人間七七四年2007/03/20(火) 21:22:40ID:rgHhVQ+H
五人の担当分野はどうなってたの?
0023にんにん丸2007/03/20(火) 21:41:46ID:/+0nuvx2
三成の執権政治
0024人間七七四年2007/03/22(木) 12:12:53ID:odL1WquK
>>22
長束→鍋奉行
0025人間七七四年2007/03/22(木) 16:06:24ID:BM/KUOSV
石田や長束の子孫はいるの?
0026人間七七四年2007/04/28(土) 23:59:57ID:ww47kjLE
 
0027人間七七四年2007/04/29(日) 03:06:16ID:aMz/PRbV
>>22
長束は、財政経理担当、今風に言えば財務経理部長。
増田は、名判官と呼ばれてたらしいから、庶政庶務担当かな…。総務部長。
石田は、太閤の側近で、天下の枢機担当って感じ…。天下の検知から、大名の配置、太閤の遺命にまで参画した。社長室長兼秘書室長。
前田は、公家寺社担当で京都奉行。
浅野は、太閤の最古参の家臣の一人で、奉行の中で、唯一尾張出身で、太閤の縁者。人事部長。
以上、関ヶ原400年記念に、岐阜県が発売したDVDから(監修は、堺屋太一)
0028人間七七四年2007/05/08(火) 19:27:34ID:+hUZjgNg
石田彰
浅野真澄
前田愛
増田裕生
名塚佳織
0029人間七七四年2007/05/09(水) 23:51:47ID:0pD4UdNG
増田って土木じゃなかった?

浅野が司法,石田が行政,前田が宗教,長束が財政

ちがふ?
0030人間七七四年2007/05/10(木) 00:11:35ID:H/ZogEnC
>>29
そんな機能的に分かれてるわけが無いだろ。
とりあえず何でも「手の空いたのがやる」体制だろ。
0031人間七七四年2007/05/10(木) 13:06:33ID:QZSNxL0V
>>25
素足に革靴の人
0032人間七七四年2007/05/10(木) 13:24:27ID:B7qBr3LY
素足に革靴=水虫

前に兄弟でテレビに出てた>三成子孫
岩手だか青森だかで漁師やってるって
0033人間七七四年2007/05/10(木) 15:22:12ID:OX5A9jm9
浅野とか石田、増田は状況次第で検地も取次もこなすけど
前田(京都所司代)と長束(勘定奉行)は割とはっきり職務分かれてないか
0034人間七七四年2007/05/11(金) 17:51:47ID:pQnTTYMo
>>32
津軽為信が南部家から独立する際に三成に便宜を計ってもらったので、その恩義で関ヶ原合戦後に三成の子を引取ったらしいな
0035人間七七四年2007/05/11(金) 20:06:10ID:7P0NnxbW
さらに娘を妾に迎えたものだから代々津軽藩主の血脈に
石田三成の血が・・・
0036人間七七四年2007/05/17(木) 13:14:35ID:jIvPtUxh
>>1
>五奉行と呼ばれた五人の吏僚について語りましょう。

当時の五奉行=現在の五大老だったと聞いたことが。
0037人間七七四年2007/05/24(木) 07:47:01ID:OF5IWG77
五大老は五人の奉行とよばれていた。

五奉行は五人の年寄り(大老)とよばれていた。
0038人間七七四年2007/05/24(木) 13:33:20ID:ecXlbJZJ
>>37
豊臣家の三中老は、三成らより格下になるのかな?
それならば、存在感の薄さも理解できるけど。

今までは五大老の下に、三中老がいたと思ってた。
0039人間七七四年2007/05/24(木) 20:25:32ID:YL7anDFX
>>38
こんな感じでしょ

五大老=閣僚

三中老=副大臣

五奉行=各省事務次官
0040人間七七四年2007/05/24(木) 20:42:59ID:ecXlbJZJ
>>39
例えは分かるけど、実権はどうなんだろ?
三中老に確固たる役目や権限とかはなくて、名誉職というオチは無し?
0041人間七七四年2007/05/24(木) 20:52:58ID:YL7anDFX
>>40
豊臣家の機構自体適当な組織だからなあ…
徳川期みたいにきっちり決まった官僚機構があるわけじゃ無いし。
大体中老って物自体実際あったのかってのも疑問がw

まあ大雑把に中老ってのは、内閣と省庁の間の調整役みたいに考えればいいのでは?
0042人間七七四年2007/05/24(木) 23:04:43ID:iFXav9R1
徳川の官僚制度がしっかり整ったのは三代将軍家光の頃でそれまでは豊臣政権以上に適当
0043人間七七四年2007/06/12(火) 02:01:01ID:2KrO610e
浅野と石田が消えた時点で機能不全だな。
0044人間七七四年2007/06/12(火) 02:11:40ID:CT2xKfwe
>>43
むしろ秀吉が消えた時点で機能不全起こしているような。
0045人間七七四年2007/06/12(火) 03:36:33ID:lxNUsc0s
今までの独裁者秀吉の個人秘書、所謂出頭人的存在から、
秀吉が死亡しても機能不全を起こさないように改めて政権内での位置づけを明確にしたのが五奉行なんだけどね
実際に秀吉死後には大老連中と協議してスムーズに諸将の朝鮮からの撤兵を成功させてる
家康が豊臣恩顧の連中の対立を煽らず、むしろ秀吉に頼まれたように
彼らを押さえつけてくれたら問題なかったんだろうけど、それは仕方ないな
0046人間七七四年2007/06/12(火) 19:04:56ID:spMtdMuV
そもそも、五奉行って何か無茶な事やったっけ?
0047人間七七四年2007/07/23(月) 01:05:24ID:dh9YZeus
三成に島左近あり。
長盛に渡辺了あり。
では正家には?有名な家臣はいたのかね?

まあ、いなくとも、関が原で島津と石田の間にでも布陣していれば、
戦局も多少は違っていたかもね。
島津の1,500に参戦の要請をするほど、兵数を三成が欲していたからね。
それか、崩れかけた小西勢を横から助勢するとかしてもいいよな。

三成は、せめて正家くらいは関が原に引っ張っていくべきだったな。
0048人間七七四年2007/07/23(月) 05:49:17ID:1QCWM1ty
>>42
それでも家康・秀忠の代に破綻しなかったんだから、
豊臣家の仕組みより強力に思えるが。
0049人間七七四年2007/07/23(月) 22:22:49ID:Tz7TJlQX
家康や秀忠がしっかりしてたからな>初期江戸幕府
それに江戸時代初期はまだまだ豊臣家とか朝廷とか
戦国生き残りの有力外様大名みたいな紛争の火種が山積み状態
そういう不安定な状況ではかっちりした官僚行政機構組み立てるよりも、
ある程度将軍の独裁が発揮できて変事に臨機応変に対応できる制度の方が理にかなってた
0050人間七七四年2007/07/24(火) 11:13:25ID:AnnHOF3H
豊臣家の場合せっかく育ち始めてた官僚機構を、秀次成敗の時に秀次と一緒に自分で殺しちゃったのが大きい。
0051人間七七四年2007/07/24(火) 12:00:44ID:AjMpkpGz
秀吉が五奉行みたいな制度を整えたのは秀次粛正後だが
何か勘違いしてね
0052人間七七四年2007/07/24(火) 12:46:07ID:AnnHOF3H
>>51
秀次は関白としていわば日本国首相の任を負っていた。実際に軍事権以外の行政権はほぼ任されていたわけで。
そのもとで「豊臣家官僚」が育成され実際に政府を構成していた。前野長康なんかがその首班と言っていい。
それがあの事件で一夜にして豊臣家官僚やその候補が霧散した訳だ。そのため秀次事変後秀吉は
五奉行みたいな「私的諮問機関」で、当座の政権を作らざるを得なかった。
0053人間七七四年2007/07/24(火) 12:58:03ID:AjMpkpGz
五奉行は秀吉の私的諮問機関なんかじゃなくて
豊臣家のれっきとした政権運営機関だよ
あと関白秀次に大した権限なんて無かったよ
実際に彼の出した朱印状は後で秀吉が追認の判を押したものが多い
彼の最大の政治的業績といえば朝鮮出兵の際の人掃令だが、
これにしたって秀吉に命じられたことをそのままやっただけに過ぎない
前野長康が豊臣家官僚の首班ってそれこそ何か勘違いしてるとしか思えない
ただの秀次の付家老だろ
長康の署名した行政文書が果たしてどれだけ残ってるというのか
0054人間七七四年2007/08/25(土) 23:03:01ID:ffpYFn6s
長束は経理関連の能力がずば抜けてたみたいな説明をよく見るが
実際どうすごかったのかよくわからん
石高も前田以外の3人と比べて低いな
0055中山幸盛 ◆c1ZKiGzz62 2007/08/25(土) 23:10:01ID:C8iwnV10
天下無双の算術使いカコイイ
0056人間七七四年2007/08/27(月) 02:57:53ID:5U6SbxxU
九九を12×12とかまで暗記してそう>長束
0057人間七七四年2007/08/27(月) 03:34:23ID:HkttdeVv
>>56
そのぐらいなら小学生高学年の半数でもできるw
0058人間七七四年2007/08/27(月) 03:40:37ID:6Lqq0nmO
今の小学生は絶対無理だ…
0059人間七七四年2007/08/27(月) 07:48:44ID:qDx+twpw
>>47
長政は?
玄以は?
0060人間七七四年2007/08/29(水) 21:59:29ID:ppOtdNpt
秀次へ関白職を譲った後も、秀吉と諸大名は封建的主従関係にあるわけですから、秀吉が最高権力者であることに変わりない。
しかし、豊臣政権は関白を首班とする公儀体制を敷いているため、すべての行政手続は関白の決裁が必要である。
秀次事件により関白不在となっても、秀吉と諸大名との関係に変わりはないため、政権の運営には支障はない。
しかし、いずれ関白に就任する秀頼のため、公儀体制を再構築する必要に迫られた。
こうした状況の中で豊臣家諸奉行の取りまとめ役となった者が、後世、五奉行、三中老と称された。
0061人間七七四年2007/09/02(日) 00:33:44ID:T8CS8c4z
前田利家の死後短期間で
石田三成、浅野長政両奉行が罷免・蟄居され
利家の後継の利長も大老職を解任
上杉景勝が謀反人にされてるところを見ると

