細川幽斎(藤孝)・忠興父子を語るスレ
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0001人間七七四年
2007/02/17(土) 21:24:53ID:kgpQVoWf幽斎の息子で激情家で知られる忠興を語りましょう。
0305人間七七四年
2007/10/11(木) 23:23:48ID:HQj+EhU+>岩間六兵衛
ググると、信玄・六男:武田信清の子となってるな。
ただ本当に武田氏の縁者なら、若狭武田氏の方が可能性があると思うな。
0307人間七七四年
2007/10/27(土) 17:21:57ID:ZWdcSEUy0310人間七七四年
2007/10/31(水) 17:11:50ID:uJ5Xt29f斯波武衛家の末裔までいるのか・・・
0311人間七七四年
2007/11/02(金) 08:59:12ID:8Qddn4QZリンク先みるかぎり、水戸藩みたいに手当たりしだいに集めたというわけじゃなくて、
室町幕府に仕えた仲とか血縁などを頼って自然と集まったって感じですかね。
しかし、吉良親実と久武親直の子孫が両方仕えているってのもすごいな。
0313人間七七四年
2007/11/03(土) 01:09:59ID:qPG4mCDW逆だったら泣けるが・・・
0314人間七七四年
2007/11/10(土) 09:29:31ID:xfveAhdQどの領地も海に面していたし…それとも現地で徴兵なりして再組織してたんだろうか
0315人間七七四年
2007/11/14(水) 23:26:53ID:nt0Rszrw0317人間七七四年
2007/11/15(木) 15:25:30ID:t9uTpgQfたしかあのあたりにかの長岡京があったはずだから・・・
0318人間七七四年
2007/11/16(金) 20:25:33ID:FyPB7bnU平安京のひとつ前の。
0319人間七七四年
2007/11/19(月) 00:03:53ID:lz1rj1fw臣従してもある程度我慢ができるからじゃないの?
0320人間七七四年
2007/11/19(月) 21:24:09ID:IGoRsXKH公では対立しても私では恨みとかなかったんではないのかなぁ
しかし面白いぐらいに没落した人が集っているね
0321人間七七四年
2007/11/19(月) 21:28:56ID:BN+3KB/I0322人間七七四年
2007/12/15(土) 09:54:25ID:xJ5csQ+v忠興が男色家だったと書かれてて全く否定する人いなくて笑ったw
あと牛肉大好きだったのは意外だな
0323人間七七四年
2007/12/17(月) 17:47:46ID:d+6lPTtn0324人間七七四年
2007/12/17(月) 22:07:33ID:C3JgtkH+戦国武将=男色で忠興もひとまとめにされてた頃があったんだなぁと
0325人間七七四年
2007/12/17(月) 22:32:36ID:hD60TzGI今もあの辺りは長岡京市があるんですが…
0326人間七七四年
2007/12/18(火) 21:20:14ID:wOlXkKQi0328人間七七四年
2007/12/19(水) 00:51:20ID:AZ3SGgQWなにこれ!笑
細川やばっ・・・
最後の方とか胡散臭さハンパないな・・・
これの水戸藩版ってある?キボンヌ
0329人間七七四年
2007/12/20(木) 21:18:58ID:LgQBnDaG思案しましたが、やはり貴方様にこそ相応しいもの、私のほんの志ばかりでございます。
(中略)六十年来の苦もなんのその、今こそ、ここに別れがやって参りました。先般来の御心尽くしの
お礼は、筆舌につくす事はできません。・・・」
八代市でやってた小西行長展に陳列されてたらしい。
0330人間七七四年
2007/12/23(日) 14:25:10ID:kKoNL6UI0331-
2007/12/23(日) 17:24:33ID:AH19I6Ld0332人間七七四年
2007/12/23(日) 22:30:18ID:b1tnuh8d0333人間七七四年
2007/12/30(日) 18:41:35ID:aBStunxS忠興が優秀であるので、より格式の高い細川家を継がせたいと将軍が思ったから
>>287に対する回答
あなたは、すばらしい
>>32に対する回答
そう答えたんじゃなく「自分は輝経の跡を続いだので幽斉とは関係ないです。
同じ細川でも自分の継いだ細川は大外様の細川とも呼ばれた奥州家です。
幽斉の細川とは関係ありません」
と答えたんだそうですよ。
0334人間七七四年
2007/12/30(日) 20:59:58ID:pFXCw/aX>忠興が優秀であるので、より格式の高い細川家を継がせたいと将軍が思ったから
将軍がねえ。
忠興はおしめをつけていたくらいから、優秀だと評価されていたと?
