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細川幽斎(藤孝)・忠興父子を語るスレ

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0001人間七七四年2007/02/17(土) 21:24:53ID:kgpQVoWf
戦国時代を代表する文化人幽斎と
幽斎の息子で激情家で知られる忠興を語りましょう。
0285人間七七四年2007/09/22(土) 00:36:18ID:zcmkoxF0
>>283
その三淵晴員が和泉守護細川家の出身で、彼の母系が三淵氏だったはず。
つまり、父系では細川、母系では三淵氏(将軍家の落胤?)の血筋
0286人間七七四年2007/09/22(土) 06:21:29ID:ESJ1jIXF
幽斎の母親が将軍・義晴の側女だったという話。どっちにしろ一応足利家の
血は引いてる。
0287人間七七四年2007/09/25(火) 21:29:28ID:4qZ7ZXiu
幽斉の血筋なんて、どうでもいいよっ
細川忠興は、細川奥州家の細川輝経の家系を継いだんだから
肥後熊本藩にとっては、細川輝経の経歴のほうが重要
0288人間七七四年2007/09/25(火) 22:20:32ID:mQpTxZSf
>287
まぁ、幕臣→義弟に厄介→自害、な訳だが…。
0289人間七七四年2007/09/25(火) 22:50:31ID:Fpt/V0cQ
忠興公(俺達熊本県民はこう呼んでいる)はガラシャ夫人亡き後イエズズ会宣教師と親しくなり
ローマ字の印鑑をプレゼントされたらしいが(『tadawoqui』と彫られている)
02902892007/09/25(火) 22:59:42ID:Fpt/V0cQ
さらにいえば3男の忠利公もローマ字印をプレゼントされたとのこと(『tadatoxi』と彫られている)
0291人間七七四年2007/09/25(火) 23:07:36ID:6HynxyT6
>肥後熊本藩にとっては、細川輝経の経歴のほうが重要
忠興自身は自分の才覚で大名になったという自負のほうが大きかったようだけど。
忠興が幕府から藤孝以前のことを聞かれて”俺が初代なんで、その前のことなんて知らね”といったとか。

でも何で嫡妻の子供でしかも長男を養子に出したんだろう。
すぐ下に同母弟もいるのに。
0292奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/09/25(火) 23:50:56ID:AxPD2ogH
伊達晴宗も長嫡子を他家に出してるけどね。
0293人間七七四年2007/09/26(水) 00:07:23ID:buPTAHVQ
>291
>でも何で嫡妻の子供でしかも長男を養子に出したんだろう。
>すぐ下に同母弟もいるのに。

義輝の命令で養子に出したという話が本当であれば話は簡単。
興元がまだ生まれていなかったから。
0294人間七七四年2007/09/26(水) 08:37:22ID:nLvRrMqr
>>290
輝経は名前からしみて藤孝より年少と思われる。(元服したのが、足利義藤が義輝に改名したあとだから)
そんな若い人間に、まだ他に男子がいない藤孝の息子を養子にする理由は?
実際に、輝経には子供がいたみたいだし。
(田辺篭城時に同一行動とった息子がいたと思う。忠興とどっちが上かはわからないけど)

嫁の実家や本家筋が男子がいなくてというのは、結構きく話なんだけど。
それ後出した側に後継ぎがいなくなり、更に養子を貰う。
(吉良義央の息子が上杉家をついで、その息子が祖父にあたる義央の養子になるとか、伊達晴宗の場合も息子を義父の養子にしているかたち)

