【本能寺の変】明智日向守光秀【山崎の戦い】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/28(木) 19:58:46ID:EjRn4TJ6明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代、安土桃山時代の武将。
通称は十兵衛。
父は明智光綱のほか、明智光国や明智光隆の説もある。
さらに信長に仕えるまでの前半生には不明な点が多いが、
明智軍記では美濃明智城主として斉藤道三に仕え、その没後は諸国を遍歴したとされる。
-------wikipedia---------
0767人間七七四年
2010/11/04(木) 21:24:43ID:OcNqeEaKhttp://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai
0768人間七七四年
2010/11/05(金) 08:57:25ID:fsB23AnHまだ藤本本読んでないのだけど、反論がそれだけというのはちと弱いきがする。
滅多に無いお祝いの席だから、普通でない、ことがあってもおかしくはない。
重要なのは、信長光秀、光秀家康、が直近で実際に会っていた、という事実ではないのかな。
この記録がないと「証拠をだせ」ですんでしまうけど、実際に機会があってその詳細まで伝わっている、というのは相当に重大なことだと感じる。
光秀としては命がけの問題だし、なんとか「密談の機会を作った」というのはあるかもしれない。
もちろん推測でしかないのだけどね。
>>765
そうそう、そこまでは信長ー家康の関係はものすごく良好だし暗殺なんてありえないとは思うのだけど、あの信長だから「豹変」というのはあるかもね、とそこを再検討してみたいということで。
信長ー家康不仲の可能性が合ったとしても、そこを拡大解釈して子孫説を正しいとは結び付けたくは無いけど、子孫説否定の根拠としての良好説がゆらぐ、というのはこれでまた大事じゃないかなって。
0769人間七七四年
2010/11/05(金) 08:59:54ID:fsB23AnHそそ、イエズス会のヤスケの話はあまり聞かないけど本当なの?
これはかなりの重大事件だとは思うけど。
それとヤスケは少し日本語がわかった、と記録にはあるよ。
0770人間七七四年
2010/11/05(金) 17:18:37ID:RxuBwHjg憲三郎氏の本は話を難しくしてないか?
細川家やヤスケのことなどは説得力があるんだが。
軍事的に見れば三河武士団のしぶとさと強さは
その昔一向宗門徒として家康にまで逆らったように「宗教」性にある。
織田家とはそこが違う。
あらためて信長は三河滞在中、三河武士団の結束力と忠誠力を実感したのではないか。
だからたとえ家康以下を討ち取っても第二の「石山本願寺」が出現するだけ。
つまり信頼関係以前の軍事的計算力が信長になければおかしい。
早い話が息子か孫を強引に跡取養子として送り込めばいいだけ。
そのための徳姫だったはずだが。
そこはあてがはずれたというのが信長の思いだったんじゃないのか。
憲三郎氏は話を込み入らせている。
本能寺の変の真相はもっと単純。
信長の光秀の「蹴倒し」。
そこにすべてがある。
0771人間七七四年
2010/11/05(金) 18:15:16ID:J0nNMZxL何故今になって取り上げられてるんだ?
藤本の本で触れられたからか?
昨年はあまり取り上げられなかったと思うけど。
0772奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2010/11/05(金) 22:20:41ID:OPF7Mo740773人間七七四年
2010/11/06(土) 10:32:23ID:PjEv63eO最初はマルチみたいなのが多くて敬遠されてたような。
ほんで、おそるおそるその内容をやっと語れるようになったかも。
12月に藤田も変わった感じの新刊出すってね。
0774人間七七四年
2010/11/07(日) 20:15:09ID:WytnDLHM大事なのはヤスケが「蹴り倒し」の目撃者だったということ。
そのことで十分。
信長と光秀の間に変直前にかなりの緊張関係があったことそれが大事。
名前は忘れたがある研究者によれば「四国問題」はもう決定済みでいまさら
光秀も蒸し返すようなことはしなかったろうという。
というより軍事的な機微に触れるようなことではない。
それはその後の信長の行動に示される。
もし光秀が何らかの軍事的作戦に異を唱えたら
信長は当然光秀の行動を監視し警戒を怠らなかったはずだ。
いくら信長が戦場から遠ざかり政治的になってきたとはいえだ。
軍人・武将感覚はそこまで落ちてはいないはず。
そこに「信長の油断」はない。
ましてや朝廷を脅すとか害するとかまたは家康暗殺とかの
密談ならいくら日本語を知らないヤスケといえども遠ざけるはず。
残るのは「斉藤利三問題」だけ。
0775人間七七四年
2010/11/08(月) 00:40:32ID:J2Fd1oEh密談の時はさすがにヤスケでも遠ざけたのだろうけど、足蹴、とかドタバタしたぐらいのことがわかるぐらいのとこにはいたのかな。
四国問題、だけど、決定済み、とまではいかないんじゃないかな。ちょっと結果論のような。
光秀としては懸案事項で、信長や回りから見ると決定事項でも、光秀から見ると最後の最後まで少しでも変更にならないか、という思いがあったというのは普通でしょう。
それか細かい点で光秀にとっては不満な点があったのかもしれないし。
あの信長に口答えしただけでもすごいことだし、信長からの重大な密約の要請があったからその見返りとしてつい、四国政策の見直しを、と言ってしまったのかもしれない。
どっちも重大事件だしね、光秀からすると。
で、利光問題、ってなにか教えてくださいまし。
0776人間七七四年
2010/11/08(月) 11:34:06ID:fHiNvJGm>信長に口答えしただけでもすごいこと
佐久間信盛の折檻状を読んだことがあるか?
