細川幽斎(藤孝)・忠興父子を語るスレ
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0001人間七七四年
2007/02/17(土) 21:24:53ID:kgpQVoWf幽斎の息子で激情家で知られる忠興を語りましょう。
0021人間七七四年
2007/02/23(金) 01:18:49ID:EfftzdFM「花と火の帝」でそう思った。
0022人間七七四年
2007/02/23(金) 02:24:24ID:2siPfyHA興秋は大坂の陣では真田隊に属して戦ったようだね
0023人間七七四年
2007/02/23(金) 08:56:15ID:mzo+PzCe0024人間七七四年
2007/02/25(日) 21:02:28ID:E9HXbvWT5歳になって初めて勝龍寺城に戻って幽斎に会えたと「綿考輯録」にある。
こんな生い立ちがあの性格をつくりあげたのかも・・・。
更に7歳ぐらいの時に、家臣同士の争いが起こってこの騒動を大いに喜び、一方に肩入れして一方を追い出した。
これを聞いた藤孝が激怒して忠興を譴責しその結果親子の間が険悪になった。
その後、大徳寺の玉甫(幽斎の弟)の所に預けられたとか。
そういえば玉との縁談を信長が持ちかけた時、「剛強に過ぐる」と辞退してるくらいだから
藤孝がもてあますぐらい相当なものだったんでしょう。
0025人間七七四年
2007/02/25(日) 21:38:21ID:1bShFhjZ親元で厳しく躾けられたとはほど遠い感じだね……。
半ば捨て子扱いで、親に対する恨みめいたものもあったろうし。
0027人間七七四年
2007/02/27(火) 20:37:07ID:mrbFIG3T忠興と不和になって出奔した興元の面倒もみて家康にいろいろ根回ししたらしく最終的に彼は矢田部藩主になれた。
なんだか忠興がおこした騒動の後始末してるような・・・。「やれやれ」とため息をつく幽斎が目に浮かぶ。
0028人間七七四年
2007/02/27(火) 22:22:41ID:MZthBM/6谷田部立藩のときも当初10万石の予定だったのを、不仲の忠興の横槍で2万石になったらしい。
息子達に対する態度といい、才能はあるが人格面は異常だね。
0029人間七七四年
2007/02/27(火) 22:26:56ID:0AJQGYF40030仙台藩百姓
2007/02/27(火) 22:44:07ID:2xW0dYsu0031人間七七四年
2007/02/27(火) 23:23:21ID:IlZ+5lNy美人と名高い玉だったけど忠興のDVで顔が変形していた
その顔を見た庭師が他所で漏らすのを危惧して殺害したのが真相
0032人間七七四年
2007/02/27(火) 23:28:07ID:Ul1jvWjH関が原の役の後、最初怒って幽斎に会わなかったとか(最後には開城したのが気に食わなかったらしい)
幕府から、幽斎以前の細川家について問い合わせあったとき、”俺が初代なんで、前のことは知らん”って言ったりとか。
でも小野木公郷が降伏したあと、家康に助命を願ったって話もあるんだよね。
一応情けはあるのか?
0034人間七七四年
2007/02/28(水) 20:36:11ID:vunI9QpT九州まで下ってきた右近に対して「もし棄教するのならばなんとしても大御所様を説得してみせる」と申し出たとか。
それを裏付けるような右近の「決別の書状」が永青文庫に残ってるし・・・
そういえば利休に対してはあの有名な「淀の渡し」の逸話もあるし・・・。なんというかサドで冷酷な面とあまりにも落差が大きい
0035人間七七四年
2007/02/28(水) 21:12:06ID:vunI9QpTこの結果に面目をつぶされた直政が激怒して、家康に「越中の如き酷い者を畿内に置くことは無用」と讒言され、
忠興は但馬一国加増が沙汰止みになってしまったという顛末だった。
003733
2007/02/28(水) 21:24:25ID:EPP3HZdOびっくりしたのは>>31のレスですた
忠興は玉の事を偏った愛ではあるが
大事にはしてたと思うが?
