細川幽斎(藤孝)・忠興父子を語るスレ
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0001人間七七四年
2007/02/17(土) 21:24:53ID:kgpQVoWf幽斎の息子で激情家で知られる忠興を語りましょう。
0002人間七七四年
2007/02/17(土) 21:25:31ID:xQdrf/hh0003人間七七四年
2007/02/17(土) 21:29:00ID:tz9k1+kv丹後平定の時腹黒い一面を見せている。
0004人間七七四年
2007/02/17(土) 21:29:51ID:F4afgI410005関連スレ
2007/02/17(土) 21:29:52ID:apm1EAbdhttp://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1160569818/
剣豪将軍足利義輝
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150552879/
0006人間七七四年
2007/02/17(土) 21:31:24ID:tz9k1+kv何故かというと、長男、次男は忠興に殺されているから。
なんとも本当にDQNやね・・・
0007人間七七四年
2007/02/17(土) 21:45:05ID:EkrYgyhT長男は殺されていないがな。二男も生存説があるし。
0008奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/02/17(土) 22:57:04ID:rWNpe7d70009前田 ◆MAEDAxMYTY
2007/02/17(土) 23:05:53ID:rWDZmLuQ【特技】戦国時代
0010人間七七四年
2007/02/18(日) 00:31:01ID:Ns+JJk0c文人のイメージが強いが実は弓にも剣にも通じ、
気の立った牛の角を持って押し返すほどの大力の持ち主。
0011人間七七四年
2007/02/18(日) 01:07:16ID:LW/hjtWf長男は前田家とのつながりを家康に指摘され、家康を恐れた忠興に勘当される、長男ブチ切れ、30年近くまったく会わず
その後、久しぶりの対面を果たすが、長男は忠興と一緒にいることを拒んで京に帰っていった
(前田家とはその後100年以上まったく交流せず、利長とは大親友だったが挨拶も交わさなくなった)
次男は長男の勘当で自分が藩主になれると思っていたが忠興は家康の意向を受け三男を藩主に指名
これにブチ切れて家出、大阪の陣で豊臣方に組し戦う、最後は自害
(家康は細川家の大阪の陣の戦功に免じて、次男を無罪放免にしてやると言ったが忠興が許さず自害に追い込む)
三男は家康に人質に出していたことが幸いし?家康に気に入られ忠興の跡を継ぐ
0012人間七七四年
2007/02/18(日) 23:34:35ID:AXktzvJz田辺城攻防戦ん時に詠んだ歌。こんとき後陽成天皇の勅命で停戦になった。
0013奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/02/18(日) 23:38:57ID:L7w+D6iy0014人間七七四年
2007/02/18(日) 23:53:26ID:pfhoVPWe忠利とも戦になりはぐったぐらい不仲だったんでしょ?
お互い気に入らない相手の家臣殺したりしてるし
この一家には狂気が渦巻いてるな
0015奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/02/18(日) 23:59:22ID:L7w+D6iy0016人間七七四年
2007/02/19(月) 09:43:40ID:VlGU7pni血を分けた自分の子供や、弟・妹たちではなく
玉(ガラシャ)だけだったってことかな・・・
無断でキリスト教に入信した時だって
狂う程に激怒はしたけれど、
玉を殺しもしないし、離縁もしない
結局、惚れた方が負けって事だねw
0017人間七七四年
2007/02/19(月) 20:59:37ID:Hm5rmZaT0018人間七七四年
2007/02/19(月) 21:01:53ID:WaE+hLi+0019人間七七四年
2007/02/21(水) 21:42:40ID:gHopIhJT忠興はDQNと思うけど、藤孝・忠利は人格者と思うけど。
晩年の忠興が可愛がっていたのは、4男の立孝。忠興は自分が隠居領としていた八代城と領地を譲ろうとしたが
立孝のほうが先に亡くなってしまい、実現しなかった。
立孝・忠興死後に立孝の息子が宇土に移り、宇土支藩を立てた。
0020人間七七四年
2007/02/23(金) 00:28:20ID:VfjGe/cBキツイ言葉を言われている。才能はあまり無かったようだ。
0021人間七七四年
2007/02/23(金) 01:18:49ID:EfftzdFM「花と火の帝」でそう思った。
0022人間七七四年
2007/02/23(金) 02:24:24ID:2siPfyHA興秋は大坂の陣では真田隊に属して戦ったようだね
0023人間七七四年
2007/02/23(金) 08:56:15ID:mzo+PzCe0024人間七七四年
2007/02/25(日) 21:02:28ID:E9HXbvWT5歳になって初めて勝龍寺城に戻って幽斎に会えたと「綿考輯録」にある。
こんな生い立ちがあの性格をつくりあげたのかも・・・。
更に7歳ぐらいの時に、家臣同士の争いが起こってこの騒動を大いに喜び、一方に肩入れして一方を追い出した。
これを聞いた藤孝が激怒して忠興を譴責しその結果親子の間が険悪になった。
その後、大徳寺の玉甫(幽斎の弟)の所に預けられたとか。
そういえば玉との縁談を信長が持ちかけた時、「剛強に過ぐる」と辞退してるくらいだから
藤孝がもてあますぐらい相当なものだったんでしょう。
0025人間七七四年
2007/02/25(日) 21:38:21ID:1bShFhjZ親元で厳しく躾けられたとはほど遠い感じだね……。
半ば捨て子扱いで、親に対する恨みめいたものもあったろうし。
0027人間七七四年
2007/02/27(火) 20:37:07ID:mrbFIG3T忠興と不和になって出奔した興元の面倒もみて家康にいろいろ根回ししたらしく最終的に彼は矢田部藩主になれた。
なんだか忠興がおこした騒動の後始末してるような・・・。「やれやれ」とため息をつく幽斎が目に浮かぶ。
0028人間七七四年
2007/02/27(火) 22:22:41ID:MZthBM/6谷田部立藩のときも当初10万石の予定だったのを、不仲の忠興の横槍で2万石になったらしい。
息子達に対する態度といい、才能はあるが人格面は異常だね。
0029人間七七四年
2007/02/27(火) 22:26:56ID:0AJQGYF40030仙台藩百姓
2007/02/27(火) 22:44:07ID:2xW0dYsu0031人間七七四年
2007/02/27(火) 23:23:21ID:IlZ+5lNy美人と名高い玉だったけど忠興のDVで顔が変形していた
その顔を見た庭師が他所で漏らすのを危惧して殺害したのが真相
0032人間七七四年
2007/02/27(火) 23:28:07ID:Ul1jvWjH関が原の役の後、最初怒って幽斎に会わなかったとか(最後には開城したのが気に食わなかったらしい)
幕府から、幽斎以前の細川家について問い合わせあったとき、”俺が初代なんで、前のことは知らん”って言ったりとか。
でも小野木公郷が降伏したあと、家康に助命を願ったって話もあるんだよね。
一応情けはあるのか?
0034人間七七四年
2007/02/28(水) 20:36:11ID:vunI9QpT九州まで下ってきた右近に対して「もし棄教するのならばなんとしても大御所様を説得してみせる」と申し出たとか。
それを裏付けるような右近の「決別の書状」が永青文庫に残ってるし・・・
そういえば利休に対してはあの有名な「淀の渡し」の逸話もあるし・・・。なんというかサドで冷酷な面とあまりにも落差が大きい
0035人間七七四年
2007/02/28(水) 21:12:06ID:vunI9QpTこの結果に面目をつぶされた直政が激怒して、家康に「越中の如き酷い者を畿内に置くことは無用」と讒言され、
忠興は但馬一国加増が沙汰止みになってしまったという顛末だった。
003733
2007/02/28(水) 21:24:25ID:EPP3HZdOびっくりしたのは>>31のレスですた
忠興は玉の事を偏った愛ではあるが
大事にはしてたと思うが?
>>29のは有名な話だもんなあ
嫉妬深く、子供の頃から気性も荒くて
狂い者ではないかと家臣に言われきた忠興なら有得るよ
0038人間七七四年
2007/02/28(水) 22:30:34ID:iGEWbGNQあれ?私のほうの史料(旧陸軍参謀本部の関が原の役)では、忠興が福知山城接収後、大坂で助命嘆願したことになっています。
井伊直政は出てきませんね。 山岡景友が公郷への開城説得役で出てくる。
細川氏を九州に飛ばすのは規定事項じゃないのかな?
関が原の戦前に家康が細川氏に加増した豊後領の隣が新しい領地だから、豊前が新領地ってのは当然のような気がします。
飛び地(畿内周辺と九州)がそのまま継続できるってのも虫が良すぎる話のような。
でも長男の忠隆が、「遠国に飛ばされた」って愚痴っている書状も残ってますね。うーん。
0039人間七七四年
2007/03/01(木) 11:52:11ID:DsMtLk+E石田三成襲撃なんかした忠興は、あまり好きになれない
あの時三成襲撃に加わった七将はそれだけで武将としての価値が下がった気がする
加藤清正や福島正則なんかのような成り上がり大名ならさまありなんって感じだが
細川のような名門があんな軽挙な行動は似合わない
きっと親爺とは性格が合わない武将だったと思う
0040バロン曽志崎
2007/03/01(木) 19:25:20ID:fNHtSVQj忠興は何故か市井では人気がなかったのかヘタレ扱い。
0041人間七七四年
2007/03/01(木) 20:05:22ID:HUXALvAJ@ある時奥の台所で何かあったのか騒がしい折に下人が一人紛れ込んでいるのを忠興君が見つけ、言い付けを背くからこのようなことになるのだといって
その下人を手打ちにした。その血刀を伽羅奢さまのお召しになっている小袖で拭いたが(伽羅奢様は)少しも騒ぐことなく、その小袖を3日も4日も召したまま
お着替えにならなかった。忠興君は結局困り果てて侘びられようやくお召し替えとなった。この時「汝は蛇也」(一説に「我は鬼也」)と仰せになると
「鬼の女房には蛇かなる」とお答えになられた。(伽羅奢様は)侍女たちが驚き騒いだのを女といえども武家に仕える者はみだりに騒ぐべきではないと
お示しになられたのだ。
0042人間七七四年
2007/03/01(木) 20:14:05ID:HUXALvAJ棚に置きいつまでもそのままにしておかれた。後に忠興君も困り果てられ、幽斎君が侘びられてようやく
取り除くこととなった。<幽斎巻き添え −その1−>
0043人間七七四年
2007/03/01(木) 20:24:35ID:HUXALvAJ庭に落ちたのを、忠興君は早速その者の首を刎ね、御前様(ガラシャ)の膝上に投げつけたのを、
(ガラシャは)少しも驚くことがなかった。このお手打ちはご夫婦でいらっしゃるところを
屋根師が落ちてみたのを、他言を避けるためになさったことだという。
0044人間七七四年
2007/03/01(木) 20:43:36ID:HUXALvAJ(これは台所人に咎がおよばないようにしたためだった)忠興君が見つけ、「膳の脇に隠したものは何か」とその椀をとりご覧に
なり髪の毛があったため、「さては台所人をお庇いか!」と妬み、走り出て台所人の首を切り
御前様の膝上に置かれたのを、(ガラシャは)何も言わず終日座っておられた。忠興君は粗忽な振る舞いを
悔やんだが、(ガラシャは)首をお取りのける様子もなく、幽斎さまの仰せでお取り除きとなったという。
<幽斎巻き添え −その2−>
以上どれも忠興ならありえそうな話です。ガラシャの対応もすさまじい。
0045人間七七四年
2007/03/01(木) 20:52:47ID:BFHH4KL60047正親町天皇
2007/03/02(金) 22:55:00ID:WdSluAHq0048人間七七四年
2007/03/03(土) 00:53:14ID:BYbzsYgNみんなどちらかというと幽斎っぽいと思うけど
0049人間七七四年
2007/03/03(土) 18:42:52ID:DT3qzz0I幕府に目を付けられて、とっくの昔に細川家は改易消滅していただろう
最も当代細川家当主は母方の近衛家(というより文麿)の性格そっくりでどうかなと思うがw
0050人間七七四年
2007/03/03(土) 18:44:08ID:EWWkB/Upつ反面教師
0051人間七七四年
2007/03/04(日) 09:42:04ID:O7P84XWH息子たちともことごとく不和になってるし、更に孫の光尚とも×だし。
勘気を蒙って出奔した家臣も結構いるし、あと生涯手打ちにしたのは36人だとか。
まだ戦国の世だったからいいけど。江戸時代中期以降だったらまじでやばい。
そういう意味でも平和な世には危ない奴だ。
0052人間七七四年
2007/03/04(日) 13:36:37ID:JtpapW/K残りの弟達は年が離れているせいか、控えめな印象がある。
>息子たちともことごとく不和になってるし、更に孫の光尚とも×だし。
不和なのは忠利まででしょ?その下の息子たちはかなり可愛がっていたみたいだし。
0053人間七七四年
2007/03/04(日) 20:38:01ID:Vytbz0xG0054人間七七四年
2007/03/05(月) 00:46:18ID:MosLSIE3見かねた光尚が間に入ったけど聞き入れずと「綿考輯録」にあります。
かわいがっていた立孝にも江戸で先立たれてしまい八代立藩も没に。
長生きはしたけど晩年は孤独だったんでは?
0055人間七七四年
2007/03/05(月) 00:51:19ID:v7wtAaD/有能なんだろうけど嫉妬深かったということで、評価が下がる
0056人間七七四年
2007/03/05(月) 01:15:36ID:O+Sx3auq底暗い性根を隠せば隠すほどオブラートが気色悪い。
大嫌いだって言ってた○○でも殺したら逆にスッキリすると思う。
開眼するんじゃないの?
0058人間七七四年
2007/03/05(月) 12:38:12ID:jbBQbgkN0060人間七七四年
2007/03/05(月) 19:39:09ID:CBIwIXU9幽斎も利休も九州平定前に島津へ連名で書状出した当時は、400年後に
お互い親戚になるなんて思いもしなかっただろうね。
0061人間七七四年
2007/03/06(火) 01:24:11ID:EGf1lYH/細川親子だったら親父の首が飛んでそう
0062人間七七四年
2007/03/06(火) 13:01:27ID:fTgCgAjW現代でいうとなんて病名になるの?
0063人間七七四年
2007/03/06(火) 19:16:00ID:49eifsjQA幼児期のトラウマ・嫉妬・傲慢・対人関係における相手の不当利用からいくと「自己愛性人格障害」
B異常なまでの執着・独占欲・支配欲でエスカレートする特徴があり、最悪の場合殺人や障害事件に
発展する・・・「ストーカー行為」の定義。ガラシャに対する忠興の態度がまさにそれ。
0064人間七七四年
2007/03/06(火) 19:24:59ID:EFaIT0kOとかないとか。実際はどうなんだろう。義輝と晴元は基本的には協調していた
から、時期的には限定されるけど。
0065人間七七四年
2007/03/06(火) 19:56:48ID:v8BHvZWm直政の方は必死なかんじがまだ理解できんこともないが
ヤバ興さまはダメですどう見ても真性です病院行って下さい
しかし友達は多いみたいだな…黒田とは不仲で有名だがこいつは忠興以外にも嫌われまくりだし
0066人間七七四年
2007/03/06(火) 20:00:39ID:JYJqdL9D内弁慶全開w
0067人間七七四年
2007/03/06(火) 20:19:26ID:49eifsjQ1547年 晴元と決別した義晴・義輝親子とともに北白川城に入る。
晴元勢の攻撃を受け、北白川城が落城。近江国に逃れる。(13歳)
1551年 晴元の軍勢が三好長慶の軍勢と交戦する(17歳)
1556年 坂本で晴元が興行した連歌会に参加する(22歳)
「週刊 日本の100人 細川幽斎」より
0068人間七七四年
2007/03/06(火) 21:00:10ID:7kH23j4jしかしこの本どこまで信じていいのかな?身内が書いた本だしなぁ。
0069人間七七四年
2007/03/06(火) 23:43:02ID:49eifsjQ(細川家に不利なようには書かないわな)
0070人間七七四年
2007/03/07(水) 00:36:08ID:++QEaOsL0072人間七七四年
2007/03/07(水) 01:04:46ID:TwirRw0Eでもその鉄砲の腕を家康に惜しまれて助命されて、松平家に仕えることができた。
芸は身を助ける、か。
0073人間七七四年
2007/03/07(水) 12:20:17ID:A1MfJpbNもともと領地引継ぎの際の年貢の取り扱いでもめて、
黒田は興元の逃亡を助ける、細川は後藤又兵衛の逃亡を助ける&息子の一人を保護
後々まで両家は仲よくなかったみたいですね。
0074人間七七四年
2007/03/07(水) 22:33:35ID:RvnqUoAEガラシャに対する異常さは勿論、侍女を折檻したり稲富を執拗に奉公構えする忠興の変態っぷりがよく描かれている。
そんな忠興に対して一歩引いてる感じの幽斎、夫より幽斎を慕うガラシャという設定で結構笑える。
0075人間七七四年
2007/03/07(水) 22:58:26ID:RvnqUoAE0076人間七七四年
2007/03/07(水) 23:08:33ID:A1MfJpbN関が原までは仲悪くないんですよね。
忠興も、豊後の留守部隊には、豊前の黒田官兵衛と肥後の加藤清正を頼れって指示しているし、
実際に大友義統と戦ったときは、黒田勢が主力として戦っている。
(清正は応援に出兵したけど間に合わなかった)
黒田長政も、短気な性格だったようなエピソードが結構残っているし、
支城の配置は全部細川との国境沿い、喧嘩する気まんまんですね。w
0077人間七七四年
2007/03/08(木) 18:01:49ID:DAJPK/pd0078人間七七四年
2007/03/08(木) 23:23:20ID:dyGSBXXg長政より更に腹黒で、限りなく黒い関係・・・
0079人間七七四年
2007/03/08(木) 23:35:14ID:dyGSBXXg黒田如水・黒田長政に続いて(笑)なぜか載っている!
説明文は「信長・秀吉に仕え、関が原の戦い後、豊前小倉39万石を領した。
夫人は明智光秀の娘ガラシャ。」となっている。
妻が有名なキリシタンだから載せたのか?
0080人間七七四年
2007/03/08(木) 23:48:04ID:cc68Lr0z豊前時代に、ガラシャ追悼のため、キリスト教関連の行事を行って、宣教師の説教も聴いているからでは?
信仰はしなかったけど、教えの内容は理解しているとか宣教師が評価していたような。
まあ、キリシタン大名には入らないと思うけど。
0081人間七七四年
2007/03/09(金) 01:20:39ID:M3ViE/UH0082人間七七四年
2007/03/09(金) 01:55:33ID:4Rj7IgY4かなり凄かったんだろうな<黒田vs細川
あとは加賀前田家とも長男の件で百年ほど絶縁状態だったとか
0083人間七七四年
2007/03/09(金) 17:51:48ID:fQMpO7Fj忠隆の件については、幕府(家康)から干渉があったという話も。
細川家に、”前田家との親戚付き合いはやめろ”
前田家に、”忠隆の生活を支援するな”
おかげで忠隆は、金沢に入れず、前田家からは厄介者扱い。
妻とも離縁して後に京都に隠棲、生活費も細川氏が出していたそうです。
0084人間七七四年
2007/03/09(金) 19:22:38ID:BW+KahQdしかも彼は日本史B教科書の頻度数7なので名前が多色刷りになっている。
ちなみに長政の頻度数4に対して忠興と如水は頻度数3(長政の勝ち!)
0085人間七七四年
2007/03/09(金) 20:49:59ID:HqHAwU00良いキャラしてるなw
0086人間七七四年
2007/03/10(土) 23:17:25ID:d3Cvyzda「茶の湯を利休に学び、「利休七哲」の一人に挙げられています。
和歌や連歌、有職にすぐれ、能楽、絵画に通じた文化人でもありました。」
と紹介しているが、「和歌や〜」以降は幽斎と混同してるよな・・・
0087人間七七四年
2007/03/11(日) 22:21:22ID:1ZUSDoWF一応、当時の水準だと一流に入るんじゃ・・・。
藤孝には、「お前は対したこと無い」とかそんな意味のこと言われてた気がするけど。
その藤孝も、芸術家としての評価は低いと聞いたことがある。(作った歌は凡庸とか)
伝統の継承者として評価されるという感じですかね。
0088人間七七四年
2007/03/12(月) 20:17:25ID:aAZuYXHJいつの時代でも父親は息子に「お前は大したこと無い」って言うものだわな。
逆に褒めてたらそれはそれで気持ちが悪い。
0089人間七七四年
2007/03/12(月) 20:38:45ID:/vzO7BPTまあ彼の場合、優れているのが和歌だけでなく連歌・鞠・包丁(料理)・太鼓(鼓)だとか。
更に剣術は塚原卜伝に「一の太刀」を許され、あと弓術の印可も持ってたとか。
彼の多芸多才を表している話として九州の小領主が「私などとても多くの者は召抱えられないから
1人で和歌・連歌・乱舞・弓馬の道すべてに通じた人はいないだろうか?」と知り合いに相談したところ
相手は「そういう人を1人だけ知っている。細川幽斎どのだ。抱えたらどうだ?」とからかった
という話が松永貞徳の「戴恩記」にあるらしい。
0090人間七七四年
2007/03/12(月) 22:10:02ID:RWyTiqru藤孝は別に新しい歌風も技法を作ったわけじゃなからね。
木下長嘯子は江戸時代前期まで影響を与えた。
純粋な歌人としてみるならば、木下長嘯子の方が上じゃないか?
0091人間七七四年
2007/03/14(水) 22:12:50ID:4jGsecQk八条宮智仁親王→後水尾天皇と朝廷に受け継がれた(御所伝授)流れを
つくった功績は高いと思う。
0092人間七七四年
2007/03/22(木) 01:07:51ID:wEYRdW5d三淵家の始祖は足利義満の子供で養父の細川元常自身が元々父・晴員の弟だから
(叔父さんのとこに養子に行ったから)つまり細川家そのものの血は引いてなくても
足利家そのものの血は引いているということになる?
0093人間七七四年
2007/03/22(木) 11:37:48ID:Vk9+dICR落胤説は別にして
0094人間七七四年
2007/03/22(木) 13:16:55ID:65nq4dBO和泉半国守護を務める細川家の息子が三淵家へ養子へ
実家の細川家に跡継ぎがいないから、次男を細川家(晴員の兄)の養子にする
細川元常は藤孝の叔父ではなくて、伯父です。
この細川家はそれまで養子を取ってないと思う。まあずっと前の先祖は足利家だけど。
三淵家は系図・出自はあいまいなんじゃないの?
足利尊氏の子孫(義満の子孫でも合ってるけど)って話も聞いたことがあるような。
0095人間七七四年
2007/03/26(月) 00:17:25ID:C9q7llvcあと森可成も?
0096人間七七四年
2007/03/26(月) 11:51:30ID:xSbgs4TP>あと森可成も?
年齢的に合わないような。息子の長可か忠政?
長可も、領地美濃で信忠付きですよね?
接点あったかな?なにかエピソードありましたっけ?
0097人間七七四年
2007/03/26(月) 19:25:43ID:j4GwxNjP@秀吉死後、文治派が家康を討とうとした時忠興と共に家康の屋敷に駆けつけて
「両家の真心は徳川家が続く限り忘れない」と家康に感謝された。
A忠政が津山城を普請する時、家臣に命じて密かに小倉城の城郭図を写し取らせようとしたが
見つかってしまい捕らえられたが事情を話すと、以外にも忠興は城郭図を貸し与えた。
更に津山城落成の折にお祝いとして南蛮の釣鐘を贈っている。
−なんかの本で忠興の度量の大きさを伺わせる話(!)として紹介されてた。
0098人間七七四年
2007/03/26(月) 19:50:15ID:fKsN0AKB0099人間七七四年
2007/03/26(月) 20:01:32ID:mX/xB+Ak0101人間七七四年
2007/03/26(月) 20:05:00ID:QamoBqpT0102人間七七四年
2007/03/27(火) 01:19:02ID:4fYwgZvy腹を立ててその小姓の頭を叩いたのを信長に見られてしまい「忠政は幼いから小姓は無理だ」
と言われ家に帰されてしまったが結果としてはその後本能寺の変が起きたから命拾いしたことになるけど。
・・・こんなエピソードあるくらいだから暴慢な忠興とは気があったんだろうか?
0103人間七七四年
2007/03/27(火) 23:41:01ID:o/VcNPnzいやなコンビ(忠興&忠政)だなあ。共通の友人は心が落ち着かないでしょうね。w
Wikipedia見てきたけど、森忠政って石高はあまり大きくないけど、官位は高いんですね。
0104人間七七四年
2007/03/28(水) 13:51:38ID:S38JVPhV0105人間七七四年
2007/03/29(木) 00:22:54ID:p56CRnhj彼宛てにさかんに書状を出して助言を求めてますね。
ま、(忠興と違って)忠利はまともだし、実際丁寧アドバイスしてあげてたらしい。
0106人間七七四年
2007/03/29(木) 13:40:44ID:722Ebcoyhttp://osaka.yomiuri.co.jp/news/20070323p301.htm
0107人間七七四年
2007/04/01(日) 22:50:20ID:4Tn8Ld+B0108人間七七四年
2007/04/02(月) 00:05:20ID:GZLAIt5k幽斎の弟に嫁いだ娘だけは養女説があるが、基本的には全員麝香の子と言われている。
側室の存在も知る限り確認できないし。
ただ、そうなると麝香は四十過ぎでも子供を生んでいることになるんだよなぁ。幽斎夫婦がんばった?
