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細川幽斎(藤孝)・忠興父子を語るスレ

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0001人間七七四年2007/02/17(土) 21:24:53ID:kgpQVoWf
戦国時代を代表する文化人幽斎と
幽斎の息子で激情家で知られる忠興を語りましょう。
0181人間七七四年2007/07/15(日) 23:09:23ID:fa9axV8U
>>180 忠興のためというより、子どものためなのでは?本能寺の変の時点で身籠ってたまま
幽閉され三戸野で興秋を出産したし、乳飲み子見捨てて自害は忍びなかったんじゃないの?
更に、幽閉後生んだ光(忠利)がえらい病弱で付っきりで看病してたらしいからなおさら
見捨てられずそのままずるずるいっちゃったのでは?
(珠が入信したのは光の病弱も原因の一つだったらしい)

0182人間七七四年2007/07/16(月) 04:50:53ID:m5Gy9ckG
>>178
どっちにせよ、この男にそんな事言われても全く説得力はないがw

ただ、このサイトを見ると、案外忠興も寛容だったところもあるらしい。
ttp://www.tamahime.jp/text/faq/
0183人間七七四年2007/07/16(月) 12:58:19ID:RU1FwzXg
寛容かなー?

江戸城で、登城する大名のおつきの武士が控えている部屋があって、やることもないので、つい居眠りしている者が結構いた。
ところが、細川家の家臣のみ背筋を伸ばして、ちゃんと正座している。
感心したある大名が、「どうやって指導してるんですか?」と聞いたら、「2度までは失敗しても許すけど、3度やったら成敗します」だと。

逆に好きなエピソードは、
中津に隠居した忠興が忠利に「家臣がちっとも挨拶にこない、お前が挨拶に行くのを禁止してるんだろ」と文句をつけたら
忠利が、「いや、ちゃんと挨拶に行ってかまわないと言ってます。来訪者のリスト貰えれば、行ってない人間を指導します」と返事した。
家臣たちは「こりゃ、大変」と大挙して中津に挨拶に行ったので、逆にあまりにも来訪者が多くなって
忠興が「やっぱ、挨拶はほどほどでいいよ」って前言撤回したやつ。
0184人間七七四年2007/07/16(月) 13:54:25ID:m5Gy9ckG
>>183
加藤清正のとこも3度目でアウトだった気が。
それでも生涯手打ち36人の名は伊達じゃないな
0185人間七七四年2007/07/16(月) 18:11:12ID:INuXbkVa
小倉では細川忠興って人気あるな
小笠原の浸透はイマイチだな。礼儀作法位か。
0186人間七七四年2007/07/16(月) 20:47:44ID:AS0kMlxf
小倉の八坂神社建てたのも忠興だしね。巌流島も細川家絡みなわけで。
そういえば小倉城の展示解説に>>97のAにある話が紹介されてて
この話から忠興は度量の広い人物であったとコメントを載せてあった!!
(これじゃあ何も知らん人たちに誤った印象を与えてしまうじゃないか)
0187人間七七四年2007/07/16(月) 21:01:58ID:m5Gy9ckG
>>186
それはないwwこれほど狭量な男も珍しいぞ

0188人間七七四年2007/07/16(月) 23:28:14ID:AS0kMlxf
>>182にある寛容って、イエズス会年報に載ってた「そちがキリスト教を奉じたければかまわない」
と言ってガラシャが思いのままにいつまでもお祈りができるように、そのための礼拝所や祭壇を、
忠興自らそれらの建築に指図したって話のこと?
このエピも、それ以前の鼻削ぎ等々のエピからすればものすごい豹変ぶりだね。
0189人間七七四年2007/07/17(火) 00:32:53ID:9cpJl9/o
当初は件の鼻削ぎや、改宗するよう脅迫したなど言われているが、
後には礼拝所やら祭壇やらに配慮を示すようになってる。
ガラシャの死後のコメントといい・・・・越中守に何が起きたんだろうか?
0190人間七七四年2007/07/17(火) 01:08:25ID:k+KahlRM
本気で惚れてたとしたら、単純に途中までは脅して何とかなると
思ってたが、玉が本気だとわかって止めたんじゃないか?

