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細川幽斎(藤孝)・忠興父子を語るスレ

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0001人間七七四年2007/02/17(土) 21:24:53ID:kgpQVoWf
戦国時代を代表する文化人幽斎と
幽斎の息子で激情家で知られる忠興を語りましょう。
0043人間七七四年2007/03/01(木) 20:24:35ID:HUXALvAJ
B又一説に、御前様(ガラシャ)と一緒に居られた時に居間の屋根を繕っていた者がどうしたものか滑って
庭に落ちたのを、忠興君は早速その者の首を刎ね、御前様(ガラシャ)の膝上に投げつけたのを、
(ガラシャは)少しも驚くことがなかった。このお手打ちはご夫婦でいらっしゃるところを
屋根師が落ちてみたのを、他言を避けるためになさったことだという。
0044人間七七四年2007/03/01(木) 20:43:36ID:HUXALvAJ
C又一説に、(二人で)ご膳を召しあがっていたときに、上様(ガラシャ)のご飯に髪の毛が一筋あったのをそっと椀にいれた。
(これは台所人に咎がおよばないようにしたためだった)忠興君が見つけ、「膳の脇に隠したものは何か」とその椀をとりご覧に
なり髪の毛があったため、「さては台所人をお庇いか!」と妬み、走り出て台所人の首を切り
御前様の膝上に置かれたのを、(ガラシャは)何も言わず終日座っておられた。忠興君は粗忽な振る舞いを
悔やんだが、(ガラシャは)首をお取りのける様子もなく、幽斎さまの仰せでお取り除きとなったという。
<幽斎巻き添え −その2−>

以上どれも忠興ならありえそうな話です。ガラシャの対応もすさまじい。
0045人間七七四年2007/03/01(木) 20:52:47ID:BFHH4KL6
どんないい女なのか、見てみたい。
0046人間七七四年2007/03/01(木) 22:49:37ID:FQhm2BnZ
>>40
そんな話聞いたこともない(藤孝限定)
0047正親町天皇2007/03/02(金) 22:55:00ID:WdSluAHq
幽斎を喪うは朝廷の嘆きである…至急田辺の囲みを解くよう、勅命を下す…
0048人間七七四年2007/03/03(土) 00:53:14ID:BYbzsYgN
でも忠興の子供は忠興の激情的な性格を受け継いでないような気がするけど
みんなどちらかというと幽斎っぽいと思うけど
0049人間七七四年2007/03/03(土) 18:42:52ID:DT3qzz0I
忠興の子供や孫がみんなあんな性格だったら
幕府に目を付けられて、とっくの昔に細川家は改易消滅していただろう

最も当代細川家当主は母方の近衛家(というより文麿)の性格そっくりでどうかなと思うがw
0050人間七七四年2007/03/03(土) 18:44:08ID:EWWkB/Up
世の中には便利な言葉がある。

つ反面教師
0051人間七七四年2007/03/04(日) 09:42:04ID:O7P84XWH
>>24の生い立ちから考えると彼だけ特異なんでないの?
息子たちともことごとく不和になってるし、更に孫の光尚とも×だし。
勘気を蒙って出奔した家臣も結構いるし、あと生涯手打ちにしたのは36人だとか。
まだ戦国の世だったからいいけど。江戸時代中期以降だったらまじでやばい。
そういう意味でも平和な世には危ない奴だ。
0052人間七七四年2007/03/04(日) 13:36:37ID:JtpapW/K
次弟(興元)も結構激しい性格している。
残りの弟達は年が離れているせいか、控えめな印象がある。

>息子たちともことごとく不和になってるし、更に孫の光尚とも×だし。
不和なのは忠利まででしょ?その下の息子たちはかなり可愛がっていたみたいだし。

0053人間七七四年2007/03/04(日) 20:38:01ID:Vytbz0xG
関わり合いたくないタイプ。
0054人間七七四年2007/03/05(月) 00:46:18ID:MosLSIE3
>>52 幼少から人質に出された興孝とは不和になり修復不可能に・・・
見かねた光尚が間に入ったけど聞き入れずと「綿考輯録」にあります。

かわいがっていた立孝にも江戸で先立たれてしまい八代立藩も没に。
長生きはしたけど晩年は孤独だったんでは?







