豊臣政権の五奉行を語れ
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五奉行と呼ばれた五人の吏僚について語りましょう。
* 浅野長政(甲斐甲府22万石)
* 増田長盛(大和郡山22万石)
* 石田三成(近江佐和山19万石)
* 前田玄以(丹波亀岡5万石)
* 長束正家(近江水口5万石)
石田三成は単独のスレッドがあります
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150512127/
0002人間七七四年
2007/02/18(日) 01:05:17ID:Ns+JJk0cスレ立て乙
ところで前田玄以と増田長盛は家康に内通していたが
長盛は改易され、対照的に玄以は所領を安堵された。
この二人の処遇の違いには何の思惑があるのだろうか?
0003人間七七四年
2007/02/18(日) 02:56:22ID:XsLFzqgD0004人間七七四年
2007/02/18(日) 04:05:30ID:Lla0lUGp0006人間七七四年
2007/02/18(日) 06:42:44ID:egXvf89Y0007人間七七四年
2007/02/18(日) 21:07:26ID:AXktzvJz伏見城や関ヶ原に出兵せず、自らの手を汚さなかったためと思われる。
ただ、家康は長盛を仇敵と憎んでいたらしく、大阪落城の直後に自殺させている。
前田玄以の孫3人も同じ頃自殺させられており、家康の執念深さはすさまじい。
0008人間七七四年
2007/02/19(月) 15:42:18ID:Kyed5sTd浅野長政はまとめ役だったのだろうが
執行官としての威厳をもっと持たせるために
みんなもう少し禄高を上げてやって欲しかったね。
0009人間七七四年
2007/02/19(月) 15:46:49ID:NO8hR+znただでさえ君主の側近に侍り大きな権限を持ってるのに、
大封まで与えてしまえば増長してしまうでしょ
0011人間七七四年
2007/02/19(月) 18:53:02ID:XoZHkt38長束は新参で一番若かったからね。
但し、実質15万石程度の実収があったとか
0012人間七七四年
2007/02/19(月) 21:01:03ID:Hm5rmZaT思っていた。だから西軍の動向を家康に通報していた。
0014人間七七四年
2007/02/19(月) 21:06:31ID:JluL+MCR太閤の義弟でありながらも実は、
一番の親家康派だったからか?
0015奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/02/19(月) 21:33:47ID:M0+uGTfs0017人間七七四年
2007/02/23(金) 00:33:41ID:VfjGe/cB同じ奉行として、関係深かったが戦意はなかったようだ。
前田玄以・増田長盛
長束同様の関係だが自分が惜しかったか裏で三成を裏切った。
0018人間七七四年
2007/02/23(金) 15:03:01ID:9t7DjJAN例えば新五奉行に、加藤清正・福島正則・浅野幸長・前田玄以・蜂須賀至鎮とか
0019奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/02/23(金) 22:24:05ID:vEvm0MMq0020人間七七四年
2007/02/24(土) 02:53:35ID:KBHJoCn7豊臣政権に対する影響力なんて皆無に等しかったと思われ
0021人間七七四年
2007/02/27(火) 07:50:56ID:/5i3iC2A0022人間七七四年
2007/03/20(火) 21:22:40ID:rgHhVQ+H0023にんにん丸
2007/03/20(火) 21:41:46ID:/+0nuvx20024人間七七四年
2007/03/22(木) 12:12:53ID:odL1WquK長束→鍋奉行
0025人間七七四年
2007/03/22(木) 16:06:24ID:BM/KUOSV0026人間七七四年
2007/04/28(土) 23:59:57ID:ww47kjLE0027人間七七四年
2007/04/29(日) 03:06:16ID:aMz/PRbV長束は、財政経理担当、今風に言えば財務経理部長。
増田は、名判官と呼ばれてたらしいから、庶政庶務担当かな…。総務部長。
石田は、太閤の側近で、天下の枢機担当って感じ…。天下の検知から、大名の配置、太閤の遺命にまで参画した。社長室長兼秘書室長。
前田は、公家寺社担当で京都奉行。
浅野は、太閤の最古参の家臣の一人で、奉行の中で、唯一尾張出身で、太閤の縁者。人事部長。
以上、関ヶ原400年記念に、岐阜県が発売したDVDから(監修は、堺屋太一)
0028人間七七四年
2007/05/08(火) 19:27:34ID:+hUZjgNg浅野真澄
前田愛
増田裕生
名塚佳織
0029人間七七四年
2007/05/09(水) 23:51:47ID:0pD4UdNG浅野が司法,石田が行政,前田が宗教,長束が財政
ちがふ?
0031人間七七四年
2007/05/10(木) 13:06:33ID:QZSNxL0V素足に革靴の人
0032人間七七四年
2007/05/10(木) 13:24:27ID:B7qBr3LY前に兄弟でテレビに出てた>三成子孫
岩手だか青森だかで漁師やってるって
0033人間七七四年
2007/05/10(木) 15:22:12ID:OX5A9jm9前田(京都所司代)と長束(勘定奉行)は割とはっきり職務分かれてないか
0034人間七七四年
2007/05/11(金) 17:51:47ID:pQnTTYMo津軽為信が南部家から独立する際に三成に便宜を計ってもらったので、その恩義で関ヶ原合戦後に三成の子を引取ったらしいな
0035人間七七四年
2007/05/11(金) 20:06:10ID:7P0NnxbW石田三成の血が・・・
0036人間七七四年
2007/05/17(木) 13:14:35ID:jIvPtUxh>五奉行と呼ばれた五人の吏僚について語りましょう。
当時の五奉行=現在の五大老だったと聞いたことが。
0037人間七七四年
2007/05/24(木) 07:47:01ID:OF5IWG77五奉行は五人の年寄り(大老)とよばれていた。
0038人間七七四年
2007/05/24(木) 13:33:20ID:ecXlbJZJ豊臣家の三中老は、三成らより格下になるのかな?
それならば、存在感の薄さも理解できるけど。
今までは五大老の下に、三中老がいたと思ってた。
0040人間七七四年
2007/05/24(木) 20:42:59ID:ecXlbJZJ例えは分かるけど、実権はどうなんだろ?
三中老に確固たる役目や権限とかはなくて、名誉職というオチは無し?
0041人間七七四年
2007/05/24(木) 20:52:58ID:YL7anDFX豊臣家の機構自体適当な組織だからなあ…
徳川期みたいにきっちり決まった官僚機構があるわけじゃ無いし。
大体中老って物自体実際あったのかってのも疑問がw
まあ大雑把に中老ってのは、内閣と省庁の間の調整役みたいに考えればいいのでは?
0042人間七七四年
2007/05/24(木) 23:04:43ID:iFXav9R10043人間七七四年
2007/06/12(火) 02:01:01ID:2KrO610e0045人間七七四年
2007/06/12(火) 03:36:33ID:lxNUsc0s秀吉が死亡しても機能不全を起こさないように改めて政権内での位置づけを明確にしたのが五奉行なんだけどね
実際に秀吉死後には大老連中と協議してスムーズに諸将の朝鮮からの撤兵を成功させてる
家康が豊臣恩顧の連中の対立を煽らず、むしろ秀吉に頼まれたように
彼らを押さえつけてくれたら問題なかったんだろうけど、それは仕方ないな
0046人間七七四年
2007/06/12(火) 19:04:56ID:spMtdMuV0047人間七七四年
2007/07/23(月) 01:05:24ID:dh9YZeus長盛に渡辺了あり。
では正家には?有名な家臣はいたのかね?