何年も前の朝倉攻めのとき、信盛が
「そうおっしゃっても、我らほどの家臣はなかなか持てないものです」
と口答えしたことが追放の1つの理由にあげられている。
もう少し勉強しな。
0777人間七七四年
2010/11/08(月) 18:53:39ID:trjjZSiP信長「利三は稲葉一鉄の家臣だったそうじゃないか。もうそろそろ返してやれよ」
光秀「いやしかし」
信長「イラッ」
こんな感じ。
0778人間七七四年
2010/11/08(月) 22:59:48ID:6RX9usWZもっと深刻だったんじゃねえの?
切腹寸前までいったんだと。
それをどうにか信長側近の猪子兵助の取りなしでようやく助かったとか。
それも本能寺の三日前。(猪子兵助は本能寺で死亡)
それに斉藤利三はただの謀反人の家臣じゃない。
来年の大河ドラマお江のライバルお福(春日局)の父親。
そういえばドラマでお江は光秀に「あなたはなぜ伯父を殺したのですか?」と聞くそうだ。
やれやれ。
今から予約しておくこと。(笑)
そういえば大原麗子の『春日局』では光秀が五木ひろしで利三が江守徹の豪華メンバーだったな。
しかし磔になってる利三のシーンはあってもなぜ信長に背いたかまでは触れられなかった。
そこが肝心なのに。
偶然のなかで神(君)の意志がどこまで働いていたのかどうか?
0779人間七七四年
2010/11/08(月) 23:51:35ID:OTE89revだから、追放される、というのはすごいことでしょう。
別に、信長に口答えする、というのがすごくない、というのならともかく、同じことを言ってるだけだと思うけど。
>>777
ふむ。変直前にはちとうまく行ってなかった、という根拠にはなってるわいな。
利三というと、謀反随一也、がよく取り上げられるけど、あれは黒幕説に結び付けられるものじゃなくて、利三の働きを褒めたもの、ぐらいでいいのかな。
そういえば藤田の「証言〜」は子孫本と似た部分がいくつか感じられるけど、影響はうけてるのかな。桐野はともかく、堀新とは仲悪そうだな〜。
お江はいつ光秀に聞くの?ノベライズにそういうシーンでもあるのかな。
0780人間七七四年
2010/11/09(火) 06:01:08ID:QeTBe+tL0781人間七七四年
2010/11/11(木) 02:37:40ID:DUE0glwh「馬揃えの儀」=<信長は光秀軍の京での閲兵を予定していた>
この単純な仮説ひとつで本能寺の変のすべての謎が解ける!
光秀「野望説」「ノイローゼ説」「復讐説」その他すべての「黒幕説」。
答えはただひとつ。
黒幕にして即実行者「斉藤利三暴走説」あるいは「独走説」。
利三の信長への大いなる「殺意」。
長宗我部家とは光秀以上に縁が深い。
当日は四国遠征軍の渡海の日でもあった。
無論なんといっても上記の「切腹騒ぎ」がある。
信長のことだまたいつ振り返すかわからない。
だからといって光秀が利三をかばってくれるのも
あの安土での「信長の蹴り倒され」が限界。
そういうことで悶々としていたある日信長の使いがきた。
「今回の馬揃えは中止」
今光秀は愛宕神社参詣で留守である。
「よしこれだ!」
利三は馬揃え中止の使いを握りつぶす、ただそれだけでよかった。
これが光春かその他の重臣ならすんなりと伝えられたはず。
なんのことはない。
「本能寺の変」は偶然の上に偶然が重なっただけである。
かくて利三は戻ってきた光秀に「かねての手はずどおり京にて馬揃えとのこと」
そう報告すればいい。
かくして光秀軍の先頭を行く利三の姿。
本能寺では十人程度の完全武装の部下でいい。
相手は素っ裸同然である。
十数分の戦闘ですべてが決着した。
(以下次号)
0782人間七七四年
2010/11/11(木) 03:18:03ID:Jl/+qLeH家康もメチャクチャアヤシイ
信忠の堺同行を断って京都に残留させたがために
結局織田が潰れたわけだし、伊賀越えも事前準備説の説得力がある
0783人間七七四年
2010/11/11(木) 18:59:06ID:SfrKXaQMおん大将に物申す!
武田ぁ攻めでのご折檻!
くがわ様接待不首尾のお怒り!
0784人間七七四年
2010/11/12(金) 15:34:26ID:dXy0TlWz坂本竜馬の暗殺の謎とくらべると本能寺のほうが気楽だな。
竜馬暗殺は時代が近いこともあり類書を読むほど気が重くなる。
その点信長は安心だ。(笑)
竜馬と信長は「革命家」とするなら日本史はその革命家を生かさない。
その謎も興味はあるがあくまで暗殺のみに限ると全く違うことがある。
片方は死体が残り片方は死体がない。
「本能寺の変」の諸家の本を読むと通説としての「信長公記」がベースだが
異説として死体は阿弥陀寺の僧が引き取ったとある。
この辺のところは小説にもテレビ化もされてる(たとえば『信長の棺』)。
英雄の最期らしくかっこよく炎に消える。(できすぎ?)