0055人間七七四年2007/03/05(月) 00:51:19ID:v7wtAaD/
親父に比べて息子はピリッとしないな。
有能なんだろうけど嫉妬深かったということで、評価が下がる
0056人間七七四年2007/03/05(月) 01:15:36ID:O+Sx3auq
本当に気持ち悪い。
底暗い性根を隠せば隠すほどオブラートが気色悪い。
大嫌いだって言ってた○○でも殺したら逆にスッキリすると思う。
開眼するんじゃないの?
0057人間七七四年2007/03/05(月) 02:27:11ID:WEG1T2FN
>>55
井伊直政と細川忠興だけには仕えたくないな。
こいつらはとにかくやばそう。
0058人間七七四年2007/03/05(月) 12:38:12ID:jbBQbgkN
「忠興」という文字はどこから拾ってきたの?
0059人間七七四年2007/03/05(月) 13:54:13ID:obM8j+AX
>>58
「忠」の字は、織田信忠からの偏諱。
0060人間七七四年2007/03/05(月) 19:39:09ID:CBIwIXU9
細川家って今や千家・近衛家、果ては宮家とも縁続きになっちゃって。
幽斎も利休も九州平定前に島津へ連名で書状出した当時は、400年後に
お互い親戚になるなんて思いもしなかっただろうね。
0061人間七七四年2007/03/06(火) 01:24:11ID:EGf1lYH/
関ヶ原のときの黒田親子のそのとき左手は〜ってやつ
細川親子だったら親父の首が飛んでそう
0062人間七七四年2007/03/06(火) 13:01:27ID:fTgCgAjW
忠興は、精神に疾患があるぽいけど
現代でいうとなんて病名になるの?

0063人間七七四年2007/03/06(火) 19:16:00ID:49eifsjQ
@怒りの制御の困難・感情不安定・衝動性からいくと「境界性人格障害」
A幼児期のトラウマ・嫉妬・傲慢・対人関係における相手の不当利用からいくと「自己愛性人格障害」
B異常なまでの執着・独占欲・支配欲でエスカレートする特徴があり、最悪の場合殺人や障害事件に
発展する・・・「ストーカー行為」の定義。ガラシャに対する忠興の態度がまさにそれ。
0064人間七七四年2007/03/06(火) 19:24:59ID:EFaIT0kO
細川藤孝が将軍義輝に仕えていた時代、京兆家の晴元と戦った事がある
とかないとか。実際はどうなんだろう。義輝と晴元は基本的には協調していた
から、時期的には限定されるけど。
0065人間七七四年2007/03/06(火) 19:56:48ID:v8BHvZWm
>>57
直政の方は必死なかんじがまだ理解できんこともないが
ヤバ興さまはダメですどう見ても真性です病院行って下さい
しかし友達は多いみたいだな…黒田とは不仲で有名だがこいつは忠興以外にも嫌われまくりだし
0066人間七七四年2007/03/06(火) 20:00:39ID:JYJqdL9D
忠興は外面がいいんだよね
内弁慶全開w
0067人間七七四年2007/03/06(火) 20:19:26ID:49eifsjQ
>>64 細川晴元関連で拾っていくと、
1547年 晴元と決別した義晴・義輝親子とともに北白川城に入る。
      晴元勢の攻撃を受け、北白川城が落城。近江国に逃れる。(13歳)
1551年 晴元の軍勢が三好長慶の軍勢と交戦する(17歳)
1556年 坂本で晴元が興行した連歌会に参加する(22歳)
「週刊 日本の100人 細川幽斎」より