まあ、いなくとも、関が原で島津と石田の間にでも布陣していれば、
戦局も多少は違っていたかもね。
島津の1,500に参戦の要請をするほど、兵数を三成が欲していたからね。
それか、崩れかけた小西勢を横から助勢するとかしてもいいよな。
三成は、せめて正家くらいは関が原に引っ張っていくべきだったな。
0049人間七七四年
2007/07/23(月) 22:22:49ID:Tz7TJlQXそれに江戸時代初期はまだまだ豊臣家とか朝廷とか
戦国生き残りの有力外様大名みたいな紛争の火種が山積み状態
そういう不安定な状況ではかっちりした官僚行政機構組み立てるよりも、
ある程度将軍の独裁が発揮できて変事に臨機応変に対応できる制度の方が理にかなってた
0050人間七七四年
2007/07/24(火) 11:13:25ID:AnnHOF3H0051人間七七四年
2007/07/24(火) 12:00:44ID:AjMpkpGz何か勘違いしてね
0052人間七七四年
2007/07/24(火) 12:46:07ID:AnnHOF3H秀次は関白としていわば日本国首相の任を負っていた。実際に軍事権以外の行政権はほぼ任されていたわけで。
そのもとで「豊臣家官僚」が育成され実際に政府を構成していた。前野長康なんかがその首班と言っていい。
それがあの事件で一夜にして豊臣家官僚やその候補が霧散した訳だ。そのため秀次事変後秀吉は
五奉行みたいな「私的諮問機関」で、当座の政権を作らざるを得なかった。
0053人間七七四年
2007/07/24(火) 12:58:03ID:AjMpkpGz豊臣家のれっきとした政権運営機関だよ
あと関白秀次に大した権限なんて無かったよ
実際に彼の出した朱印状は後で秀吉が追認の判を押したものが多い
彼の最大の政治的業績といえば朝鮮出兵の際の人掃令だが、
これにしたって秀吉に命じられたことをそのままやっただけに過ぎない
前野長康が豊臣家官僚の首班ってそれこそ何か勘違いしてるとしか思えない
ただの秀次の付家老だろ
長康の署名した行政文書が果たしてどれだけ残ってるというのか
0054人間七七四年
2007/08/25(土) 23:03:01ID:ffpYFn6s実際どうすごかったのかよくわからん
石高も前田以外の3人と比べて低いな
0055中山幸盛 ◆c1ZKiGzz62
2007/08/25(土) 23:10:01ID:C8iwnV100056人間七七四年
2007/08/27(月) 02:57:53ID:5U6SbxxU0057人間七七四年
2007/08/27(月) 03:34:23ID:HkttdeVvそのぐらいなら小学生高学年の半数でもできるw
0058人間七七四年
2007/08/27(月) 03:40:37ID:6Lqq0nmO0059人間七七四年
2007/08/27(月) 07:48:44ID:qDx+twpw長政は?
玄以は?
0060人間七七四年
2007/08/29(水) 21:59:29ID:ppOtdNptしかし、豊臣政権は関白を首班とする公儀体制を敷いているため、すべての行政手続は関白の決裁が必要である。
秀次事件により関白不在となっても、秀吉と諸大名との関係に変わりはないため、政権の運営には支障はない。
しかし、いずれ関白に就任する秀頼のため、公儀体制を再構築する必要に迫られた。
こうした状況の中で豊臣家諸奉行の取りまとめ役となった者が、後世、五奉行、三中老と称された。
0061人間七七四年
2007/09/02(日) 00:33:44ID:T8CS8c4z石田三成、浅野長政両奉行が罷免・蟄居され
利家の後継の利長も大老職を解任
上杉景勝が謀反人にされてるところを見ると
五大老・五奉行制はかなり脆弱な組織なのかも
まあ家康が狡猾ともいえるが
0062人間七七四年
2007/09/02(日) 00:45:35ID:Ik7Mc18q一応、政治担当で公家にも顔のきく前田玄以がやや抜きん出てて
それに次いで石田三成、浅野長政だったんじゃないかね。
経理実務の最高執政官は長束正家だったはず。
0063人間七七四年
2007/09/02(日) 01:19:04ID:b6ioRZzdオレも疑問なんだが、基本は五奉行は石田で豊臣政権派で五大老も上杉
宇喜多、毛利は石田派ならみんなの前で家康糾弾できなっかたのかな?
0064人間七七四年
2007/09/02(日) 02:39:08ID:fCmi6ekb確か前田、浅野、増田、石田、長束の順だった気がする。
秀吉の葬儀の時もその順番じゃなかったかな。かなり危うい記憶だが。
0065人間七七四年
2007/09/02(日) 03:39:24ID:S2fOeiBT仲裁・調整する三中老が全く機能してなかったからね。
0066人間七七四年
2007/09/02(日) 05:30:03ID:Ik7Mc18qなるほど。それで序列が下位の三成が「合議制」なのをよいことにして増田、長束を味方に引き入れて
自分の意思を「五奉行の多数決による総意」という形で引っ張りまわしてたわけか。
0067人間七七四年
2007/09/02(日) 11:42:07ID:DIHZm4oy0068人間七七四年
2007/09/04(火) 06:04:37ID:nr4jcjBJ五奉行首座は浅野長政
0069人間七七四年
2007/09/04(火) 21:43:09ID:8ed/16zM豊臣家の組織は全くの未整備状態。
さまざまな案件に対して、
秀吉が適当な家臣に処理を命じる。
その取り纏め役になることが多かったのが
浅野、石田、前田、増田、長束。
役職としての五奉行なんてものは存在しなっかのでは。
0070人間七七四年
2007/09/04(火) 22:00:39ID:vM5W8KOFちゃんと名指しで五奉行制を定めてる
0071人間七七四年
2007/09/26(水) 20:56:16ID:TzqV0ahw0072人間七七四年
2007/10/18(木) 20:15:18ID:qb1DkAuw0073人間七七四年
2007/10/26(金) 05:00:36ID:wOqwDUft浅野と石田は不仲のようだが。
0074人間七七四年
2007/11/13(火) 21:36:59ID:O+C5scpH秀吉にも気に入られてたし、関ヶ原起こしたのも彼だし。
0076人間七七四年
2007/11/24(土) 16:09:55ID:VtKmLzbI0077人間七七四年
2007/11/25(日) 00:14:49ID:9rZsmhOy0078人間七七四年
2007/11/25(日) 00:22:56ID:KaGYqPAz特に石田治部とか石田治部とか
0079人間七七四年
2007/11/25(日) 01:16:46ID:gfxGNUuD石田を特筆する理由はなに?
0080人間七七四年
2007/11/25(日) 13:19:20ID:CvSVJtF/石田と浅野長政の不和はどうなんだろう?って話があるな
仲が良かったという確証もないみたいだが…
浅野は根っからの親家康に見えるけどそれはあくまで後世から見ての話で
見方によっては長政は秀吉の死の前も後も豊臣政権寄りだったと見ることが
できるって説を見たことあるが……なにで見たんだっけな。
0082人間七七四年
2007/11/25(日) 15:38:22ID:gfxGNUuDとにかく家康排除みたいな?
0083人間七七四年
2007/11/27(火) 12:34:21ID:A9M780cI江戸時代も大名として残ったから、親徳川って見られてるんだろうな。
でも、家康暗殺計画の謀議に加わったとして、蟄居されてる。
家康と組んで行った出来レースと言われてしまえば、仕方ないけど。
0084人間七七四年
2007/11/27(火) 16:14:04ID:c8Sj+2CG結局は家康を体制の中に置くか外に叩き出すか、って路線じゃね?
家康と決戦して勝てばいいけど、負ければその覇権を確立させるだけだし(実際そうなったし)
0085人間七七四年
2007/12/01(土) 01:03:30ID:XqA+cQJW石田と長束は一応子孫がいるが
前田と増田はどうなったんだ?