0335人間七七四年
2007/12/31(月) 02:42:11ID:8oHn6bEj義輝(もしくは義昭?)が将軍にいた頃、細川忠興はまだガキなので、
むしろ幽斎と公方の関係から・・・というセンの方が妥当とは思う
0336人間七七四年
2007/12/31(月) 12:25:56ID:U/n+27iUおんなじ感じでいいじゃない
0337-
2007/12/31(月) 18:43:46ID:JQ2yso62だっこされて泣かなかったら「むぅ、肝が座っとる…ゆくゆくは大物に」
逆に大泣きしたら、「こいつは勇ましい…ゆくゆくは大物に」
0338人間七七四年
2008/01/02(水) 01:15:49ID:6UPAPqvV細川昭元>細川輝経>細川藤孝だね
席次は
0339人間七七四年
2008/01/04(金) 14:07:46ID:FwXTsQGn更に、小さい頃から藤孝のこと嫌ってたよね。
手に負えなくて玉甫和尚のトコに預けられてたし。
0340人間七七四年
2008/01/05(土) 10:46:24ID:VdxvkJ7kじゃあ玉甫が忠興の傅役ってことになるのかなぁー
0341人間七七四年
2008/01/05(土) 13:47:18ID:Mr+6IW765歳の時勝竜寺城に戻って藤孝に会えたんだけど
7歳の時に騒動起こして藤孝と険悪になって
玉甫叔父さんトコに預けられたそうだ。
0342人間七七四年
2008/01/05(土) 13:50:13ID:Q3IneSqI長岡姓にも同じように改名しているし、藤孝が隠居したときにも忠興が所領を相続しているんだから
輝経との関係はあくまで名目上のことにすぎないのでは。
>>340
藤孝が義昭と亡命生活を送っていたときは、忠興は守り役の夫婦と一緒に、京都で潜伏生活をしていた。
この夫婦の子孫は江戸時代にも引き続いて細川家に仕えている。(全然高待遇じゃないけど)
0343人間七七四年
2008/01/05(土) 18:12:43ID:4ADTRc9A家康に忠興自身が、藤孝と自分の家系は関係ない
自分は輝経の家系を継いでいる
と言い切っているんだから
後世の他人がケチつけるべきではない
0344人間七七四年
2008/01/05(土) 18:39:19ID:VdxvkJ7k答えていただきありがとうございます。
その傅役は中村と言う夫婦でしょうか?
手持ちの資料には記載がなかったので、もう少し詳しく教えていただけませんか?
0345人間七七四年
2008/01/06(日) 12:42:54ID:decrHlGuそうですよね、忠興自身が主張してるんだから
輝経および奥州家が小倉〜熊本藩の先祖ですよね。
0346人間七七四年
2008/01/06(日) 13:08:49ID:T7WgS4EOのちに細川家奥向きの大局をつとめる。知行百石。
忠興−忠利の書状に、大局の娘から借米した話が
いくつかでてくるので、結構お金持ち?
0347サイコメトリー
2008/01/07(月) 10:30:23ID:MW42B6oV本能寺に至る以前に光秀が細川父子に事前説得、協力を申し込んだとしたら
細川父子は光秀と手を組んだであろうか?
0349人間七七四年
2008/01/08(火) 08:35:56ID:DaZjC7WBしたたかな細川藤孝なら、表面では協力体制を取り、実際は筒井順慶と同じ
動きを取る公算が高い。戦国武将らしいといえば、らしいが、自分は光秀に
同調しなかった筒井家を潔しとせず、出奔した島左近こそが、本物の戦国武
将だと思う。
0350人間七七四年
2008/01/08(火) 09:20:00ID:hvLoQ/1K本物の戦国武将だ。家を潰してどうする?