五大老・五奉行制はかなり脆弱な組織なのかも
まあ家康が狡猾ともいえるが
0062人間七七四年2007/09/02(日) 00:45:35ID:Ik7Mc18q
五奉行に名目上の序列は存在しないだろうが
一応、政治担当で公家にも顔のきく前田玄以がやや抜きん出てて
それに次いで石田三成、浅野長政だったんじゃないかね。
経理実務の最高執政官は長束正家だったはず。
0063人間七七四年2007/09/02(日) 01:19:04ID:b6ioRZzd
>>61
オレも疑問なんだが、基本は五奉行は石田で豊臣政権派で五大老も上杉
宇喜多、毛利は石田派ならみんなの前で家康糾弾できなっかたのかな?

0064人間七七四年2007/09/02(日) 02:39:08ID:fCmi6ekb
>>62
確か前田、浅野、増田、石田、長束の順だった気がする。
秀吉の葬儀の時もその順番じゃなかったかな。かなり危うい記憶だが。
0065人間七七四年2007/09/02(日) 03:39:24ID:S2fOeiBT
>>61
仲裁・調整する三中老が全く機能してなかったからね。
0066人間七七四年2007/09/02(日) 05:30:03ID:Ik7Mc18q
>>64
なるほど。それで序列が下位の三成が「合議制」なのをよいことにして増田、長束を味方に引き入れて
自分の意思を「五奉行の多数決による総意」という形で引っ張りまわしてたわけか。
0067人間七七四年2007/09/02(日) 11:42:07ID:DIHZm4oy
いちおう筆頭というか代表は浅野じゃなかったの?
0068人間七七四年2007/09/04(火) 06:04:37ID:nr4jcjBJ
そう
五奉行首座は浅野長政
0069人間七七四年2007/09/04(火) 21:43:09ID:8ed/16zM
五奉行という言葉に惑わされれはいけません。
豊臣家の組織は全くの未整備状態。
さまざまな案件に対して、
秀吉が適当な家臣に処理を命じる。
その取り纏め役になることが多かったのが
浅野、石田、前田、増田、長束。
役職としての五奉行なんてものは存在しなっかのでは。
0070人間七七四年2007/09/04(火) 22:00:39ID:vM5W8KOF
いや、たしかに政権運営はそんな感じでやってたけど、死ぬ直前に
ちゃんと名指しで五奉行制を定めてる
0071人間七七四年2007/09/26(水) 20:56:16ID:TzqV0ahw
秀次事件で浅野が蟄居してた時は、宮部継潤と富田一白がメンバーに加わってたんだな。
0072人間七七四年2007/10/18(木) 20:15:18ID:qb1DkAuw
保守
0073人間七七四年2007/10/26(金) 05:00:36ID:wOqwDUft
五人の能力もさることながら、性格も相互補完する関係にあったのだろうかな?
浅野と石田は不仲のようだが。
0074人間七七四年2007/11/13(火) 21:36:59ID:O+C5scpH
てっきり三成が五奉行首座だと思ってた。
秀吉にも気に入られてたし、関ヶ原起こしたのも彼だし。
0075人間七七四年2007/11/14(水) 06:30:26ID:WUX0FD78
>>74
実力者だけど、席次は下位。
関東軍じゃないが、司令官より参謀が権勢を振るって感じw
0076人間七七四年2007/11/24(土) 16:09:55ID:VtKmLzbI
何で利長が解任されたのかが今だよくわからん
0077人間七七四年2007/11/25(日) 00:14:49ID:9rZsmhOy
 
0078人間七七四年2007/11/25(日) 00:22:56ID:KaGYqPAz
奉行衆の石高が子飼い武将の嫉みを呼んだのか
特に石田治部とか石田治部とか
0079人間七七四年2007/11/25(日) 01:16:46ID:gfxGNUuD
石田の石高を妬んでた子飼いって誰?
石田を特筆する理由はなに?
0080人間七七四年2007/11/25(日) 13:19:20ID:CvSVJtF/
>>73
石田と浅野長政の不和はどうなんだろう?って話があるな
仲が良かったという確証もないみたいだが…


浅野は根っからの親家康に見えるけどそれはあくまで後世から見ての話で
見方によっては長政は秀吉の死の前も後も豊臣政権寄りだったと見ることが
できるって説を見たことあるが……なにで見たんだっけな。
0081人間七七四年2007/11/25(日) 14:25:48ID:+DwoYZe/
>>80
豊臣政権よりでも石田路線支持とは限らんわな。
0082人間七七四年2007/11/25(日) 15:38:22ID:gfxGNUuD
石田路線ってどんなの?
とにかく家康排除みたいな?
0083人間七七四年2007/11/27(火) 12:34:21ID:A9M780cI
>>80
江戸時代も大名として残ったから、親徳川って見られてるんだろうな。
でも、家康暗殺計画の謀議に加わったとして、蟄居されてる。
家康と組んで行った出来レースと言われてしまえば、仕方ないけど。
0084人間七七四年2007/11/27(火) 16:14:04ID:c8Sj+2CG
>>82
結局は家康を体制の中に置くか外に叩き出すか、って路線じゃね?
家康と決戦して勝てばいいけど、負ければその覇権を確立させるだけだし(実際そうなったし)
0085人間七七四年2007/12/01(土) 01:03:30ID:XqA+cQJW
浅野は余裕で生き残り
石田と長束は一応子孫がいるが
前田と増田はどうなったんだ?
0086人間七七四年2007/12/16(日) 17:58:49ID:oFwj4Ilu
>>85
浅野は息子の長晟が家康の娘(蒲生の中古)を孕ませた功績で生き残った。
高齢出産で出産後すぐに家康の娘が亡くなり、母のいない光晟を家康や秀忠が
不憫に思っての家康の外孫としての御家存続らしい。
0087人間七七四年2007/12/16(日) 18:19:45ID:HOCkeMPw
玄以の子孫は旗本
長盛は息子が大阪の陣で反徳川に付いた責任を取らされ自決、子孫無し
0088人間七七四年2007/12/16(日) 18:25:42ID:cr1kRGAH
長束や増田は関ヶ原で評価を落としてるよな
秀吉が奉行に任ずるだけあって素晴らしい政治家なんだろうけど
0089人間七七四年2007/12/16(日) 18:29:40ID:FWrwbIuS
浅野は所領が西日本にあったらな〜
0090人間七七四年2007/12/22(土) 18:25:45ID:VAxvVwN+
>>11
関ヶ原直前には12万石に加増されてる。
石高以外では細川と縁が深かったようだ。正室は本多忠勝の妹だった。
0091関連スレ2008/01/27(日) 17:35:13ID:a37XKOii
【密かな】浅 野 家【勝ち組】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1201266891/
0092人間七七四年2008/01/28(月) 11:34:12ID:vn5TDXL0
>>88
政治家ではなく官僚だな
0093人間七七四年2008/02/01(金) 17:15:38ID:8uoEaftS
大谷刑部が病さえなければ五奉行入りしていたという話は
0094人間七七四年2008/02/01(金) 18:52:04ID:GL7NetgB
>>93
五奉行ってそんな固定化された組織じゃ無いだろ。
たまたま5人が指導的地位にいたから五奉行って呼ばれただけで。
6人いりゃあ6奉行になってたさ。
0095人間七七四年2008/02/02(土) 01:43:01ID:KBsupToY
七人いれば7奉行か。竹下派の7奉行って誰々だったっけ。
0096 ◆QqQquqqauQ 2008/02/02(土) 07:13:41ID:IvPDSCGB
橋本龍太郎 小渕恵三 梶山静六
小沢一郎 羽田孜 奥田敬和 渡部恒三
0097人間七七四年2008/03/06(木) 20:46:14ID:wr0VSZFJ
>>96
勉強になりました。
0098関連スレ2008/03/07(金) 05:07:51ID:Mh/mIKio
【武勇】豊臣政権の武将を評価する【政治】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1204538915/
0099人間七七四年2008/03/07(金) 08:15:33ID:TeM248Zy
実は、五奉行が大老(年寄)

実は、五大老が奉行
0100人間七七四年2008/03/14(金) 05:57:07ID:GpPU97x3
>>99
学校のテストで書くと×にされるけどねw
0101人間七七四年2008/03/14(金) 07:05:26ID:9sarkgnc
じゃあ自民党売国媚中七奉行は?
0102人間七七四年2008/03/14(金) 08:18:57ID:+0mJp1Ri
>>101
お前は東亜スレで一生オナニーしてろ
0103人間七七四年2008/03/15(土) 05:54:37ID:iWiPITWB
各人の地方大名とのパイプはどんな感じだろ?
詳しく知らないから、分かる人が是非教えて欲しい。

