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細川幽斎(藤孝)・忠興父子を語るスレ

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0001人間七七四年2007/02/17(土) 21:24:53ID:kgpQVoWf
戦国時代を代表する文化人幽斎と
幽斎の息子で激情家で知られる忠興を語りましょう。
0074人間七七四年2007/03/07(水) 22:33:35ID:RvnqUoAE
>>72のいきさつを含めて稲富を主人公に描いてる小説が「火の縄」(松本清張 著)で、
ガラシャに対する異常さは勿論、侍女を折檻したり稲富を執拗に奉公構えする忠興の変態っぷりがよく描かれている。
そんな忠興に対して一歩引いてる感じの幽斎、夫より幽斎を慕うガラシャという設定で結構笑える。
0075人間七七四年2007/03/07(水) 22:58:26ID:RvnqUoAE
>>73 幽斎と如水は一緒に連歌会開いたりして結構仲良くやってたのにね
0076人間七七四年2007/03/07(水) 23:08:33ID:A1MfJpbN
>>75
関が原までは仲悪くないんですよね。
忠興も、豊後の留守部隊には、豊前の黒田官兵衛と肥後の加藤清正を頼れって指示しているし、
実際に大友義統と戦ったときは、黒田勢が主力として戦っている。
(清正は応援に出兵したけど間に合わなかった)

黒田長政も、短気な性格だったようなエピソードが結構残っているし、
支城の配置は全部細川との国境沿い、喧嘩する気まんまんですね。w
0077人間七七四年2007/03/08(木) 18:01:49ID:DAJPK/pd
武断派の連中はこれだから困る
0078人間七七四年2007/03/08(木) 23:23:20ID:dyGSBXXg
藤堂高虎や金地院崇伝とも交友(政治的なつながりで)あったし
長政より更に腹黒で、限りなく黒い関係・・・
0079人間七七四年2007/03/08(木) 23:35:14ID:dyGSBXXg
忠興は「日本史B用語集」(山川出版社)ではキリシタン大名の項に
黒田如水・黒田長政に続いて(笑)なぜか載っている!
説明文は「信長・秀吉に仕え、関が原の戦い後、豊前小倉39万石を領した。
夫人は明智光秀の娘ガラシャ。」となっている。
妻が有名なキリシタンだから載せたのか?
0080人間七七四年2007/03/08(木) 23:48:04ID:cc68Lr0z
>>79
豊前時代に、ガラシャ追悼のため、キリスト教関連の行事を行って、宣教師の説教も聴いているからでは?
信仰はしなかったけど、教えの内容は理解しているとか宣教師が評価していたような。

まあ、キリシタン大名には入らないと思うけど。
0081人間七七四年2007/03/09(金) 01:20:39ID:M3ViE/UH
忠興載せるくらいなら高山右近載せろよ。
0082人間七七四年2007/03/09(金) 01:55:33ID:4Rj7IgY4
又兵衛の件では幕府の仲裁が入ってようやくおさまったそうだから
かなり凄かったんだろうな<黒田vs細川

あとは加賀前田家とも長男の件で百年ほど絶縁状態だったとか
0083人間七七四年2007/03/09(金) 17:51:48ID:fQMpO7Fj
>>82
忠隆の件については、幕府(家康)から干渉があったという話も。
細川家に、”前田家との親戚付き合いはやめろ”
前田家に、”忠隆の生活を支援するな”

おかげで忠隆は、金沢に入れず、前田家からは厄介者扱い。
妻とも離縁して後に京都に隠棲、生活費も細川氏が出していたそうです。
0084人間七七四年2007/03/09(金) 19:22:38ID:BW+KahQd
>>81 高山右近は忠興の次に載ってますのでご安心を。
しかも彼は日本史B教科書の頻度数7なので名前が多色刷りになっている。
ちなみに長政の頻度数4に対して忠興と如水は頻度数3(長政の勝ち!)
0085人間七七四年2007/03/09(金) 20:49:59ID:HqHAwU00
知れば知るほど




