細川幽斎(藤孝)・忠興父子を語るスレ
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0001人間七七四年
2007/02/17(土) 21:24:53ID:kgpQVoWf幽斎の息子で激情家で知られる忠興を語りましょう。
0103人間七七四年
2007/03/27(火) 23:41:01ID:o/VcNPnzいやなコンビ(忠興&忠政)だなあ。共通の友人は心が落ち着かないでしょうね。w
Wikipedia見てきたけど、森忠政って石高はあまり大きくないけど、官位は高いんですね。
0104人間七七四年
2007/03/28(水) 13:51:38ID:S38JVPhV0105人間七七四年
2007/03/29(木) 00:22:54ID:p56CRnhj彼宛てにさかんに書状を出して助言を求めてますね。
ま、(忠興と違って)忠利はまともだし、実際丁寧アドバイスしてあげてたらしい。
0106人間七七四年
2007/03/29(木) 13:40:44ID:722Ebcoyhttp://osaka.yomiuri.co.jp/news/20070323p301.htm
0107人間七七四年
2007/04/01(日) 22:50:20ID:4Tn8Ld+B0108人間七七四年
2007/04/02(月) 00:05:20ID:GZLAIt5k幽斎の弟に嫁いだ娘だけは養女説があるが、基本的には全員麝香の子と言われている。
側室の存在も知る限り確認できないし。
ただ、そうなると麝香は四十過ぎでも子供を生んでいることになるんだよなぁ。幽斎夫婦がんばった?
0109人間七七四年
2007/04/03(火) 22:19:54ID:JYcGg7+U(如水は子ども少ないけど)
0110人間七七四年
2007/04/03(火) 22:28:04ID:lb8PJhwn遅レスだが、
俺も忠興はボダじゃないかと思ったことあるw
0111人間七七四年
2007/04/04(水) 00:18:24ID:ZjRXSaDpガラシャが興秋だか娘を入信させたときに、忠興の母親がめちゃくちゃ怒ったという話と、
豊前時代に、忠興の母親がキリスト教に入信して深く理解を示したという話があって
前者の話との整合性から、後者の女性は(記録したイエズス会側の誤解とか宣伝で)麝香じゃないのではって推測されたことがあったと思います。
後、興元が出奔した表向きの理由が、自分や松井康之と同じような石高で、実績もない弟達が処遇されるのが納得できないって理由なんで
実は弟二人は別腹ってことはないですかね?
3男幸隆だけ関が原でも留守番部隊だし。
興元も兄と似て結構尊大な性格っぽいので、本当に功績を認めていないだけかもしれないけど。
0112人間七七四年
2007/04/06(金) 14:53:55ID:MBvrtoPc最終的には大坂の陣で大坂方について忠興に切腹させられたし、
忠興の家族観は非常に現実的というか、政治>>家族の匂いのキツさがある
0113人間七七四年
2007/04/07(土) 03:12:32ID:P0b/rAAi麝香の方が忠興に内緒で、家康に執り成しを依頼していたそうだ。(松井家文書より)
0114人間七七四年
2007/04/07(土) 22:45:28ID:nUIYKzDhだったんでないの?
幽斎らしい深謀遠慮ってやつで、古今伝授をタテに篭城を切り抜ける勝算は
あったんでしょうから・・・。
0115人間七七四年
2007/04/10(火) 23:22:09ID:UswUh5IIだったら愛情少ないのかな?
0116人間七七四年
2007/04/12(木) 09:50:51ID:9rD1AuH5本能寺でパニくってる忠興と対照的な藤孝。
しかもこのオヤジの息子の扱い方がとても心得ているようで良かった。
オヤジに向かって殴りかかる忠興を軽く足払いで…
こりゃ、家臣は大変だったろうな(笑)
0117人間七七四年
2007/04/15(日) 11:41:34ID:nHIOjhkBよく紹介されてるけど幽斎が亡くなったのは1610年だし、幽斎は遺言により
南禅寺・天授庵に葬られてるし、これってあきらかに誤りですよね?
