貿易収入だったはず

wikiより
土地柄、稲作がほとんど不可能であった為、肥前国の飛び地をのぞくと実質的には無高に近い。
対馬国と朝鮮の釜山に倭館をもち、朝鮮との貿易を生業としていたため、実質的な収入は多かった。
しかし江戸時代末期になると、肝心の朝鮮との貿易がふるわなくなり極度の財政難に陥った。
また、この頃には周辺海域に欧米の船が出没するようになり、この地の守りを重要視した幕府は宗氏を河内国に10万石(20万石説もあり)で転封する計画を立てた。
しかし、宗氏は中世からのこの地の領主という誇りがあり、家臣もこの地に根ざした特殊な生活を保っていたために、せっかくのこの申し出を断ってしまった。

当初は肥前国内一万石を併せて二万石格であったが、幕府は朝鮮との重要な外交窓口として重視し、初代義智以来、対馬府中藩を国主10万石格として遇した