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細川幽斎(藤孝)・忠興父子を語るスレ

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0001人間七七四年2007/02/17(土) 21:24:53ID:kgpQVoWf
戦国時代を代表する文化人幽斎と
幽斎の息子で激情家で知られる忠興を語りましょう。
0002人間七七四年2007/02/17(土) 21:25:31ID:xQdrf/hh
語りません
0003人間七七四年2007/02/17(土) 21:29:00ID:tz9k1+kv
文化人だからか、風流で清潔なイメージがある藤孝だが
丹後平定の時腹黒い一面を見せている。
0004人間七七四年2007/02/17(土) 21:29:51ID:F4afgI41
( ´゚ω゚` )
0005関連スレ2007/02/17(土) 21:29:52ID:apm1EAbd
細川ガラシャ
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1160569818/
剣豪将軍足利義輝
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150552879/
0006人間七七四年2007/02/17(土) 21:31:24ID:tz9k1+kv
忠興の死後はその三男が継いだ。
何故かというと、長男、次男は忠興に殺されているから。

なんとも本当にDQNやね・・・
0007人間七七四年2007/02/17(土) 21:45:05ID:EkrYgyhT
>6
長男は殺されていないがな。二男も生存説があるし。
0008奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/02/17(土) 22:57:04ID:rWNpe7d7
細川隆元と細川隆一郎
0009前田 ◆MAEDAxMYTY 2007/02/17(土) 23:05:53ID:rWDZmLuQ
細川幽斎

【特技】戦国時代
0010人間七七四年2007/02/18(日) 00:31:01ID:Ns+JJk0c
戦国武将にして当代随一の文化人。
文人のイメージが強いが実は弓にも剣にも通じ、
気の立った牛の角を持って押し返すほどの大力の持ち主。
0011人間七七四年2007/02/18(日) 01:07:16ID:LW/hjtWf
忠興と息子たち

長男は前田家とのつながりを家康に指摘され、家康を恐れた忠興に勘当される、長男ブチ切れ、30年近くまったく会わず
その後、久しぶりの対面を果たすが、長男は忠興と一緒にいることを拒んで京に帰っていった
(前田家とはその後100年以上まったく交流せず、利長とは大親友だったが挨拶も交わさなくなった)

次男は長男の勘当で自分が藩主になれると思っていたが忠興は家康の意向を受け三男を藩主に指名
これにブチ切れて家出、大阪の陣で豊臣方に組し戦う、最後は自害
(家康は細川家の大阪の陣の戦功に免じて、次男を無罪放免にしてやると言ったが忠興が許さず自害に追い込む)

三男は家康に人質に出していたことが幸いし?家康に気に入られ忠興の跡を継ぐ
0012人間七七四年2007/02/18(日) 23:34:35ID:AXktzvJz
いにしへも 今もかはらぬ 世の中に こころの種を 残す 言の葉

田辺城攻防戦ん時に詠んだ歌。こんとき後陽成天皇の勅命で停戦になった。
0013奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/02/18(日) 23:38:57ID:L7w+D6iy
芸は身を扶く。
0014人間七七四年2007/02/18(日) 23:53:26ID:pfhoVPWe
忠興は三男忠利に後継がせたはいいけど
忠利とも戦になりはぐったぐらい不仲だったんでしょ?
お互い気に入らない相手の家臣殺したりしてるし
この一家には狂気が渦巻いてるな
0015奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/02/18(日) 23:59:22ID:L7w+D6iy
忠興一人がカルシウム足りない人だったんじゃないの?
0016人間七七四年2007/02/19(月) 09:43:40ID:VlGU7pni
忠興が心の底から愛し、執着したのは
血を分けた自分の子供や、弟・妹たちではなく
玉(ガラシャ)だけだったってことかな・・・
無断でキリスト教に入信した時だって
狂う程に激怒はしたけれど、
玉を殺しもしないし、離縁もしない
結局、惚れた方が負けって事だねw
0017人間七七四年2007/02/19(月) 20:59:37ID:Hm5rmZaT
忠興と仲が良かったのは、蒲生氏郷・高山右近。
0018人間七七四年2007/02/19(月) 21:01:53ID:WaE+hLi+
藤孝はどんな躾を忠興にしたんだろ……?
0019人間七七四年2007/02/21(水) 21:42:40ID:gHopIhJT
忠興のほうが、忠利の家臣を殺したことはあったけれど逆もあったけ?
忠興はDQNと思うけど、藤孝・忠利は人格者と思うけど。