良いキャラしてるなw
0086人間七七四年2007/03/10(土) 23:17:25ID:d3Cvyzda
淡交(月刊茶道誌)の記事「茶人の筆跡」今月号では忠興が取り上げられてるけど
「茶の湯を利休に学び、「利休七哲」の一人に挙げられています。
和歌や連歌、有職にすぐれ、能楽、絵画に通じた文化人でもありました。」
と紹介しているが、「和歌や〜」以降は幽斎と混同してるよな・・・
0087人間七七四年2007/03/11(日) 22:21:22ID:1ZUSDoWF
>>86
一応、当時の水準だと一流に入るんじゃ・・・。
藤孝には、「お前は対したこと無い」とかそんな意味のこと言われてた気がするけど。

その藤孝も、芸術家としての評価は低いと聞いたことがある。(作った歌は凡庸とか)
伝統の継承者として評価されるという感じですかね。
0088人間七七四年2007/03/12(月) 20:17:25ID:aAZuYXHJ
>>87
いつの時代でも父親は息子に「お前は大したこと無い」って言うものだわな。
逆に褒めてたらそれはそれで気持ちが悪い。
0089人間七七四年2007/03/12(月) 20:38:45ID:/vzO7BPT
歌詠みの才に限って言えば「木下長嘯子の方が上。」と何かの本で読んだことある。
まあ彼の場合、優れているのが和歌だけでなく連歌・鞠・包丁(料理)・太鼓(鼓)だとか。
更に剣術は塚原卜伝に「一の太刀」を許され、あと弓術の印可も持ってたとか。
彼の多芸多才を表している話として九州の小領主が「私などとても多くの者は召抱えられないから
1人で和歌・連歌・乱舞・弓馬の道すべてに通じた人はいないだろうか?」と知り合いに相談したところ
相手は「そういう人を1人だけ知っている。細川幽斎どのだ。抱えたらどうだ?」とからかった
という話が松永貞徳の「戴恩記」にあるらしい。
0090人間七七四年2007/03/12(月) 22:10:02ID:RWyTiqru
>>89
藤孝は別に新しい歌風も技法を作ったわけじゃなからね。
木下長嘯子は江戸時代前期まで影響を与えた。

純粋な歌人としてみるならば、木下長嘯子の方が上じゃないか?
0091人間七七四年2007/03/14(水) 22:12:50ID:4jGsecQk
歌道を次世代に伝えた役割の点では、
八条宮智仁親王→後水尾天皇と朝廷に受け継がれた(御所伝授)流れを
つくった功績は高いと思う。
0092人間七七四年2007/03/22(木) 01:07:51ID:wEYRdW5d
複雑すぎてよくわからん → 幽斎は三淵家から細川家に養子に入ったわけだけど
三淵家の始祖は足利義満の子供で養父の細川元常自身が元々父・晴員の弟だから
(叔父さんのとこに養子に行ったから)つまり細川家そのものの血は引いてなくても
足利家そのものの血は引いているということになる?
0093人間七七四年2007/03/22(木) 11:37:48ID:Vk9+dICR
いや普通に上守護家の血ひいてるでしょ
落胤説は別にして
0094人間七七四年2007/03/22(木) 13:16:55ID:65nq4dBO
>>92
和泉半国守護を務める細川家の息子が三淵家へ養子へ
実家の細川家に跡継ぎがいないから、次男を細川家(晴員の兄)の養子にする

細川元常は藤孝の叔父ではなくて、伯父です。
この細川家はそれまで養子を取ってないと思う。まあずっと前の先祖は足利家だけど。

三淵家は系図・出自はあいまいなんじゃないの?
足利尊氏の子孫(義満の子孫でも合ってるけど)って話も聞いたことがあるような。

0095人間七七四年2007/03/26(月) 00:17:25ID:C9q7llvc
忠興と仲よかったのは、蒲生氏郷・高山右近・前田利長・・
あと森可成も?
0096人間七七四年2007/03/26(月) 11:51:30ID:xSbgs4TP
>>95
>あと森可成も?
年齢的に合わないような。息子の長可か忠政?
長可も、領地美濃で信忠付きですよね?

