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細川幽斎(藤孝)・忠興父子を語るスレ

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0001人間七七四年2007/02/17(土) 21:24:53ID:kgpQVoWf
戦国時代を代表する文化人幽斎と
幽斎の息子で激情家で知られる忠興を語りましょう。
0207人間七七四年2007/07/27(金) 23:55:22ID:jJY9MlcA
>>206
たぶんそれは違うと思われ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E8%88%88
0208人間七七四年2007/07/28(土) 21:56:41ID:X/ibWLDN
・長女が嫁いでたのは前野景定。秀次事件の際秀吉に人質に差し出すよう言われたが
剃髪させて細川家で引き取ったので秀吉の餌食にはならなかった。
・秀忠関連で縁づいてるのは2人の三男・忠利。正室は家康のひ孫にあたり秀忠・小督夫妻の
養女として忠利に嫁ぐ。
0209人間七七四年2007/07/28(土) 22:02:21ID:mZsHwbQT
モーニングで幽斎が息子に一撃食らわせてたぞ。
0210名無しさん@そうだ選挙に行こう2007/07/29(日) 03:47:38ID:axSHbCEA
>>204 今日の夕刊では秀次に皮肉っぽく「ガラシャに会わせてもらえない」と
言われとる。
0211人間七七四年2007/07/31(火) 17:48:40ID:srSCuB2v
>>205 忠興って結構器用で、関が原の時生煮えになった米を上手く炊き直したり、
石切り場で石工に石の切り方まで指導したり、甲冑(越中流)や刀(肥後拵え)とか
工夫したりとそういうの得意だったみたいだから、可能性はかなり高いかもね。
0212人間七七四年2007/07/31(火) 19:08:07ID:OUxvu0FM
忠興=士郎 幽斎=雄山 玉=栗田
0213人間七七四年2007/08/01(水) 01:22:24ID:rUw1k+Pv
米田是政の奥さんは確か明智光秀の姪?(とにかく明智の血筋だったはず)
本能寺の変の時はどうしたんだろ?
0214人間七七四年2007/08/07(火) 20:58:49ID:3EZ3hvlr
>>192 衆道嫌いのエピみつけました。
家臣2人が厳禁していた男色をひそかに行っていた。忠興が2人を呼びつけて厳しく咎めたが、全く反省する色がなかった。それどころか
「われら両人、一命をかけて兄弟の契りを結びましたうえは、いかなる仕置きをも甘んじてお受けいたします」と決死の覚悟を見せた。すると忠興は
意外にも「よろしい、お前たちは特別に許してやろう。そのかわり、今後より一層忠節を尽くせ」と言った。てっきり成敗されるものと思っていた
2人は意外な結果に茫然自失した。まもなく両人の男色はやみ、それを最後に家中の弊風はすっかり改まったという。
0215人間七七四年2007/08/07(火) 21:22:57ID:xvU57W5E
所詮その程度の愛かよ
0216人間七七四年2007/08/07(火) 21:35:11ID:Pv56z3kR
単なる嗜みだからな。
本気になってる奴は少数。
0217人間七七四年2007/08/10(金) 12:37:06ID:RI21yP8A
あのご相談なんですが、今度細川家をテーマにした小説(同人誌ですけど)を
書くつもりでして、主に登場する家臣団は以下の面々を選出しました。
彼等の他にこの家臣は外すなというご意見がありましたら、よろしくお願いします!



松井康之
有吉立行
米田是政
沼田延元
三淵光行
飯河宗祐
沢村才八
加賀山隼人
河喜多石見
小笠原秀清
穴生理右衛門
稲富祐直
02182172007/08/10(金) 19:00:06ID:RI21yP8A
追記です。
あと青龍寺以来の家臣で魚住万之允を出そうと考えています。
万之允は魚住市正の事でよろしかったですよね?
間違いがありましたら、遠慮なく指摘してください。
0219人間七七四年2007/08/12(日) 19:02:08ID:lwNuflh5
幽斎は誰かに古今伝授したの?
0220人間七七四年2007/08/12(日) 23:00:31ID:NvOLFIZM
八条宮とか島津義久とか
0221◆nzdGjBH722 2007/08/12(日) 23:01:54ID:Xpwnn3ph
木下勝俊・・・関ヶ原改易後幽斎から古今伝授を受け、木下長嘯子と名乗り山家記を記した。