0068人間七七四年2007/03/06(火) 21:00:10ID:7kH23j4j
細川護貞の「細川幽斉」には、天文16年の戦いは晴元が長慶と組んで暴威を振るったため、って書いてあるね。
しかしこの本どこまで信じていいのかな?身内が書いた本だしなぁ。
0069人間七七四年2007/03/06(火) 23:43:02ID:49eifsjQ
元ネタは「綿考輯録」。これ自体細川家で編纂したものだから・・・。
(細川家に不利なようには書かないわな)
0070人間七七四年2007/03/07(水) 00:36:08ID:++QEaOsL
領地図や田辺城籠城の比較的大きな図が付いてるにはなかなか便利だが。
0071人間七七四年2007/03/07(水) 00:55:10ID:UkowXbjM
>>65
黒田長政とは後藤又兵衛の件で揉めたね
まあどっちもどっちだな・・・<長政と忠興
0072人間七七四年2007/03/07(水) 01:04:46ID:TwirRw0E
鉄砲の名人で知られる稲富祐直も忠興に殺される寸前だったよね。
でもその鉄砲の腕を家康に惜しまれて助命されて、松平家に仕えることができた。
芸は身を助ける、か。
0073人間七七四年2007/03/07(水) 12:20:17ID:A1MfJpbN
>>71
もともと領地引継ぎの際の年貢の取り扱いでもめて、
黒田は興元の逃亡を助ける、細川は後藤又兵衛の逃亡を助ける&息子の一人を保護
後々まで両家は仲よくなかったみたいですね。
0074人間七七四年2007/03/07(水) 22:33:35ID:RvnqUoAE
>>72のいきさつを含めて稲富を主人公に描いてる小説が「火の縄」(松本清張 著)で、
ガラシャに対する異常さは勿論、侍女を折檻したり稲富を執拗に奉公構えする忠興の変態っぷりがよく描かれている。
そんな忠興に対して一歩引いてる感じの幽斎、夫より幽斎を慕うガラシャという設定で結構笑える。
0075人間七七四年2007/03/07(水) 22:58:26ID:RvnqUoAE
>>73 幽斎と如水は一緒に連歌会開いたりして結構仲良くやってたのにね
0076人間七七四年2007/03/07(水) 23:08:33ID:A1MfJpbN
>>75
関が原までは仲悪くないんですよね。
忠興も、豊後の留守部隊には、豊前の黒田官兵衛と肥後の加藤清正を頼れって指示しているし、
実際に大友義統と戦ったときは、黒田勢が主力として戦っている。
(清正は応援に出兵したけど間に合わなかった)

黒田長政も、短気な性格だったようなエピソードが結構残っているし、
支城の配置は全部細川との国境沿い、喧嘩する気まんまんですね。w
0077人間七七四年2007/03/08(木) 18:01:49ID:DAJPK/pd
武断派の連中はこれだから困る
0078人間七七四年2007/03/08(木) 23:23:20ID:dyGSBXXg
藤堂高虎や金地院崇伝とも交友(政治的なつながりで)あったし
長政より更に腹黒で、限りなく黒い関係・・・
0079人間七七四年2007/03/08(木) 23:35:14ID:dyGSBXXg
忠興は「日本史B用語集」(山川出版社)ではキリシタン大名の項に
黒田如水・黒田長政に続いて(笑)なぜか載っている!
説明文は「信長・秀吉に仕え、関が原の戦い後、豊前小倉39万石を領した。
夫人は明智光秀の娘ガラシャ。」となっている。
妻が有名なキリシタンだから載せたのか?
0080人間七七四年2007/03/08(木) 23:48:04ID:cc68Lr0z
>>79
豊前時代に、ガラシャ追悼のため、キリスト教関連の行事を行って、宣教師の説教も聴いているからでは?
信仰はしなかったけど、教えの内容は理解しているとか宣教師が評価していたような。

まあ、キリシタン大名には入らないと思うけど。
0081人間七七四年2007/03/09(金) 01:20:39ID:M3ViE/UH
忠興載せるくらいなら高山右近載せろよ。
0082人間七七四年2007/03/09(金) 01:55:33ID:4Rj7IgY4
又兵衛の件では幕府の仲裁が入ってようやくおさまったそうだから
かなり凄かったんだろうな<黒田vs細川