石田:佐竹・津軽
浅野:
増田:長宗我部
長束:
前田:
0104人間七七四年2008/03/15(土) 07:07:35ID:c6lL1kI/
秀次失脚に暗躍
理由:自らの保身の為
0105人間七七四年2008/03/15(土) 08:24:01ID:IhwcF1x0
>>103
増田は里見
0106人間七七四年2008/03/15(土) 08:42:53ID:OCTBeOQV
浅野は家康の義弟
0107人間七七四年2008/03/15(土) 11:06:42ID:YbCY7GXb
>>103
石田のところに真田を追加
0108人間七七四年2008/03/15(土) 13:17:53ID:ZG2jz6Iu
 長宗我部元親は、信親の死語、盛親を跡継ぎにするに際し、増田長盛を烏帽子親とした。
 盛親を後継にきめたことは、後世、作家などが、いろいろ書いているが、実際は、
 信親  ←信長が烏帽子親
 香川親和 香川信景養子
 津野親忠 津野氏は土佐七雄の名門で一条家重臣
 
 と、それぞれ引きずるものがあったので、新たに豊臣政権下での外交力を高めるために、とくに考えて増田に近づいたと思われる。

 元親が増田のことを高く買った理由は、単純である。
 彼が非常に才能あふれた人物だったからだ。
 増田は微禄から秀吉に仕えて、もとは槍働きで名をあげた。
 小牧・長久手では先鋒をつとめて徳川軍と戦い、敵将の首二つをあげる殊勲をたてて二万石に増封されている。
 その後も、九州征伐、肥後一揆鎮圧、小田原の役、朝鮮出兵、
 とほとんどすべて秀吉の戦さにかかわった。
 朝鮮の役では兵を率いて渡海して、実際に現地で戦いながら、兵站を調整する任務にあたった。
 そのあたりは三成とは大きく違う点で、現場たたきあげの実務家であった。
 もともとは勇武の人だったが、逆をいうと、そういう男は秀吉政権にはゴロゴロしていた。
 途秀吉も増田の才能に気づき、途中からはもっぱら内政家として重用した。
 増田の算学、経理の才は傑出していて、太閤検地は彼がいなければ成功しなかったといわれている。
外交官としても優れており、元親のほか、上杉景勝などを担当した。
 また、小牧長久手で戦った家康からは、その武勇をほめられて、以後、昵懇となり、このことが関ヶ原の増田の動きに関係してくる。
 いかに秀吉が増田を買っていたかは、大納言秀長の死後、
 その領国の大和郡山に増田を入れたことからもわかる。
 この時点での禄高は浅野長政とならぶ二十二万石であり、石田三成より上であった。浅野は豊臣家に親類ということを考えれば、別格扱いである。

 ちなみに先の長宗我部との関係だが、サン・フェリペ号が土佐に漂着したさい、
 秀吉は増田を土佐に派遣している。
 元親と増田が仲がよかったことを知ってのことかもしれない。増田は土佐に一月ほど滞在して、この事件を調べた。これが後に、秀吉によるキリシタン追放につながる。
 関ヶ原での増田の行動は、いいろいろといわれている。しかし、彼の行動が豊臣家を滅ぼし、徳川の天下に大いに益があったことは間違いない。
 増田は功績は残るが、逸話が少ない人物で、性格もはっきりしない。
 彼は主君の下で与えられた仕事には十分に力を発揮する。しかし、混迷した世を自らの才気で渡ることは苦手でたったのかもしれない。
 素が槍働きで成り上がった武将であり、世の動きはさほど見えていなかったからかもしれない。そのあたり、福島正則とにている。
 晩年は、家康にいいように使われて、豊臣家からも恨まれて自身も大いに悔いが残ったとおもわれる。
 関ヶ原の後、領国を失った彼は、高野山に隠棲した。
 子の増田盛次が大阪の陣で旧知の長宗我部隊に属して、藤堂家と戦った。
 藤堂隊はこのたたかいで壊滅的な打撃をうけ、長盛はその責任をとらされて切腹させられた。長盛はこの時、怒りもみせず従容として腹を切ったという。
0109人間七七四年2008/03/17(月) 23:34:00ID:OUyeWHhW
良スレage
0110人間七七四年2008/03/24(月) 11:01:45ID:TH5lqETk
石田はなぜか島津を異常に気に入って
石高が減って困窮する島津に貨幣経済について教えて
助けちゃったことがあるので仲がよかったらしい
0111人間七七四年2008/03/24(月) 11:27:17ID:D1lN3RN1
その島津が後に憎き徳川幕府を倒してくれるわけか
0112人間七七四年2008/03/24(月) 11:32:30ID:jLFxtozI
>>110
義弘? 義久?
0113人間七七四年2008/03/24(月) 13:51:03ID:xRvNmTjZ
義弘だと思う
0114人間七七四年2008/04/17(木) 20:46:30ID:DNXP+q0j
義久は家康贔屓だっけな。
0115人間七七四年2008/04/18(金) 01:17:34ID:rp4bMQ/y
義久と家康があったのは実は太閤死んでから。
まあ、死んでからソッコー会いにいったわけで息子を笑えない可愛い性格だとおもた。
0116人間七七四年2008/04/18(金) 01:18:42ID:QKv3Tt95
中老って実質働いていたの
中村一氏以外誰がいたのですか。
0117人間七七四年2008/04/18(金) 01:38:00ID:QClUMXqj
堀尾吉晴 生駒親正
あまり機能してない
とくに堀尾は親家康でいろいろと策動してる
0118人間七七四年2008/04/18(金) 11:49:48ID:lwRYWCAe
実は、五奉行が五大老(年寄り)

実は、五大老が五奉行
0119人間七七四年2008/04/18(金) 15:18:58ID:z33tMSQO
↑それは関が原の折に奉行側が主張してた事な
0120人間七七四年2008/04/24(木) 16:29:25ID:+oDuDNaW
五奉行同士は仲良かったのだろうか・・
前述の増田とか経歴みるかぎりでは、三成と仲悪そうだが・・・
そのあたり書いている本とか、ほとんどみたことないけど
0121人間七七四年2008/04/24(木) 16:32:34ID:AC4t7AaM
>>120
仲が良い悪い以前に、立場や利害がバラバラ。
0122人間七七四年2008/04/24(木) 16:50:59ID:+oDuDNaW
五奉行内で派閥があったと?
0123人間七七四年2008/04/24(木) 17:02:10ID:EMvr+m0w
そもそも五奉行って「五奉行"内"」といえるほどその中でミーティングしたり調整したりしてたのか?
人事の部長や経理の部長をまとめて「五部長」て呼んでるようなもんだと思ってたんだが。
0124人間七七四年2008/04/24(木) 22:51:33ID:lo7grrhU
寺社対応の前田以外の四人の仕事って、秀吉の死の直前まで
けっして分化されていたものじゃないんだよね。
堺屋はビジネス小説としておもしろいように
石田社長室長、長束経理部長、増田総務部長etcって感じに書いているけど、
すくなくとも東北の縄張りとかの当りまで、
三成と浅野が組んで検地とか、日常茶飯事。

全員総務、全員庶務、全員経理。
ミーティングや調整はその時一緒に仕事する相手としょっちゅう。
ちなみにその時の奉行は五奉行だけじゃなく、大谷、木村、富田などの面子も
五奉行と同格で入っている。
そいつらの中で最後に政争で秀吉側近に残れた5人(4人?)が五奉行と言われるだけであって。
0125人間七七四年2008/04/25(金) 12:50:31ID:QJrHZor/
ようするに秀吉の奉行集団の呼称だってことね。
小西行長、宮部継潤、富田一白、大谷吉継もくわえると、
9人ぐらいかな。
このメンツの関ヶ原の動静をまとめてみました。

ガチ西軍:
石田三成(西軍・関ヶ原)
小西行長(西軍・関ヶ原)
大谷吉継(西軍・関ヶ原)
長束正家(西軍・関ヶ原・南宮山)

ガチ東軍:
浅野長政
秀忠付きで関ヶ原に遅参

死亡:
富田一白
関ヶ原前年に死亡・子の知信は東軍として安濃津城に籠城
宮部継潤
関ヶ原前年に死亡・子の長房は初め東軍につくも、なぜか西軍に寝返った

裏切り者:
前田玄以
大坂在。表面上は西軍を装いつつも、家康に内通し、三成の内部情報を家康に流した。
戦後、その功績により、本領を安堵される。

謎:
増田長盛
秀吉死後は反家康勢力結集のために精力的に動き、三成とともに、
中心的な役割をした。大坂城に在勤。
秀吉死後、一時的に豊臣家の蔵入り地の管理を任され、
自領とあわせて120万石以上の兵力の権限をもったが、
関ヶ原には一兵も出さず、立花宗茂が島津義弘、毛利輝元らと増田の兵力をあてにして、
大坂城での籠城、あるいは再決戦を仕掛けようとしたときも、
増田は拒んでいる。
戦後、三成とともに関ヶ原の役の首謀者として所領を没収されたが、
大坂城での西軍の再結集を阻んだことを評価されて、高野山に蟄居させられた。

こんなものかな。
0126人間七七四年2008/04/25(金) 14:29:44ID:4KeTkctH
皇紀2668年4月26日(土) エクストリーム聖火リレー 勢力構成