>>29のは有名な話だもんなあ
嫉妬深く、子供の頃から気性も荒くて
狂い者ではないかと家臣に言われきた忠興なら有得るよ
0038人間七七四年
2007/02/28(水) 22:30:34ID:iGEWbGNQあれ?私のほうの史料(旧陸軍参謀本部の関が原の役)では、忠興が福知山城接収後、大坂で助命嘆願したことになっています。
井伊直政は出てきませんね。 山岡景友が公郷への開城説得役で出てくる。
細川氏を九州に飛ばすのは規定事項じゃないのかな?
関が原の戦前に家康が細川氏に加増した豊後領の隣が新しい領地だから、豊前が新領地ってのは当然のような気がします。
飛び地(畿内周辺と九州)がそのまま継続できるってのも虫が良すぎる話のような。
でも長男の忠隆が、「遠国に飛ばされた」って愚痴っている書状も残ってますね。うーん。
0039人間七七四年
2007/03/01(木) 11:52:11ID:DsMtLk+E石田三成襲撃なんかした忠興は、あまり好きになれない
あの時三成襲撃に加わった七将はそれだけで武将としての価値が下がった気がする
加藤清正や福島正則なんかのような成り上がり大名ならさまありなんって感じだが
細川のような名門があんな軽挙な行動は似合わない
きっと親爺とは性格が合わない武将だったと思う
0040バロン曽志崎
2007/03/01(木) 19:25:20ID:fNHtSVQj忠興は何故か市井では人気がなかったのかヘタレ扱い。
0041人間七七四年
2007/03/01(木) 20:05:22ID:HUXALvAJ@ある時奥の台所で何かあったのか騒がしい折に下人が一人紛れ込んでいるのを忠興君が見つけ、言い付けを背くからこのようなことになるのだといって
その下人を手打ちにした。その血刀を伽羅奢さまのお召しになっている小袖で拭いたが(伽羅奢様は)少しも騒ぐことなく、その小袖を3日も4日も召したまま
お着替えにならなかった。忠興君は結局困り果てて侘びられようやくお召し替えとなった。この時「汝は蛇也」(一説に「我は鬼也」)と仰せになると
「鬼の女房には蛇かなる」とお答えになられた。(伽羅奢様は)侍女たちが驚き騒いだのを女といえども武家に仕える者はみだりに騒ぐべきではないと
お示しになられたのだ。
0042人間七七四年
2007/03/01(木) 20:14:05ID:HUXALvAJ棚に置きいつまでもそのままにしておかれた。後に忠興君も困り果てられ、幽斎君が侘びられてようやく
取り除くこととなった。<幽斎巻き添え −その1−>
0043人間七七四年
2007/03/01(木) 20:24:35ID:HUXALvAJ庭に落ちたのを、忠興君は早速その者の首を刎ね、御前様(ガラシャ)の膝上に投げつけたのを、
(ガラシャは)少しも驚くことがなかった。このお手打ちはご夫婦でいらっしゃるところを
屋根師が落ちてみたのを、他言を避けるためになさったことだという。
0044人間七七四年
2007/03/01(木) 20:43:36ID:HUXALvAJ(これは台所人に咎がおよばないようにしたためだった)忠興君が見つけ、「膳の脇に隠したものは何か」とその椀をとりご覧に
なり髪の毛があったため、「さては台所人をお庇いか!」と妬み、走り出て台所人の首を切り
御前様の膝上に置かれたのを、(ガラシャは)何も言わず終日座っておられた。忠興君は粗忽な振る舞いを
悔やんだが、(ガラシャは)首をお取りのける様子もなく、幽斎さまの仰せでお取り除きとなったという。
<幽斎巻き添え −その2−>
以上どれも忠興ならありえそうな話です。ガラシャの対応もすさまじい。
0045人間七七四年
2007/03/01(木) 20:52:47ID:BFHH4KL60047正親町天皇
2007/03/02(金) 22:55:00ID:WdSluAHq0048人間七七四年
2007/03/03(土) 00:53:14ID:BYbzsYgNみんなどちらかというと幽斎っぽいと思うけど
0049人間七七四年
2007/03/03(土) 18:42:52ID:DT3qzz0I幕府に目を付けられて、とっくの昔に細川家は改易消滅していただろう
最も当代細川家当主は母方の近衛家(というより文麿)の性格そっくりでどうかなと思うがw
0050人間七七四年
2007/03/03(土) 18:44:08ID:EWWkB/Upつ反面教師
0051人間七七四年
2007/03/04(日) 09:42:04ID:O7P84XWH息子たちともことごとく不和になってるし、更に孫の光尚とも×だし。
勘気を蒙って出奔した家臣も結構いるし、あと生涯手打ちにしたのは36人だとか。
まだ戦国の世だったからいいけど。江戸時代中期以降だったらまじでやばい。
そういう意味でも平和な世には危ない奴だ。
0052人間七七四年
2007/03/04(日) 13:36:37ID:JtpapW/K残りの弟達は年が離れているせいか、控えめな印象がある。
>息子たちともことごとく不和になってるし、更に孫の光尚とも×だし。
不和なのは忠利まででしょ?その下の息子たちはかなり可愛がっていたみたいだし。
0053人間七七四年
2007/03/04(日) 20:38:01ID:Vytbz0xG0054人間七七四年
2007/03/05(月) 00:46:18ID:MosLSIE3見かねた光尚が間に入ったけど聞き入れずと「綿考輯録」にあります。
かわいがっていた立孝にも江戸で先立たれてしまい八代立藩も没に。
長生きはしたけど晩年は孤独だったんでは?