0222人間七七四年2007/08/14(火) 21:11:13ID:Nv+DkaMS
あと烏丸光廣。
ちなみに、龍伯については彼が質問した部分が秘伝に触れるため誓詞を出させた
といういきさつなのでホントの意味での古今伝授ではない。
0223人間七七四年2007/08/14(火) 21:15:00ID:Nv+DkaMS
>>217 家臣ではないですが、忠興・弟の幸隆が出るとよいかなと・・・。
できたら能がらみのエピで
02242172007/08/14(火) 23:13:05ID:LsK/njxD
>>223
ご意見、ありがとうございます。
幸隆や興元のエピソードも入れるつもりでした。こないだ話題に挙がった妹のすごいエピソードも。
ちなみに幸隆について能にまつわる有名なエピソードとはなんでしょう?
幸隆に関する資料をあまり用意できない状況で、それは存じませんでした;
0225人間七七四年2007/08/15(水) 00:10:58ID:YDz7VXMP
>>222
kwsk
02262252007/08/15(水) 00:19:20ID:YDz7VXMP
特に
>龍伯については彼が質問した部分が秘伝に触れるため誓詞を出させたといういきさつ
の下りについて

コピペする前にUPしてしまった・・・(´・ω・`)
0227人間七七四年2007/08/15(水) 10:16:53ID:i1kAQV5+
>>222 伝授した人物(補足)
三条西公国・・・後に息子に相伝することを条件に、三条西実枝は幽斎に古今伝授した。
         実枝の死後、天正8年約束通り公国に「返し伝授」したが、後に彼は32歳で亡くなってしまった。
中院 通勝・・・実枝の甥。公国の死後、伝授を開始したが一旦中断。最終的に終了したのは慶長9年。
烏丸 光広・・・慶長8年に伝授終了。ちなみにこの人の息子に忠興の娘(万)が嫁ぐ。
0228人間七七四年2007/08/16(木) 18:18:40ID:UdN/2sju
>>225 すみません。夭折した別の弟・蓮丸のエピと混同してました。蓮丸は忠興とは結構年が離れてて一緒に舞台に立って
能を舞ったと記録にあるそうで幽斎夫妻が描かせた画像が南禅寺に残されてる。
細川家は能が好きで松井等家臣と天正11年から慶長5年の間に50回以上演能してますね。
幸隆も若くして亡くなって、能楽史の上で結構重要な本を残してるらしいです。
0229人間七七四年2007/08/17(金) 23:25:46ID:auFjydC1
「立花宗茂」の小説読んでたら、忠興と仲良しのように描かれてたけど(ホントかいね?)
(しかも宗茂に側女を紹介してたし!)
02302172007/08/18(土) 15:57:30ID:3XFq6HdE
>>228
情報をいただきましてありがとうございます。
先日手に入れた資料に能興行の事も記されていましたが、まさか五十回とは!
改めて文武両道を地で行く家柄なんだと感じ入りました。

それから関ヶ原後に加わる主要な家臣も以下の通りに絞りこんでみました。



氏家宗入(行継)
清田乗栄
村上景広
志水元五
藪正照
益田蔵人
後藤又一郎



調べれば調べるほど、細川家臣団ってキャラの立っている事がわかってきて面白いです。
よろしければまたご意見などいただければ幸いです!
0231人間七七四年2007/08/19(日) 14:35:37ID:YUBoWjL/
>>229
宗茂と忠興が仲良しという明確な証拠になる史料は知らないが
細川家が宗茂に側室・矢島氏を融通したのは本当のようだね
河村哲夫『立花宗茂』に書いてある話。
0232人間七七四年2007/08/21(火) 19:47:03ID:i5K/S8ut
友達に似たような親子がいるな。

その親子は地元の名家ってやつで(俺んちの周辺は超田舎で、明治かよって
ぐらいに封建主義が残ってる。未だにこの家の使用人とかいっぱいいる)
しかも親戚が代議士だの網元だの神主だのがいて、まあこの狭い町じゃ
絶対的な権力者なんだが、

