細川幽斎(藤孝)・忠興父子を語るスレ
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0001人間七七四年
2007/02/17(土) 21:24:53ID:kgpQVoWf幽斎の息子で激情家で知られる忠興を語りましょう。
0139人間七七四年
2007/06/11(月) 02:36:54ID:7wW5glt+明智の頼みも坊主にして断りやがるし
0140人間七七四年
2007/06/11(月) 11:35:36ID:F4F1uFD6ガラシャへは、ずっと不器用だったと思う
0141人間七七四年
2007/06/11(月) 20:30:38ID:H+cFeY4v千利休の最も重要な門人「利休七哲」のひとりでもあり、
逆臣の娘という汚名をきせられた夫人の明智玉を終生軟禁した病的な人柄でも知られています。」
0142人間七七四年
2007/06/11(月) 20:44:23ID:5C71WZi+させるよう留守居に言い置いてるのにね。)
しかも妻自刃の事実を上手く利用してのし上がったって感じだし長生きしたのもムカつく。
ところでガラシャの血筋が短命なのは信長or忠興の呪いか?
(娘2人は20代で死亡、興秋は33で切腹させられ、忠利は島原の乱で
命縮めて忠興より先に逝くし、息子の光尚も31で死んじゃうし、後に
忠利(ガラシャ)の血統は絶えて現在まで続いてる本家は側室の系統だしね。
(かろうじて長男の血筋は残ってますが・・・)
0143人間七七四年
2007/06/12(火) 01:57:20ID:2KrO610e>別の資料だと山崎の合戦に秀吉方として出陣し天王山において軍功をあげたとある。
後世の創作っぽいな。
秀吉から働きを褒められ丹後を正式に安堵されたのは、かなり後になってからの筈だし。
0144人間七七四年
2007/06/12(火) 23:31:39ID:+4bMfCJPあと「大名細川家−文と武の軌跡」展では「細川藤孝・忠興は、光秀とは長年の
入魂、義父子の関係にありながらも誘道に応じずむしろ主君織田信長の弔い
合戦として丹波に攻め入る一方で、備中高松在陣中の秀吉に、信長生害の経緯
を知らせた。秀吉は細川父子の「比類なき覚悟」を謝し、細川家の安泰と、
更なる入魂を約したのである」と解説されてました。
0145人間七七四年
2007/06/13(水) 01:08:52ID:1dv3WSEx忠興はガラシャを他人に見せない、触らせないというほど愛していた?わけで。だから屋敷から逃げる無様な姿を他人に見せるくらいなら殺したほうがマシというわけ。決して忠興はガラシャを見捨てたわけではない。長文失礼しました
0146人間七七四年
2007/06/13(水) 01:12:39ID:1dv3WSEx0148人間七七四年
2007/06/13(水) 09:59:16ID:6HSed2Nw玉自身が、謀反人の娘ということで人前に出るのをいやがったという説もある。
関が原の話でいえば、一応家臣は丹後に落ちるよう薦めて、玉自身が断っているから
忠興が強制的に閉じ込めていたというのはおかしい。
本当に逃げていたら、命令違反ってことで小笠原少斎とかぬッ殺されていたろうなー、忠興の性格からいって。
0149人間七七四年
2007/06/13(水) 11:32:38ID:tVi8zO5Q(世間的には離縁しようにみせて)山里に隔離した。
秀吉の許しがあったにせよ、正室として再度迎えた訳だし
その後、忠興は玉に何人も子供を産ませてる。
家督を継がせようとしたのも当初は成人した長男だったし
後には、幽閉後に二人の間に生まれた三男の忠利が継いだ。
玉の死後には多くの側室に子供を産ませはしたが、正室は最期まで迎えなかったし
忠興自身、自分の生涯の中での「妻」という存在は、玉ただひとりだったような気がする。
玉ひとりだったのだと思う。
0150人間七七四年
2007/06/17(日) 23:53:32ID:un7rMeJvいうのを何かの本で読んだことあるんですけど。この説の信憑性は?