最近の研究によれば「桶狭間の戦い」での『信長公記』の記述の正確さはが改めて見なおされた。
確かに『信長公記』は第一級の史料であることは変らない。
しかし最後の最後「本能寺の変」は太田牛一の創作。
それもかなり意図的。
そう「斉藤利三信長暗殺説」者としては思う、この頃の日和。
(以下次項)
0785人間七七四年
2010/11/12(金) 17:28:41ID:egcPmLYH>あの信長だから「豹変」というのはあるかもね
子孫さんの本には引用されていなかったが「老人雑話」に興味深い記述がある。
『信長は長谷川秀一に「家康を堺見物に案内せよ」と命令した。実は隙をみて家康を害する謀だった。
家康は運が強く、本能寺の変によって岡崎に逃げ帰ることができた。明智の謀反が無ければ家康の
命は危なかった。』
著者の江村専斎は下京の町衆で本能寺の変当時は18歳であった。
専斎にとって本能寺の変は強烈な体験だったようで、本能寺の変に関してはいくつかの逸話が紹介さ
れている。
同書は覚書で1次史料とはいえないが、こういった噂が流れていたであろうことは想像できるな。
もっとも、子孫さんの本は「家康と信長の関係」と「家康と光秀の密約・信長と光秀の陰謀」の両者をご
ちゃまぜにしている点で破たんしているが。
0786人間七七四年
2010/11/14(日) 03:04:43ID:oivq+DGY0787人間七七四年
2010/11/14(日) 08:51:23ID:A9PvCZdc0788人間七七四年
2010/11/15(月) 08:51:16ID:a6LwApCM0789人間七七四年
2010/11/15(月) 14:19:57ID:M4xEzsBW3行にまとめてということだが、早い話が「馬揃え中止命令の未達」と「斉藤利三暴発説」との連係。
それこそ御子孫氏が泣いて喜ぶ光秀完全無罪説。
もっとも問題はその後の光秀の行動。
長くなるから書かないが山崎の戦いまでの光秀が「腑抜け」状態だったことの理由にもなる。
竜馬暗殺が歴史の必然なら本能寺の変は偶然の所産と云えよう。
0790人間七七四年
2010/11/16(火) 16:54:17ID:T+qm7vQ0そして!
帝を自らの膝下とする所業!
赦しがたし!
天と神々に代わり!この惟任日向守光秀が………
0791人間七七四年
2010/11/16(火) 17:02:31ID:7L6Susgn0793人間七七四年
2010/11/17(水) 00:59:33ID:dYceaNm80794人間七七四年
2010/11/19(金) 16:15:12ID:wcBG2n0b子孫本だけど、藤本の反論で「機密漏洩をどう防いだか」というのがあるけど、大化の改新でもカキツの乱でも鎌倉でも、当事者が現場までノコノコ来て暗殺されてるでしょう。
ごく一部のものだけで共有してれば、ふいんきを察知出来なかったり極秘にしておくのは十分にありえるのじゃないかな。
細かいけど、当日の朝家康が京に向かった、というのは、まさにその時に変が起きていた、というのを知っていたのかな。
藤本がよく言うけど、信長が無防備だったのも、京に来たのもたまたまなら、実行は出来なかったことになる。
しても、警備が多くて失敗してたら家康の立場も危ないかもしれない。
もし警備が多かったり、家康と信長が合流してたりしたらどうなってたんだろう。
家康は、信長とは別のところに宿をとるだろうから、騒ぎが起きたらすぐ脱出、という感じだったのかな。
しかし、末端の兵なんかはわからないから襲っちゃいそうだし、そうなっても家康は精鋭揃いだから自信はあったのか。
子孫本を否定するには、当日ギリギリのピンポイントのをタイミングをどう解釈していくか、そういう矛盾点をつくのが明解な気がする。
後から解釈だから、いろんな点をうまく説明できてるとは思うのだよね、大返しとか家光母のの問題とか。
0795人間七七四年
2010/11/19(金) 21:05:48ID:h+OKyfzA「本城惣右衛門覚書」からも分かるな。
家康を討つという嘘をつけば、本能寺を攻めることが可能な訳だから。
0796人間七七四年
2010/11/19(金) 21:20:26ID:7t3WIvrm>そういう矛盾点をつくのが明解な気がする。
子孫さんの本で2次史料ながら証明らしきものがあったのは「信長が家康に害意を有していたこと」
たったそれだけ。
その他の論点は史料の裏付けのない氏の想像・妄想を書き散らしただけでしょ。
そもそも氏の論証に1次史料の裏付けが皆無である以上論証が成立すらしていないので、矛盾点を
つくまでもないよ。
0797人間七七四年
2010/11/19(金) 21:31:07ID:igKV3jAL0798人間七七四年
2010/11/19(金) 21:38:14ID:WQxOhVYY0799人間七七四年
2010/11/20(土) 02:44:49ID:n4KXD2rtもちろんそうなんだけど、学会じゃないんだから、そうやって否定しては面白くない。
推測とはいえツジツマがあってる部分が多いから、そういう点の矛盾とか不可能な点とか、そういうのをツッコんでいくのが2ちゃんらしいかと。
だもんで藤本の反論はちょっと弱いというかそれこそ「〜だったろう」でどちらとも取れるような感じ。
ま、藤本、谷口、藤田、が専門家かというとまた違う話になるけどね。
そういえば、三鬼御大が東大の山本をかなり厳しく批判してたよね。あれのその後とか知らない?
研究者としての姿勢をあれだけ厳しくつっこむというのもなかなかのもんだった。
0800人間七七四年
2010/11/20(土) 11:59:52ID:PWZJostQ0801人間七七四年
2010/11/20(土) 20:41:56ID:uq/C9GSn谷口を挙げてるが、先月出た
「織田信長家臣人名事典」第2版を読んでみな。
7500(抜き)と高いが、あれだけの事典書けるのは相当なもんだぞ。
だからといって本能寺論も正しいとはならないが(自分はおおむね賛成)。
0802人間七七四年
2010/11/20(土) 23:56:11ID:i0s4jKqWだが内川や細川程度で信長に仕えると失敗できないわ、一流の実力もないわで
気が気じゃないだろうな、実際に林や丹羽みたいなのが追放されてるし
0803人間七七四年
2010/11/20(土) 23:59:35ID:DCmSzMIW0805人間七七四年
2010/11/21(日) 07:42:37ID:djycgRLi>推測とはいえツジツマがあってる部分が多い
子孫本のどこが辻褄合ってるのか分からんが、仮に子孫がいう通り信長が家康領侵攻を計画していたとする。
そして、子孫のいう富士遊覧も敵領の現地踏査だとするととすると、家康排除後に徳川遺臣との合戦を円滑に
すすめる準備をしていたわけだ。
しかし、これは家忠日記天正10年6月3日条の次の記述と矛盾する。
「家康と同行していた酒井忠次から松平家忠に、家康が帰国次第、西国に出陣する旨が伝えられる。」
要するに徳川軍に戦の支度をしろって命令だな。この記述は変についての記述の前に書いてあるから、「西国」と
は毛利家のことになり、西国出陣の大将は信長だから命令したのは信長になる。
もし子孫の仮説を前提にすると、家康死亡で指揮の低下した遺臣をさくっと攻略したいはずなのに、徳川軍に戦闘
命令を出してわざわざ攻略の手間がかかることをしたという矛盾がある。
子孫本のどこがツジツマ合ってるか具体的に指摘できんなら、この与太本取り上げるのはもう止めにして。
>>803
丹羽氏勝は追放されたで。
0806人間七七四年
2010/11/25(木) 00:33:30ID:YqZTvPlO> >>796
> もちろんそうなんだけど、学会じゃないんだから、そうやって否定しては面白くない。
学会じゃなきゃ何を言っても否定はされないと考えるお前の感覚は完全におかしい。
0807人間七七四年
2010/11/25(木) 21:19:56ID:Z7LtvQ3N0808人間七七四年
2010/11/25(木) 21:29:41ID:Z7LtvQ3Nアク禁でうまく書き込めない。せっかく日記教えてもらったのだけど。
簡単で悪いけど、もし信長が寸前まで情報漏えいを防いだ、とするなら
用意周到という意味で、自分に不利な命令を出すというのもあったんじゃないかな。
家康と重臣さえ暗殺してしまえば残りは簡単、というのもあったろうし。
0809人間七七四年
2010/11/25(木) 21:34:57ID:Z7LtvQ3Nおお、成功。
で、つじつまがあう、というのは春日局重用、というのはどうだろう。
公家さんたちの日記改変、とかも謀反の存分、というのはまさにそういう光秀の裏切りのこととか。
他にも、信長の情報は取っておきながら長男のことを知らなかった、というのはいかにも「織田家殲滅
目的ではなく信長個人が最大のターゲット」というようにも思える。
まぁ、いかにも辻褄あわせだから、後から語ったものが有利なんだけどね。
生暖かく叩いておくれ。
0810人間七七四年
2010/11/25(木) 21:39:58ID:Z7LtvQ3N「読者を軽視しすぎではないか」「立場を勘違いしてないか」みたいにかなりのものだった、と思った。
>>801
いや、みなさん、独自の専門分野のある先達で尊敬しております。
>>800
つい筆がすべったというか、正体がでたというか、ね。
0812人間七七四年
2010/11/25(木) 21:59:23ID:K34eHT6j同感やな。
確かに「柳営婦女伝系」春日局の項目で「斎藤利三の伯父が光秀だ」って書いてあるが、利三の母は蜷川氏・妻は
稲葉氏で光秀と利三の血統上のつながりは確認できない。むしろ利三と濃密な血縁にあったのは長宗我部氏。
家康黒幕説の根拠に「春日局を家光の乳母に登用した」というのが必ず挙げられるが、抜擢すれば黒幕といえるの
であれば明智遺臣の木村吉清を30万石の大大名に抜擢した秀吉も黒幕になるのかね?
0813人間七七四年
2010/11/25(木) 22:24:57ID:Z7LtvQ3N斉藤は家臣にしかすぎないのだけど、重臣、という意味では光秀にかなり近くないだろうか。
利三黒幕とか、そそのかした、とまでは言わないが、光秀側の理由が四国問題としたら、変に
かなりのところで関わっていた、というのはそんなに間違ってないような。
で、秀吉の明智遺臣抜擢、も事後処理の時点では関わっていた、というのでどうだろう。
細川あたりがこっそり可能性をもらしていた、というのも一種の「つじつまあわせ」になるような。
大返しの話まで行くとスレチっぽくなってしまうけど、100%寝耳に水の変、というよりは
秀吉ならではの危機管理能力、で対応できた、そこには「さすが秀吉」ですますのよりも
「万が一の想定はしていた」とするほうが山崎までの一本道でつながりやすい。
もちろんつじつまあわせだから、なんとでもいえる、というのはそうなんだけど、子孫本がどうこうより
全部つなげて考えたほうが「つじつまはあう」と思うこともあるのだよね。
これは「史料根拠がない」から「正しいとはいえない」のだけど、あくまで辻褄、話があうかどうか、論理的な
矛盾点があるかどうか、そういう点でお聞きしているわけでね。
それと、家康黒幕、とは思ってない。あくまで光秀単独裏切り、ってところ。
だから家康から見て「変の直接関係者の親族を重用」ってのは、まだ軽い恩返しぐらいとは思う。
あの時点では260年も続くとはさすがに誰にもわからないわけだし。
0814人間七七四年
2010/11/26(金) 00:35:53ID:XFYuAb64秀吉初出の「永禄六年〜」には前半後半ある、みたいな話はあまり聞かないけど
あのあたりはどうなんだろう、後半は義昭時代のもの、というの。
あの解釈はどうなんだろうかって。
ほんで、逆に考えて、信長ー光秀、光秀ー家康が会った証拠がない、というのならそれこそ
「いつ密談したか」とツッコまれるけど、そういう事実はあるのですよね。
家康もずっと岡崎にいた、のならともかく、12年ぶりだったかで上京した事実はある、とこのあたりは
史料的根拠とは言わないけど、辻褄合わせる上でのそれなりの根拠にはなってるような。
春日局の件でも、謀反人の関係者を将軍が孫の乳母にする、というのは正史?でどういう
解釈かわからないけど、「一種の恩返し」とすればつじつまは合ってるような。
もちろん秀吉の件も。
こういうのは全く疑問に思わずにスルーしてしまうと、それまでなんだけど、
つじつまあわせ、ってのはそういうことで。
たぶん推測するに、専門的な方は史料的に確認できないことは最初から「問題視もしない」
という感じなんだろうだけど、こっちはシロウトだもんで「どうして」と思うと
それなりにつじつまあわせたくなって。
「子孫本のどこがつじつまあっってんの?」という質問はそういうことかと少し考えてみた。
のですよ。
結論だし、確認はしようがないけど、「信長が家康を暗殺計画、それを逆に光秀が信長を討った」とすると
信長があの日無防備でいたのも理解できるような感じで。家康が京に来る当日に起きた、とかギリギリの
タイミングとかも。
ま、ヨタなのはともかく、つじつまがあう、というのはそういう意味で。
0815人間七七四年
2010/11/26(金) 08:54:45ID:e3wUhhHHこの言い回しにはある種のバイアスがかかっててヘドがでるね。
第一に利三は徳川家にとって「謀反人」ではない。
第二に春日局は遺児になったあと公家の三条西家で教養を身につけ、夫の稲葉正成は関ヶ原で小早川家を
東軍につけた功労者。
「春日局の教養と前夫の徳川家への功績を考慮して将軍が孫の乳母にする」
こう言い換えたらどう?
0816人間七七四年
2010/11/26(金) 09:07:34ID:e3wUhhHH蒲生氏郷の伊藤半五郎宛書状、惟任謀反記、翁草を読んでみ。
特に「惟任謀反記」は信長もボロクソに描いている秀吉マンセー本だが、その書物ですら利三の武勇・人格
は称賛されている。だからこそ光秀も訴訟覚悟で稲葉家から引き抜いたんだろうね。
家康が同様のリスペクトをしていても不思議ではないよ。
0817人間七七四年
2010/11/26(金) 18:14:18ID:WJd/mw3H天正10年以前に光秀と家康が仮にどこかで会っていたとして、
その頃から2人が「信長討ち」で談合していたとでも
いいたいの?
そんなことあるわけないだろう。
いつどちらかが心変わりして信長にチクるかわからない。
そうしたら片方のクビが飛ぶんだぞ。
0818人間七七四年
2010/11/27(土) 03:07:07ID:ccN72JZy将軍家の乳母としては問題ないくらいに)、光秀云々は春日局が乳母になった経緯には
まったくもって関係ないと考えていいんじゃないのかな。
高名な武将を輩出した家柄、三条西家で培った教養、夫の功労というあたりで考えたほうがより妥当だと思うな。
0819人間七七四年
2010/11/27(土) 18:52:46ID:3WZcsTC4なので、直前に会ったという記録、の話ですよ。直前だからこそ秘密も守れるわけだし。
>>815
うん、一応以前にも聞いたことはある。
ただ、織徳同盟というのは破棄されたわけでもなく、当事者信長の死によって中断?されただけでしょう。
だから、第一の「徳川にとっての謀反人ではない」というのは、100%言い切れないのではないか、同盟相手の
謀反人、というのも織徳同盟がかなりの長期実績もあった堅固なもの、に近いとするなら
十分に意味のあるものではないか、というのを聞いたことがある。
なので、そんなにバイアスというかヘドが出るほど「結論ありき」ではないとも言えるんじゃないかと。
逆に、「教養と功績があってもそれより、主殺し、という信義にもとる行為の方を重要視して
乳母には選びにくい」という考えもあるのではないか、という風に話が進んでいった記憶がある。
818さんが言われるように、乳母になった経緯、が子孫本で言う「恩返し100%」とも言えないけど、
謀反と100%関係ない、ともまた明確には言い切れないのではないか、という感じね。
妥当、かフィフティ、ぐらいで。
そして、子孫本の一番弱点というか重要というか、信長ー家康の関係。
これは長年の同盟とは密接に関係するから、詳しい人に「信長が家康を暗殺する可能性」
がどんなものか。
家康側の史料で「織田家をどう思ってたか」とかそういったのが気になってたんだ。
もちろん徳川方が「ナガシノやアネガワは徳川主戦」とか信長を軽視してたのはわかるし
だったら、「よく同盟なのに主のように威張ってた信長をやってくれた」とそんなおかしな
「恩返し」の意味はなかったか、とかね。
どっちかというと、信長は家康を「武田をやっつけた」と感謝してるぐらいだと思うし、事実そうやって
接待してるし、「暗殺」したくなるほどの理由があったのか、とそういう方向でまとめてはみたいような。
0820人間七七四年
2010/11/27(土) 19:03:44ID:cjgAdQWk手を打つはず。
織田・徳川同盟堅持なら、信長の孫の秀信を取りつぶしには
しないはず。
こうやって粗がボロボロ出るんだがね。
まずあんたはまともな研究書を読んだほうがいい。
0821人間七七四年
2010/11/27(土) 20:26:30ID:qzLspR3E彼は以前に別の本能寺スレで朝廷黒幕説を主張してた人。
反論を聞く耳持たない人だから彼の中で「つじつまが合ってる」限り何言っても無駄だよ。
以前も>>806みたいな批判があったが馬耳東風だったもん。
0822人間七七四年
2010/11/27(土) 20:36:26ID:3WZcsTC4それもよく聞くけど、ガラシャや秀信ってのは1600あたりのまだ徳川家が政権とる前の
話でしょう、違ったら悪いが。
だからそのあたりはまず自分の一族が大事で、その後、政権がしっかりしてくる、孫まで生まれた
と、そのあたりになってやっとほとぼりがサメたというか、そういう「行為」をする余裕ができた
、みたいなのはどうだろう。
実際に徳川安定期には織田家はそれなりに残ってますよね、過度に大事にはしてないけど
豊臣滅ぼしてカタキはとったぞ、程度の。
あ〜いえばナントカで悪いけど、それなりにメチャクチャな時代考証無視はしてないはず
なんだけどね。
通説はそれなりには納得してるし反論とかじゃなくて、「粗が出た」といわれるような事柄が
全然別なところで話題になってたりして、「へ〜、そんな解釈もありか」とか思ったりしてて。
「つじつまがあう」とは個別の案件というより、そういうつなげてみて面白かったし、一度詳しい人に
聞いてみたいと思っただけなんですよ。
それと、まともな研究書、ってのは三鬼とか橋本、浅尾、池、堀、その他教えてもらって目は通した
ことあるけど、他にどういうのがあるんでしょう。
よかったら教えてほしいですね〜、自分でさがせ、と怒られそうだけど・・
0823人間七七四年
2010/11/27(土) 20:43:57ID:3WZcsTC4違うよ〜〜、立花とかの話でしょう、違いますよ〜、いくらなんでも。
それと、シロウトでちゃんとしたところで聞けないから、頭下げてペコッ、教えてほしいな、って。
何を言っても、とか、時代考証無視、史料のいいとこ取り、とかそんなおおげさなことじゃなくて、
シンプルに、論点整理して聞いているだけです〜・・
別に通説批判や学会批判してるわけじゃないので、生暖かく、がいいのですけどね〜。
0824人間七七四年
2010/11/27(土) 20:49:12ID:cjgAdQWkその研究者のなかに本能寺の変についての単行本を出してる人が
まったくいない。
だいたい近年信長研究で有名な谷口克広が入ってないのは
どういうわけ?
桐野作人「真説本能寺」(学研M文庫)
同「だれが信長を殺したのか」(PHP新書)
谷口克広「検証本能寺の変」(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)
鈴木眞哉・藤本正行「信長は謀略で殺されたのか」(洋泉社新書)
藤本正行「本能寺の変」(洋泉社歴史新書)
こういったところを読めば本能寺の変が「謀略事件」だったか
どうかわかるはず。
0825人間七七四年
2010/11/27(土) 20:59:03ID:3WZcsTC4ありがとう。一応読んでます。
で、「謀略」とか「黒幕説」じゃないのですよ。そして、そういった本の中の疑問を
ここで質問してるわけです。
最後の藤本本の疑問は最初に少し書いたのですけどね。
以前に、本能寺だけでなくもっと全体から勉強しろ、と言われたので。
反論を聞かない、とか、そんなことはなくいろいろな人に言われたようにしてるのですけど。
0826人間七七四年
2010/11/27(土) 21:18:38ID:qzLspR3Eそうなの?ま、どっちでもいいが。
>ただ、織徳同盟というのは破棄されたわけでもなく、当事者信長の死によって中断?されただけでしょう。
変後の甲斐国は川尻秀隆の生前から家康の名で勝手に知行安堵の書状を国人に発給している。
これは同盟中断のレベルではすまんだろうが。
>「教養と功績があってもそれより、主殺し、という信義にもとる行為の方を重要視して乳母には選びにくい」という考えもあるのではないか、
乳母に選ばれたのは家康の生前でしょ。
そのような儒教的順逆史観がその時期にコンセンサスを得てたのかな〜
松平清康を殺した阿部弥七郎は謀反人そのものだが、彼の父の定吉は従来通り仕官してたな。
主殺し、という信義にもとる行為の方を重要視してなかった証拠になるね。
0827人間七七四年
2010/11/27(土) 21:58:24ID:3WZcsTC4なるほど。もう少しわかりやすく言って、変後の同盟というのは有名無実、という
感じでいいのかな。
変直後から秀吉と遺児、家臣たちとの抗争が始まったわけだけど、家康は「うまく共倒れてくれればいい」
という感じで。小牧での秀吉との直接対決では織田家に味方するのが大儀名分になったわけだけど、家康から
見たらもちろん、徳川家が一番でそのために利用できるものは何でも利用、という。
順逆史観、というのもどうなんでしょうね、あの時期は一族が一番大事で、その維持のためには
個々の命とか名誉とかそういうのは軽く考えられていたようなことが多いですよね。
やっぱり利用できるものはなんでも、というか。
思うのは、謀反とか裏切りみたいなケースでも個々の事情というのはあったんじゃないか、というような。
つまり今で言うなら、情状酌量の余地はある、時は裏切り者でも許したり味方にする。
ただ、そうじゃない時、例えば直接関係者、は厳しくあたる、というような。
話し戻して、神君伊賀越え、の時に家康たちは光秀ー斉藤関係者によって危機に陥った。
とするなら、斉藤の遺族というのはやはり徳川からみて一種の直接的なウラミツラミの対象の相手、
というのもあるとは思うのですよね。
ただ、そんなことは戦国では些細なこと、それよりも局さん自身の能力の方を高く買った、とするのも普通ですよね。
当時の乳母の条件一般、乳がでること、とか、そういうのも今後覚えておきます。
順逆史観については一般論を踏まえた上で、当時は各個人がどのように考えるものか。
これも考えておくようにはします、コンセンサスね。
どうもありがとう、感謝です。
0828奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2010/11/28(日) 03:54:30ID:73OCXV290829人間七七四年
2010/11/28(日) 14:43:35ID:2qFAfW0S長宗我部家臣と親戚だったり、長宗我部に負けて本州に渡ったけど親戚は四国に残ってますとか
幕臣にも四国と縁のある人物が多いし、丹波衆も山城に出て交易してた家がたくさんあるし
人脈辿ると四国―畿内―美濃の交易に携わってる人物が多い
0831人間七七四年
2011/01/02(日) 11:56:23ID:hmwjN7SA0833人間七七四年
2011/01/07(金) 17:40:01ID:mj2xLmS0どういう意図だったのかね。当時にあった、主君におめおめと手打ちにされる
よりは反逆して返り討ちにするぐらいの気概なきゃ武士じゃねぇ、という考えからなのか、
或いは光秀をそもそも叛逆者と思ってなかったので出た言なのか。
0834人間七七四年
2011/01/07(金) 17:56:45ID:ND0YTlapとか
0836人間七七四年
2011/01/09(日) 16:50:23ID:T14Xa9Djhttp://www.geocities.jp/geniulegend/yours.html
0837人間七七四年
2011/01/10(月) 19:33:37ID:sHZO6Tsj戦国人物伝 明智光秀
http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1102998666
0838人間七七四年
2011/01/10(月) 20:06:41ID:/V1aW37H古いけど名著だと思うが。
0839人間七七四年
2011/01/10(月) 20:12:53ID:sHZO6Tsjまだ火の鳥伝記文庫しか読んでないw
0840人間七七四年
2011/01/28(金) 21:32:41ID:HrgDaO63>解釈かわからないけど、「一種の恩返し」とすればつじつまは合ってるような。
不思議で仕方がないんだが
なんで春日局が4男3女の末っ子だってことを誰も指摘しないんだ・・・?