0109人間七七四年
2007/04/03(火) 22:19:54ID:JYcGg7+U(如水は子ども少ないけど)
0110人間七七四年
2007/04/03(火) 22:28:04ID:lb8PJhwn遅レスだが、
俺も忠興はボダじゃないかと思ったことあるw
0111人間七七四年
2007/04/04(水) 00:18:24ID:ZjRXSaDpガラシャが興秋だか娘を入信させたときに、忠興の母親がめちゃくちゃ怒ったという話と、
豊前時代に、忠興の母親がキリスト教に入信して深く理解を示したという話があって
前者の話との整合性から、後者の女性は(記録したイエズス会側の誤解とか宣伝で)麝香じゃないのではって推測されたことがあったと思います。
後、興元が出奔した表向きの理由が、自分や松井康之と同じような石高で、実績もない弟達が処遇されるのが納得できないって理由なんで
実は弟二人は別腹ってことはないですかね?
3男幸隆だけ関が原でも留守番部隊だし。
興元も兄と似て結構尊大な性格っぽいので、本当に功績を認めていないだけかもしれないけど。
0112人間七七四年
2007/04/06(金) 14:53:55ID:MBvrtoPc最終的には大坂の陣で大坂方について忠興に切腹させられたし、
忠興の家族観は非常に現実的というか、政治>>家族の匂いのキツさがある
0113人間七七四年
2007/04/07(土) 03:12:32ID:P0b/rAAi麝香の方が忠興に内緒で、家康に執り成しを依頼していたそうだ。(松井家文書より)
0114人間七七四年
2007/04/07(土) 22:45:28ID:nUIYKzDhだったんでないの?
幽斎らしい深謀遠慮ってやつで、古今伝授をタテに篭城を切り抜ける勝算は
あったんでしょうから・・・。
0115人間七七四年
2007/04/10(火) 23:22:09ID:UswUh5IIだったら愛情少ないのかな?
0116人間七七四年
2007/04/12(木) 09:50:51ID:9rD1AuH5本能寺でパニくってる忠興と対照的な藤孝。
しかもこのオヤジの息子の扱い方がとても心得ているようで良かった。
オヤジに向かって殴りかかる忠興を軽く足払いで…
こりゃ、家臣は大変だったろうな(笑)
0117人間七七四年
2007/04/15(日) 11:41:34ID:nHIOjhkBよく紹介されてるけど幽斎が亡くなったのは1610年だし、幽斎は遺言により
南禅寺・天授庵に葬られてるし、これってあきらかに誤りですよね?
0118人間七七四年
2007/04/26(木) 20:52:03ID:E6u+UBy4と解釈していた。
単に供養をするためだけのお寺かと。
幽斎が亡くなる前に菩提寺を建てるってのもなんか変だなあとは思うけど。
忠興が張りきって建てたものの、幽斎は嫌がったとかw
0119人間七七四年
2007/04/30(月) 21:06:17ID:5CQr/adp名づけるはずだし、むしろ叔父の玉甫を住持として迎えるための塔頭として
建てたのに、いつの間にやら「幽斎の菩提を弔うため」と混同されたのでは?
0120人間七七四年
2007/04/30(月) 22:23:39ID:FKBPXboy0121人間七七四年
2007/05/02(水) 15:12:56ID:J4QfSY6/系図の出方とかが唐突で、すっげー読みづらかったよ・・・
あの本読んでも幽斎の人柄とかは今ひとつぴんとこなかったな・・・
0122人間七七四年
2007/05/02(水) 21:57:56ID:H3Mlk1PK(文庫本で読んだけどやたらと字が細かくて読みにくかったので
所々しか見てないな)
0123人間七七四年
2007/05/07(月) 19:59:00ID:STqSwvhS0124人間七七四年
2007/05/17(木) 11:22:09ID:b4M6ET46忠興に従って関ヶ原本戦へ参加した家臣ってどんな面子だったのでしょうか。
沼田延元と米田是季(親父は岐阜城で討ち死にしたけど)は確定ですよね?
松井・有吉はもちろん、主だった家臣はみんな田辺城詰めでしたし。
沢村大学あたりは本戦に参加したんじゃないかと想像しているのですが…
0125人間七七四年
2007/05/18(金) 21:47:34ID:GZWT4SQd松井・有吉は豊後木付城だよ。沢村大学は関ヶ原で合ってる。
0126人間七七四年
2007/05/18(金) 22:26:25ID:W4w0W2gt新人物往来社の戦国細川一族(戸田敏夫著)に結構細かく載ってましたよ。
関が原時の細川家の戦い(岐阜・関が原、田辺、九州)での具体的な内容。
例えば、田辺だと、参加した侍の名前や元の身分(元はどこの城にいたとか、浪人とか)誰がどの守備位置を担当したか、
実際の戦闘では、誰と誰がどの辺で戦ったとかそういう感じで載ってます。
図が載っているわけじゃないけど、参加した人名ならかなりわかると思います。
古い本なんで書店には無いと思いますが、図書館などで探してみては?
0127人間七七四年
2007/05/19(土) 08:07:24ID:cCR/LBB0記事<田辺城篭城衆>に詳しく載ってます。それから岐阜・関が原等で活躍した
家臣については<新・肥後細川藩侍帳>の備考欄に特記されてます。
0128124
2007/05/20(日) 08:07:56ID:ILIjETll実は細川家を題材にした作品を企画していまして。
思いきって質問してみて良かったです。教えていただいた資料など参考にさせていただきます。
0129人間七七四年
2007/05/20(日) 20:48:02ID:7nqzpc0M飛び地を貰った経緯について、詳しい人いますか?
0130人間七七四年
2007/05/21(月) 22:49:16ID:jpwRcquz大友義統が配流されて空き地になっていたため。
文禄4年に検地功労の褒美として幽斎に大隅国・肝属郡内で3000石
加増されてるのも関係してるかも・・・
0131人間七七四年
2007/05/22(火) 14:25:55ID:HlBg2oxhつめたのはガラシァの夫だったからと思う
春日局、天海の線からの口添えがあったのか、それには天海が明智という
妄想が必要だが
0132人間七七四年
2007/05/22(火) 21:28:51ID:QDlC7bn7忠利も幕府中枢部に親しい人物を作って、公式ルート以外からも情報収集をしたりしている。
関が原以降、江戸にしばらくいたのも、人脈作りにプラスじゃないか?
そういう細かい努力の積み重ねが、家を存続できた理由だと思うけど?
別に天海=光秀説なんて出さなくても。
0133人間七七四年
2007/05/22(火) 23:06:22ID:ouF013XV0134人間七七四年
2007/05/22(火) 23:10:07ID:4t/I+NRq血縁的にも春日局の父・齊藤利三は光秀の妹が母にあたることから(光秀の孫である)忠利に対して好意的だった。
実際細川家には、忠利宛の春日局からの書簡が5通ほど残っており、それによればいろいろと便宜図ってくれてたらしい。
そういった天運も確実に利用しながらそれに甘えず(132さんのご指摘のとおり)常に細心の注意を払いつつ努力も怠らなかったことが
大きかったのでは?
0135人間七七四年
2007/05/30(水) 21:43:06ID:eGbOrPprであった一方で、千利休の最も重要な門人「利休七哲」のひとりでもあり、逆臣の娘とい
う汚名をきせられた夫人の明智玉を終生かばい通した繊細な人柄でも知られています。」
とあった。(笑)
うーん、美化して書くとこうなるんですな。(主催者側としてはご先祖を悪くは書けないしね)
0137人間七七四年
2007/06/07(木) 23:51:11ID:Tzre4KzJ0138人間七七四年
2007/06/10(日) 18:21:58ID:HuyVyLPe別の資料だと山崎の合戦に秀吉方として出陣し天王山において軍功をあげたとある。
0139人間七七四年
2007/06/11(月) 02:36:54ID:7wW5glt+明智の頼みも坊主にして断りやがるし
0140人間七七四年
2007/06/11(月) 11:35:36ID:F4F1uFD6ガラシャへは、ずっと不器用だったと思う
0141人間七七四年
2007/06/11(月) 20:30:38ID:H+cFeY4v千利休の最も重要な門人「利休七哲」のひとりでもあり、
逆臣の娘という汚名をきせられた夫人の明智玉を終生軟禁した病的な人柄でも知られています。」
0142人間七七四年
2007/06/11(月) 20:44:23ID:5C71WZi+させるよう留守居に言い置いてるのにね。)
しかも妻自刃の事実を上手く利用してのし上がったって感じだし長生きしたのもムカつく。
ところでガラシャの血筋が短命なのは信長or忠興の呪いか?
(娘2人は20代で死亡、興秋は33で切腹させられ、忠利は島原の乱で
命縮めて忠興より先に逝くし、息子の光尚も31で死んじゃうし、後に
忠利(ガラシャ)の血統は絶えて現在まで続いてる本家は側室の系統だしね。
(かろうじて長男の血筋は残ってますが・・・)
0143人間七七四年
2007/06/12(火) 01:57:20ID:2KrO610e>別の資料だと山崎の合戦に秀吉方として出陣し天王山において軍功をあげたとある。
後世の創作っぽいな。
秀吉から働きを褒められ丹後を正式に安堵されたのは、かなり後になってからの筈だし。
0144人間七七四年
2007/06/12(火) 23:31:39ID:+4bMfCJPあと「大名細川家−文と武の軌跡」展では「細川藤孝・忠興は、光秀とは長年の
入魂、義父子の関係にありながらも誘道に応じずむしろ主君織田信長の弔い
合戦として丹波に攻め入る一方で、備中高松在陣中の秀吉に、信長生害の経緯
を知らせた。秀吉は細川父子の「比類なき覚悟」を謝し、細川家の安泰と、
更なる入魂を約したのである」と解説されてました。
0145人間七七四年
2007/06/13(水) 01:08:52ID:1dv3WSEx忠興はガラシャを他人に見せない、触らせないというほど愛していた?わけで。だから屋敷から逃げる無様な姿を他人に見せるくらいなら殺したほうがマシというわけ。決して忠興はガラシャを見捨てたわけではない。長文失礼しました
0146人間七七四年
2007/06/13(水) 01:12:39ID:1dv3WSEx0148人間七七四年
2007/06/13(水) 09:59:16ID:6HSed2Nw玉自身が、謀反人の娘ということで人前に出るのをいやがったという説もある。
関が原の話でいえば、一応家臣は丹後に落ちるよう薦めて、玉自身が断っているから
忠興が強制的に閉じ込めていたというのはおかしい。
本当に逃げていたら、命令違反ってことで小笠原少斎とかぬッ殺されていたろうなー、忠興の性格からいって。
0149人間七七四年
2007/06/13(水) 11:32:38ID:tVi8zO5Q(世間的には離縁しようにみせて)山里に隔離した。
秀吉の許しがあったにせよ、正室として再度迎えた訳だし
その後、忠興は玉に何人も子供を産ませてる。
家督を継がせようとしたのも当初は成人した長男だったし
後には、幽閉後に二人の間に生まれた三男の忠利が継いだ。
玉の死後には多くの側室に子供を産ませはしたが、正室は最期まで迎えなかったし
忠興自身、自分の生涯の中での「妻」という存在は、玉ただひとりだったような気がする。
玉ひとりだったのだと思う。
0150人間七七四年
2007/06/17(日) 23:53:32ID:un7rMeJvいうのを何かの本で読んだことあるんですけど。この説の信憑性は?
0151人間七七四年
2007/06/18(月) 00:23:19ID:bUsMos+D(曖昧な記憶だが、木下氏の系図に書いてあるという
中公新書の『北政所』みたら出典の詳しい説明があったはず)
一方、
京極氏−嫁→若狭武田氏−人質に取られる→朝倉氏−世話→足利氏−部下→細川氏
という関係があるので、全く縁がないわけではないが、
京極竜子の娘が細川まで流れ着く可能性は限りなく低いように思われるが。
なんかその当時の史料の裏付けでもあるんだろうか。
0152人間七七四年
2007/06/18(月) 01:02:15ID:Gj3GumPX忠興に引き取られ、お玉自刃当時大阪・玉造の屋敷にいたつうことで
一応接点があるにはあるけど。
ちなみにお玉に和歌を教えたのはこの人だそうです。
0154人間七七四年
2007/06/21(木) 01:58:19ID:zkKbJnag最初この人に34〜35回参禅してたそうで忠興は「大徳寺のよりは気楽なものだ」
と言ってたらしい。忠興は、いとこにあたるこの英甫とは気が合ってたらしく
狂歌の遣り取りを頻繁にしてる。(幽斎に対抗して狂歌で頑張った?)
0155人間七七四年
2007/06/24(日) 21:50:16ID:hZFSie3R松井興長に嫁いだこの娘だそうで、なんでも宿下がりしてた侍女が戻って来た時
興長と密会してたことを暴き出しその侍女を焼けた火鉢で刺し殺してしまった
とか・・・。
0156人間七七四年
2007/06/24(日) 22:36:27ID:DxaaEBS80157人間七七四年
2007/06/24(日) 23:15:37ID:hZFSie3R火鉢に刺さってた焼けた「火箸」で何度も刺して(残酷)
ついには殺してしまったそうです。
0158人間七七四年
2007/06/27(水) 19:55:41ID:LOhX07eH0159人間七七四年
2007/06/27(水) 22:10:59ID:UeZeLmAQ0160人間七七四年
2007/06/28(木) 07:56:30ID:Rhm5w9XB0161人間七七四年
2007/06/28(木) 11:41:35ID:rBjhed5Z>なにしろ生涯手討ち36人ですから。(妹の夫も切り殺してますし・・・)
そして、実家に帰った妹に切り掛かられると。どんだけDQNな血筋やねん。w
一色氏粛清は、本能寺後(明智に付こうとしたという名目)なんですよね。
細川氏が実は、明智と羽柴を両天秤掛けていたってことなのかなあ。
0162人間七七四年
2007/07/01(日) 16:44:14ID:PTMaOUbk築城の名手という事で興味を引かれたんですが、戦いにも参加していたんでしょうか?
0163人間七七四年
2007/07/01(日) 19:13:38ID:FIErDOJT0164人間七七四年
2007/07/02(月) 00:56:36ID:JXRKp4tR関が原前?だとしたら高台院の側に立つため?
0165人間七七四年
2007/07/06(金) 18:07:42ID:iIz2HyAP0166人間七七四年
2007/07/06(金) 22:20:08ID:HjID2ML+Wikipediaの木下延俊の項には、関が原で、義兄の忠興との関係から東軍に付いたってありますから、
関が原前なのでは?
0167人間七七四年
2007/07/07(土) 21:56:57ID:SuOMXmHT(36歌仙にひっかけて)と号したそうだ。(やっぱDQNじゃ)
0169人間七七四年
2007/07/08(日) 20:24:46ID:alYCUcL9「希首坐拵え」は大徳寺の希首坐の僧の無礼を咎めて殺害したのが由来。
(この僧は謀殺した一色義有の遺児だったとも言われてる)
「晴思剣」は忠興が茶坊主への積年の恨みを果して気分がすっきりしたことに由来。
0170人間七七四年
2007/07/10(火) 15:50:15ID:X8HrJjOa0171人間七七四年
2007/07/11(水) 00:30:26ID:lPC+tmtBという話だが、ホントかね?(だとしたらその側女どもが産んだ子がわんさか
いそうだが・・・)
0172宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/07/11(水) 13:19:29ID:YFwHXhzE0173人間七七四年
2007/07/14(土) 01:01:14ID:D+urTMfXルイス・フロイスの手紙より
0176人間七七四年
2007/07/15(日) 01:51:30ID:mI+/IfJh0177人間七七四年
2007/07/15(日) 03:17:11ID:BkF0WjlXしかし、残されてる逸話といい、キチガイじみた人物だったのは
確か。なんせ「天下一気の短い人」と評されたくらいだからな。
で、そのくせ晩年「波にもまれて石が丸くなる、人間も同じ」
というような歌を詠んでいるがwww
>>171
オルガンチノが主催したガラシャの教会葬に参列してひとしきり泣き、
その後は多少キリスト教に対して寛容になったらしい。
0178人間七七四年
2007/07/15(日) 20:19:46ID:SB2baB7A返答じゃ無いっけ?
にしてもよくこんな短気なオッサンから逃げようと思わなかったな
ガラシャも。幽閉されたときこっそり逃げちゃえば良かったのに。
0179人間七七四年
2007/07/15(日) 21:34:13ID:nQYeEaG00180人間七七四年
2007/07/15(日) 22:22:53ID:g2JefKnKそれをしなかったということは、あのころのガラシャはあんな変態な香具師が良かったんだろうか。
うーーーーーーーーーーむ。謎だ。
0181人間七七四年
2007/07/15(日) 23:09:23ID:fa9axV8U幽閉され三戸野で興秋を出産したし、乳飲み子見捨てて自害は忍びなかったんじゃないの?
更に、幽閉後生んだ光(忠利)がえらい病弱で付っきりで看病してたらしいからなおさら
見捨てられずそのままずるずるいっちゃったのでは?
(珠が入信したのは光の病弱も原因の一つだったらしい)
0182人間七七四年
2007/07/16(月) 04:50:53ID:m5Gy9ckGどっちにせよ、この男にそんな事言われても全く説得力はないがw
ただ、このサイトを見ると、案外忠興も寛容だったところもあるらしい。
ttp://www.tamahime.jp/text/faq/
0183人間七七四年
2007/07/16(月) 12:58:19ID:RU1FwzXg江戸城で、登城する大名のおつきの武士が控えている部屋があって、やることもないので、つい居眠りしている者が結構いた。
ところが、細川家の家臣のみ背筋を伸ばして、ちゃんと正座している。
感心したある大名が、「どうやって指導してるんですか?」と聞いたら、「2度までは失敗しても許すけど、3度やったら成敗します」だと。
逆に好きなエピソードは、
中津に隠居した忠興が忠利に「家臣がちっとも挨拶にこない、お前が挨拶に行くのを禁止してるんだろ」と文句をつけたら
忠利が、「いや、ちゃんと挨拶に行ってかまわないと言ってます。来訪者のリスト貰えれば、行ってない人間を指導します」と返事した。
家臣たちは「こりゃ、大変」と大挙して中津に挨拶に行ったので、逆にあまりにも来訪者が多くなって
忠興が「やっぱ、挨拶はほどほどでいいよ」って前言撤回したやつ。
0185人間七七四年
2007/07/16(月) 18:11:12ID:INuXbkVa小笠原の浸透はイマイチだな。礼儀作法位か。
0186人間七七四年
2007/07/16(月) 20:47:44ID:AS0kMlxfそういえば小倉城の展示解説に>>97のAにある話が紹介されてて
この話から忠興は度量の広い人物であったとコメントを載せてあった!!
(これじゃあ何も知らん人たちに誤った印象を与えてしまうじゃないか)
0188人間七七四年
2007/07/16(月) 23:28:14ID:AS0kMlxfと言ってガラシャが思いのままにいつまでもお祈りができるように、そのための礼拝所や祭壇を、
忠興自らそれらの建築に指図したって話のこと?
このエピも、それ以前の鼻削ぎ等々のエピからすればものすごい豹変ぶりだね。
0189人間七七四年
2007/07/17(火) 00:32:53ID:9cpJl9/o後には礼拝所やら祭壇やらに配慮を示すようになってる。
ガラシャの死後のコメントといい・・・・越中守に何が起きたんだろうか?
0190人間七七四年
2007/07/17(火) 01:08:25ID:k+KahlRM思ってたが、玉が本気だとわかって止めたんじゃないか?
これ以上やったらマジで捨てて出て行かれる、と。
0191人間七七四年
2007/07/17(火) 02:55:53ID:sLZBSMg4キリシタンで自害は御法度。
0192人間七七四年
2007/07/17(火) 03:02:56ID:9cpJl9/o鼻削ぎやってたころくらいに、玉が「別れたい」と宣教師に
相談したことがあったらしいから、それを聞いて慌てたのかも
しれんなw
あと、なぜか三斎が衆道が大嫌いだったらしいが、何故だろうな?
0194人間七七四年
2007/07/17(火) 11:48:34ID:ZirGNA2W精神的に不安定だったガラシャが、とりあえずキリスト教に入信したことで落ち着いたとか
周囲の人物も入信して、強硬策取りづらくなったということもあるかも知れない。
豊前時代の初め、領内で比較的キリスト教に寛容だったのは、
九州の領民への普及率が丹後時代と比べて高かったからじゃないかなと思ってるんですが。
0195人間七七四年
2007/07/17(火) 22:34:07ID:BFvN/wHL0196人間七七四年
2007/07/19(木) 00:14:39ID:b2TJORpm言われてたらしい。(本能寺の変で光秀に付くか否かの二者択一を迫られたこと、
秀次事件で連座させられそうになったこと、関が原の折ガラシャが自刃させられたこと
以上3つの災難で三災というわけ)
0197宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/07/19(木) 00:30:25ID:Lg7Zmxbe細川幽斎と仲が良かったらしい。
元親が松山城に籠城してる時、幽斎は元親に歌書「八雲集」を届けている。
また、元親が自害する際にも幽斎へ一句残している。
この2人の繋がりが個人的に気になってる。
流れぶったぎってすまん。
0198人間七七四年
2007/07/21(土) 16:27:21ID:Y3047f2eこの人の資料ってあんまり無くて・・
0199人間七七四年
2007/07/23(月) 00:16:37ID:E747rRLjとして召しだされた(1609年近江に千石与えられた)
0200198
2007/07/24(火) 16:18:18ID:AHbjiVdQ一応は家臣入りしたんですね。しかもその後、ヘッドハンティングとは驚きました。
細川家臣団は皆さん逸話が多くて凄いと思います。
特に飯河親子の最期は・・(;_;)
0201人間七七四年
2007/07/24(火) 21:51:30ID:MOzl+qhi0202人間七七四年
2007/07/25(水) 06:17:02ID:cnWg+LJr私の読んだ資料には三淵光行は関ヶ原合戦に参加したと書いてありました。
実際はどうだったんでしょ。
>>201
飯河親子粛清で細川家に不審を抱いて出奔したみたいですね。
この頃は加賀山隼人の切腹とか内部的な事件も多かったので
嫌気がさすのも仕方ないのかなぁ。
0203人間七七四年
2007/07/25(水) 23:50:16ID:27+3l7ISご自由に利用してください。
http://www37.atwiki.jp/sengokuita/
0204人間七七四年
2007/07/27(金) 18:37:37ID:6VlOX55t忠興が母親(麝香の方)と一緒に登場。まだどんな人物設定かは謎。
0205人間七七四年
2007/07/27(金) 19:42:58ID:7S38pBFb0206人間七七四年
2007/07/27(金) 21:58:24ID:b1D74hn7秀忠の家老の息子と結婚するんじゃなかったっけ・・・?
うろ覚えでスマソ
0207人間七七四年
2007/07/27(金) 23:55:22ID:jJY9MlcAたぶんそれは違うと思われ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E8%88%88
0208人間七七四年
2007/07/28(土) 21:56:41ID:X/ibWLDN剃髪させて細川家で引き取ったので秀吉の餌食にはならなかった。
・秀忠関連で縁づいてるのは2人の三男・忠利。正室は家康のひ孫にあたり秀忠・小督夫妻の
養女として忠利に嫁ぐ。
0209人間七七四年
2007/07/28(土) 22:02:21ID:mZsHwbQT0210名無しさん@そうだ選挙に行こう
2007/07/29(日) 03:47:38ID:axSHbCEA言われとる。
0211人間七七四年
2007/07/31(火) 17:48:40ID:srSCuB2v石切り場で石工に石の切り方まで指導したり、甲冑(越中流)や刀(肥後拵え)とか
工夫したりとそういうの得意だったみたいだから、可能性はかなり高いかもね。
0212人間七七四年
2007/07/31(火) 19:08:07ID:OUxvu0FM0213人間七七四年
2007/08/01(水) 01:22:24ID:rUw1k+Pv本能寺の変の時はどうしたんだろ?
0214人間七七四年
2007/08/07(火) 20:58:49ID:3EZ3hvlr家臣2人が厳禁していた男色をひそかに行っていた。忠興が2人を呼びつけて厳しく咎めたが、全く反省する色がなかった。それどころか
「われら両人、一命をかけて兄弟の契りを結びましたうえは、いかなる仕置きをも甘んじてお受けいたします」と決死の覚悟を見せた。すると忠興は
意外にも「よろしい、お前たちは特別に許してやろう。そのかわり、今後より一層忠節を尽くせ」と言った。てっきり成敗されるものと思っていた
2人は意外な結果に茫然自失した。まもなく両人の男色はやみ、それを最後に家中の弊風はすっかり改まったという。
0215人間七七四年
2007/08/07(火) 21:22:57ID:xvU57W5E0216人間七七四年
2007/08/07(火) 21:35:11ID:Pv56z3kR本気になってる奴は少数。
0217人間七七四年
2007/08/10(金) 12:37:06ID:RI21yP8A書くつもりでして、主に登場する家臣団は以下の面々を選出しました。
彼等の他にこの家臣は外すなというご意見がありましたら、よろしくお願いします!
松井康之
有吉立行
米田是政
沼田延元
三淵光行
飯河宗祐
沢村才八
加賀山隼人
河喜多石見
小笠原秀清
穴生理右衛門
稲富祐直
0218217
2007/08/10(金) 19:00:06ID:RI21yP8Aあと青龍寺以来の家臣で魚住万之允を出そうと考えています。
万之允は魚住市正の事でよろしかったですよね?