◇赤軍
シナ人 約2000〜3000名
シナ工作員 推定1000名くらい
青装束軍団(特殊工作員) 2〜6名
売国マスゴミ 推定200名くらい
売国左翼・売国日本人 推定数百名
朝鮮人 推定数百名
邪火ランナー(星野、有森、萩本等)
機動隊・警察・公安 2000〜3000名

◇我が軍
ネット連合(2ch、mixi、ブログ等)
穏健派・撮影部隊・通信部隊等 推定200〜300名
ネット連合 過激派(消火班、武装派、ウンコ・ギョーザ投てき) 推定100名
チベット・ウイグル・モンゴル・台湾人 数百名
国境無き記者団 約50名+ボス
新風 約50名
街宣右翼 約50名
仏教徒・仏教関係者・善光寺 推定数百名
反中日本人 推定数100名
欧米人・欧米マスコミ  推定数百名
一般マスコミ(産経・関西のテレビ等) 数十名


宇喜多勢 1名 
^^^^^^^^^^^^


◇中立勢力
一般日本人 数千〜数万名 (←ここを味方につける必要あり!)
0127人間七七四年2008/04/25(金) 14:32:51ID:EEpMsmgI
>>125
小西まで入れるなら福島も入るような
0128人間七七四年2008/04/25(金) 17:04:51ID:QRlhKg7G
浅野って親父の方が先に豊臣見捨ててるよな
長男が清正と組んでるのみてもそう思う
0129人間七七四年2008/04/25(金) 17:15:16ID:aJKKNyfX
淀も秀頼も、浅野とは何の血の繋がりも無いからな。
0130人間七七四年2008/04/25(金) 20:09:53ID:ZQ2Xadcf
福島も黒田父子も徳永も蜂須賀も奉行扱いだけどね
小西と加藤清正は奉行ではないけどね
0131人間七七四年2008/04/25(金) 21:53:29ID:aJKKNyfX
浅野は秀次殺害の時点で豊臣を見限ったと言う節が感じられないでもない。
0132人間七七四年2008/04/26(土) 02:33:37ID:d+Hb5Xdb
>>131
家康とガチ友になった時点で、
半分裏切ったようなもんだけどな。

寺沢広高は長崎奉行。
小西、三成に非常に近い(実際関ヶ原前まで仲間のようなもん)だったけど、東軍。

0133人間七七四年2008/04/26(土) 03:53:29ID:S71NeftZ
福田孝行長崎奉行。
0134人間七七四年2008/04/29(火) 00:05:55ID:iXeahXTP
>>132
寺沢正成(広高)は三成が清正や黒田長政に襲われた際に、三成の使者として
小西行長とともに毛利輝元のところへ使者に行っているし、朝鮮出兵時の動向などを
考えても小西や三成と近いんだよね。
まあ、家康の会津征伐に着いて行ったあと、なりゆきで(というか当然の流れとして)家康に味方した
という流れだと思う。
0135人間七七四年2008/04/30(水) 10:32:15ID:P92fAce2
五大老が、ほんとうに名前だけで、
豊臣政権の将来なんてどうでもいいと思っている連中だったんだから、
せめて五奉行は・・・って秀吉も期待しただろうし、
その期待を背負っての三成らの行動だったんだろうな。
一応、表向きは五奉行は全員で足並み揃えているようにみえる。

問題は三成が嫌われていたことかもな。
もし、関ヶ原で三成が勝っていたら、
本来並列の関係であった五奉行内で、あきらかに、

三成>(大谷・小西)>>長束>>増田>>前田>浅野

みたいな直列の序列ができそうだ。
三成嫌いには、それは耐えられないだろう。
だから、増田、前田、浅野はああーいう行動したんじゃないかと。
0136人間七七四年2008/04/30(水) 10:34:58ID:4eOxGvEH
>>135
世の中は好き嫌いよりも利害で動く
0137人間七七四年2008/04/30(水) 10:40:42ID:njInD4Go
増田は内通はしていたけど、
積極的に裏切ったとは言えないし(家康の書状公開はいたかったけど)

東軍も何人か三成に内通していたんじゃないか?
当然その辺りの書状は闇に葬り去られているだろうけど。
0138人間七七四年2008/04/30(水) 10:57:15ID:P92fAce2
>>136

もしあなたが社会人なら、
好悪の情とか、しがらみとか、意地とか、全くなく、
ビジネスできていますかね?
社内人事とか、BtoBの取引とかでも、全くそれはないよ。

関ヶ原は、
そういう意地としがらみにがんじがらめの上で、さらに利害が選択に加わるから、
おもしろいんだとおもう。

0139人間七七四年2008/04/30(水) 21:50:27ID:wnkdbInC
増田長盛の息子盛次は大阪冬の陣は徳川方として大坂城を攻めていたが、
突如出奔して夏の陣では豊臣方として戦死しているんだよね。何故だろうか。
0140人間七七四年2008/04/30(水) 23:47:23ID:njInD4Go
>>138
利害以外の思惑が強いのは宇喜田と福島と大谷位じゃね?
後は結局利の方が大きい。

三成嫌いなのは細川とかもだけど、この時点で領土もらって
人質も徳川に出している。この時点で利の方が上じゃねーか?

三成暗殺部隊作った黒田は関ヶ原の立役者の一人で
これも利の方が上。

好き嫌いもおもろいが、利でキッチリ釣った家康は見事だね。
0141人間七七四年2008/04/30(水) 23:52:20ID:01tpSCDq
>>135
増田って三成嫌いなのか?
前田や浅野は嫌ってそうだけど
0142人間七七四年2008/05/01(木) 14:01:27ID:Fa+d4W4l
利でつられなかった田丸と氏家は凄いな
0143人間七七四年2008/05/02(金) 10:36:25ID:8ol5Rugj
奉行といえば、朝鮮で元親タンに怒られた垣見家純を忘れてはならない。
ショボイ男ながら、関ヶ原では、キッチリ筋は通して死んでいったぞ。
0144人間七七四年2008/05/02(金) 13:32:10ID:G02EFeUr
ああ鉄砲狭間の人か
0145人間七七四年2008/05/02(金) 16:57:00ID:if752TRP
>>138
利のがウェイトが大きいって主旨に0か100かの2元論で反論する馬鹿

利より情な社会人なんていますかね
0146人間七七四年2008/05/03(土) 12:46:09ID:7ftq6jU8
宮部や富田は初期の奉行と呼べるのでは?
彼らの引退後に浅野と長束が代わった。
0147人間七七四年2008/05/03(土) 21:05:31ID:+YykrdgA
浅野は初期の奉行でねーの?
浅野が秀次事件で一時失脚してその二人が代理みたいにしてたような
0148人間七七四年2008/05/03(土) 21:58:52ID:ElLeUr1F
宮部継潤は世代的にも随身時期的にも、蜂須賀や前野の次にいた人間。
浅野の一時失脚時というよりはむしろ秀次に連座して切腹した
前野の穴を埋めるショートリリーフとして引っ張り出された感が強い。
奉行としての実務と言うよりは、格的に、
秀次派を粛清しても豊臣を支える古老はまだまだいるよ、と内外に示す感じで。
保守穏健派の長老の一人で、万時そつのない継潤はそういう役にはうってつけだろうね。
0149人間七七四年2008/05/05(月) 01:55:20ID:srFrfVH8
めちゃめちゃ古参なのに秀次事件なんかで切腹させられちゃった前野カワイソス
0150人間七七四年2008/05/07(水) 17:40:04ID:hdvoXY4T
秀吉はそう言う、昔を知っている古参を処分したかったんだろ。
0151人間七七四年2008/05/07(水) 22:23:24ID:EafbulEm
そう考えると蜂須賀彦衛門の方はいい時期に亡くなったのかもな
0152人間七七四年2008/05/08(木) 15:33:38ID:JggcDJ+5
実際の真相はよく分からんね。

【川並衆】前野・蜂須賀を語るスレ
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1166443371/
0153人間七七四年2008/07/21(月) 23:04:05ID:5vcWzvk4
そういや、5人の官位は全部同格なのかい?
0154人間七七四年2008/07/22(火) 00:02:09ID:MKtq69Fr
みっちゃんと正家だけ従四位下あとは従五位
0155人間七七四年2008/07/22(火) 07:30:11ID:e5NolHJo
一部の連中は、歴史群像の秀長の話にあったカネの問題に深く首を突っ込んでたんじゃないかな?とくに古くからの連中は成り上がりものだから金に執着しそうだし
だから前野とかは消えた気がする
0156人間七七四年2008/07/23(水) 11:38:06ID:B+psD/qs
古参の連中というと、御子田正治や尾藤知宣なども粛清されているよな。
0157人間七七四年2008/07/23(水) 20:19:55ID:a/We4+KA
神子田は竹中半兵衛が後継者指名するほど優秀だったから嫉妬で粛清
尾藤は縁戚の三成が約束守って敵の降伏兵とその城下の人間を助けたせいで
秀吉が「はぁ?おまえなに生真面目にやってんの?俺に逆らった奴は
すれ違っただけで皆殺しにしろよ」とつっこんで三成が「助けるって約束したのは
あんただろ。約束も守れねーで天下とる気かよ」と突っ込んだ腹いせに粛清
(三成はお気に入りだったので免れた代わり)
秀吉最悪だな
古参の臣を大事にしない時点でそりゃいざとなったら豊臣に味方する大名いなくなるわな
豊臣は滅びるべくして滅んだということだ
0158人間七七四年2008/07/23(水) 20:24:23ID:CA8tTL46
まあ、秀吉に限らず織田系の武将は、「困ったら皆殺し」が基本だしなあ。
逆に「何で皆殺しに出来るのにしないの?」って、驚いただろうな。
0159人間七七四年2008/07/23(水) 22:30:08ID:mv4CV0Mb
まあ、狡兎死して走狗煮らるという言葉もありまして、功臣を粛清するのは古来からよくあること。
0160人間七七四年2008/07/23(水) 22:37:21ID:PUvwJ3Mf
煮られないようにするにはある程度時期が来たら
やーめたといって領土もなにもかも全部投げ出して隠遁だろうか