0118人間七七四年
2007/04/26(木) 20:52:03ID:E6u+UBy4と解釈していた。
単に供養をするためだけのお寺かと。
幽斎が亡くなる前に菩提寺を建てるってのもなんか変だなあとは思うけど。
忠興が張りきって建てたものの、幽斎は嫌がったとかw
0119人間七七四年
2007/04/30(月) 21:06:17ID:5CQr/adp名づけるはずだし、むしろ叔父の玉甫を住持として迎えるための塔頭として
建てたのに、いつの間にやら「幽斎の菩提を弔うため」と混同されたのでは?
0120人間七七四年
2007/04/30(月) 22:23:39ID:FKBPXboy0121人間七七四年
2007/05/02(水) 15:12:56ID:J4QfSY6/系図の出方とかが唐突で、すっげー読みづらかったよ・・・
あの本読んでも幽斎の人柄とかは今ひとつぴんとこなかったな・・・
0122人間七七四年
2007/05/02(水) 21:57:56ID:H3Mlk1PK(文庫本で読んだけどやたらと字が細かくて読みにくかったので
所々しか見てないな)
0123人間七七四年
2007/05/07(月) 19:59:00ID:STqSwvhS0124人間七七四年
2007/05/17(木) 11:22:09ID:b4M6ET46忠興に従って関ヶ原本戦へ参加した家臣ってどんな面子だったのでしょうか。
沼田延元と米田是季(親父は岐阜城で討ち死にしたけど)は確定ですよね?
松井・有吉はもちろん、主だった家臣はみんな田辺城詰めでしたし。
沢村大学あたりは本戦に参加したんじゃないかと想像しているのですが…
0125人間七七四年
2007/05/18(金) 21:47:34ID:GZWT4SQd松井・有吉は豊後木付城だよ。沢村大学は関ヶ原で合ってる。
0126人間七七四年
2007/05/18(金) 22:26:25ID:W4w0W2gt新人物往来社の戦国細川一族(戸田敏夫著)に結構細かく載ってましたよ。
関が原時の細川家の戦い(岐阜・関が原、田辺、九州)での具体的な内容。
例えば、田辺だと、参加した侍の名前や元の身分(元はどこの城にいたとか、浪人とか)誰がどの守備位置を担当したか、
実際の戦闘では、誰と誰がどの辺で戦ったとかそういう感じで載ってます。
図が載っているわけじゃないけど、参加した人名ならかなりわかると思います。
古い本なんで書店には無いと思いますが、図書館などで探してみては?
0127人間七七四年
2007/05/19(土) 08:07:24ID:cCR/LBB0記事<田辺城篭城衆>に詳しく載ってます。それから岐阜・関が原等で活躍した
家臣については<新・肥後細川藩侍帳>の備考欄に特記されてます。
0128124
2007/05/20(日) 08:07:56ID:ILIjETll実は細川家を題材にした作品を企画していまして。
思いきって質問してみて良かったです。教えていただいた資料など参考にさせていただきます。
0129人間七七四年
2007/05/20(日) 20:48:02ID:7nqzpc0M飛び地を貰った経緯について、詳しい人いますか?
0130人間七七四年
2007/05/21(月) 22:49:16ID:jpwRcquz大友義統が配流されて空き地になっていたため。
文禄4年に検地功労の褒美として幽斎に大隅国・肝属郡内で3000石
加増されてるのも関係してるかも・・・
0131人間七七四年
2007/05/22(火) 14:25:55ID:HlBg2oxhつめたのはガラシァの夫だったからと思う
春日局、天海の線からの口添えがあったのか、それには天海が明智という
妄想が必要だが
0132人間七七四年
2007/05/22(火) 21:28:51ID:QDlC7bn7忠利も幕府中枢部に親しい人物を作って、公式ルート以外からも情報収集をしたりしている。
関が原以降、江戸にしばらくいたのも、人脈作りにプラスじゃないか?
そういう細かい努力の積み重ねが、家を存続できた理由だと思うけど?
