福島正則、加藤清正は最低の裏切者 二股目
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0756名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/22(月) 15:30:43ID:1ZWCJ+Sl小西の戦歴を否定する気はないけどね。
例えば忠州会戦で馬防柵を使用した小西の戦闘は火力を持たない朝鮮軍を完膚なきまでに叩きのめしたから
朝鮮王は漢城を捨てて平壌に遷都をし小西と加藤の軍勢は朝鮮の首都である漢城に無傷で入城できた。
ただ漢城入城までの2ヶ月については防戦準備のできていなかった朝鮮軍はほとんどまともな抵抗ができていない。
日本軍の漢城入城以降に朝鮮軍は漢城への補給路を絶つために晋州城を根拠地にしてゲリラ活動を開始したが
これを攻略したのは細川忠興、長谷川秀一、木村重茲等の16将。
また文禄の役の段階では李王朝の暴政が民衆の恨みを買っており日本軍を解放軍として民衆は見ていたから
現地の民衆が日本軍に協力的だったことも忘れてはいけない。
小西の第一軍と加藤の第二軍それぞれの平壌占領前後までの戦闘経緯は、
小西第一軍
文禄元年4月13日釜山城攻略→4月14日東菜城攻略→4月16日梁山城攻略→4月17日鵲院関会戦
(同日加藤清正釜山上陸)→4月18日蜜陽城占領(朝鮮軍撤退の為無血占領)→4月24日尚州会戦戦勝
→4月27日忠州会戦戦勝→4月28日加藤清正と忠州にて合流→5月2日小西・加藤漢城無血占領→5月27日加藤と
共に臨津攻略→6月16日黒田長政の第三軍と共に平壌攻略。(朝鮮軍は宗義調の陣を兵400にて襲撃するも失敗。
そのまま平壌城を放棄・撤退)→7月13日中和会戦戦勝→7月16日平壌にて明軍3,000を迎撃 平壌を防衛→
8月29日小西が独断で明との講和交渉を開始し50日の休戦に入る。結果として明軍の集結を促す結果となる。
加藤第二軍
文禄元年4月17日釜山上陸→4月18日彦陽城攻略→4月20日慶州城攻略→4月21日永川占領→4月28日小西行長と
忠州にて合流→5月2日加藤・小西漢城無血占領→5月18日臨津会戦戦勝→5月27日小西と共に臨津攻略→6月初旬
金郊駅にて咸鏡道方面へ転進(咸鏡南道の指揮官 李渾は加藤の第二軍を発見した段階で撤退)→7月17日
海汀衛会戦戦勝し咸鏡道方面を占領→7月23日会寧にて李王朝家臣鞠景仁が朝鮮王子2名連れて投降。王子2名を
捕虜とする。
>小西が血みどろの抵抗を排除しながら前進しソウルや平壌を落としたのに対し、
>加藤は大掛かりな戦をすることなく朝鮮でも僻地の部分をスルスルと進んで満州まで進出した。
>まあ、それはそれで電撃的な侵攻をしたと優れているといえない事はないが、
>加藤ファンが想像してるようなイメージとはちと違う。
小西も働いてるけど加藤もちゃんと働いてるよ。
文禄2年1月の明軍総攻撃開始以降のこともちゃんと調べてごらん。
知っててこう書いてるなら悪質だけどね。
>明の使者の終始、小西と協議してたんだが。
文禄二年2月5日に明の司令官宋応昌の使者と加藤が安辺で会見してる。
小西が秀吉に明が和平を申し入れていると虚偽の報告をして和平交渉をしていたので小西の交渉内容を知る為に
和平の予備交渉と称して会見したのさ。
あと蛇足だけれど福島正則は奉行職で兵站を担当していた時期もあるけれど文禄3年9月29日と10月1日に長門浦に
侵入した李瞬臣の水軍と海戦を行って撃退したの知ってる?
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