島左近なんぞはただの「猪武者」と呼ぶ。
0351人間七七四年
2008/01/08(火) 10:10:44ID:DaZjC7WB島左近や大谷吉継は負け戦と理解しながら、それに殉じた武将ですが、彼らは
戦国武将その物だよ。状況判断を的確にし、家を守る事を事の大事とし、強き
に着くのは江戸時代の外様と一緒。男気と心意気なくて、戦国武将と呼べるか!
0352人間七七四年
2008/01/08(火) 10:21:09ID:CgC79cTd>状況判断を的確にし、家を守る事を事の大事とし、
>強きに着くのは江戸時代の外様と一緒。
ほとんどの武将はそうやって生き残った訳だが。
0353人間七七四年
2008/01/08(火) 10:28:37ID:hvLoQ/1Kどうやったらそんな歪んだ戦国武将観を持てるんだろう…。
戦国武将ってのは何よりも自分と自分の配下の生存権の確保と利益を誘導するのが
最大の任務だ。それがあるからこそ配下より「指導力」が付加される。
君の大好きな島や大谷の後ろに、自分には何の関係もない主人の「義」とやらに無理矢理殉じされ
本人の意思に反し意味も無く散って行った多くの人々の事、そしてそんな判断をした(分かった上で
やったならなおさら!)島や大谷の傲慢さを、少しでいいから考えて下さい。
0354たられば君
2008/01/08(火) 10:30:45ID:tBJ7gblC0355人間七七四年
2008/01/08(火) 11:36:43ID:DaZjC7WB俺は歪んでるのかな?そうかもね。>>354の言う様に生き残り一辺倒の細川
父子が嫌いなだけかも。
ついでに言わせてもらえば、あなたの考えは限りなく現代思考だと思うよ。
自分は『義』なんて謳ってないけど、”無理矢理殉じさせられ散っていった”
戦国時代は合戦に於いて、敵前逃亡なんて当たり前。雑兵なんて当然至極。
殺されるの嫌な人は逃げるよ。天皇万歳の近代戦争じゃないんですから・・。
光秀の山崎の合戦でも代表される様に『お見方不利!』って理解してても殉じ
てる武将はなんぼでもいる。自分はそうゆう武将が好きなの。細川藤孝はそう
ゆう人じゃないって言いたいだけ。
大体ね、殉ずるとは主君に対する最後の奉公だよ。(最後まで尽くしてんの)
無理矢理殉ずるなんて言葉は存在しません。
あと、配下より指導力が付加されるって意味が良く分からんので、具体的に
お願いします。
0356人間七七四年
2008/01/08(火) 11:48:56ID:hvLoQ/1K君の意識は江戸期的だな。戦国時代のものじゃ無い。
配下に利益を提供出来ない、世の中の先を読めない、そんなものは指導者として劣悪だとされ
家臣から「見限られる」のが戦国時代だ。
> あと、配下より指導力が付加されるって意味が良く分からんので、具体的に
> お願いします。
集団に対する「指導力」ってものは上部の人間が権利のようにもっているものじゃ無い。
配下の人間が「彼は指導者としてわれらに利益を与えてくれる」と認識されてはじめて
付託される権力だ。
武士の「奉公」とは、あくまで主君の側からの「御恩」があった上での相互契約である。
0357人間七七四年
2008/01/08(火) 12:11:35ID:oXrAz7tS双方とも間違っちゃいない。
”武士の「奉公」とは、あくまで主君の側からの「御恩」があった上での相互契約である。 ”
というのは正しい。主君を渡り歩くものや、戦場で主君を見限る武将なんてのはごまんといる。
良い主君というのは”自分の所領を保障してくれる人物である”というのが第一なのだ。
これは東国武士団の発生からの伝統でもある。
自分たちが開墾し切り開いた農地を守り保障してくれる力ある者に付くことで武士団の形成が進んだわけで。
もう一方で、そういった物質的利益よりも精神的なものを重視する人たちもいた。
江戸時代の儒教的武士道ではなく、なんというか任侠道に近い感覚の士道が古くから存在する。
これは武士団が武装集団であった事とも関係する。武士たちは重武装のヤクザ集団とも言えるわけで。
つまり”こいつのためなら死んでやってもいい”という、やつ。
こういったものを重視する奴らは、負け戦でも付いて行こうとする。
江戸期に入ると、こういった士道は幕府から嫌われて儒教的武士道が流布されるようになる。
0358人間七七四年
2008/01/08(火) 12:36:56ID:DaZjC7WB君の方が江戸期的だと思うがな。
戦国期に於いて先見の明は確かに最重要だと思うよ。ただあなたの論を聞いて
ると自分は精神論ばっかりぶってる様に聞こえる。戦国期の信賞必罰は大前提。
主君に殉じた武将が家臣や一族の事を考えないで、猪突して周りが可哀相なん
て言ってるけど、極論も良い所。自らを省みず主君に殉じる武将が一族郎党の
事を考えない分けないでしょ。懊悩の連続での結論だよ。だからこそ、一族が
最後まで追従する。没落する大名の家臣達は先を読んで、仕える家を変えるの?