別に天海=光秀説なんて出さなくても。
0133人間七七四年
2007/05/22(火) 23:06:22ID:ouF013XV0134人間七七四年
2007/05/22(火) 23:10:07ID:4t/I+NRq血縁的にも春日局の父・齊藤利三は光秀の妹が母にあたることから(光秀の孫である)忠利に対して好意的だった。
実際細川家には、忠利宛の春日局からの書簡が5通ほど残っており、それによればいろいろと便宜図ってくれてたらしい。
そういった天運も確実に利用しながらそれに甘えず(132さんのご指摘のとおり)常に細心の注意を払いつつ努力も怠らなかったことが
大きかったのでは?
0135人間七七四年
2007/05/30(水) 21:43:06ID:eGbOrPprであった一方で、千利休の最も重要な門人「利休七哲」のひとりでもあり、逆臣の娘とい
う汚名をきせられた夫人の明智玉を終生かばい通した繊細な人柄でも知られています。」
とあった。(笑)
うーん、美化して書くとこうなるんですな。(主催者側としてはご先祖を悪くは書けないしね)
0137人間七七四年
2007/06/07(木) 23:51:11ID:Tzre4KzJ0138人間七七四年
2007/06/10(日) 18:21:58ID:HuyVyLPe別の資料だと山崎の合戦に秀吉方として出陣し天王山において軍功をあげたとある。
0139人間七七四年
2007/06/11(月) 02:36:54ID:7wW5glt+明智の頼みも坊主にして断りやがるし
0140人間七七四年
2007/06/11(月) 11:35:36ID:F4F1uFD6ガラシャへは、ずっと不器用だったと思う
0141人間七七四年
2007/06/11(月) 20:30:38ID:H+cFeY4v千利休の最も重要な門人「利休七哲」のひとりでもあり、
逆臣の娘という汚名をきせられた夫人の明智玉を終生軟禁した病的な人柄でも知られています。」
0142人間七七四年
2007/06/11(月) 20:44:23ID:5C71WZi+させるよう留守居に言い置いてるのにね。)
しかも妻自刃の事実を上手く利用してのし上がったって感じだし長生きしたのもムカつく。
ところでガラシャの血筋が短命なのは信長or忠興の呪いか?
(娘2人は20代で死亡、興秋は33で切腹させられ、忠利は島原の乱で
命縮めて忠興より先に逝くし、息子の光尚も31で死んじゃうし、後に
忠利(ガラシャ)の血統は絶えて現在まで続いてる本家は側室の系統だしね。
(かろうじて長男の血筋は残ってますが・・・)
0143人間七七四年
2007/06/12(火) 01:57:20ID:2KrO610e>別の資料だと山崎の合戦に秀吉方として出陣し天王山において軍功をあげたとある。
後世の創作っぽいな。
秀吉から働きを褒められ丹後を正式に安堵されたのは、かなり後になってからの筈だし。
0144人間七七四年
2007/06/12(火) 23:31:39ID:+4bMfCJPあと「大名細川家−文と武の軌跡」展では「細川藤孝・忠興は、光秀とは長年の
入魂、義父子の関係にありながらも誘道に応じずむしろ主君織田信長の弔い
合戦として丹波に攻め入る一方で、備中高松在陣中の秀吉に、信長生害の経緯
を知らせた。秀吉は細川父子の「比類なき覚悟」を謝し、細川家の安泰と、
更なる入魂を約したのである」と解説されてました。
0145人間七七四年
2007/06/13(水) 01:08:52ID:1dv3WSEx忠興はガラシャを他人に見せない、触らせないというほど愛していた?わけで。だから屋敷から逃げる無様な姿を他人に見せるくらいなら殺したほうがマシというわけ。決して忠興はガラシャを見捨てたわけではない。長文失礼しました
0146人間七七四年
2007/06/13(水) 01:12:39ID:1dv3WSEx0148人間七七四年
2007/06/13(水) 09:59:16ID:6HSed2Nw玉自身が、謀反人の娘ということで人前に出るのをいやがったという説もある。
関が原の話でいえば、一応家臣は丹後に落ちるよう薦めて、玉自身が断っているから
忠興が強制的に閉じ込めていたというのはおかしい。
本当に逃げていたら、命令違反ってことで小笠原少斎とかぬッ殺されていたろうなー、忠興の性格からいって。
0149人間七七四年
2007/06/13(水) 11:32:38ID:tVi8zO5Q(世間的には離縁しようにみせて)山里に隔離した。
秀吉の許しがあったにせよ、正室として再度迎えた訳だし
その後、忠興は玉に何人も子供を産ませてる。
家督を継がせようとしたのも当初は成人した長男だったし
後には、幽閉後に二人の間に生まれた三男の忠利が継いだ。
玉の死後には多くの側室に子供を産ませはしたが、正室は最期まで迎えなかったし
忠興自身、自分の生涯の中での「妻」という存在は、玉ただひとりだったような気がする。
玉ひとりだったのだと思う。
0150人間七七四年
2007/06/17(日) 23:53:32ID:un7rMeJvいうのを何かの本で読んだことあるんですけど。この説の信憑性は?