親父は超人格者で町中の人たちから尊敬されていて、しかも骨董とかで
個展を開くぐらい芸術好き(あまり上手くないらしいが)。

息子は、親父の権力をいいことに暴れまくり。忠興と違い文化的素養は
ゼロだけど。
0233人間七七四年2007/08/21(火) 22:52:22ID:39HQQl3k
>232
似ているのは親子という点だけだな。
0234人間七七四年2007/08/22(水) 00:59:45ID:4ip6oDyj
>>231 忠興弟・興元の2度目の妻が宗茂の娘だから、それが関係してるかも?
0235人間七七四年2007/08/22(水) 01:38:27ID:PXap4h+k
>>232
言っちゃあ何だが、馬鹿息子ひとり矯正できんような親父も
たかが知れたものよ

細川忠興の場合はDQNというより偏執狂だし、なによりも
かなりの将であり文人であるからな
0236人間七七四年2007/08/22(水) 06:34:32ID:gsbfuuQL
>>231
立花宗茂は夏の陣の時に忠興の部隊と一緒に毛利勝永と戦ってるしね。
客観的に見ると仲良しとして描かれるだけの接点はあるように思われる。
0237人間七七四年2007/08/22(水) 06:56:53ID:05DsuYBW
矢島氏が来たせいで正室と別居になったんじゃないっけ?宗茂
0238人間七七四年2007/08/22(水) 08:35:06ID:Ds/98Ywj
>>235
全面的に同意だが、藤孝も教育に関しては?だよな
あれだけの男だったらいくらでも教育で矯正できそうなものだが
教育される方も賢いんだし
まあ自ら手塩をかけて育てる時代でもないが
0239人間七七四年2007/08/22(水) 10:44:59ID:r4WbmAf2
>>237 小説では、ぎん千代が出て行った。
0240人間七七四年2007/08/22(水) 12:37:47ID:57h2NKHl
細川親子の肖像画てないの?
0241人間七七四年2007/08/22(水) 13:38:30ID:6A0he+1L
藤孝は菩提寺の南禅寺天受庵に左うちわwの肖像画があるよ。
これは掛け軸になった物で、妻の麝香夫人のも対である。

忠興のもあったと思うが所蔵までは覚えていない。
0242人間七七四年2007/08/22(水) 20:44:12ID:PXap4h+k
永青文庫?じゃないの
0243人間七七四年2007/08/22(水) 21:14:56ID:1zC0eixj
>>238
忠興の性格は戦国時代の基準から言えば「ちょっとキレやすい」くらいだろ。
そんなどうこう言われるほど歪んじゃいない。
0244人間七七四年2007/08/22(水) 22:45:09ID:gkyhkoY4
永青文庫にも肖像画あるね
もう公開終わっちゃったかな
0245人間七七四年2007/08/23(木) 01:11:00ID:/PYL2tyV
忠興の肖像画っぽいのみたことあるけど、結構イイ男だった
ガラシャとは美男美女夫婦と言われてたらしいし
0246人間七七四年2007/08/23(木) 22:50:59ID:bZYN+J/k
永青文庫の「細川家歴代の肖像画400年」展(19日で終了)で、幽斎・忠興の
隠居・剃髪後の肖像画見たけど、幽斎は丸顔で、忠興は面長だったよ。
忠利はどっちかつうと、束帯姿の幽斎に似てたな。(性格的にも忠興の子とは思えん。)
0247人間七七四年2007/08/23(木) 23:52:58ID:+T6lBh+Z
なんか忠興‥
カコ(・∀・)イイ!
でも昔の基準でいうとどうなん?
0248人間七七四年2007/08/24(金) 00:32:12ID:pmGkZAT9
ネット上には
つ http://www.sengoku-expo.net/portrait/images/L/009-q02.jpg
こんなのしかないな>忠興像
神経質な爺という印象w

