再び長文スマソ
>>769
>言われた事せっせこやる、官僚のトップ的な奉行職が諫言するかしないかという点で
>論点になるのもおかしいのかと、それを言ったらどっちかっていうと、大老の方が罪が重いんでは?

豊臣政権が基礎の固まって完成された官僚組織であれば>>769の言うことは正鵠を射ていると思う。しかし戦国の気風を
残し不安定な政権だったと言う事で考えれば唐入りの時点での大老はまったくあてにならないんじゃない?

五大老で唯一秀吉に恩義を感じるとすれば父の直家が死んだ時に幼童で秀吉に保護してもらった宇喜多秀家だけでしょ。
家康は秀吉に必死にお願いされて家来になってやったとしか思ってなかったろうし前田利家は織田家の同僚で利家が一方の
物頭だったときに秀吉は信長の馬前の走卒だった。毛利輝元にしてみれば秀吉が椎任光秀を討つ時に助けてやり恩を売って
やったとしか思ってなかったろうし唐入りの時点で五大老の一人だった小早川隆景も同様。

ましてや毛利と小早川は毛利本家の養子に木下秀俊を押し付けられそうになりあわてて分家の嗣子小早川秀包を廃嫡して
木下秀俊を小早川秀秋としてを小早川家の養子にしてる。毛利も小早川も鎌倉以来の名家でありこれに土人の血を入れて
名跡を継がせると言うのは屈辱を通りこしていたはず。

そうなると豊臣家の柱石になるのは秀吉子飼いの大名達しかおらず五奉行の中では浅野長政、石田三成、増田長盛しかいない。
ここで福島と加藤を叩く根拠とされている忠義論で行けば秀吉の子飼い大名であり肥後半国24万石を与えられ唐入りの
先鋒大将であった小西行長は豊家の御為であれば事実を申告して国力を削いで大名から下々までの恨みを買った豊臣政権の
愚策を諫言すべきであったし五奉行筆頭にして唐入り総奉行 近江佐和山19万4000石を与えられていた石田三成も同様。

小西はもちろん石田も第一次唐入りで碧蹄館や幸州山城の戦闘で一手の大将として働いているわけだから他の大名と同じ様に
国力を無駄に疲弊させた唐入りの無謀さはよくわかっていたはず。

だからこそ至急に停戦を実現化しようと思ったのだろうけれども秀吉に対しては小西・石田は明から和平交渉を持ちかけて
きたと報告しそれを前提に秀吉は講和の条件を出している。これは明らかに主君を誤認させ政策を誤らせる行為である。
しかも明側の窓口の沈維敬はもともと明の官吏でも朝鮮の官吏でもない一旗組の無頼の徒でこの交渉のどさくさにまぎれ
て遊撃と言う官位を漁官している。
その証拠に50日間の停戦期間中に明軍の総司令官 宋応昌は軍を平壌近郊に集結させ文禄2年1月5日に部将の李如松を持って
総大将とし小西が守備していた平壌を攻撃させ小西の第一軍は死者1,600余名を出して敗退。