これ以上やったらマジで捨てて出て行かれる、と。
0191人間七七四年2007/07/17(火) 02:55:53ID:sLZBSMg4
>>180-181
キリシタンで自害は御法度。
0192人間七七四年2007/07/17(火) 03:02:56ID:9cpJl9/o
>>190
鼻削ぎやってたころくらいに、玉が「別れたい」と宣教師に
相談したことがあったらしいから、それを聞いて慌てたのかも
しれんなw

あと、なぜか三斎が衆道が大嫌いだったらしいが、何故だろうな?
0193人間七七四年2007/07/17(火) 04:09:26ID:X7iMX1hc
>>191
当時のガラシャはまだキリスト教徒ではないよん
0194人間七七四年2007/07/17(火) 11:48:34ID:ZirGNA2W
>>190
精神的に不安定だったガラシャが、とりあえずキリスト教に入信したことで落ち着いたとか
周囲の人物も入信して、強硬策取りづらくなったということもあるかも知れない。

豊前時代の初め、領内で比較的キリスト教に寛容だったのは、
九州の領民への普及率が丹後時代と比べて高かったからじゃないかなと思ってるんですが。

0195人間七七四年2007/07/17(火) 22:34:07ID:BFvN/wHL
>>192 信長に近侍してる頃、なんかあったんでないの?
0196人間七七四年2007/07/19(木) 00:14:39ID:b2TJORpm
忠興は隠居してから「三斎」と号したが、これをもじって別名「三災」とも
言われてたらしい。(本能寺の変で光秀に付くか否かの二者択一を迫られたこと、
秀次事件で連座させられそうになったこと、関が原の折ガラシャが自刃させられたこと
以上3つの災難で三災というわけ)
0197宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c 2007/07/19(木) 00:30:25ID:Lg7Zmxbe
備中兵乱の際、毛利宇喜多に攻められた三村元親は、
細川幽斎と仲が良かったらしい。
元親が松山城に籠城してる時、幽斎は元親に歌書「八雲集」を届けている。
また、元親が自害する際にも幽斎へ一句残している。
この2人の繋がりが個人的に気になってる。
流れぶったぎってすまん。
0198人間七七四年2007/07/21(土) 16:27:21ID:Y3047f2e
三淵光行さんって藤孝に養育されたようなのですが、結局細川家臣にはならなかったんでしょうか?
この人の資料ってあんまり無くて・・
0199人間七七四年2007/07/23(月) 00:16:37ID:E747rRLj
田辺篭城の際によく幽斎を助けたことを、あとで知った家康に高く評価され旗本
として召しだされた(1609年近江に千石与えられた)
02001982007/07/24(火) 16:18:18ID:AHbjiVdQ
解説ありがとうございます。
一応は家臣入りしたんですね。しかもその後、ヘッドハンティングとは驚きました。

細川家臣団は皆さん逸話が多くて凄いと思います。
特に飯河親子の最期は・・(;_;)
0201人間七七四年2007/07/24(火) 21:51:30ID:MOzl+qhi
長岡監物(米田是季)が出奔したのは飯河親子誅伐の一件も原因なのかな?
0202人間七七四年2007/07/25(水) 06:17:02ID:cnWg+LJr
>>199
私の読んだ資料には三淵光行は関ヶ原合戦に参加したと書いてありました。
実際はどうだったんでしょ。