0151人間七七四年
2007/06/18(月) 00:23:19ID:bUsMos+D(曖昧な記憶だが、木下氏の系図に書いてあるという
中公新書の『北政所』みたら出典の詳しい説明があったはず)
一方、
京極氏−嫁→若狭武田氏−人質に取られる→朝倉氏−世話→足利氏−部下→細川氏
という関係があるので、全く縁がないわけではないが、
京極竜子の娘が細川まで流れ着く可能性は限りなく低いように思われるが。
なんかその当時の史料の裏付けでもあるんだろうか。
0152人間七七四年
2007/06/18(月) 01:02:15ID:Gj3GumPX忠興に引き取られ、お玉自刃当時大阪・玉造の屋敷にいたつうことで
一応接点があるにはあるけど。
ちなみにお玉に和歌を教えたのはこの人だそうです。
0154人間七七四年
2007/06/21(木) 01:58:19ID:zkKbJnag最初この人に34〜35回参禅してたそうで忠興は「大徳寺のよりは気楽なものだ」
と言ってたらしい。忠興は、いとこにあたるこの英甫とは気が合ってたらしく
狂歌の遣り取りを頻繁にしてる。(幽斎に対抗して狂歌で頑張った?)
0155人間七七四年
2007/06/24(日) 21:50:16ID:hZFSie3R松井興長に嫁いだこの娘だそうで、なんでも宿下がりしてた侍女が戻って来た時
興長と密会してたことを暴き出しその侍女を焼けた火鉢で刺し殺してしまった
とか・・・。
0156人間七七四年
2007/06/24(日) 22:36:27ID:DxaaEBS80157人間七七四年
2007/06/24(日) 23:15:37ID:hZFSie3R火鉢に刺さってた焼けた「火箸」で何度も刺して(残酷)
ついには殺してしまったそうです。
0158人間七七四年
2007/06/27(水) 19:55:41ID:LOhX07eH0159人間七七四年
2007/06/27(水) 22:10:59ID:UeZeLmAQ0160人間七七四年
2007/06/28(木) 07:56:30ID:Rhm5w9XB0161人間七七四年
2007/06/28(木) 11:41:35ID:rBjhed5Z>なにしろ生涯手討ち36人ですから。(妹の夫も切り殺してますし・・・)
そして、実家に帰った妹に切り掛かられると。どんだけDQNな血筋やねん。w
一色氏粛清は、本能寺後(明智に付こうとしたという名目)なんですよね。
細川氏が実は、明智と羽柴を両天秤掛けていたってことなのかなあ。
0162人間七七四年
2007/07/01(日) 16:44:14ID:PTMaOUbk築城の名手という事で興味を引かれたんですが、戦いにも参加していたんでしょうか?
0163人間七七四年
2007/07/01(日) 19:13:38ID:FIErDOJT0164人間七七四年
2007/07/02(月) 00:56:36ID:JXRKp4tR関が原前?だとしたら高台院の側に立つため?
0165人間七七四年
2007/07/06(金) 18:07:42ID:iIz2HyAP0166人間七七四年
2007/07/06(金) 22:20:08ID:HjID2ML+Wikipediaの木下延俊の項には、関が原で、義兄の忠興との関係から東軍に付いたってありますから、
関が原前なのでは?