でもそれだけしても担ぎ出されると・・とか思われて刺客が追っかけてきそうな気もする
失踪して行方不明になるしかないのか?生き残り大変だね
0161人間七七四年2008/07/23(水) 23:59:49ID:Go6QW1zi
尾藤が九州征伐でとんちんかんなことやってたからってなにも処刑しなくても…
秀吉酷過ぎるよ…
0162人間七七四年2008/07/24(木) 00:04:27ID:tQ1RZCOW
>>161
秀吉は処刑大好きだからねえ。
人が苦しんで死んでいくのを見るのが大好きだった節がある。
0163人間七七四年2008/07/24(木) 02:38:08ID:FxcDY2uV
小田原攻めの際に許しをこうべく参じた尾藤を処刑しているし、
神子田もにたような感じだったはず。その一方で仙石さんは
あれだけの失敗をしてもあっさり復帰していたりするし、
秀吉ってかなり恣意的な処断を下す傾向があるような。
0164人間七七四年2008/07/24(木) 05:10:16ID:hJtV/qn3
でも、残虐な信長とは違って、血を見るのは嫌いな太閤さんってイメージがw
0165人間七七四年2008/07/24(木) 09:24:16ID:z4YT8Ue3
信長のほうが甘いこともあるんだよな
使えると思ってる時期は反乱すら許すし(後で復讐するけど。
ただし佐久間や林も問答無用で追放したのではなく隠居しろとか妥協策は提示している)
身内にもとことん甘いし(弟除く。捕虜になったり逆らった兄すら許す。子供にも甘い)
0166人間七七四年2008/07/24(木) 09:54:17ID:tQ1RZCOW
>>164
秀吉の残忍さは、子供が小さな虫や動物をいたぶるような、そう言う、独裁者特有の残忍さだな。
とにかく見せしめの処刑が大好き。既に浅井長政の嫡男への処刑の仕方あたりから、秀吉の、いざ強者になったときの
異常なサディズムがよく現れてる。
アレに比べりゃ信長の黄金髑髏なんて、可愛いものだ。
0167人間七七四年2008/07/24(木) 10:24:40ID:XhbuI7dN
信長は黄金頭蓋骨作ったりしても注意してくれる家臣がいるんだよね
文句言う人物を大切にしてる感じもするし
秀吉の場合諌言したら基本殺されるから(汗
0168人間七七四年2008/07/27(日) 13:42:31ID:bxkD3ohp
そんな秀吉にがんがん言いまくった三成は凄いな。
0169人間七七四年2008/07/27(日) 19:43:07ID:O9CAkoCd
>>168
言わなくなったから出世した
0170人間七七四年2008/07/27(日) 23:42:13ID:zkwOWYx1
>>169
えw

浅野とか、どんだけイエスマンなんだw
0171人間七七四年2008/07/28(月) 13:58:33ID:7l9kuQoq
秀吉が馬周りを勤めだしたころからの
同僚部下武将は秀吉の出世の過程で全て戦死か左遷。
あ、秀長除いての話ね。
これからも秀吉が決して人使いの良い人物ではなかったという理由になる。

結果、人材不足で徳川に反乱を起こされたw
0172人間七七四年2008/09/02(火) 17:54:26ID:88e0ogX4
age
0173人間七七四年2008/09/18(木) 22:11:19ID:x4c1oz4K
信長信者キモ過ぎ
0174人間七七四年2008/11/02(日) 01:11:26ID:8Fd2Iwa2
保守
0175人間七七四年2008/11/03(月) 00:57:42ID:RKVg9yMB
五奉行増田長盛の子増田盛次を討ちとったのは
藤堂家に仕官していた旧石田三成家臣磯野右近の子供
0176人間七七四年2008/11/03(月) 00:59:47ID:RKVg9yMB
しかもその磯野行尚(盛次討ちとった人)は
関ヶ原で三成が落ちるときに塩野、渡辺らとともに
最後までつき従い三成が解散命令出すまでずっと一緒にいた人物
0177人間七七四年2008/11/03(月) 01:34:51ID:OOoqkaGN
>>175-176
増田は右府に内通してたから、因果回るって感じだな。

0178人間七七四年2009/01/17(土) 16:55:23ID:s9cyRCOf
江戸時代まで残ったのは浅野だけ?
0179人間七七四年2009/01/18(日) 04:51:48ID:Q2WEiDH5
浅野に変わって 五奉行になった 富田信孝は江戸時代に入って津藩で残り 伊予転封後 大久保長安事件に絡み改易だよ
0180人間七七四年2009/03/06(金) 03:41:53ID:Q6F5VMCJ
>>179
富田も五奉行に入ってたのか。他にもそういう人いない?
0181人間七七四年2009/04/15(水) 17:35:41ID:L3WO1HgR
勝ち組は浅野長政と前田玄以だけだな
0182人間七七四年2009/04/15(水) 19:26:56ID:XB4PxH6R
前田は息子の代で改易
0183人間七七四年2009/04/15(水) 19:34:53ID:N7PIbVCe
親父もずっと心配してる馬鹿息子だったからな
0184人間七七四年2009/04/15(水) 20:48:01ID:WanVXJVD
内通みたいな不名誉でストレスのたまる仕事してやっと本領安堵。
0185人間七七四年2009/04/21(火) 21:28:28ID:nk+C0nmt
>>176
しかもこの人磯野員昌の孫なんだな
0186人間七七四年2009/07/28(火) 06:24:05ID:sJP5EL0R
>>182-183
茂勝は頭がおかしくなったんだっけ?
0187名無しさん@そうだ選挙に行こう2009/08/30(日) 09:50:44ID:DSusUEyE
>>186
自分の小姓を斬ったりした
0188人間七七四年2009/09/24(木) 20:50:08ID:Iw3VU0yk
浅野と三成以外はとんだヘタレ
何だったんだろうなこの集団は
0189人間七七四年2009/09/25(金) 20:36:16ID:KOAhpwmd
>>188
増田の最期は結構印象的。
0190人間七七四年2009/09/25(金) 21:00:30ID:HwqPzVjp
>>188
増田・長束・前田に何を求めるんだ?
逆に自身の力量を勘違いした石田三成の方が何だったんだろう?
0191人間七七四年2009/09/25(金) 23:30:27ID:QkwBKh8B
石田三成を好きな奴がいる事が信じられん
どこに好きになる要素があるんだろうか
0192人間七七四年2009/09/26(土) 13:40:12ID:7drUkjqU
家康の方が「奉行」。三成は「年寄」や。上下関係を弁えんとな!
0193人間七七四年2009/09/26(土) 22:27:32ID:vw0n6sVE
こいつら、まるで官僚みたいな動きしかしてないな。
官僚(奉行)が大坂での実権を握ろうとして、
政治家(大名)に反旗を翻したが、大物政治家に敗北したみたいな
0194人間七七四年2009/09/27(日) 03:47:00ID:xXiL2DUE
>>191
戦国の世に、ほとんど脳みそだけで形の上では家康と五分まで持っていった凄まじい権勢。
0195人間七七四年2009/09/27(日) 04:19:43ID:9G+b4TGD
ただ、急いで形だけ整えた中身が全く伴っていなくて、上杉や佐竹との連携もダメダメだったのが残念
結局、大谷が懸念した通りだしね
結果として、家康の手の内で泳いでいただけだったと
0196人間七七四年2009/09/27(日) 05:30:18ID:xXiL2DUE
手のうちで泳がされてたというが、家康のが綱渡り的でギリギリの博打だったと思うが。
0197人間七七四年2009/09/27(日) 05:37:37ID:yAfawdnm
>>193
実際官僚だろうが。何言ってんだお前は?
0198人間七七四年2009/09/27(日) 08:39:35ID:9G+b4TGD
>>196
形としてはギリギリだが、全て家康が前もって図面を幾つか用意していたからああなったんだろう
宇喜多を弱体化しておいたつもりが、明石の奮戦で戦況がかなり際どくなったのは予想外みたいだけど
しかし、そこは明石(ついでに秀家)を誉めるべきところ
0199人間七七四年2009/09/27(日) 13:14:30ID:xXiL2DUE
>>198
上方を離れた時点で誰がどっちにつくなんて全く分からんぞ?
関ヶ原で戦いましょうなんて約束をしてるわけでもない。
そもそも大阪城がバックにあって、しかも畿内をほぼ掌握されてるから
勝てるはずのない戦いで東軍側はほとんど一か八かの賭だよ。
0200人間七七四年2009/09/28(月) 13:59:09ID:/Zw+L78A
寝返り風聞が激しい小早川に依存した戦術を関ヶ原で用いた三成の才覚の限界
人の心を理解できない三成の戦采配は狸親爺に通用はしない
0201人間七七四年2009/09/29(火) 05:26:30ID:E+npzo6e
小説でありそうな決まり文句だな、石田が嫌いなのはよく伝わるがw
小早川に頼らざるを得ない戦況なのは家康も同じだろ