0151人間七七四年
2007/06/18(月) 00:23:19ID:bUsMos+D(曖昧な記憶だが、木下氏の系図に書いてあるという
中公新書の『北政所』みたら出典の詳しい説明があったはず)
一方、
京極氏−嫁→若狭武田氏−人質に取られる→朝倉氏−世話→足利氏−部下→細川氏
という関係があるので、全く縁がないわけではないが、
京極竜子の娘が細川まで流れ着く可能性は限りなく低いように思われるが。
なんかその当時の史料の裏付けでもあるんだろうか。
0152人間七七四年
2007/06/18(月) 01:02:15ID:Gj3GumPX忠興に引き取られ、お玉自刃当時大阪・玉造の屋敷にいたつうことで
一応接点があるにはあるけど。
ちなみにお玉に和歌を教えたのはこの人だそうです。
0154人間七七四年
2007/06/21(木) 01:58:19ID:zkKbJnag最初この人に34〜35回参禅してたそうで忠興は「大徳寺のよりは気楽なものだ」
と言ってたらしい。忠興は、いとこにあたるこの英甫とは気が合ってたらしく
狂歌の遣り取りを頻繁にしてる。(幽斎に対抗して狂歌で頑張った?)
0155人間七七四年
2007/06/24(日) 21:50:16ID:hZFSie3R松井興長に嫁いだこの娘だそうで、なんでも宿下がりしてた侍女が戻って来た時
興長と密会してたことを暴き出しその侍女を焼けた火鉢で刺し殺してしまった
とか・・・。
0156人間七七四年
2007/06/24(日) 22:36:27ID:DxaaEBS80157人間七七四年
2007/06/24(日) 23:15:37ID:hZFSie3R火鉢に刺さってた焼けた「火箸」で何度も刺して(残酷)
ついには殺してしまったそうです。
0158人間七七四年
2007/06/27(水) 19:55:41ID:LOhX07eH0159人間七七四年
2007/06/27(水) 22:10:59ID:UeZeLmAQ0160人間七七四年
2007/06/28(木) 07:56:30ID:Rhm5w9XB0161人間七七四年
2007/06/28(木) 11:41:35ID:rBjhed5Z>なにしろ生涯手討ち36人ですから。(妹の夫も切り殺してますし・・・)
そして、実家に帰った妹に切り掛かられると。どんだけDQNな血筋やねん。w
一色氏粛清は、本能寺後(明智に付こうとしたという名目)なんですよね。
細川氏が実は、明智と羽柴を両天秤掛けていたってことなのかなあ。
0162人間七七四年
2007/07/01(日) 16:44:14ID:PTMaOUbk築城の名手という事で興味を引かれたんですが、戦いにも参加していたんでしょうか?
0163人間七七四年
2007/07/01(日) 19:13:38ID:FIErDOJT0164人間七七四年
2007/07/02(月) 00:56:36ID:JXRKp4tR関が原前?だとしたら高台院の側に立つため?
0165人間七七四年
2007/07/06(金) 18:07:42ID:iIz2HyAP0166人間七七四年
2007/07/06(金) 22:20:08ID:HjID2ML+Wikipediaの木下延俊の項には、関が原で、義兄の忠興との関係から東軍に付いたってありますから、
関が原前なのでは?