接点あったかな?なにかエピソードありましたっけ?
0097人間七七四年2007/03/26(月) 19:25:43ID:j4GwxNjP
失礼、息子の森忠政でした。接点としては・・・
@秀吉死後、文治派が家康を討とうとした時忠興と共に家康の屋敷に駆けつけて
「両家の真心は徳川家が続く限り忘れない」と家康に感謝された。
A忠政が津山城を普請する時、家臣に命じて密かに小倉城の城郭図を写し取らせようとしたが
見つかってしまい捕らえられたが事情を話すと、以外にも忠興は城郭図を貸し与えた。
更に津山城落成の折にお祝いとして南蛮の釣鐘を贈っている。
−なんかの本で忠興の度量の大きさを伺わせる話(!)として紹介されてた。
0098人間七七四年2007/03/26(月) 19:50:15ID:fKsN0AKB
同じ信忠から偏諱を受けた同士、仲が良かったんだろうね。
0099人間七七四年2007/03/26(月) 20:01:32ID:mX/xB+Ak
まぁ、松井佐渡守ですよ・・・実際はですね。
0100人間七七四年2007/03/26(月) 20:03:29ID:ZqRkc3+7
>>97それの二番ってどうみても忠政の器の大きさを表すやつだよな。
0101人間七七四年2007/03/26(月) 20:05:00ID:QamoBqpT
100
0102人間七七四年2007/03/27(火) 01:19:02ID:4fYwgZvy
忠政は13歳の時信長の小姓として出仕したはいいけど、先輩小姓にからかわれたのに
腹を立ててその小姓の頭を叩いたのを信長に見られてしまい「忠政は幼いから小姓は無理だ」
と言われ家に帰されてしまったが結果としてはその後本能寺の変が起きたから命拾いしたことになるけど。
・・・こんなエピソードあるくらいだから暴慢な忠興とは気があったんだろうか?

0103人間七七四年2007/03/27(火) 23:41:01ID:o/VcNPnz
>>102
いやなコンビ(忠興&忠政)だなあ。共通の友人は心が落ち着かないでしょうね。w

Wikipedia見てきたけど、森忠政って石高はあまり大きくないけど、官位は高いんですね。
0104人間七七四年2007/03/28(水) 13:51:38ID:S38JVPhV
きっと二人でつるんで「地元じゃ負け知らず」とか恥ずかしいセリフを吐きまくってるんだろう。
0105人間七七四年2007/03/29(木) 00:22:54ID:p56CRnhj
親父同士が仲良かったからか、息子世代になると森長継は大名の行動指針を細川忠利に学ぼうとして
彼宛てにさかんに書状を出して助言を求めてますね。
ま、(忠興と違って)忠利はまともだし、実際丁寧アドバイスしてあげてたらしい。
0106人間七七四年2007/03/29(木) 13:40:44ID:722Ebcoy
大阪城の石垣に九州産、小倉藩主・細川忠興が運ぶ
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20070323p301.htm
0107人間七七四年2007/04/01(日) 22:50:20ID:4Tn8Ld+B
幽斎の息子や娘たち(8人)って、全員麝香の方との子供?
0108人間七七四年2007/04/02(月) 00:05:20ID:GZLAIt5k
>107
幽斎の弟に嫁いだ娘だけは養女説があるが、基本的には全員麝香の子と言われている。
側室の存在も知る限り確認できないし。
ただ、そうなると麝香は四十過ぎでも子供を生んでいることになるんだよなぁ。幽斎夫婦がんばった?
0109人間七七四年2007/04/03(火) 22:19:54ID:JYcGg7+U
じゃあ如水と一緒で側室いなかった珍しいタイプか。
(如水は子ども少ないけど)
0110人間七七四年2007/04/03(火) 22:28:04ID:lb8PJhwn
>>63

遅レスだが、
俺も忠興はボダじゃないかと思ったことあるw
0111人間七七四年2007/04/04(水) 00:18:24ID:ZjRXSaDp
>>108
ガラシャが興秋だか娘を入信させたときに、忠興の母親がめちゃくちゃ怒ったという話と、
豊前時代に、忠興の母親がキリスト教に入信して深く理解を示したという話があって
前者の話との整合性から、後者の女性は(記録したイエズス会側の誤解とか宣伝で)麝香じゃないのではって推測されたことがあったと思います。