>>198
群を抜く実力者の家康がきっちりお膳立てして動いても
ギリギリのところまで持ち込まれたってことだ
あと予想外というなら西軍首脳が関ヶ原での戦を想定して
前もって要塞化していたというほうが重要
奮戦なら石田、島津、大谷、小西(とその家臣)も入る

0202人間七七四年2009/09/29(火) 09:54:00ID:oJz6llJE
同時代的には小早川秀秋は、むしろ律儀だと言う評価だったらしい。
0203人間七七四年2009/09/30(水) 02:32:59ID:TPthXuCE
うぃきぺでぃあ見ると、当時は五奉行は年寄、五大老が奉行って呼ばれてたそうな。
豊臣家の家老が5奉行で、天下仕置の奉行が5大老ってことか?
0204人間七七四年2009/10/04(日) 02:00:17ID:nYWnQD1I
>>200
依存も何も、当初の予定とは違う場所に秀秋が布陣しただけ。
三成が置いていた門番の兵を押しのけて、山に登ったんだぞ。
0205人間七七四年2009/11/11(水) 06:25:50ID:Ltf1mSfY
そういや、増田に関しては家康にいち早く三成達が挙兵した事を知らせたりと
確実に内通してたみたいだが、同じく内通してたと言われる前田の方はどうなんだ?
何か内通の根拠でもあるの?
0206人間七七四年2009/11/11(水) 19:45:03ID:XuDPPsrW
>>205
増田長盛については、「挙兵の二段階論」をどう考えるかによって
変わってくると思う。三成・吉継が謀議していると垂れ込んだのは
三奉行だったはずだけど、増田長盛ってこの後具体的な行動をとってたっけ?

三成と長政を除いた連中を三奉行といったりするけど、こいつらの間にも
かなり行動に温度差があるので、一概には言えないし難しい所だ
0207人間七七四年2009/11/11(水) 19:56:40ID:zUg4q+ZV
長政に奉行を務めるほどの頭脳があったのかな?
0208人間七七四年2009/11/11(水) 20:43:39ID:rvejS339
>>207
年長者で、太閤の縁者ってことだけ。
0209人間七七四年2009/11/12(木) 00:12:21ID:Ta/2TkvG
長束と増田が三成派だっけ?
0210人間七七四年2009/11/17(火) 14:34:55ID:zBXrve37
豊臣三中老 堀尾良晴・中村一氏・生駒親正
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1258436062/

旗揚げしました
0211人間七七四年2009/12/05(土) 06:29:00ID:pvhdhJ85
賤ヶ岳の七本槍について語るスレ
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1251749444/

七本槍のスレもあったぞ
そういえば五大老のスレは無いのか
0212人間七七四年2009/12/28(月) 17:53:06ID:HfK8FNJU
個スレがあるからいいだろ
0213人間七七四年2010/01/07(木) 00:07:35ID:M2/j/azz
長束の一族や家臣がwikiに出てるけど、あんなとこか?
0214人間七七四年2010/01/31(日) 04:41:06ID:v6QPsDpH
>>213
増田モナー

0215人間七七四年2010/05/26(水) 12:23:58ID:RfsLSF2W
五奉行研究の入門書とか無いのかな?
02162010/05/26(水) 17:38:53ID:rBAakTK8
三成かっこいじゃん
福島とか黒田はタヌキにしょんべんチビって逃げ出したヘタレ
正面から向かって行ったのは三成だけだよ
0217人間七七四年2010/05/26(水) 20:06:48ID:5BPzrD+7
三成「家康なんてぶっ殺せ!…って毛利輝元さんが言ってるぞ!」
輝元「ええ!?俺!?」
0218人間七七四年2010/07/09(金) 18:57:24ID:+UfbI2Ql

桑田忠親「豊臣氏の五奉行制度に関する考察」(『史学雑誌』46巻9号、1935年)

山本博文「豊臣政権の『指南』について―浅野長政と伊達政宗―」(『論集きんせい』11号、1989年5月)

阿部勝則「豊臣五大老・五奉行についての一考察」(『史苑』49巻2号、1989年9月10日)

阿部勝則「豊臣政権の権力構造」(『武田氏研究』10号、1993年4月30日)

堀越祐一「豊臣「五大老」・「五奉行」についての再検討―その呼称に関して―」(『日本歴史』659号、2003年4月1日)

宮本義己「家康と秀吉―内府゛律義”の真相―(『大日光』69号、1999年2月26日)

小林厚太「豊臣氏五奉行について−特に発給文書の形成を中心に―」(『鴨台史学』7号、2007年3月31日)

堀越祐一「知行充行状にみる豊臣「五大老」の性格」(『國學院大學紀要』48巻、2010年2月14日)
0219人間七七四年2010/07/16(金) 17:16:06ID:gCvSn8FI
age
0220人間七七四年2010/07/24(土) 09:12:42ID:4THR/NJ+
>>218
先行研究がそんなにあるわけではないんですね。
0221人間七七四年2010/07/24(土) 09:50:15ID:LSNmh8bw
>>218
これだけあって、一般向けの「五奉行」本が出てないのか?
0222人間七七四年2010/07/28(水) 12:28:36ID:Cccm5IHw
歴史群像あたりにとか
0223人間七七四年2010/07/28(水) 21:06:46ID:XtfGZseH
一般向けの雑誌で「五大老・五奉行特集」を企画してほしい。
0224人間七七四年2010/08/02(月) 09:30:42ID:zWgBuOLz
age
0225人間七七四年2010/09/17(金) 15:52:52ID:Ay4oN6MH
雑誌じゃ保存に不利だから、単行本や新書が良いな。
0226人間七七四年2010/09/18(土) 00:56:07ID:CobG+vZj
石田以外の五奉行を単品で専門に研究してる人っていないの?
0227人間七七四年2010/09/18(土) 09:18:57ID:FW58ulb5
>>226
それぞれの領地の地元なら地方史家に山ほど居るとおもうぞ。
0228人間七七四年2010/09/18(土) 23:36:58ID:i7YDNBYb
たとえば?
0229人間七七四年2010/09/23(木) 20:42:51ID:Rk6YzjJt
北堀光信「朝廷の存続と天皇の下賜−村井貞勝と前田玄以への下賜の成立と意義」(『奈良史学』21号、2003年)
0230人間七七四年2010/09/23(木) 20:49:23ID:Rk6YzjJt
曽根勇二「豊臣蔵入地支配の形成について−浅野長政の動向を中心に」(『東洋大学文学部紀要. 史学科篇』17号、1991年)
0231人間七七四年2010/11/19(金) 20:19:55ID:38Mb8J7v
age
0232人間七七四年2010/11/24(水) 15:05:31ID:/h7VRkMC
話をブッタ切ってスマソ
質問があるのですが…
秀吉が天正十三年に関白に就任した時
任命された諸大夫12人のメンバーを教えてください
石田三成、中村一氏、福島正則、大谷吉継、稲葉重通は解ったので


↑この五人で合っているのか?
あと残りの7人の名前を教えてください
豊臣政権で結構重要なメンバーらしいので
どうしても知りたいです
(秀吉関連ではここが一番まともスレらしいので…)
0233バロン曽志崎2010/11/25(木) 01:24:07ID:5LhEZKaM
「関白任官記」によれば他の7人は
生駒雅楽頭政勝(近規)、小野木縫殿助重勝(重次)、尼子宮内少輔晴久(ママ)、
柘植左京亮、津田大炊頭、古田兵部少輔重恒(重勝)、服部采女正(一忠)。

「歴名土代」で確認できるのは以下の10人。
平一氏(中村)、源吉継(大谷)、源宗澄(尼子カ)、平勝次、藤三成(石田)、
平重長、平正則(福島)、藤重執(稲葉)、藤近規(生駒)、平吉広
0234人間七七四年2011/03/02(水) 14:57:41.28ID:a3gS/5Fr
>>233
尼子宮内少輔晴久は誰の誤伝なんだろうw
修理大夫、民部少輔にしかなったことないのに。
0235人間七七四年2011/08/24(水) 02:14:04.08ID:2MhNF9mW
>>233

ほんとこれ誰なんだろ
尼子さん。亀井あたりが尼子を名乗るかな(名乗らんような)


しかしムックとか中級者・初心者向けみたいな書籍には
信長軍団とか徳川軍団の本はよくみかける印象があるけど
秀吉軍団とか豊臣軍団みたいなのは見たことがないなあ。

御伽衆一覧とか、あっても良さそうじゃないの。
0236人間七七四年2011/08/24(水) 06:58:51.44ID:IBn4qEBc
五奉行の次点以下は誰だろう?
大谷や寺沢?
0237人間七七四年2011/08/25(木) 19:16:39.22ID:nKFk2AIQ
富田一白とか宮部とかじゃない
0238人間七七四年2011/09/01(木) 23:00:26.80ID:0KREKSDW
蒲生氏郷、細川幽斎、堀秀政あたりは外様でもあるが、
秀吉政権においては重きをなしているイメージがあるなあ

下手すると後の五大老の上杉なぞより食い込んでいる感じがする
0239人間七七四年2011/09/02(金) 02:41:43.05ID:DmRk64gg
それは彼らが秀吉政権の前身である織田政権の勢力だから。
政権確立後の秀吉の課題は、絶対性の確立のためそういう織田勢力からも距離を取ること。
0240人間七七四年2011/09/03(土) 21:38:41.19ID:8oUFCX3c
>>239