0295人間七七四年2007/09/26(水) 19:06:29ID:xSk9g2aE
養子にはなったものの、ずっと行動は幽斎と一緒だったんだよね?
その辺もなんか事情がありそうだ。
0296人間七七四年2007/09/27(木) 00:42:32ID:RqRIxVVL
乗っ取りかな。
0297人間七七四年2007/09/27(木) 02:36:01ID:Nm55Mw4J
今月の芸術新潮・細川家特集だが、忠興の扱いが幽斎より多い!(珍しい)
0298人間七七四年2007/09/27(木) 02:47:43ID:d8YfPG6B
 芸術新潮 10月号 熊本城築城400年記念特集 
「細川家 美と戦いの700年」
・よみがえる熊本城
・歌に遊び、茶に憩う 〜乱世の達人・幽斎と三斎
・茶の湯vs.世界基準 〜細川家の茶道具・やきもの18選
・財政破綻もなんのその肥後国主200年の夢
・往復書簡3000通 細川家、情報戦を制す
・「殿様」の思い出 〜護立コレクションをめぐって

熊本県立美術館
細川コレクション 永青文庫展示室 開館記念
「細川歴代の文と武と美展」
2008年4月25日〜6月末(予定)
0299人間七七四年2007/09/27(木) 08:24:30ID:77qnL4d7
>>298
>・よみがえる熊本城
熊本城を設計施工したのは加藤清正っつー話はなしですかそうですか

でもその展覧会はいってみてーなー
もう一つのゆかりの地・京都辺りに巡回しないかなー 九州トオイヨ
0300人間七七四年2007/09/27(木) 13:28:02ID:LjwudtWE
スレ違いになるかも知れんが
18代目当主・細川護煕さんの展覧会とガラシャ夫人展も火曜日まで熊本県熊本市・鶴屋デパートで開かれていた
ガラシャ夫人のところで幽斎(藤孝)公・忠興公親子のことも結構触れられていた
0301人間七七四年2007/09/27(木) 18:15:36ID:neO4kJXO
もひとつ展覧会情報(でも両方とも熊本なんだよね)
島田美術館「近世肥後の文武−清正、忠興・ガラシャ・武蔵まで−」10月1日〜
熊本県立美術館「激動の三代展−加藤清正・忠広、細川忠利の時代−」10月12日〜
(ちなみに八代市立博物館では清正の宿敵・行長展やるらしい)
0302人間七七四年2007/09/28(金) 19:53:00ID:iUQCkcdy
義輝が殺されたとき、藤孝は勝竜寺にいたため、難を免れたとする小説があるんだが、
当時、三好党が支配する勝竜寺に、藤孝がいれるはずがないよね。
0303人間七七四年2007/09/28(金) 22:41:48ID:5T9qZzE/
>>302
いや、義輝家臣をみな殺しにするって目的だったわけでもないし。(後に義昭の家臣になった足利氏の譜代家臣が一杯登場するでしょ)
非番かなにかで、藤孝が居城にいたらとりあえず危険はない。
屋敷を囲んで奇襲かけたから、屋敷内の男達は全滅かもしれないけど。
0304人間七七四年2007/10/11(木) 02:54:13ID:C6LWWsWS
>>302
足利義輝暗殺の翌年の段階では、岩成友通が城主になっているが、
それより以前は細川元常(細川幽斎の養父)が城主なんだよな。
だから藤孝が城主で、義輝暗殺後に三好が接収した可能性もあると
思うが、誰か詳しい人いる?

ただ、藤孝にポジションからみても、洛中の自邸にいた可能性も
否定はできんかな。


細川家中の岩間六兵衛が武田義信の遺児という情報をみたことあるが、
本当かなあ。尾池玄蕃といい、おちぶれた名族のたまり場になっている気がw
0305人間七七四年2007/10/11(木) 23:23:48ID:HQj+EhU+
>>304
>岩間六兵衛