0167人間七七四年
2007/07/07(土) 21:56:57ID:SuOMXmHT(36歌仙にひっかけて)と号したそうだ。(やっぱDQNじゃ)
0169人間七七四年
2007/07/08(日) 20:24:46ID:alYCUcL9「希首坐拵え」は大徳寺の希首坐の僧の無礼を咎めて殺害したのが由来。
(この僧は謀殺した一色義有の遺児だったとも言われてる)
「晴思剣」は忠興が茶坊主への積年の恨みを果して気分がすっきりしたことに由来。
0170人間七七四年
2007/07/10(火) 15:50:15ID:X8HrJjOa0171人間七七四年
2007/07/11(水) 00:30:26ID:lPC+tmtBという話だが、ホントかね?(だとしたらその側女どもが産んだ子がわんさか
いそうだが・・・)
0172宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/07/11(水) 13:19:29ID:YFwHXhzE0173人間七七四年
2007/07/14(土) 01:01:14ID:D+urTMfXルイス・フロイスの手紙より
0176人間七七四年
2007/07/15(日) 01:51:30ID:mI+/IfJh0177人間七七四年
2007/07/15(日) 03:17:11ID:BkF0WjlXしかし、残されてる逸話といい、キチガイじみた人物だったのは
確か。なんせ「天下一気の短い人」と評されたくらいだからな。
で、そのくせ晩年「波にもまれて石が丸くなる、人間も同じ」
というような歌を詠んでいるがwww
>>171
オルガンチノが主催したガラシャの教会葬に参列してひとしきり泣き、
その後は多少キリスト教に対して寛容になったらしい。
0178人間七七四年
2007/07/15(日) 20:19:46ID:SB2baB7A返答じゃ無いっけ?
にしてもよくこんな短気なオッサンから逃げようと思わなかったな
ガラシャも。幽閉されたときこっそり逃げちゃえば良かったのに。
0179人間七七四年
2007/07/15(日) 21:34:13ID:nQYeEaG00180人間七七四年
2007/07/15(日) 22:22:53ID:g2JefKnKそれをしなかったということは、あのころのガラシャはあんな変態な香具師が良かったんだろうか。
うーーーーーーーーーーむ。謎だ。
0181人間七七四年
2007/07/15(日) 23:09:23ID:fa9axV8U幽閉され三戸野で興秋を出産したし、乳飲み子見捨てて自害は忍びなかったんじゃないの?
更に、幽閉後生んだ光(忠利)がえらい病弱で付っきりで看病してたらしいからなおさら
見捨てられずそのままずるずるいっちゃったのでは?
(珠が入信したのは光の病弱も原因の一つだったらしい)
0182人間七七四年
2007/07/16(月) 04:50:53ID:m5Gy9ckGどっちにせよ、この男にそんな事言われても全く説得力はないがw
ただ、このサイトを見ると、案外忠興も寛容だったところもあるらしい。
ttp://www.tamahime.jp/text/faq/
0183人間七七四年
2007/07/16(月) 12:58:19ID:RU1FwzXg江戸城で、登城する大名のおつきの武士が控えている部屋があって、やることもないので、つい居眠りしている者が結構いた。
ところが、細川家の家臣のみ背筋を伸ばして、ちゃんと正座している。
感心したある大名が、「どうやって指導してるんですか?」と聞いたら、「2度までは失敗しても許すけど、3度やったら成敗します」だと。
逆に好きなエピソードは、
中津に隠居した忠興が忠利に「家臣がちっとも挨拶にこない、お前が挨拶に行くのを禁止してるんだろ」と文句をつけたら
忠利が、「いや、ちゃんと挨拶に行ってかまわないと言ってます。来訪者のリスト貰えれば、行ってない人間を指導します」と返事した。
家臣たちは「こりゃ、大変」と大挙して中津に挨拶に行ったので、逆にあまりにも来訪者が多くなって
忠興が「やっぱ、挨拶はほどほどでいいよ」って前言撤回したやつ。
0185人間七七四年
2007/07/16(月) 18:11:12ID:INuXbkVa小笠原の浸透はイマイチだな。礼儀作法位か。
0186人間七七四年
2007/07/16(月) 20:47:44ID:AS0kMlxfそういえば小倉城の展示解説に>>97のAにある話が紹介されてて
この話から忠興は度量の広い人物であったとコメントを載せてあった!!