0086人間七七四年
2007/12/16(日) 17:58:49ID:oFwj4Ilu浅野は息子の長晟が家康の娘(蒲生の中古)を孕ませた功績で生き残った。
高齢出産で出産後すぐに家康の娘が亡くなり、母のいない光晟を家康や秀忠が
不憫に思っての家康の外孫としての御家存続らしい。
0087人間七七四年
2007/12/16(日) 18:19:45ID:HOCkeMPw長盛は息子が大阪の陣で反徳川に付いた責任を取らされ自決、子孫無し
0088人間七七四年
2007/12/16(日) 18:25:42ID:cr1kRGAH秀吉が奉行に任ずるだけあって素晴らしい政治家なんだろうけど
0089人間七七四年
2007/12/16(日) 18:29:40ID:FWrwbIuS0090人間七七四年
2007/12/22(土) 18:25:45ID:VAxvVwN+関ヶ原直前には12万石に加増されてる。
石高以外では細川と縁が深かったようだ。正室は本多忠勝の妹だった。
0091関連スレ
2008/01/27(日) 17:35:13ID:a37XKOiihttp://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1201266891/
0092人間七七四年
2008/01/28(月) 11:34:12ID:vn5TDXL0政治家ではなく官僚だな
0093人間七七四年
2008/02/01(金) 17:15:38ID:8uoEaftS0094人間七七四年
2008/02/01(金) 18:52:04ID:GL7NetgB五奉行ってそんな固定化された組織じゃ無いだろ。
たまたま5人が指導的地位にいたから五奉行って呼ばれただけで。
6人いりゃあ6奉行になってたさ。
0095人間七七四年
2008/02/02(土) 01:43:01ID:KBsupToY0098関連スレ
2008/03/07(金) 05:07:51ID:Mh/mIKiohttp://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1204538915/
0099人間七七四年
2008/03/07(金) 08:15:33ID:TeM248Zy実は、五大老が奉行
0100人間七七四年
2008/03/14(金) 05:57:07ID:GpPU97x3学校のテストで書くと×にされるけどねw
0101人間七七四年
2008/03/14(金) 07:05:26ID:9sarkgnc0103人間七七四年
2008/03/15(土) 05:54:37ID:iWiPITWB詳しく知らないから、分かる人が是非教えて欲しい。
石田:佐竹・津軽
浅野:
増田:長宗我部
長束:
前田:
0104人間七七四年
2008/03/15(土) 07:07:35ID:c6lL1kI/理由:自らの保身の為
0105人間七七四年
2008/03/15(土) 08:24:01ID:IhwcF1x0増田は里見
0106人間七七四年
2008/03/15(土) 08:42:53ID:OCTBeOQV0108人間七七四年
2008/03/15(土) 13:17:53ID:ZG2jz6Iu盛親を後継にきめたことは、後世、作家などが、いろいろ書いているが、実際は、
信親 ←信長が烏帽子親
香川親和 香川信景養子
津野親忠 津野氏は土佐七雄の名門で一条家重臣
と、それぞれ引きずるものがあったので、新たに豊臣政権下での外交力を高めるために、とくに考えて増田に近づいたと思われる。
元親が増田のことを高く買った理由は、単純である。
彼が非常に才能あふれた人物だったからだ。
増田は微禄から秀吉に仕えて、もとは槍働きで名をあげた。
小牧・長久手では先鋒をつとめて徳川軍と戦い、敵将の首二つをあげる殊勲をたてて二万石に増封されている。
その後も、九州征伐、肥後一揆鎮圧、小田原の役、朝鮮出兵、
とほとんどすべて秀吉の戦さにかかわった。
朝鮮の役では兵を率いて渡海して、実際に現地で戦いながら、兵站を調整する任務にあたった。
そのあたりは三成とは大きく違う点で、現場たたきあげの実務家であった。
もともとは勇武の人だったが、逆をいうと、そういう男は秀吉政権にはゴロゴロしていた。
途秀吉も増田の才能に気づき、途中からはもっぱら内政家として重用した。
増田の算学、経理の才は傑出していて、太閤検地は彼がいなければ成功しなかったといわれている。
外交官としても優れており、元親のほか、上杉景勝などを担当した。
また、小牧長久手で戦った家康からは、その武勇をほめられて、以後、昵懇となり、このことが関ヶ原の増田の動きに関係してくる。
いかに秀吉が増田を買っていたかは、大納言秀長の死後、
その領国の大和郡山に増田を入れたことからもわかる。
この時点での禄高は浅野長政とならぶ二十二万石であり、石田三成より上であった。浅野は豊臣家に親類ということを考えれば、別格扱いである。
ちなみに先の長宗我部との関係だが、サン・フェリペ号が土佐に漂着したさい、
秀吉は増田を土佐に派遣している。
元親と増田が仲がよかったことを知ってのことかもしれない。増田は土佐に一月ほど滞在して、この事件を調べた。これが後に、秀吉によるキリシタン追放につながる。
関ヶ原での増田の行動は、いいろいろといわれている。しかし、彼の行動が豊臣家を滅ぼし、徳川の天下に大いに益があったことは間違いない。
増田は功績は残るが、逸話が少ない人物で、性格もはっきりしない。
彼は主君の下で与えられた仕事には十分に力を発揮する。しかし、混迷した世を自らの才気で渡ることは苦手でたったのかもしれない。
素が槍働きで成り上がった武将であり、世の動きはさほど見えていなかったからかもしれない。そのあたり、福島正則とにている。
晩年は、家康にいいように使われて、豊臣家からも恨まれて自身も大いに悔いが残ったとおもわれる。
関ヶ原の後、領国を失った彼は、高野山に隠棲した。
子の増田盛次が大阪の陣で旧知の長宗我部隊に属して、藤堂家と戦った。
藤堂隊はこのたたかいで壊滅的な打撃をうけ、長盛はその責任をとらされて切腹させられた。長盛はこの時、怒りもみせず従容として腹を切ったという。
0109人間七七四年
2008/03/17(月) 23:34:00ID:OUyeWHhW0110人間七七四年
2008/03/24(月) 11:01:45ID:TH5lqETk石高が減って困窮する島津に貨幣経済について教えて
助けちゃったことがあるので仲がよかったらしい
0111人間七七四年
2008/03/24(月) 11:27:17ID:D1lN3RN10113人間七七四年
2008/03/24(月) 13:51:03ID:xRvNmTjZ0114人間七七四年
2008/04/17(木) 20:46:30ID:DNXP+q0j0115人間七七四年
2008/04/18(金) 01:17:34ID:rp4bMQ/yまあ、死んでからソッコー会いにいったわけで息子を笑えない可愛い性格だとおもた。
0116人間七七四年
2008/04/18(金) 01:18:42ID:QKv3Tt95中村一氏以外誰がいたのですか。
0117人間七七四年
2008/04/18(金) 01:38:00ID:QClUMXqjあまり機能してない
とくに堀尾は親家康でいろいろと策動してる