あとは加賀前田家とも長男の件で百年ほど絶縁状態だったとか
0083人間七七四年2007/03/09(金) 17:51:48ID:fQMpO7Fj
>>82
忠隆の件については、幕府(家康)から干渉があったという話も。
細川家に、”前田家との親戚付き合いはやめろ”
前田家に、”忠隆の生活を支援するな”

おかげで忠隆は、金沢に入れず、前田家からは厄介者扱い。
妻とも離縁して後に京都に隠棲、生活費も細川氏が出していたそうです。
0084人間七七四年2007/03/09(金) 19:22:38ID:BW+KahQd
>>81 高山右近は忠興の次に載ってますのでご安心を。
しかも彼は日本史B教科書の頻度数7なので名前が多色刷りになっている。
ちなみに長政の頻度数4に対して忠興と如水は頻度数3(長政の勝ち!)
0085人間七七四年2007/03/09(金) 20:49:59ID:HqHAwU00
知れば知るほど




良いキャラしてるなw
0086人間七七四年2007/03/10(土) 23:17:25ID:d3Cvyzda
淡交(月刊茶道誌)の記事「茶人の筆跡」今月号では忠興が取り上げられてるけど
「茶の湯を利休に学び、「利休七哲」の一人に挙げられています。
和歌や連歌、有職にすぐれ、能楽、絵画に通じた文化人でもありました。」
と紹介しているが、「和歌や〜」以降は幽斎と混同してるよな・・・
0087人間七七四年2007/03/11(日) 22:21:22ID:1ZUSDoWF
>>86
一応、当時の水準だと一流に入るんじゃ・・・。
藤孝には、「お前は対したこと無い」とかそんな意味のこと言われてた気がするけど。

その藤孝も、芸術家としての評価は低いと聞いたことがある。(作った歌は凡庸とか)
伝統の継承者として評価されるという感じですかね。
0088人間七七四年2007/03/12(月) 20:17:25ID:aAZuYXHJ
>>87
いつの時代でも父親は息子に「お前は大したこと無い」って言うものだわな。
逆に褒めてたらそれはそれで気持ちが悪い。
0089人間七七四年2007/03/12(月) 20:38:45ID:/vzO7BPT
歌詠みの才に限って言えば「木下長嘯子の方が上。」と何かの本で読んだことある。
まあ彼の場合、優れているのが和歌だけでなく連歌・鞠・包丁(料理)・太鼓(鼓)だとか。
更に剣術は塚原卜伝に「一の太刀」を許され、あと弓術の印可も持ってたとか。
彼の多芸多才を表している話として九州の小領主が「私などとても多くの者は召抱えられないから
1人で和歌・連歌・乱舞・弓馬の道すべてに通じた人はいないだろうか?」と知り合いに相談したところ
相手は「そういう人を1人だけ知っている。細川幽斎どのだ。抱えたらどうだ?」とからかった
という話が松永貞徳の「戴恩記」にあるらしい。
0090人間七七四年2007/03/12(月) 22:10:02ID:RWyTiqru
>>89
藤孝は別に新しい歌風も技法を作ったわけじゃなからね。
木下長嘯子は江戸時代前期まで影響を与えた。

純粋な歌人としてみるならば、木下長嘯子の方が上じゃないか?
0091人間七七四年2007/03/14(水) 22:12:50ID:4jGsecQk
歌道を次世代に伝えた役割の点では、
八条宮智仁親王→後水尾天皇と朝廷に受け継がれた(御所伝授)流れを
つくった功績は高いと思う。
0092人間七七四年2007/03/22(木) 01:07:51ID:wEYRdW5d
複雑すぎてよくわからん → 幽斎は三淵家から細川家に養子に入ったわけだけど
三淵家の始祖は足利義満の子供で養父の細川元常自身が元々父・晴員の弟だから
(叔父さんのとこに養子に行ったから)つまり細川家そのものの血は引いてなくても
足利家そのものの血は引いているということになる?
0093人間七七四年2007/03/22(木) 11:37:48ID:Vk9+dICR
いや普通に上守護家の血ひいてるでしょ
落胤説は別にして
0094人間七七四年2007/03/22(木) 13:16:55ID:65nq4dBO
>>92
和泉半国守護を務める細川家の息子が三淵家へ養子へ
実家の細川家に跡継ぎがいないから、次男を細川家(晴員の兄)の養子にする