後、興元が出奔した表向きの理由が、自分や松井康之と同じような石高で、実績もない弟達が処遇されるのが納得できないって理由なんで
実は弟二人は別腹ってことはないですかね?
3男幸隆だけ関が原でも留守番部隊だし。
興元も兄と似て結構尊大な性格っぽいので、本当に功績を認めていないだけかもしれないけど。
0112人間七七四年2007/04/06(金) 14:53:55ID:MBvrtoPc
廃嫡にされた後、次男も徳川から好かれてた三男を嫡子にする為に廃嫡されて出奔、
最終的には大坂の陣で大坂方について忠興に切腹させられたし、
忠興の家族観は非常に現実的というか、政治>>家族の匂いのキツさがある
0113人間七七四年2007/04/07(土) 03:12:32ID:P0b/rAAi
>>111 慶長6年興元が出奔した時、忠興が「成敗も有り」と考えていたところを
麝香の方が忠興に内緒で、家康に執り成しを依頼していたそうだ。(松井家文書より)
0114人間七七四年2007/04/07(土) 22:45:28ID:nUIYKzDh
幸隆が幽斎のトコにいたのは(細川家の血脈保つため)万が一の保険として
だったんでないの? 
幽斎らしい深謀遠慮ってやつで、古今伝授をタテに篭城を切り抜ける勝算は
あったんでしょうから・・・。
0115人間七七四年2007/04/10(火) 23:22:09ID:UswUh5II
幽斎と父母って4歳のときに別れてるんでしょ?
だったら愛情少ないのかな?
0116人間七七四年2007/04/12(木) 09:50:51ID:9rD1AuH5
「へうげもの」の藤孝と忠興のやりとりが面白かった。
本能寺でパニくってる忠興と対照的な藤孝。
しかもこのオヤジの息子の扱い方がとても心得ているようで良かった。
オヤジに向かって殴りかかる忠興を軽く足払いで…

こりゃ、家臣は大変だったろうな(笑)
0117人間七七四年2007/04/15(日) 11:41:34ID:nHIOjhkB
大徳寺・高桐院については「忠興が1601年に父・幽斎の菩提を弔うため創建」って
よく紹介されてるけど幽斎が亡くなったのは1610年だし、幽斎は遺言により
南禅寺・天授庵に葬られてるし、これってあきらかに誤りですよね?

0118人間七七四年2007/04/26(木) 20:52:03ID:E6u+UBy4
菩提を弔うためのお寺=実際にお骨等が埋葬されているとは限らない
と解釈していた。
単に供養をするためだけのお寺かと。

幽斎が亡くなる前に菩提寺を建てるってのもなんか変だなあとは思うけど。
忠興が張りきって建てたものの、幽斎は嫌がったとかw
0119人間七七四年2007/04/30(月) 21:06:17ID:5CQr/adp
ガラシャのために建てたのであれば年代的に合うけどそれだったら秀林院と
名づけるはずだし、むしろ叔父の玉甫を住持として迎えるための塔頭として
建てたのに、いつの間にやら「幽斎の菩提を弔うため」と混同されたのでは?
0120人間七七四年2007/04/30(月) 22:23:39ID:FKBPXboy
長岡姓 長岡京 
0121人間七七四年2007/05/02(水) 15:12:56ID:J4QfSY6/
遅ばせながら『細川幽斎』細川護貞著 図書館で借りて読んだ
系図の出方とかが唐突で、すっげー読みづらかったよ・・・

あの本読んでも幽斎の人柄とかは今ひとつぴんとこなかったな・・・
0122人間七七四年2007/05/02(水) 21:57:56ID:H3Mlk1PK
あれはただ綿考輯録を現代訳にしてずらずら書いたものでしょ。
(文庫本で読んだけどやたらと字が細かくて読みにくかったので
所々しか見てないな)
0123人間七七四年2007/05/07(月) 19:59:00ID:STqSwvhS
高山右近や千利休を最後まで見捨てなかった忠興
0124人間七七四年2007/05/17(木) 11:22:09ID:b4M6ET46
資料を読んでもいまいち判然としないのですが、
忠興に従って関ヶ原本戦へ参加した家臣ってどんな面子だったのでしょうか。
沼田延元と米田是季(親父は岐阜城で討ち死にしたけど)は確定ですよね?

