光秀自身が、豪語しているではないか、「50日〜100日で近国をしたがえる」
と。(細川への手紙)
 実際に、本能寺後、10日ほどで、光秀は近江や若狭の国人衆を配下に組み入れ、
筒井も一端は引き入れた。(秀吉接近を知って、後に引き返して裏切ったが)
 光秀に勝算はあった。100日内に畿内を抑えて大大名として自立できるはずだった。
 本能寺後、滝川軍は解体、四国遠征軍は内紛、川尻は配下の反乱、柴田は苦戦。
譜代の少ない、秀吉軍も解体する可能性が大きかった。配下の国人は、秀吉の家臣
ではないのだ。しかし、この頃の秀吉は、運と力量が絶好調で、短期間に国人達を家臣にして
戦国大名として自立した。
秀吉の奇跡的な成功によって、後世の人間は、光秀のチャンスと秀吉のピンチを
見失った。