>>201
飯河親子粛清で細川家に不審を抱いて出奔したみたいですね。
この頃は加賀山隼人の切腹とか内部的な事件も多かったので
嫌気がさすのも仕方ないのかなぁ。
0203人間七七四年2007/07/25(水) 23:50:16ID:27+3l7IS
戦国時代板のwikiです。
ご自由に利用してください。
http://www37.atwiki.jp/sengokuita/
0204人間七七四年2007/07/27(金) 18:37:37ID:6VlOX55t
今日の読売の夕刊に連載の「美女いくさ」(秀忠の正室となる小督が主人公)に
忠興が母親(麝香の方)と一緒に登場。まだどんな人物設定かは謎。
0205人間七七四年2007/07/27(金) 19:42:58ID:7S38pBFb
細川忠興が越中褌を考案したという説はどのていど信憑性があるのでしょうか?
0206人間七七四年2007/07/27(金) 21:58:24ID:b1D74hn7
忠興とガラシャの長女が、後年
秀忠の家老の息子と結婚するんじゃなかったっけ・・・?
うろ覚えでスマソ
0207人間七七四年2007/07/27(金) 23:55:22ID:jJY9MlcA
>>206
たぶんそれは違うと思われ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E8%88%88
0208人間七七四年2007/07/28(土) 21:56:41ID:X/ibWLDN
・長女が嫁いでたのは前野景定。秀次事件の際秀吉に人質に差し出すよう言われたが
剃髪させて細川家で引き取ったので秀吉の餌食にはならなかった。
・秀忠関連で縁づいてるのは2人の三男・忠利。正室は家康のひ孫にあたり秀忠・小督夫妻の
養女として忠利に嫁ぐ。
0209人間七七四年2007/07/28(土) 22:02:21ID:mZsHwbQT
モーニングで幽斎が息子に一撃食らわせてたぞ。
0210名無しさん@そうだ選挙に行こう2007/07/29(日) 03:47:38ID:axSHbCEA
>>204 今日の夕刊では秀次に皮肉っぽく「ガラシャに会わせてもらえない」と
言われとる。
0211人間七七四年2007/07/31(火) 17:48:40ID:srSCuB2v
>>205 忠興って結構器用で、関が原の時生煮えになった米を上手く炊き直したり、
石切り場で石工に石の切り方まで指導したり、甲冑(越中流)や刀(肥後拵え)とか
工夫したりとそういうの得意だったみたいだから、可能性はかなり高いかもね。
0212人間七七四年2007/07/31(火) 19:08:07ID:OUxvu0FM
忠興=士郎 幽斎=雄山 玉=栗田
0213人間七七四年2007/08/01(水) 01:22:24ID:rUw1k+Pv
米田是政の奥さんは確か明智光秀の姪?(とにかく明智の血筋だったはず)
本能寺の変の時はどうしたんだろ?
0214人間七七四年2007/08/07(火) 20:58:49ID:3EZ3hvlr
>>192 衆道嫌いのエピみつけました。
家臣2人が厳禁していた男色をひそかに行っていた。忠興が2人を呼びつけて厳しく咎めたが、全く反省する色がなかった。それどころか
「われら両人、一命をかけて兄弟の契りを結びましたうえは、いかなる仕置きをも甘んじてお受けいたします」と決死の覚悟を見せた。すると忠興は
意外にも「よろしい、お前たちは特別に許してやろう。そのかわり、今後より一層忠節を尽くせ」と言った。てっきり成敗されるものと思っていた
2人は意外な結果に茫然自失した。まもなく両人の男色はやみ、それを最後に家中の弊風はすっかり改まったという。
0215人間七七四年2007/08/07(火) 21:22:57ID:xvU57W5E
所詮その程度の愛かよ
0216人間七七四年2007/08/07(火) 21:35:11ID:Pv56z3kR
単なる嗜みだからな。
本気になってる奴は少数。
0217人間七七四年2007/08/10(金) 12:37:06ID:RI21yP8A
あのご相談なんですが、今度細川家をテーマにした小説(同人誌ですけど)を
書くつもりでして、主に登場する家臣団は以下の面々を選出しました。
彼等の他にこの家臣は外すなというご意見がありましたら、よろしくお願いします!



松井康之
有吉立行
米田是政
沼田延元
三淵光行
飯河宗祐
沢村才八
加賀山隼人
河喜多石見
小笠原秀清
穴生理右衛門
稲富祐直
02182172007/08/10(金) 19:00:06ID:RI21yP8A
追記です。
あと青龍寺以来の家臣で魚住万之允を出そうと考えています。
万之允は魚住市正の事でよろしかったですよね?
間違いがありましたら、遠慮なく指摘してください。
0219人間七七四年2007/08/12(日) 19:02:08ID:lwNuflh5
幽斎は誰かに古今伝授したの?
0220人間七七四年2007/08/12(日) 23:00:31ID:NvOLFIZM
八条宮とか島津義久とか
0221◆nzdGjBH722 2007/08/12(日) 23:01:54ID:Xpwnn3ph
木下勝俊・・・関ヶ原改易後幽斎から古今伝授を受け、木下長嘯子と名乗り山家記を記した。

