福島正則、加藤清正は最低の裏切者 二股目
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/30(木) 19:43:11ID:uefRh3KT家康に踊らされた大馬鹿者。
0745名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/21(日) 10:12:07ID:pMRJ5Jya「父兄」なんて台詞を吐いたのは前田騒動の後じゃなかったっけ?
そもそも、その後に上杉の対応に対してもいい感じにケチつけているし。
ちなみに、親徳川派の武将(つまり七将とか)は前田とか上杉とかの討伐の会議に出ている
けれど、以外に数が少ない事がわかる。
そのあたり調べると三成に人望があるというよりも家康に人望が
なかったから三成についたと思われ。
0746名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/21(日) 11:57:29ID:YL1CJZyf秀吉厨は認めたがらんだろうが、やっぱり家康は人格者だったということ
関東移封が結果として失策となったのも家康が想定以上の統治能力を発揮したからで、
ことごとく秀吉の想定を超えているのが秀吉厨の気に入らんところかもな
0747名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/21(日) 22:35:16ID:JAG1+WpC福島・加藤の関が原での行為を激烈に攻撃し石田・小西をやたら持ち上げてる輩が唐入りにの件で都合の良いことしか言わないのは何故?
小西行長の釜山から平壌までの快進撃は一見凄いように見えるが17万の軍勢を使って点在する城兵1,000にも満たない城塞都市を抜いて
いった事に関しては鍋島直茂に痛烈に批判されているし平壌に到達して明の大軍がやってくるまで朝鮮軍には火力が一切なかったことに
ついてはここでは一切触れられていない。
小西の軍歴に関しては紀州攻めの折の紀之川における水軍行動の失敗や宇土での国人衆の反乱鎮圧失敗を加藤清正に尻拭いしてもらっ
たことに関しても触れられていない。
石田三成の小田原征伐のさいの忍城攻略失敗についても同様。
また唐入りの開戦時に小西と宗義調が秀吉に対して朝鮮王が日本に帰属したと言う虚偽の報告をして開戦を止めようとしたこと(大局での
道理はともかくここで触れている道義論では論外)また平壌到達後に勝手に明と和平交渉をおこなって50日の休戦を行ったことによって明軍
の集結を促し火力を持った明の大軍の攻勢を受け後退せざるをえなかったことについてもここでは触れられていない。
次に石田三成と小西行長が結託して和平交渉を行ったことについては日本側が明に降伏し日本国王豊臣秀吉として明の冊封を受けその家来
で石田、小西等が五大老よりも高い官位を明国皇帝に任じてもらいたい旨を和平交渉(実質的には降伏)の条件に出したと言うことについても
ここでは触れられていない。
明および朝鮮と秀吉の話が噛み合わない状態が第二次唐入りの原因となるわけだけれどもこれが豊臣政権の寿命を縮めた原因の一つとなって
いるわけでそう言う意味では石田・小西は豊臣政権倒壊を早めたとも言える。
子飼いの家来に恵まれなかった秀吉の不幸と言えばそれで終わりだけれども関が原にいたるまでの豊臣政権の政治行為が諸侯と民衆の人気
を落とし徳川の世になってしまうのは家康の努力も含んだ意味で自然の流れだと思う。
この豊臣政権の政治行為を原因とする結果が豊臣政権の倒壊だけれどもこれが上でさんざん述べられている因果応報と言う意味で決して不合理
なことを言っているのではないだろう。
0748名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/22(月) 01:13:48ID:BaV7QSJg加藤は関ヶ原の勝敗を左右する位置にいなかったから叩かれにくいんだろうね。
関ヶ原以降に見せた動きに多少同情・評価出来るし自分の代で潰されてない
から福島より愚な感じが薄い。
小西のしり拭いって天草だったか島原だったかどっちかで起こった乱?