0118人間七七四年
2008/04/18(金) 11:49:48ID:lwRYWCAe実は、五大老が五奉行
0119人間七七四年
2008/04/18(金) 15:18:58ID:z33tMSQO0120人間七七四年
2008/04/24(木) 16:29:25ID:+oDuDNaW前述の増田とか経歴みるかぎりでは、三成と仲悪そうだが・・・
そのあたり書いている本とか、ほとんどみたことないけど
0122人間七七四年
2008/04/24(木) 16:50:59ID:+oDuDNaW0123人間七七四年
2008/04/24(木) 17:02:10ID:EMvr+m0w人事の部長や経理の部長をまとめて「五部長」て呼んでるようなもんだと思ってたんだが。
0124人間七七四年
2008/04/24(木) 22:51:33ID:lo7grrhUけっして分化されていたものじゃないんだよね。
堺屋はビジネス小説としておもしろいように
石田社長室長、長束経理部長、増田総務部長etcって感じに書いているけど、
すくなくとも東北の縄張りとかの当りまで、
三成と浅野が組んで検地とか、日常茶飯事。
全員総務、全員庶務、全員経理。
ミーティングや調整はその時一緒に仕事する相手としょっちゅう。
ちなみにその時の奉行は五奉行だけじゃなく、大谷、木村、富田などの面子も
五奉行と同格で入っている。
そいつらの中で最後に政争で秀吉側近に残れた5人(4人?)が五奉行と言われるだけであって。
0125人間七七四年
2008/04/25(金) 12:50:31ID:QJrHZor/小西行長、宮部継潤、富田一白、大谷吉継もくわえると、
9人ぐらいかな。
このメンツの関ヶ原の動静をまとめてみました。
ガチ西軍:
石田三成(西軍・関ヶ原)
小西行長(西軍・関ヶ原)
大谷吉継(西軍・関ヶ原)
長束正家(西軍・関ヶ原・南宮山)
ガチ東軍:
浅野長政
秀忠付きで関ヶ原に遅参
死亡:
富田一白
関ヶ原前年に死亡・子の知信は東軍として安濃津城に籠城
宮部継潤
関ヶ原前年に死亡・子の長房は初め東軍につくも、なぜか西軍に寝返った
裏切り者:
前田玄以
大坂在。表面上は西軍を装いつつも、家康に内通し、三成の内部情報を家康に流した。
戦後、その功績により、本領を安堵される。
謎:
増田長盛
秀吉死後は反家康勢力結集のために精力的に動き、三成とともに、
中心的な役割をした。大坂城に在勤。
秀吉死後、一時的に豊臣家の蔵入り地の管理を任され、
自領とあわせて120万石以上の兵力の権限をもったが、
関ヶ原には一兵も出さず、立花宗茂が島津義弘、毛利輝元らと増田の兵力をあてにして、
大坂城での籠城、あるいは再決戦を仕掛けようとしたときも、
増田は拒んでいる。
戦後、三成とともに関ヶ原の役の首謀者として所領を没収されたが、
大坂城での西軍の再結集を阻んだことを評価されて、高野山に蟄居させられた。
こんなものかな。
0126人間七七四年
2008/04/25(金) 14:29:44ID:4KeTkctH◇赤軍
シナ人 約2000〜3000名
シナ工作員 推定1000名くらい
青装束軍団(特殊工作員) 2〜6名
売国マスゴミ 推定200名くらい
売国左翼・売国日本人 推定数百名
朝鮮人 推定数百名
邪火ランナー(星野、有森、萩本等)
機動隊・警察・公安 2000〜3000名
◇我が軍
ネット連合(2ch、mixi、ブログ等)
穏健派・撮影部隊・通信部隊等 推定200〜300名
ネット連合 過激派(消火班、武装派、ウンコ・ギョーザ投てき) 推定100名
チベット・ウイグル・モンゴル・台湾人 数百名
国境無き記者団 約50名+ボス
新風 約50名
街宣右翼 約50名
仏教徒・仏教関係者・善光寺 推定数百名
反中日本人 推定数100名
欧米人・欧米マスコミ 推定数百名
一般マスコミ(産経・関西のテレビ等) 数十名
宇喜多勢 1名
^^^^^^^^^^^^
◇中立勢力
一般日本人 数千〜数万名 (←ここを味方につける必要あり!)
0128人間七七四年
2008/04/25(金) 17:04:51ID:QRlhKg7G長男が清正と組んでるのみてもそう思う
0129人間七七四年
2008/04/25(金) 17:15:16ID:aJKKNyfX0130人間七七四年
2008/04/25(金) 20:09:53ID:ZQ2Xadcf小西と加藤清正は奉行ではないけどね
0131人間七七四年
2008/04/25(金) 21:53:29ID:aJKKNyfX0132人間七七四年
2008/04/26(土) 02:33:37ID:d+Hb5Xdb家康とガチ友になった時点で、
半分裏切ったようなもんだけどな。
寺沢広高は長崎奉行。
小西、三成に非常に近い(実際関ヶ原前まで仲間のようなもん)だったけど、東軍。
0133人間七七四年
2008/04/26(土) 03:53:29ID:S71NeftZ0134人間七七四年
2008/04/29(火) 00:05:55ID:iXeahXTP寺沢正成(広高)は三成が清正や黒田長政に襲われた際に、三成の使者として
小西行長とともに毛利輝元のところへ使者に行っているし、朝鮮出兵時の動向などを
考えても小西や三成と近いんだよね。
まあ、家康の会津征伐に着いて行ったあと、なりゆきで(というか当然の流れとして)家康に味方した
という流れだと思う。
0135人間七七四年
2008/04/30(水) 10:32:15ID:P92fAce2豊臣政権の将来なんてどうでもいいと思っている連中だったんだから、
せめて五奉行は・・・って秀吉も期待しただろうし、
その期待を背負っての三成らの行動だったんだろうな。
一応、表向きは五奉行は全員で足並み揃えているようにみえる。
問題は三成が嫌われていたことかもな。
もし、関ヶ原で三成が勝っていたら、
本来並列の関係であった五奉行内で、あきらかに、
三成>(大谷・小西)>>長束>>増田>>前田>浅野
みたいな直列の序列ができそうだ。
三成嫌いには、それは耐えられないだろう。
だから、増田、前田、浅野はああーいう行動したんじゃないかと。
0137人間七七四年
2008/04/30(水) 10:40:42ID:njInD4Go積極的に裏切ったとは言えないし(家康の書状公開はいたかったけど)
東軍も何人か三成に内通していたんじゃないか?
当然その辺りの書状は闇に葬り去られているだろうけど。
0138人間七七四年
2008/04/30(水) 10:57:15ID:P92fAce2もしあなたが社会人なら、
好悪の情とか、しがらみとか、意地とか、全くなく、
ビジネスできていますかね?
社内人事とか、BtoBの取引とかでも、全くそれはないよ。
関ヶ原は、
そういう意地としがらみにがんじがらめの上で、さらに利害が選択に加わるから、
おもしろいんだとおもう。
0139人間七七四年
2008/04/30(水) 21:50:27ID:wnkdbInC突如出奔して夏の陣では豊臣方として戦死しているんだよね。何故だろうか。
0140人間七七四年
2008/04/30(水) 23:47:23ID:njInD4Go利害以外の思惑が強いのは宇喜田と福島と大谷位じゃね?
後は結局利の方が大きい。
三成嫌いなのは細川とかもだけど、この時点で領土もらって
人質も徳川に出している。この時点で利の方が上じゃねーか?