なるほどね。そういう意味では蒲生と細川は
明暗を分けたというと言い過ぎかもしれんが
幽斎のつかず離れずの政治感覚はたいしたもんやね
0241人間七七四年2011/09/04(日) 10:06:17.06ID:g+SdDX1i
なんで利長は大老なのに、秀秋は大老じゃないの?
0242人間七七四年2011/09/04(日) 13:34:19.13ID:3c5yqund
>>241
秀吉が隆景の死後秀秋を大老にしなかったから。以上。
0243バロン曽志崎2011/09/07(水) 14:47:15.28ID:RjTXnOsH
太田牛一の「大かうさまくんきのうち」に見える朝鮮出兵に随行した御はなし(御伽)衆
富田左近(一白)
由己法眼(大村梅庵)
不干(佐久間信栄)
金森法印(長近)
有楽(織田長益)
休夢(小寺高友)
寺西筑後(正勝)
稲葉兵庫(重通)
猪子内匠(一時)
青木加賀右衛門(重直)
新庄駿河(直頼)
木下祐慶
山岡八郎左衛門(景友)
羽柴下総(滝川雄利)
生駒主殿(忠清)
樋口石見
岩井(祝)弥三郎
宗安(万代屋)
宗無(住吉屋)
宗薫(今井)
宗瓦(武野)
0244人間七七四年2011/09/07(水) 15:29:53.42ID:c6xEgHF1
結構メジャーな人も混じってるな
新庄なんてまだ生きてたんだ
0245人間七七四年2011/09/07(水) 22:21:47.61ID:B1lwBzn9
祝重正まだ生きてたのか
0246人間七七四年2011/09/08(木) 17:37:04.19ID:Yn3tV0jI
>>243

超GJ

これに未出の大物は善祥坊くらいか。
あとは(思いつくままだが)斯波、六角、京兆細川、山名、有馬あたりの旧大名系。
0247人間七七四年2011/09/08(木) 17:38:21.43ID:Yn3tV0jI
>>240

そういや幽斎の息子にも御伽衆がいたのでは。
如水と幽斎、やはりあなどれなかったんだな。
0248バロン曽志崎2011/09/08(木) 21:15:40.79ID:KnsjlSw6
史料価値は落ちるかもしれないが、小瀬甫庵の「太閤記」にある秀吉の
「御遺物之事(形見分け)」の記事に見える「御咄の衆(御伽衆)」

織田常真(信雄)
織田有楽(長益)
織田民部少輔(信兼(包))
富田左近将監(一白)
宮部法印(継潤)
有馬中務卿法印(則頼)
桑山法印(重晴)
羽柴下総守(滝川雄利)
兌長老(西笑承兌)
古田織部正(重然)
寺西筑後守(正勝)
柘(植)大炊助
稲葉兵庫頭(重通)
新庄駿河守(直頼)
佐久間不干(信栄)
奥平牧庵(貞能)
中川宗半(光重)
住吉屋宗務?(無)
山岡道阿弥(景友)
前波半入(勝秀)
江雪(板部岡融成)
山名禅高(豊国)
0249人間七七四年2011/09/09(金) 05:36:47.50ID:EZWzRPCI
織田信雄って佐竹氏預かりじゃなかったっけ
0250人間七七四年2011/09/10(土) 02:15:45.48ID:3qbxDRM9
>>249

Pizza康さんの口利きでその後復帰したんじゃなかったっけ
信雄も波瀾万丈だよなあ
0251人間七七四年2011/09/11(日) 14:00:48.27ID:ZeT7LxVp
大村の渾名はゆうこりん
0252人間七七四年2011/09/13(火) 02:08:13.49ID:+uO3+n+s
本来五大老を五奉行と呼ぶのが正しいんだぜ
そして五奉行は五年寄と呼ぶべき
0253人間七七四年2011/09/14(水) 21:21:22.75ID:NwXKMjSn
>>252
奉行に処せられないことが豊臣政権の脆弱性の証。
家康ちゃん奉行宜しく!なんて調子こいたら
いや家康どころか島津あたりでも黙ってない
0254人間七七四年2011/09/14(水) 21:57:47.13ID:ueKTU4VB
>>248
肥前の名護屋までだがなー
0255人間七七四年2011/09/17(土) 13:41:33.63ID:5y2cR0Gr
当時大老・奉行なんていうはっきりとした肩書きがあったわけじゃないから、
五奉行は大老の事を奉行と言い、大老(家康)は五奉行の事を奉行と言った。
「年寄り」「お年寄り」というのは所謂「家老」の事であり、
お互いが自分達こそが豊臣家の家老であると主張し、
相手方を実務官僚であると言っていたって事だな。
秀吉は彼らの事を「五人の衆、五人の者」としか呼んでおらず、
「年寄り」と言ったというのは浅野の記録にしかない。
0256人間七七四年2011/09/20(火) 05:07:08.62ID:0G58P5wH
浅野長政って秀吉にとってはそこそこ「便利」な人だったのかね?
特に秀でているということもないが、大外しもしないしとか。
0257人間七七四年2011/09/20(火) 12:30:51.01ID:cZ6UPRIg
便利も何も重鎮そのものだろ。秀長、蜂須賀正勝、浅野長政が秀吉政権初期を支えた
主要メンバーというべきだ。
0258人間七七四年2011/09/20(火) 21:11:16.23ID:xwrE+kNE
あと前野長康も古参だな
0259人間七七四年2011/09/21(水) 02:25:43.13ID:N4YoDCu4
>>257

秀長も長政も優秀だとおもうが、秀吉の縁故がもしなかったら
どれほどまで出世したんだろうね。

>>258

神子田、尾藤、前野‥‥‥最期がひどいな。
蜂須賀△
0260人間七七四年2011/09/21(水) 14:12:14.27ID:FbT+FuP3
>>259
> 秀長も長政も優秀だとおもうが、秀吉の縁故がもしなかったら
> どれほどまで出世したんだろうね。

それは意味のないIFだな。秀吉が信長に見出されなければどこまで出世したんだろうね、
というのと一緒。
0261人間七七四年2011/09/21(水) 22:47:54.51ID:rz6KP1P9
仮に浅野長政が秀吉の縁者でなかったら、
奉行になれたかなれないかはもちろん、
奉行職を全うすることもできなかっただろうな。
0262人間七七四年2011/09/21(水) 23:16:04.80ID:s/9GPaO/
取次だった伊達から絶縁状出されるって凄いわな。
「ご指南」である浅野に対してそんな事言ったら、
取り潰される可能性も十分にあるのに余程我慢できなかったんだろうが。
0263人間七七四年2011/09/22(木) 02:13:41.39ID:RCaZ6V5k
>>262
絶縁状、詳しく
0264人間七七四年2011/09/26(月) 01:01:58.19ID:EbqYfa7x
>>263
浅野に対して十ヶ条の不満を言って、最後に、
浅野殿の所に参る事も、申し入れる事もしません。ご指南も頼みません。
なんだったら上様にこの事を言ってくれても結構です。
って言って以降絶交。
まぁ、秀次事件で連座させられる事を恐れて、縁を切っとこうと思ったんだろうけど、
与力の身でこれは結構危険な行為だね。まぁ、政宗らしいっちゃらしい。
0265人間七七四年2011/09/26(月) 10:32:47.13ID:ThoocP/p
>>264
凄いねw 言い渡された浅野もメンツ丸つぶれだったろうね。
0266人間七七四年2011/09/26(月) 19:24:51.09ID:A4iSYbC+
浅野はむしろ宇都宮氏の取り潰しで悪印象
0267人間七七四年2011/09/27(火) 22:01:28.91ID:UlNuNpfw
浅野は豊臣政権の重鎮の割りに、感情に素直過ぎる印象
0268人間七七四年2011/10/17(月) 15:00:17.08ID:ZUYs4MMG
秀次事件で召喚された時に、
政宗がビビり中々、出立せずに
浅野が政宗待ちしてたら
二人とも上洛が遅れた。
浅野が死刑にならんように
利家が全力擁護した時に
政宗待ちしてて遅れた話を秀吉にしたのを
又聞きした政宗が、
こりゃ死刑の浅野と口裏を合わせのために上洛が遅れたと言われるとやべえと政宗は思い
大借金させてもらってる利家にも
あまりに伊達に対して情がないと逆ギレし
浅野にデタラメな内容の絶縁状を送って自分は浅野なんて嫌いアピールしてから
たまたま秀吉の命で喚問にきた東国取次役の家康の使者に泣きついて家康に策を求めた。
そして泣いて土下座し、改易になる話を聞いた家臣が俺の言うことを無視して叛乱するって言い出して制御できないし、
殿は恥知らずになるくらいなら自決してよとか言われたけど、
まだ死にたく無いと言ってるのを聞いた秀吉が思わず笑って許した。
0269人間七七四年2011/10/18(火) 03:54:49.97ID:76s+5c3U

なにげに政宗、読みが深いなあと感心w
0270人間七七四年2011/10/29(土) 22:09:52.92ID:RIeVUlpb
age
0271人間七七四年2011/10/30(日) 09:32:12.92ID:JRbKNXSe
>>269
家康の読みが深い、
さすがに神君!
ってことにして欲しいコメだと思うんだが
0272人間七七四年2011/10/30(日) 14:47:17.35ID:RasUwBnp
ちょっと前に水口場跡行って来た。

岡の上で佇んでいると、長束正家の気分になって来た。
0273人間七七四年2011/10/30(日) 18:36:41.02ID:n7diOj+p
長束は天才的な理系なんだけど
某映画で一人悪役にされて割食ってたな
0274人間七七四年2011/10/30(日) 19:24:49.52ID:0JdvfeNw
水口城主長束大藏大輔正家は、池田輝政と講話したが、開城の条件とは裏腹に切腹を強いられ、首は○○○に晒首された