ググると、信玄・六男:武田信清の子となってるな。
ただ本当に武田氏の縁者なら、若狭武田氏の方が可能性があると思うな。
0306人間七七四年2007/10/12(金) 17:40:32ID:rp8V+8si
>>305
義信の遺児で、小笠原経由で細川に仕官らしいが。
信清の子っていうのもぐぐると出てくるな。
0307人間七七四年2007/10/27(土) 17:21:57ID:ZWdcSEUy
熊本藩って水戸藩並みにうさんくさい家柄の人物取り立ててるよな
0308人間七七四年2007/10/27(土) 17:35:58ID:RQ+880Mp
>>307
この両藩は没落した名門の溜まり場と化してる雰囲気。
0309人間七七四年2007/10/29(月) 00:05:27ID:fGrIXv6K
>>307
藩主の権力が強いと、良くも悪くも胡散臭い人物が抜擢されやすい。
0310人間七七四年2007/10/31(水) 17:11:50ID:uJ5Xt29f
ttp://www.shinshindoh.com/00-x-busyou.htm


斯波武衛家の末裔までいるのか・・・
0311人間七七四年2007/11/02(金) 08:59:12ID:8Qddn4QZ
>>310
リンク先みるかぎり、水戸藩みたいに手当たりしだいに集めたというわけじゃなくて、
室町幕府に仕えた仲とか血縁などを頼って自然と集まったって感じですかね。

しかし、吉良親実と久武親直の子孫が両方仕えているってのもすごいな。
0312人間七七四年2007/11/02(金) 09:30:57ID:O0Ox5kXL
しかも久武の子孫が吉良の子孫を頼っている件w

>>311
重臣も旧室町幕臣系が多いしね。
0313人間七七四年2007/11/03(土) 01:09:59ID:qPG4mCDW
まぁ、厚顔な家系なんだろうねぇ。
逆だったら泣けるが・・・
0314人間七七四年2007/11/10(土) 09:29:31ID:xfveAhdQ
素朴な疑問だけど松井水軍って康之に従って豊前や肥後にもついて行ったんかな?
どの領地も海に面していたし…それとも現地で徴兵なりして再組織してたんだろうか
0315人間七七四年2007/11/14(水) 23:26:53ID:nt0Rszrw
長岡ってのはどこから取ったの?
0316人間七七四年2007/11/15(木) 05:25:10ID:Gkf5keFg
>>315
京都の地名では?
0317人間七七四年2007/11/15(木) 15:25:30ID:t9uTpgQf
勝竜寺のあるあたりの地名だったんだっけ?
たしかあのあたりにかの長岡京があったはずだから・・・
0318人間七七四年2007/11/16(金) 20:25:33ID:FyPB7bnU
あぁ、長岡京あったね。
平安京のひとつ前の。
0319人間七七四年2007/11/19(月) 00:03:53ID:lz1rj1fw
>>312 幽斎が義晴のご落胤っていう説をそれとなく流しておけば
臣従してもある程度我慢ができるからじゃないの?
0320人間七七四年2007/11/19(月) 21:24:09ID:IGoRsXKH
まあ久武に関して言えば家督の問題で元親の意を汲んで動いていたっぽいからなぁ
公では対立しても私では恨みとかなかったんではないのかなぁ
しかし面白いぐらいに没落した人が集っているね
0321人間七七四年2007/11/19(月) 21:28:56ID:BN+3KB/I
足利幕府の後始末をまとめて引き受けた、って感じか。
0322人間七七四年2007/12/15(土) 09:54:25ID:xJ5csQ+v
03年頃のスレみてたが
忠興が男色家だったと書かれてて全く否定する人いなくて笑ったw
あと牛肉大好きだったのは意外だな
0323人間七七四年2007/12/17(月) 17:47:46ID:d+6lPTtn
忠興は家中の衆道を禁じたらしいから男色ってセンは薄そうだけどなぁ
0324人間七七四年2007/12/17(月) 22:07:33ID:C3JgtkH+
うん、それを知ってるから余計もどかしくてさ〜w
戦国武将=男色で忠興もひとまとめにされてた頃があったんだなぁと
0325人間七七四年2007/12/17(月) 22:32:36ID:hD60TzGI
>>318
今もあの辺りは長岡京市があるんですが…
0326人間七七四年2007/12/18(火) 21:20:14ID:wOlXkKQi
細川家に残ってる右近の決別の書状だと意味深だよな
0327人間七七四年2007/12/18(火) 23:01:43ID:0BWl94I8
>>326
ちらっと紹介してクレクレ>右近の決別の書状
0328人間七七四年2007/12/19(水) 00:51:20ID:AZ3SGgQW
>>310
なにこれ!笑
細川やばっ・・・
最後の方とか胡散臭さハンパないな・・・