細川元常は藤孝の叔父ではなくて、伯父です。
この細川家はそれまで養子を取ってないと思う。まあずっと前の先祖は足利家だけど。

三淵家は系図・出自はあいまいなんじゃないの?
足利尊氏の子孫(義満の子孫でも合ってるけど)って話も聞いたことがあるような。

0095人間七七四年2007/03/26(月) 00:17:25ID:C9q7llvc
忠興と仲よかったのは、蒲生氏郷・高山右近・前田利長・・
あと森可成も?
0096人間七七四年2007/03/26(月) 11:51:30ID:xSbgs4TP
>>95
>あと森可成も?
年齢的に合わないような。息子の長可か忠政?
長可も、領地美濃で信忠付きですよね?

接点あったかな?なにかエピソードありましたっけ?
0097人間七七四年2007/03/26(月) 19:25:43ID:j4GwxNjP
失礼、息子の森忠政でした。接点としては・・・
@秀吉死後、文治派が家康を討とうとした時忠興と共に家康の屋敷に駆けつけて
「両家の真心は徳川家が続く限り忘れない」と家康に感謝された。
A忠政が津山城を普請する時、家臣に命じて密かに小倉城の城郭図を写し取らせようとしたが
見つかってしまい捕らえられたが事情を話すと、以外にも忠興は城郭図を貸し与えた。
更に津山城落成の折にお祝いとして南蛮の釣鐘を贈っている。
−なんかの本で忠興の度量の大きさを伺わせる話(!)として紹介されてた。
0098人間七七四年2007/03/26(月) 19:50:15ID:fKsN0AKB
同じ信忠から偏諱を受けた同士、仲が良かったんだろうね。
0099人間七七四年2007/03/26(月) 20:01:32ID:mX/xB+Ak
まぁ、松井佐渡守ですよ・・・実際はですね。
0100人間七七四年2007/03/26(月) 20:03:29ID:ZqRkc3+7
>>97それの二番ってどうみても忠政の器の大きさを表すやつだよな。
0101人間七七四年2007/03/26(月) 20:05:00ID:QamoBqpT
100
0102人間七七四年2007/03/27(火) 01:19:02ID:4fYwgZvy
忠政は13歳の時信長の小姓として出仕したはいいけど、先輩小姓にからかわれたのに
腹を立ててその小姓の頭を叩いたのを信長に見られてしまい「忠政は幼いから小姓は無理だ」
と言われ家に帰されてしまったが結果としてはその後本能寺の変が起きたから命拾いしたことになるけど。
・・・こんなエピソードあるくらいだから暴慢な忠興とは気があったんだろうか?

0103人間七七四年2007/03/27(火) 23:41:01ID:o/VcNPnz
>>102
いやなコンビ(忠興&忠政)だなあ。共通の友人は心が落ち着かないでしょうね。w

Wikipedia見てきたけど、森忠政って石高はあまり大きくないけど、官位は高いんですね。
0104人間七七四年2007/03/28(水) 13:51:38ID:S38JVPhV
きっと二人でつるんで「地元じゃ負け知らず」とか恥ずかしいセリフを吐きまくってるんだろう。
0105人間七七四年2007/03/29(木) 00:22:54ID:p56CRnhj
親父同士が仲良かったからか、息子世代になると森長継は大名の行動指針を細川忠利に学ぼうとして
彼宛てにさかんに書状を出して助言を求めてますね。
ま、(忠興と違って)忠利はまともだし、実際丁寧アドバイスしてあげてたらしい。
0106人間七七四年2007/03/29(木) 13:40:44ID:722Ebcoy
大阪城の石垣に九州産、小倉藩主・細川忠興が運ぶ
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20070323p301.htm
0107人間七七四年2007/04/01(日) 22:50:20ID:4Tn8Ld+B
幽斎の息子や娘たち(8人)って、全員麝香の方との子供?
0108人間七七四年2007/04/02(月) 00:05:20ID:GZLAIt5k
>107
幽斎の弟に嫁いだ娘だけは養女説があるが、基本的には全員麝香の子と言われている。
側室の存在も知る限り確認できないし。
ただ、そうなると麝香は四十過ぎでも子供を生んでいることになるんだよなぁ。幽斎夫婦がんばった?
0109人間七七四年2007/04/03(火) 22:19:54ID:JYcGg7+U
じゃあ如水と一緒で側室いなかった珍しいタイプか。
(如水は子ども少ないけど)
0110人間七七四年2007/04/03(火) 22:28:04ID:lb8PJhwn
>>63