松井・有吉はもちろん、主だった家臣はみんな田辺城詰めでしたし。
沢村大学あたりは本戦に参加したんじゃないかと想像しているのですが…
0125人間七七四年2007/05/18(金) 21:47:34ID:GZWT4SQd
>124
松井・有吉は豊後木付城だよ。沢村大学は関ヶ原で合ってる。
0126人間七七四年2007/05/18(金) 22:26:25ID:W4w0W2gt
>>124
新人物往来社の戦国細川一族(戸田敏夫著)に結構細かく載ってましたよ。

関が原時の細川家の戦い(岐阜・関が原、田辺、九州)での具体的な内容。
例えば、田辺だと、参加した侍の名前や元の身分(元はどこの城にいたとか、浪人とか)誰がどの守備位置を担当したか、
実際の戦闘では、誰と誰がどの辺で戦ったとかそういう感じで載ってます。
図が載っているわけじゃないけど、参加した人名ならかなりわかると思います。

古い本なんで書店には無いと思いますが、図書館などで探してみては?


0127人間七七四年2007/05/19(土) 08:07:24ID:cCR/LBB0
田辺篭城の面々については「肥後細川藩拾遺」http://www.shinshindoh.com/
記事<田辺城篭城衆>に詳しく載ってます。それから岐阜・関が原等で活躍した
家臣については<新・肥後細川藩侍帳>の備考欄に特記されてます。
01281242007/05/20(日) 08:07:56ID:ILIjETll
丁寧にご教授いただきましてありがとうございます。
実は細川家を題材にした作品を企画していまして。
思いきって質問してみて良かったです。教えていただいた資料など参考にさせていただきます。
0129人間七七四年2007/05/20(日) 20:48:02ID:7nqzpc0M
しかし、豊後木付は丹後田辺からあまりに遠い。
飛び地を貰った経緯について、詳しい人いますか?
0130人間七七四年2007/05/21(月) 22:49:16ID:jpwRcquz
当時、木付は元々大友氏の領土であったが、朝鮮出兵時の不始末によって
大友義統が配流されて空き地になっていたため。
文禄4年に検地功労の褒美として幽斎に大隅国・肝属郡内で3000石
加増されてるのも関係してるかも・・・
0131人間七七四年2007/05/22(火) 14:25:55ID:HlBg2oxh
何度も改易になってもおかしくない事をしでかしたのに、熊本まで登り
つめたのはガラシァの夫だったからと思う
春日局、天海の線からの口添えがあったのか、それには天海が明智という
妄想が必要だが
0132人間七七四年2007/05/22(火) 21:28:51ID:QDlC7bn7
忠興は、異常といえるほど幕府の動向に注意して忠利に細々と手紙で指示しているし、
忠利も幕府中枢部に親しい人物を作って、公式ルート以外からも情報収集をしたりしている。
関が原以降、江戸にしばらくいたのも、人脈作りにプラスじゃないか?

そういう細かい努力の積み重ねが、家を存続できた理由だと思うけど?