これの水戸藩版ってある?キボンヌ
0329人間七七四年2007/12/20(木) 21:18:58ID:LgQBnDaG
>>327 「近々、出船いたすことになりました。ところで、このたび一軸の掛物を差し上げます。どなたに差上げようかと
思案しましたが、やはり貴方様にこそ相応しいもの、私のほんの志ばかりでございます。
(中略)六十年来の苦もなんのその、今こそ、ここに別れがやって参りました。先般来の御心尽くしの
お礼は、筆舌につくす事はできません。・・・」
八代市でやってた小西行長展に陳列されてたらしい。
0330人間七七四年2007/12/23(日) 14:25:10ID:kKoNL6UI
細川護熙って所詮分家の宇土藩の血筋だよね
0331-2007/12/23(日) 17:24:33ID:AH19I6Ld
小倉城行ったけど、この二人関連のものはかなり少なかったな…
0332人間七七四年2007/12/23(日) 22:30:18ID:b1tnuh8d
老いてますます盛ん?77歳で娘誕生。
0333人間七七四年2007/12/30(日) 18:41:35ID:aBStunxS
>>294に対する回答
忠興が優秀であるので、より格式の高い細川家を継がせたいと将軍が思ったから
>>287に対する回答
あなたは、すばらしい
>>32に対する回答
そう答えたんじゃなく「自分は輝経の跡を続いだので幽斉とは関係ないです。
同じ細川でも自分の継いだ細川は大外様の細川とも呼ばれた奥州家です。
幽斉の細川とは関係ありません」
と答えたんだそうですよ。
0334人間七七四年2007/12/30(日) 20:59:58ID:pFXCw/aX
>>333
>忠興が優秀であるので、より格式の高い細川家を継がせたいと将軍が思ったから
将軍がねえ。
忠興はおしめをつけていたくらいから、優秀だと評価されていたと?
0335人間七七四年2007/12/31(月) 02:42:11ID:8oHn6bEj
>>334
義輝(もしくは義昭?)が将軍にいた頃、細川忠興はまだガキなので、
むしろ幽斎と公方の関係から・・・というセンの方が妥当とは思う
0336人間七七四年2007/12/31(月) 12:25:56ID:U/n+27iU
聖徳太子は生まれたときから優秀なんだから
おんなじ感じでいいじゃない
0337-2007/12/31(月) 18:43:46ID:JQ2yso62
ノリじゃね?>ベイビー忠興の評価
だっこされて泣かなかったら「むぅ、肝が座っとる…ゆくゆくは大物に」
逆に大泣きしたら、「こいつは勇ましい…ゆくゆくは大物に」
0338人間七七四年2008/01/02(水) 01:15:49ID:6UPAPqvV
京兆家>奥州家>和泉半国守護家だと思うので
細川昭元>細川輝経>細川藤孝だね
席次は
0339人間七七四年2008/01/04(金) 14:07:46ID:FwXTsQGn
忠興って細川輝経の養子になったのに藤孝のそばにずっといたのはなぜ?
更に、小さい頃から藤孝のこと嫌ってたよね。
手に負えなくて玉甫和尚のトコに預けられてたし。
0340人間七七四年2008/01/05(土) 10:46:24ID:VdxvkJ7k
忠興が玉甫に預けられた期間って藤孝らが義昭を連れてに各地を巡っていた頃なんですかね?
じゃあ玉甫が忠興の傅役ってことになるのかなぁー
0341人間七七四年2008/01/05(土) 13:47:18ID:Mr+6IW76
生まれてから5歳ぐらいまでは乳母夫婦に育てられ
5歳の時勝竜寺城に戻って藤孝に会えたんだけど
7歳の時に騒動起こして藤孝と険悪になって
玉甫叔父さんトコに預けられたそうだ。
0342人間七七四年2008/01/05(土) 13:50:13ID:Q3IneSqI
>>339
長岡姓にも同じように改名しているし、藤孝が隠居したときにも忠興が所領を相続しているんだから
輝経との関係はあくまで名目上のことにすぎないのでは。