遅レスだが、
俺も忠興はボダじゃないかと思ったことあるw
0111人間七七四年2007/04/04(水) 00:18:24ID:ZjRXSaDp
>>108
ガラシャが興秋だか娘を入信させたときに、忠興の母親がめちゃくちゃ怒ったという話と、
豊前時代に、忠興の母親がキリスト教に入信して深く理解を示したという話があって
前者の話との整合性から、後者の女性は(記録したイエズス会側の誤解とか宣伝で)麝香じゃないのではって推測されたことがあったと思います。

後、興元が出奔した表向きの理由が、自分や松井康之と同じような石高で、実績もない弟達が処遇されるのが納得できないって理由なんで
実は弟二人は別腹ってことはないですかね?
3男幸隆だけ関が原でも留守番部隊だし。
興元も兄と似て結構尊大な性格っぽいので、本当に功績を認めていないだけかもしれないけど。
0112人間七七四年2007/04/06(金) 14:53:55ID:MBvrtoPc
廃嫡にされた後、次男も徳川から好かれてた三男を嫡子にする為に廃嫡されて出奔、
最終的には大坂の陣で大坂方について忠興に切腹させられたし、
忠興の家族観は非常に現実的というか、政治>>家族の匂いのキツさがある
0113人間七七四年2007/04/07(土) 03:12:32ID:P0b/rAAi
>>111 慶長6年興元が出奔した時、忠興が「成敗も有り」と考えていたところを
麝香の方が忠興に内緒で、家康に執り成しを依頼していたそうだ。(松井家文書より)
0114人間七七四年2007/04/07(土) 22:45:28ID:nUIYKzDh
幸隆が幽斎のトコにいたのは(細川家の血脈保つため)万が一の保険として
だったんでないの? 
幽斎らしい深謀遠慮ってやつで、古今伝授をタテに篭城を切り抜ける勝算は
あったんでしょうから・・・。
0115人間七七四年2007/04/10(火) 23:22:09ID:UswUh5II
幽斎と父母って4歳のときに別れてるんでしょ?
だったら愛情少ないのかな?
0116人間七七四年2007/04/12(木) 09:50:51ID:9rD1AuH5
「へうげもの」の藤孝と忠興のやりとりが面白かった。
本能寺でパニくってる忠興と対照的な藤孝。
しかもこのオヤジの息子の扱い方がとても心得ているようで良かった。
オヤジに向かって殴りかかる忠興を軽く足払いで…

こりゃ、家臣は大変だったろうな(笑)
0117人間七七四年2007/04/15(日) 11:41:34ID:nHIOjhkB
大徳寺・高桐院については「忠興が1601年に父・幽斎の菩提を弔うため創建」って
よく紹介されてるけど幽斎が亡くなったのは1610年だし、幽斎は遺言により
南禅寺・天授庵に葬られてるし、これってあきらかに誤りですよね?