0055人間七七四年
2007/03/05(月) 00:51:19ID:v7wtAaD/有能なんだろうけど嫉妬深かったということで、評価が下がる
0056人間七七四年
2007/03/05(月) 01:15:36ID:O+Sx3auq底暗い性根を隠せば隠すほどオブラートが気色悪い。
大嫌いだって言ってた○○でも殺したら逆にスッキリすると思う。
開眼するんじゃないの?
0058人間七七四年
2007/03/05(月) 12:38:12ID:jbBQbgkN0060人間七七四年
2007/03/05(月) 19:39:09ID:CBIwIXU9幽斎も利休も九州平定前に島津へ連名で書状出した当時は、400年後に
お互い親戚になるなんて思いもしなかっただろうね。
0061人間七七四年
2007/03/06(火) 01:24:11ID:EGf1lYH/細川親子だったら親父の首が飛んでそう
0062人間七七四年
2007/03/06(火) 13:01:27ID:fTgCgAjW現代でいうとなんて病名になるの?
0063人間七七四年
2007/03/06(火) 19:16:00ID:49eifsjQA幼児期のトラウマ・嫉妬・傲慢・対人関係における相手の不当利用からいくと「自己愛性人格障害」
B異常なまでの執着・独占欲・支配欲でエスカレートする特徴があり、最悪の場合殺人や障害事件に
発展する・・・「ストーカー行為」の定義。ガラシャに対する忠興の態度がまさにそれ。
0064人間七七四年
2007/03/06(火) 19:24:59ID:EFaIT0kOとかないとか。実際はどうなんだろう。義輝と晴元は基本的には協調していた
から、時期的には限定されるけど。
0065人間七七四年
2007/03/06(火) 19:56:48ID:v8BHvZWm直政の方は必死なかんじがまだ理解できんこともないが
ヤバ興さまはダメですどう見ても真性です病院行って下さい
しかし友達は多いみたいだな…黒田とは不仲で有名だがこいつは忠興以外にも嫌われまくりだし
0066人間七七四年
2007/03/06(火) 20:00:39ID:JYJqdL9D内弁慶全開w
0067人間七七四年
2007/03/06(火) 20:19:26ID:49eifsjQ1547年 晴元と決別した義晴・義輝親子とともに北白川城に入る。
晴元勢の攻撃を受け、北白川城が落城。近江国に逃れる。(13歳)
1551年 晴元の軍勢が三好長慶の軍勢と交戦する(17歳)
1556年 坂本で晴元が興行した連歌会に参加する(22歳)
「週刊 日本の100人 細川幽斎」より
0068人間七七四年
2007/03/06(火) 21:00:10ID:7kH23j4jしかしこの本どこまで信じていいのかな?身内が書いた本だしなぁ。
0069人間七七四年
2007/03/06(火) 23:43:02ID:49eifsjQ(細川家に不利なようには書かないわな)
0070人間七七四年
2007/03/07(水) 00:36:08ID:++QEaOsL0072人間七七四年
2007/03/07(水) 01:04:46ID:TwirRw0Eでもその鉄砲の腕を家康に惜しまれて助命されて、松平家に仕えることができた。
芸は身を助ける、か。