幽斎の左うちわ
つ http://www.sengoku-expo.net/portrait/images/L/080-q01.jpg
忠興には似ているようで似てないような
忠利
つ http://www.kumamotonet.jp/siro/museum/hosokawa.jpg
・・・うーむ。意外といかつかった。
0249人間七七四年2007/08/24(金) 05:05:46ID:Xe1r8Fo1
幽斎は目の辺りとか細川元首相にくりそつだよな。
0250人間七七四年2007/08/24(金) 11:59:12ID:OBGdtrFr
永青文庫で展示してあった忠興の画は>>248の画でした。
>>249 幽斎のDNAって延々と十八代目まで面ざしが受け継がれる程強いんだな。
0251人間七七四年2007/08/25(土) 01:22:47ID:K3Nry8jx
永青文庫って雰囲気が何ともw
0252人間七七四年2007/08/25(土) 01:31:09ID:DADMvcN1
政治的に能無しってとこまでそっくり。
0253人間七七四年2007/08/26(日) 11:04:53ID:/vxGzzJ7
学研M文庫から「細川幽斎」でたね。(まだ読んどらんが)
0254人間七七四年2007/08/26(日) 11:22:35ID:/vxGzzJ7
細川護熙の熙って光秀の妻・熙子から取ったという噂があるが・・・。
0255人間七七四年2007/08/28(火) 06:10:55ID:OyWw+vxW
忠興の鎧が見たいけどググっても出てこない
0256人間七七四年2007/08/28(火) 10:38:53ID:1JiPSSVk
>>255
http://www.kmnh.jp/hosokawa/
の黒糸威横矧二枚胴具足
0257人間七七四年2007/08/30(木) 15:06:37ID:6Uy48X28
>>256
ありがとう!
頭の羽すげーwww目立ちまくりじゃないか
0258人間七七四年2007/08/30(木) 18:17:37ID:GnFMMyD/

忠興の顔、渋くて良いじゃん

ttp://www.geocities.jp/senryusai/senryusai.hosokawa.html
0259人間七七四年2007/08/30(木) 21:05:06ID:lrtx4y4H
>>257
関ヶ原で舞鶴に例えられたくらいだしな。
現代人には奇抜に見えるけど当時はかなり綺麗に見えたみたい
0260人間七七四年2007/09/02(日) 10:23:11ID:+dK8bjk+
熊本県立美術館でやってる親子で見る美術展「熊本偉人列伝」に
忠興が入ってる!(一般人が誤解する)
0261人間七七四年2007/09/02(日) 10:32:45ID:FgunW2qv
幽斎のほうが功績大きい。
0262人間七七四年2007/09/02(日) 10:35:11ID:8+e59Z32
幽斎は京都の人だからじゃない?まあ忠興もだが
0263人間七七四年2007/09/05(水) 00:08:11ID:XX3DT7bm
>>256 情報戦略家としての幽斎の話。その他に鬼蛇のエピで新説(奥座敷で男の声
に混ざって玉の嬌声が聞こえたのを不審に思った忠興がやがて奥から下男が出てき
たのを見咎めて手討ちにした)忠興・玉の夫婦喧嘩を必死で仲裁する幽斎夫妻の話
もあり。あと極めつけが春日局は忠興の斡旋で家光の乳母になったというトンデモ説だった。
0264人間七七四年2007/09/05(水) 00:28:34ID:LeEKSpo7
細川幽斎って、京都で猛牛が暴れて突進したのを素手で止めたってどっかの本で読んだけど、本当?
だと、すると、相当の体格のいい人だったんだね。
0265人間七七四年2007/09/12(水) 23:02:14ID:+2GNlpDH
>>264 弟子の松永貞徳が幽斎から直接聞いた話だそうで「戴恩記」に載ってる話。
他の怪力エピとしては、幽斎が織田信勝の屋敷へ入ろうとした時に門番が不審人物と誤解し竹の棒を突き出され、
すかさず竹棒とともに門番の手をねじり上げ手の骨を砕いてしまったという話もある。
0266人間七七四年2007/09/17(月) 22:15:56ID:CDKLH4zR
日本史小典の中に織豊時代の人々<キリスト教の伝来>で黒田如水と一緒に
なぜか忠興が載っている。如水の備考欄は「受洗大名」だが、忠興のは「妻・
ガラシア」となっていた!だったらガラシャを項目にすべきと思うが・・・。
0267人間七七四年2007/09/17(月) 23:24:18ID:CDKLH4zR
ガラシャが忠興宛に書いた手紙を読むと「この書に対してはお返事は結構です」
とわざわざ断り書きしてるとこ見ると、ガラシャが次の手紙書く前に忠興から
手紙届いちゃってたのかな?
(他の書状読むとガラシャは筆不精だったみたいで、だとしたら苦痛だろうな)
0268人間七七四年2007/09/17(月) 23:35:32ID:F55KV+Li
つれない女だな
だがそれがいいのか
0269人間七七四年2007/09/18(火) 01:40:44ID:KzpgK+bw
忠利との書簡もかなり残っていたり、娘に「頭を剃ったら
親父そっくりだw」なんて手紙を送ったりしてるあたり、
かなり細川忠興という人は筆まめだったんじゃないか
0270人間七七四年2007/09/18(火) 13:59:37ID:zMxinAnR
「夫の留守中くらい、こっちはノンビリしたいのに、
あの人ったら手紙まで寄越して来て、しつこいのよ!」って感じかも
忠興の(愛の)束縛が鬱陶しかったのね〜
0271人間七七四年2007/09/18(火) 18:12:57ID:62oZhhrc
律儀な忠利は、忠興からあんまりおびただしく書状がくるので閉口しながら
返事してたらしい。
実際、忠興が手紙の中で「なにより手紙を書くのが好きなので」と書いてる(笑)
忠利死後、今度は孫の光尚が忠興の相手しなければならなかったから
手紙の量にびっくりしたんじゃないか?
0272人間七七四年2007/09/18(火) 21:05:32ID:Z/Chww4x
今の時代だったら忠興はメール魔だな
0273人間七七四年2007/09/18(火) 21:31:21ID:h8mGDazl
忠興「何よりメールを送るのが好きなので」
0274人間七七四年2007/09/18(火) 23:42:20ID:ISKvZY53
世が世なら防犯カメラでなく、嫁に監視カメラと盗聴マイクをつける家庭内ストーカーだな。
0275人間七七四年2007/09/19(水) 00:02:54ID:OpBvm9Mp
嫁にカメラ付けてどうする?
0276人間七七四年2007/09/19(水) 00:56:08ID:izyk0OFm
>>274