0118人間七七四年2007/04/26(木) 20:52:03ID:E6u+UBy4
菩提を弔うためのお寺=実際にお骨等が埋葬されているとは限らない
と解釈していた。
単に供養をするためだけのお寺かと。

幽斎が亡くなる前に菩提寺を建てるってのもなんか変だなあとは思うけど。
忠興が張りきって建てたものの、幽斎は嫌がったとかw
0119人間七七四年2007/04/30(月) 21:06:17ID:5CQr/adp
ガラシャのために建てたのであれば年代的に合うけどそれだったら秀林院と
名づけるはずだし、むしろ叔父の玉甫を住持として迎えるための塔頭として
建てたのに、いつの間にやら「幽斎の菩提を弔うため」と混同されたのでは?
0120人間七七四年2007/04/30(月) 22:23:39ID:FKBPXboy
長岡姓 長岡京 
0121人間七七四年2007/05/02(水) 15:12:56ID:J4QfSY6/
遅ばせながら『細川幽斎』細川護貞著 図書館で借りて読んだ
系図の出方とかが唐突で、すっげー読みづらかったよ・・・

あの本読んでも幽斎の人柄とかは今ひとつぴんとこなかったな・・・
0122人間七七四年2007/05/02(水) 21:57:56ID:H3Mlk1PK
あれはただ綿考輯録を現代訳にしてずらずら書いたものでしょ。
(文庫本で読んだけどやたらと字が細かくて読みにくかったので
所々しか見てないな)
0123人間七七四年2007/05/07(月) 19:59:00ID:STqSwvhS
高山右近や千利休を最後まで見捨てなかった忠興
0124人間七七四年2007/05/17(木) 11:22:09ID:b4M6ET46
資料を読んでもいまいち判然としないのですが、
忠興に従って関ヶ原本戦へ参加した家臣ってどんな面子だったのでしょうか。
沼田延元と米田是季(親父は岐阜城で討ち死にしたけど)は確定ですよね?

松井・有吉はもちろん、主だった家臣はみんな田辺城詰めでしたし。
沢村大学あたりは本戦に参加したんじゃないかと想像しているのですが…
0125人間七七四年2007/05/18(金) 21:47:34ID:GZWT4SQd
>124
松井・有吉は豊後木付城だよ。沢村大学は関ヶ原で合ってる。
0126人間七七四年2007/05/18(金) 22:26:25ID:W4w0W2gt
>>124
新人物往来社の戦国細川一族(戸田敏夫著)に結構細かく載ってましたよ。

関が原時の細川家の戦い(岐阜・関が原、田辺、九州)での具体的な内容。
例えば、田辺だと、参加した侍の名前や元の身分(元はどこの城にいたとか、浪人とか)誰がどの守備位置を担当したか、
実際の戦闘では、誰と誰がどの辺で戦ったとかそういう感じで載ってます。
図が載っているわけじゃないけど、参加した人名ならかなりわかると思います。

古い本なんで書店には無いと思いますが、図書館などで探してみては?


0127人間七七四年2007/05/19(土) 08:07:24ID:cCR/LBB0
田辺篭城の面々については「肥後細川藩拾遺」http://www.shinshindoh.com/
記事<田辺城篭城衆>に詳しく載ってます。それから岐阜・関が原等で活躍した
家臣については<新・肥後細川藩侍帳>の備考欄に特記されてます。
01281242007/05/20(日) 08:07:56ID:ILIjETll
丁寧にご教授いただきましてありがとうございます。
実は細川家を題材にした作品を企画していまして。
思いきって質問してみて良かったです。教えていただいた資料など参考にさせていただきます。
0129人間七七四年2007/05/20(日) 20:48:02ID:7nqzpc0M
しかし、豊後木付は丹後田辺からあまりに遠い。
飛び地を貰った経緯について、詳しい人いますか?
0130人間七七四年2007/05/21(月) 22:49:16ID:jpwRcquz
当時、木付は元々大友氏の領土であったが、朝鮮出兵時の不始末によって
大友義統が配流されて空き地になっていたため。
文禄4年に検地功労の褒美として幽斎に大隅国・肝属郡内で3000石
加増されてるのも関係してるかも・・・
0131人間七七四年2007/05/22(火) 14:25:55ID:HlBg2oxh
何度も改易になってもおかしくない事をしでかしたのに、熊本まで登り
つめたのはガラシァの夫だったからと思う
春日局、天海の線からの口添えがあったのか、それには天海が明智という
妄想が必要だが
0132人間七七四年2007/05/22(火) 21:28:51ID:QDlC7bn7
忠興は、異常といえるほど幕府の動向に注意して忠利に細々と手紙で指示しているし、
忠利も幕府中枢部に親しい人物を作って、公式ルート以外からも情報収集をしたりしている。
関が原以降、江戸にしばらくいたのも、人脈作りにプラスじゃないか?