0167人間七七四年
2007/07/07(土) 21:56:57ID:SuOMXmHT(36歌仙にひっかけて)と号したそうだ。(やっぱDQNじゃ)
0169人間七七四年
2007/07/08(日) 20:24:46ID:alYCUcL9「希首坐拵え」は大徳寺の希首坐の僧の無礼を咎めて殺害したのが由来。
(この僧は謀殺した一色義有の遺児だったとも言われてる)
「晴思剣」は忠興が茶坊主への積年の恨みを果して気分がすっきりしたことに由来。
0170人間七七四年
2007/07/10(火) 15:50:15ID:X8HrJjOa0171人間七七四年
2007/07/11(水) 00:30:26ID:lPC+tmtBという話だが、ホントかね?(だとしたらその側女どもが産んだ子がわんさか
いそうだが・・・)
0172宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/07/11(水) 13:19:29ID:YFwHXhzE0173人間七七四年
2007/07/14(土) 01:01:14ID:D+urTMfXルイス・フロイスの手紙より
0176人間七七四年
2007/07/15(日) 01:51:30ID:mI+/IfJh0177人間七七四年
2007/07/15(日) 03:17:11ID:BkF0WjlXしかし、残されてる逸話といい、キチガイじみた人物だったのは
確か。なんせ「天下一気の短い人」と評されたくらいだからな。
で、そのくせ晩年「波にもまれて石が丸くなる、人間も同じ」
というような歌を詠んでいるがwww
>>171
オルガンチノが主催したガラシャの教会葬に参列してひとしきり泣き、
その後は多少キリスト教に対して寛容になったらしい。
0178人間七七四年
2007/07/15(日) 20:19:46ID:SB2baB7A返答じゃ無いっけ?
にしてもよくこんな短気なオッサンから逃げようと思わなかったな
ガラシャも。幽閉されたときこっそり逃げちゃえば良かったのに。
0179人間七七四年
2007/07/15(日) 21:34:13ID:nQYeEaG00180人間七七四年
2007/07/15(日) 22:22:53ID:g2JefKnKそれをしなかったということは、あのころのガラシャはあんな変態な香具師が良かったんだろうか。
うーーーーーーーーーーむ。謎だ。
0181人間七七四年
2007/07/15(日) 23:09:23ID:fa9axV8U幽閉され三戸野で興秋を出産したし、乳飲み子見捨てて自害は忍びなかったんじゃないの?
更に、幽閉後生んだ光(忠利)がえらい病弱で付っきりで看病してたらしいからなおさら
見捨てられずそのままずるずるいっちゃったのでは?
(珠が入信したのは光の病弱も原因の一つだったらしい)
0182人間七七四年
2007/07/16(月) 04:50:53ID:m5Gy9ckGどっちにせよ、この男にそんな事言われても全く説得力はないがw
ただ、このサイトを見ると、案外忠興も寛容だったところもあるらしい。
ttp://www.tamahime.jp/text/faq/
0183人間七七四年
2007/07/16(月) 12:58:19ID:RU1FwzXg江戸城で、登城する大名のおつきの武士が控えている部屋があって、やることもないので、つい居眠りしている者が結構いた。
ところが、細川家の家臣のみ背筋を伸ばして、ちゃんと正座している。
感心したある大名が、「どうやって指導してるんですか?」と聞いたら、「2度までは失敗しても許すけど、3度やったら成敗します」だと。
逆に好きなエピソードは、
中津に隠居した忠興が忠利に「家臣がちっとも挨拶にこない、お前が挨拶に行くのを禁止してるんだろ」と文句をつけたら
忠利が、「いや、ちゃんと挨拶に行ってかまわないと言ってます。来訪者のリスト貰えれば、行ってない人間を指導します」と返事した。
家臣たちは「こりゃ、大変」と大挙して中津に挨拶に行ったので、逆にあまりにも来訪者が多くなって
忠興が「やっぱ、挨拶はほどほどでいいよ」って前言撤回したやつ。
0185人間七七四年
2007/07/16(月) 18:11:12ID:INuXbkVa小笠原の浸透はイマイチだな。礼儀作法位か。
0186人間七七四年
2007/07/16(月) 20:47:44ID:AS0kMlxfそういえば小倉城の展示解説に>>97のAにある話が紹介されてて
この話から忠興は度量の広い人物であったとコメントを載せてあった!!
(これじゃあ何も知らん人たちに誤った印象を与えてしまうじゃないか)
0188人間七七四年
2007/07/16(月) 23:28:14ID:AS0kMlxfと言ってガラシャが思いのままにいつまでもお祈りができるように、そのための礼拝所や祭壇を、
忠興自らそれらの建築に指図したって話のこと?