0073人間七七四年
2007/03/07(水) 12:20:17ID:A1MfJpbNもともと領地引継ぎの際の年貢の取り扱いでもめて、
黒田は興元の逃亡を助ける、細川は後藤又兵衛の逃亡を助ける&息子の一人を保護
後々まで両家は仲よくなかったみたいですね。
0074人間七七四年
2007/03/07(水) 22:33:35ID:RvnqUoAEガラシャに対する異常さは勿論、侍女を折檻したり稲富を執拗に奉公構えする忠興の変態っぷりがよく描かれている。
そんな忠興に対して一歩引いてる感じの幽斎、夫より幽斎を慕うガラシャという設定で結構笑える。
0075人間七七四年
2007/03/07(水) 22:58:26ID:RvnqUoAE0076人間七七四年
2007/03/07(水) 23:08:33ID:A1MfJpbN関が原までは仲悪くないんですよね。
忠興も、豊後の留守部隊には、豊前の黒田官兵衛と肥後の加藤清正を頼れって指示しているし、
実際に大友義統と戦ったときは、黒田勢が主力として戦っている。
(清正は応援に出兵したけど間に合わなかった)
黒田長政も、短気な性格だったようなエピソードが結構残っているし、
支城の配置は全部細川との国境沿い、喧嘩する気まんまんですね。w
0077人間七七四年
2007/03/08(木) 18:01:49ID:DAJPK/pd0078人間七七四年
2007/03/08(木) 23:23:20ID:dyGSBXXg長政より更に腹黒で、限りなく黒い関係・・・
0079人間七七四年
2007/03/08(木) 23:35:14ID:dyGSBXXg黒田如水・黒田長政に続いて(笑)なぜか載っている!
説明文は「信長・秀吉に仕え、関が原の戦い後、豊前小倉39万石を領した。
夫人は明智光秀の娘ガラシャ。」となっている。
妻が有名なキリシタンだから載せたのか?
0080人間七七四年
2007/03/08(木) 23:48:04ID:cc68Lr0z豊前時代に、ガラシャ追悼のため、キリスト教関連の行事を行って、宣教師の説教も聴いているからでは?
信仰はしなかったけど、教えの内容は理解しているとか宣教師が評価していたような。
まあ、キリシタン大名には入らないと思うけど。
0081人間七七四年
2007/03/09(金) 01:20:39ID:M3ViE/UH0082人間七七四年
2007/03/09(金) 01:55:33ID:4Rj7IgY4かなり凄かったんだろうな<黒田vs細川
あとは加賀前田家とも長男の件で百年ほど絶縁状態だったとか
0083人間七七四年
2007/03/09(金) 17:51:48ID:fQMpO7Fj忠隆の件については、幕府(家康)から干渉があったという話も。
細川家に、”前田家との親戚付き合いはやめろ”
前田家に、”忠隆の生活を支援するな”
おかげで忠隆は、金沢に入れず、前田家からは厄介者扱い。
妻とも離縁して後に京都に隠棲、生活費も細川氏が出していたそうです。
0084人間七七四年
2007/03/09(金) 19:22:38ID:BW+KahQdしかも彼は日本史B教科書の頻度数7なので名前が多色刷りになっている。
ちなみに長政の頻度数4に対して忠興と如水は頻度数3(長政の勝ち!)