0222人間七七四年2007/08/14(火) 21:11:13ID:Nv+DkaMS
あと烏丸光廣。
ちなみに、龍伯については彼が質問した部分が秘伝に触れるため誓詞を出させた
といういきさつなのでホントの意味での古今伝授ではない。
0223人間七七四年2007/08/14(火) 21:15:00ID:Nv+DkaMS
>>217 家臣ではないですが、忠興・弟の幸隆が出るとよいかなと・・・。
できたら能がらみのエピで
02242172007/08/14(火) 23:13:05ID:LsK/njxD
>>223
ご意見、ありがとうございます。
幸隆や興元のエピソードも入れるつもりでした。こないだ話題に挙がった妹のすごいエピソードも。
ちなみに幸隆について能にまつわる有名なエピソードとはなんでしょう?
幸隆に関する資料をあまり用意できない状況で、それは存じませんでした;
0225人間七七四年2007/08/15(水) 00:10:58ID:YDz7VXMP
>>222
kwsk
02262252007/08/15(水) 00:19:20ID:YDz7VXMP
特に
>龍伯については彼が質問した部分が秘伝に触れるため誓詞を出させたといういきさつ
の下りについて

コピペする前にUPしてしまった・・・(´・ω・`)
0227人間七七四年2007/08/15(水) 10:16:53ID:i1kAQV5+
>>222 伝授した人物(補足)
三条西公国・・・後に息子に相伝することを条件に、三条西実枝は幽斎に古今伝授した。
         実枝の死後、天正8年約束通り公国に「返し伝授」したが、後に彼は32歳で亡くなってしまった。
中院 通勝・・・実枝の甥。公国の死後、伝授を開始したが一旦中断。最終的に終了したのは慶長9年。
烏丸 光広・・・慶長8年に伝授終了。ちなみにこの人の息子に忠興の娘(万)が嫁ぐ。
0228人間七七四年2007/08/16(木) 18:18:40ID:UdN/2sju
>>225 すみません。夭折した別の弟・蓮丸のエピと混同してました。蓮丸は忠興とは結構年が離れてて一緒に舞台に立って
能を舞ったと記録にあるそうで幽斎夫妻が描かせた画像が南禅寺に残されてる。
細川家は能が好きで松井等家臣と天正11年から慶長5年の間に50回以上演能してますね。
幸隆も若くして亡くなって、能楽史の上で結構重要な本を残してるらしいです。
0229人間七七四年2007/08/17(金) 23:25:46ID:auFjydC1
「立花宗茂」の小説読んでたら、忠興と仲良しのように描かれてたけど(ホントかいね?)
(しかも宗茂に側女を紹介してたし!)
02302172007/08/18(土) 15:57:30ID:3XFq6HdE
>>228
情報をいただきましてありがとうございます。
先日手に入れた資料に能興行の事も記されていましたが、まさか五十回とは!
改めて文武両道を地で行く家柄なんだと感じ入りました。

それから関ヶ原後に加わる主要な家臣も以下の通りに絞りこんでみました。



氏家宗入(行継)
清田乗栄
村上景広
志水元五
藪正照
益田蔵人
後藤又一郎



調べれば調べるほど、細川家臣団ってキャラの立っている事がわかってきて面白いです。
よろしければまたご意見などいただければ幸いです!
0231人間七七四年2007/08/19(日) 14:35:37ID:YUBoWjL/
>>229
宗茂と忠興が仲良しという明確な証拠になる史料は知らないが
細川家が宗茂に側室・矢島氏を融通したのは本当のようだね
河村哲夫『立花宗茂』に書いてある話。
0232人間七七四年2007/08/21(火) 19:47:03ID:i5K/S8ut
友達に似たような親子がいるな。

