50人で上洛はマジですよ。
「上杉年譜」等では5000人なんて人数になってますが
時期から推測すると5000も連れて行くと本国がほとんどカラになる計算になります。
天正3年の軍役帳でさえ武将36人、兵数5192人の記録があり、永禄年間になると
越後全土の軍役はさらに少ないと考えられる。
「上杉年譜」などは川中島の一騎打ちも謙信ではなく、荒川伊豆とされており、
大将の単独行動を恥じ、また一国の主の上洛が50人では少ないとして
後世に体裁着色された可能性が高い。
「続応仁後記」の戦中なれば供の者わずかに50余人というのが
有力と考える。
「上杉年譜」をまるまる信じてる人が多いのはちょっとガッカリです。