又、下野担当の浅野長政は、下野宇都宮城主宇都宮下野守国綱に息子を養子にするよう強要したが断られた為!
年貢を過小評価して差し出したといちゃもんつけて廃絶。
0275人間七七四年2011/10/30(日) 19:52:35.60ID:0JdvfeNw
安倍派四天王
竹下派七奉行
0276人間七七四年2011/10/30(日) 22:57:17.57ID:1s4I9p1m
増田長盛が一番よく分からん
0277人間七七四年2011/10/31(月) 01:08:44.58ID:DkKrtbWU
長束正家や玄以の方が情報少なくないか。

0278人間七七四年2011/10/31(月) 01:22:19.10ID:mWmpg3h/
増田長盛は家康に情報流して生き残ったのに、
息子が大坂の陣で豊臣方に走った責めを受けて切腹だっけ?
0279人間七七四年2011/10/31(月) 01:56:27.99ID:edKVHtMz
増田盛次の大坂参加は、徳川幕府に対する反逆で、逆賊朝敵の汚名により増田右衛門尉長森は切腹。
0280人間七七四年2011/10/31(月) 10:28:27.02ID:3okR8Tjd
増田が流したのはフェイク情報
信じた家康は見事に騙された。
0281人間七七四年2011/10/31(月) 17:19:42.95ID:npjyO3qz
それでも勝てない三成の無能さに驚愕
0282人間七七四年2011/10/31(月) 20:39:41.33ID:778XWlH6
輝元率いる毛利が糞過ぎただけ
0283人間七七四年2011/10/31(月) 20:46:12.24ID:npjyO3qz
そんな人間を総大将に据えた三成の無能さに驚愕。
0284人間七七四年2011/10/31(月) 21:26:08.40ID:778XWlH6
20万石にも満たない三成が単独で徳川250万石と戦えるわけが無いだろ馬鹿か
0285人間七七四年2011/10/31(月) 23:11:46.08ID:DkKrtbWU
大垣城で迎え撃ったらだめだったのかな?

0286人間七七四年2011/10/31(月) 23:29:53.17ID:YlDum3zO
北からやってくる前田軍と東からやってくる徳川軍からの挟み撃ちになるな>大垣城
0287人間七七四年2011/10/31(月) 23:30:42.85ID:gStDyt9/
三成が忠臣だったとは限らん 西軍大勝利で一気に発言権と所領が増えた後、
どんどん独裁化していって秀吉が織田家を下克上したように秀頼を乗り越えたかもしれん
0288人間七七四年2011/11/06(日) 12:21:17.56ID:uN1n6JeF
あげ
0289人間七七四年2011/11/10(木) 11:33:39.18ID:0H81N0o2
>>268
政宗3度目の涙ながらの土下座であった…
0290人間七七四年2011/11/11(金) 06:32:01.63ID:HG68HD45
>>287
それよりさらに力をつけた毛利と上杉が豊臣家をないがしろにするかもしれんよ
0291人間七七四年2011/11/11(金) 08:06:09.41ID:lEBiFSAy
秀吉が無能すぎた
0292人間七七四年2011/11/11(金) 10:50:07.88ID:ccvf/tog
逆だろうな。有能すぎて組織の必要性がわからなかったのが秀吉だろう。
0293人間七七四年2011/11/14(月) 00:07:12.15ID:hhclMCSL
しかし、五奉行といえば現政権の中枢なのに
乱に負けるとあっさり斬首なのな。

まさに時代が一日で変わってしまったんだろうな。
0294人間七七四年2011/11/14(月) 00:55:29.45ID:xdESZoxy
家康が好き勝手した時に、豊臣家が立ち上がって成敗しない時点で詰んでるわな。
江戸幕府は豊臣家を総攻撃して潰したのに。
0295人間七七四年2011/11/14(月) 01:49:55.86ID:3P2txFFF
好き勝手ではないな。実際は三成ら奉行派の難癖。
その証拠に三成が糾弾した家康の婚姻問題は、前田利家との手討ちの時には和解条件にすら上がっていない。
利家すら大名間の婚姻許認可が家康にあったと認めているわけだ。
0296人間七七四年2011/11/14(月) 12:30:02.04ID:XRiCTi7Q
>>295
家康が難癖つけて奉行らの意向も無視して秀頼様を見放して会津へ行ったのだから
奉行らが内府たがい条(三成は署名してないからまったく関係ない)で糾弾するのは正当行為。
それに婚姻問題があったから家康と利家が会談したのだし「認めた」のでなく
表向きは三中老、裏では利家側清正・忠興・幸長らが戦争回避で話合い決着させるべく調停しただけ。
家康は伏見城を出て向島へ移住する譲歩を病身の利家は取り付け妥協。それ以後の前田の話は下記の通り。
413:人間七七四年 05/18(水) 15:21 WC6hhR0g
下記の出典ソースを探してるんだがわからんので教えてくれないか?家康による加賀征伐に対し
前田家は交戦派と回避派の二つに分かれ、初め交戦派であった利長は細川氏、宇喜多氏を通じて
豊臣家に対徳川の救援を求めた。しかし豊臣家がこれを断ったため
418:人間七七四年 05/22(日) 05:49 GtxX8I5W
>>初め交戦派であった利長
完全にウソ。そもそも利家から3年は大坂城から離れるなと遺命があったが
秀頼補佐の遺命を破棄して帰国した謀反人だったのが利長。
この役目放棄を「御運これ末か」と宿老筆頭の村井長頼や奥村永福らが嘆いてる。
家康の謀反者利長討伐宣言を宇喜多(一説に細川)から聞かされただけの話。
織田関連でwikiに書いてあるのはウソばっかりだから信じるな。

遺命に背いて秀頼を見捨てて領国に勝手に帰っておきながら秀頼を補佐していた
大老家康が討伐するって宣言すると豊臣に助けてなどと言い出したのが事実なら利長ってマジ基地害だな。

家康の勧めで帰国したと記述してるのは三壺聞書(三壺記)という加賀藩の足軽山田四郎右衛門が書いた覚書だけ。
前田家擁護の書にしか出てこないデタラメだから。明らかに利長が勝手に帰っただけ。
(家康の圧迫に耐えかねて帰ったと加賀藩の鳴鶴集には書いてある。実際ヘタレたのだろう)
黒田文書に書かれているのは大名達が次々と帰国したとは書いてるが大老が勝手に帰ってOK!なんて書いてないし
だからこそ景勝が「太閤様から帰国の許可を頂いていた」と反論していたわけだ。
しかし前田家が帰ってよいなどと許可は出していない。
だいたい利家は柴田を見捨てただけでなく親しかった秀次をまったく弁護せず死刑を放置
(その時期の利家は京にいて、家康は江戸にいた)
利長は姉妹の豪のダンナである秀家を見捨てるなど有軍を裏切って肥え太る術だけで加賀百万石を築いた天下一の泥棒大名。
ちなみに利家夫妻はお拾いと秀次娘の婚姻仲人に決められていたし
秀次が死んだ後、利家は秀次と親しかったこともあり秀次の伏見の邸宅を貰い、秀次の家臣の一部も併合してる。
しかも秀次が死んだ後に宇喜多と前田は常時在京してお拾いに奉公し自分勝手に領国へ帰国しない。
徳川と毛利の2家はいずれかが必ず在京する。この約定が決められており利長の帰国は謀反以外のなにものでもない。
前田がバカやった挙げ句に家康に土下座して人質出して屈したから家康は調子こいて上杉を恫喝した。
そもそも利家からして家康の約定破りを許して親しいアピールやって
五奉行から見事にハシゴを外す暴挙をやってるから親子揃ってヘタレ馬鹿。
愚主利長と違い次男は反家康だったからこいつを当主にすれば良かった。 実質、豊臣家を滅亡に追い込んだのは前田家
0297人間七七四年2011/11/14(月) 16:28:39.62ID:prr/6Al0
うわあ、ものすごく気味の悪い書き込みが
0298人間七七四年2011/11/14(月) 17:23:30.72ID:OmMjZ8Ll
頭の中完全にイッちゃってそう
0299人間七七四年2011/11/16(水) 17:17:53.26ID:BAOmLVTx
ヘタレ大名利家以来の決断力の無さが秀吉や家康の覇権を後押しした。
利家は信長の下にいて
すべての決断を信長がやってくれてる時代は輝いてたのに
自分が決断する立場になるとビビり過ぎのタダの高利貸しドケチに落ちた。
0300人間七七四年2011/11/19(土) 12:02:20.99ID:Z1ny/Hlw
利家って基本的に
忘恩のドケチだろ。
信長が死んだのを知り
魚津から撤兵してた途中の
放生津でみんなで宴会して楽しんでるし、
(利長と信長の娘が安土城に向かっていたのも気にしない)
柴田から信長の仇討ちやるから兵出してってのも
利家は拒否し、どうしてもやりたいならちょっとだけ兵出すけど…とやる気無しぶりだし、
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから、
俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。
実は完全に信長が嫌いだったのが露呈してる。
0301人間七七四年2011/11/19(土) 16:31:03.55ID:xW+Gw+6s
【五大老】前田利家を語る二槍目【槍の又左】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1251596853/
【歴史の】徳川家康VS前田利家【IF】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1255967241/

五奉行と無関係だからよそで頼む
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