そういう細かい努力の積み重ねが、家を存続できた理由だと思うけど?

別に天海=光秀説なんて出さなくても。


0133人間七七四年2007/05/22(火) 23:06:22ID:ouF013XV
そもそも忠興は光秀のことを見捨てた経歴があるしなぁ・・・
0134人間七七四年2007/05/22(火) 23:10:07ID:4t/I+NRq
細川護貞氏によると、春日局の兄2人はガラシャに匿まれ後に忠興が秀吉に活して助命されたといういきさつがあったことと
血縁的にも春日局の父・齊藤利三は光秀の妹が母にあたることから(光秀の孫である)忠利に対して好意的だった。
実際細川家には、忠利宛の春日局からの書簡が5通ほど残っており、それによればいろいろと便宜図ってくれてたらしい。
そういった天運も確実に利用しながらそれに甘えず(132さんのご指摘のとおり)常に細心の注意を払いつつ努力も怠らなかったことが
大きかったのでは?
0135人間七七四年2007/05/30(水) 21:43:06ID:eGbOrPpr
「細川護煕 数寄の世界」展の紹介文に「2代目忠興は華々しい武勲を挙げた豪壮な武将
であった一方で、千利休の最も重要な門人「利休七哲」のひとりでもあり、逆臣の娘とい
う汚名をきせられた夫人の明智玉を終生かばい通した繊細な人柄でも知られています。」
とあった。(笑)
うーん、美化して書くとこうなるんですな。(主催者側としてはご先祖を悪くは書けないしね)
0136人間七七四年2007/06/01(金) 18:29:47ID:md5tO0b0
>>135
嘘も方便とはよく言ったものだ。
0137人間七七四年2007/06/07(木) 23:51:11ID:Tzre4KzJ
本能寺後に、丹波の明智方の小城を二つばかり攻めてるね。
0138人間七七四年2007/06/10(日) 18:21:58ID:HuyVyLPe
>>137「松井家譜」によると信長の仇を討つべく積極的に働いていたらしい。
別の資料だと山崎の合戦に秀吉方として出陣し天王山において軍功をあげたとある。

0139人間七七四年2007/06/11(月) 02:36:54ID:7wW5glt+
むかつくぐらいに世渡り上手

明智の頼みも坊主にして断りやがるし
0140人間七七四年2007/06/11(月) 11:35:36ID:F4F1uFD6
むかつくぐらい世渡り上手なくせに
ガラシャへは、ずっと不器用だったと思う
0141人間七七四年2007/06/11(月) 20:30:38ID:H+cFeY4v
「2代目忠興は数々の殺人を行った残忍な武将であった一方で、
千利休の最も重要な門人「利休七哲」のひとりでもあり、
逆臣の娘という汚名をきせられた夫人の明智玉を終生軟禁した病的な人柄でも知られています。」
0142人間七七四年2007/06/11(月) 20:44:23ID:5C71WZi+
>>140 でも結局は見殺しにしてるよね。(他家はなんとしても妻子を落ち延び
させるよう留守居に言い置いてるのにね。)
しかも妻自刃の事実を上手く利用してのし上がったって感じだし長生きしたのもムカつく。
ところでガラシャの血筋が短命なのは信長or忠興の呪いか?
(娘2人は20代で死亡、興秋は33で切腹させられ、忠利は島原の乱で
命縮めて忠興より先に逝くし、息子の光尚も31で死んじゃうし、後に
忠利(ガラシャ)の血統は絶えて現在まで続いてる本家は側室の系統だしね。
(かろうじて長男の血筋は残ってますが・・・)

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