晩年の忠興が可愛がっていたのは、4男の立孝。忠興は自分が隠居領としていた八代城と領地を譲ろうとしたが
立孝のほうが先に亡くなってしまい、実現しなかった。
立孝・忠興死後に立孝の息子が宇土に移り、宇土支藩を立てた。
0020人間七七四年2007/02/23(金) 00:28:20ID:VfjGe/cB
忠興は教養人ではあるが幽斎からは「お前が歌を幾ら習おうと儂に遠く及ばん」と
キツイ言葉を言われている。才能はあまり無かったようだ。
0021人間七七四年2007/02/23(金) 01:18:49ID:EfftzdFM
藤孝はかっこいい!
「花と火の帝」でそう思った。
0022人間七七四年2007/02/23(金) 02:24:24ID:2siPfyHA
忠興と信長はいい勝負だな

興秋は大坂の陣では真田隊に属して戦ったようだね
0023人間七七四年2007/02/23(金) 08:56:15ID:mzo+PzCe
光秀が将軍家の家臣になれたのは、藤孝の口添えがあってのことかな?
0024人間七七四年2007/02/25(日) 21:02:28ID:E9HXbvWT
忠興って生まれた時、藤孝が義昭救出とかで奔走している大変な時期だったんで家臣の中村夫婦に預けられ粗末な小屋で彼らの子どもとして育てられ隠れるようにして暮らしてたらしい。
5歳になって初めて勝龍寺城に戻って幽斎に会えたと「綿考輯録」にある。
こんな生い立ちがあの性格をつくりあげたのかも・・・。
更に7歳ぐらいの時に、家臣同士の争いが起こってこの騒動を大いに喜び、一方に肩入れして一方を追い出した。
これを聞いた藤孝が激怒して忠興を譴責しその結果親子の間が険悪になった。
その後、大徳寺の玉甫(幽斎の弟)の所に預けられたとか。
そういえば玉との縁談を信長が持ちかけた時、「剛強に過ぐる」と辞退してるくらいだから
藤孝がもてあますぐらい相当なものだったんでしょう。
0025人間七七四年2007/02/25(日) 21:38:21ID:1bShFhjZ
>>24
親元で厳しく躾けられたとはほど遠い感じだね……。
半ば捨て子扱いで、親に対する恨みめいたものもあったろうし。
0026人間七七四年2007/02/27(火) 13:43:16ID:pTME1yMw
>>24
結城秀康を連想した
0027人間七七四年2007/02/27(火) 20:37:07ID:mrbFIG3T
幽斎は忠興に廃嫡された忠隆の京都での生活扶助もしてるし遺言で忠隆に遺産残してる。
忠興と不和になって出奔した興元の面倒もみて家康にいろいろ根回ししたらしく最終的に彼は矢田部藩主になれた。
なんだか忠興がおこした騒動の後始末してるような・・・。「やれやれ」とため息をつく幽斎が目に浮かぶ。
0028人間七七四年2007/02/27(火) 22:22:41ID:MZthBM/6
>>27
谷田部立藩のときも当初10万石の予定だったのを、不仲の忠興の横槍で2万石になったらしい。
息子達に対する態度といい、才能はあるが人格面は異常だね。
0029人間七七四年2007/02/27(火) 22:26:56ID:0AJQGYF4
嫁の顔を見ただけの庭師を殺しちゃうくらいだからなあ。
0030仙台藩百姓2007/02/27(火) 22:44:07ID:2xW0dYsu
キチガイ
0031人間七七四年2007/02/27(火) 23:23:21ID:IlZ+5lNy
>>29
美人と名高い玉だったけど忠興のDVで顔が変形していた
その顔を見た庭師が他所で漏らすのを危惧して殺害したのが真相
0032人間七七四年2007/02/27(火) 23:28:07ID:Ul1jvWjH
幽斎に対する態度もけっこうひどい。
関が原の役の後、最初怒って幽斎に会わなかったとか(最後には開城したのが気に食わなかったらしい)
幕府から、幽斎以前の細川家について問い合わせあったとき、”俺が初代なんで、前のことは知らん”って言ったりとか。

でも小野木公郷が降伏したあと、家康に助命を願ったって話もあるんだよね。
一応情けはあるのか?