別に天海=光秀説なんて出さなくても。


0133人間七七四年2007/05/22(火) 23:06:22ID:ouF013XV
そもそも忠興は光秀のことを見捨てた経歴があるしなぁ・・・
0134人間七七四年2007/05/22(火) 23:10:07ID:4t/I+NRq
細川護貞氏によると、春日局の兄2人はガラシャに匿まれ後に忠興が秀吉に活して助命されたといういきさつがあったことと
血縁的にも春日局の父・齊藤利三は光秀の妹が母にあたることから(光秀の孫である)忠利に対して好意的だった。
実際細川家には、忠利宛の春日局からの書簡が5通ほど残っており、それによればいろいろと便宜図ってくれてたらしい。
そういった天運も確実に利用しながらそれに甘えず(132さんのご指摘のとおり)常に細心の注意を払いつつ努力も怠らなかったことが
大きかったのでは?
0135人間七七四年2007/05/30(水) 21:43:06ID:eGbOrPpr
「細川護煕 数寄の世界」展の紹介文に「2代目忠興は華々しい武勲を挙げた豪壮な武将
であった一方で、千利休の最も重要な門人「利休七哲」のひとりでもあり、逆臣の娘とい
う汚名をきせられた夫人の明智玉を終生かばい通した繊細な人柄でも知られています。」
とあった。(笑)
うーん、美化して書くとこうなるんですな。(主催者側としてはご先祖を悪くは書けないしね)
0136人間七七四年2007/06/01(金) 18:29:47ID:md5tO0b0
>>135
嘘も方便とはよく言ったものだ。
0137人間七七四年2007/06/07(木) 23:51:11ID:Tzre4KzJ
本能寺後に、丹波の明智方の小城を二つばかり攻めてるね。
0138人間七七四年2007/06/10(日) 18:21:58ID:HuyVyLPe
>>137「松井家譜」によると信長の仇を討つべく積極的に働いていたらしい。
別の資料だと山崎の合戦に秀吉方として出陣し天王山において軍功をあげたとある。

0139人間七七四年2007/06/11(月) 02:36:54ID:7wW5glt+
むかつくぐらいに世渡り上手

明智の頼みも坊主にして断りやがるし
0140人間七七四年2007/06/11(月) 11:35:36ID:F4F1uFD6
むかつくぐらい世渡り上手なくせに
ガラシャへは、ずっと不器用だったと思う
0141人間七七四年2007/06/11(月) 20:30:38ID:H+cFeY4v
「2代目忠興は数々の殺人を行った残忍な武将であった一方で、
千利休の最も重要な門人「利休七哲」のひとりでもあり、
逆臣の娘という汚名をきせられた夫人の明智玉を終生軟禁した病的な人柄でも知られています。」
0142人間七七四年2007/06/11(月) 20:44:23ID:5C71WZi+
>>140 でも結局は見殺しにしてるよね。(他家はなんとしても妻子を落ち延び
させるよう留守居に言い置いてるのにね。)
しかも妻自刃の事実を上手く利用してのし上がったって感じだし長生きしたのもムカつく。
ところでガラシャの血筋が短命なのは信長or忠興の呪いか?
(娘2人は20代で死亡、興秋は33で切腹させられ、忠利は島原の乱で
命縮めて忠興より先に逝くし、息子の光尚も31で死んじゃうし、後に
忠利(ガラシャ)の血統は絶えて現在まで続いてる本家は側室の系統だしね。
(かろうじて長男の血筋は残ってますが・・・)

0143人間七七四年2007/06/12(火) 01:57:20ID:2KrO610e
>>138
>別の資料だと山崎の合戦に秀吉方として出陣し天王山において軍功をあげたとある。

後世の創作っぽいな。
秀吉から働きを褒められ丹後を正式に安堵されたのは、かなり後になってからの筈だし。
0144人間七七四年2007/06/12(火) 23:31:39ID:+4bMfCJP
永青文庫にある「羽柴秀吉起請文」&「羽柴秀吉安堵状」は天正10年7月11日付けとなってます。
あと「大名細川家−文と武の軌跡」展では「細川藤孝・忠興は、光秀とは長年の
入魂、義父子の関係にありながらも誘道に応じずむしろ主君織田信長の弔い
合戦として丹波に攻め入る一方で、備中高松在陣中の秀吉に、信長生害の経緯
を知らせた。秀吉は細川父子の「比類なき覚悟」を謝し、細川家の安泰と、
更なる入魂を約したのである」と解説されてました。
0145人間七七四年2007/06/13(水) 01:08:52ID:1dv3WSEx
>>142
忠興はガラシャを他人に見せない、触らせないというほど愛していた?わけで。だから屋敷から逃げる無様な姿を他人に見せるくらいなら殺したほうがマシというわけ。決して忠興はガラシャを見捨てたわけではない。長文失礼しました
0146人間七七四年2007/06/13(水) 01:12:39ID:1dv3WSEx
×見捨てた→○見殺し
0147人間七七四年2007/06/13(水) 01:29:14ID:tVi8zO5Q
>>145
うむ
漏れも、忠興の玉への愛し方がわかるような気がするんだよなあ
0148人間七七四年2007/06/13(水) 09:59:16ID:6HSed2Nw
玉の精神状態がアレで、他人に見せられなかったという説もあるね。
玉自身が、謀反人の娘ということで人前に出るのをいやがったという説もある。