(これじゃあ何も知らん人たちに誤った印象を与えてしまうじゃないか)
0188人間七七四年
2007/07/16(月) 23:28:14ID:AS0kMlxfと言ってガラシャが思いのままにいつまでもお祈りができるように、そのための礼拝所や祭壇を、
忠興自らそれらの建築に指図したって話のこと?
このエピも、それ以前の鼻削ぎ等々のエピからすればものすごい豹変ぶりだね。
0189人間七七四年
2007/07/17(火) 00:32:53ID:9cpJl9/o後には礼拝所やら祭壇やらに配慮を示すようになってる。
ガラシャの死後のコメントといい・・・・越中守に何が起きたんだろうか?
0190人間七七四年
2007/07/17(火) 01:08:25ID:k+KahlRM思ってたが、玉が本気だとわかって止めたんじゃないか?
これ以上やったらマジで捨てて出て行かれる、と。
0191人間七七四年
2007/07/17(火) 02:55:53ID:sLZBSMg4キリシタンで自害は御法度。
0192人間七七四年
2007/07/17(火) 03:02:56ID:9cpJl9/o鼻削ぎやってたころくらいに、玉が「別れたい」と宣教師に
相談したことがあったらしいから、それを聞いて慌てたのかも
しれんなw
あと、なぜか三斎が衆道が大嫌いだったらしいが、何故だろうな?
0194人間七七四年
2007/07/17(火) 11:48:34ID:ZirGNA2W精神的に不安定だったガラシャが、とりあえずキリスト教に入信したことで落ち着いたとか
周囲の人物も入信して、強硬策取りづらくなったということもあるかも知れない。
豊前時代の初め、領内で比較的キリスト教に寛容だったのは、
九州の領民への普及率が丹後時代と比べて高かったからじゃないかなと思ってるんですが。
0195人間七七四年
2007/07/17(火) 22:34:07ID:BFvN/wHL0196人間七七四年
2007/07/19(木) 00:14:39ID:b2TJORpm言われてたらしい。(本能寺の変で光秀に付くか否かの二者択一を迫られたこと、
秀次事件で連座させられそうになったこと、関が原の折ガラシャが自刃させられたこと
以上3つの災難で三災というわけ)
0197宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/07/19(木) 00:30:25ID:Lg7Zmxbe細川幽斎と仲が良かったらしい。
元親が松山城に籠城してる時、幽斎は元親に歌書「八雲集」を届けている。
また、元親が自害する際にも幽斎へ一句残している。
この2人の繋がりが個人的に気になってる。
流れぶったぎってすまん。
0198人間七七四年
2007/07/21(土) 16:27:21ID:Y3047f2eこの人の資料ってあんまり無くて・・
0199人間七七四年
2007/07/23(月) 00:16:37ID:E747rRLjとして召しだされた(1609年近江に千石与えられた)
0200198
2007/07/24(火) 16:18:18ID:AHbjiVdQ一応は家臣入りしたんですね。しかもその後、ヘッドハンティングとは驚きました。
細川家臣団は皆さん逸話が多くて凄いと思います。
特に飯河親子の最期は・・(;_;)
0201人間七七四年
2007/07/24(火) 21:51:30ID:MOzl+qhi0202人間七七四年
2007/07/25(水) 06:17:02ID:cnWg+LJr私の読んだ資料には三淵光行は関ヶ原合戦に参加したと書いてありました。
実際はどうだったんでしょ。
>>201
飯河親子粛清で細川家に不審を抱いて出奔したみたいですね。
この頃は加賀山隼人の切腹とか内部的な事件も多かったので
嫌気がさすのも仕方ないのかなぁ。
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