0085人間七七四年
2007/03/09(金) 20:49:59ID:HqHAwU00良いキャラしてるなw
0086人間七七四年
2007/03/10(土) 23:17:25ID:d3Cvyzda「茶の湯を利休に学び、「利休七哲」の一人に挙げられています。
和歌や連歌、有職にすぐれ、能楽、絵画に通じた文化人でもありました。」
と紹介しているが、「和歌や〜」以降は幽斎と混同してるよな・・・
0087人間七七四年
2007/03/11(日) 22:21:22ID:1ZUSDoWF一応、当時の水準だと一流に入るんじゃ・・・。
藤孝には、「お前は対したこと無い」とかそんな意味のこと言われてた気がするけど。
その藤孝も、芸術家としての評価は低いと聞いたことがある。(作った歌は凡庸とか)
伝統の継承者として評価されるという感じですかね。
0088人間七七四年
2007/03/12(月) 20:17:25ID:aAZuYXHJいつの時代でも父親は息子に「お前は大したこと無い」って言うものだわな。
逆に褒めてたらそれはそれで気持ちが悪い。
0089人間七七四年
2007/03/12(月) 20:38:45ID:/vzO7BPTまあ彼の場合、優れているのが和歌だけでなく連歌・鞠・包丁(料理)・太鼓(鼓)だとか。
更に剣術は塚原卜伝に「一の太刀」を許され、あと弓術の印可も持ってたとか。
彼の多芸多才を表している話として九州の小領主が「私などとても多くの者は召抱えられないから
1人で和歌・連歌・乱舞・弓馬の道すべてに通じた人はいないだろうか?」と知り合いに相談したところ
相手は「そういう人を1人だけ知っている。細川幽斎どのだ。抱えたらどうだ?」とからかった
という話が松永貞徳の「戴恩記」にあるらしい。
0090人間七七四年
2007/03/12(月) 22:10:02ID:RWyTiqru藤孝は別に新しい歌風も技法を作ったわけじゃなからね。
木下長嘯子は江戸時代前期まで影響を与えた。
純粋な歌人としてみるならば、木下長嘯子の方が上じゃないか?
0091人間七七四年
2007/03/14(水) 22:12:50ID:4jGsecQk八条宮智仁親王→後水尾天皇と朝廷に受け継がれた(御所伝授)流れを
つくった功績は高いと思う。
0092人間七七四年
2007/03/22(木) 01:07:51ID:wEYRdW5d三淵家の始祖は足利義満の子供で養父の細川元常自身が元々父・晴員の弟だから
(叔父さんのとこに養子に行ったから)つまり細川家そのものの血は引いてなくても
足利家そのものの血は引いているということになる?
0093人間七七四年
2007/03/22(木) 11:37:48ID:Vk9+dICR落胤説は別にして
0094人間七七四年
2007/03/22(木) 13:16:55ID:65nq4dBO和泉半国守護を務める細川家の息子が三淵家へ養子へ
実家の細川家に跡継ぎがいないから、次男を細川家(晴員の兄)の養子にする
細川元常は藤孝の叔父ではなくて、伯父です。
この細川家はそれまで養子を取ってないと思う。まあずっと前の先祖は足利家だけど。
三淵家は系図・出自はあいまいなんじゃないの?
足利尊氏の子孫(義満の子孫でも合ってるけど)って話も聞いたことがあるような。
0095人間七七四年
2007/03/26(月) 00:17:25ID:C9q7llvcあと森可成も?
0096人間七七四年
2007/03/26(月) 11:51:30ID:xSbgs4TP>あと森可成も?
年齢的に合わないような。息子の長可か忠政?
長可も、領地美濃で信忠付きですよね?
接点あったかな?なにかエピソードありましたっけ?
0097人間七七四年
2007/03/26(月) 19:25:43ID:j4GwxNjP@秀吉死後、文治派が家康を討とうとした時忠興と共に家康の屋敷に駆けつけて
「両家の真心は徳川家が続く限り忘れない」と家康に感謝された。
A忠政が津山城を普請する時、家臣に命じて密かに小倉城の城郭図を写し取らせようとしたが
見つかってしまい捕らえられたが事情を話すと、以外にも忠興は城郭図を貸し与えた。
更に津山城落成の折にお祝いとして南蛮の釣鐘を贈っている。
−なんかの本で忠興の度量の大きさを伺わせる話(!)として紹介されてた。
0098人間七七四年
2007/03/26(月) 19:50:15ID:fKsN0AKB0099人間七七四年
2007/03/26(月) 20:01:32ID:mX/xB+Ak0101人間七七四年
2007/03/26(月) 20:05:00ID:QamoBqpT0102人間七七四年
2007/03/27(火) 01:19:02ID:4fYwgZvy腹を立ててその小姓の頭を叩いたのを信長に見られてしまい「忠政は幼いから小姓は無理だ」
と言われ家に帰されてしまったが結果としてはその後本能寺の変が起きたから命拾いしたことになるけど。
・・・こんなエピソードあるくらいだから暴慢な忠興とは気があったんだろうか?