その親子は地元の名家ってやつで(俺んちの周辺は超田舎で、明治かよって
ぐらいに封建主義が残ってる。未だにこの家の使用人とかいっぱいいる)
しかも親戚が代議士だの網元だの神主だのがいて、まあこの狭い町じゃ
絶対的な権力者なんだが、

親父は超人格者で町中の人たちから尊敬されていて、しかも骨董とかで
個展を開くぐらい芸術好き(あまり上手くないらしいが)。

息子は、親父の権力をいいことに暴れまくり。忠興と違い文化的素養は
ゼロだけど。
0233人間七七四年2007/08/21(火) 22:52:22ID:39HQQl3k
>232
似ているのは親子という点だけだな。
0234人間七七四年2007/08/22(水) 00:59:45ID:4ip6oDyj
>>231 忠興弟・興元の2度目の妻が宗茂の娘だから、それが関係してるかも?
0235人間七七四年2007/08/22(水) 01:38:27ID:PXap4h+k
>>232
言っちゃあ何だが、馬鹿息子ひとり矯正できんような親父も
たかが知れたものよ

細川忠興の場合はDQNというより偏執狂だし、なによりも
かなりの将であり文人であるからな
0236人間七七四年2007/08/22(水) 06:34:32ID:gsbfuuQL
>>231
立花宗茂は夏の陣の時に忠興の部隊と一緒に毛利勝永と戦ってるしね。
客観的に見ると仲良しとして描かれるだけの接点はあるように思われる。
0237人間七七四年2007/08/22(水) 06:56:53ID:05DsuYBW
矢島氏が来たせいで正室と別居になったんじゃないっけ?宗茂
0238人間七七四年2007/08/22(水) 08:35:06ID:Ds/98Ywj
>>235
全面的に同意だが、藤孝も教育に関しては?だよな
あれだけの男だったらいくらでも教育で矯正できそうなものだが
教育される方も賢いんだし
まあ自ら手塩をかけて育てる時代でもないが
0239人間七七四年2007/08/22(水) 10:44:59ID:r4WbmAf2
>>237 小説では、ぎん千代が出て行った。
0240人間七七四年2007/08/22(水) 12:37:47ID:57h2NKHl
細川親子の肖像画てないの?
0241人間七七四年2007/08/22(水) 13:38:30ID:6A0he+1L
藤孝は菩提寺の南禅寺天受庵に左うちわwの肖像画があるよ。
これは掛け軸になった物で、妻の麝香夫人のも対である。

忠興のもあったと思うが所蔵までは覚えていない。
0242人間七七四年2007/08/22(水) 20:44:12ID:PXap4h+k
永青文庫?じゃないの
0243人間七七四年2007/08/22(水) 21:14:56ID:1zC0eixj
>>238
忠興の性格は戦国時代の基準から言えば「ちょっとキレやすい」くらいだろ。
そんなどうこう言われるほど歪んじゃいない。
0244人間七七四年2007/08/22(水) 22:45:09ID:gkyhkoY4
永青文庫にも肖像画あるね
もう公開終わっちゃったかな
0245人間七七四年2007/08/23(木) 01:11:00ID:/PYL2tyV
忠興の肖像画っぽいのみたことあるけど、結構イイ男だった
ガラシャとは美男美女夫婦と言われてたらしいし
0246人間七七四年2007/08/23(木) 22:50:59ID:bZYN+J/k
永青文庫の「細川家歴代の肖像画400年」展(19日で終了)で、幽斎・忠興の
隠居・剃髪後の肖像画見たけど、幽斎は丸顔で、忠興は面長だったよ。
忠利はどっちかつうと、束帯姿の幽斎に似てたな。(性格的にも忠興の子とは思えん。)
0247人間七七四年2007/08/23(木) 23:52:58ID:+T6lBh+Z
なんか忠興‥
カコ(・∀・)イイ!
でも昔の基準でいうとどうなん?
0248人間七七四年2007/08/24(金) 00:32:12ID:pmGkZAT9
ネット上には
つ http://www.sengoku-expo.net/portrait/images/L/009-q02.jpg
こんなのしかないな>忠興像
神経質な爺という印象w