三成暗殺部隊作った黒田は関ヶ原の立役者の一人で
これも利の方が上。
好き嫌いもおもろいが、利でキッチリ釣った家康は見事だね。
0142人間七七四年
2008/05/01(木) 14:01:27ID:Fa+d4W4l0143人間七七四年
2008/05/02(金) 10:36:25ID:8ol5Rugjショボイ男ながら、関ヶ原では、キッチリ筋は通して死んでいったぞ。
0144人間七七四年
2008/05/02(金) 13:32:10ID:G02EFeUr0145人間七七四年
2008/05/02(金) 16:57:00ID:if752TRP利のがウェイトが大きいって主旨に0か100かの2元論で反論する馬鹿
利より情な社会人なんていますかね
0146人間七七四年
2008/05/03(土) 12:46:09ID:7ftq6jU8彼らの引退後に浅野と長束が代わった。
0147人間七七四年
2008/05/03(土) 21:05:31ID:+YykrdgA浅野が秀次事件で一時失脚してその二人が代理みたいにしてたような
0148人間七七四年
2008/05/03(土) 21:58:52ID:ElLeUr1F浅野の一時失脚時というよりはむしろ秀次に連座して切腹した
前野の穴を埋めるショートリリーフとして引っ張り出された感が強い。
奉行としての実務と言うよりは、格的に、
秀次派を粛清しても豊臣を支える古老はまだまだいるよ、と内外に示す感じで。
保守穏健派の長老の一人で、万時そつのない継潤はそういう役にはうってつけだろうね。
0149人間七七四年
2008/05/05(月) 01:55:20ID:srFrfVH80150人間七七四年
2008/05/07(水) 17:40:04ID:hdvoXY4T0151人間七七四年
2008/05/07(水) 22:23:24ID:EafbulEm0152人間七七四年
2008/05/08(木) 15:33:38ID:JggcDJ+5【川並衆】前野・蜂須賀を語るスレ
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1166443371/
0153人間七七四年
2008/07/21(月) 23:04:05ID:5vcWzvk40154人間七七四年
2008/07/22(火) 00:02:09ID:MKtq69Fr0155人間七七四年
2008/07/22(火) 07:30:11ID:e5NolHJoだから前野とかは消えた気がする
0156人間七七四年
2008/07/23(水) 11:38:06ID:B+psD/qs0157人間七七四年
2008/07/23(水) 20:19:55ID:a/We4+KA尾藤は縁戚の三成が約束守って敵の降伏兵とその城下の人間を助けたせいで
秀吉が「はぁ?おまえなに生真面目にやってんの?俺に逆らった奴は
すれ違っただけで皆殺しにしろよ」とつっこんで三成が「助けるって約束したのは
あんただろ。約束も守れねーで天下とる気かよ」と突っ込んだ腹いせに粛清
(三成はお気に入りだったので免れた代わり)
秀吉最悪だな
古参の臣を大事にしない時点でそりゃいざとなったら豊臣に味方する大名いなくなるわな
豊臣は滅びるべくして滅んだということだ
0158人間七七四年
2008/07/23(水) 20:24:23ID:CA8tTL46逆に「何で皆殺しに出来るのにしないの?」って、驚いただろうな。
0159人間七七四年
2008/07/23(水) 22:30:08ID:mv4CV0Mb0160人間七七四年
2008/07/23(水) 22:37:21ID:PUvwJ3Mfやーめたといって領土もなにもかも全部投げ出して隠遁だろうか
でもそれだけしても担ぎ出されると・・とか思われて刺客が追っかけてきそうな気もする
失踪して行方不明になるしかないのか?生き残り大変だね
0161人間七七四年
2008/07/23(水) 23:59:49ID:Go6QW1zi秀吉酷過ぎるよ…
0163人間七七四年
2008/07/24(木) 02:38:08ID:FxcDY2uV神子田もにたような感じだったはず。その一方で仙石さんは
あれだけの失敗をしてもあっさり復帰していたりするし、
秀吉ってかなり恣意的な処断を下す傾向があるような。
0164人間七七四年
2008/07/24(木) 05:10:16ID:hJtV/qn30165人間七七四年
2008/07/24(木) 09:24:16ID:z4YT8Ue3使えると思ってる時期は反乱すら許すし(後で復讐するけど。
ただし佐久間や林も問答無用で追放したのではなく隠居しろとか妥協策は提示している)
身内にもとことん甘いし(弟除く。捕虜になったり逆らった兄すら許す。子供にも甘い)
0166人間七七四年
2008/07/24(木) 09:54:17ID:tQ1RZCOW秀吉の残忍さは、子供が小さな虫や動物をいたぶるような、そう言う、独裁者特有の残忍さだな。
とにかく見せしめの処刑が大好き。既に浅井長政の嫡男への処刑の仕方あたりから、秀吉の、いざ強者になったときの
異常なサディズムがよく現れてる。
アレに比べりゃ信長の黄金髑髏なんて、可愛いものだ。
0167人間七七四年
2008/07/24(木) 10:24:40ID:XhbuI7dN文句言う人物を大切にしてる感じもするし
秀吉の場合諌言したら基本殺されるから(汗
0168人間七七四年
2008/07/27(日) 13:42:31ID:bxkD3ohp0170人間七七四年
2008/07/27(日) 23:42:13ID:zkwOWYx1えw
浅野とか、どんだけイエスマンなんだw
0171人間七七四年
2008/07/28(月) 13:58:33ID:7l9kuQoq同僚部下武将は秀吉の出世の過程で全て戦死か左遷。
あ、秀長除いての話ね。
これからも秀吉が決して人使いの良い人物ではなかったという理由になる。
結果、人材不足で徳川に反乱を起こされたw
0172人間七七四年
2008/09/02(火) 17:54:26ID:88e0ogX40173人間七七四年
2008/09/18(木) 22:11:19ID:x4c1oz4K0174人間七七四年
2008/11/02(日) 01:11:26ID:8Fd2Iwa20175人間七七四年
2008/11/03(月) 00:57:42ID:RKVg9yMB藤堂家に仕官していた旧石田三成家臣磯野右近の子供
0176人間七七四年
2008/11/03(月) 00:59:47ID:RKVg9yMB関ヶ原で三成が落ちるときに塩野、渡辺らとともに
最後までつき従い三成が解散命令出すまでずっと一緒にいた人物
0177人間七七四年
2008/11/03(月) 01:34:51ID:OOoqkaGN増田は右府に内通してたから、因果回るって感じだな。
0178人間七七四年
2009/01/17(土) 16:55:23ID:s9cyRCOf0179人間七七四年
2009/01/18(日) 04:51:48ID:Q2WEiDH50180人間七七四年
2009/03/06(金) 03:41:53ID:Q6F5VMCJ富田も五奉行に入ってたのか。他にもそういう人いない?
0181人間七七四年
2009/04/15(水) 17:35:41ID:L3WO1HgR0182人間七七四年
2009/04/15(水) 19:26:56ID:XB4PxH6R0183人間七七四年
2009/04/15(水) 19:34:53ID:N7PIbVCe0184人間七七四年
2009/04/15(水) 20:48:01ID:WanVXJVD0186人間七七四年
2009/07/28(火) 06:24:05ID:sJP5EL0R茂勝は頭がおかしくなったんだっけ?
0187名無しさん@そうだ選挙に行こう
2009/08/30(日) 09:50:44ID:DSusUEyE自分の小姓を斬ったりした
0188人間七七四年
2009/09/24(木) 20:50:08ID:Iw3VU0yk何だったんだろうなこの集団は
0189人間七七四年
2009/09/25(金) 20:36:16ID:KOAhpwmd増田の最期は結構印象的。
0191人間七七四年
2009/09/25(金) 23:30:27ID:QkwBKh8Bどこに好きになる要素があるんだろうか
0192人間七七四年
2009/09/26(土) 13:40:12ID:7drUkjqU0193人間七七四年
2009/09/26(土) 22:27:32ID:vw0n6sVE官僚(奉行)が大坂での実権を握ろうとして、
政治家(大名)に反旗を翻したが、大物政治家に敗北したみたいな
0194人間七七四年
2009/09/27(日) 03:47:00ID:xXiL2DUE戦国の世に、ほとんど脳みそだけで形の上では家康と五分まで持っていった凄まじい権勢。
0195人間七七四年
2009/09/27(日) 04:19:43ID:9G+b4TGD結局、大谷が懸念した通りだしね
結果として、家康の手の内で泳いでいただけだったと
0196人間七七四年
2009/09/27(日) 05:30:18ID:xXiL2DUE0198人間七七四年
2009/09/27(日) 08:39:35ID:9G+b4TGD形としてはギリギリだが、全て家康が前もって図面を幾つか用意していたからああなったんだろう
宇喜多を弱体化しておいたつもりが、明石の奮戦で戦況がかなり際どくなったのは予想外みたいだけど
しかし、そこは明石(ついでに秀家)を誉めるべきところ
0199人間七七四年
2009/09/27(日) 13:14:30ID:xXiL2DUE上方を離れた時点で誰がどっちにつくなんて全く分からんぞ?