>>340
藤孝が義昭と亡命生活を送っていたときは、忠興は守り役の夫婦と一緒に、京都で潜伏生活をしていた。
この夫婦の子孫は江戸時代にも引き続いて細川家に仕えている。(全然高待遇じゃないけど)
0343人間七七四年2008/01/05(土) 18:12:43ID:4ADTRc9A
>>342
家康に忠興自身が、藤孝と自分の家系は関係ない
自分は輝経の家系を継いでいる
と言い切っているんだから
後世の他人がケチつけるべきではない
0344人間七七四年2008/01/05(土) 18:39:19ID:VdxvkJ7k
>>342
答えていただきありがとうございます。
その傅役は中村と言う夫婦でしょうか?
手持ちの資料には記載がなかったので、もう少し詳しく教えていただけませんか?
0345人間七七四年2008/01/06(日) 12:42:54ID:decrHlGu
>>343
そうですよね、忠興自身が主張してるんだから
輝経および奥州家が小倉〜熊本藩の先祖ですよね。
0346人間七七四年2008/01/06(日) 13:08:49ID:T7WgS4EO
>>344 乳母は細川家家臣中村新助の妻。
のちに細川家奥向きの大局をつとめる。知行百石。
忠興−忠利の書状に、大局の娘から借米した話が
いくつかでてくるので、結構お金持ち?
0347サイコメトリー2008/01/07(月) 10:30:23ID:MW42B6oV

本能寺に至る以前に光秀が細川父子に事前説得、協力を申し込んだとしたら
細川父子は光秀と手を組んだであろうか?
0348人間七七四年2008/01/07(月) 14:00:46ID:vI4ZvpRf
>>347
織田政権を潰してまだ手に入るメリットが少ないので、組まない。
0349人間七七四年2008/01/08(火) 08:35:56ID:DaZjC7WB
>>347
したたかな細川藤孝なら、表面では協力体制を取り、実際は筒井順慶と同じ
動きを取る公算が高い。戦国武将らしいといえば、らしいが、自分は光秀に
同調しなかった筒井家を潔しとせず、出奔した島左近こそが、本物の戦国武
将だと思う。
0350人間七七四年2008/01/08(火) 09:20:00ID:hvLoQ/1K
アホか。首尾両端をちゃんと推し量って事態の推移にいつでも対応できるようにするのが
本物の戦国武将だ。家を潰してどうする?

島左近なんぞはただの「猪武者」と呼ぶ。
0351人間七七四年2008/01/08(火) 10:10:44ID:DaZjC7WB
>>350
島左近や大谷吉継は負け戦と理解しながら、それに殉じた武将ですが、彼らは
戦国武将その物だよ。状況判断を的確にし、家を守る事を事の大事とし、強き
に着くのは江戸時代の外様と一緒。男気と心意気なくて、戦国武将と呼べるか!
0352人間七七四年2008/01/08(火) 10:21:09ID:CgC79cTd
>351
>状況判断を的確にし、家を守る事を事の大事とし、
>強きに着くのは江戸時代の外様と一緒。

ほとんどの武将はそうやって生き残った訳だが。
0353人間七七四年2008/01/08(火) 10:28:37ID:hvLoQ/1K
>>351
どうやったらそんな歪んだ戦国武将観を持てるんだろう…。

戦国武将ってのは何よりも自分と自分の配下の生存権の確保と利益を誘導するのが
最大の任務だ。それがあるからこそ配下より「指導力」が付加される。

君の大好きな島や大谷の後ろに、自分には何の関係もない主人の「義」とやらに無理矢理殉じされ
本人の意思に反し意味も無く散って行った多くの人々の事、そしてそんな判断をした(分かった上で
やったならなおさら!)島や大谷の傲慢さを、少しでいいから考えて下さい。
0354たられば君2008/01/08(火) 10:30:45ID:tBJ7gblC
生き残りの一典型みたいな細川父子のスレで何を言い争う必要があるだろうか
0355人間七七四年2008/01/08(火) 11:36:43ID:DaZjC7WB
>>353
俺は歪んでるのかな?そうかもね。>>354の言う様に生き残り一辺倒の細川
父子が嫌いなだけかも。
ついでに言わせてもらえば、あなたの考えは限りなく現代思考だと思うよ。

自分は『義』なんて謳ってないけど、”無理矢理殉じさせられ散っていった”
戦国時代は合戦に於いて、敵前逃亡なんて当たり前。雑兵なんて当然至極。
殺されるの嫌な人は逃げるよ。天皇万歳の近代戦争じゃないんですから・・。

光秀の山崎の合戦でも代表される様に『お見方不利!』って理解してても殉じ
てる武将はなんぼでもいる。自分はそうゆう武将が好きなの。細川藤孝はそう
ゆう人じゃないって言いたいだけ。
大体ね、殉ずるとは主君に対する最後の奉公だよ。(最後まで尽くしてんの)
無理矢理殉ずるなんて言葉は存在しません。

あと、配下より指導力が付加されるって意味が良く分からんので、具体的に
お願いします。
0356人間七七四年2008/01/08(火) 11:48:56ID:hvLoQ/1K
>>355
君の意識は江戸期的だな。戦国時代のものじゃ無い。
配下に利益を提供出来ない、世の中の先を読めない、そんなものは指導者として劣悪だとされ
家臣から「見限られる」のが戦国時代だ。

> あと、配下より指導力が付加されるって意味が良く分からんので、具体的に
> お願いします。
集団に対する「指導力」ってものは上部の人間が権利のようにもっているものじゃ無い。
配下の人間が「彼は指導者としてわれらに利益を与えてくれる」と認識されてはじめて
付託される権力だ。
武士の「奉公」とは、あくまで主君の側からの「御恩」があった上での相互契約である。
0357人間七七四年2008/01/08(火) 12:11:35ID:oXrAz7tS
みんな、仲良くな
双方とも間違っちゃいない。

”武士の「奉公」とは、あくまで主君の側からの「御恩」があった上での相互契約である。 ”
というのは正しい。主君を渡り歩くものや、戦場で主君を見限る武将なんてのはごまんといる。
良い主君というのは”自分の所領を保障してくれる人物である”というのが第一なのだ。
これは東国武士団の発生からの伝統でもある。
自分たちが開墾し切り開いた農地を守り保障してくれる力ある者に付くことで武士団の形成が進んだわけで。

もう一方で、そういった物質的利益よりも精神的なものを重視する人たちもいた。
江戸時代の儒教的武士道ではなく、なんというか任侠道に近い感覚の士道が古くから存在する。
これは武士団が武装集団であった事とも関係する。武士たちは重武装のヤクザ集団とも言えるわけで。
つまり”こいつのためなら死んでやってもいい”という、やつ。
こういったものを重視する奴らは、負け戦でも付いて行こうとする。
江戸期に入ると、こういった士道は幕府から嫌われて儒教的武士道が流布されるようになる。

0358人間七七四年2008/01/08(火) 12:36:56ID:DaZjC7WB
>>356
君の方が江戸期的だと思うがな。
戦国期に於いて先見の明は確かに最重要だと思うよ。ただあなたの論を聞いて
ると自分は精神論ばっかりぶってる様に聞こえる。戦国期の信賞必罰は大前提。

主君に殉じた武将が家臣や一族の事を考えないで、猪突して周りが可哀相なん
て言ってるけど、極論も良い所。自らを省みず主君に殉じる武将が一族郎党の
事を考えない分けないでしょ。懊悩の連続での結論だよ。だからこそ、一族が

最後まで追従する。没落する大名の家臣達は先を読んで、仕える家を変えるの?
みんな?そうではないじゃん。何度も言う様で悪いけど、生き様として島・大谷
の生き方が自分は戦国武将らしいと思うだけだよ。

あと『指導力』と『支配力』はきちがえてない?
0359人間七七四年2008/01/08(火) 12:47:49ID:hvLoQ/1K
>>358
そう感情的になられても困る。
戦国武将とは一般に義なんぞは薬にもする気のない、自己勢力の保全を第一義とする
人間達である。

君の上げているのは極端な例でしかない。そう言うタイプの人間は戦国時代に限らず
どの時代でも出ては来るだろうが、どの時代であったとしても一般的なタイプではない。
それを「戦国武将らしい」などとあたかも一般概念であったかのように語るのは間違いだ。

君の中のロマン主義英雄主義を否定する気はないが、それはあくまで君の意識の中にしか
存在しないモノだ、という事も同時に知っておくべきだろう。
0360人間七七四年2008/01/08(火) 13:27:27ID:DaZjC7WB
>>357
冷静なご判断ありがとうございます。自分が言いたい事をほとんど言って
くれてます感謝!
>>359
君に一言言いたい。一番初めに『アホか』って始めといて、人をロマン派
で落ち着かせて、自分は冷静人ぶるとは、なんて奴だ。しかも自分は私的
思考だと強調してるのに一般概念だとも言う。

教えて欲しいのだが、あなたは戦国期ではやっぱ細川父子が好きなのか?
自分は明智派だから、細川を否定したい(正直!)スレ違いスマン!
後は>>357に仰って頂いた通り。

自分は確かに精神的な物を支柱に考える傾向が有る事は認めます。
0361人間七七四年2008/01/08(火) 14:03:19ID:DASh3BDN
明智派、勝利。
0362人間七七四年2008/01/09(水) 00:05:36ID:f7ycvohu
天皇万歳の近代戦争w
0363人間七七四年2008/01/09(水) 09:27:20ID:0H3No/Ac

明智派には飾らない本音が見えます。
0364人間七七四年2008/01/09(水) 12:14:08ID:cmUibBri
頭は悪そうだけどな
0365人間七七四年2008/01/10(木) 11:32:01ID:5u+aQGT0
>>364
うっせ〜。悪いよ。
0366人間七七四年2008/01/14(月) 22:55:30ID:6Qza703d
名物・阿弥陀堂釜を、忠興が休無(忠隆)に譲った時に「おまえのような
数寄者にこの釜をつかわすのはあたかも阿弥陀を地獄に落としたような
ものだ」と言ったそうだ・・・。なんてひどい言いようだ。
その後忠隆は(忠興死後)甥の光尚にこれを譲ったそうで、こんなひどい
言われたかたしたんじゃ持っていたくなかったのでは?
0367人間七七四年2008/01/14(月) 23:38:44ID:xOZQtvms
現代人である自分のシュミ嗜好で、誰それが好き誰それは嫌いとやるのは自由ですがね。
「自分の現代的感覚こそがイコール戦国武将」とか主張されては、「それは違う」と反論せざるを
えないわけで。
0368サイコメトリー2008/01/15(火) 12:50:56ID:bc6s6To4
>>367
でも、それを自由にぶつける事が出来る場が2chじゃないの?
しかも”自身の現代的感覚”で主張する以外の方法ってなに?
0369人間七七四年2008/01/15(火) 12:54:52ID:mBGyrq/W
当時代人感覚を推測して主張する、当たり前だな
0370人間七七四年2008/01/15(火) 14:13:31ID:dR/Efmoc
島が出奔したのって筒井順慶が光秀に加担しなかったからだっけ?
筒井定次との折り合いがよくなかったって話だと思ってたけど。
0371サイコメトリー2008/01/15(火) 17:49:26ID:bc6s6To4
>>369
それこそ当たり前。
0372人間七七四年2008/01/15(火) 18:54:38ID:/bNd5N3I
>>370
僕は、筒井順慶ちゃん!
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1151136284/
0373人間七七四年2008/01/15(火) 19:04:07ID:NQSByyxt
>>366 なんせ茶杓を譲るのに「涙を流して・・・」などと未練たっぷりな
添え状出すような奴だからね。
0374人間七七四年2008/01/15(火) 20:03:04ID:1UQJwfTF
このスレでさんざん分かっていたつもりだったんだが