間違いがありましたら、遠慮なく指摘してください。
0219人間七七四年
2007/08/12(日) 19:02:08ID:lwNuflh50220人間七七四年
2007/08/12(日) 23:00:31ID:NvOLFIZM0221Y ◆nzdGjBH722
2007/08/12(日) 23:01:54ID:Xpwnn3ph0222人間七七四年
2007/08/14(火) 21:11:13ID:Nv+DkaMSちなみに、龍伯については彼が質問した部分が秘伝に触れるため誓詞を出させた
といういきさつなのでホントの意味での古今伝授ではない。
0223人間七七四年
2007/08/14(火) 21:15:00ID:Nv+DkaMSできたら能がらみのエピで
0224217
2007/08/14(火) 23:13:05ID:LsK/njxDご意見、ありがとうございます。
幸隆や興元のエピソードも入れるつもりでした。こないだ話題に挙がった妹のすごいエピソードも。
ちなみに幸隆について能にまつわる有名なエピソードとはなんでしょう?
幸隆に関する資料をあまり用意できない状況で、それは存じませんでした;
0226225
2007/08/15(水) 00:19:20ID:YDz7VXMP>龍伯については彼が質問した部分が秘伝に触れるため誓詞を出させたといういきさつ
の下りについて
コピペする前にUPしてしまった・・・(´・ω・`)
0227人間七七四年
2007/08/15(水) 10:16:53ID:i1kAQV5+三条西公国・・・後に息子に相伝することを条件に、三条西実枝は幽斎に古今伝授した。
実枝の死後、天正8年約束通り公国に「返し伝授」したが、後に彼は32歳で亡くなってしまった。
中院 通勝・・・実枝の甥。公国の死後、伝授を開始したが一旦中断。最終的に終了したのは慶長9年。
烏丸 光広・・・慶長8年に伝授終了。ちなみにこの人の息子に忠興の娘(万)が嫁ぐ。
0228人間七七四年
2007/08/16(木) 18:18:40ID:UdN/2sju能を舞ったと記録にあるそうで幽斎夫妻が描かせた画像が南禅寺に残されてる。
細川家は能が好きで松井等家臣と天正11年から慶長5年の間に50回以上演能してますね。
幸隆も若くして亡くなって、能楽史の上で結構重要な本を残してるらしいです。
0229人間七七四年
2007/08/17(金) 23:25:46ID:auFjydC1(しかも宗茂に側女を紹介してたし!)
0230217
2007/08/18(土) 15:57:30ID:3XFq6HdE情報をいただきましてありがとうございます。
先日手に入れた資料に能興行の事も記されていましたが、まさか五十回とは!
改めて文武両道を地で行く家柄なんだと感じ入りました。
それから関ヶ原後に加わる主要な家臣も以下の通りに絞りこんでみました。
氏家宗入(行継)
清田乗栄
村上景広
志水元五
藪正照
益田蔵人
後藤又一郎
調べれば調べるほど、細川家臣団ってキャラの立っている事がわかってきて面白いです。
よろしければまたご意見などいただければ幸いです!
0231人間七七四年
2007/08/19(日) 14:35:37ID:YUBoWjL/宗茂と忠興が仲良しという明確な証拠になる史料は知らないが
細川家が宗茂に側室・矢島氏を融通したのは本当のようだね
河村哲夫『立花宗茂』に書いてある話。
0232人間七七四年
2007/08/21(火) 19:47:03ID:i5K/S8utその親子は地元の名家ってやつで(俺んちの周辺は超田舎で、明治かよって
ぐらいに封建主義が残ってる。未だにこの家の使用人とかいっぱいいる)
しかも親戚が代議士だの網元だの神主だのがいて、まあこの狭い町じゃ
絶対的な権力者なんだが、
親父は超人格者で町中の人たちから尊敬されていて、しかも骨董とかで
個展を開くぐらい芸術好き(あまり上手くないらしいが)。
息子は、親父の権力をいいことに暴れまくり。忠興と違い文化的素養は
ゼロだけど。
0233人間七七四年
2007/08/21(火) 22:52:22ID:39HQQl3k似ているのは親子という点だけだな。
0234人間七七四年
2007/08/22(水) 00:59:45ID:4ip6oDyj0235人間七七四年
2007/08/22(水) 01:38:27ID:PXap4h+k言っちゃあ何だが、馬鹿息子ひとり矯正できんような親父も
たかが知れたものよ
細川忠興の場合はDQNというより偏執狂だし、なによりも
かなりの将であり文人であるからな
0236人間七七四年
2007/08/22(水) 06:34:32ID:gsbfuuQL立花宗茂は夏の陣の時に忠興の部隊と一緒に毛利勝永と戦ってるしね。
客観的に見ると仲良しとして描かれるだけの接点はあるように思われる。
0237人間七七四年
2007/08/22(水) 06:56:53ID:05DsuYBW0238人間七七四年
2007/08/22(水) 08:35:06ID:Ds/98Ywj全面的に同意だが、藤孝も教育に関しては?だよな
あれだけの男だったらいくらでも教育で矯正できそうなものだが
教育される方も賢いんだし
まあ自ら手塩をかけて育てる時代でもないが
0239人間七七四年
2007/08/22(水) 10:44:59ID:r4WbmAf20240人間七七四年
2007/08/22(水) 12:37:47ID:57h2NKHl0241人間七七四年
2007/08/22(水) 13:38:30ID:6A0he+1Lこれは掛け軸になった物で、妻の麝香夫人のも対である。
忠興のもあったと思うが所蔵までは覚えていない。
0242人間七七四年
2007/08/22(水) 20:44:12ID:PXap4h+k0243人間七七四年
2007/08/22(水) 21:14:56ID:1zC0eixj忠興の性格は戦国時代の基準から言えば「ちょっとキレやすい」くらいだろ。
そんなどうこう言われるほど歪んじゃいない。
0244人間七七四年
2007/08/22(水) 22:45:09ID:gkyhkoY4もう公開終わっちゃったかな
0245人間七七四年
2007/08/23(木) 01:11:00ID:/PYL2tyVガラシャとは美男美女夫婦と言われてたらしいし
0246人間七七四年
2007/08/23(木) 22:50:59ID:bZYN+J/k隠居・剃髪後の肖像画見たけど、幽斎は丸顔で、忠興は面長だったよ。
忠利はどっちかつうと、束帯姿の幽斎に似てたな。(性格的にも忠興の子とは思えん。)
0247人間七七四年
2007/08/23(木) 23:52:58ID:+T6lBh+Zカコ(・∀・)イイ!
でも昔の基準でいうとどうなん?
0248人間七七四年
2007/08/24(金) 00:32:12ID:pmGkZAT9つ http://www.sengoku-expo.net/portrait/images/L/009-q02.jpg
こんなのしかないな>忠興像
神経質な爺という印象w
幽斎の左うちわ
つ http://www.sengoku-expo.net/portrait/images/L/080-q01.jpg
忠興には似ているようで似てないような
忠利
つ http://www.kumamotonet.jp/siro/museum/hosokawa.jpg
・・・うーむ。意外といかつかった。
0249人間七七四年
2007/08/24(金) 05:05:46ID:Xe1r8Fo10250人間七七四年
2007/08/24(金) 11:59:12ID:OBGdtrFr>>249 幽斎のDNAって延々と十八代目まで面ざしが受け継がれる程強いんだな。
0251人間七七四年
2007/08/25(土) 01:22:47ID:K3Nry8jx0252人間七七四年
2007/08/25(土) 01:31:09ID:DADMvcN10253人間七七四年
2007/08/26(日) 11:04:53ID:/vxGzzJ70254人間七七四年
2007/08/26(日) 11:22:35ID:/vxGzzJ70255人間七七四年
2007/08/28(火) 06:10:55ID:OyWw+vxW0256人間七七四年
2007/08/28(火) 10:38:53ID:1JiPSSVkhttp://www.kmnh.jp/hosokawa/
の黒糸威横矧二枚胴具足
0258人間七七四年
2007/08/30(木) 18:17:37ID:GnFMMyD/忠興の顔、渋くて良いじゃん
ttp://www.geocities.jp/senryusai/senryusai.hosokawa.html
0260人間七七四年
2007/09/02(日) 10:23:11ID:+dK8bjk+忠興が入ってる!(一般人が誤解する)
0261人間七七四年
2007/09/02(日) 10:32:45ID:FgunW2qv0262人間七七四年
2007/09/02(日) 10:35:11ID:8+e59Z320263人間七七四年
2007/09/05(水) 00:08:11ID:XX3DT7bmに混ざって玉の嬌声が聞こえたのを不審に思った忠興がやがて奥から下男が出てき
たのを見咎めて手討ちにした)忠興・玉の夫婦喧嘩を必死で仲裁する幽斎夫妻の話
もあり。あと極めつけが春日局は忠興の斡旋で家光の乳母になったというトンデモ説だった。
0264人間七七四年
2007/09/05(水) 00:28:34ID:LeEKSpo7だと、すると、相当の体格のいい人だったんだね。
0265人間七七四年
2007/09/12(水) 23:02:14ID:+2GNlpDH他の怪力エピとしては、幽斎が織田信勝の屋敷へ入ろうとした時に門番が不審人物と誤解し竹の棒を突き出され、
すかさず竹棒とともに門番の手をねじり上げ手の骨を砕いてしまったという話もある。
0266人間七七四年
2007/09/17(月) 22:15:56ID:CDKLH4zRなぜか忠興が載っている。如水の備考欄は「受洗大名」だが、忠興のは「妻・
ガラシア」となっていた!だったらガラシャを項目にすべきと思うが・・・。
0267人間七七四年
2007/09/17(月) 23:24:18ID:CDKLH4zRとわざわざ断り書きしてるとこ見ると、ガラシャが次の手紙書く前に忠興から
手紙届いちゃってたのかな?
(他の書状読むとガラシャは筆不精だったみたいで、だとしたら苦痛だろうな)
0268人間七七四年
2007/09/17(月) 23:35:32ID:F55KV+Liだがそれがいいのか
0269人間七七四年
2007/09/18(火) 01:40:44ID:KzpgK+bw親父そっくりだw」なんて手紙を送ったりしてるあたり、
かなり細川忠興という人は筆まめだったんじゃないか
0270人間七七四年
2007/09/18(火) 13:59:37ID:zMxinAnRあの人ったら手紙まで寄越して来て、しつこいのよ!」って感じかも
忠興の(愛の)束縛が鬱陶しかったのね〜
0271人間七七四年
2007/09/18(火) 18:12:57ID:62oZhhrc返事してたらしい。
実際、忠興が手紙の中で「なにより手紙を書くのが好きなので」と書いてる(笑)
忠利死後、今度は孫の光尚が忠興の相手しなければならなかったから
手紙の量にびっくりしたんじゃないか?
0272人間七七四年
2007/09/18(火) 21:05:32ID:Z/Chww4x0273人間七七四年
2007/09/18(火) 21:31:21ID:h8mGDazl0274人間七七四年
2007/09/18(火) 23:42:20ID:ISKvZY530275人間七七四年
2007/09/19(水) 00:02:54ID:OpBvm9Mp0277人間七七四年
2007/09/19(水) 00:57:15ID:QhLtqebpしつこくメールしてきそうだ。
0278人間七七四年
2007/09/19(水) 03:01:14ID:djKlKoyGヤンデレは忠興を元に作られた
0279人間七七四年
2007/09/19(水) 21:46:03ID:EnGCmEJ0「この若い越中殿の妻に対する過度の嫉妬と彼女に対して行った極端な監禁は
普通一般の日本人の習慣とは大いに異なって信じられぬほど厳しいものであった。
2人の身分の高い家臣に昼夜を問わず妻の監視を義務付けた。ごく親しい親戚か身内の
者以外には彼女へのいかなる伝言も許さぬようにした。」
−ルイス・フロイス「日本史」より要約−
0280人間七七四年
2007/09/19(水) 23:09:06ID:d2Yg4h9w文化の誤解で(または忠興を反キリスト教な人物として)書いたとも考えられる。
昼夜を問わずの監視も、身辺警護なら昼夜を問わないで行うのは普通だし。
自殺しそうなガラシャを見張るためだったとも言える。
「普通一般の習慣と違い」って一般庶民の妻と大名の妻とでは、厳しさが異なって当然だから
フロイスの言葉を全て鵜呑みにするのは危険だと思うが。
0281人間七七四年
2007/09/19(水) 23:20:41ID:aGk56WC7キリスト教に好意的でない奴らのことはボロクソ書くし、
秀吉の側室200人というのも、実際は側室とそのお付きや侍女も
含めての人数で、どうもフロイスはそこらへん理解出来てなかった
みたいだし。鵜呑みはできまいて
0282人間七七四年
2007/09/20(木) 00:14:09ID:XDEh11m9そのまま受け取れるようなもんじゃ無い。
まぁ、信じて騒いでるアホも多いけど。
0283人間七七四年
2007/09/21(金) 23:19:37ID:Pmo0BrdUだが三淵氏についてハッキリしない。
尊氏の落胤とか義満の落胤とか。
0284人間七七四年
2007/09/21(金) 23:20:40ID:Pmo0BrdUだが三淵氏についてハッキリしない。
尊氏の落胤とか義満の落胤とか。
0285人間七七四年
2007/09/22(土) 00:36:18ID:zcmkoxF0その三淵晴員が和泉守護細川家の出身で、彼の母系が三淵氏だったはず。
つまり、父系では細川、母系では三淵氏(将軍家の落胤?)の血筋
0286人間七七四年
2007/09/22(土) 06:21:29ID:ESJ1jIXF血は引いてる。
0287人間七七四年
2007/09/25(火) 21:29:28ID:4qZ7ZXiu細川忠興は、細川奥州家の細川輝経の家系を継いだんだから
肥後熊本藩にとっては、細川輝経の経歴のほうが重要
0288人間七七四年
2007/09/25(火) 22:20:32ID:mQpTxZSfまぁ、幕臣→義弟に厄介→自害、な訳だが…。
0289人間七七四年
2007/09/25(火) 22:50:31ID:Fpt/V0cQローマ字の印鑑をプレゼントされたらしいが(『tadawoqui』と彫られている)
0290289
2007/09/25(火) 22:59:42ID:Fpt/V0cQ0291人間七七四年
2007/09/25(火) 23:07:36ID:6HynxyT6忠興自身は自分の才覚で大名になったという自負のほうが大きかったようだけど。
忠興が幕府から藤孝以前のことを聞かれて”俺が初代なんで、その前のことなんて知らね”といったとか。
でも何で嫡妻の子供でしかも長男を養子に出したんだろう。
すぐ下に同母弟もいるのに。
0292奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/09/25(火) 23:50:56ID:AxPD2ogH0293人間七七四年
2007/09/26(水) 00:07:23ID:buPTAHVQ>でも何で嫡妻の子供でしかも長男を養子に出したんだろう。
>すぐ下に同母弟もいるのに。
義輝の命令で養子に出したという話が本当であれば話は簡単。
興元がまだ生まれていなかったから。
0294人間七七四年
2007/09/26(水) 08:37:22ID:nLvRrMqr輝経は名前からしみて藤孝より年少と思われる。(元服したのが、足利義藤が義輝に改名したあとだから)
そんな若い人間に、まだ他に男子がいない藤孝の息子を養子にする理由は?
実際に、輝経には子供がいたみたいだし。
(田辺篭城時に同一行動とった息子がいたと思う。忠興とどっちが上かはわからないけど)
嫁の実家や本家筋が男子がいなくてというのは、結構きく話なんだけど。
それ後出した側に後継ぎがいなくなり、更に養子を貰う。
(吉良義央の息子が上杉家をついで、その息子が祖父にあたる義央の養子になるとか、伊達晴宗の場合も息子を義父の養子にしているかたち)
0295人間七七四年
2007/09/26(水) 19:06:29ID:xSk9g2aEその辺もなんか事情がありそうだ。
0296人間七七四年
2007/09/27(木) 00:42:32ID:RqRIxVVL0297人間七七四年
2007/09/27(木) 02:36:01ID:Nm55Mw4J0298人間七七四年
2007/09/27(木) 02:47:43ID:d8YfPG6B「細川家 美と戦いの700年」
・よみがえる熊本城
・歌に遊び、茶に憩う 〜乱世の達人・幽斎と三斎
・茶の湯vs.世界基準 〜細川家の茶道具・やきもの18選
・財政破綻もなんのその肥後国主200年の夢
・往復書簡3000通 細川家、情報戦を制す
・「殿様」の思い出 〜護立コレクションをめぐって
熊本県立美術館
細川コレクション 永青文庫展示室 開館記念
「細川歴代の文と武と美展」
2008年4月25日〜6月末(予定)
0299人間七七四年
2007/09/27(木) 08:24:30ID:77qnL4d7>・よみがえる熊本城
熊本城を設計施工したのは加藤清正っつー話はなしですかそうですか
でもその展覧会はいってみてーなー
もう一つのゆかりの地・京都辺りに巡回しないかなー 九州トオイヨ
0300人間七七四年
2007/09/27(木) 13:28:02ID:LjwudtWE18代目当主・細川護煕さんの展覧会とガラシャ夫人展も火曜日まで熊本県熊本市・鶴屋デパートで開かれていた
ガラシャ夫人のところで幽斎(藤孝)公・忠興公親子のことも結構触れられていた
0301人間七七四年
2007/09/27(木) 18:15:36ID:neO4kJXO島田美術館「近世肥後の文武−清正、忠興・ガラシャ・武蔵まで−」10月1日〜
熊本県立美術館「激動の三代展−加藤清正・忠広、細川忠利の時代−」10月12日〜
(ちなみに八代市立博物館では清正の宿敵・行長展やるらしい)
0302人間七七四年
2007/09/28(金) 19:53:00ID:iUQCkcdy当時、三好党が支配する勝竜寺に、藤孝がいれるはずがないよね。
0303人間七七四年
2007/09/28(金) 22:41:48ID:5T9qZzE/いや、義輝家臣をみな殺しにするって目的だったわけでもないし。(後に義昭の家臣になった足利氏の譜代家臣が一杯登場するでしょ)
非番かなにかで、藤孝が居城にいたらとりあえず危険はない。
屋敷を囲んで奇襲かけたから、屋敷内の男達は全滅かもしれないけど。
0304人間七七四年
2007/10/11(木) 02:54:13ID:C6LWWsWS足利義輝暗殺の翌年の段階では、岩成友通が城主になっているが、
それより以前は細川元常(細川幽斎の養父)が城主なんだよな。
だから藤孝が城主で、義輝暗殺後に三好が接収した可能性もあると
思うが、誰か詳しい人いる?
ただ、藤孝にポジションからみても、洛中の自邸にいた可能性も
否定はできんかな。
細川家中の岩間六兵衛が武田義信の遺児という情報をみたことあるが、
本当かなあ。尾池玄蕃といい、おちぶれた名族のたまり場になっている気がw
0305人間七七四年
2007/10/11(木) 23:23:48ID:HQj+EhU+>岩間六兵衛
ググると、信玄・六男:武田信清の子となってるな。
ただ本当に武田氏の縁者なら、若狭武田氏の方が可能性があると思うな。
0307人間七七四年
2007/10/27(土) 17:21:57ID:ZWdcSEUy0310人間七七四年
2007/10/31(水) 17:11:50ID:uJ5Xt29f斯波武衛家の末裔までいるのか・・・
0311人間七七四年
2007/11/02(金) 08:59:12ID:8Qddn4QZリンク先みるかぎり、水戸藩みたいに手当たりしだいに集めたというわけじゃなくて、
室町幕府に仕えた仲とか血縁などを頼って自然と集まったって感じですかね。
しかし、吉良親実と久武親直の子孫が両方仕えているってのもすごいな。
0313人間七七四年
2007/11/03(土) 01:09:59ID:qPG4mCDW逆だったら泣けるが・・・
0314人間七七四年
2007/11/10(土) 09:29:31ID:xfveAhdQどの領地も海に面していたし…それとも現地で徴兵なりして再組織してたんだろうか
0315人間七七四年
2007/11/14(水) 23:26:53ID:nt0Rszrw0317人間七七四年
2007/11/15(木) 15:25:30ID:t9uTpgQfたしかあのあたりにかの長岡京があったはずだから・・・
0318人間七七四年
2007/11/16(金) 20:25:33ID:FyPB7bnU平安京のひとつ前の。
0319人間七七四年
2007/11/19(月) 00:03:53ID:lz1rj1fw臣従してもある程度我慢ができるからじゃないの?
0320人間七七四年
2007/11/19(月) 21:24:09ID:IGoRsXKH公では対立しても私では恨みとかなかったんではないのかなぁ
しかし面白いぐらいに没落した人が集っているね
0321人間七七四年
2007/11/19(月) 21:28:56ID:BN+3KB/I0322人間七七四年
2007/12/15(土) 09:54:25ID:xJ5csQ+v忠興が男色家だったと書かれてて全く否定する人いなくて笑ったw
あと牛肉大好きだったのは意外だな
0323人間七七四年
2007/12/17(月) 17:47:46ID:d+6lPTtn0324人間七七四年
2007/12/17(月) 22:07:33ID:C3JgtkH+戦国武将=男色で忠興もひとまとめにされてた頃があったんだなぁと
0325人間七七四年
2007/12/17(月) 22:32:36ID:hD60TzGI今もあの辺りは長岡京市があるんですが…
0326人間七七四年
2007/12/18(火) 21:20:14ID:wOlXkKQi0328人間七七四年
2007/12/19(水) 00:51:20ID:AZ3SGgQWなにこれ!笑
細川やばっ・・・
最後の方とか胡散臭さハンパないな・・・
これの水戸藩版ってある?キボンヌ
0329人間七七四年
2007/12/20(木) 21:18:58ID:LgQBnDaG思案しましたが、やはり貴方様にこそ相応しいもの、私のほんの志ばかりでございます。
(中略)六十年来の苦もなんのその、今こそ、ここに別れがやって参りました。先般来の御心尽くしの
お礼は、筆舌につくす事はできません。・・・」
八代市でやってた小西行長展に陳列されてたらしい。
0330人間七七四年
2007/12/23(日) 14:25:10ID:kKoNL6UI0331-
2007/12/23(日) 17:24:33ID:AH19I6Ld0332人間七七四年
2007/12/23(日) 22:30:18ID:b1tnuh8d0333人間七七四年
2007/12/30(日) 18:41:35ID:aBStunxS忠興が優秀であるので、より格式の高い細川家を継がせたいと将軍が思ったから
>>287に対する回答
あなたは、すばらしい
>>32に対する回答
そう答えたんじゃなく「自分は輝経の跡を続いだので幽斉とは関係ないです。
同じ細川でも自分の継いだ細川は大外様の細川とも呼ばれた奥州家です。
幽斉の細川とは関係ありません」
と答えたんだそうですよ。
0334人間七七四年
2007/12/30(日) 20:59:58ID:pFXCw/aX>忠興が優秀であるので、より格式の高い細川家を継がせたいと将軍が思ったから
将軍がねえ。
忠興はおしめをつけていたくらいから、優秀だと評価されていたと?
0335人間七七四年
2007/12/31(月) 02:42:11ID:8oHn6bEj義輝(もしくは義昭?)が将軍にいた頃、細川忠興はまだガキなので、
むしろ幽斎と公方の関係から・・・というセンの方が妥当とは思う
0336人間七七四年
2007/12/31(月) 12:25:56ID:U/n+27iUおんなじ感じでいいじゃない
0337-
2007/12/31(月) 18:43:46ID:JQ2yso62だっこされて泣かなかったら「むぅ、肝が座っとる…ゆくゆくは大物に」
逆に大泣きしたら、「こいつは勇ましい…ゆくゆくは大物に」
0338人間七七四年
2008/01/02(水) 01:15:49ID:6UPAPqvV細川昭元>細川輝経>細川藤孝だね
席次は
0339人間七七四年
2008/01/04(金) 14:07:46ID:FwXTsQGn更に、小さい頃から藤孝のこと嫌ってたよね。
手に負えなくて玉甫和尚のトコに預けられてたし。
0340人間七七四年
2008/01/05(土) 10:46:24ID:VdxvkJ7kじゃあ玉甫が忠興の傅役ってことになるのかなぁー
0341人間七七四年
2008/01/05(土) 13:47:18ID:Mr+6IW765歳の時勝竜寺城に戻って藤孝に会えたんだけど
7歳の時に騒動起こして藤孝と険悪になって
玉甫叔父さんトコに預けられたそうだ。
0342人間七七四年
2008/01/05(土) 13:50:13ID:Q3IneSqI長岡姓にも同じように改名しているし、藤孝が隠居したときにも忠興が所領を相続しているんだから
輝経との関係はあくまで名目上のことにすぎないのでは。
>>340
藤孝が義昭と亡命生活を送っていたときは、忠興は守り役の夫婦と一緒に、京都で潜伏生活をしていた。
この夫婦の子孫は江戸時代にも引き続いて細川家に仕えている。(全然高待遇じゃないけど)
0343人間七七四年
2008/01/05(土) 18:12:43ID:4ADTRc9A家康に忠興自身が、藤孝と自分の家系は関係ない
自分は輝経の家系を継いでいる
と言い切っているんだから
後世の他人がケチつけるべきではない
0344人間七七四年
2008/01/05(土) 18:39:19ID:VdxvkJ7k答えていただきありがとうございます。
その傅役は中村と言う夫婦でしょうか?
手持ちの資料には記載がなかったので、もう少し詳しく教えていただけませんか?
0345人間七七四年
2008/01/06(日) 12:42:54ID:decrHlGuそうですよね、忠興自身が主張してるんだから
輝経および奥州家が小倉〜熊本藩の先祖ですよね。
0346人間七七四年
2008/01/06(日) 13:08:49ID:T7WgS4EOのちに細川家奥向きの大局をつとめる。知行百石。
忠興−忠利の書状に、大局の娘から借米した話が
いくつかでてくるので、結構お金持ち?