関ヶ原で戦いましょうなんて約束をしてるわけでもない。
そもそも大阪城がバックにあって、しかも畿内をほぼ掌握されてるから
勝てるはずのない戦いで東軍側はほとんど一か八かの賭だよ。
0200人間七七四年
2009/09/28(月) 13:59:09ID:/Zw+L78A人の心を理解できない三成の戦采配は狸親爺に通用はしない
0201人間七七四年
2009/09/29(火) 05:26:30ID:E+npzo6e小早川に頼らざるを得ない戦況なのは家康も同じだろ
>>198
群を抜く実力者の家康がきっちりお膳立てして動いても
ギリギリのところまで持ち込まれたってことだ
あと予想外というなら西軍首脳が関ヶ原での戦を想定して
前もって要塞化していたというほうが重要
奮戦なら石田、島津、大谷、小西(とその家臣)も入る
0202人間七七四年
2009/09/29(火) 09:54:00ID:oJz6llJE0203人間七七四年
2009/09/30(水) 02:32:59ID:TPthXuCE豊臣家の家老が5奉行で、天下仕置の奉行が5大老ってことか?
0204人間七七四年
2009/10/04(日) 02:00:17ID:nYWnQD1I依存も何も、当初の予定とは違う場所に秀秋が布陣しただけ。
三成が置いていた門番の兵を押しのけて、山に登ったんだぞ。
0205人間七七四年
2009/11/11(水) 06:25:50ID:Ltf1mSfY確実に内通してたみたいだが、同じく内通してたと言われる前田の方はどうなんだ?
何か内通の根拠でもあるの?
0206人間七七四年
2009/11/11(水) 19:45:03ID:XuDPPsrW増田長盛については、「挙兵の二段階論」をどう考えるかによって
変わってくると思う。三成・吉継が謀議していると垂れ込んだのは
三奉行だったはずだけど、増田長盛ってこの後具体的な行動をとってたっけ?
三成と長政を除いた連中を三奉行といったりするけど、こいつらの間にも
かなり行動に温度差があるので、一概には言えないし難しい所だ
0207人間七七四年
2009/11/11(水) 19:56:40ID:zUg4q+ZV0208人間七七四年
2009/11/11(水) 20:43:39ID:rvejS339年長者で、太閤の縁者ってことだけ。
0209人間七七四年
2009/11/12(木) 00:12:21ID:Ta/2TkvG0210人間七七四年
2009/11/17(火) 14:34:55ID:zBXrve37http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1258436062/
旗揚げしました
0211人間七七四年
2009/12/05(土) 06:29:00ID:pvhdhJ85http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1251749444/
七本槍のスレもあったぞ
そういえば五大老のスレは無いのか
0212人間七七四年
2009/12/28(月) 17:53:06ID:HfK8FNJU0213人間七七四年
2010/01/07(木) 00:07:35ID:M2/j/azz0215人間七七四年
2010/05/26(水) 12:23:58ID:RfsLSF2W0216す
2010/05/26(水) 17:38:53ID:rBAakTK8福島とか黒田はタヌキにしょんべんチビって逃げ出したヘタレ
正面から向かって行ったのは三成だけだよ
0217人間七七四年
2010/05/26(水) 20:06:48ID:5BPzrD+7輝元「ええ!?俺!?」
0218人間七七四年
2010/07/09(金) 18:57:24ID:+UfbI2Ql桑田忠親「豊臣氏の五奉行制度に関する考察」(『史学雑誌』46巻9号、1935年)
山本博文「豊臣政権の『指南』について―浅野長政と伊達政宗―」(『論集きんせい』11号、1989年5月)
阿部勝則「豊臣五大老・五奉行についての一考察」(『史苑』49巻2号、1989年9月10日)
阿部勝則「豊臣政権の権力構造」(『武田氏研究』10号、1993年4月30日)
堀越祐一「豊臣「五大老」・「五奉行」についての再検討―その呼称に関して―」(『日本歴史』659号、2003年4月1日)
宮本義己「家康と秀吉―内府゛律義”の真相―(『大日光』69号、1999年2月26日)
小林厚太「豊臣氏五奉行について−特に発給文書の形成を中心に―」(『鴨台史学』7号、2007年3月31日)
堀越祐一「知行充行状にみる豊臣「五大老」の性格」(『國學院大學紀要』48巻、2010年2月14日)
0219人間七七四年
2010/07/16(金) 17:16:06ID:gCvSn8FI0220人間七七四年
2010/07/24(土) 09:12:42ID:4THR/NJ+先行研究がそんなにあるわけではないんですね。
0221人間七七四年
2010/07/24(土) 09:50:15ID:LSNmh8bwこれだけあって、一般向けの「五奉行」本が出てないのか?
0222人間七七四年
2010/07/28(水) 12:28:36ID:Cccm5IHw0223人間七七四年
2010/07/28(水) 21:06:46ID:XtfGZseH0224人間七七四年
2010/08/02(月) 09:30:42ID:zWgBuOLz0225人間七七四年
2010/09/17(金) 15:52:52ID:Ay4oN6MH0226人間七七四年
2010/09/18(土) 00:56:07ID:CobG+vZj0228人間七七四年
2010/09/18(土) 23:36:58ID:i7YDNBYb0229人間七七四年
2010/09/23(木) 20:42:51ID:Rk6YzjJt0230人間七七四年
2010/09/23(木) 20:49:23ID:Rk6YzjJt0231人間七七四年
2010/11/19(金) 20:19:55ID:38Mb8J7v0232人間七七四年
2010/11/24(水) 15:05:31ID:/h7VRkMC質問があるのですが…
秀吉が天正十三年に関白に就任した時
任命された諸大夫12人のメンバーを教えてください
石田三成、中村一氏、福島正則、大谷吉継、稲葉重通は解ったので
↑この五人で合っているのか?
あと残りの7人の名前を教えてください
豊臣政権で結構重要なメンバーらしいので
どうしても知りたいです
(秀吉関連ではここが一番まともスレらしいので…)
0233バロン曽志崎
2010/11/25(木) 01:24:07ID:5LhEZKaM生駒雅楽頭政勝(近規)、小野木縫殿助重勝(重次)、尼子宮内少輔晴久(ママ)、
柘植左京亮、津田大炊頭、古田兵部少輔重恒(重勝)、服部采女正(一忠)。
「歴名土代」で確認できるのは以下の10人。
平一氏(中村)、源吉継(大谷)、源宗澄(尼子カ)、平勝次、藤三成(石田)、
平重長、平正則(福島)、藤重執(稲葉)、藤近規(生駒)、平吉広
0234人間七七四年
2011/03/02(水) 14:57:41.28ID:a3gS/5Fr尼子宮内少輔晴久は誰の誤伝なんだろうw
修理大夫、民部少輔にしかなったことないのに。
0235人間七七四年
2011/08/24(水) 02:14:04.08ID:2MhNF9mWほんとこれ誰なんだろ
尼子さん。亀井あたりが尼子を名乗るかな(名乗らんような)
しかしムックとか中級者・初心者向けみたいな書籍には
信長軍団とか徳川軍団の本はよくみかける印象があるけど
秀吉軍団とか豊臣軍団みたいなのは見たことがないなあ。
御伽衆一覧とか、あっても良さそうじゃないの。
0236人間七七四年
2011/08/24(水) 06:58:51.44ID:IBn4qEBc大谷や寺沢?