0033人間七七四年2007/02/27(火) 23:58:24ID:yL312Tq3
>>29
なんじゃそら
ソースは?
0034人間七七四年2007/02/28(水) 20:36:11ID:vunI9QpT
高山右近絡みだと別人のような話が残ってる。彼の改易後も親交続けて、1614年マニラへ追放が決まった時彼の態度を賞賛しているし、
九州まで下ってきた右近に対して「もし棄教するのならばなんとしても大御所様を説得してみせる」と申し出たとか。
それを裏付けるような右近の「決別の書状」が永青文庫に残ってるし・・・
そういえば利休に対してはあの有名な「淀の渡し」の逸話もあるし・・・。なんというかサドで冷酷な面とあまりにも落差が大きい
0035人間七七四年2007/02/28(水) 21:12:06ID:vunI9QpT
>>32 確か小野木公郷の助命を家康にしたのは井伊直政で、忠興がどうしても納得せず結局切腹させられさらし首になってしまった。
この結果に面目をつぶされた直政が激怒して、家康に「越中の如き酷い者を畿内に置くことは無用」と讒言され、
忠興は但馬一国加増が沙汰止みになってしまったという顛末だった。
0036人間七七四年2007/02/28(水) 21:19:36ID:+oHwt/uf
>>35
井伊の見識は確かだな。
0037332007/02/28(水) 21:24:25ID:EPP3HZdO
いま気付いたんだけど
びっくりしたのは>>31のレスですた
忠興は玉の事を偏った愛ではあるが
大事にはしてたと思うが?
>>29のは有名な話だもんなあ
嫉妬深く、子供の頃から気性も荒くて
狂い者ではないかと家臣に言われきた忠興なら有得るよ
0038人間七七四年2007/02/28(水) 22:30:34ID:iGEWbGNQ
>>35
あれ?私のほうの史料(旧陸軍参謀本部の関が原の役)では、忠興が福知山城接収後、大坂で助命嘆願したことになっています。
井伊直政は出てきませんね。 山岡景友が公郷への開城説得役で出てくる。

細川氏を九州に飛ばすのは規定事項じゃないのかな?
関が原の戦前に家康が細川氏に加増した豊後領の隣が新しい領地だから、豊前が新領地ってのは当然のような気がします。
飛び地(畿内周辺と九州)がそのまま継続できるってのも虫が良すぎる話のような。

でも長男の忠隆が、「遠国に飛ばされた」って愚痴っている書状も残ってますね。うーん。
0039人間七七四年2007/03/01(木) 11:52:11ID:DsMtLk+E
細川忠輿と幽斎はあまり仲が良くなかったのではないか?
石田三成襲撃なんかした忠興は、あまり好きになれない
あの時三成襲撃に加わった七将はそれだけで武将としての価値が下がった気がする
加藤清正や福島正則なんかのような成り上がり大名ならさまありなんって感じだが
細川のような名門があんな軽挙な行動は似合わない
きっと親爺とは性格が合わない武将だったと思う
0040バロン曽志崎2007/03/01(木) 19:25:20ID:fNHtSVQj
当代一の文化人と謳われた幽斎も晩年はボケ老人。
忠興は何故か市井では人気がなかったのかヘタレ扱い。
0041人間七七四年2007/03/01(木) 20:05:22ID:HUXALvAJ
>>29 その有名なエピソードですが、「綿考輯録」では4パターン紹介しとります。まずはその一つ。
@ある時奥の台所で何かあったのか騒がしい折に下人が一人紛れ込んでいるのを忠興君が見つけ、言い付けを背くからこのようなことになるのだといって
その下人を手打ちにした。その血刀を伽羅奢さまのお召しになっている小袖で拭いたが(伽羅奢様は)少しも騒ぐことなく、その小袖を3日も4日も召したまま
お着替えにならなかった。忠興君は結局困り果てて侘びられようやくお召し替えとなった。この時「汝は蛇也」(一説に「我は鬼也」)と仰せになると
「鬼の女房には蛇かなる」とお答えになられた。(伽羅奢様は)侍女たちが驚き騒いだのを女といえども武家に仕える者はみだりに騒ぐべきではないと
お示しになられたのだ。
0042人間七七四年2007/03/01(木) 20:14:05ID:HUXALvAJ
A一説に、忠興君がお手打ちにした者の首を、上様(ガラシャ)はいつもいらっしゃる部屋の
棚に置きいつまでもそのままにしておかれた。後に忠興君も困り果てられ、幽斎君が侘びられてようやく
取り除くこととなった。<幽斎巻き添え −その1−>
0043人間七七四年2007/03/01(木) 20:24:35ID:HUXALvAJ
B又一説に、御前様(ガラシャ)と一緒に居られた時に居間の屋根を繕っていた者がどうしたものか滑って
庭に落ちたのを、忠興君は早速その者の首を刎ね、御前様(ガラシャ)の膝上に投げつけたのを、
(ガラシャは)少しも驚くことがなかった。このお手打ちはご夫婦でいらっしゃるところを
屋根師が落ちてみたのを、他言を避けるためになさったことだという。
0044人間七七四年2007/03/01(木) 20:43:36ID:HUXALvAJ
C又一説に、(二人で)ご膳を召しあがっていたときに、上様(ガラシャ)のご飯に髪の毛が一筋あったのをそっと椀にいれた。
(これは台所人に咎がおよばないようにしたためだった)忠興君が見つけ、「膳の脇に隠したものは何か」とその椀をとりご覧に
なり髪の毛があったため、「さては台所人をお庇いか!」と妬み、走り出て台所人の首を切り
御前様の膝上に置かれたのを、(ガラシャは)何も言わず終日座っておられた。忠興君は粗忽な振る舞いを
悔やんだが、(ガラシャは)首をお取りのける様子もなく、幽斎さまの仰せでお取り除きとなったという。
<幽斎巻き添え −その2−>