0347サイコメトリー
2008/01/07(月) 10:30:23ID:MW42B6oV本能寺に至る以前に光秀が細川父子に事前説得、協力を申し込んだとしたら
細川父子は光秀と手を組んだであろうか?
0349人間七七四年
2008/01/08(火) 08:35:56ID:DaZjC7WBしたたかな細川藤孝なら、表面では協力体制を取り、実際は筒井順慶と同じ
動きを取る公算が高い。戦国武将らしいといえば、らしいが、自分は光秀に
同調しなかった筒井家を潔しとせず、出奔した島左近こそが、本物の戦国武
将だと思う。
0350人間七七四年
2008/01/08(火) 09:20:00ID:hvLoQ/1K本物の戦国武将だ。家を潰してどうする?
島左近なんぞはただの「猪武者」と呼ぶ。
0351人間七七四年
2008/01/08(火) 10:10:44ID:DaZjC7WB島左近や大谷吉継は負け戦と理解しながら、それに殉じた武将ですが、彼らは
戦国武将その物だよ。状況判断を的確にし、家を守る事を事の大事とし、強き
に着くのは江戸時代の外様と一緒。男気と心意気なくて、戦国武将と呼べるか!
0352人間七七四年
2008/01/08(火) 10:21:09ID:CgC79cTd>状況判断を的確にし、家を守る事を事の大事とし、
>強きに着くのは江戸時代の外様と一緒。
ほとんどの武将はそうやって生き残った訳だが。
0353人間七七四年
2008/01/08(火) 10:28:37ID:hvLoQ/1Kどうやったらそんな歪んだ戦国武将観を持てるんだろう…。
戦国武将ってのは何よりも自分と自分の配下の生存権の確保と利益を誘導するのが
最大の任務だ。それがあるからこそ配下より「指導力」が付加される。
君の大好きな島や大谷の後ろに、自分には何の関係もない主人の「義」とやらに無理矢理殉じされ
本人の意思に反し意味も無く散って行った多くの人々の事、そしてそんな判断をした(分かった上で
やったならなおさら!)島や大谷の傲慢さを、少しでいいから考えて下さい。
0354たられば君
2008/01/08(火) 10:30:45ID:tBJ7gblC0355人間七七四年
2008/01/08(火) 11:36:43ID:DaZjC7WB俺は歪んでるのかな?そうかもね。>>354の言う様に生き残り一辺倒の細川
父子が嫌いなだけかも。
ついでに言わせてもらえば、あなたの考えは限りなく現代思考だと思うよ。
自分は『義』なんて謳ってないけど、”無理矢理殉じさせられ散っていった”
戦国時代は合戦に於いて、敵前逃亡なんて当たり前。雑兵なんて当然至極。
殺されるの嫌な人は逃げるよ。天皇万歳の近代戦争じゃないんですから・・。
光秀の山崎の合戦でも代表される様に『お見方不利!』って理解してても殉じ
てる武将はなんぼでもいる。自分はそうゆう武将が好きなの。細川藤孝はそう
ゆう人じゃないって言いたいだけ。
大体ね、殉ずるとは主君に対する最後の奉公だよ。(最後まで尽くしてんの)
無理矢理殉ずるなんて言葉は存在しません。
あと、配下より指導力が付加されるって意味が良く分からんので、具体的に
お願いします。
0356人間七七四年
2008/01/08(火) 11:48:56ID:hvLoQ/1K君の意識は江戸期的だな。戦国時代のものじゃ無い。
配下に利益を提供出来ない、世の中の先を読めない、そんなものは指導者として劣悪だとされ
家臣から「見限られる」のが戦国時代だ。
> あと、配下より指導力が付加されるって意味が良く分からんので、具体的に
> お願いします。
集団に対する「指導力」ってものは上部の人間が権利のようにもっているものじゃ無い。
配下の人間が「彼は指導者としてわれらに利益を与えてくれる」と認識されてはじめて
付託される権力だ。
武士の「奉公」とは、あくまで主君の側からの「御恩」があった上での相互契約である。
0357人間七七四年
2008/01/08(火) 12:11:35ID:oXrAz7tS双方とも間違っちゃいない。
”武士の「奉公」とは、あくまで主君の側からの「御恩」があった上での相互契約である。 ”
というのは正しい。主君を渡り歩くものや、戦場で主君を見限る武将なんてのはごまんといる。
良い主君というのは”自分の所領を保障してくれる人物である”というのが第一なのだ。
これは東国武士団の発生からの伝統でもある。
自分たちが開墾し切り開いた農地を守り保障してくれる力ある者に付くことで武士団の形成が進んだわけで。
もう一方で、そういった物質的利益よりも精神的なものを重視する人たちもいた。
江戸時代の儒教的武士道ではなく、なんというか任侠道に近い感覚の士道が古くから存在する。
これは武士団が武装集団であった事とも関係する。武士たちは重武装のヤクザ集団とも言えるわけで。
つまり”こいつのためなら死んでやってもいい”という、やつ。
こういったものを重視する奴らは、負け戦でも付いて行こうとする。
江戸期に入ると、こういった士道は幕府から嫌われて儒教的武士道が流布されるようになる。
0358人間七七四年
2008/01/08(火) 12:36:56ID:DaZjC7WB君の方が江戸期的だと思うがな。
戦国期に於いて先見の明は確かに最重要だと思うよ。ただあなたの論を聞いて
ると自分は精神論ばっかりぶってる様に聞こえる。戦国期の信賞必罰は大前提。
主君に殉じた武将が家臣や一族の事を考えないで、猪突して周りが可哀相なん
て言ってるけど、極論も良い所。自らを省みず主君に殉じる武将が一族郎党の
事を考えない分けないでしょ。懊悩の連続での結論だよ。だからこそ、一族が
最後まで追従する。没落する大名の家臣達は先を読んで、仕える家を変えるの?
みんな?そうではないじゃん。何度も言う様で悪いけど、生き様として島・大谷
の生き方が自分は戦国武将らしいと思うだけだよ。
あと『指導力』と『支配力』はきちがえてない?
0359人間七七四年
2008/01/08(火) 12:47:49ID:hvLoQ/1Kそう感情的になられても困る。
戦国武将とは一般に義なんぞは薬にもする気のない、自己勢力の保全を第一義とする
人間達である。
君の上げているのは極端な例でしかない。そう言うタイプの人間は戦国時代に限らず
どの時代でも出ては来るだろうが、どの時代であったとしても一般的なタイプではない。
それを「戦国武将らしい」などとあたかも一般概念であったかのように語るのは間違いだ。
君の中のロマン主義英雄主義を否定する気はないが、それはあくまで君の意識の中にしか
存在しないモノだ、という事も同時に知っておくべきだろう。
0360人間七七四年
2008/01/08(火) 13:27:27ID:DaZjC7WB冷静なご判断ありがとうございます。自分が言いたい事をほとんど言って
くれてます感謝!
>>359
君に一言言いたい。一番初めに『アホか』って始めといて、人をロマン派
で落ち着かせて、自分は冷静人ぶるとは、なんて奴だ。しかも自分は私的
思考だと強調してるのに一般概念だとも言う。
教えて欲しいのだが、あなたは戦国期ではやっぱ細川父子が好きなのか?
自分は明智派だから、細川を否定したい(正直!)スレ違いスマン!
後は>>357に仰って頂いた通り。
自分は確かに精神的な物を支柱に考える傾向が有る事は認めます。
0361人間七七四年
2008/01/08(火) 14:03:19ID:DASh3BDN0362人間七七四年
2008/01/09(水) 00:05:36ID:f7ycvohu0363人間七七四年
2008/01/09(水) 09:27:20ID:0H3No/Ac明智派には飾らない本音が見えます。
0364人間七七四年
2008/01/09(水) 12:14:08ID:cmUibBri0365人間七七四年
2008/01/10(木) 11:32:01ID:5u+aQGT0うっせ〜。悪いよ。
0366人間七七四年
2008/01/14(月) 22:55:30ID:6Qza703d数寄者にこの釜をつかわすのはあたかも阿弥陀を地獄に落としたような
ものだ」と言ったそうだ・・・。なんてひどい言いようだ。
その後忠隆は(忠興死後)甥の光尚にこれを譲ったそうで、こんなひどい
言われたかたしたんじゃ持っていたくなかったのでは?
0367人間七七四年
2008/01/14(月) 23:38:44ID:xOZQtvms「自分の現代的感覚こそがイコール戦国武将」とか主張されては、「それは違う」と反論せざるを
えないわけで。
0368サイコメトリー
2008/01/15(火) 12:50:56ID:bc6s6To4でも、それを自由にぶつける事が出来る場が2chじゃないの?
しかも”自身の現代的感覚”で主張する以外の方法ってなに?
0369人間七七四年
2008/01/15(火) 12:54:52ID:mBGyrq/W0370人間七七四年
2008/01/15(火) 14:13:31ID:dR/Efmoc筒井定次との折り合いがよくなかったって話だと思ってたけど。
0371サイコメトリー
2008/01/15(火) 17:49:26ID:bc6s6To4それこそ当たり前。
0372人間七七四年
2008/01/15(火) 18:54:38ID:/bNd5N3I僕は、筒井順慶ちゃん!
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1151136284/
0373人間七七四年
2008/01/15(火) 19:04:07ID:NQSByyxt添え状出すような奴だからね。
0374人間七七四年
2008/01/15(火) 20:03:04ID:1UQJwfTF・・・超弩級に嫌みな奴じゃん、忠興w
よく幕府に取りつぶされなかったもんだ。
0375人間七七四年
2008/01/15(火) 22:04:49ID:UMn+MXsx幕府に対してはとても良い人だったから。
0377人間七七四年
2008/01/15(火) 22:54:20ID:l6tSV1Ewどちらかを婚礼の時引き出物で忠興から譲られたんだけど、涙を
流して惜しんで「特別にくれてやる」とか言って与えたそうだか
ら、光尚もいやな思いしてるよ。
でも総合して考えると、一番接点が多かった忠利が一番の被害者かも。
0378人間七七四年
2008/01/16(水) 09:16:04ID:Nmp5+zVa良いのかな? それだけだけど・・。
0379人間七七四年
2008/01/17(木) 18:12:51ID:gjlIG4Ys0380人間七七四年
2008/01/17(木) 18:25:52ID:ZvLYsjHt実際は、特に忠興なんてものすごく複雑な人間だっただろうに。
0381人間七七四年
2008/01/17(木) 18:38:56ID:HrnTQKz/婿養子で結婚した奥さんを大事にし
主君大事
文武両道(武はアヤシイ説もあるが)
戦国武将には珍しく義を第一に置く
・・・というあまりにも出来過ぎた人物よりはおもしろいことは確かでしょう
ネタにするには。
0382人間七七四年
2008/01/18(金) 23:00:01ID:UffQBCTMあれから中村新助について調べてみたのですが、手に入った資料には来歴までは書かれていませんでした(汗)。
彼はそこそこ高い身分にあったのでしょうか? 奥さんの事は書いてありましたが、
彼がどのように生きて亡くなったか、どなたか教えて頂けませんか?
なにとぞよろしくお願いします。
0383人間七七四年
2008/01/19(土) 21:40:50ID:/cVr/oYs(乳母である妻には別に百石与えられた)
豊前で病死したらしい。
0384人間七七四年
2008/01/20(日) 14:24:35ID:BbR4iAkc遠い九州に細川を、大幅加増で栄転(?)させたのは
裏切り常習犯を近くに置いておきたくなかったから。
幕臣で同僚の一色をだまし討ちにし、重代の主人である足利氏を裏切り、
親戚の明智を支援せず、豊臣を裏切り・・・
こんなやつら、誰が信用するかね。
関ヶ原一回で褒章させられた徳川は可哀想。
0385人間七七四年
2008/01/21(月) 00:10:23ID:QWxMp2WI0386人間七七四年
2008/01/21(月) 00:44:13ID:9ItHWT+f>幕臣で同僚の一色をだまし討ちにし
本能寺のとき光秀側に付いたから
>重代の主人である足利氏を裏切り
主君「押込」の構造だよ
>親戚の明智を支援せず
謀叛人になんて味方しない
>豊臣を裏切り
家に仕えたんじゃなくて個人に仕えたんだよ、みんな
…と、全てを正当化してみる。
0387人間七七四年
2008/01/21(月) 12:57:08ID:u9l1QVsGどこの誰が台頭してきても、結局誰かの謀反人じゃん。
ってか、それが戦国時代でしょ。
0388人間七七四年
2008/01/21(月) 23:54:01ID:Kufd7WqE妻を幽閉し最後は自刃に追い込み、
長男を妻と離別させたあげく廃嫡。
次男は切腹させる。77で下女を孕ませる。
・・・列挙するとホントとんでもない奴。
0389人間七七四年
2008/01/22(火) 00:09:08ID:9JKbnJpZ0390人間七七四年
2008/01/22(火) 00:32:56ID:lWHZgtaa列挙した史実に間違いはないんだが、書き方に忠興を貶めようとする意図が感じられるな(玉の生害に関しては言い掛かりに近いし)。
忠興に恨みでもあるのか?
0391人間七七四年
2008/01/22(火) 00:36:57ID:nAij/vj8同じ史実を忠興サイドに立って記述してみよう! 頑張ってね
0392人間七七四年
2008/01/22(火) 01:06:00ID:VRagEKvXガラシャ関係以外でもっとメジャーなって良いと思う
好き嫌いは別にして
0393仙台藩百姓
2008/01/22(火) 10:56:03ID:eqpZmG2z心なかおか何をいふさい
統治者としても良くなかったようだお┐ (´ω`) ┌
0394人間七七四年
2008/01/23(水) 17:57:15ID:54cFz2CZ藤孝は底知れぬ、したたかさを持つ、冷淡な武将だと思う。
0395人間七七四年
2008/01/23(水) 18:24:23ID:9XSfjHivもう一人ミニ信長って言われたのって蒲生氏郷だっけ?
0397人間七七四年
2008/01/23(水) 23:33:04ID:zFA1Ey95例の三十六人手討ちを除けば、家臣にはそこそこ優しかったんじゃなかったっけ?
個人的には振幅の激しさも大好きだが、やっぱり今も昔も世間的にはアレな人とみなされてるのかなぁ
0398人間七七四年
2008/01/26(土) 08:41:55ID:qZZJEzGq義父を見捨てる…主君への筋を通して謀反人を討った
義弟を誘殺…政権移行に伴う激変期を生き残るための判断
ガラシャ幽閉〜自刃・時期にもよるが、味土野への幽閉であれば嫌ったのではなく、
ガラシャの命を狙う家臣から守り、かつ離縁したくないから
一旦細川家から遠ざけた。
最期の生害についても事前に言いつけはしていたが、
決断はガラシャによるものだから、「追い込んだ」という表現は不適切
なお忠興のキリシタン迫害は一時的なもので理解を示したあとはむしろ擁護した。
玉造り屋敷には小さな礼拝堂まで作っているし。
忠隆廃嫡…福知山攻め同様に私怨丸出しだからフォローはしない
興秋切腹…関ヶ原における輝経同様、細川家の生き残りをかけて幕府と大坂に分かれたものと
考えられはするが、敵方についた人間は処断以外にやりようがないのでは。
ただし興秋については逃がされて九州で病没した説もある
忠興の立場で考えるとこうなるんじゃないかなぁ。
77歳で子供作ったってのはフォローしようもないがw
0399人間七七四年
2008/01/26(土) 18:43:08ID:OFME3Y7G明智が勝った場合の保険とするつもりだったけど、負けたので口封じってことはあるかも。
忠隆廃嫡はいきなり(ガラシャが死んだけど嫁は脱出したってのはとっくに知っているはず)ですねえ
これも忠隆室の脱出の件は名目だけのような気がする。
でも前田との縁を切って、秀忠に気に入られている忠利を跡継ぎにするためにしてもタイミングが唐突。
あと領民に嫌われていたってのは初耳。
肥後への国替えのときも中津の町人が付いていったりしている。
0400人間七七四年
2008/01/26(土) 20:25:49ID:nCQZXNrh本能寺のどさくさでひっくり返される危険はあったわけだし
0401人間七七四年
2008/01/26(土) 21:17:05ID:tnvVDB82結構その手を使って領地平定してた時代。
黒田親子が宇都宮鎮房に対しておこなったのと同様。
0402人間七七四年
2008/01/26(土) 22:24:46ID:bDDGUiJg0403人間七七四年
2008/01/26(土) 23:34:54ID:ZI56/e7iつか子供多く作るのは大名の義務だぞ
0404人間七七四年
2008/01/27(日) 18:37:03ID:Ax2or/p+しょうがないんじゃない?忠利も光尚に「三斎様ますます短気でこらえ性なく」と
心配してる手紙書いてたし・・・。
四男以降については、あの当時忠利が結婚後何年経っても子ができず
更に忠利も病弱で早世する可能性あったから、お家存続のため跡継ぎ候補作っ
とく必要があったからだしね。
0405人間七七四年
2008/01/27(日) 18:45:55ID:C/G1xzdr手のかかる爺さんだったんだろうなぁ。
0407人間七七四年
2008/01/27(日) 23:31:09ID:+oXMIPWT(氏郷は病死・右近は国外追放・利長とは付き合い禁じられる)
玉とも死に別れだし。かわいがってた孫娘も産褥で死んじゃうし
興元、忠利・光尚親子や興孝とかとは不和になったあげく、
溺愛してた立孝には先立たれと、考えてみるとかなり寂しかったんでないの。
妾をとっかえひっかえしてたのもそのせいでは?
0408人間七七四年
2008/02/03(日) 00:45:14ID:XiUudwQh0409人間七七四年
2008/02/21(木) 00:01:54ID:3yk1b873ということで灯篭が墓石になったらしい。(住職談)
忠興の遺骨のうち、歯が埋葬されてると説明にあった。
0410yoko*
2008/02/21(木) 00:26:58ID:g3SVLWCl0411人間七七四年
2008/02/21(木) 00:57:59ID:JBStUatb明智光秀 対 秀吉の時もそうだし
石田三成 対 徳川家康の時もそうだし
熊本の殿様といったら、加藤清正の方が
豊臣家一筋に忠義を尽くしたから好感度が高い。
0412人間七七四年
2008/02/21(木) 09:55:57ID:3qTHh90U0413人間七七四年
2008/02/21(木) 15:33:43ID:zQEZzTISでも常に勝つ前に身代賭けてるんだよ?
で、負ける前にすばやく乗り換える。
それで室町末期から江戸初期までを常に権力中枢で泳ぎきったんだから尋常じゃない。
0414人間七七四年
2008/02/21(木) 17:22:24ID:31WecVxH攻城の将の何人かが(西軍にくみしたものの)矢を射掛けるのをあえて
しなかったり、わざと空砲でうったりと手加減してくれるだろうか?
0415人間七七四年
2008/02/21(木) 20:46:08ID:BxSU4mUZ>石田三成 対 徳川家康の時もそうだし
を「勝ちそうな方に付く家柄」と称すのならば
>熊本の殿様といったら、加藤清正の方が
>豊臣家一筋に忠義を尽くしたから好感度が高い。
の清正も「勝ちそうな方に付く家柄」だよな。
清正も東西両方から誘われたのだから。
0416人間七七四年
2008/02/21(木) 21:39:10ID:zdiw+/dcその目算が外れて滅亡しちゃうことが多いけど。
去就を正当化する理屈は後から付いてくる。
負けそうと思いつつ付いた例というと、鎌倉時代の毛利 季光とか関が原の大谷吉継あたりかね?
0417人間七七四年
2008/02/22(金) 02:25:01ID:9bVZxUnr江戸時代と同じような感覚でとらえられないですしね。
南北朝期など、有利なほうへコロコロ寝返ったりするので、非常にカオスなことになってる。
0418人間七七四年
2008/03/05(水) 00:11:59ID:uDGjmYHa手討ちにしたと小倉城の説明書きにあった。
これじゃあ、例の庭師(屋根師?)手討ちもホントだろうな。
0419人間七七四年
2008/03/05(水) 01:07:35ID:Vo6heZ1w0420人間七七四年
2008/03/05(水) 07:50:23ID:VbauPos0たいした武将ではないよ。特に人として。
0421人間七七四年
2008/03/05(水) 10:17:42ID:RNUWo2n40422人間七七四年
2008/03/06(木) 20:09:51ID:wVeQp6iY白紙の相伝とそれぞれ受けてたが、忠興はなんもない。
0423人間七七四年
2008/03/06(木) 23:41:16ID:kUOy3/jt同世代の武将でその手のを受けたのっていたっけ?
0424人間七七四年
2008/03/07(金) 08:08:54ID:gj+0+Zi60425人間七七四年
2008/03/07(金) 10:00:05ID:yuGvT8v1その時期に成長した世代だと大名個人でも熱心に習う人が出てくる。
0427人間七七四年
2008/03/08(土) 11:25:50ID:iEYiyDKx多分、誇大広告だろうけど一の太刀まで会得したって何かの本で読んだよ
0428人間七七四年
2008/03/21(金) 17:57:20ID:nlf9N7Gnそんなオヤジを降伏したと罵る息子・・・
0429人間七七四年
2008/03/23(日) 06:21:05ID:xf7Qqu/L具体的に何年まで幽斎と関わりがあったのだろうか
0430人間七七四年
2008/04/19(土) 00:22:46ID:63GDwe2g「旦那様が下人を切りました。まあ使えない人だったからしょうがないかな」
とかかかれてたんで、かなり殺伐としてたり、
家中の者に刃を振るってたのは事実だと思う。
0431人間七七四年
2008/04/19(土) 00:44:51ID:uhrHdSps当時は普通だったんじゃね?
0432人間七七四年
2008/04/21(月) 12:52:55ID:LYRu/ptS0433人間七七四年
2008/04/26(土) 18:55:40ID:sCCCNKAaそういう人多かったんじゃない?
0434人間七七四年
2008/04/27(日) 21:06:42ID:P4uDPCdZ戦国の常識を決められた日にゃあ‥
0435人間七七四年
2008/04/27(日) 21:16:57ID:zcOfFtWR0436人間七七四年
2008/04/27(日) 21:42:12ID:TVVecSCS義輝と幽斎に「一の太刀」を授けたそうだ。
0437人間七七四年
2008/05/03(土) 17:28:18ID:drT++qj/0438人間七七四年
2008/05/09(金) 00:23:14ID:K26Pc7XF・嫁の顔を見ただけの庭師をブッ殺しちゃう
・嫁のご飯に髪が入っているのに立腹台所人をぶった切る
・息子達とことごとく不和に
・関が原で開城した親父が気に食わず俺が初代なんで、前のことは知らんとか言っちゃう
・その他手討ちの雨あられ
これ気違いの顔ですわ
0439人間七七四年
2008/05/09(金) 00:23:52ID:K26Pc7XF0441人間七七四年
2008/05/10(土) 17:07:51ID:qgDgTJwR藤孝より忠興の方が結果的に有能な気がしてきたんだけど違うのかな?
具体的な戦歴・諜報活動も多いし、最終的に得た石高も多いし。
0442人間七七四年
2008/05/10(土) 17:19:16ID:qgDgTJwR忠興・興元の生まれも母親も同じってなってるんだが
同年内に2人生んだってこと?双子じゃねえよな?
0443人間七七四年
2008/05/10(土) 17:29:24ID:RkLZIRmk忠興の生年月日がだいたい固定されている一方で、興元の方は諸説あり。
wikiは、一番あてにならない説を引用したのかも知れません。
0445人間七七四年
2008/05/10(土) 17:48:11ID:RkLZIRmkちなみに1562年説もありますが、これだと忠興の同母兄となってしまいますので、
こちらの信憑性にも疑問符が付きます。
0447人間七七四年
2008/05/16(金) 13:00:51ID:hA9mjLqq0448人間七七四年
2008/05/18(日) 18:32:48ID:E8BQj1Rdやっぱ別家という意識からかな?
0449奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2008/05/18(日) 21:04:34ID:76mLoTKx0450人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/01(日) 18:23:30ID:cccVKFL4そうだろうね。
興元は藤孝の跡を継いだと思われる証拠を多分に残しているし
忠興は強く細川輝経家の継承者を意識した伝承が残っているから。
藤孝と忠興は血がつながってるのに無茶苦茶仲悪かったらしいね。
0451人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/02(月) 15:17:18ID:l3UODRpp勉強になりました。
藤孝の細川より輝経の細川の方が格が上なの?。
細川昭元さんちが一番いい細川なんだよね?
京兆家ってゆーんでしょ?。
0452三十吉@86石(わらじ取り)
2008/06/02(月) 21:04:18ID:Mr61WVQpただ一番いい細川家・・・かはわからん。
徳川の松平だって嫡流は信康で終わりだし。
0453人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/02(月) 21:04:57ID:Mr61WVQp0454人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/02(月) 21:52:04ID:8y8CGmFI0455人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/02(月) 22:14:28ID:CAauaSF40456人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/04(水) 16:07:57ID:GVXMRJtN清氏と正氏の後も続いたらしいけど・・・
0457人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/05(木) 15:14:48ID:SJHvhUSzたしかにそれはそうかもですが、ここではそれは置いといて・・・。
和泉半国守護家と奥州家、家格はどう違うの?。
奥州家とは、どんな家格なの?。
守護になったことはないんだろうか・・・。
0458人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/05(木) 20:14:26ID:EhU5AiLr信康は嫡子だったか否かの立証が難しい。
徳川氏(安祥松平)が松平傍流なのは将軍家が認めている。
0459人間七七四年
2008/06/11(水) 13:25:35ID:r0iZiV1n細川氏の各守護家の序列としては、
京兆家(讃岐守護家・上屋形)>阿波守護家(下屋形)>その他 みたいだけど
守護家ではない典厩家や野州家のほうが(一般の)守護家よりも権威が高そうだったりするし、
幕府の力が衰えて大名や国人の官位の秩序がくちゃくちゃになってしまった藤孝の時代に
前の時代の家格がそのまま適用するかどうかも判らないと思いますよ。
0460人間七七四年
2008/06/12(木) 11:01:16ID:Hysj4nYO前の時代には格が上だったってこと?
