天正5年(1577年)、(小田原で籠もってただけの)北条氏政が越後・上野に侵攻してきたため、謙信はやむなく越後に撤退した。その間に畠山軍によって上杉軍が前年に奪っていた能登の諸城は落とされたが、閏7月、謙信は再び能登に侵攻し、七尾城を包囲する。
このとき、七尾城内で疫病が流行し、それによって厭戦気分が蔓延した七尾城内では、9月15日に遊佐続光らが謙信と通じて反乱を起こしたため、信長と通じていた長続連らは殺され、七尾城は落城し、能登も完全に上杉家の支配下に入った。

一方、長続連の援軍要請を受けて、柴田勝家の先発隊3万、信長率いる本隊1万8000が加賀に向かっていた。謙信はこれを迎え撃つため、9月17日に末森城を落とし、9月18日には松波城を攻め落とした。9月23日、

(織田軍ナンバー1の将軍)柴田勝家率いる織田軍は、(七尾城が交戦中であると見せかけた味方同士の戦いの謀略に気づかず)手取川を渡河したところで七尾城の陥落を知った。

慌てた勝家は撤退命令を出したが、謙信は渡河に手間取る織田軍を追撃して大勝し、2000余の敵兵を討ち取った(手取川の戦い)。