みんな?そうではないじゃん。何度も言う様で悪いけど、生き様として島・大谷
の生き方が自分は戦国武将らしいと思うだけだよ。
あと『指導力』と『支配力』はきちがえてない?
0359人間七七四年
2008/01/08(火) 12:47:49ID:hvLoQ/1Kそう感情的になられても困る。
戦国武将とは一般に義なんぞは薬にもする気のない、自己勢力の保全を第一義とする
人間達である。
君の上げているのは極端な例でしかない。そう言うタイプの人間は戦国時代に限らず
どの時代でも出ては来るだろうが、どの時代であったとしても一般的なタイプではない。
それを「戦国武将らしい」などとあたかも一般概念であったかのように語るのは間違いだ。
君の中のロマン主義英雄主義を否定する気はないが、それはあくまで君の意識の中にしか
存在しないモノだ、という事も同時に知っておくべきだろう。
0360人間七七四年
2008/01/08(火) 13:27:27ID:DaZjC7WB冷静なご判断ありがとうございます。自分が言いたい事をほとんど言って
くれてます感謝!
>>359
君に一言言いたい。一番初めに『アホか』って始めといて、人をロマン派
で落ち着かせて、自分は冷静人ぶるとは、なんて奴だ。しかも自分は私的
思考だと強調してるのに一般概念だとも言う。
教えて欲しいのだが、あなたは戦国期ではやっぱ細川父子が好きなのか?
自分は明智派だから、細川を否定したい(正直!)スレ違いスマン!
後は>>357に仰って頂いた通り。
自分は確かに精神的な物を支柱に考える傾向が有る事は認めます。
0361人間七七四年
2008/01/08(火) 14:03:19ID:DASh3BDN0362人間七七四年
2008/01/09(水) 00:05:36ID:f7ycvohu0363人間七七四年
2008/01/09(水) 09:27:20ID:0H3No/Ac明智派には飾らない本音が見えます。
0364人間七七四年
2008/01/09(水) 12:14:08ID:cmUibBri0365人間七七四年
2008/01/10(木) 11:32:01ID:5u+aQGT0うっせ〜。悪いよ。
0366人間七七四年
2008/01/14(月) 22:55:30ID:6Qza703d数寄者にこの釜をつかわすのはあたかも阿弥陀を地獄に落としたような
ものだ」と言ったそうだ・・・。なんてひどい言いようだ。
その後忠隆は(忠興死後)甥の光尚にこれを譲ったそうで、こんなひどい
言われたかたしたんじゃ持っていたくなかったのでは?
0367人間七七四年
2008/01/14(月) 23:38:44ID:xOZQtvms「自分の現代的感覚こそがイコール戦国武将」とか主張されては、「それは違う」と反論せざるを
えないわけで。
0368サイコメトリー
2008/01/15(火) 12:50:56ID:bc6s6To4でも、それを自由にぶつける事が出来る場が2chじゃないの?
しかも”自身の現代的感覚”で主張する以外の方法ってなに?