0461人間七七四年
2008/06/12(木) 15:41:20ID:6E+87kt30462人間七七四年
2008/06/12(木) 21:33:10ID:+bWNojXZ>和泉半国守護家よりも守護ではない奥州家のほうが前の時代には格が上だったってこと?
全然そんなことは言ってませんが?
守護家よりも、典厩家や野州家のほうが細川一族内では発言力が強いと見られる例がある。
・京兆家に養子を出している
・京兆家の当主が幼少のときに、代理のような立場になっている
・京兆家の屋敷に宴会などで一族が招待されるときに、守護家は招かれず典厩家のみ招かれている例がある
とか。
これが、たまたまなのか(年齢や能力が他の家の当主より上と評価されたとか)、家格として確立していたかは判らないので
守護というポストの有無で、どちらの家が格上なんてことは判断できないのではないかと言いたかった。
0463人間七七四年
2008/06/14(土) 20:46:45ID:S+P1gVjc細川元常関係の展示のところで、
藤孝を養子に迎えたのは義晴からの命令があったためだが、元常には実子もいたので不満だったのではないか
元常は細川家伝来の品を全部菩提寺永源庵に寄進して藤孝には渡さなかった というような解説が付いていました。
(今は永青文庫所蔵の細川家伝来の品々は、江戸時代に入ってから細川家に戻ったとのこと)
この元常の実子は、その後どうなったんだろう?
0464人間七七四年
2008/06/15(日) 11:13:05ID:duuVRLtj朝廷に地下の公家として仕えたんじゃなかったっけ?
明治維新が無かったら堂上になってた!と聞いたことがある。
なんでも・・・三代続けて、ある役職をすると堂上になれたそうだ。
もしそうなっていたら官職の上では熊本藩主より上になっていたかも。
堂上なら近衛中将くらいにはなれたんじゃない?。
0465人間七七四年
2008/06/22(日) 12:43:51ID:3+3J9Ulw西軍の評価を下げようとしたとかいう悪人設定なんだよなあ。
なんで忠興ってこんなに人気ないんだろ?
0466人間七七四年
2008/06/22(日) 20:00:32ID:0BHGImKw0467人間七七四年
2008/06/24(火) 21:27:16ID:E93JgY+Hどれもガラシャの不幸の大半は忠興にある的な描かれ方してて、みんな
それらを参考資料にしてるからでないの?
0468人間七七四年
2008/06/25(水) 21:40:58ID:Cxi8Fguwすんごい感性してそう
0470人間七七四年
2008/06/25(水) 22:03:32ID:o5uWwlb3関が原では他の大名の妻女は無事だったわけで。(ガラシャの行動が人質作戦を頓挫させてしまった側面はあるかもしれないけど)
国許や有力な知り合いの大名家を頼ったりして。
現に細川家内でも、国許に帰るとか長男の嫁の実家の前田家を頼ってはどうかって意見があったのに
結局ああいうことになったのは忠興のせいって思われているからじゃないの?
女性だと嫉妬深くても、あんまり非難されないのは確かにありますね。
前田利家の妻の松なんかも、お手が付いた侍女に対する扱いとか酷いんだが。
0471人間七七四年
2008/06/25(水) 22:10:01ID:A9rXzuB8ttp://sports.geocities.jp/umazukike/Gv4p0651.jpg
こういうのを考え出せる人間は、やっぱどこか変だと思うんだw
0473人間七七四年
2008/06/26(木) 10:50:23ID:P8B/5YFJ歴史小説はみんなDV設定だけど、本当に愛してるんなら暴力なんぞ振るわんよなあ
侍女とか庭師とか周囲の人間に爆発することはあっても、
ガラシャ自身に直接暴力が振るわれたっていう史料はあったっけ?
0474人間七七四年
2008/06/26(木) 11:16:42ID:Vst12sy80475人間七七四年
2008/06/26(木) 21:48:35ID:0hDOLQhN戦国基準でもDVと言って差し支え無いと思う
0476人間七七四年
2008/06/27(金) 13:12:51ID:ja6sOlRdまぁガラシャがDVと思ってたかはわからんがw
0477人間七七四年
2008/06/27(金) 14:29:31ID:U1SZ2OlKwikipediaには“夫婦仲はよかった”とか書いてあるが
0478人間七七四年
2008/06/27(金) 21:02:06ID:mPgudvkw0479人間七七四年
2008/06/28(土) 13:01:04ID:oNUc6Ycf玉がとんでもない色気の持ち主だったのか、それともやっぱり忠興が変人だっただけなのか
0481人間七七四年
2008/06/28(土) 14:11:43ID:/5DJatBT0482人間七七四年
2008/06/28(土) 14:43:50ID:Ulr3GhNu(ああ、わたしのせいで侍女たちが耳鼻そがれて追放されてるわ…ぞくぞく)
(今度はみさかいなく庭師の首ちょっきんしちゃったわ。かわいいところあるのね。)
「鬼の嫁には蛇がお似合いでしょう。」
(ほら、後悔した顔してる。もっと見せて。)
0483人間七七四年
2008/06/30(月) 21:53:05ID:YSxdx837あぁこの夫婦好きだ…
0484人間七七四年
2008/06/30(月) 22:40:11ID:Gh6cKXwx2年も引き離される→好色な天下人に狙われる→キリスト教信仰で騒動etc
と波乱万丈な展開がずっと続いているからね。更に言えば関が原以前は忠興は
結構戦で留守がちだったし、戻ってきても領地の宮津で過ごす日々の方が多く
玉と会えるのは上阪した時だけだった。その分新鮮味が薄れなかった(飽きが
こなかった)んでないの?
0485人間七七四年
2008/07/02(水) 21:11:44ID:SvW0IMBx0486人間七七四年
2008/07/03(木) 01:05:17ID:prWwA9Bl岳宏一郎の群雲、関が原への二人がそんな解釈だったな。
二人の間に障害があるからこそ愛が燃え上がった的な。
0487人間七七四年
2008/07/03(木) 19:49:25ID:SS1N//64ひどい癇癪持ちの人殺しだったのは確かかもしれんけど戦国時代の感覚から
言うとそこまで常軌を逸してたわけでもなさそうだし(ちょっとやばいなくらいは
思われてそうだけどw)
ガラシャの軟禁だって実際異常な状態だったか真偽は不明(宣教師の勘違い説)
軟禁したからガラシャが死んだってわけでもないし
キリスト教自体はガラシャの死の前からむしろ保護してる状態だったみたいだし…
自分がひいきしすぎなのかな…そこまで嫌われる要素があると思えん
どっちかというと颯爽とした青年武将期から政治家として縦横無尽に活躍しつつ
文化人としても大成ってイメージが強いわ
0489人間七七四年
2008/07/03(木) 21:46:57ID:PxFL+80h珠はいうことを利かないどころか口答えしたり逆らってばかりで
いわゆる「思い通りにならない女」ってとこがポイントかも・・・
0490人間七七四年
2008/07/04(金) 11:01:25ID:wfqMJQAI0491人間七七四年
2008/07/04(金) 14:56:19ID:y4EWLzc920 :人間七七四年:2008/07/01(火) 23:28:34 ID:K+63uZYZ
忠興はどうなん?俺の印象的には悪人
19:2008/07/01(火) 23:57:40 ID:NkN6JFX4
学校で習った限りでは、忠興は文武両道の立派な人だと思ってたんだよ。
それが調べれば調べるほど、
父親や子供への対応とかろくでもない所業が出てくる出てくる。
…文武両道の人であることは間違いないと思うんだが。
25 :人間七七四年:2008/07/02(水) 03:02:17 ID:9xMeYvov
忠興なんて基地外じみたエピソードばかりだもんな
26 :人間七七四年:2008/07/02(水) 03:38:19 ID:IOstKuma
まぁ忠興は、一色氏との戦いで一色義定に姉妹を嫁がせて和睦したあと
義定を謀殺して報復として突撃してきた一色義清を討ったあと
敗残兵を皆殺しだもんな名門のやることじゃない
27 :人間七七四年:2008/07/02(水) 09:05:16 ID:6MfQKday
調べれば調べるほど「こいつの家よく生き残れたな…」と思ってしまう
それが忠興クオリティ
全員じゃないが、住人の中には撫で斬りとかそういう行為への
不快感をそのまま武将の全評価につなげちゃうっていう類の
人もいるようだから、気にしないのがいいと思われ。
0492人間七七四年
2008/07/04(金) 15:55:58ID:P8lD+DTW細かい心遣いも勇断も出来、さらに腹芸での政治遊泳も出来る相当な人物だと言うのが良くわかる。
好む好まないは別として、家柄関係なく、現代社会でも間違いなく出世するタイプ。
0493人間七七四年
2008/07/05(土) 00:00:44ID:VsbDHP2sこの一族は丹後一色一族および家臣には子々孫々呪われるはず・・
怨念というものが実在するなら・・
0494人間七七四年
2008/07/05(土) 13:23:33ID:3LiVirsJそして忠興の性格の悪さもよくわかるという諸刃の剣。
あんなにネチネチと説教されてたら忠利が細々と気を使う(使いすぎて他人に嫌われたりする・・・)性格にもなるわなあ。
黒田如水・長政あたりもやっていることは変らない(地元旧勢力のだまし討ちとか、一族家臣とのぎすぎすした関係など)のに
忠興ほど嫌われることはあまりない気がする。
(長政も好かれるタイプではないだろうけど、生理的に嫌いとかいう評価は少ないイメージが。単に知名度の差?)
0495人間七七四年
2008/07/05(土) 18:38:21ID:K3MgVhfU美人の妻をDVってたか 妻といちゃついてたか というイメージの違いじゃなかろうか。
家庭での振る舞いひとつで人間性全部を評価されてしまった忠興の不幸とでも言おうか。
0496人間七七四年
2008/07/05(土) 18:59:24ID:NlXW5v3Z性格が地味に普通な上で地味にこつこつ騙し討ちとか裏切りの斡旋とか
嫁離縁とかしてるからある程度仕方ないけどな!
長政好きの俺にもフォローしにくい。
0497人間七七四年
2008/07/05(土) 22:46:34ID:nP7N0NL7・・・藤孝の話題余り出てませんなぁw
まあ忠興が強烈すぎるし
0498人間七七四年
2008/07/06(日) 10:14:01ID:k2Ocq0MP長政と聞いてすっげえナチュラルに浅井長政だと思ってた。
なんで浅井が嫌われるんだろう? とか思っちゃったぜ。
0499人間七七四年
2008/07/06(日) 16:34:01ID:KkgrOmG6父親や又兵衛のせいで小物っぽく扱われる事が多い気の毒な人物でもある。
忠興はそこら辺、父とは別に超然としてると思う。
0500人間七七四年
2008/07/06(日) 16:51:18ID:K5CrtqJ/浅野長政
浅井長政
0501人間七七四年
2008/07/06(日) 16:56:22ID:dpXF9Nji0502人間七七四年
2008/07/06(日) 17:30:03ID:K5CrtqJ/池田長政
上杉長政
小笠原長政
0503人間七七四年
2008/07/06(日) 18:40:07ID:Sf/oYdz3>山本博文の「江戸城の宮廷政治」
といえば最後の方忠利が危篤に陥った時の忠興の手紙はちょっとぎょっとした
あそこだけ忠興の中の人が違うみたいだった
0504人間七七四年
2008/07/06(日) 19:14:15ID:K5CrtqJ/「忠利の病気、ずっと私に隠して、良い良いとばかり言っていたので、そうかと思っていたところ、
今日十四日、急に危篤だと知らされ、驚いて八代を三時半後ごろに出、熊本に夜の十時に付き、
忠利の様子を見たところ、もう駄目で、私の事もわからず、目も明かない様子だった。
ああ…、とにかく酒井殿や柳生殿に相談してお暇をもらい、急いで帰国してきてくれ。
私は混乱して、なにがなんだかわからない」
やっぱり人の親ですよね。
忠興八十歳の時の賀歌
思いやれ 八十のとしの くれなれば そこはかとなく 物ぞかなしき
臨終の言葉
『皆共が忠義、戦場が恋しきぞ!いづれも稀な者共ぞ!』
0505人間七七四年
2008/07/07(月) 09:12:23ID:otg/09dN忠興は実にストレートに嫌っているのに対し
長政はすごく複雑にコンプレックス持ったりリスペクトしたり、むつかしいんだよね。
で、親父同士はまったく違ったタイプなのに普通になかよし。
息子同士はいわずもがな。
0507人間七七四年
2008/07/18(金) 15:04:48ID:6rB/Ehx1関ヶ原合戦後、細川と黒田は一触即発の事態になったはずだが・・・
0509人間七七四年
2008/07/18(金) 21:23:11ID:f00myab0>>43
長政と忠興は関が原までは普通に仲よかったと思うけど。
三成弾劾の七将にお互い入ってたりするし。(メンバーに異説はあるけど)
仲悪かったら、松井康之が黒田勢に応援頼んだことで、康之に対して根に持ちそうな性格だし。忠興は。
豊前の引継ぎで黒田が先取りした年貢を返さないことが発端で、お互いの重臣の出奔に手を貸したってことで、敵対関係になるけど。
0510人間七七四年
2008/08/27(水) 06:15:27ID:okod4AnX0511人間七七四年
2008/08/27(水) 21:17:00ID:MDMSw1JK寺に入るしかない」みたいに嘆いてたそうで、実際愛宕山の福寿院に入れら
れてたそうででちゃんとした守役いたのかな?
同年代にお付の者はいたみたいだけど。
0512人間七七四年
2008/08/28(木) 15:14:25ID:uP49F0F9羽織の家紋を、細川のものにするか、今の長岡のものにするかで刀を抜いての争いになったり。
本能寺の変の時は、明智に味方しない忠興を父藤孝が殺してまで出陣しようと、もみ合いになり、
忠興が藤孝から刀を奪い、結果剃髪し信長の喪に服すという忠興の考えを通した。
本との親子かいなと思えるようなエピソードがイッパイ
0513人間七七四年
2008/08/28(木) 16:34:49ID:tNJlFnDY0514人間七七四年
2008/08/30(土) 19:11:04ID:3Wq0o/m3忠興なら侍女とか家臣とか何人か開いていそうだが、
藤孝はそんなことしねーよ、とか素でつっこんでから、
タイポということに気づいた。
0515人間七七四年
2008/09/02(火) 02:58:19ID:PlzwlLTB0516人間七七四年
2008/10/10(金) 23:37:07ID:ey24eKID立孝ばかり可愛がるし、宗家は途中で立孝の系統になるし。
0517人間七七四年
2008/10/11(土) 16:44:01ID:ta3y7Xth忠利とは膨大な数の手紙のやり取りをしてるんだよね。
かなり小うるさく口出しして、忠利も「最近父上はますます
こらえ性がなくなってきた」と書き残していたりする。
0518人間七七四年
2008/10/11(土) 23:17:13ID:CMAr796c0519人間七七四年
2008/10/11(土) 23:32:24ID:Cd646EPf>>503にもあるように息子達に愛情が無かったわけではないのだろう。
ガラシャへの仕打ちを考えるとかなり歪んだ愛情みたいだが。
0520人間七七四年
2008/10/15(水) 23:54:46ID:PAWxvfJU荒木村重の女房衆が処刑される時、同情してた・・・
0521人間七七四年
2008/10/16(木) 03:24:52ID:Gjs070Of0522人間七七四年
2008/10/16(木) 18:07:39ID:QDu17a+W0523人間七七四年
2008/10/20(月) 19:35:30ID:nwbWpE4A村重の息子も召し抱えてるんだよね
0524人間七七四年
2008/10/20(月) 21:43:57ID:iWeh10bL肥とかの評価は真逆だが、世渡りの巧さといい、戦での実績といい完全に藤孝が上をいってると思うんだがな〜
特に田辺城は篭城戦として考えうる最悪のシチュエーションの中であの長期間耐え凌いだからな。
0525人間七七四年
2008/10/20(月) 22:16:02ID:V5e4ASyH攻め手があんまりやる気がなかったからな。
0526人間七七四年
2008/10/20(月) 22:27:37ID:iWeh10bLその手の事言い出したら上田城だって似たようなもんだろ。
0527人間七七四年
2008/11/02(日) 01:53:38ID:yOzsRQjp0528人間七七四年
2008/12/04(木) 17:29:56ID:78PWIz5U0529人間七七四年
2008/12/04(木) 19:55:49ID:vrGi4FMx0530人間七七四年
2008/12/07(日) 00:21:57ID:GY+61s55岩成友通を討ち取った有名人なのに。
0531人間七七四年
2008/12/07(日) 07:58:20ID:02o07Fwq0532人間七七四年
2008/12/16(火) 23:34:34ID:cRvh4zly0533人間七七四年
2008/12/17(水) 22:56:31ID:H7cXXKCSこの人か
http://www.j-sampo.com/sengoku/2007/10/post_623.html
http://www.shinshindoh.com/oie-3-1.html
下津権内(一通)は天正五年に戦死となってるから、
忠興と揉めたなら忠興は14-15歳くらいか?
0534人間七七四年
2008/12/18(木) 22:35:52ID:CIkMQL9p0535細川徳生
2008/12/21(日) 22:46:36ID:ycucWCtd被告、株式会社チャンスイットにドメインの返還を要求する、
公開質問状と内部告発と損害賠償請求事件で裁判中です。
集団ストカー・インサイダー取引・中野サンプラザ問題
巨大組織の細川徳生グループと戦っております。
まるで、巨象と蟻の戦いです。宜しくお願い致します。
0536sage
2008/12/26(金) 18:13:32ID:uvBBxBOX0537人間七七四年
2009/01/01(木) 19:39:20ID:MQDx4vVW美少年を閨に引き込もうとして(!)拒絶されたり、
最後には男根切り落とされたりと、散々な役だった…
0538人間七七四年
2009/01/03(土) 11:10:29ID:FBNQUYm10539人間七七四年
2009/01/03(土) 23:47:21ID:2YBVeM51試みたけどダメだったつう話が残ってるが
三成もつまんない手を使うね
0541人間七七四年
2009/01/04(日) 00:28:29ID:QI5j83zM0542人間七七四年
2009/01/04(日) 01:00:44ID:z9ZA/feMつーかそんなんで吊れたら苦労しないだろ。相手忠興だぞw
0543人間七七四年
2009/01/04(日) 01:32:30ID:+xI16PLcこれか
石田三成と細川忠興が仲たがいをしていたのだが、石田三成からの申し入れで、前田玄以を仲介して
仲直りすることになった。
その席で、三成は、忠興に仲直りの挨拶もせずに、盆の上に載せた柿を忠興の前に置いて、
「越中守(忠興)は柿が好物だと聞いたので持参致し候。それがしのことは気にせず食して頂きたく候」
と云った。
0544人間七七四年
2009/01/04(日) 01:42:28ID:JJV5PSvRこんな不自由な人が実在したことも政権の中枢にいたことも信じられないネタに違いない
反射的にそう思った
0545人間七七四年
2009/01/04(日) 01:44:29ID:+xI16PLc0547人間七七四年
2009/01/04(日) 21:34:45ID:jm6GqbrW仲直りどころか、火に油を注いでるだけだな。
つーか忠興もアレだけど三成の対人交渉能力も結構破綻してるんだな。
0548人間七七四年
2009/01/05(月) 15:56:34ID:9mxzZfPm「性格が豪強」父・幽斎より
「引くことを許さない人」妻・玉子より
「人の言うことを少しの疑いもなく受け入れ、
感じたままを受け入れる人」息子・忠利より
0551人間七七四年
2009/01/07(水) 23:59:35ID:IOwowkqR忠利が酒井忠勝に宛てた書状の一文。文面からすると
「(一徹な、激しい性格は)幼児のような純粋で邪気のないもの」
という意味らしい。
0554人間七七四年
2009/01/11(日) 07:01:03ID:aVSN3n2Q「絶対に金を貸しても返ってこない家」として有名だった。
「もともと武家は策謀のお家柄なので、返す返すといいつつ、
はぐらかしてまったく返さない。特に細川は・・・」
っていう記録がたくさんある。基本的に大名家ってあまり返さない
から、”大名貸し禁止”が家訓第一条に書いてある三井家なんてのも
あるんだけど、細川は特にひどいらしく多くの商家の記録に
悪口が書いてある。
0555人間七七四年
2009/01/11(日) 07:22:19ID:xMDkjK9G農民から搾ると一揆を誘発して家を潰しかねないが
商人から金借りて返さなくても家は潰れない
って家だからなぁ
0556人間七七四年
2009/01/11(日) 07:30:38ID:aVSN3n2Qだから、金返さないと、あっさり金貸してくれなくなるよ。
島津なんて、家老まで出てきて番頭に頭下げないと貸してくれなくなっていた。in大阪
0557人間七七四年
2009/01/11(日) 09:24:20ID:bxCXrw++おかげさまで熊本城を初めとする数々の文化遺産を現在の我々も愛でられるのですから
商家の皆さんご苦労さんとしか言いようが無い。
0558人間七七四年
2009/01/11(日) 10:48:46ID:FwDAlKBr家老の松井から諫言受けるほど、相撲に熱中したり派手好きだった。
(忠利・光尚は倹約してたんだけど)
0560人間七七四年
2009/01/11(日) 21:49:23ID:/gELtD7W東海道を家来数人とその領地に向かうも貧乏道中。
医者の渋江家から金を持ち出し出奔した渋江の放蕩息子と出会って意気投合。
その金で何日も宿場で遊興したとかあったような。
0561人間七七四年
2009/01/12(月) 08:49:35ID:snBiBP94歌に詠んでるくらいだから代々借金してるの当たり前だったんだろうな。
0562人間七七四年
2009/01/12(月) 09:02:47ID:bOnr53mt0563人間七七四年
2009/01/12(月) 09:30:43ID:rkujnnZT江戸幕府の体制が固まるまでは、「また戦争状態になる」ことをどこの大名家でも想定しているから、
いくら金があっても足りないってことなのでは。
商人なんかに金を(無理やり)貸して、高金利で取り立てるなんてことは、多くの大名がやってたって
解説を読んだことがあります。
0564人間七七四年
2009/01/12(月) 15:24:11ID:snBiBP94側室いなかったのでは?
0565人間七七四年
2009/01/12(月) 21:54:51ID:ey5hNEc7いつでも戦争状態で、そんな金を貸して無理やり取り立てるなんて
ことができた時代にはそんな回りくどいことをやらなくても、
普通に商人の家を襲って金を強奪すればよかったわけですが。
0567人間七七四年
2009/01/12(月) 22:03:39ID:ey5hNEc7低能っぽい無意味な煽りレスですね。
0569人間七七四年
2009/01/13(火) 00:07:13ID:DEV6OOfE一生気付かないだろうけどねw
0570人間七七四年
2009/01/13(火) 00:08:24ID:DEV6OOfE0571人間七七四年
2009/01/13(火) 00:24:58ID:h1YHRuep説明しないと駄目なのか?
それとも無視したほうがいいのか?
0572人間七七四年
2009/01/13(火) 01:04:16ID:cBbRDUly普通に商人の家を襲って金を強奪すればよかったわけですが。
普通に商人の家を襲って金を強奪すればよかったわけですが。
普通に商人の家を襲って金を強奪すればよかったわけですが。
普通に商人の家を襲って金を強奪すればよかったわけですが。
0573人間七七四年
2009/01/13(火) 01:07:01ID:h1YHRuep商人に家に現金があるとか思ってやがる。
0574人間七七四年
2009/01/13(火) 01:38:48ID:cBbRDUly0575人間七七四年
2009/01/14(水) 23:55:26ID:jx5w1oT6小さい頃幽斎からいろいろ義輝のこと聞かされてたのかな?
0576人間七七四年
2009/01/15(木) 22:25:50ID:nNQLKVFp幽斎・ガラシャもいい味出してるし。
0577人間七七四年
2009/01/16(金) 00:25:19ID:EkFG22/S名門の吹き溜りと化してる細川家中でも、妙に待遇が良いからね。
東国では水戸徳川、伊達、西国では細川はしくじった感のある名門が
あつまっている印象が有る。
0579人間七七四年
2009/01/17(土) 19:31:44ID:U1uz9Mqh【誕生日】
シャルル・ド・モンテスキュー(1689)、松平定敬(1847)、鈴木貫太郎(1868)
石原莞爾(1889)、おすぎとピーコ(1945)、ビートたけし(1947)、ケビン・コスナー(1955)
片桐はいり(1963)、伊吹公子(不明)
【命日】
細川忠興(1646)、土居まさる(1999)、ザ・シーク(2003)
【主な出来事】
藤原頼道が関白になる(1020)
木村さんが徳川さんの血判が薄いとかなんとか因縁をつける(1615)
ドイツ帝国成立(1871)
大逆事件(1911)
りしょうばんラインをお隣の国が勝手に宣言(1952)
長崎市長が鉄砲で撃たれる(1990)
ライブドア株が売りまくられえらことになって全銘柄取引停止(2006)
アクシズとア・バオア・クーが衝突してゼダンの門壊れる(0088)
振袖火事の日、都バス記念日
0580人間七七四年
2009/01/18(日) 21:07:11ID:kF9V3PbPいくらなんでもありえない設定とその時は思ったけど
『三斎流』に立ったままで行う点前<出陣前の点前>
の存在を知って驚いた。
0582人間七七四年
2009/01/20(火) 09:47:32ID:1enY7nzP昔からそうだけど本家と松井家は姻戚繰り返し、現当主も元首相の従兄弟さん。
今は水前寺公園横の出水神社の神主さんのバイトやってる。
明治廃藩置県、戦後農地解放、折々、
実成のある田畑山林は、耕作者農家が登記。
それはめでたいいいことだけど、河原湿地山岳原野などなど、
荒蕪の地は誰も登記しない→自動的に旧藩主所有。
ということで、熊本県(旧肥後藩)中に、
膨大な細川当主(元首相さん)名義の荒地が残っているそうです。
生産性がないのに毎年資産税は無条件にかかってくる。
たまに、道路や、高架電線で収容、国や公社に買い上げしてもらってるが
他の個人や農家みたいに、先祖伝来とか生活がかかってるという理由で
値上げ交渉ができない。
公示価格の最安値。不労不動産売買につき高額課税。
虫食いの荒れ地が、道路や電線でさらに寸断。
げっそりされてましたとさ。
0583人間七七四年
2009/01/20(火) 18:46:25ID:DdiTSrpZ>昔からそうだけど本家と松井家は姻戚繰り返し、現当主も元首相の従兄弟さん。
松井氏の地元八代の博物館で系図を見たことがありますが、細川本家とそんな何回も関係してなかったような。
細川の分家筋(内膳家、刑部家、支藩主家あたり)の名前は系図に頻繁に出ていたと記憶しています。
まあ、多少は先祖自慢も入っているのかな。
0584人間七七四年
2009/01/20(火) 21:36:16ID:88D5HY5d>松井氏の地元八代の博物館で系図を見たことがありますが、
>細川本家とそんな何回も関係してなかったような。
本家との婚姻は松井興長と忠興の娘、
あとは元首相のお父さんの後妻が松井さんというぐらいだと思う。
0585人間七七四年
2009/01/21(水) 22:22:57ID:09GObg2K松井家継いでる
0586人間七七四年
2009/01/28(水) 23:02:10ID:dfOs0Pjz忠興さまの数々の名場面(庭師切捨→鬼蛇夫婦・侍女の耳鼻削ぎ)が
見れるかな。野村宏伸が演るらしいが・・・
0587人間七七四年
2009/01/29(木) 02:40:38ID:3aGIzaGQやけに細川家の記録なのに名前が出てくるんだがw
0588人間七七四年
2009/01/30(金) 19:08:59ID:zYXWPSvp0590人間七七四年
2009/02/01(日) 00:52:54ID:T+YnKX8tあと実際に残っている話として>>97より
@秀吉死後、文治派が家康を討とうとした時忠興と共に家康の屋敷に駆けつけて
「両家の真心は徳川家が続く限り忘れない」と家康に感謝された。
A忠政が津山城を普請する時、家臣に命じて密かに小倉城の城郭図を写し取らせようとしたが
見つかってしまい捕らえられたが事情を話すと、以外にも忠興は城郭図を貸し与えた。
更に津山城落成の折にお祝いとして南蛮の釣鐘を贈っている。
−なんかの本で忠興の度量の大きさを伺わせる話(!)として紹介されてた。
0591人間七七四年
2009/02/01(日) 01:16:59ID:T+YnKX8t0592人間七七四年
2009/02/02(月) 20:22:17ID:Q79JqFlw@日本で最も凶暴な大名(フロイス談)
A屋敷内に5人も側女をかかえガラシャを苦しめ虐待している(オルガンチノ談)
0593人間七七四年
2009/02/02(月) 20:25:20ID:jHcr0HH10594人間七七四年
2009/02/02(月) 20:35:01ID:qVSfIzeZそうだな。宣教師の史料って、キリスト教に好意的か否かで
全然評価が違うんだよね。
そういえば、最終的に忠興ってガラシャの信仰を認めていなかったか?
0597人間七七四年
2009/02/02(月) 21:30:33ID:db0dNjZo0599人間七七四年
2009/02/03(火) 04:23:38ID:OcktrhOl0600人間七七四年
2009/02/03(火) 15:21:07ID:3055Gv7X0601人間七七四年
2009/02/03(火) 21:00:53ID:t1zCNAlP0602人間七七四年
2009/02/03(火) 21:21:00ID:NPReQuSRつーか、普通に考えて、人柄だのを認知できるほど、身近にいれているわけがないんだから、
人物評なんて、全くアテにならないと思っている。
0603人間七七四年
2009/02/04(水) 22:07:03ID:DARYFSAV0604人間七七四年
2009/02/04(水) 23:36:47ID:DARYFSAVくれたはよいがなんかあんま迫力なかったような・・・
ただ一般視聴者には忠興の変態っぷりは十分伝わったかも
0605人間七七四年
2009/02/05(木) 01:06:02ID:4Tql5p2O0606人間七七四年
2009/02/05(木) 19:08:57ID:YGJsxoAyあと、忠興と忠利のローマ字の印鑑も(ガラシャ婦人亡き後宣教師と親しくなったため)
0607人間七七四年
2009/02/05(木) 23:43:31ID:OS6jKaYaたちと友人とは信じがたいよなあ。
0608人間七七四年
2009/02/06(金) 00:25:37ID:wv51c67d0609人間七七四年
2009/02/06(金) 20:43:04ID:RFIaIPDy利休切腹前の見送りや、谷衛友の家督争いに首突っ込んだりとか。
逆に一度関係がこじれると、どうしようもないというかw
0610人間七七四年
2009/02/06(金) 22:00:26ID:xAN3K8U3高山右近は、利休の弟子仲間。右近も交友関係がきわめて広かった。
蒲生家、細川家とは足利家を通じた古い付き合いがあったのでは。
立花宗茂とは、秀忠の時に一緒に相談役だったという以外に、
九州が封土の大名で付き合い大事、とうことでは。
立花宗茂、伊達政宗、藤堂高虎、忠興が肥後に行く前までの黒田長政も友人。
この当時の大名というのは、社交も戦場と同じく必死に大事。
小大名の木下延俊の慶長日記でも、ありとあらゆる大名家と毎日訪問しあい、
茶会や夜話で、毎日分刻みのスケジュールだった。
0611人間七七四年
2009/02/08(日) 19:30:47ID:nCKrNpSsの元に嫁ぐと紹介されてたぞ
0612人間七七四年
2009/02/08(日) 21:08:10ID:f1iSKCqm宗茂の第2夫人である八千は細川幽斎からの紹介らしいから
宗茂とは慶長の役の前から付き合いがあったみたいだね。
0613人間七七四年
2009/02/11(水) 22:28:27ID:gOPqC+GC記録には結構病気してる表記があるとこみると実は病弱?
0614人間七七四年
2009/02/11(水) 22:29:36ID:gOPqC+GC病気してる記述が結構あるとこみると実は病弱だった?
0615sage
2009/02/11(水) 22:33:56ID:er/ERH9q0616人間七七四年
2009/02/12(木) 01:47:31ID:EJKm/B6l0617人間七七四年
2009/02/12(木) 08:37:13ID:wr17EK050618人間七七四年
2009/02/17(火) 21:11:30ID:RoSpz4C1『縁結びお守り』には次のような説明が・・・
−ご祭神・忠興公と玉姫は信長公の仲取持で縁組し、世の荒波にもめげず
仲睦まじく子宝にも恵まれ、深い愛の絆で結ばれて幸福に暮されました−
0619人間七七四年
2009/02/19(木) 22:07:18ID:bwjfqjqV0620人間七七四年
2009/02/21(土) 23:52:02ID:wmk0zHb2学校に怒鳴り込んでくるだろうね。
で、警察来たら別人のように知的に振る舞う・・・
0621人間七七四年
2009/02/22(日) 02:07:23ID:6dJ+VIDrモノは言い様だな
0622人間七七四年
2009/02/22(日) 02:25:25ID:Ro4dmiwkまた、この二人の主な衆道相手を知られて居る限り教えて下され。
よしなに頼み入り申す。
0623人間七七四年
2009/02/22(日) 06:04:30ID:8vPdGfN30624人間七七四年
2009/02/23(月) 03:42:26ID:ilW4Ke450625人間七七四年
2009/03/05(木) 22:29:40ID:4cQqy/wJ0626人間七七四年
2009/04/19(日) 20:10:49ID:o1DLDTJa0627人間七七四年
2009/04/19(日) 20:52:06ID:QWyceQ9xいつまでも飽きないサルもたまにいるけどな。
0628人間七七四年
2009/04/19(日) 20:59:58ID:wH//T63rどういうわけで?細川の名がいやだったのかな?
0630人間七七四年
2009/04/19(日) 21:07:03ID:3jLZXkR3幕府的に問題はないのか
0631人間七七四年
2009/04/19(日) 21:10:20ID:m7Cd02I70632人間七七四年
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羽柴の姓を止めて松平姓を下賜しようとした。しかし忠興は「徳川ならば
御願い成さるべきか。松平は源氏の名字にてもなく、羽柴と同意なり。」
と言い放って松平姓を拒否し、室町期以来の姓である細川氏に戻ることにし
た。利勝は家康の手前なんとか受けるよう説得したが「(元来の)家の
細川にて候わん」とはねつけたという−
0638人間七七四年
2009/05/02(土) 10:59:37ID:SCHixyT70639人間七七四年
2009/05/02(土) 14:50:19ID:oQQwtK6Gえらい勢いで徳川の官僚達と手紙のやり取りしてなかったっけ。
新政府の法令面や政策面で、かなり寄与してたと聞いたんだが。
0640人間七七四年
2009/05/02(土) 19:07:25ID:/gRIJkRe0641人間七七四年
2009/05/04(月) 08:30:12ID:74q1/Y3p重臣に、長岡とは名乗らせるけど細川はダメ ってのは
やっぱりそのあたりの自負があるからなのかねえ。
藤堂・蒲生・黒田あたりは、主君と同じ苗字を名乗らせている。
0642人間七七四年
2009/05/04(月) 11:51:46ID:EEiOh9aI政略婚姻であったが、二人が稀に見る強い愛で結ばれたことは知られるとこ
ろ」となってたけど、忠興の<片思い>じゃなくて最近の解釈って<両思い>
なのか?
0643人間七七四年
2009/05/04(月) 14:00:44ID:4QWdzgkbえっと
なんかの文書に羽柴忠興って見たなあ、文書は忘れたけど
羽柴松平の賜姓は適当な勲章みたいな感じなないか
前田利家が羽柴筑前って呼ばれて喜んでたくらいだし
0644奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2009/05/05(火) 09:27:09ID:GiSJzL8s0645人間七七四年
2009/05/05(火) 12:33:25ID:hIiqKVnA0646人間七七四年
2009/05/06(水) 15:11:00ID:qOliZqPk>>643 蒲生氏郷とか大概の武将は「羽柴」賜ってたし。そういう風潮だったんでしょ。
あの頃から関ヶ原にかけての書状の宛名も、忠興に限らず皆「羽柴○○」に
なってるし。
0647人間七七四年
2009/05/06(水) 23:52:44ID:GWzdGZtYこの話って出典は何ですか?
>−家康は忠興の戦功に報いるため土井利勝を通じて、秀吉から与えられた
>羽柴の姓を止めて松平姓を下賜しようとした。しかし忠興は「徳川ならば
>御願い成さるべきか。松平は源氏の名字にてもなく、羽柴と同意なり。」
徳川ならばまだしも、源氏の由緒ある苗字でもない松平なんていらない、
羽柴と同じような価値しかない って解釈でいいんですよね?
由緒ある苗字を大事にして羽柴も貰わなかった、同じように松平も遠慮しますって理屈なら、まあスジは通っていると思うけど。
羽柴は貰ったのに松平は拒否するってのは、徳川家に対して、豊臣家に対するほどの忠誠心はないと
難癖つけられかねず、松平を貰った他大名にも反感を持たれるのではないか、そんな断りかたをするかなあと。
あと、土井利勝って秀忠の側近で、家康の側近ではないと思うので家康から利勝を通じてってのも、ちょっと疑問。
家康側近から内々の打診があって、形式としては将軍秀忠から利勝を通じて松平と名乗る許しを貰う
という流れなら自然だけど。
0648人間七七四年
2009/05/09(土) 00:55:45ID:dlIgCBlv忠興の嫁のガラシャがむしろ親父の方と仲が良かったみたいだから
歪んだのはそのせいだろうか?
0649人間七七四年
2009/05/09(土) 06:57:06ID:8KGfg2kI忠興の老臣を呼びて、古歌二首を書きて与へらる。
「
『逢坂の関の嵐の寒けれど、行方知らねばわびつつぞぬる』
この歌の心を察せよ
『まこも草つのぐみ渡る沢辺には、つながぬ駒も離れざりけり』
此の歌の心をよく思慮されよと忠興にいへ」
と教訓させられけり
(常山紀談)
0650人間七七四年
2009/05/10(日) 18:29:45ID:Wt/5PuSk0651人間七七四年
2009/05/11(月) 21:41:22ID:UF6f7Xeoやっぱ忠興の一方通行だろう。
0655人間七七四年
2009/05/12(火) 21:27:05ID:ee0mnk9p蒲生氏郷たちと一緒に幽斎取り上げられてたな。
(さすがに忠興は載っとらんが・・・)
0656人間七七四年
2009/05/12(火) 22:01:11ID:6nBlsbYI一緒に入信した侍女の鼻削いだり、会話した下人を面前で斬り捨てるなど
本人に手を上げるより余程キツいわ。
0657奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2009/05/13(水) 06:14:37ID:yrKYYm/s0658人間七七四年
2009/05/16(土) 21:39:19ID:KPr8LDBA0659人間七七四年
2009/05/19(火) 00:19:14ID:apjGrvoK0660人間七七四年
2009/05/19(火) 12:28:14ID:8UYEbsepあらゆる作品でチョイ役としてしか取り上げられてないから少しうれしかった
調べれば調べるだけ凄さがわかる人なんだがいまいち有名になれんのは何故なのか?
0661人間七七四年
2009/05/21(木) 23:07:56ID:Np8sW7hJ幽斎に限らず、この時代の様々な出来事へ、その当時から表向きに・大っぴらに関わったり、
自他から派手に宣伝する事やチャンスが無かったからじゃね?
下克上を成し遂げ、永禄4年頃に機内なり地方なりに一大領国を持つようなポジションにいたり、
家中に独自色の強い分国法を持っていたり、軍事・経済で革命的な制度を実施して大成功の結果を収めたりすれば
教科書に載る様な有名人になるようなチャンスがある可能性は普通に高いと思うなあ
ただ、それも結局、別に細川幽斎に限った話じゃあ無いんだけれどw
0662人間七七四年
2009/05/28(木) 23:27:16ID:2oJwMamR内容が忠興を気遣う(!)内容の手紙だとか、署名もガラシャになってる
という話だが・・・
0663人間七七四年
2009/05/29(金) 23:34:21ID:ZNP5GH7T加増には違いないけど、秀吉が黒田を九州に封じたと同じ理由では?
畿内に置いておきたくなかったんじゃ・・・・・・・信用できないし・・・・・・・・
0664人間七七四年
2009/05/29(金) 23:39:06ID:lK84txWP畿内には豊臣対策として徳川勢力を入れるのはわかりきった事。
天下を望まない以上あれは昇進。
0665人間七七四年
2009/05/30(土) 00:02:34ID:qqGu2zndあれは「島津に変な動きあったら防波堤になれ」
ということで監視役。だとウチでは教わった。
0666人間七七四年
2009/05/30(土) 15:53:47ID:ERnWcsMZ家康が、「他の大名が反乱起こしても、細川は絶対にそういうことはしない」とか言ってたような。
大坂への出陣も他の九州の他の大名が家康に従うのを確認してから、細川氏は出発したとかいう話もあるし、
忠興の隠居分の軍役免除しえもらったりと、徳川氏からは優遇されてもいますね。
島津の押さえは肥後(加藤氏)で、細川氏の任務は黒田・毛利の押さえだったのでは。
島津と細川って幽斎時代から付き合いがあって、島津の江戸留守居役なんかは
忠興にいろいろアドバイスを求めたりしている。
0667人間七七四年
2009/06/05(金) 22:26:09ID:aRHyqgV8で、忠興は光秀に憧れてたんじゃないかな。
たまはファザコンでデウス様=父上と思って心の支えにしてたのでは。
0668人間七七四年
2009/06/05(金) 22:49:12ID:jhaUdT5l宛名が「忠興殿」で差出に「がらしゃ」となっていた。
入信した天正15年以降だろうと解説されてた。
0669人間七七四年
2009/06/05(金) 23:02:11ID:1KxNSi3N0670人間七七四年
2009/06/08(月) 19:08:46ID:y2KuV3Ft個人から国立博物館に寄贈されたもの。
0671人間七七四年
2009/06/08(月) 22:55:12ID:9CIXvWjw匿いました。これは忠興が玉を守ろうとする苦肉の選択であったに違いあり
ません。」とあったが・・・。地元だしホントのことは書けないよな。
0672人間七七四年
2009/06/11(木) 15:38:18ID:cjobHIRZ0673人間七七四年
2009/06/13(土) 08:12:21ID:1syorh9y忠興の晩年 アルツハイマー
0674人間七七四年
2009/06/13(土) 08:38:29ID:/82syVKA0675人間七七四年
2009/06/13(土) 12:05:18ID:xAfX75KR0676人間七七四年
2009/06/13(土) 12:06:59ID:N9lv0XnJ溺愛はそれだけでダメです。
実際問題、明智が謀反起こした後、
お玉を軟禁してはいるけど、離縁はしなかった
っていうのは、かなり特異なことだと思う。
それが他から見て健全な「愛情」だったかはともかく、
もの凄く深く執着してたことは確かなんじゃないかと。
0677人間七七四年
2009/06/13(土) 17:33:52ID:owteML5x0678人間七七四年
2009/06/13(土) 20:51:25ID:VqZFgTkc0679人間七七四年
2009/06/13(土) 21:21:55ID:o784Fl9E0680人間七七四年
2009/06/13(土) 21:25:24ID:N9lv0XnJ細川家も明智の郎党とみなされて滅びる危険性と、
お玉への個人的な愛情はかりにかけて、
お玉への愛情(別に執着でもいいけど)とった、
ってくらいの重い決断だったと思うよ。
0681人間七七四年
2009/06/14(日) 09:05:28ID:5mkyKHEA0682人間七七四年
2009/06/14(日) 09:48:16ID:0dYe9WXbそれで何で夫婦喧嘩ばっかしてたの?
玉がワガママだったの?
0683人間七七四年
2009/06/14(日) 10:20:06ID:kqwGmtop0684人間七七四年
2009/06/14(日) 13:39:41ID:CR7r7MPD0685人間七七四年
2009/06/14(日) 19:25:17ID:BVTI+0Zgそれがよく引用されて夫婦喧嘩ばっかしてるみたいなイメージになったんだろうね。
でもこの記録よく読むと、忠興は家中では恐れられていたけど、珠には頭が
上がらなくて珠の方が一枚も二枚も上手って感じだ。
0686人間七七四年
2009/06/15(月) 02:59:20ID:8S4gep0H「日本一凶暴な大名」とか言われてたと思ったけど、そいつをして
最終的に信仰を認めさせてるあたり、惚れた側の弱みなんだろうか。
0687人間七七四年
2009/06/15(月) 22:12:00ID:nmj/QppUとあっさり許可しちゃったり礼拝堂作ってやったりしてるしね。
0688人間七七四年
2009/06/15(月) 22:23:04ID:nLpwUBTz細川家の家臣団のかなり上の方に、
キリシタンに改宗した人もそこそこ居たらしいよ。
禁教になったときとか結構具合悪かったらしい。
0689人間七七四年
2009/06/16(火) 23:17:33ID:u+pOSiMV0690人間七七四年
2009/06/19(金) 01:49:47ID:K+mn8Cvl一方的に警戒して権力争いしてただけ。
妻が家臣を懐柔したり家の実権握られないように見張ってただけ。
だからむしろ最弱の立場である逆臣の娘の方が都合がよかった。
自分に自信が無くて支配欲の強いモラハラ男にはありがちな選択。
「イジメ」だよ。
女と対等に向き合う気が無いどホモです。
0691人間七七四年
2009/06/19(金) 01:57:09ID:K+mn8Cvl利用できるものなら何でも利用する男。
お玉は死んでも死にきれなかっただろう。
0693人間七七四年
2009/06/19(金) 02:15:34ID:K+mn8Cvl男が女を閉じ込めて自由を奪うのはそれしか理由が無い。
「俺の知らない所で勝手な事をするな」
ってやつ。恋愛感情はゼロ。
だって普通愛する人にそんな酷い事しないでしょ。
凡庸な家臣だったら不興を買って切られて終りだろうけど
お玉の場合忠興に盲目的に尽しすぎて空気読んでキリスト教徒にまでなって、
自殺までしたのが無惨だった。
結果的には後世まで細川家にトコトン利用されただけ。
0694人間七七四年
2009/06/19(金) 12:03:53ID:tX0if/yb0695人間七七四年
2009/06/19(金) 12:40:51ID:VsUmj34O少なくとも忠興は「棄教しないと侍女の耳鼻削ぐぞ」
的立場だったわけだが。
三浦さんの著作をさらにフェミったおかしな漫画でも出たんか。
0696人間七七四年
2009/06/19(金) 14:33:08ID:K+mn8Cvlキリシタンになって自害しなければ外国勢力を払い除ける事も出来なかっただろう。
細川家が現在に至るまで根付く事も無かったろう。
そこまでした割には、天下泰平の世とまでは至らなかった。
男性原理でおかしな策謀ばかりしてるから話がややこしくなる。
守れたのは父に従うもの=「家」だけだった。
母のような無条件の愛では無い。
0697人間七七四年
2009/06/19(金) 18:27:26ID:fBksdAfm0698人間七七四年
2009/06/22(月) 23:43:37ID:cf7pJlEz忠興・ガラシャ夫婦に来てもらって細川コレクションの解説をしてもらうという
すさまじい企画があった。
0699人間七七四年
2009/06/24(水) 15:34:13ID:szrSZQQo0700人間七七四年
2009/06/25(木) 00:08:16ID:KyT6boo1肝心の掛軸は残っていないんだな
0702人間七七四年
2009/06/25(木) 20:40:07ID:kFsfkM9Sって、へうげものの感染力って凄いよね。
0703人間七七四年
2009/06/25(木) 20:52:14ID:fC8Z9g5u0704人間七七四年
2009/06/26(金) 21:29:31ID:n52eQB3P掛け軸も借金の返済の足しにしたんじゃないの?
0705人間七七四年
2009/06/26(金) 22:03:46ID:Fv5lyr750706人間七七四年
2009/06/27(土) 02:18:31ID:kexM5wdj0707人間七七四年
2009/06/27(土) 12:22:34ID:e5JU3f4R0709人間七七四年
2009/06/29(月) 19:35:57ID:2ukQMzcT今っぽい人たちだこと。
0711人間七七四年
2009/06/29(月) 21:44:42ID:2ukQMzcT0712人間七七四年
2009/07/05(日) 13:40:33ID:QJ85Wl8gガラシャの侍女頭のルイザに目をつけ、
側女にならなければ殺すと脅したので、
ガラシャが他の侍女と相談して京へ逃れさせたという。
0713人間七七四年
2009/07/05(日) 20:58:57ID:QJ85Wl8ghttp://blog.livedoor.jp/sambockarie/archives/51381161.html
0715人間七七四年
2009/07/05(日) 22:47:52ID:QJ85Wl8g0716人間七七四年
2009/07/06(月) 02:54:04ID:BHLCLiNl0717人間七七四年
2009/07/06(月) 23:11:30ID:t2znasT4小姓の失敗を救ったりとかっこいい話が多いのに、息子はDQNな話ばかり
だな。
0718人間七七四年
2009/07/07(火) 01:19:20ID:TyZXxIAL戦国一、東京砂漠が似合う男 立ち広しの「泣かないで」でも可
異論は認める。
ちなみに息子に似合う歌はBUCK-TICKの「悪の華」。
異論は認めない。
0719奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2009/07/07(火) 07:17:19ID:GkOyyL490720人間七七四年
2009/07/07(火) 08:39:51ID:TyZXxIALそれは認める!
0721人間七七四年
2009/07/07(火) 21:54:35ID:ZJoANcZEガラシャも普通じゃないってことか。
0722人間七七四年
2009/07/13(月) 22:34:44ID:RCNrSw7rしていたり、血で汚れた小袖3日も着ていたという話、読む限り尋常でないよ。
どの話も忠興の方が屈服してるのがスゴイ。
0723人間七七四年
2009/07/14(火) 01:29:17ID:aPFWVcjoガラシャさんの方が怖いw
0724奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2009/07/14(火) 07:49:06ID:KmxNEBwR0725人間七七四年
2009/07/14(火) 21:53:15ID:ngLG7sRV0726人間七七四年
2009/07/15(水) 00:54:37ID:UtWow+gP0727人間七七四年
2009/07/16(木) 23:48:57ID:hD5QDfGz0728人間七七四年
2009/07/18(土) 17:13:41ID:wd121l4k猫に「タマ」って名づけるようになったのは忠興の仕業?
0729人間七七四年
2009/07/19(日) 18:04:05ID:dT47RlR80730人間七七四年
2009/07/20(月) 19:51:21ID:1FjTnpafになってるが、さすがに忠興は無理だろう。
0731人間七七四年
2009/07/22(水) 20:18:52ID:M88p48JE0732人間七七四年
2009/07/22(水) 23:54:01ID:uUpgPrrc0733人間七七四年
2009/07/23(木) 04:03:44ID:ZlB4prFl0734人間七七四年
2009/07/23(木) 23:04:43ID:tAL/B6IO八代市のご当地キャラということで・・・
0735人間七七四年
2009/07/26(日) 09:02:29ID:SF5vE2uW大坂の人質を戦前に国元へ回収してる大名も居たみたいだが。
0736人間七七四年
2009/07/26(日) 19:57:08ID:tONs0K+I忠興は側室がお気に入りでガラシャを嫌ってたって説もある。
だからキリスト教にハマっていったんジャマイカ。
0737人間七七四年
2009/07/27(月) 02:34:49ID:xDxYQIK5つくってみた。
「ただおに君」なんてどうだ?
http://imagepot.net/view/124862962285.jpg
0738人間七七四年
2009/07/27(月) 02:39:53ID:lgcZQcd70739人間七七四年
2009/07/27(月) 10:54:09ID:m1LWXNEl0740人間七七四年
2009/07/28(火) 14:51:40ID:NdaVrJcJ関ヶ原の時はもう38歳で容色も衰えていたので未練もなかった。
若くてキレイな側室(珠子の姪)もいるしね。
0742人間七七四年
2009/08/04(火) 22:47:11ID:lwARIxmd「自分が珠と結婚した時は輿一丁で質素に嫁入りしたというのに、
近頃の家臣ときたらカゴを何丁も連ねてやってきて派手にやっとる」
とばやいていたそうだ。
・・・座敷も6畳しかなかったし。
0743人間七七四年
2009/08/06(木) 02:40:15ID:7zSorO0Qガラシャとも相思相愛で関ヶ原前の悲劇って感じで描かれてて子供心にすげーかわいそうだと思った記憶がある
だからずっと忠興は文化人で超善良な人だと思っていたのに…
最近いろいろ調べてくうちにまさかのDQNっぷりで非常にびっくりだぜ
わが郷里の英雄鬼武蔵のDQNっぷりにもびびったけど
0744人間七七四年
2009/08/06(木) 21:25:37ID:wkDmx2eN右目は完全に見えなくなってたと聞いたような
0745人間七七四年
2009/08/06(木) 23:59:05ID:GlC+4cHW0746人間七七四年
2009/08/09(日) 21:51:16ID:dHXGzLy3入ってたら澄元流京兆家の血筋引くことになるけど
0748人間七七四年
2009/08/14(金) 10:30:07ID:1CrOxWwWガラシャは早くから遠ざけられてるよ。
忠興は明智の娘と言うことで嫌ってたのが事実。
0749人間七七四年
2009/08/14(金) 20:43:51ID:AFBmHg9t0750人間七七四年
2009/08/16(日) 08:21:49ID:aq37sfqx忠興ほどじゃなくても、現代でもいるしな。
0751人間七七四年
2009/08/18(火) 10:20:21ID:gcOw+flP0752人間七七四年
2009/08/18(火) 11:10:49ID:gcOw+flP「ガラシャ米」の宣伝で・・・
0753人間七七四年
2009/08/18(火) 11:42:35ID:N4Dn1WpD0754人間七七四年
2009/08/20(木) 01:27:09ID:kgZj84qH0755人間七七四年
2009/08/20(木) 05:29:50ID:Gwjr+Vye俺の中のパパのイメージ
0756人間七七四年
2009/08/21(金) 03:02:53ID:is79mq/c0757人間七七四年
2009/08/21(金) 17:06:22ID:3gaza3L10758人間七七四年
2009/08/22(土) 05:41:27ID:FNFbsBMK0759人間七七四年
2009/08/25(火) 20:59:29ID:rDcOrnoa0760人間七七四年
2009/08/26(水) 23:25:35ID:fxjGPZkf0761人間七七四年
2009/08/26(水) 23:38:06ID:qyG2VdPv0763人間七七四年
2009/08/27(木) 12:20:12ID:ZJwyOOIk0765奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2009/08/28(金) 05:26:20ID:W8x9cAAr0766人間七七四年
2009/08/30(日) 22:24:00ID:88iesaiP忠興のDQNな面は一切書かれてないので、一般人が勘違いしそうだ
0767人間七七四年
2009/08/30(日) 22:26:17ID:ra7KFnd10768人間七七四年
2009/08/30(日) 22:44:04ID:13xdFaY1シロモチくんの代わりに小堀遠州とか織田有楽斎とか高山右近が載っておれば・・・
政宗につられてページをめくった女子が「誰?この人たち」と回れ右しそうな面子
0769人間七七四年
2009/09/02(水) 22:11:55ID:VhiWnoj/ということは源氏だけじゃなく藤原氏の血も流れてんのか
名門すぎやろ
0771人間七七四年
2009/09/03(木) 00:12:51ID:iUu0rZ0zとはいえ気の毒な人ではある
0772人間七七四年
2009/09/03(木) 02:40:34ID:qvUYf9Xoどんだけ名門やねん
0773人間七七四年
2009/09/03(木) 02:44:53ID:6Fl84H5m0774人間七七四年
2009/09/03(木) 03:01:11ID:qvUYf9Xoアメリカとの戦争には最後まで反対してて、首相を解任されたし
戦後はGHQに協力的でマッカーサから信頼され、憲法作成を頼まれたりしてた
時代に翻弄された可哀想な人生を送った人やと思う
0775人間七七四年
2009/09/03(木) 03:19:10ID:8i2B5J+/有名所だけでも20人くらい入ってた、ってレスをどっかで見たな
0776奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2009/09/03(木) 05:09:50ID:hJLkOdlO・清和天皇以前の皇統+藤原摂関家
・近衛文麿
・細川幽斎
・徳川家康
・加藤清正
・尾張の大足軽木下弥右ヱ門閣下
・織田信秀
・伊達稙宗
・浅井長政
・佐々木道誉
重複して隠れてしまう人物もいるわけで、大変な数になるのは当然ちゃ当然。
これは加山雄三にも当てはまるな。
0777人間七七四年
2009/09/03(木) 09:39:01ID:6BzoqseQそう断定してしまうのもどうかな
細川内閣が成立したときには祖父・近衛文麿とよく比較された(顔も似ているし)
夜中に突然辞職したときには「政権投げて逃げたところも祖父そっくり」と言われてしまったね
0778人間七七四年
2009/09/03(木) 20:56:26ID:UD1S8Zx20779人間七七四年
2009/09/03(木) 23:24:25ID:sEjNGvSG加藤清正はないでしょ。
紀州家に嫁いだ娘には実子はいないし、息子(忠広)の子供の世代で断絶して子孫はいないはず。
浅井長政もないんじゃないのかな?京極家と細川家って婚姻していたっけ?
話は変わるんだけど、熊本の新聞のコラムで、熊本大学永青文庫研究センター特任教授 川口恭子って人が
書いたコラムで、以下のような話を知ったんですが、具体的な内容を知っている人はいますか?
今年春、細川幽斎の出自について学会の話題となった。定説とは違うのではないかというものである。
江戸幕府が諸大名の家系図編纂に着手した寛永18(1641)に細川家へも照会があり、当時存命であった
三斎(忠興)とその妹浄勝院が、細川伊豆・細川刑部少輔の養子であったと答えている。
〔あとは浄勝院(伊也)の紹介なんで略〕
0780人間七七四年
2009/09/04(金) 23:37:49ID:avg4UOfI載ってる「細川幽斎の養父について」by山田康弘の中で
「淡路守護家細川晴広の養子だった」としている件かな?
0782人間七七四年
2009/09/23(水) 23:04:20ID:5AEqH83k藤孝のことを江戸幕府から聞かれたときに、
「えーと、細川伊豆だか細川刑部少輔なんとかの養子とか言ってたとような・・・」という忠興の(適当な)回答が
綿考輯録筆者の「元常も刑部少輔って名乗った時期がある」という主張から
「和泉守護家の元常の養子」説が定着したという内容でした。
補強材料は
・藤孝署名の書状で父晴広ということが書いてある
・細川伊豆の孫熊千代が幕府に出仕したという記録があり、
かたや藤孝・忠興・忠隆と三代続けて幼名熊千代とされている
しかし、「当時(戦国時代)は家系なんて気にしてなかったから、よく判んないよねー」ってのは
太平の江戸時代の人とは、全然違うなあ。
0784人間七七四年
2009/10/11(日) 16:11:09ID:Tf2guOt4名門といっても政元暗殺の後は分裂して抗争を繰り広げていたからね。
それがようやく落ち着いたのは信長末期くらいなわけで。
その混乱期はきちんとした記録が無くてむしろ当然では?
0785人間七七四年
2009/11/17(火) 02:09:48ID:zPEq4zpi0786人間七七四年
2009/11/17(火) 02:59:29ID:2CXzq1MA0787人間七七四年
2009/11/22(日) 10:23:57ID:Jsg9XnGD母方の系譜を辿ると玉子の血筋(忠隆の血筋)ってのはホント?
0788人間七七四年
2009/12/02(水) 16:19:41ID:Ubf6LnFl0789人間七七四年
2009/12/12(土) 22:28:24ID:CruPLWGA0790人間七七四年
2009/12/19(土) 10:38:08ID:pRYLe4kR以前忠興関連の本読んだ時出てきた気がするのですが…
0791人間七七四年
2009/12/19(土) 12:33:54ID:zaQRWFnl忠興は信長本人。お玉(光秀3女を養女にして忠興に嫁がせることもこの時決まったらしい)
藤孝はわかんね
>>790
この時代2人いるけどな。
一人は織田信安。
信勝(信行)を担ぐが信長に敗れる。
その後美濃斉藤家に仕えるが滅んで京に逃れる。
信長に許されて安土総見寺住職。
もう一人は玉甫紹j
京都大徳寺住持。後に高桐院をひらいた
0792人間七七四年
2009/12/19(土) 13:01:02ID:pRYLe4kR忠興はその玉甫って人に育てられたんだっけ?
0793人間七七四年
2009/12/19(土) 13:46:44ID:zaQRWFnlそれなら玉甫紹jの方だ。
彼は藤孝の弟だよ
0794人間七七四年
2009/12/20(日) 16:52:56ID:AUJ5kXOe文句あっか
0795人間七七四年
2009/12/23(水) 18:49:13ID:KIHTYrIp>
>藤孝の弟で忠興の伯父さんにあたる人物で大徳寺の所謂和尚さん
>
>藤孝と忠興が揉めた時仲裁に入ったり歴史的に
>
>あまり大きな事はしてないが細川家を影で見守ってた人
>
>
>
>玉甫和尚は清巌宗渭や名古屋山三郎の僧時代の散禅の師で山三郎は
>
>玉甫和尚の通して藤孝から蓮歌や茶を学んで
早蓮歌と槍の舞を歌舞伎にまで昇華させたって話がある
清巌宗渭も玉甫和尚の後を次いで大徳寺の住職になった
0796人間七七四年
2009/12/25(金) 02:12:02ID:iAEYVfAH関ヶ原後くらいまでは普通に友人同士だよね
0797人間七七四年
2009/12/25(金) 13:30:22ID:DELzB9b2・秀吉時代に加藤・福島が血縁ゆえに大封を得、重要な仕事を与えられていた(と勝手に信じていた)
・加藤・福島は三成の手から婦人救出できたが自分はできなかった(あいつらだけウマイコトやって・・・)
※(救出は可能だったがお玉を人目にさらすことを極端に嫌い、殺して屍骸を残さないように、
部下の小笠原に襖越に槍でお玉を刺し、爆薬で吹き飛ばすように命じた)
・熊本に転封となったが、地元での加藤家の圧倒的人気に嫉妬し、加藤という名を嫌うあまり、嘉明とも絶縁。
部下の中から加藤姓を排除。
といろいろ勝手な思い込みが重なった結果。
ろくな理由じゃないが、嫉妬に気がふれるとなにをしでかすか分からないキティちゃん。
長政も「お前にだけは言われたくないぜ、じゃあな!せいぜい長生きして嫌われろ」と。
0798人間七七四年
2009/12/25(金) 16:29:33ID:7gSwNRxeそこにあげられてるような理由じゃ少し弱いし、 忠興が加藤家はシカトしろって支持出したのは、加藤家改易前だよね
決定的な理由がないなら、反徳川親豊臣色の強い加藤家と距離を置きたい政治的な理由な気もする
前田家(元々利長とは友人同士だったよな)と絶縁した時みたいな
0799人間七七四年
2009/12/25(金) 16:34:00ID:/b2dWkN4忠広期の加藤家は、「改易も止むなし」な雰囲気だったようだし、光広は遊び半分で
変な怪文書をつくったような奴なので、やっぱりそのへんの事情が大きいと思うな
0800人間七七四年
2009/12/25(金) 16:58:01ID:7gSwNRxe高桐院に何かあったし、忠利が熊本に入るときも清正は敬ってるし
0801人間七七四年
2009/12/27(日) 10:34:27ID:MmvD9ABN>熊本に転封となったが、地元での加藤家の圧倒的人気に嫉妬し
熊本で加藤家(つーか清正個人だけど)が神格化されて、大人気になったのは細川時代じゃないかな。
加藤家の旧家臣で、そのまま細川家に仕えた人も結構います。
加藤家が改易になったのを肥後の庶民は喜んだという話もあり、
後世では評価される土木工事も、負担が大きいということで工事中は反発した人もいた。
熊本城の築城も並行してやっているし、重臣達も自分の支城の工事のため、勝手に人員徴発して
清正は度々止めさせようとしている。
清正が朝鮮に出陣して長期不在だったこともあって、元々家中の統制もいま一つうまくいってない。
死後に重臣達の勢力争いから幕府の介入も受けている。
忠興が「肥後の侍が親戚頼って肥後から逃げ出している。国内が何か不穏な状態みたいだ」
と伝聞記事を残している(改易騒動の前に)。
0802人間七七四年
2009/12/27(日) 13:46:34ID:SlaT5LUP加藤家→清正死んで息子も孫も馬鹿だし藩内ごたごたしてるから、関わっちゃだめよ
黒田家→長政pgr 息子も馬鹿でご愁傷さまwww
ってのが、「加藤と黒田は蔑にしとけよ」の意味なのかね
忠興が清正の不作法な性格を苦手としてた面もあるらしいけど
0803人間七七四年
2010/01/03(日) 18:48:47ID:VWY31kUQ主因は幕府対策じゃないかな
細川家は豊臣恩顧じゃないけれど、もちろん徳川譜代ではなく
旧幕臣系または織田系なわけだし
なんといっても明智の関係者だしね
0804人間七七四年
2010/01/04(月) 01:20:54ID:s2MkfjBk自分でわかった上での行動かも試練。
嫁その他のことを抜きにすれば基本ハイスペックな人ですから。
グチや文句付きの手紙をまめに送ってることもあるし。
0805人間七七四年
2010/01/06(水) 01:45:35ID:PJDay/Ie東京でやるんだね
楽しみだ
0806人間七七四年
2010/01/06(水) 10:48:53ID:xLqq2cJZ0807人間七七四年
2010/01/06(水) 11:18:36ID:xLqq2cJZ「地震加藤」の話。
一番乗りは忠興で配下と共に警備に当たっていたところに清正が来た。
謹慎中ということだったが、快く秀吉に面会させた。
世間では一番乗りの自分は忘れられ清正の忠誠心だけが褒め称えられた。
「あの人は殿下の血縁だから」という妬み嫉妬から愚痴がもれた。
0808人間七七四年
2010/01/07(木) 18:30:25ID:Bm8rv/iV0809人間七七四年
2010/01/07(木) 18:51:43ID:H35LL1jY0810人間七七四年
2010/01/07(木) 21:45:54ID:Bm8rv/iV0811人間七七四年
2010/01/08(金) 13:43:04ID:B6IM9ox4・刀の銘々「歌仙兼定」と「晴思剣」の話。
・長政との絶交の一因ともなった関が原の評定や同士討ちの話。
・松山主水暗殺・巌流島決闘の逸話。
一つ弁護するが
「清正の喧嘩下手」は確かに忠興の口から広まったが、これは清正をバカにしたのではなくて、
後年、武将を評価した際に、清正はタイマンではそれほど強くはないが、軍を率いたら右に出るものはいないという、
いわば誉め言葉の中の一つが勝手に一人歩きして後世に伝わったということ。
0812人間七七四年
2010/01/24(日) 18:51:19ID:91cIKkTe森忠政と一緒に向島城に詰めてたはずじゃ
0813人間七七四年
2010/02/13(土) 21:07:07ID:jp2/kzeo幽斎の二男である興元の子孫らしいけど、谷田部藩主の子孫が
土佐の郷士なんてことがあるんですか?
0814人間七七四年
2010/02/13(土) 22:28:48ID:dSLhKErDそのとき三成が家康屋敷に逃げこんだことが誤りである
ことを立証した笠谷和比古という研究者によれば、
忠興も7将に含まれている。
0815人間七七四年
2010/02/13(土) 23:35:38ID:iG8s2w/o七将の三成襲撃は翌1599年。ようするに別件。
0817人間七七四年
2010/02/14(日) 21:57:53ID:aptcMkbjさすがに興元の子孫はありえないと思う。
土佐守護代細川家の子孫じゃないの?
0818813
2010/02/14(日) 23:16:43ID:dn2Qg78n土佐には、池氏など土佐守護代細川家の子孫が他にもおりますし。
しかし、何故わざわざ幽斎の子孫を名乗ったのかなとは思います。
どうも、ありがとうございました。
0819人間七七四年
2010/02/14(日) 23:25:47ID:srR6EBo+本当に細川家と関係がある家なら、郷士のまま山内家に仕えるよりは、
他国に出奔したほうがまともな扱いうけそうだし。
坂本竜馬の先祖が明智氏ってのと同じようなレベルの話なのでは?
0820月孔雀
2010/02/18(木) 07:22:52ID:FS6rgjQd0821人間七七四年
2010/02/18(木) 19:32:32ID:9PD47gK0玉とは美男美女夫婦って言われてたらしいけど
0822人間七七四年
2010/02/18(木) 20:44:42ID:ri1RvtKH細川の血筋がああいう感じなんじゃないの?特に目元とか
0823人間七七四年
2010/02/23(火) 19:45:29ID:wWzhEA7F0824人間七七四年
2010/02/24(水) 13:26:50ID:AsD+d0JY0825人間七七四年
2010/02/24(水) 14:24:03ID:4sSgY6my細川家の家宝展覧会みたいのやってるらしいよ
0826人間七七四年
2010/02/24(水) 17:07:47ID:/ParutP20827人間七七四年
2010/02/24(水) 17:32:04ID:mrja4rg5朝日朝刊に永青文庫の所蔵品展示を東京国立博物館でやるという記事があったけど、それかな。
ttp://www.eiseibunko.com/
忠興に関係あるものとしては、甲冑と、信長直筆とかいう感状の写真があった。
感状は、唯一残ってる信長の直筆ではないか、とか書かれてた。
護煕のインタビューもあったけど、子供の頃から名物に囲まれて育ったらしい。
そうやって培われた審美眼には、庶民では逆立ちしても太刀打ちできそうにないな、と思ってしまった。
0828人間七七四年
2010/03/06(土) 18:39:42ID:/fKWgBhO…良い点と悪い点が見事に釣り合ったと考えればいいのか
0829人間七七四年
2010/03/14(日) 10:50:30ID:BhCLiW8O0830人間七七四年
2010/03/19(金) 13:03:13ID:KNPzfohB0831人間七七四年
2010/03/21(日) 14:30:00ID:pN75hUtkなんとなく幽斎に似てる・・・
0832人間七七四年
2010/03/22(月) 09:24:40ID:/7jfc7fJ林千寿「関ケ原合戦における細川家−その動向と動機」(『熊本史学』76・77合併号、2000年12月20日発行)
0833人間七七四年
2010/03/22(月) 14:45:09ID:WaFpkH8W0834人間七七四年
2010/04/11(日) 02:36:02ID:8WFKVSxX忠興は利休の件もあって良いとは思えないが…
0835人間七七四年
2010/04/24(土) 08:13:23ID:Vo6wOnAt「細川家の4人の殿様」となってたから幽斎と忠興とりあげんのかな?
0836人間七七四年
2010/04/24(土) 10:18:56ID:6Nc0ztfR0837人間七七四年
2010/04/24(土) 10:29:03ID:HzIVuTcp絶対に上野駅まで行くんだけどな。
0838人間七七四年
2010/04/25(日) 00:24:19ID:ZHbg/3Dg(永青文庫のじゃなくて、博物館が持ってるやつね)
0839人間七七四年
2010/04/25(日) 23:53:34ID:ZHbg/3Dg<歌仙拵>展示されてたけど、解説で36人成敗のDQNな話に触れてなかった
のは細川家からストップかかったのかな?
0840人間七七四年
2010/04/26(月) 00:12:47ID:TxL+O1Qb行ってみたいと思っているが、どうなんだろう
0841人間七七四年
2010/04/26(月) 08:25:43ID:lHNfIc+h0842人間七七四年
2010/04/26(月) 09:10:59ID:dwsYqIQI自分はまだ上野には行ってないんだけど。
(年間パスポートを買っているので近日中には行く予定の都民)
展示をやっている2階の、展示室をつなぐ場所で
お土産や該当展示の図録を売る場所が毎回ある。(結構広いです)
展示記念のグッズ(展示物のポストカードとかクリアファイルとか
栞とかレターセットとか・・・そういうモノ)や、
通常売られている東博グッズのほかに
その展示の関連書籍や資料本を売るコーナーはどんな展示でもある。
>史料の通販 の、「史料」が何を指しているのか?
レス面だけではわからないけれど、「展示の図録」だったらば
電話やHPからの注文で購入できると思うけど。
(HPで確認してみて下さい)
0843人間七七四年
2010/04/29(木) 15:14:58ID:8HHdqGh04人というと、あとは江戸中期の重賢とかも考えられるな。
連休中に行くつもりだけど、混むだろうなあ・・・。一昨年くらいに
やった「大徳川展」もえらく混んでたし
それでも、見る価値のあるものがたくさんあるだろうしね。
0844人間七七四年
2010/04/29(木) 21:54:46ID:Q+ObK67n後半日程で展示が一部変わるからまた行く。
0845人間七七四年
2010/05/03(月) 09:39:23ID:2OjyHAf20846人間七七四年
2010/05/03(月) 14:15:12ID:oeKGgXWEないよ。
0847人間七七四年
2010/05/03(月) 19:39:35ID:mvmNJCQo人民裁判対象の科学博物館の方は外まで並んでいたけどな。
0848人間七七四年
2010/05/06(木) 14:03:20ID:nfyQaI5g01:05から50分まで「スタジオパークからこんにちは」ってやつ
質問してるおねーさんがヒドイwなんじゃありゃw
元総理は意外に気さくで感じ良かったわ
0850人間七七四年
2010/05/07(金) 05:15:15ID:6AVChzjuうろ覚えだが
歴史ある名門細川家!
「さぞ厳しく育てられたんでしょうね。何かを強制されたり、人前ではこうしなさいと躾られたり」
「いいえ、無いですね。普通です。私はヤンチャでしたよ」
習い事の師匠をトイレに閉じ込めて破門されたことがあるらしい
細川家と言ったら文武両道!
「細川さんはご自身どうでした?」
「スポーツは好きでしたが(成績悪くて)中学落第しました。弟と一緒に卒業しました」
テストの答案に「ストリップ劇場」と書いて、親が呼び出しを食らったことがあるらしい
呼び出される回数が非常に多くて、教師からの呼び出し用紙が今でも残ってる
後は新聞記者時代の話、政治関連、エリツィンとの対談についてなどだった
親からは新聞記者・政治家のどちらも大反対され勘当された(?)らしい
「お百姓さんの真似事をしております」と言ってたが優雅な隠居生活だった
家は立派で風変わり。デザイナーズのアトリエ?