絶対やっていたはず!
0277人間七七四年2007/09/19(水) 00:57:15ID:QhLtqebp
即レスしないと「まだ読んでないの?」「なんで返事くれないの?」と
しつこくメールしてきそうだ。
0278人間七七四年2007/09/19(水) 03:01:14ID:djKlKoyG
携帯開けたら新着メール20件とか恋敵の首切断とかの女と同レベルか
ヤンデレは忠興を元に作られた
0279人間七七四年2007/09/19(水) 21:46:03ID:EnGCmEJ0
>>276 そのとおり!
「この若い越中殿の妻に対する過度の嫉妬と彼女に対して行った極端な監禁は
普通一般の日本人の習慣とは大いに異なって信じられぬほど厳しいものであった。
2人の身分の高い家臣に昼夜を問わず妻の監視を義務付けた。ごく親しい親戚か身内の
者以外には彼女へのいかなる伝言も許さぬようにした。」
−ルイス・フロイス「日本史」より要約−
0280人間七七四年2007/09/19(水) 23:09:06ID:d2Yg4h9w
極端な監禁って、当時の身分が高い奥方なら普通だった外出の規制を
文化の誤解で(または忠興を反キリスト教な人物として)書いたとも考えられる。
昼夜を問わずの監視も、身辺警護なら昼夜を問わないで行うのは普通だし。
自殺しそうなガラシャを見張るためだったとも言える。
「普通一般の習慣と違い」って一般庶民の妻と大名の妻とでは、厳しさが異なって当然だから
フロイスの言葉を全て鵜呑みにするのは危険だと思うが。
0281人間七七四年2007/09/19(水) 23:20:41ID:aGk56WC7
フロイスの日本史は確かに貴重な資料ではあるけど、
キリスト教に好意的でない奴らのことはボロクソ書くし、
秀吉の側室200人というのも、実際は側室とそのお付きや侍女も
含めての人数で、どうもフロイスはそこらへん理解出来てなかった
みたいだし。鵜呑みはできまいて
0282人間七七四年2007/09/20(木) 00:14:09ID:XDEh11m9
たいていの歴史はそんなもんだ。
そのまま受け取れるようなもんじゃ無い。
まぁ、信じて騒いでるアホも多いけど。
0283人間七七四年2007/09/21(金) 23:19:37ID:Pmo0BrdU
細川細川つってるけど、元は三淵氏。
だが三淵氏についてハッキリしない。
尊氏の落胤とか義満の落胤とか。
0284人間七七四年2007/09/21(金) 23:20:40ID:Pmo0BrdU
細川細川つってるけど、元は三淵氏。
だが三淵氏についてハッキリしない。
尊氏の落胤とか義満の落胤とか。
0285人間七七四年2007/09/22(土) 00:36:18ID:zcmkoxF0
>>283
その三淵晴員が和泉守護細川家の出身で、彼の母系が三淵氏だったはず。
つまり、父系では細川、母系では三淵氏(将軍家の落胤?)の血筋
0286人間七七四年2007/09/22(土) 06:21:29ID:ESJ1jIXF
幽斎の母親が将軍・義晴の側女だったという話。どっちにしろ一応足利家の
血は引いてる。
0287人間七七四年2007/09/25(火) 21:29:28ID:4qZ7ZXiu
幽斉の血筋なんて、どうでもいいよっ
細川忠興は、細川奥州家の細川輝経の家系を継いだんだから
肥後熊本藩にとっては、細川輝経の経歴のほうが重要
0288人間七七四年2007/09/25(火) 22:20:32ID:mQpTxZSf
>287
まぁ、幕臣→義弟に厄介→自害、な訳だが…。
0289人間七七四年2007/09/25(火) 22:50:31ID:Fpt/V0cQ
忠興公(俺達熊本県民はこう呼んでいる)はガラシャ夫人亡き後イエズズ会宣教師と親しくなり
ローマ字の印鑑をプレゼントされたらしいが(『tadawoqui』と彫られている)
02902892007/09/25(火) 22:59:42ID:Fpt/V0cQ
さらにいえば3男の忠利公もローマ字印をプレゼントされたとのこと(『tadatoxi』と彫られている)
0291人間七七四年2007/09/25(火) 23:07:36ID:6HynxyT6
>肥後熊本藩にとっては、細川輝経の経歴のほうが重要
忠興自身は自分の才覚で大名になったという自負のほうが大きかったようだけど。
忠興が幕府から藤孝以前のことを聞かれて”俺が初代なんで、その前のことなんて知らね”といったとか。