・・・超弩級に嫌みな奴じゃん、忠興w
よく幕府に取りつぶされなかったもんだ。
0375人間七七四年2008/01/15(火) 22:04:49ID:UMn+MXsx
>374
幕府に対してはとても良い人だったから。
0376人間七七四年2008/01/15(火) 22:35:19ID:1UQJwfTF
>>375
つまりそれって

つ 内弁慶
つ 強きを助け弱気はくじく

・・・うわっ、超最低男だw
0377人間七七四年2008/01/15(火) 22:54:20ID:l6tSV1Ew
>>373 光尚も被害者その3です。[肥後拵え]だか「歌仙拵え」の
どちらかを婚礼の時引き出物で忠興から譲られたんだけど、涙を
流して惜しんで「特別にくれてやる」とか言って与えたそうだか
ら、光尚もいやな思いしてるよ。
でも総合して考えると、一番接点が多かった忠利が一番の被害者かも。

0378人間七七四年2008/01/16(水) 09:16:04ID:Nmp5+zVa
狡猾也。細川家。まぁそれでもお家守るって考え方では
良いのかな? それだけだけど・・。
0379人間七七四年2008/01/17(木) 18:12:51ID:gjlIG4Ys
人間的な問題点もまた興味深いし面白いと思うんだがなぁ、忠興
0380人間七七四年2008/01/17(木) 18:25:52ID:ZvLYsjHt
ゲームみたいに人間の性格ってものを単純化したがる奴が多いな。
実際は、特に忠興なんてものすごく複雑な人間だっただろうに。
0381人間七七四年2008/01/17(木) 18:38:56ID:HrnTQKz/
まあ、来年の大河の主人公みたいに
婿養子で結婚した奥さんを大事にし
主君大事
文武両道(武はアヤシイ説もあるが)
戦国武将には珍しく義を第一に置く
・・・というあまりにも出来過ぎた人物よりはおもしろいことは確かでしょう









ネタにするには。
0382人間七七四年2008/01/18(金) 23:00:01ID:UffQBCTM
以前中村新助について質問させていただいた者なのですが、
あれから中村新助について調べてみたのですが、手に入った資料には来歴までは書かれていませんでした(汗)。

彼はそこそこ高い身分にあったのでしょうか? 奥さんの事は書いてありましたが、
彼がどのように生きて亡くなったか、どなたか教えて頂けませんか?

なにとぞよろしくお願いします。
0383人間七七四年2008/01/19(土) 21:40:50ID:/cVr/oYs
>>382 永禄11年に百五十石遣わされたと記録にあり。
(乳母である妻には別に百石与えられた)
豊前で病死したらしい。
0384人間七七四年2008/01/20(日) 14:24:35ID:BbR4iAkc
家康が畿内近郊の丹後から

遠い九州に細川を、大幅加増で栄転(?)させたのは

裏切り常習犯を近くに置いておきたくなかったから。

幕臣で同僚の一色をだまし討ちにし、重代の主人である足利氏を裏切り、

親戚の明智を支援せず、豊臣を裏切り・・・

こんなやつら、誰が信用するかね。

関ヶ原一回で褒章させられた徳川は可哀想。
0385人間七七四年2008/01/21(月) 00:10:23ID:QWxMp2WI
それはあるな……
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