関が原の話でいえば、一応家臣は丹後に落ちるよう薦めて、玉自身が断っているから
忠興が強制的に閉じ込めていたというのはおかしい。

本当に逃げていたら、命令違反ってことで小笠原少斎とかぬッ殺されていたろうなー、忠興の性格からいって。

0149人間七七四年2007/06/13(水) 11:32:38ID:tVi8zO5Q
謀反者の娘は親元に帰すか、殺すのが常識なのを
(世間的には離縁しようにみせて)山里に隔離した。
秀吉の許しがあったにせよ、正室として再度迎えた訳だし
その後、忠興は玉に何人も子供を産ませてる。
家督を継がせようとしたのも当初は成人した長男だったし
後には、幽閉後に二人の間に生まれた三男の忠利が継いだ。

玉の死後には多くの側室に子供を産ませはしたが、正室は最期まで迎えなかったし
忠興自身、自分の生涯の中での「妻」という存在は、玉ただひとりだったような気がする。
玉ひとりだったのだと思う。
0150人間七七四年2007/06/17(日) 23:53:32ID:un7rMeJv
松井興長に嫁いだ忠興の娘って、実は京極竜子の娘(殺された夫との)だと
いうのを何かの本で読んだことあるんですけど。この説の信憑性は?
0151人間七七四年2007/06/18(月) 00:23:19ID:bUsMos+D
木下長繍子だって、実は京極竜子と若狭武田氏の夫との間に生まれた遺児という説がある
(曖昧な記憶だが、木下氏の系図に書いてあるという
 中公新書の『北政所』みたら出典の詳しい説明があったはず)

一方、
京極氏−嫁→若狭武田氏−人質に取られる→朝倉氏−世話→足利氏−部下→細川氏
という関係があるので、全く縁がないわけではないが、
京極竜子の娘が細川まで流れ着く可能性は限りなく低いように思われるが。
なんかその当時の史料の裏付けでもあるんだろうか。
0152人間七七四年2007/06/18(月) 01:02:15ID:Gj3GumPX
幽斎の姉(宮川尼)が若狭武田氏に嫁いでいたということと、その人は後に
忠興に引き取られ、お玉自刃当時大阪・玉造の屋敷にいたつうことで
一応接点があるにはあるけど。
ちなみにお玉に和歌を教えたのはこの人だそうです。
0153人間七七四年2007/06/18(月) 12:33:09ID:bUsMos+D
>>152
それは知らなかった t
0154人間七七四年2007/06/21(木) 01:58:19ID:zkKbJnag
宮川尼と武田信高の息子が建仁寺の英甫永雄で(狂歌で有名)、ガラシャは
最初この人に34〜35回参禅してたそうで忠興は「大徳寺のよりは気楽なものだ」
と言ってたらしい。忠興は、いとこにあたるこの英甫とは気が合ってたらしく
狂歌の遣り取りを頻繁にしてる。(幽斎に対抗して狂歌で頑張った?)
0155人間七七四年2007/06/24(日) 21:50:16ID:hZFSie3R
>150 海音寺潮五郎の話によると忠興の嫉妬深い性格を一番受け継いだのは
松井興長に嫁いだこの娘だそうで、なんでも宿下がりしてた侍女が戻って来た時
興長と密会してたことを暴き出しその侍女を焼けた火鉢で刺し殺してしまった
とか・・・。
0156人間七七四年2007/06/24(日) 22:36:27ID:DxaaEBS8
火鉢で刺し殺して?
0157人間七七四年2007/06/24(日) 23:15:37ID:hZFSie3R
失礼。「火箸」の間違いですね。
火鉢に刺さってた焼けた「火箸」で何度も刺して(残酷)
ついには殺してしまったそうです。
0158人間七七四年2007/06/27(水) 19:55:41ID:LOhX07eH
玉とちょっと口を聞いた庭師をその場で、しかも玉の目の前で首をはねたからな。火箸で刺し殺したぐらいじゃさほど驚かないぜ!
0159人間七七四年2007/06/27(水) 22:10:59ID:UeZeLmAQ
>>158 なにしろ生涯手討ち36人ですから。(妹の夫も切り殺してますし・・・)
0160人間七七四年2007/06/28(木) 07:56:30ID:Rhm5w9XB
下剋上の世の中の世渡り上手。お家第一主義こそ武家ですもの。おとり潰しになれば…はいそれまで
0161人間七七四年2007/06/28(木) 11:41:35ID:rBjhed5Z
>>159
>なにしろ生涯手討ち36人ですから。(妹の夫も切り殺してますし・・・)
そして、実家に帰った妹に切り掛かられると。どんだけDQNな血筋やねん。w