ご本人は穏やかな喋り方で人柄が良さそう
ジャージ姿で軽トラック運転してた
NHKの選んだ「細川家を代表する芸術家」に幽斎さんはいなかったが山菜さんはいらした
0851人間七七四年
2010/05/07(金) 11:26:55ID:wGctwaPD> NHKの選んだ「細川家を代表する芸術家」に幽斎さんはいなかったが山菜さんはいらした
幽斎さんはあくまで長岡家の人だからな。
0852人間七七四年
2010/05/07(金) 17:05:26ID:6AVChzjuその中から3,4人名高い芸術家(あるいはパトロン)として、山菜さん、?さん、元総理祖父 が選出されてた
日曜美術館の番宣が目的なんだろうが
ゲストの話を聞きたいのか、先祖の話をしたいのかわからんかった
質問してるお姉さんは細川家にも元総理にも興味なさそう
gdgdな質問して、逆にフォローされてた
視聴者からのメッセージは「夫婦円満の秘訣はなんですか?」
山菜さんなら何ていうか想像して吹いた
0853人間七七四年
2010/05/07(金) 23:49:47ID:TzR3DHIk0854人間七七四年
2010/05/08(土) 20:11:30ID:XzxdVPX/0855人間七七四年
2010/05/09(日) 01:35:14ID:DUutHx7j一瞬、山菜って誰とか考えたけけどさ
0856人間七七四年
2010/05/10(月) 22:05:40ID:2Q8JxNIR取り上げるらしい・・・
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2010/0516/index.html
0857人間七七四年
2010/05/11(火) 00:40:50ID:lbgY4m+O0858人間七七四年
2010/05/11(火) 03:22:51ID:vZIdGlA70859人間七七四年
2010/05/11(火) 22:09:24ID:9qja0At6哺乳類展とセットで
0860人間七七四年
2010/05/12(水) 01:09:29ID:NdEXU+Nn0862人間七七四年
2010/05/22(土) 10:31:43ID:x9EAvsXC京都府の舞鶴商工会議所青年部は23日から、戦国武将・細川幽斎のイメージキャラクターのデザインを募集する。
同青年部の発足30周年記念事業で、幽斎の没後400年に合わせ、まちおこしプロジェクトとして企画した。
幽斎(藤孝)は、織田信長に従い、丹後国を治めた大名。舞鶴の田辺城を築城した。嫡男・忠興の妻、細川ガラシャは
悲運の貴婦人として知られる。
締め切りは7月9日。最優秀作品を決めて手直しを行い、9月中旬に完成作を発表、着ぐるみを作ってイベントなどで活用する。
同作品に賞金5万円を贈る。
同市民の作品が対象。23日の新聞折り込みチラシの裏面や、ホームページの応募用紙を、用紙に記載した送付先に送るか、
市内約20か所に置く応募専用ポストに入れる。問い合わせは、同青年部事務局(0773・62・4600)へ。
同青年部のホームページはこちら(http://www.maizuru-yeg.or.tv/)
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100520-OYT1T00330.htm
幽斎のイメージってかなり難しいな。文化人の印象が強すぎるし。
0863人間七七四年
2010/05/22(土) 11:21:47ID:LgAuQUYi0864人間七七四年
2010/05/22(土) 12:53:20ID:gSOmRZ+50865人間七七四年
2010/05/25(火) 13:20:32ID:TO8WBdbZ送ってみたいが絵なんざ描けないことに気がついた
0866人間七七四年
2010/05/26(水) 23:03:59ID:dg+tttQWへうげものの幽斎の顔をプリントアウトした紙を貼るだけでいい
0867人間七七四年
2010/05/26(水) 23:59:13ID:LySigl1W<幽斎らしく品格を持った、かつ親しみやすいキャラというのが条件>
0869人間七七四年
2010/05/29(土) 03:35:26ID:Azb3myd20870人間七七四年
2010/06/06(日) 18:24:48ID:6gU0GxJ6てぬぐいとか)がたくさんあった。製作は「不東」とあるので護煕さんの
会社だね。(黒き猫は売れ筋だと思って作ったのかな)
0871人間七七四年
2010/06/13(日) 22:38:06ID:6TsR7dqh紹介されてる。
(http://www.mitsukoshi.co.jp/hosokawa/history.html)
0872人間七七四年
2010/06/20(日) 08:29:12ID:OdcEmbGY忠興は性格はともかく、三斎流○○と言われるような影響を後世に残しているから文化人でまあいいでしょ。
そのHPで突っ込むべきなのは、”武人”忠利のほうだと思うが・・・。
0873人間七七四年
2010/06/20(日) 11:19:57ID:mAUw7NfN0874人間七七四年
2010/06/20(日) 12:02:24ID:PoEO6tU5敵城一番乗りとかやらかしたことのある忠興の方がよっぽど武人と言えるけど、
そうしたら忠利を表現する言葉が無くなってしまう…。
0875人間七七四年
2010/06/22(火) 06:11:22ID:asPXChji>武人忠利のどこがおかしいのかわからない。
個人的に剣術好きってのが武人なら、徳川家光なども武人になっちゃう。
足利義輝のようなエピソードが忠利にあれば別だけど。
柳生に剣を習ったのは事実だけど、「強かった」とか実際に人を切ったエピソードってあったっけ?
武蔵だって、別に細川家剣術師範ということじゃないからなあ。
0876人間七七四年
2010/07/12(月) 16:56:09ID:CrRzPQ/80877人間七七四年
2010/07/23(金) 14:37:05ID:TOi2ftcA藤孝といい忠興といい超武闘派だよな。
0878人間七七四年
2010/07/24(土) 21:19:09ID:a3y0YfyO0879人間七七四年
2010/07/24(土) 21:44:41ID:AY0aZu2V0880人間七七四年
2010/07/24(土) 21:51:47ID:Ig5ZxJ81ないない、サルの愛人だった年増なんて勃起しません!
ガラシャじゃないとわては勃起しませんがな。
まあ、ガラシャに見せつけるために妾とはやりましたが・・・・・・
そういうことをした後のほうが、二人とも燃えるもんでね。
by 忠興
0881人間七七四年
2010/07/24(土) 23:27:31ID:+W64+YnF大名細川家のよろいの美
開催地
熊本市 熊本県立美術館 細川コレクション 永青文庫展示室
開催期間
2010年7月16日〜9月26日
http://local.yahoo.co.jp/detail/event/i87723/
0882人間七七四年
2010/07/25(日) 20:33:51ID:OpmA7XO90883人間七七四年
2010/07/25(日) 23:32:25ID:MgBMn+D90884人間七七四年
2010/07/26(月) 16:32:59ID:8Iq7y1am0885人間七七四年
2010/07/28(水) 23:42:13ID:PTdMzHzhちなみに自分は「伽羅奢」派かな
あとガラシャ(gratia)はラテン語で恩寵って意味があるらしい
0886人間七七四年
2010/08/01(日) 13:55:42ID:RYA3hixY0887人間七七四年
2010/08/02(月) 11:50:45ID:qtpTJ8A1三災が三斎になった?うろ覚えですいません
0889人間七七四年
2010/08/18(水) 19:39:14ID:BV8EMvo70890人間七七四年
2010/08/18(水) 23:57:33ID:mMS23L8r菅貫太郎
0891人間七七四年
2010/09/08(水) 18:34:50ID:UOlBBVA/0892人間七七四年
2010/09/26(日) 21:11:10ID:nGtkutNW0893人間七七四年
2010/10/03(日) 09:50:26ID:JCYnETLL藤孝に譲りたくないから、伝来の家宝をお寺に寄進しちゃったってエピソードは聞いたことがある。
結局江戸時代に肥後細川氏が買い戻して現在に至っているけど。
だから養子の件が元常の意向ではなかったとか、養子になった後の藤孝と折り合いが悪かったということはあるかも。
養子取ること自体は、実子がいてもたくさん例があることだから、実子がいても不思議じゃないと思うけど、
藤孝の弟にあたる人物がいたのなら、血統はつながらなくても細川家臣として家自体は残していそうな気がする。
藤孝とはっきり対立したならかえって当時の記録に残りそうだし、いても夭折したとか出家したんじゃないのかな。
0894人間七七四年
2010/10/15(金) 04:48:01ID:V9obNzK+0895人間七七四年
2010/10/30(土) 20:35:42ID:TAWhib+k小倉時代に徳川幕府旗本に取り立てられたけど
0896人間七七四年
2010/12/03(金) 06:27:58ID:TVuo5z8Y0897人間七七四年
2010/12/04(土) 18:45:22ID:eeIdlP/d0898人間七七四年
2010/12/23(木) 18:52:19ID:LPX36yhx忠興主人公で…。
0899人間七七四年
2010/12/24(金) 18:03:52ID:TT9ngMFr0901人間七七四年
2010/12/26(日) 02:28:12ID:VoMKPKuW典厩家細川藤賢の子孫なわけないか
0902人間七七四年
2010/12/26(日) 16:46:39ID:xjrZ55iZコラム「歴史を動かしたふたりの秘話」は「義昭と細川藤孝」だった。
0903人間七七四年
2011/01/01(土) 16:04:46ID:PLKrOQWw血縁上は関係なかったという説が有力になっているらしい。
近江佐々木一族の大原氏から出た高久が、将軍義澄側近となり、
有力一族の細川苗字を与えられたもの。
藤孝は高久の子、晴広の養子だから、
辻褄あわせかも知れないけど、
忠興は奥州家輝経の養子になったことになっているのかな。
そもそも和泉半国守護家の養子というのは何の根拠もないらしいし。
そういえば、長岡から細川に名前を戻したのも、
輝経の養子になったことと関係あるのかな。
藤孝は細川に戻してないんだっけ?
0904人間七七四年
2011/01/01(土) 16:39:15ID:nSd6dCnF三淵晴員が和泉細川出身なんだから血縁はあるだろ
0905人間七七四年
2011/01/01(土) 16:54:57ID:PLKrOQWwでも和泉守護家の養子ではないというのは電波でもないよ。
0906人間七七四年
2011/01/02(日) 14:29:18ID:LeMGfruQ0907人間七七四年
2011/01/02(日) 17:44:05ID:pIbqbGKa0908人間七七四年
2011/01/04(火) 11:39:09ID:xADjmup9これがキーワードだな、ググったらあちこちのHPに同じフレーズが出てくる。
どっかの本にある元ネタの文章を、あちこちに書いてるんじゃないかな。
六角氏スレに書き込んで盛り上げてくれればいいのに。
つーか、佐々木支流の人間が足利支流の細川名字を貰うことが名誉なのだろうか?
また「細川名字を貰う(新しい家を興す)」と「淡路守護家を継ぐ(養子or再興)」は意味が異なると思うけどなあ。
細川高久と細川晴広という人物の親子関係の根拠はあるの?
あと三淵氏と藤孝の血縁関係がなければ、細川家中で問題になるでしょ。
三淵氏は江戸時代の細川氏の上級家臣として存続しているんだから、藩主の家との関係で待遇とか家格が違ってくるし。
0909人間七七四年
2011/01/04(火) 13:56:10ID:BWeemrym0910人間七七四年
2011/01/04(火) 20:39:43ID:GqR3IPwC0911矢田
2011/01/04(火) 23:21:31ID:ZieuDTM1奥州細川家を忠興が継承したのは奥州家が下守護家の継承権をもっており、数年後隠居する藤孝行
から上守護家の名跡を継承することで和泉家を統一するつもりであったとの説を見たんだがどう思う。
個人的には元が違う上、和泉からは祖父の代に追い出されているし違うと思うが。
またWIKIなどに書かれている肥後細川は奥州家、谷田部細川が和泉家って展開どう思う。
三淵の子孫は旗本じゃないの?
0912人間七七四年
2011/01/05(水) 00:14:04ID:/4UfSOed>肥後藩に庇護された旧室町幕臣&名門の家柄ってどんな家柄がいます?
ttp://www.shinshindoh.com/
ここの侍帳を見るとか。
カテゴリの「肥後細川藩 戦国武将の裔」 ってところに少しは旧幕府系の人の名前が出ています。(戦国武将中心なんでちょっとだけ)
>上守護家の名跡を継承することで和泉家を統一するつもりであったとの説
上守護家と下守護家は同じ細川氏内で家系上特別な関係でもない
(元々一つの家が持っていた守護職を分けてニ家になったわけではない)から、
別に統一するって発想は出てこないのでは?
0913人間七七四年
2011/01/09(日) 08:26:40ID:Od8kNuNH0914人間七七四年
2011/01/13(木) 14:01:41ID:JVmQudpJそれがダメなら藤孝を誅すべきだ、と義昭に主張したといわれている
0915人間七七四年
2011/01/18(火) 02:39:47ID:MGqt4KRE?
偶々ウィキで戦国自衛隊みたら藤孝が謀反起こす設定だった
0916人間七七四年
2011/01/18(火) 14:06:52ID:tmIuh8IVそういう意味では小早川秀秋や前田利家同様歴史の舵を切ったひとりだな
0917人間七七四年
2011/01/18(火) 14:13:35ID:dkW6Osgz細川が明智方になれば、筒井も味方確実だしな。
0918人間七七四年
2011/01/18(火) 15:15:02ID:prxIGdxbそうなると秀吉・信孝・長秀・恒興だけじゃ苦しい。
柴田の合流を待つしか方法が無さそう。
0919人間七七四年
2011/01/18(火) 17:54:07ID:YHkDXdLr藤英藤孝兄弟の祖父に当たる元有の代に和泉からは追い出されて、藤孝は油泥棒と化しているのに
0920人間七七四年
2011/01/18(火) 19:58:32ID:np6Nr7QE>>918
何で丹後一国の小大名が味方についたくらいで、筒井以下の連中が「明智が勝つ」って思って味方になるんだ?
0921人間七七四年
2011/01/18(火) 21:05:10ID:pz1uKazQ0922人間七七四年
2011/01/18(火) 21:49:15ID:y4owNe9q0923人間七七四年
2011/01/23(日) 01:09:42ID:iHnSrqgJ藤孝の養父って元常じゃないだろ。
0924人間七七四年
2011/01/24(月) 15:04:04ID:12NuCrQN否定論はまだ山田康弘氏だけの主張じゃないのか
0925人間七七四年
2011/01/25(火) 12:15:35ID:8UmAgnHi私「金運うPのために伸ばしていたパイ毛が抜けていた!ショック」
夫「お前の乳を揉んでパイ毛を抜いた不届き者は、**か? XXか?」
私「ちょwwwそれ、会社の使えないから氏んで欲しい人。パイ毛関係ナイ」
夫「理由がないのに頃したら殺人鬼になるし。お前の乳触ったら頃していいし」
私(鬼武蔵と三斎様のDQN思考の違いはこれかー)
今のところ、私が伴天連寺に通っても侍女の鼻は無事です。
0926人間七七四年
2011/01/29(土) 23:37:23ID:LLSwQSTb肯定する客観的な根拠がないんでしょ?
0927人間七七四年
2011/01/30(日) 00:07:32ID:M367PzmL0928人間七七四年
2011/01/30(日) 00:27:38ID:UE6I4pkA0930人間七七四年
2011/03/12(土) 10:27:03.37ID:0Dz0Jkuf0931人間七七四年
2011/03/16(水) 12:21:16.00ID:bJ4nFZ5T0932人間七七四年
2011/03/20(日) 09:33:34.12ID:2AA4rZLg0933人間七七四年
2011/03/20(日) 17:15:52.75ID:53kQIJvR直臣として残れた肥後谷田部三淵は和泉系だし、京兆は三春藩士でしょ
0934人間七七四年
2011/03/20(日) 20:46:35.98ID:uEraXK9N0935人間七七四年
2011/03/27(日) 13:37:28.83ID:krstTaR/いちゃもんのような理由で嫡男廃嫡してその面倒も見ないわ、せっかく助命を許された次男を切腹させるわ
どちらも愛するお玉ちゃんとの間に生まれた実子なのに
そうかと思えば独裁者秀吉の不興をこうむるかもしれんのに千利休に会いに行ったり
信長が亡くなってから55年過ぎても老体で炎天下のなか墓参りに行っている
わからんお人だ。。。。
0936人間七七四年
2011/03/27(日) 20:59:38.49ID:POkwaxSV愚痴っぽくて子供みたいに自分の感情むき出しにする人間くさいところがある
性格が複雑すぎてよくわからない
型にはめられないよ この人は
0937人間七七四年
2011/03/27(日) 22:14:44.95ID:krstTaR/信長も一向一揆で皆殺しにして「すげーすっきりした」と手紙に綴るかと思えば
秀吉の浮気を愚痴るねねさんに対してとても優しい励ましの手紙を送っている
でも個人的に蒲生氏郷より本質的には忠興の方が優しい人気がするんだけどね
0938人間七七四年
2011/03/27(日) 23:42:04.51ID:nrWfzJin同じガラシャとの間に生まれた子でも、忠利に対してはものすごい量の手紙で大事小事問わず
くどくど説教(?)しまくる一方、忠利が危篤に陥ると普段からは想像もつかないほどに動揺する。
それにしても、事あるごとに(身内・幕府要人問わず)気を使いまくる忠利の性格の形成は
やっぱり両親が共に激しい性格だったというのが大きいんだろうか。
0939人間七七四年
2011/03/27(日) 23:58:35.88ID:BNFcnGTxある意味屈折してしまったものがあるんだろうな
若いころなんて才能に嫉妬しまくってただろうし
0940人間七七四年
2011/03/28(月) 02:08:59.79ID:sogaNqhA父に冷遇された思いが積もりに積もったんじゃないのかな?
0941人間七七四年
2011/03/28(月) 12:29:48.81ID:kDEVpq5N0942人間七七四年
2011/03/31(木) 08:58:43.53ID:1QHRXU3Q足利義輝の命による
この養子縁組は系譜上だけのもので、その後も親父と一緒で領国も継いでいる
0943人間七七四年
2011/05/01(日) 20:32:46.11ID:MacFLEOm0944人間七七四年
2011/05/03(火) 22:09:38.07ID:GiUWgUGo事実上、足利幕府を滅亡させた元凶。
0945人間七七四年
2011/05/03(火) 23:54:36.20ID:UwhUna53勝竜寺城って、義輝時代は藤孝の居城だったんだっけ?
0946人間七七四年
2011/05/04(水) 13:23:55.45ID:KfWkM4NC0947人間七七四年
2011/05/04(水) 13:43:58.23ID:os+Zr2U7教養人の幽斎が特に英才教育したわけでもないのに武将として頭角を表しているし。
0948人間七七四年
2011/05/04(水) 14:57:52.43ID:RRZmZpnA0949人間七七四年
2011/05/15(日) 19:21:25.10ID:00XT2cVl祖父の代に和泉追放されてから代々の居城では
0950人間七七四年
2011/05/16(月) 15:37:51.44ID:RJH8U350いや信長が三好を追い払ってしばらくしてから藤孝に与えてるはず
義昭が挙兵した時におそらく三好に再奪回されてる。
義昭追放後に再度奪回したが。
0951人間七七四年
2011/05/16(月) 16:22:10.41ID:h4OPlAOb藤孝が初じゃね
0952人間七七四年
2011/05/17(火) 03:01:22.61ID:ljKTZZWF0953人間七七四年
2011/05/17(火) 12:42:01.35ID:Y1en8qK1細川藤孝
長岡好重
玉甫
好重の妻が藤孝娘なんだゆな
0954人間七七四年
2011/06/01(水) 21:32:48.42ID:05bKv18h政宗とかいろいろと登場しそうだし。
0955人間七七四年
2011/06/01(水) 21:42:29.43ID:uVIifZ+b0956人間七七四年
2011/06/01(水) 23:54:39.58ID:BGXzuNAQ0957人間七七四年
2011/06/08(水) 15:52:02.60ID:fUbMTpy4学研の『細川忠興戦記 本能寺将星録』読んだ。
シュミレーション戦記だけど、面白かったよ。
登場人物は蒲生氏郷、津田信澄、千宗易あたり。
敵方は秀吉、如水の他に高山右近。
忠興とガラシャがやたらと仲睦まじい(w
忠興ミニ信長っぽく描かれてる。
山崎の合戦で光秀に味方して明智が勝つ。
直後に光秀死ぬけどね。
0958人間七七四年
2011/07/16(土) 00:13:21.94ID:1mhhLTId0959人間七七四年
2011/07/16(土) 20:07:10.98ID:Dpvaor8y木造長政
氏家朴全
松野義孝
0960人間七七四年
2011/07/24(日) 00:28:01.44ID:/vZu0QPh松井さんは?
0961人間七七四年
2011/07/24(日) 11:00:44.24ID:0xf+HFup0962人間七七四年
2011/07/24(日) 12:09:55.63ID:gdbYtRXt0963人間七七四年
2011/07/24(日) 13:15:44.06ID:WvtOzQmJただ息子の逸話は映像化するのは不味くないか
0964人間七七四年
2011/07/26(火) 00:41:16.25ID:ju+xhlI0熊本細川が系譜上、細川奥州家の末裔で
矢田部細川が和泉半国守護細川家の末裔というのは王道だと思うよ。
肥後熊本細川藩の祖、忠興が実父藤孝とは同じ細川といえども家が違うといっているのだから
意見を差し挟む余地は無い。
ある意味で(足利尊氏に反抗した)細川奥州家は細川家の内で最強の家柄なんだし。忠興好み
の家系だとも言える。基本的には細川家は源氏の一流というだけで、足利の家来では無いんだ
し。奥州家を名乗るかぎりは将軍職任官もめざせる。
0965人間七七四年
2011/08/01(月) 08:02:00.14ID:1944Fe6R奥州家が特別ってわけもなかろう。
0966人間七七四年
2011/08/02(火) 14:33:57.99ID:lr5r6NgA> 基本的には細川家は源氏の一流というだけで、足利の家来では無いんだ
> し。
細川は足利一門だぞ?家来よりももっと服従義務があるわ。
0967人間七七四年
2011/08/02(火) 19:15:28.73ID:i67sdWv8「一門」は斯波氏、吉良氏、渋川氏など
細川氏や仁木氏は足利惣領家に取って代われるような家柄ではないよ
0968人間七七四年
2011/08/03(水) 01:46:56.76ID:Z4lK3hT+0969人間七七四年
2011/08/06(土) 23:05:01.49ID:tidTvBUU御一家、御一門、ご親類衆みたいな
0970人間七七四年
2011/08/07(日) 07:48:04.76ID:Cc5kxRJ4儀式などで呼び出されるとき○○殿と、敬称つけて呼ばれるとか。
0971人間七七四年
2011/08/14(日) 03:32:01.44ID:M5RDWn+Bその為、矢田系は御家人でなく足利宗家の家臣扱いで席次は高階一族以下
また忠興の奥州家発言は親父への反抗な気がするんだが忠利以降の子孫はどっちを名乗っているんだ?
0972人間七七四年
2011/08/14(日) 08:47:33.46ID:g/KwkMFF全然違うだろが。
たとえば加賀前田家は徳川と親類になるけど、徳川一門とは言わないだろが。
0974人間七七四年
2011/08/15(月) 21:41:04.79ID:vYOXz3w9武田みたいに分けないところもあるけど
0975人間七七四年
2011/08/16(火) 12:22:11.72ID:phspESli先祖が同じ=一門じゃないよ。
血縁・婚姻関係などで当主と関係が深ければ一門扱いだけど、
ずっと昔に分かれた家なんかは時代が経つと家臣扱いになる。
逆にもとは別の家でも、功績を挙げて当主と同じ苗字をもらって、一門やそれに准じた扱いを受ける例もある。
徳川でいえば同じ松平の苗字でも、親藩(将軍・御三家の一門)と譜代は立場が違う。
譜代は大名でも、あくまで徳川家の私的な家来だから、徳川家の家政を司る老中などに就くが、
親藩の家は親類である将軍の使用人じゃないから就かない。(幕末などの異常事態のときは除く)
0976人間七七四年
2011/08/16(火) 18:43:45.77ID:SX122kkf『 将軍を支える執事職には、足利一門の仁木頼章が任じられていたが、尊氏が死去すると
間もなく出家して、執事職を退いてしまった。後継の執事に誰を任命するか、世間の注目が集まる中、
義詮が選んだのは、同じく足利一門の細川清氏だった。』
山田先生は細川氏を足利一門と言ってるぞ?
0977人間七七四年
2011/08/16(火) 22:10:03.57ID:phspESli>山田先生は細川氏を足利一門と言ってるぞ?
その本を読んだわけではないけど、そこで言われている足利一門ってのは
土岐・京極・赤松などの諸氏に対する足利一門って意味で使っているんじゃないのかな?
他のレスで出ている幕府内での格式とか待遇としての一門ってことではないと思うが。
土岐・京極なんかは鎌倉時代は守護などの幕府の役職に就いて、官位を貰うような上級の御家人でいわば足利氏の同僚、
その連中を家来扱いして執事にできるほど足利氏の権力が他の家より突出していないってことを言っているのでは?
0979人間七七四年
2011/08/17(水) 20:48:17.82ID:Lrm5Sx6y0980977
2011/08/17(水) 21:54:37.91ID:FxYkUl5Jいや、細川氏は血統的に足利一門であるってことを否定している人はこのスレにいないでしょ?
一門であるってことを踏まえたうえで、他の足利一門などの違いなどを話しているのに、
>山田先生は細川氏を足利一門と言ってるぞ?
とか言いだすほうがおかしいだろ?
0983人間七七四年
2011/08/18(木) 03:03:27.43ID:X07mezNxこれは血縁近い一色や加古に対しても同様
話は変わるが日向畠山や斯波流石橋のような有力庶家の分家の方が本家の妾腹の分家より立場高そうなのは気のせいか
0984人間七七四年
2011/08/18(木) 03:25:43.33ID:padE+F+1└義国┬義重(新田)
└義康(足利)┬義清(仁木・細川祖)
├義長
└義兼┬義純(畠山・岩松祖)
├義助(桃井)
└義氏┬長氏(吉良)
├義継(吉良)
└泰氏┬家氏(斯波)
├兼氏(渋川)
├頼氏─家時─貞氏┬高義
├相義(石塔) ├尊氏
├公深(一色) └直義
├義弁(上野)
├堅宝(小俣)
└基氏(加古)
0985人間七七四年
2011/08/18(木) 03:28:00.13ID:padE+F+1渋川は南朝の攻勢にさらされて九州で没落
斯波は家臣の台頭によって没落し、石橋は斯波の奥州入部に追従して家臣化
仁木は南朝、
室町末期まで残ったうちの連中を再編すると、
一門 斯波=吉良
家臣 細川、畠山
格下 一色
中間 今川
今川の家格が微妙なのは、
了俊の活躍と駿遠の地盤に加えて、吉良一門である毛並みの良さがあるからと思う
消去法で行けば家格中勢力を保ち得たのは今川だけだし。
0986人間七七四年
2011/08/19(金) 00:46:09.77ID:5pB6PQ//0987人間七七四年
2011/08/19(金) 18:04:53.93ID:jqemyVhN0988人間七七四年
2011/08/19(金) 18:58:22.69ID:6PlvbARm0989人間七七四年
2011/08/20(土) 00:52:53.55ID:HuF8mB8yレス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。