細川幽斎(藤孝)・忠興父子を語るスレ
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0001人間七七四年
2007/02/17(土) 21:24:53ID:kgpQVoWf幽斎の息子で激情家で知られる忠興を語りましょう。
0083人間七七四年
2007/03/09(金) 17:51:48ID:fQMpO7Fj忠隆の件については、幕府(家康)から干渉があったという話も。
細川家に、”前田家との親戚付き合いはやめろ”
前田家に、”忠隆の生活を支援するな”
おかげで忠隆は、金沢に入れず、前田家からは厄介者扱い。
妻とも離縁して後に京都に隠棲、生活費も細川氏が出していたそうです。
0084人間七七四年
2007/03/09(金) 19:22:38ID:BW+KahQdしかも彼は日本史B教科書の頻度数7なので名前が多色刷りになっている。
ちなみに長政の頻度数4に対して忠興と如水は頻度数3(長政の勝ち!)
0085人間七七四年
2007/03/09(金) 20:49:59ID:HqHAwU00良いキャラしてるなw
0086人間七七四年
2007/03/10(土) 23:17:25ID:d3Cvyzda「茶の湯を利休に学び、「利休七哲」の一人に挙げられています。
和歌や連歌、有職にすぐれ、能楽、絵画に通じた文化人でもありました。」
と紹介しているが、「和歌や〜」以降は幽斎と混同してるよな・・・
0087人間七七四年
2007/03/11(日) 22:21:22ID:1ZUSDoWF一応、当時の水準だと一流に入るんじゃ・・・。
藤孝には、「お前は対したこと無い」とかそんな意味のこと言われてた気がするけど。
その藤孝も、芸術家としての評価は低いと聞いたことがある。(作った歌は凡庸とか)
伝統の継承者として評価されるという感じですかね。
0088人間七七四年
2007/03/12(月) 20:17:25ID:aAZuYXHJいつの時代でも父親は息子に「お前は大したこと無い」って言うものだわな。
逆に褒めてたらそれはそれで気持ちが悪い。
0089人間七七四年
2007/03/12(月) 20:38:45ID:/vzO7BPTまあ彼の場合、優れているのが和歌だけでなく連歌・鞠・包丁(料理)・太鼓(鼓)だとか。
更に剣術は塚原卜伝に「一の太刀」を許され、あと弓術の印可も持ってたとか。
彼の多芸多才を表している話として九州の小領主が「私などとても多くの者は召抱えられないから
1人で和歌・連歌・乱舞・弓馬の道すべてに通じた人はいないだろうか?」と知り合いに相談したところ
相手は「そういう人を1人だけ知っている。細川幽斎どのだ。抱えたらどうだ?」とからかった
という話が松永貞徳の「戴恩記」にあるらしい。
0090人間七七四年
2007/03/12(月) 22:10:02ID:RWyTiqru藤孝は別に新しい歌風も技法を作ったわけじゃなからね。
木下長嘯子は江戸時代前期まで影響を与えた。
純粋な歌人としてみるならば、木下長嘯子の方が上じゃないか?
0091人間七七四年
2007/03/14(水) 22:12:50ID:4jGsecQk八条宮智仁親王→後水尾天皇と朝廷に受け継がれた(御所伝授)流れを
つくった功績は高いと思う。
0092人間七七四年
2007/03/22(木) 01:07:51ID:wEYRdW5d三淵家の始祖は足利義満の子供で養父の細川元常自身が元々父・晴員の弟だから
(叔父さんのとこに養子に行ったから)つまり細川家そのものの血は引いてなくても
足利家そのものの血は引いているということになる?
0093人間七七四年
2007/03/22(木) 11:37:48ID:Vk9+dICR落胤説は別にして
0094人間七七四年
2007/03/22(木) 13:16:55ID:65nq4dBO和泉半国守護を務める細川家の息子が三淵家へ養子へ
実家の細川家に跡継ぎがいないから、次男を細川家(晴員の兄)の養子にする
細川元常は藤孝の叔父ではなくて、伯父です。
この細川家はそれまで養子を取ってないと思う。まあずっと前の先祖は足利家だけど。
三淵家は系図・出自はあいまいなんじゃないの?