0103人間七七四年
2007/03/27(火) 23:41:01ID:o/VcNPnzいやなコンビ(忠興&忠政)だなあ。共通の友人は心が落ち着かないでしょうね。w
Wikipedia見てきたけど、森忠政って石高はあまり大きくないけど、官位は高いんですね。
0104人間七七四年
2007/03/28(水) 13:51:38ID:S38JVPhV0105人間七七四年
2007/03/29(木) 00:22:54ID:p56CRnhj彼宛てにさかんに書状を出して助言を求めてますね。
ま、(忠興と違って)忠利はまともだし、実際丁寧アドバイスしてあげてたらしい。
0106人間七七四年
2007/03/29(木) 13:40:44ID:722Ebcoyhttp://osaka.yomiuri.co.jp/news/20070323p301.htm
0107人間七七四年
2007/04/01(日) 22:50:20ID:4Tn8Ld+B0108人間七七四年
2007/04/02(月) 00:05:20ID:GZLAIt5k幽斎の弟に嫁いだ娘だけは養女説があるが、基本的には全員麝香の子と言われている。
側室の存在も知る限り確認できないし。
ただ、そうなると麝香は四十過ぎでも子供を生んでいることになるんだよなぁ。幽斎夫婦がんばった?
0109人間七七四年
2007/04/03(火) 22:19:54ID:JYcGg7+U(如水は子ども少ないけど)
0110人間七七四年
2007/04/03(火) 22:28:04ID:lb8PJhwn遅レスだが、
俺も忠興はボダじゃないかと思ったことあるw
0111人間七七四年
2007/04/04(水) 00:18:24ID:ZjRXSaDpガラシャが興秋だか娘を入信させたときに、忠興の母親がめちゃくちゃ怒ったという話と、
豊前時代に、忠興の母親がキリスト教に入信して深く理解を示したという話があって
前者の話との整合性から、後者の女性は(記録したイエズス会側の誤解とか宣伝で)麝香じゃないのではって推測されたことがあったと思います。
後、興元が出奔した表向きの理由が、自分や松井康之と同じような石高で、実績もない弟達が処遇されるのが納得できないって理由なんで
実は弟二人は別腹ってことはないですかね?
3男幸隆だけ関が原でも留守番部隊だし。
興元も兄と似て結構尊大な性格っぽいので、本当に功績を認めていないだけかもしれないけど。
0112人間七七四年
2007/04/06(金) 14:53:55ID:MBvrtoPc最終的には大坂の陣で大坂方について忠興に切腹させられたし、
忠興の家族観は非常に現実的というか、政治>>家族の匂いのキツさがある
0113人間七七四年
2007/04/07(土) 03:12:32ID:P0b/rAAi麝香の方が忠興に内緒で、家康に執り成しを依頼していたそうだ。(松井家文書より)
0114人間七七四年
2007/04/07(土) 22:45:28ID:nUIYKzDhだったんでないの?
幽斎らしい深謀遠慮ってやつで、古今伝授をタテに篭城を切り抜ける勝算は
あったんでしょうから・・・。
0115人間七七四年
2007/04/10(火) 23:22:09ID:UswUh5IIだったら愛情少ないのかな?
0116人間七七四年
2007/04/12(木) 09:50:51ID:9rD1AuH5本能寺でパニくってる忠興と対照的な藤孝。
しかもこのオヤジの息子の扱い方がとても心得ているようで良かった。
オヤジに向かって殴りかかる忠興を軽く足払いで…
こりゃ、家臣は大変だったろうな(笑)
0117人間七七四年
2007/04/15(日) 11:41:34ID:nHIOjhkBよく紹介されてるけど幽斎が亡くなったのは1610年だし、幽斎は遺言により
南禅寺・天授庵に葬られてるし、これってあきらかに誤りですよね?
0118人間七七四年
2007/04/26(木) 20:52:03ID:E6u+UBy4と解釈していた。
単に供養をするためだけのお寺かと。
幽斎が亡くなる前に菩提寺を建てるってのもなんか変だなあとは思うけど。
忠興が張りきって建てたものの、幽斎は嫌がったとかw
0119人間七七四年
2007/04/30(月) 21:06:17ID:5CQr/adp名づけるはずだし、むしろ叔父の玉甫を住持として迎えるための塔頭として
建てたのに、いつの間にやら「幽斎の菩提を弔うため」と混同されたのでは?
0120人間七七四年
2007/04/30(月) 22:23:39ID:FKBPXboy■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています