秀吉は賤ヶ岳の戦いの戦勝祝いを関東の武将から
もらったのに対し、太田、結城、多賀谷に返礼を出しているのだが、
文面はどれもまったく同じものになっている。
つまり三者とも同等の武将としてみているわけで、
この時点では多賀谷は結城の陪臣とは思っていなかった様子。

その後の7年間で多賀谷が結城家臣と認識するようになったのは
なぜなんだろう?