一色氏粛清は、本能寺後(明智に付こうとしたという名目)なんですよね。
細川氏が実は、明智と羽柴を両天秤掛けていたってことなのかなあ。
0162人間七七四年2007/07/01(日) 16:44:14ID:PTMaOUbk
あの、すみません、穴生理衛門について詳しい方いらっしゃいませんか?
築城の名手という事で興味を引かれたんですが、戦いにも参加していたんでしょうか?
0163人間七七四年2007/07/01(日) 19:13:38ID:FIErDOJT
穴生衆だと職人なので戦いには関わってないのでは?
0164人間七七四年2007/07/02(月) 00:56:36ID:JXRKp4tR
幽斎の娘は、いつ頃木下延俊に嫁いだか知ってる方いますか?
関が原前?だとしたら高台院の側に立つため?
0165人間七七四年2007/07/06(金) 18:07:42ID:iIz2HyAP
忠興は立物(兜についてるあれ)を作るので才を発揮したとかしないとか
0166人間七七四年2007/07/06(金) 22:20:08ID:HjID2ML+
>>164
Wikipediaの木下延俊の項には、関が原で、義兄の忠興との関係から東軍に付いたってありますから、
関が原前なのでは?
0167人間七七四年2007/07/07(土) 21:56:57ID:SuOMXmHT
>>159 忠興は、手にかけた人数にちなんでこの愛刀を「歌仙・兼定」
(36歌仙にひっかけて)と号したそうだ。(やっぱDQNじゃ)
0168人間七七四年2007/07/08(日) 00:08:15ID:YglDv5Bw
>>167
もいっぺん親父に壁にぶつけてもらうべきだな
0169人間七七四年2007/07/08(日) 20:24:46ID:alYCUcL9
忠興のDQNぶりはまだまだあるよ。
「希首坐拵え」は大徳寺の希首坐の僧の無礼を咎めて殺害したのが由来。
 (この僧は謀殺した一色義有の遺児だったとも言われてる)
「晴思剣」は忠興が茶坊主への積年の恨みを果して気分がすっきりしたことに由来。
0170人間七七四年2007/07/10(火) 15:50:15ID:X8HrJjOa
ある意味福島正則より質悪い。
0171人間七七四年2007/07/11(水) 00:30:26ID:lPC+tmtB
オルガンチーノの書簡によると、忠興は5人の妾を抱えガラシャを虐待してた
という話だが、ホントかね?(だとしたらその側女どもが産んだ子がわんさか
いそうだが・・・)
0172宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c 2007/07/11(水) 13:19:29ID:YFwHXhzE
細川幽斎は、将軍足利義晴の御落胤説があるよな。
0173人間七七四年2007/07/14(土) 01:01:14ID:D+urTMfX
>>169 「ドンナ・ガラシャは日本人の中で最も凶暴なある大名に嫁してました」
ルイス・フロイスの手紙より
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