「恩返し」が成り立つかどうかなんて
春日局の兄や姉の人生を並べれば一目瞭然だろ。
0841人間七七四年
2011/01/28(金) 22:09:01ID:oUX5ocwa0842人間七七四年
2011/01/28(金) 22:28:01ID:2B58RMaIみつ、あやこ、りんこ
いったい誰のネーミングセンスなんだろうか
0843人間七七四年
2011/02/03(木) 19:39:21ID:GwAAYKP00844人間七七四年
2011/02/03(木) 19:49:57ID:xlclxR050845人間七七四年
2011/02/03(木) 20:42:34ID:+9rfzbMnそれを言うなら毛利元就とか宇喜田直家なんかどうなるって話しになるな
0846人間七七四年
2011/02/12(土) 10:19:23ID:ckGHMDhP名の出典はどこだろ?
0847人間七七四年
2011/02/12(土) 12:41:16ID:4kz2Ny9vまあ名前の横に「?」なんてついてるから怪しい所だが
0848人間七七四年
2011/02/13(日) 09:57:39ID:rinFnhJSちょっと興味があって調べてるが、鬼日向・笹の才蔵・木俣守勝くらいしか出てこない。
もっと居ても良さそうなもんだが…
0849人間七七四年
2011/02/13(日) 10:10:23ID:SjLqhuhk0850人間七七四年
2011/02/13(日) 11:31:34ID:vnFbSaaW光秀の年齢は、子供たちの年齢からすればやっぱり五十代半ばを超えないというのが一番自然に思えるけどなあ
0851人間七七四年
2011/02/13(日) 11:47:20ID:HfkTjDmr山崎合戦で戦死してない奴は、ほぼ再仕官したとみて良いのでは?
高齢だとそのまま隠居かもしれませんが。
>>850
55歳説も越後騒動の小栗美作の辞世から採られたものだし、何とも言えないね。
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Orion/6291/nazo/jisei.html
家系維持を最優先する武将が、30代半ばまで男子無しは珍しい気もするが……。
0852人間七七四年
2011/02/13(日) 22:57:23ID:QUkCQxSz0853人間七七四年
2011/02/15(火) 04:37:36ID:K2o3kDn9妙な奴だよなぁ
0854人間七七四年
2011/02/15(火) 04:58:01ID:STc4wb/o0855人間七七四年
2011/02/15(火) 11:01:10ID:NmImKMb0朝廷や本願寺とかから批判されてウツになったから
わざと近習だけで宿泊して、光秀に攻めさせたんだけど
それを悪用したのが秀吉だ。
0856人間七七四年
2011/02/15(火) 11:02:10ID:NmImKMb0光秀がボコられたのと領地召上げされたのって
定説なの?
0857人間七七四年
2011/02/15(火) 11:27:55ID:roOygjy4ボコは寸前に安土であったみたい。
ただ信長はあーいう人だから家臣がボコされたからといって
いちいち謀反起こしてたらきりがない。
それに寸前のことだから積年の恨みということにもならないし
怨恨説はやはり弱い。
それより別のとこで67才説は1−9でありえない
と言ってる人を見た。そんな年では戦場を渡り歩いてる頃に
できたはずがなかろうってね。
学会がどうって言ってたからそうなのかね。
0858人間七七四年
2011/02/15(火) 12:08:12ID:uCBb3cHn細川藤孝宛の書状に、「信長には積年の恨みがあった」とちゃんと書いてあるじゃねえかボケ!!!
0859人間七七四年
2011/02/15(火) 12:11:26ID:MMMet+KYそれは単に細川を味方に引き入れるために書いたことで、本心かどうかわからない。
でも、俺も怨恨説を指示する。内に溜めるタイプの人は、寸前で爆発するもの。
光秀がそうだったと思う。
0860人間七七四年
2011/02/15(火) 12:35:32ID:roOygjy4もう少し光秀の人生というか長いスパンで判断したほうがいいとは思う。
細川書状に、積年の恨みがあった、って書いてあったっけ。
0861人間七七四年
2011/02/15(火) 12:57:06ID:3q3kgmBB0862人間七七四年
2011/02/15(火) 12:57:07ID:EMUQ/9X/なったことも要因の一つだったと思うよ。
0863人間七七四年
2011/02/15(火) 13:05:46ID:TcHp5jUk>いちいち謀反起こしてたらきりがない。
いや謀反起きまくってたじゃんw
でも信長以外に重臣にも血の気が多い武将なんて居たっけ?
0864人間七七四年
2011/02/15(火) 14:39:16ID:roOygjy4忠臣蔵と勘違いしてるんじゃないか。
レキジョさんたちはやたら、誰にも野心や怨恨はあった、とか
それに火をつけた黒幕がいたはず、とか言ってるね。
荒木とか松永にも黒幕がいたことになっててビビったぞ。
0865人間七七四年
2011/02/15(火) 14:56:57ID:MMMet+KY部下の総数の多さから相対的に謀反数が多く感じるだけではないでしょうか
0866人間七七四年
2011/02/15(火) 15:24:27ID:Je5exri9http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/078f4162.0400bdaf.078f4163.d5699732/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f3734356%2f%3fscid%3daf_ich_link_mail&m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f11574204%2f
光秀は黒幕に操られて謀反を起こしたと信じてる奴は↑読め
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています