>>765
関係はよくなかったみたい。
小西は加藤に出兵を依頼し加藤はこれに応じたものの共同作戦はおろか軍議の開催も拒否して加藤単独で戦闘行動を行っているから。

>>766
秀吉の建築道楽と第一次・第二次唐入りで大名から庶民までの長期間の経済的負担が豊臣政権の人気を落とし怨嗟を買っていたことは周知の
事実であれだけの大身にも関わらず質素な暮らしをしていた家康に衆望が集まったのは間違いない。
(この時点で徳川幕府の参勤交代や御手伝い普請等の施策を想像するのは不可能)

小西と石田は上記の点を間違いなく認識していたと思うし豊家を守る為には唐入りを中止せざるをえないと言う認識は間違いないと思う。

おそらくボケが始まっていた秀吉に諫言することの危険さをわかっていたから自己保全も含めて秀吉に対して虚偽の報告をしたんだろうけれども
ここでしばしば出てくる忠義論で言えば決して飛躍はしていないと思うし豊臣家の信用の基礎を家臣として守らなかったと言うことになり関が原前
夜に福島・加藤のやったことと五十歩百歩と思われる。(個人的には無理からぬと思うけれどもw)

実際小西は明の冊封使と朝鮮の通信使を降伏の使者であると秀吉に紹介したことがばれて一度賜死を命ぜられているしね。