確か攻めない小西に腹を立てた加藤が突っ込んで城落として更に小西との間が悪くなったとかどっかでみた。
あとそれなりに朝鮮で活躍してるのが加藤はポイントになってる感じか。
確か明での評価は加藤>>小西だったよね
加藤を講和会議に呼び出して殺そうとした明の情報を明に裏切った日本人が教えてくれたとかなんとか
0749名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/22(月) 08:11:36ID:Q04sDle3>あとそれなりに朝鮮で活躍してるのが加藤はポイントになってる感じか。
小西が血みどろの抵抗を排除しながら前進しソウルや平壌を落としたのに対し、
加藤は大掛かりな戦をすることなく朝鮮でも僻地の部分をスルスルと進んで満州まで進出した。
まあ、それはそれで電撃的な侵攻をしたと優れているといえない事はないが、
加藤ファンが想像してるようなイメージとはちと違う。
>確か明での評価は加藤>>小西だったよね
加藤を講和会議に呼び出して殺そうとした明の情報を明に裏切った日本人が教えてくれたとかなんとか
うーん、それは違うと思うが。
明の使者の終始、小西と協議してたんだが。
0750名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/22(月) 08:53:56ID:ofbXatOy主君の子供に恩返しするなんて発想は戦国時代にはなかったんじゃないか。
0751名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/22(月) 09:05:10ID:/uYkZDpc天下が見えた途端、それまでと人生方針全く変えちゃうってことがあるんだろう
福島正則は「自分達が恩を売っておけば豊臣家安泰」とか思ってたらしいけど、野望の大きさを見間違えたな
0752名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/22(月) 13:17:04ID:cVmzH5bn家康にしても、今川義元が死ぬとあっさり氏真を見限った
「前科」を持った男。
これについてはほとんど非難されないが・・・
自分のお家を繁栄させるのはどうすればいいかが
戦国大名として最も大事な事。
極論すれば秀吉が家康に「豊臣家の家臣でいた方が徳川にプラス」
と思わせる体制を作れなかった事が問題なんだが。
0753名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/22(月) 14:16:00ID:BOoHZ9Zs多少の利害にかかわらず自分が天下を取ることを選ぶだろう
0754名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/22(月) 15:22:32ID:Q04sDle3違うね。あんたイメージでもの方ってるだろ。
確かに家康は義元死後に三河占拠したが
それ以外は今川の家臣としてふるまい、氏真に義元の
弔い合戦すること盛んに呼びかけてる。
ちょくちょく織田の城も攻めたりしてる。
しかし氏真が全然動かないのと信長の伸張ぶりを見て、
やっと織田と結ぶことを決意した。
少なくとも「あっさり見限って」ではない。
しかもその後も家康は今川にいろいろ義理を尽くしてる。
今川分割時も講和して氏真を逃がして
一説、講和内容に「もしも駿河を占領できたり今川に返還する」なんて項目があったとされるし、
甲相同盟で北条家を追放された氏真を庇護したりしてる。
江戸期に入ってからは高家として今川を遇した。
0755名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/22(月) 15:29:48ID:1ZWCJ+Sl>加藤は関ヶ原の勝敗を左右する位置にいなかったから叩かれにくいんだろうね。
なるほどそう言う考え方もあるんだね。
>小西のしり拭いって天草だったか島原だったかどっちかで起こった乱?
島原の方だよ。小西は佐々成政の二の舞にならないように慎重に政治を行ったけれども入封半年後に
行った宇土城改修工事の公役を命じた時に天草五人衆からそれを拒否された。
理由は本領安堵を秀吉から直接受けており小西に従う言われはないと言うこと。
これを聞いた秀吉は激怒して小西に天草五人衆討伐を命じ小西は動員能力の半分である3,000を使って
天草攻略に望んだけれども惨敗し総大将として派遣した伊地知文太夫が戦死している。
手に負えなくなった小西が隣国の加藤清正に要請して加藤はこれを1,500の兵で鎮圧した。
>>加藤を講和会議に呼び出して殺そうとした明の情報を明に裏切った日本人が教えてくれたとかなんとか
その件については朝鮮側の資料「再造藩邦志」には第2次唐入りの派兵時に小西が家来の梯七太夫を
慶尚左兵使の金応瑞に使者として送って、
「和平がならなかったのは加藤が邪魔をしたからである。加藤が朝鮮渡海時にどこどこの島に宿営
するから朝鮮が水軍を使って襲撃すれば簡単に勝利を得るだろう。」
と情報を流したことになっている。
けれどこれが事実かどうかはよくわからない。
ちなみに朝鮮と明はこれを日本側の謀略とみて兵を出さなかったと言うことになっている。
0756名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/22(月) 15:30:43ID:1ZWCJ+Sl小西の戦歴を否定する気はないけどね。
例えば忠州会戦で馬防柵を使用した小西の戦闘は火力を持たない朝鮮軍を完膚なきまでに叩きのめしたから
朝鮮王は漢城を捨てて平壌に遷都をし小西と加藤の軍勢は朝鮮の首都である漢城に無傷で入城できた。
ただ漢城入城までの2ヶ月については防戦準備のできていなかった朝鮮軍はほとんどまともな抵抗ができていない。
日本軍の漢城入城以降に朝鮮軍は漢城への補給路を絶つために晋州城を根拠地にしてゲリラ活動を開始したが
これを攻略したのは細川忠興、長谷川秀一、木村重茲等の16将。
また文禄の役の段階では李王朝の暴政が民衆の恨みを買っており日本軍を解放軍として民衆は見ていたから
現地の民衆が日本軍に協力的だったことも忘れてはいけない。
小西の第一軍と加藤の第二軍それぞれの平壌占領前後までの戦闘経緯は、
小西第一軍
文禄元年4月13日釜山城攻略→4月14日東菜城攻略→4月16日梁山城攻略→4月17日鵲院関会戦
(同日加藤清正釜山上陸)→4月18日蜜陽城占領(朝鮮軍撤退の為無血占領)→4月24日尚州会戦戦勝
→4月27日忠州会戦戦勝→4月28日加藤清正と忠州にて合流→5月2日小西・加藤漢城無血占領→5月27日加藤と
共に臨津攻略→6月16日黒田長政の第三軍と共に平壌攻略。(朝鮮軍は宗義調の陣を兵400にて襲撃するも失敗。
そのまま平壌城を放棄・撤退)→7月13日中和会戦戦勝→7月16日平壌にて明軍3,000を迎撃 平壌を防衛→
8月29日小西が独断で明との講和交渉を開始し50日の休戦に入る。結果として明軍の集結を促す結果となる。
加藤第二軍
文禄元年4月17日釜山上陸→4月18日彦陽城攻略→4月20日慶州城攻略→4月21日永川占領→4月28日小西行長と
忠州にて合流→5月2日加藤・小西漢城無血占領→5月18日臨津会戦戦勝→5月27日小西と共に臨津攻略→6月初旬
金郊駅にて咸鏡道方面へ転進(咸鏡南道の指揮官 李渾は加藤の第二軍を発見した段階で撤退)→7月17日
海汀衛会戦戦勝し咸鏡道方面を占領→7月23日会寧にて李王朝家臣鞠景仁が朝鮮王子2名連れて投降。王子2名を
捕虜とする。
>小西が血みどろの抵抗を排除しながら前進しソウルや平壌を落としたのに対し、
>加藤は大掛かりな戦をすることなく朝鮮でも僻地の部分をスルスルと進んで満州まで進出した。
>まあ、それはそれで電撃的な侵攻をしたと優れているといえない事はないが、
>加藤ファンが想像してるようなイメージとはちと違う。
小西も働いてるけど加藤もちゃんと働いてるよ。
文禄2年1月の明軍総攻撃開始以降のこともちゃんと調べてごらん。
知っててこう書いてるなら悪質だけどね。
>明の使者の終始、小西と協議してたんだが。
文禄二年2月5日に明の司令官宋応昌の使者と加藤が安辺で会見してる。
小西が秀吉に明が和平を申し入れていると虚偽の報告をして和平交渉をしていたので小西の交渉内容を知る為に
和平の予備交渉と称して会見したのさ。
あと蛇足だけれど福島正則は奉行職で兵站を担当していた時期もあるけれど文禄3年9月29日と10月1日に長門浦に
侵入した李瞬臣の水軍と海戦を行って撃退したの知ってる?
