お、まだ書き込める。のでまとめて。

秀吉初出の「永禄六年〜」には前半後半ある、みたいな話はあまり聞かないけど
あのあたりはどうなんだろう、後半は義昭時代のもの、というの。
あの解釈はどうなんだろうかって。

ほんで、逆に考えて、信長ー光秀、光秀ー家康が会った証拠がない、というのならそれこそ
「いつ密談したか」とツッコまれるけど、そういう事実はあるのですよね。
家康もずっと岡崎にいた、のならともかく、12年ぶりだったかで上京した事実はある、とこのあたりは
史料的根拠とは言わないけど、辻褄合わせる上でのそれなりの根拠にはなってるような。

春日局の件でも、謀反人の関係者を将軍が孫の乳母にする、というのは正史?でどういう
解釈かわからないけど、「一種の恩返し」とすればつじつまは合ってるような。
もちろん秀吉の件も。

こういうのは全く疑問に思わずにスルーしてしまうと、それまでなんだけど、
つじつまあわせ、ってのはそういうことで。

たぶん推測するに、専門的な方は史料的に確認できないことは最初から「問題視もしない」
という感じなんだろうだけど、こっちはシロウトだもんで「どうして」と思うと
それなりにつじつまあわせたくなって。

「子孫本のどこがつじつまあっってんの?」という質問はそういうことかと少し考えてみた。
のですよ。

結論だし、確認はしようがないけど、「信長が家康を暗殺計画、それを逆に光秀が信長を討った」とすると
信長があの日無防備でいたのも理解できるような感じで。家康が京に来る当日に起きた、とかギリギリの
タイミングとかも。
ま、ヨタなのはともかく、つじつまがあう、というのはそういう意味で。