足利尊氏の子孫(義満の子孫でも合ってるけど)って話も聞いたことがあるような。
0095人間七七四年
2007/03/26(月) 00:17:25ID:C9q7llvcあと森可成も?
0096人間七七四年
2007/03/26(月) 11:51:30ID:xSbgs4TP>あと森可成も?
年齢的に合わないような。息子の長可か忠政?
長可も、領地美濃で信忠付きですよね?
接点あったかな?なにかエピソードありましたっけ?
0097人間七七四年
2007/03/26(月) 19:25:43ID:j4GwxNjP@秀吉死後、文治派が家康を討とうとした時忠興と共に家康の屋敷に駆けつけて
「両家の真心は徳川家が続く限り忘れない」と家康に感謝された。
A忠政が津山城を普請する時、家臣に命じて密かに小倉城の城郭図を写し取らせようとしたが
見つかってしまい捕らえられたが事情を話すと、以外にも忠興は城郭図を貸し与えた。
更に津山城落成の折にお祝いとして南蛮の釣鐘を贈っている。
−なんかの本で忠興の度量の大きさを伺わせる話(!)として紹介されてた。
0098人間七七四年
2007/03/26(月) 19:50:15ID:fKsN0AKB0099人間七七四年
2007/03/26(月) 20:01:32ID:mX/xB+Ak0101人間七七四年
2007/03/26(月) 20:05:00ID:QamoBqpT0102人間七七四年
2007/03/27(火) 01:19:02ID:4fYwgZvy腹を立ててその小姓の頭を叩いたのを信長に見られてしまい「忠政は幼いから小姓は無理だ」
と言われ家に帰されてしまったが結果としてはその後本能寺の変が起きたから命拾いしたことになるけど。
・・・こんなエピソードあるくらいだから暴慢な忠興とは気があったんだろうか?
0103人間七七四年
2007/03/27(火) 23:41:01ID:o/VcNPnzいやなコンビ(忠興&忠政)だなあ。共通の友人は心が落ち着かないでしょうね。w
Wikipedia見てきたけど、森忠政って石高はあまり大きくないけど、官位は高いんですね。
0104人間七七四年
2007/03/28(水) 13:51:38ID:S38JVPhV0105人間七七四年
2007/03/29(木) 00:22:54ID:p56CRnhj彼宛てにさかんに書状を出して助言を求めてますね。
ま、(忠興と違って)忠利はまともだし、実際丁寧アドバイスしてあげてたらしい。
0106人間七七四年
2007/03/29(木) 13:40:44ID:722Ebcoyhttp://osaka.yomiuri.co.jp/news/20070323p301.htm
0107人間七七四年
2007/04/01(日) 22:50:20ID:4Tn8Ld+B0108人間七七四年
2007/04/02(月) 00:05:20ID:GZLAIt5k幽斎の弟に嫁いだ娘だけは養女説があるが、基本的には全員麝香の子と言われている。
側室の存在も知る限り確認できないし。
ただ、そうなると麝香は四十過ぎでも子供を生んでいることになるんだよなぁ。幽斎夫婦がんばった?
0109人間七七四年
2007/04/03(火) 22:19:54ID:JYcGg7+U(如水は子ども少ないけど)
0110人間七七四年
2007/04/03(火) 22:28:04ID:lb8PJhwn遅レスだが、
俺も忠興はボダじゃないかと思ったことあるw
0111人間七七四年
2007/04/04(水) 00:18:24ID:ZjRXSaDpガラシャが興秋だか娘を入信させたときに、忠興の母親がめちゃくちゃ怒ったという話と、
豊前時代に、忠興の母親がキリスト教に入信して深く理解を示したという話があって
前者の話との整合性から、後者の女性は(記録したイエズス会側の誤解とか宣伝で)麝香じゃないのではって推測されたことがあったと思います。
後、興元が出奔した表向きの理由が、自分や松井康之と同じような石高で、実績もない弟達が処遇されるのが納得できないって理由なんで
実は弟二人は別腹ってことはないですかね?
3男幸隆だけ関が原でも留守番部隊だし。
興元も兄と似て結構尊大な性格っぽいので、本当に功績を認めていないだけかもしれないけど。
0112人間七七四年
2007/04/06(金) 14:53:55ID:MBvrtoPc最終的には大坂の陣で大坂方について忠興に切腹させられたし、
忠興の家族観は非常に現実的というか、政治>>家族の匂いのキツさがある
0113人間七七四年
2007/04/07(土) 03:12:32ID:P0b/rAAi麝香の方が忠興に内緒で、家康に執り成しを依頼していたそうだ。(松井家文書より)
0114人間七七四年
2007/04/07(土) 22:45:28ID:nUIYKzDhだったんでないの?
幽斎らしい深謀遠慮ってやつで、古今伝授をタテに篭城を切り抜ける勝算は
あったんでしょうから・・・。
0115人間七七四年
2007/04/10(火) 23:22:09ID:UswUh5IIだったら愛情少ないのかな?
0116人間七七四年
2007/04/12(木) 09:50:51ID:9rD1AuH5本能寺でパニくってる忠興と対照的な藤孝。
しかもこのオヤジの息子の扱い方がとても心得ているようで良かった。
オヤジに向かって殴りかかる忠興を軽く足払いで…
こりゃ、家臣は大変だったろうな(笑)
0117人間七七四年
2007/04/15(日) 11:41:34ID:nHIOjhkBよく紹介されてるけど幽斎が亡くなったのは1610年だし、幽斎は遺言により
南禅寺・天授庵に葬られてるし、これってあきらかに誤りですよね?
0118人間七七四年
2007/04/26(木) 20:52:03ID:E6u+UBy4と解釈していた。
単に供養をするためだけのお寺かと。
幽斎が亡くなる前に菩提寺を建てるってのもなんか変だなあとは思うけど。
忠興が張りきって建てたものの、幽斎は嫌がったとかw
0119人間七七四年
2007/04/30(月) 21:06:17ID:5CQr/adp名づけるはずだし、むしろ叔父の玉甫を住持として迎えるための塔頭として
建てたのに、いつの間にやら「幽斎の菩提を弔うため」と混同されたのでは?
0120人間七七四年
2007/04/30(月) 22:23:39ID:FKBPXboy0121人間七七四年
2007/05/02(水) 15:12:56ID:J4QfSY6/系図の出方とかが唐突で、すっげー読みづらかったよ・・・
あの本読んでも幽斎の人柄とかは今ひとつぴんとこなかったな・・・
0122人間七七四年
2007/05/02(水) 21:57:56ID:H3Mlk1PK(文庫本で読んだけどやたらと字が細かくて読みにくかったので
所々しか見てないな)
0123人間七七四年
2007/05/07(月) 19:59:00ID:STqSwvhS0124人間七七四年
2007/05/17(木) 11:22:09ID:b4M6ET46忠興に従って関ヶ原本戦へ参加した家臣ってどんな面子だったのでしょうか。
沼田延元と米田是季(親父は岐阜城で討ち死にしたけど)は確定ですよね?
松井・有吉はもちろん、主だった家臣はみんな田辺城詰めでしたし。
沢村大学あたりは本戦に参加したんじゃないかと想像しているのですが…
0125人間七七四年
2007/05/18(金) 21:47:34ID:GZWT4SQd松井・有吉は豊後木付城だよ。沢村大学は関ヶ原で合ってる。
0126人間七七四年
2007/05/18(金) 22:26:25ID:W4w0W2gt新人物往来社の戦国細川一族(戸田敏夫著)に結構細かく載ってましたよ。
関が原時の細川家の戦い(岐阜・関が原、田辺、九州)での具体的な内容。
例えば、田辺だと、参加した侍の名前や元の身分(元はどこの城にいたとか、浪人とか)誰がどの守備位置を担当したか、
実際の戦闘では、誰と誰がどの辺で戦ったとかそういう感じで載ってます。
図が載っているわけじゃないけど、参加した人名ならかなりわかると思います。
古い本なんで書店には無いと思いますが、図書館などで探してみては?
0127人間七七四年
2007/05/19(土) 08:07:24ID:cCR/LBB0記事<田辺城篭城衆>に詳しく載ってます。それから岐阜・関が原等で活躍した
家臣については<新・肥後細川藩侍帳>の備考欄に特記されてます。
0128124
2007/05/20(日) 08:07:56ID:ILIjETll実は細川家を題材にした作品を企画していまして。
思いきって質問してみて良かったです。教えていただいた資料など参考にさせていただきます。
0129人間七七四年
2007/05/20(日) 20:48:02ID:7nqzpc0M飛び地を貰った経緯について、詳しい人いますか?
0130人間七七四年
2007/05/21(月) 22:49:16ID:jpwRcquz大友義統が配流されて空き地になっていたため。
文禄4年に検地功労の褒美として幽斎に大隅国・肝属郡内で3000石
加増されてるのも関係してるかも・・・
0131人間七七四年
2007/05/22(火) 14:25:55ID:HlBg2oxhつめたのはガラシァの夫だったからと思う
春日局、天海の線からの口添えがあったのか、それには天海が明智という
妄想が必要だが
0132人間七七四年
2007/05/22(火) 21:28:51ID:QDlC7bn7忠利も幕府中枢部に親しい人物を作って、公式ルート以外からも情報収集をしたりしている。
関が原以降、江戸にしばらくいたのも、人脈作りにプラスじゃないか?
そういう細かい努力の積み重ねが、家を存続できた理由だと思うけど?
別に天海=光秀説なんて出さなくても。
0133人間七七四年
2007/05/22(火) 23:06:22ID:ouF013XV0134人間七七四年
2007/05/22(火) 23:10:07ID:4t/I+NRq血縁的にも春日局の父・齊藤利三は光秀の妹が母にあたることから(光秀の孫である)忠利に対して好意的だった。
実際細川家には、忠利宛の春日局からの書簡が5通ほど残っており、それによればいろいろと便宜図ってくれてたらしい。
そういった天運も確実に利用しながらそれに甘えず(132さんのご指摘のとおり)常に細心の注意を払いつつ努力も怠らなかったことが
大きかったのでは?
0135人間七七四年
2007/05/30(水) 21:43:06ID:eGbOrPprであった一方で、千利休の最も重要な門人「利休七哲」のひとりでもあり、逆臣の娘とい
う汚名をきせられた夫人の明智玉を終生かばい通した繊細な人柄でも知られています。」
とあった。(笑)
うーん、美化して書くとこうなるんですな。(主催者側としてはご先祖を悪くは書けないしね)
0137人間七七四年
2007/06/07(木) 23:51:11ID:Tzre4KzJ0138人間七七四年
2007/06/10(日) 18:21:58ID:HuyVyLPe別の資料だと山崎の合戦に秀吉方として出陣し天王山において軍功をあげたとある。
0139人間七七四年
2007/06/11(月) 02:36:54ID:7wW5glt+明智の頼みも坊主にして断りやがるし
0140人間七七四年
2007/06/11(月) 11:35:36ID:F4F1uFD6ガラシャへは、ずっと不器用だったと思う
0141人間七七四年
2007/06/11(月) 20:30:38ID:H+cFeY4v千利休の最も重要な門人「利休七哲」のひとりでもあり、
逆臣の娘という汚名をきせられた夫人の明智玉を終生軟禁した病的な人柄でも知られています。」
0142人間七七四年
2007/06/11(月) 20:44:23ID:5C71WZi+させるよう留守居に言い置いてるのにね。)
しかも妻自刃の事実を上手く利用してのし上がったって感じだし長生きしたのもムカつく。
ところでガラシャの血筋が短命なのは信長or忠興の呪いか?
(娘2人は20代で死亡、興秋は33で切腹させられ、忠利は島原の乱で
命縮めて忠興より先に逝くし、息子の光尚も31で死んじゃうし、後に
忠利(ガラシャ)の血統は絶えて現在まで続いてる本家は側室の系統だしね。
(かろうじて長男の血筋は残ってますが・・・)
0143人間七七四年
2007/06/12(火) 01:57:20ID:2KrO610e>別の資料だと山崎の合戦に秀吉方として出陣し天王山において軍功をあげたとある。
後世の創作っぽいな。
秀吉から働きを褒められ丹後を正式に安堵されたのは、かなり後になってからの筈だし。
0144人間七七四年
2007/06/12(火) 23:31:39ID:+4bMfCJPあと「大名細川家−文と武の軌跡」展では「細川藤孝・忠興は、光秀とは長年の
入魂、義父子の関係にありながらも誘道に応じずむしろ主君織田信長の弔い
合戦として丹波に攻め入る一方で、備中高松在陣中の秀吉に、信長生害の経緯
を知らせた。秀吉は細川父子の「比類なき覚悟」を謝し、細川家の安泰と、
更なる入魂を約したのである」と解説されてました。
0145人間七七四年
2007/06/13(水) 01:08:52ID:1dv3WSEx忠興はガラシャを他人に見せない、触らせないというほど愛していた?わけで。だから屋敷から逃げる無様な姿を他人に見せるくらいなら殺したほうがマシというわけ。決して忠興はガラシャを見捨てたわけではない。長文失礼しました
0146人間七七四年
2007/06/13(水) 01:12:39ID:1dv3WSEx0148人間七七四年
2007/06/13(水) 09:59:16ID:6HSed2Nw玉自身が、謀反人の娘ということで人前に出るのをいやがったという説もある。
関が原の話でいえば、一応家臣は丹後に落ちるよう薦めて、玉自身が断っているから
忠興が強制的に閉じ込めていたというのはおかしい。
本当に逃げていたら、命令違反ってことで小笠原少斎とかぬッ殺されていたろうなー、忠興の性格からいって。
0149人間七七四年
2007/06/13(水) 11:32:38ID:tVi8zO5Q(世間的には離縁しようにみせて)山里に隔離した。
秀吉の許しがあったにせよ、正室として再度迎えた訳だし
その後、忠興は玉に何人も子供を産ませてる。
家督を継がせようとしたのも当初は成人した長男だったし
後には、幽閉後に二人の間に生まれた三男の忠利が継いだ。
玉の死後には多くの側室に子供を産ませはしたが、正室は最期まで迎えなかったし
忠興自身、自分の生涯の中での「妻」という存在は、玉ただひとりだったような気がする。
玉ひとりだったのだと思う。
0150人間七七四年
2007/06/17(日) 23:53:32ID:un7rMeJvいうのを何かの本で読んだことあるんですけど。この説の信憑性は?
0151人間七七四年
2007/06/18(月) 00:23:19ID:bUsMos+D(曖昧な記憶だが、木下氏の系図に書いてあるという
中公新書の『北政所』みたら出典の詳しい説明があったはず)
一方、
京極氏−嫁→若狭武田氏−人質に取られる→朝倉氏−世話→足利氏−部下→細川氏
という関係があるので、全く縁がないわけではないが、
京極竜子の娘が細川まで流れ着く可能性は限りなく低いように思われるが。
なんかその当時の史料の裏付けでもあるんだろうか。
0152人間七七四年
2007/06/18(月) 01:02:15ID:Gj3GumPX忠興に引き取られ、お玉自刃当時大阪・玉造の屋敷にいたつうことで
一応接点があるにはあるけど。
ちなみにお玉に和歌を教えたのはこの人だそうです。
0154人間七七四年
2007/06/21(木) 01:58:19ID:zkKbJnag最初この人に34〜35回参禅してたそうで忠興は「大徳寺のよりは気楽なものだ」
と言ってたらしい。忠興は、いとこにあたるこの英甫とは気が合ってたらしく
狂歌の遣り取りを頻繁にしてる。(幽斎に対抗して狂歌で頑張った?)
0155人間七七四年
2007/06/24(日) 21:50:16ID:hZFSie3R松井興長に嫁いだこの娘だそうで、なんでも宿下がりしてた侍女が戻って来た時
興長と密会してたことを暴き出しその侍女を焼けた火鉢で刺し殺してしまった
とか・・・。
0156人間七七四年
2007/06/24(日) 22:36:27ID:DxaaEBS80157人間七七四年
2007/06/24(日) 23:15:37ID:hZFSie3R火鉢に刺さってた焼けた「火箸」で何度も刺して(残酷)
ついには殺してしまったそうです。
0158人間七七四年
2007/06/27(水) 19:55:41ID:LOhX07eH0159人間七七四年
2007/06/27(水) 22:10:59ID:UeZeLmAQ0160人間七七四年
2007/06/28(木) 07:56:30ID:Rhm5w9XB0161人間七七四年
2007/06/28(木) 11:41:35ID:rBjhed5Z>なにしろ生涯手討ち36人ですから。(妹の夫も切り殺してますし・・・)
そして、実家に帰った妹に切り掛かられると。どんだけDQNな血筋やねん。w
一色氏粛清は、本能寺後(明智に付こうとしたという名目)なんですよね。
細川氏が実は、明智と羽柴を両天秤掛けていたってことなのかなあ。
0162人間七七四年
2007/07/01(日) 16:44:14ID:PTMaOUbk築城の名手という事で興味を引かれたんですが、戦いにも参加していたんでしょうか?
0163人間七七四年
2007/07/01(日) 19:13:38ID:FIErDOJT0164人間七七四年
2007/07/02(月) 00:56:36ID:JXRKp4tR関が原前?だとしたら高台院の側に立つため?
0165人間七七四年
2007/07/06(金) 18:07:42ID:iIz2HyAP0166人間七七四年
2007/07/06(金) 22:20:08ID:HjID2ML+Wikipediaの木下延俊の項には、関が原で、義兄の忠興との関係から東軍に付いたってありますから、
関が原前なのでは?
0167人間七七四年
2007/07/07(土) 21:56:57ID:SuOMXmHT(36歌仙にひっかけて)と号したそうだ。(やっぱDQNじゃ)
0169人間七七四年
2007/07/08(日) 20:24:46ID:alYCUcL9「希首坐拵え」は大徳寺の希首坐の僧の無礼を咎めて殺害したのが由来。
(この僧は謀殺した一色義有の遺児だったとも言われてる)
「晴思剣」は忠興が茶坊主への積年の恨みを果して気分がすっきりしたことに由来。
0170人間七七四年
2007/07/10(火) 15:50:15ID:X8HrJjOa0171人間七七四年
2007/07/11(水) 00:30:26ID:lPC+tmtBという話だが、ホントかね?(だとしたらその側女どもが産んだ子がわんさか
いそうだが・・・)
0172宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/07/11(水) 13:19:29ID:YFwHXhzE0173人間七七四年
2007/07/14(土) 01:01:14ID:D+urTMfXルイス・フロイスの手紙より
0176人間七七四年
2007/07/15(日) 01:51:30ID:mI+/IfJh0177人間七七四年
2007/07/15(日) 03:17:11ID:BkF0WjlXしかし、残されてる逸話といい、キチガイじみた人物だったのは
確か。なんせ「天下一気の短い人」と評されたくらいだからな。
で、そのくせ晩年「波にもまれて石が丸くなる、人間も同じ」
というような歌を詠んでいるがwww
>>171
オルガンチノが主催したガラシャの教会葬に参列してひとしきり泣き、
その後は多少キリスト教に対して寛容になったらしい。
0178人間七七四年
2007/07/15(日) 20:19:46ID:SB2baB7A返答じゃ無いっけ?
にしてもよくこんな短気なオッサンから逃げようと思わなかったな
ガラシャも。幽閉されたときこっそり逃げちゃえば良かったのに。
0179人間七七四年
2007/07/15(日) 21:34:13ID:nQYeEaG00180人間七七四年
2007/07/15(日) 22:22:53ID:g2JefKnKそれをしなかったということは、あのころのガラシャはあんな変態な香具師が良かったんだろうか。
うーーーーーーーーーーむ。謎だ。
0181人間七七四年
2007/07/15(日) 23:09:23ID:fa9axV8U幽閉され三戸野で興秋を出産したし、乳飲み子見捨てて自害は忍びなかったんじゃないの?
更に、幽閉後生んだ光(忠利)がえらい病弱で付っきりで看病してたらしいからなおさら
見捨てられずそのままずるずるいっちゃったのでは?
(珠が入信したのは光の病弱も原因の一つだったらしい)
0182人間七七四年
2007/07/16(月) 04:50:53ID:m5Gy9ckGどっちにせよ、この男にそんな事言われても全く説得力はないがw
ただ、このサイトを見ると、案外忠興も寛容だったところもあるらしい。
ttp://www.tamahime.jp/text/faq/
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