幽斎の左うちわ
つ http://www.sengoku-expo.net/portrait/images/L/080-q01.jpg
忠興には似ているようで似てないような
忠利
つ http://www.kumamotonet.jp/siro/museum/hosokawa.jpg
・・・うーむ。意外といかつかった。
0249人間七七四年2007/08/24(金) 05:05:46ID:Xe1r8Fo1
幽斎は目の辺りとか細川元首相にくりそつだよな。
0250人間七七四年2007/08/24(金) 11:59:12ID:OBGdtrFr
永青文庫で展示してあった忠興の画は>>248の画でした。
>>249 幽斎のDNAって延々と十八代目まで面ざしが受け継がれる程強いんだな。
0251人間七七四年2007/08/25(土) 01:22:47ID:K3Nry8jx
永青文庫って雰囲気が何ともw
0252人間七七四年2007/08/25(土) 01:31:09ID:DADMvcN1
政治的に能無しってとこまでそっくり。
0253人間七七四年2007/08/26(日) 11:04:53ID:/vxGzzJ7
学研M文庫から「細川幽斎」でたね。(まだ読んどらんが)
0254人間七七四年2007/08/26(日) 11:22:35ID:/vxGzzJ7
細川護熙の熙って光秀の妻・熙子から取ったという噂があるが・・・。
0255人間七七四年2007/08/28(火) 06:10:55ID:OyWw+vxW
忠興の鎧が見たいけどググっても出てこない
0256人間七七四年2007/08/28(火) 10:38:53ID:1JiPSSVk
>>255
http://www.kmnh.jp/hosokawa/
の黒糸威横矧二枚胴具足
0257人間七七四年2007/08/30(木) 15:06:37ID:6Uy48X28
>>256
ありがとう!
頭の羽すげーwww目立ちまくりじゃないか
0258人間七七四年2007/08/30(木) 18:17:37ID:GnFMMyD/