0237人間七七四年
2011/08/25(木) 19:16:39.22ID:nKFk2AIQ0238人間七七四年
2011/09/01(木) 23:00:26.80ID:0KREKSDW秀吉政権においては重きをなしているイメージがあるなあ
下手すると後の五大老の上杉なぞより食い込んでいる感じがする
0239人間七七四年
2011/09/02(金) 02:41:43.05ID:DmRk64gg政権確立後の秀吉の課題は、絶対性の確立のためそういう織田勢力からも距離を取ること。
0240人間七七四年
2011/09/03(土) 21:38:41.19ID:8oUFCX3cなるほどね。そういう意味では蒲生と細川は
明暗を分けたというと言い過ぎかもしれんが
幽斎のつかず離れずの政治感覚はたいしたもんやね
0241人間七七四年
2011/09/04(日) 10:06:17.06ID:g+SdDX1i0243バロン曽志崎
2011/09/07(水) 14:47:15.28ID:RjTXnOsH富田左近(一白)
由己法眼(大村梅庵)
不干(佐久間信栄)
金森法印(長近)
有楽(織田長益)
休夢(小寺高友)
寺西筑後(正勝)
稲葉兵庫(重通)
猪子内匠(一時)
青木加賀右衛門(重直)
新庄駿河(直頼)
木下祐慶
山岡八郎左衛門(景友)
羽柴下総(滝川雄利)
生駒主殿(忠清)
樋口石見
岩井(祝)弥三郎
宗安(万代屋)
宗無(住吉屋)
宗薫(今井)
宗瓦(武野)
0244人間七七四年
2011/09/07(水) 15:29:53.42ID:c6xEgHF1新庄なんてまだ生きてたんだ
0245人間七七四年
2011/09/07(水) 22:21:47.61ID:B1lwBzn90246人間七七四年
2011/09/08(木) 17:37:04.19ID:Yn3tV0jI超GJ
これに未出の大物は善祥坊くらいか。
あとは(思いつくままだが)斯波、六角、京兆細川、山名、有馬あたりの旧大名系。
0247人間七七四年
2011/09/08(木) 17:38:21.43ID:Yn3tV0jIそういや幽斎の息子にも御伽衆がいたのでは。
如水と幽斎、やはりあなどれなかったんだな。
0248バロン曽志崎
2011/09/08(木) 21:15:40.79ID:KnsjlSw6「御遺物之事(形見分け)」の記事に見える「御咄の衆(御伽衆)」
織田常真(信雄)
織田有楽(長益)
織田民部少輔(信兼(包))
富田左近将監(一白)
宮部法印(継潤)
有馬中務卿法印(則頼)
桑山法印(重晴)
羽柴下総守(滝川雄利)
兌長老(西笑承兌)
古田織部正(重然)
寺西筑後守(正勝)
柘(植)大炊助
稲葉兵庫頭(重通)
新庄駿河守(直頼)
佐久間不干(信栄)
奥平牧庵(貞能)
中川宗半(光重)
住吉屋宗務?(無)
山岡道阿弥(景友)
前波半入(勝秀)
江雪(板部岡融成)
山名禅高(豊国)
0249人間七七四年
2011/09/09(金) 05:36:47.50ID:EZWzRPCI0251人間七七四年
2011/09/11(日) 14:00:48.27ID:ZeT7LxVp0252人間七七四年
2011/09/13(火) 02:08:13.49ID:+uO3+n+sそして五奉行は五年寄と呼ぶべき
0253人間七七四年
2011/09/14(水) 21:21:22.75ID:NwXKMjSn奉行に処せられないことが豊臣政権の脆弱性の証。
家康ちゃん奉行宜しく!なんて調子こいたら
いや家康どころか島津あたりでも黙ってない
0255人間七七四年
2011/09/17(土) 13:41:33.63ID:5y2cR0Gr五奉行は大老の事を奉行と言い、大老(家康)は五奉行の事を奉行と言った。
「年寄り」「お年寄り」というのは所謂「家老」の事であり、
お互いが自分達こそが豊臣家の家老であると主張し、
相手方を実務官僚であると言っていたって事だな。
秀吉は彼らの事を「五人の衆、五人の者」としか呼んでおらず、
「年寄り」と言ったというのは浅野の記録にしかない。
0256人間七七四年
2011/09/20(火) 05:07:08.62ID:0G58P5wH特に秀でているということもないが、大外しもしないしとか。
0257人間七七四年
2011/09/20(火) 12:30:51.01ID:cZ6UPRIg主要メンバーというべきだ。
0258人間七七四年
2011/09/20(火) 21:11:16.23ID:xwrE+kNE0259人間七七四年
2011/09/21(水) 02:25:43.13ID:N4YoDCu4秀長も長政も優秀だとおもうが、秀吉の縁故がもしなかったら
どれほどまで出世したんだろうね。
>>258
神子田、尾藤、前野‥‥‥最期がひどいな。
蜂須賀△
0260人間七七四年
2011/09/21(水) 14:12:14.27ID:FbT+FuP3> 秀長も長政も優秀だとおもうが、秀吉の縁故がもしなかったら
> どれほどまで出世したんだろうね。
それは意味のないIFだな。秀吉が信長に見出されなければどこまで出世したんだろうね、
というのと一緒。
0261人間七七四年
2011/09/21(水) 22:47:54.51ID:rz6KP1P9奉行になれたかなれないかはもちろん、
奉行職を全うすることもできなかっただろうな。
0262人間七七四年
2011/09/21(水) 23:16:04.80ID:s/9GPaO/「ご指南」である浅野に対してそんな事言ったら、
取り潰される可能性も十分にあるのに余程我慢できなかったんだろうが。
0264人間七七四年
2011/09/26(月) 01:01:58.19ID:EbqYfa7x浅野に対して十ヶ条の不満を言って、最後に、
浅野殿の所に参る事も、申し入れる事もしません。ご指南も頼みません。
なんだったら上様にこの事を言ってくれても結構です。
って言って以降絶交。
まぁ、秀次事件で連座させられる事を恐れて、縁を切っとこうと思ったんだろうけど、
与力の身でこれは結構危険な行為だね。まぁ、政宗らしいっちゃらしい。
0266人間七七四年
2011/09/26(月) 19:24:51.09ID:A4iSYbC+0267人間七七四年
2011/09/27(火) 22:01:28.91ID:UlNuNpfw0268人間七七四年
2011/10/17(月) 15:00:17.08ID:ZUYs4MMG政宗がビビり中々、出立せずに
浅野が政宗待ちしてたら
二人とも上洛が遅れた。
浅野が死刑にならんように
利家が全力擁護した時に
政宗待ちしてて遅れた話を秀吉にしたのを
又聞きした政宗が、
こりゃ死刑の浅野と口裏を合わせのために上洛が遅れたと言われるとやべえと政宗は思い
大借金させてもらってる利家にも
あまりに伊達に対して情がないと逆ギレし
浅野にデタラメな内容の絶縁状を送って自分は浅野なんて嫌いアピールしてから
たまたま秀吉の命で喚問にきた東国取次役の家康の使者に泣きついて家康に策を求めた。
そして泣いて土下座し、改易になる話を聞いた家臣が俺の言うことを無視して叛乱するって言い出して制御できないし、
殿は恥知らずになるくらいなら自決してよとか言われたけど、
まだ死にたく無いと言ってるのを聞いた秀吉が思わず笑って許した。
0269人間七七四年
2011/10/18(火) 03:54:49.97ID:76s+5c3Uなにげに政宗、読みが深いなあと感心w
0270人間七七四年
2011/10/29(土) 22:09:52.92ID:RIeVUlpb0272人間七七四年
2011/10/30(日) 14:47:17.35ID:RasUwBnp岡の上で佇んでいると、長束正家の気分になって来た。
0273人間七七四年
2011/10/30(日) 18:36:41.02ID:n7diOj+p某映画で一人悪役にされて割食ってたな
0274人間七七四年
2011/10/30(日) 19:24:49.52ID:0JdvfeNw又、下野担当の浅野長政は、下野宇都宮城主宇都宮下野守国綱に息子を養子にするよう強要したが断られた為!