このエピも、それ以前の鼻削ぎ等々のエピからすればものすごい豹変ぶりだね。
0189人間七七四年
2007/07/17(火) 00:32:53ID:9cpJl9/o後には礼拝所やら祭壇やらに配慮を示すようになってる。
ガラシャの死後のコメントといい・・・・越中守に何が起きたんだろうか?
0190人間七七四年
2007/07/17(火) 01:08:25ID:k+KahlRM思ってたが、玉が本気だとわかって止めたんじゃないか?
これ以上やったらマジで捨てて出て行かれる、と。
0191人間七七四年
2007/07/17(火) 02:55:53ID:sLZBSMg4キリシタンで自害は御法度。
0192人間七七四年
2007/07/17(火) 03:02:56ID:9cpJl9/o鼻削ぎやってたころくらいに、玉が「別れたい」と宣教師に
相談したことがあったらしいから、それを聞いて慌てたのかも
しれんなw
あと、なぜか三斎が衆道が大嫌いだったらしいが、何故だろうな?
0194人間七七四年
2007/07/17(火) 11:48:34ID:ZirGNA2W精神的に不安定だったガラシャが、とりあえずキリスト教に入信したことで落ち着いたとか
周囲の人物も入信して、強硬策取りづらくなったということもあるかも知れない。
豊前時代の初め、領内で比較的キリスト教に寛容だったのは、
九州の領民への普及率が丹後時代と比べて高かったからじゃないかなと思ってるんですが。
0195人間七七四年
2007/07/17(火) 22:34:07ID:BFvN/wHL0196人間七七四年
2007/07/19(木) 00:14:39ID:b2TJORpm言われてたらしい。(本能寺の変で光秀に付くか否かの二者択一を迫られたこと、
秀次事件で連座させられそうになったこと、関が原の折ガラシャが自刃させられたこと
以上3つの災難で三災というわけ)
0197宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/07/19(木) 00:30:25ID:Lg7Zmxbe細川幽斎と仲が良かったらしい。
元親が松山城に籠城してる時、幽斎は元親に歌書「八雲集」を届けている。
また、元親が自害する際にも幽斎へ一句残している。
この2人の繋がりが個人的に気になってる。
流れぶったぎってすまん。
0198人間七七四年
2007/07/21(土) 16:27:21ID:Y3047f2eこの人の資料ってあんまり無くて・・
0199人間七七四年
2007/07/23(月) 00:16:37ID:E747rRLjとして召しだされた(1609年近江に千石与えられた)
0200198
2007/07/24(火) 16:18:18ID:AHbjiVdQ一応は家臣入りしたんですね。しかもその後、ヘッドハンティングとは驚きました。
細川家臣団は皆さん逸話が多くて凄いと思います。
特に飯河親子の最期は・・(;_;)
0201人間七七四年
2007/07/24(火) 21:51:30ID:MOzl+qhi0202人間七七四年
2007/07/25(水) 06:17:02ID:cnWg+LJr私の読んだ資料には三淵光行は関ヶ原合戦に参加したと書いてありました。
実際はどうだったんでしょ。
>>201
飯河親子粛清で細川家に不審を抱いて出奔したみたいですね。
この頃は加賀山隼人の切腹とか内部的な事件も多かったので
嫌気がさすのも仕方ないのかなぁ。
0203人間七七四年
2007/07/25(水) 23:50:16ID:27+3l7ISご自由に利用してください。
http://www37.atwiki.jp/sengokuita/
0204人間七七四年
2007/07/27(金) 18:37:37ID:6VlOX55t忠興が母親(麝香の方)と一緒に登場。まだどんな人物設定かは謎。
0205人間七七四年
2007/07/27(金) 19:42:58ID:7S38pBFb0206人間七七四年
2007/07/27(金) 21:58:24ID:b1D74hn7秀忠の家老の息子と結婚するんじゃなかったっけ・・・?