でも何で嫡妻の子供でしかも長男を養子に出したんだろう。
すぐ下に同母弟もいるのに。
0292奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/09/25(火) 23:50:56ID:AxPD2ogH
伊達晴宗も長嫡子を他家に出してるけどね。
0293人間七七四年2007/09/26(水) 00:07:23ID:buPTAHVQ
>291
>でも何で嫡妻の子供でしかも長男を養子に出したんだろう。
>すぐ下に同母弟もいるのに。

義輝の命令で養子に出したという話が本当であれば話は簡単。
興元がまだ生まれていなかったから。
0294人間七七四年2007/09/26(水) 08:37:22ID:nLvRrMqr
>>290
輝経は名前からしみて藤孝より年少と思われる。(元服したのが、足利義藤が義輝に改名したあとだから)
そんな若い人間に、まだ他に男子がいない藤孝の息子を養子にする理由は?
実際に、輝経には子供がいたみたいだし。
(田辺篭城時に同一行動とった息子がいたと思う。忠興とどっちが上かはわからないけど)

嫁の実家や本家筋が男子がいなくてというのは、結構きく話なんだけど。
それ後出した側に後継ぎがいなくなり、更に養子を貰う。
(吉良義央の息子が上杉家をついで、その息子が祖父にあたる義央の養子になるとか、伊達晴宗の場合も息子を義父の養子にしているかたち)