0369人間七七四年
2008/01/15(火) 12:54:52ID:mBGyrq/W0370人間七七四年
2008/01/15(火) 14:13:31ID:dR/Efmoc筒井定次との折り合いがよくなかったって話だと思ってたけど。
0371サイコメトリー
2008/01/15(火) 17:49:26ID:bc6s6To4それこそ当たり前。
0372人間七七四年
2008/01/15(火) 18:54:38ID:/bNd5N3I僕は、筒井順慶ちゃん!
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1151136284/
0373人間七七四年
2008/01/15(火) 19:04:07ID:NQSByyxt添え状出すような奴だからね。
0374人間七七四年
2008/01/15(火) 20:03:04ID:1UQJwfTF・・・超弩級に嫌みな奴じゃん、忠興w
よく幕府に取りつぶされなかったもんだ。
0375人間七七四年
2008/01/15(火) 22:04:49ID:UMn+MXsx幕府に対してはとても良い人だったから。
0377人間七七四年
2008/01/15(火) 22:54:20ID:l6tSV1Ewどちらかを婚礼の時引き出物で忠興から譲られたんだけど、涙を
流して惜しんで「特別にくれてやる」とか言って与えたそうだか
ら、光尚もいやな思いしてるよ。
でも総合して考えると、一番接点が多かった忠利が一番の被害者かも。
0378人間七七四年
2008/01/16(水) 09:16:04ID:Nmp5+zVa良いのかな? それだけだけど・・。
0379人間七七四年
2008/01/17(木) 18:12:51ID:gjlIG4Ys0380人間七七四年
2008/01/17(木) 18:25:52ID:ZvLYsjHt実際は、特に忠興なんてものすごく複雑な人間だっただろうに。
0381人間七七四年
2008/01/17(木) 18:38:56ID:HrnTQKz/婿養子で結婚した奥さんを大事にし
主君大事
文武両道(武はアヤシイ説もあるが)
戦国武将には珍しく義を第一に置く
・・・というあまりにも出来過ぎた人物よりはおもしろいことは確かでしょう
ネタにするには。
0382人間七七四年
2008/01/18(金) 23:00:01ID:UffQBCTMあれから中村新助について調べてみたのですが、手に入った資料には来歴までは書かれていませんでした(汗)。
彼はそこそこ高い身分にあったのでしょうか? 奥さんの事は書いてありましたが、
彼がどのように生きて亡くなったか、どなたか教えて頂けませんか?
なにとぞよろしくお願いします。
0383人間七七四年
2008/01/19(土) 21:40:50ID:/cVr/oYs(乳母である妻には別に百石与えられた)
豊前で病死したらしい。
0384人間七七四年
2008/01/20(日) 14:24:35ID:BbR4iAkc遠い九州に細川を、大幅加増で栄転(?)させたのは
裏切り常習犯を近くに置いておきたくなかったから。
幕臣で同僚の一色をだまし討ちにし、重代の主人である足利氏を裏切り、
親戚の明智を支援せず、豊臣を裏切り・・・
こんなやつら、誰が信用するかね。
関ヶ原一回で褒章させられた徳川は可哀想。
0385人間七七四年
2008/01/21(月) 00:10:23ID:QWxMp2WI0386人間七七四年
2008/01/21(月) 00:44:13ID:9ItHWT+f>幕臣で同僚の一色をだまし討ちにし
本能寺のとき光秀側に付いたから
>重代の主人である足利氏を裏切り
主君「押込」の構造だよ
>親戚の明智を支援せず
謀叛人になんて味方しない
>豊臣を裏切り
家に仕えたんじゃなくて個人に仕えたんだよ、みんな
…と、全てを正当化してみる。
0387人間七七四年
2008/01/21(月) 12:57:08ID:u9l1QVsGどこの誰が台頭してきても、結局誰かの謀反人じゃん。
ってか、それが戦国時代でしょ。
0388人間七七四年
2008/01/21(月) 23:54:01ID:Kufd7WqE妻を幽閉し最後は自刃に追い込み、
長男を妻と離別させたあげく廃嫡。
次男は切腹させる。77で下女を孕ませる。
・・・列挙するとホントとんでもない奴。
0389人間七七四年
2008/01/22(火) 00:09:08ID:9JKbnJpZ0390人間七七四年
2008/01/22(火) 00:32:56ID:lWHZgtaa列挙した史実に間違いはないんだが、書き方に忠興を貶めようとする意図が感じられるな(玉の生害に関しては言い掛かりに近いし)。
忠興に恨みでもあるのか?
0391人間七七四年
2008/01/22(火) 00:36:57ID:nAij/vj8同じ史実を忠興サイドに立って記述してみよう! 頑張ってね
0392人間七七四年
2008/01/22(火) 01:06:00ID:VRagEKvXガラシャ関係以外でもっとメジャーなって良いと思う
好き嫌いは別にして
0393仙台藩百姓
2008/01/22(火) 10:56:03ID:eqpZmG2z心なかおか何をいふさい
統治者としても良くなかったようだお┐ (´ω`) ┌
0394人間七七四年
2008/01/23(水) 17:57:15ID:54cFz2CZ藤孝は底知れぬ、したたかさを持つ、冷淡な武将だと思う。
0395人間七七四年
2008/01/23(水) 18:24:23ID:9XSfjHivもう一人ミニ信長って言われたのって蒲生氏郷だっけ?
0397人間七七四年
2008/01/23(水) 23:33:04ID:zFA1Ey95例の三十六人手討ちを除けば、家臣にはそこそこ優しかったんじゃなかったっけ?
個人的には振幅の激しさも大好きだが、やっぱり今も昔も世間的にはアレな人とみなされてるのかなぁ
0398人間七七四年
2008/01/26(土) 08:41:55ID:qZZJEzGq義父を見捨てる…主君への筋を通して謀反人を討った
義弟を誘殺…政権移行に伴う激変期を生き残るための判断
ガラシャ幽閉〜自刃・時期にもよるが、味土野への幽閉であれば嫌ったのではなく、
ガラシャの命を狙う家臣から守り、かつ離縁したくないから
一旦細川家から遠ざけた。
最期の生害についても事前に言いつけはしていたが、
決断はガラシャによるものだから、「追い込んだ」という表現は不適切
なお忠興のキリシタン迫害は一時的なもので理解を示したあとはむしろ擁護した。
玉造り屋敷には小さな礼拝堂まで作っているし。
忠隆廃嫡…福知山攻め同様に私怨丸出しだからフォローはしない
興秋切腹…関ヶ原における輝経同様、細川家の生き残りをかけて幕府と大坂に分かれたものと
考えられはするが、敵方についた人間は処断以外にやりようがないのでは。
ただし興秋については逃がされて九州で病没した説もある
忠興の立場で考えるとこうなるんじゃないかなぁ。
77歳で子供作ったってのはフォローしようもないがw
0399人間七七四年
2008/01/26(土) 18:43:08ID:OFME3Y7G明智が勝った場合の保険とするつもりだったけど、負けたので口封じってことはあるかも。
忠隆廃嫡はいきなり(ガラシャが死んだけど嫁は脱出したってのはとっくに知っているはず)ですねえ
これも忠隆室の脱出の件は名目だけのような気がする。
でも前田との縁を切って、秀忠に気に入られている忠利を跡継ぎにするためにしてもタイミングが唐突。
あと領民に嫌われていたってのは初耳。
肥後への国替えのときも中津の町人が付いていったりしている。
0400人間七七四年
2008/01/26(土) 20:25:49ID:nCQZXNrh本能寺のどさくさでひっくり返される危険はあったわけだし
0401人間七七四年
2008/01/26(土) 21:17:05ID:tnvVDB82結構その手を使って領地平定してた時代。
黒田親子が宇都宮鎮房に対しておこなったのと同様。
0402人間七七四年
2008/01/26(土) 22:24:46ID:bDDGUiJg0403人間七七四年
2008/01/26(土) 23:34:54ID:ZI56/e7iつか子供多く作るのは大名の義務だぞ
0404人間七七四年
2008/01/27(日) 18:37:03ID:Ax2or/p+しょうがないんじゃない?忠利も光尚に「三斎様ますます短気でこらえ性なく」と
心配してる手紙書いてたし・・・。
四男以降については、あの当時忠利が結婚後何年経っても子ができず
更に忠利も病弱で早世する可能性あったから、お家存続のため跡継ぎ候補作っ
とく必要があったからだしね。
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