うろ覚えでスマソ
0207人間七七四年
2007/07/27(金) 23:55:22ID:jJY9MlcAたぶんそれは違うと思われ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E8%88%88
0208人間七七四年
2007/07/28(土) 21:56:41ID:X/ibWLDN剃髪させて細川家で引き取ったので秀吉の餌食にはならなかった。
・秀忠関連で縁づいてるのは2人の三男・忠利。正室は家康のひ孫にあたり秀忠・小督夫妻の
養女として忠利に嫁ぐ。
0209人間七七四年
2007/07/28(土) 22:02:21ID:mZsHwbQT0210名無しさん@そうだ選挙に行こう
2007/07/29(日) 03:47:38ID:axSHbCEA言われとる。
0211人間七七四年
2007/07/31(火) 17:48:40ID:srSCuB2v石切り場で石工に石の切り方まで指導したり、甲冑(越中流)や刀(肥後拵え)とか
工夫したりとそういうの得意だったみたいだから、可能性はかなり高いかもね。
0212人間七七四年
2007/07/31(火) 19:08:07ID:OUxvu0FM0213人間七七四年
2007/08/01(水) 01:22:24ID:rUw1k+Pv本能寺の変の時はどうしたんだろ?
0214人間七七四年
2007/08/07(火) 20:58:49ID:3EZ3hvlr家臣2人が厳禁していた男色をひそかに行っていた。忠興が2人を呼びつけて厳しく咎めたが、全く反省する色がなかった。それどころか
「われら両人、一命をかけて兄弟の契りを結びましたうえは、いかなる仕置きをも甘んじてお受けいたします」と決死の覚悟を見せた。すると忠興は
意外にも「よろしい、お前たちは特別に許してやろう。そのかわり、今後より一層忠節を尽くせ」と言った。てっきり成敗されるものと思っていた
2人は意外な結果に茫然自失した。まもなく両人の男色はやみ、それを最後に家中の弊風はすっかり改まったという。
0215人間七七四年
2007/08/07(火) 21:22:57ID:xvU57W5E0216人間七七四年
2007/08/07(火) 21:35:11ID:Pv56z3kR本気になってる奴は少数。
0217人間七七四年
2007/08/10(金) 12:37:06ID:RI21yP8A書くつもりでして、主に登場する家臣団は以下の面々を選出しました。
彼等の他にこの家臣は外すなというご意見がありましたら、よろしくお願いします!
松井康之
有吉立行
米田是政
沼田延元
三淵光行
飯河宗祐
沢村才八
加賀山隼人
河喜多石見
小笠原秀清
穴生理右衛門
稲富祐直
0218217
2007/08/10(金) 19:00:06ID:RI21yP8Aあと青龍寺以来の家臣で魚住万之允を出そうと考えています。
万之允は魚住市正の事でよろしかったですよね?
間違いがありましたら、遠慮なく指摘してください。
0219人間七七四年
2007/08/12(日) 19:02:08ID:lwNuflh50220人間七七四年
2007/08/12(日) 23:00:31ID:NvOLFIZM0221Y ◆nzdGjBH722
2007/08/12(日) 23:01:54ID:Xpwnn3ph0222人間七七四年
2007/08/14(火) 21:11:13ID:Nv+DkaMSちなみに、龍伯については彼が質問した部分が秘伝に触れるため誓詞を出させた
といういきさつなのでホントの意味での古今伝授ではない。
0223人間七七四年
2007/08/14(火) 21:15:00ID:Nv+DkaMSできたら能がらみのエピで
0224217
2007/08/14(火) 23:13:05ID:LsK/njxDご意見、ありがとうございます。
幸隆や興元のエピソードも入れるつもりでした。こないだ話題に挙がった妹のすごいエピソードも。
ちなみに幸隆について能にまつわる有名なエピソードとはなんでしょう?
幸隆に関する資料をあまり用意できない状況で、それは存じませんでした;
0226225
2007/08/15(水) 00:19:20ID:YDz7VXMP>龍伯については彼が質問した部分が秘伝に触れるため誓詞を出させたといういきさつ
の下りについて
コピペする前にUPしてしまった・・・(´・ω・`)
0227人間七七四年
2007/08/15(水) 10:16:53ID:i1kAQV5+三条西公国・・・後に息子に相伝することを条件に、三条西実枝は幽斎に古今伝授した。
実枝の死後、天正8年約束通り公国に「返し伝授」したが、後に彼は32歳で亡くなってしまった。
中院 通勝・・・実枝の甥。公国の死後、伝授を開始したが一旦中断。最終的に終了したのは慶長9年。
烏丸 光広・・・慶長8年に伝授終了。ちなみにこの人の息子に忠興の娘(万)が嫁ぐ。
0228人間七七四年
2007/08/16(木) 18:18:40ID:UdN/2sju能を舞ったと記録にあるそうで幽斎夫妻が描かせた画像が南禅寺に残されてる。
細川家は能が好きで松井等家臣と天正11年から慶長5年の間に50回以上演能してますね。
幸隆も若くして亡くなって、能楽史の上で結構重要な本を残してるらしいです。
0229人間七七四年
2007/08/17(金) 23:25:46ID:auFjydC1(しかも宗茂に側女を紹介してたし!)
0230217
2007/08/18(土) 15:57:30ID:3XFq6HdE情報をいただきましてありがとうございます。
先日手に入れた資料に能興行の事も記されていましたが、まさか五十回とは!
改めて文武両道を地で行く家柄なんだと感じ入りました。
それから関ヶ原後に加わる主要な家臣も以下の通りに絞りこんでみました。
氏家宗入(行継)
清田乗栄
村上景広
志水元五
藪正照
益田蔵人
後藤又一郎
調べれば調べるほど、細川家臣団ってキャラの立っている事がわかってきて面白いです。
よろしければまたご意見などいただければ幸いです!
0231人間七七四年
2007/08/19(日) 14:35:37ID:YUBoWjL/宗茂と忠興が仲良しという明確な証拠になる史料は知らないが
細川家が宗茂に側室・矢島氏を融通したのは本当のようだね
河村哲夫『立花宗茂』に書いてある話。
0232人間七七四年
2007/08/21(火) 19:47:03ID:i5K/S8utその親子は地元の名家ってやつで(俺んちの周辺は超田舎で、明治かよって
ぐらいに封建主義が残ってる。未だにこの家の使用人とかいっぱいいる)
しかも親戚が代議士だの網元だの神主だのがいて、まあこの狭い町じゃ
絶対的な権力者なんだが、
親父は超人格者で町中の人たちから尊敬されていて、しかも骨董とかで
個展を開くぐらい芸術好き(あまり上手くないらしいが)。
息子は、親父の権力をいいことに暴れまくり。忠興と違い文化的素養は
ゼロだけど。
0233人間七七四年
2007/08/21(火) 22:52:22ID:39HQQl3k似ているのは親子という点だけだな。
0234人間七七四年
2007/08/22(水) 00:59:45ID:4ip6oDyj0235人間七七四年
2007/08/22(水) 01:38:27ID:PXap4h+k言っちゃあ何だが、馬鹿息子ひとり矯正できんような親父も
たかが知れたものよ
細川忠興の場合はDQNというより偏執狂だし、なによりも
かなりの将であり文人であるからな
0236人間七七四年
2007/08/22(水) 06:34:32ID:gsbfuuQL立花宗茂は夏の陣の時に忠興の部隊と一緒に毛利勝永と戦ってるしね。
客観的に見ると仲良しとして描かれるだけの接点はあるように思われる。
0237人間七七四年
2007/08/22(水) 06:56:53ID:05DsuYBW0238人間七七四年
2007/08/22(水) 08:35:06ID:Ds/98Ywj全面的に同意だが、藤孝も教育に関しては?だよな
あれだけの男だったらいくらでも教育で矯正できそうなものだが
教育される方も賢いんだし
まあ自ら手塩をかけて育てる時代でもないが
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