忠興の顔、渋くて良いじゃん

ttp://www.geocities.jp/senryusai/senryusai.hosokawa.html
0259人間七七四年2007/08/30(木) 21:05:06ID:lrtx4y4H
>>257
関ヶ原で舞鶴に例えられたくらいだしな。
現代人には奇抜に見えるけど当時はかなり綺麗に見えたみたい
0260人間七七四年2007/09/02(日) 10:23:11ID:+dK8bjk+
熊本県立美術館でやってる親子で見る美術展「熊本偉人列伝」に
忠興が入ってる!(一般人が誤解する)
0261人間七七四年2007/09/02(日) 10:32:45ID:FgunW2qv
幽斎のほうが功績大きい。
0262人間七七四年2007/09/02(日) 10:35:11ID:8+e59Z32
幽斎は京都の人だからじゃない?まあ忠興もだが
0263人間七七四年2007/09/05(水) 00:08:11ID:XX3DT7bm
>>256 情報戦略家としての幽斎の話。その他に鬼蛇のエピで新説(奥座敷で男の声
に混ざって玉の嬌声が聞こえたのを不審に思った忠興がやがて奥から下男が出てき
たのを見咎めて手討ちにした)忠興・玉の夫婦喧嘩を必死で仲裁する幽斎夫妻の話
もあり。あと極めつけが春日局は忠興の斡旋で家光の乳母になったというトンデモ説だった。
0264人間七七四年2007/09/05(水) 00:28:34ID:LeEKSpo7
細川幽斎って、京都で猛牛が暴れて突進したのを素手で止めたってどっかの本で読んだけど、本当?
だと、すると、相当の体格のいい人だったんだね。
0265人間七七四年2007/09/12(水) 23:02:14ID:+2GNlpDH
>>264 弟子の松永貞徳が幽斎から直接聞いた話だそうで「戴恩記」に載ってる話。
他の怪力エピとしては、幽斎が織田信勝の屋敷へ入ろうとした時に門番が不審人物と誤解し竹の棒を突き出され、
すかさず竹棒とともに門番の手をねじり上げ手の骨を砕いてしまったという話もある。
0266人間七七四年2007/09/17(月) 22:15:56ID:CDKLH4zR
日本史小典の中に織豊時代の人々<キリスト教の伝来>で黒田如水と一緒に
なぜか忠興が載っている。如水の備考欄は「受洗大名」だが、忠興のは「妻・
ガラシア」となっていた!だったらガラシャを項目にすべきと思うが・・・。
0267人間七七四年2007/09/17(月) 23:24:18ID:CDKLH4zR
ガラシャが忠興宛に書いた手紙を読むと「この書に対してはお返事は結構です」
とわざわざ断り書きしてるとこ見ると、ガラシャが次の手紙書く前に忠興から
手紙届いちゃってたのかな?
(他の書状読むとガラシャは筆不精だったみたいで、だとしたら苦痛だろうな)
0268人間七七四年2007/09/17(月) 23:35:32ID:F55KV+Li
つれない女だな
だがそれがいいのか
0269人間七七四年2007/09/18(火) 01:40:44ID:KzpgK+bw
忠利との書簡もかなり残っていたり、娘に「頭を剃ったら
親父そっくりだw」なんて手紙を送ったりしてるあたり、
かなり細川忠興という人は筆まめだったんじゃないか
0270人間七七四年2007/09/18(火) 13:59:37ID:zMxinAnR
「夫の留守中くらい、こっちはノンビリしたいのに、
あの人ったら手紙まで寄越して来て、しつこいのよ!」って感じかも
忠興の(愛の)束縛が鬱陶しかったのね〜
0271人間七七四年2007/09/18(火) 18:12:57ID:62oZhhrc
律儀な忠利は、忠興からあんまりおびただしく書状がくるので閉口しながら
返事してたらしい。
実際、忠興が手紙の中で「なにより手紙を書くのが好きなので」と書いてる(笑)
忠利死後、今度は孫の光尚が忠興の相手しなければならなかったから
手紙の量にびっくりしたんじゃないか?
0272人間七七四年2007/09/18(火) 21:05:32ID:Z/Chww4x
今の時代だったら忠興はメール魔だな
0273人間七七四年2007/09/18(火) 21:31:21ID:h8mGDazl
忠興「何よりメールを送るのが好きなので」
0274人間七七四年2007/09/18(火) 23:42:20ID:ISKvZY53
世が世なら防犯カメラでなく、嫁に監視カメラと盗聴マイクをつける家庭内ストーカーだな。
0275人間七七四年2007/09/19(水) 00:02:54ID:OpBvm9Mp
嫁にカメラ付けてどうする?
0276人間七七四年2007/09/19(水) 00:56:08ID:izyk0OFm
>>274

絶対やっていたはず!
0277人間七七四年2007/09/19(水) 00:57:15ID:QhLtqebp
即レスしないと「まだ読んでないの?」「なんで返事くれないの?」と
しつこくメールしてきそうだ。
0278人間七七四年2007/09/19(水) 03:01:14ID:djKlKoyG
携帯開けたら新着メール20件とか恋敵の首切断とかの女と同レベルか
ヤンデレは忠興を元に作られた
0279人間七七四年2007/09/19(水) 21:46:03ID:EnGCmEJ0
>>276 そのとおり!
「この若い越中殿の妻に対する過度の嫉妬と彼女に対して行った極端な監禁は
普通一般の日本人の習慣とは大いに異なって信じられぬほど厳しいものであった。
2人の身分の高い家臣に昼夜を問わず妻の監視を義務付けた。ごく親しい親戚か身内の
者以外には彼女へのいかなる伝言も許さぬようにした。」
−ルイス・フロイス「日本史」より要約−
0280人間七七四年2007/09/19(水) 23:09:06ID:d2Yg4h9w
極端な監禁って、当時の身分が高い奥方なら普通だった外出の規制を
文化の誤解で(または忠興を反キリスト教な人物として)書いたとも考えられる。
昼夜を問わずの監視も、身辺警護なら昼夜を問わないで行うのは普通だし。
自殺しそうなガラシャを見張るためだったとも言える。
「普通一般の習慣と違い」って一般庶民の妻と大名の妻とでは、厳しさが異なって当然だから
フロイスの言葉を全て鵜呑みにするのは危険だと思うが。
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