0295人間七七四年2007/09/26(水) 19:06:29ID:xSk9g2aE
養子にはなったものの、ずっと行動は幽斎と一緒だったんだよね?
その辺もなんか事情がありそうだ。
0296人間七七四年2007/09/27(木) 00:42:32ID:RqRIxVVL
乗っ取りかな。
0297人間七七四年2007/09/27(木) 02:36:01ID:Nm55Mw4J
今月の芸術新潮・細川家特集だが、忠興の扱いが幽斎より多い!(珍しい)
0298人間七七四年2007/09/27(木) 02:47:43ID:d8YfPG6B
 芸術新潮 10月号 熊本城築城400年記念特集 
「細川家 美と戦いの700年」
・よみがえる熊本城
・歌に遊び、茶に憩う 〜乱世の達人・幽斎と三斎
・茶の湯vs.世界基準 〜細川家の茶道具・やきもの18選
・財政破綻もなんのその肥後国主200年の夢
・往復書簡3000通 細川家、情報戦を制す
・「殿様」の思い出 〜護立コレクションをめぐって

熊本県立美術館
細川コレクション 永青文庫展示室 開館記念
「細川歴代の文と武と美展」
2008年4月25日〜6月末(予定)
0299人間七七四年2007/09/27(木) 08:24:30ID:77qnL4d7
>>298
>・よみがえる熊本城
熊本城を設計施工したのは加藤清正っつー話はなしですかそうですか

でもその展覧会はいってみてーなー
もう一つのゆかりの地・京都辺りに巡回しないかなー 九州トオイヨ
0300人間七七四年2007/09/27(木) 13:28:02ID:LjwudtWE
スレ違いになるかも知れんが
18代目当主・細川護煕さんの展覧会とガラシャ夫人展も火曜日まで熊本県熊本市・鶴屋デパートで開かれていた
ガラシャ夫人のところで幽斎(藤孝)公・忠興公親子のことも結構触れられていた
0301人間七七四年2007/09/27(木) 18:15:36ID:neO4kJXO
もひとつ展覧会情報(でも両方とも熊本なんだよね)
島田美術館「近世肥後の文武−清正、忠興・ガラシャ・武蔵まで−」10月1日〜
熊本県立美術館「激動の三代展−加藤清正・忠広、細川忠利の時代−」10月12日〜
(ちなみに八代市立博物館では清正の宿敵・行長展やるらしい)
0302人間七七四年2007/09/28(金) 19:53:00ID:iUQCkcdy
義輝が殺されたとき、藤孝は勝竜寺にいたため、難を免れたとする小説があるんだが、
当時、三好党が支配する勝竜寺に、藤孝がいれるはずがないよね。
0303人間七七四年2007/09/28(金) 22:41:48ID:5T9qZzE/
>>302
いや、義輝家臣をみな殺しにするって目的だったわけでもないし。(後に義昭の家臣になった足利氏の譜代家臣が一杯登場するでしょ)
非番かなにかで、藤孝が居城にいたらとりあえず危険はない。
屋敷を囲んで奇襲かけたから、屋敷内の男達は全滅かもしれないけど。
0304人間七七四年2007/10/11(木) 02:54:13ID:C6LWWsWS
>>302
足利義輝暗殺の翌年の段階では、岩成友通が城主になっているが、
それより以前は細川元常(細川幽斎の養父)が城主なんだよな。
だから藤孝が城主で、義輝暗殺後に三好が接収した可能性もあると
思うが、誰か詳しい人いる?

ただ、藤孝にポジションからみても、洛中の自邸にいた可能性も
否定はできんかな。


細川家中の岩間六兵衛が武田義信の遺児という情報をみたことあるが、
本当かなあ。尾池玄蕃といい、おちぶれた名族のたまり場になっている気がw
0305人間七七四年2007/10/11(木) 23:23:48ID:HQj+EhU+
>>304
>岩間六兵衛

ググると、信玄・六男:武田信清の子となってるな。
ただ本当に武田氏の縁者なら、若狭武田氏の方が可能性があると思うな。
0306人間七七四年2007/10/12(金) 17:40:32ID:rp8V+8si
>>305
義信の遺児で、小笠原経由で細川に仕官らしいが。
信清の子っていうのもぐぐると出てくるな。
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