以上どれも忠興ならありえそうな話です。ガラシャの対応もすさまじい。
0045人間七七四年2007/03/01(木) 20:52:47ID:BFHH4KL6
どんないい女なのか、見てみたい。
0046人間七七四年2007/03/01(木) 22:49:37ID:FQhm2BnZ
>>40
そんな話聞いたこともない(藤孝限定)
0047正親町天皇2007/03/02(金) 22:55:00ID:WdSluAHq
幽斎を喪うは朝廷の嘆きである…至急田辺の囲みを解くよう、勅命を下す…
0048人間七七四年2007/03/03(土) 00:53:14ID:BYbzsYgN
でも忠興の子供は忠興の激情的な性格を受け継いでないような気がするけど
みんなどちらかというと幽斎っぽいと思うけど
0049人間七七四年2007/03/03(土) 18:42:52ID:DT3qzz0I
忠興の子供や孫がみんなあんな性格だったら
幕府に目を付けられて、とっくの昔に細川家は改易消滅していただろう

最も当代細川家当主は母方の近衛家(というより文麿)の性格そっくりでどうかなと思うがw
0050人間七七四年2007/03/03(土) 18:44:08ID:EWWkB/Up
世の中には便利な言葉がある。

つ反面教師
0051人間七七四年2007/03/04(日) 09:42:04ID:O7P84XWH
>>24の生い立ちから考えると彼だけ特異なんでないの?
息子たちともことごとく不和になってるし、更に孫の光尚とも×だし。
勘気を蒙って出奔した家臣も結構いるし、あと生涯手打ちにしたのは36人だとか。
まだ戦国の世だったからいいけど。江戸時代中期以降だったらまじでやばい。
そういう意味でも平和な世には危ない奴だ。
0052人間七七四年2007/03/04(日) 13:36:37ID:JtpapW/K
次弟(興元)も結構激しい性格している。
残りの弟達は年が離れているせいか、控えめな印象がある。

>息子たちともことごとく不和になってるし、更に孫の光尚とも×だし。
不和なのは忠利まででしょ?その下の息子たちはかなり可愛がっていたみたいだし。

0053人間七七四年2007/03/04(日) 20:38:01ID:Vytbz0xG
関わり合いたくないタイプ。
0054人間七七四年2007/03/05(月) 00:46:18ID:MosLSIE3
>>52 幼少から人質に出された興孝とは不和になり修復不可能に・・・
見かねた光尚が間に入ったけど聞き入れずと「綿考輯録」にあります。

かわいがっていた立孝にも江戸で先立たれてしまい八代立藩も没に。
長生きはしたけど晩年は孤独だったんでは?







0055人間七七四年2007/03/05(月) 00:51:19ID:v7wtAaD/
親父に比べて息子はピリッとしないな。
有能なんだろうけど嫉妬深かったということで、評価が下がる
0056人間七七四年2007/03/05(月) 01:15:36ID:O+Sx3auq
本当に気持ち悪い。
底暗い性根を隠せば隠すほどオブラートが気色悪い。
大嫌いだって言ってた○○でも殺したら逆にスッキリすると思う。
開眼するんじゃないの?
0057人間七七四年2007/03/05(月) 02:27:11ID:WEG1T2FN
>>55
井伊直政と細川忠興だけには仕えたくないな。
こいつらはとにかくやばそう。
0058人間七七四年2007/03/05(月) 12:38:12ID:jbBQbgkN
「忠興」という文字はどこから拾ってきたの?
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