年貢を過小評価して差し出したといちゃもんつけて廃絶。
0275人間七七四年
2011/10/30(日) 19:52:35.60ID:0JdvfeNw竹下派七奉行
0276人間七七四年
2011/10/30(日) 22:57:17.57ID:1s4I9p1m0277人間七七四年
2011/10/31(月) 01:08:44.58ID:DkKrtbWU0278人間七七四年
2011/10/31(月) 01:22:19.10ID:mWmpg3h/息子が大坂の陣で豊臣方に走った責めを受けて切腹だっけ?
0279人間七七四年
2011/10/31(月) 01:56:27.99ID:edKVHtMz0280人間七七四年
2011/10/31(月) 10:28:27.02ID:3okR8Tjd信じた家康は見事に騙された。
0281人間七七四年
2011/10/31(月) 17:19:42.95ID:npjyO3qz0282人間七七四年
2011/10/31(月) 20:39:41.33ID:778XWlH60283人間七七四年
2011/10/31(月) 20:46:12.24ID:npjyO3qz0284人間七七四年
2011/10/31(月) 21:26:08.40ID:778XWlH60285人間七七四年
2011/10/31(月) 23:11:46.08ID:DkKrtbWU0286人間七七四年
2011/10/31(月) 23:29:53.17ID:YlDum3zO0287人間七七四年
2011/10/31(月) 23:30:42.85ID:gStDyt9/どんどん独裁化していって秀吉が織田家を下克上したように秀頼を乗り越えたかもしれん
0288人間七七四年
2011/11/06(日) 12:21:17.56ID:uN1n6JeF0289人間七七四年
2011/11/10(木) 11:33:39.18ID:0H81N0o2政宗3度目の涙ながらの土下座であった…
0290人間七七四年
2011/11/11(金) 06:32:01.63ID:HG68HD45それよりさらに力をつけた毛利と上杉が豊臣家をないがしろにするかもしれんよ
0291人間七七四年
2011/11/11(金) 08:06:09.41ID:lEBiFSAy0292人間七七四年
2011/11/11(金) 10:50:07.88ID:ccvf/tog0293人間七七四年
2011/11/14(月) 00:07:12.15ID:hhclMCSL乱に負けるとあっさり斬首なのな。
まさに時代が一日で変わってしまったんだろうな。
0294人間七七四年
2011/11/14(月) 00:55:29.45ID:xdESZoxy江戸幕府は豊臣家を総攻撃して潰したのに。
0295人間七七四年
2011/11/14(月) 01:49:55.86ID:3P2txFFFその証拠に三成が糾弾した家康の婚姻問題は、前田利家との手討ちの時には和解条件にすら上がっていない。
利家すら大名間の婚姻許認可が家康にあったと認めているわけだ。
0296人間七七四年
2011/11/14(月) 12:30:02.04ID:XRiCTi7Q家康が難癖つけて奉行らの意向も無視して秀頼様を見放して会津へ行ったのだから
奉行らが内府たがい条(三成は署名してないからまったく関係ない)で糾弾するのは正当行為。
それに婚姻問題があったから家康と利家が会談したのだし「認めた」のでなく
表向きは三中老、裏では利家側清正・忠興・幸長らが戦争回避で話合い決着させるべく調停しただけ。
家康は伏見城を出て向島へ移住する譲歩を病身の利家は取り付け妥協。それ以後の前田の話は下記の通り。
413:人間七七四年 05/18(水) 15:21 WC6hhR0g
下記の出典ソースを探してるんだがわからんので教えてくれないか?家康による加賀征伐に対し
前田家は交戦派と回避派の二つに分かれ、初め交戦派であった利長は細川氏、宇喜多氏を通じて
豊臣家に対徳川の救援を求めた。しかし豊臣家がこれを断ったため
418:人間七七四年 05/22(日) 05:49 GtxX8I5W
>>初め交戦派であった利長
完全にウソ。そもそも利家から3年は大坂城から離れるなと遺命があったが
秀頼補佐の遺命を破棄して帰国した謀反人だったのが利長。
この役目放棄を「御運これ末か」と宿老筆頭の村井長頼や奥村永福らが嘆いてる。
家康の謀反者利長討伐宣言を宇喜多(一説に細川)から聞かされただけの話。
織田関連でwikiに書いてあるのはウソばっかりだから信じるな。
遺命に背いて秀頼を見捨てて領国に勝手に帰っておきながら秀頼を補佐していた
大老家康が討伐するって宣言すると豊臣に助けてなどと言い出したのが事実なら利長ってマジ基地害だな。
家康の勧めで帰国したと記述してるのは三壺聞書(三壺記)という加賀藩の足軽山田四郎右衛門が書いた覚書だけ。
前田家擁護の書にしか出てこないデタラメだから。明らかに利長が勝手に帰っただけ。
(家康の圧迫に耐えかねて帰ったと加賀藩の鳴鶴集には書いてある。実際ヘタレたのだろう)
黒田文書に書かれているのは大名達が次々と帰国したとは書いてるが大老が勝手に帰ってOK!なんて書いてないし
だからこそ景勝が「太閤様から帰国の許可を頂いていた」と反論していたわけだ。
しかし前田家が帰ってよいなどと許可は出していない。
だいたい利家は柴田を見捨てただけでなく親しかった秀次をまったく弁護せず死刑を放置
(その時期の利家は京にいて、家康は江戸にいた)
利長は姉妹の豪のダンナである秀家を見捨てるなど有軍を裏切って肥え太る術だけで加賀百万石を築いた天下一の泥棒大名。
ちなみに利家夫妻はお拾いと秀次娘の婚姻仲人に決められていたし
秀次が死んだ後、利家は秀次と親しかったこともあり秀次の伏見の邸宅を貰い、秀次の家臣の一部も併合してる。
しかも秀次が死んだ後に宇喜多と前田は常時在京してお拾いに奉公し自分勝手に領国へ帰国しない。
徳川と毛利の2家はいずれかが必ず在京する。この約定が決められており利長の帰国は謀反以外のなにものでもない。
前田がバカやった挙げ句に家康に土下座して人質出して屈したから家康は調子こいて上杉を恫喝した。
そもそも利家からして家康の約定破りを許して親しいアピールやって
五奉行から見事にハシゴを外す暴挙をやってるから親子揃ってヘタレ馬鹿。
愚主利長と違い次男は反家康だったからこいつを当主にすれば良かった。 実質、豊臣家を滅亡に追い込んだのは前田家
0297人間七七四年
2011/11/14(月) 16:28:39.62ID:prr/6Al00298人間七七四年
2011/11/14(月) 17:23:30.72ID:OmMjZ8Ll0299人間七七四年
2011/11/16(水) 17:17:53.26ID:BAOmLVTx利家は信長の下にいて
すべての決断を信長がやってくれてる時代は輝いてたのに
自分が決断する立場になるとビビり過ぎのタダの高利貸しドケチに落ちた。
0300人間七七四年
2011/11/19(土) 12:02:20.99ID:Z1ny/Hlw忘恩のドケチだろ。
信長が死んだのを知り
魚津から撤兵してた途中の
放生津でみんなで宴会して楽しんでるし、
(利長と信長の娘が安土城に向かっていたのも気にしない)
柴田から信長の仇討ちやるから兵出してってのも
利家は拒否し、どうしてもやりたいならちょっとだけ兵出すけど…とやる気無しぶりだし、
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから、
俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。
実は完全に信長が嫌いだったのが露呈してる。
0301人間七七四年
2011/11/19(土) 16:31:03.55ID:xW+Gw+6shttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1251596853/
【歴史の】徳川家康VS前田利家【IF】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1255967241/
五奉行と無関係だからよそで頼む
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