0757名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/22(月) 19:54:59ID:BaV7QSJg>>福島が海戦
正直しらんかった。
0758名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/22(月) 20:30:18ID:qME9wEQw……って、奴らの墓はどこにあるんだろう。
0759755-756
2007/01/22(月) 20:36:16ID:lrmhd9Qkなぜそうなるw
元寇あたりのことで反撃すればいいじゃないw
後は倭寇を詐称して日本人語って海賊行為をしたとか。
0760755
2007/01/22(月) 21:44:10ID:lrmhd9Qk>島原の方だよ。小西は佐々成政の二の舞にならないように慎重に政治を行ったけれども入封半年後に ×
↓
天草の方だよ。小西は佐々成政の二の舞にならないように慎重に政治を行ったけれども入封半年後に
大変失礼しました。
最近ここで長文ばかり書き込んでしかも間違いも書いてしまい申し訳ありません。
0761改易改易言うけれど
2007/01/22(月) 23:52:03ID:Siiu/9jV0762名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/23(火) 00:31:07ID:yiyV3bx10763名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/23(火) 01:01:15ID:+6Zoz7bWおおよそ旗本は二百石〜1万石とされたから
旗本としては、まあまあの家格なのかな?
0764名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/23(火) 01:07:13ID:73fuc9iE0765名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/23(火) 02:04:53ID:+r7WFZyq>>760
その乱では小西と加藤の関係は良かったの?
0766名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/23(火) 03:24:02ID:0YRUBq7S飛躍しすぎじゃないか、むしろ秀吉の思うがままにやったほうが問題だろう。
どっちにしろ秀吉が死んだって事のほうが重要だけど、小西らの非を言うとすれば
秀吉にありのままをいわなかったとかいう部分、それでも悪化すると思うけど。
0767760
2007/01/23(火) 07:48:47ID:CdAhKtKH関係はよくなかったみたい。
小西は加藤に出兵を依頼し加藤はこれに応じたものの共同作戦はおろか軍議の開催も拒否して加藤単独で戦闘行動を行っているから。
>>766
秀吉の建築道楽と第一次・第二次唐入りで大名から庶民までの長期間の経済的負担が豊臣政権の人気を落とし怨嗟を買っていたことは周知の
事実であれだけの大身にも関わらず質素な暮らしをしていた家康に衆望が集まったのは間違いない。
(この時点で徳川幕府の参勤交代や御手伝い普請等の施策を想像するのは不可能)
小西と石田は上記の点を間違いなく認識していたと思うし豊家を守る為には唐入りを中止せざるをえないと言う認識は間違いないと思う。
おそらくボケが始まっていた秀吉に諫言することの危険さをわかっていたから自己保全も含めて秀吉に対して虚偽の報告をしたんだろうけれども
ここでしばしば出てくる忠義論で言えば決して飛躍はしていないと思うし豊臣家の信用の基礎を家臣として守らなかったと言うことになり関が原前
夜に福島・加藤のやったことと五十歩百歩と思われる。(個人的には無理からぬと思うけれどもw)
実際小西は明の冊封使と朝鮮の通信使を降伏の使者であると秀吉に紹介したことがばれて一度賜死を命ぜられているしね。
0768名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/23(火) 08:17:34ID:KB7xB84uそれ以前に、当時の日本人にどこまで正確な海外知識があったか疑問
「対馬に朝鮮が服属している」なんていうヨタでも、誰かが本当のこと言わない限り知識ゼロなら信じちゃいそうだ
0769名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/23(火) 08:22:08ID:VhgFI2OG論点になるのもおかしいのかと、それを言ったらどっちかっていうと、大老の方が罪が重いんでは?
あ、諫言とかじゃなくて、国書偽造とかは端から論外だけど。
0770名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/23(火) 11:39:12ID:SYKsiG790771名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/23(火) 11:40:10ID:3Jz3YzoL0772名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/23(火) 16:02:34ID:+r7WFZyqあのまま豊臣家を徳川の家臣化させるのが最良の道って考えてるなら反論はしないけど。
どう考えても家康の統治能力を見誤った秀吉の采配ミス。
朝鮮出兵を西国中心にしすぎたのもまずかったね。
家康に全部やらせて力使い果たせなきゃ意味ないよ…。
秀吉の話しを出すとどうしても秀吉の失敗が目立ち始める…。
0773名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/23(火) 16:27:32ID:Nwoe52QQ秀忠、利長より格下の毛利・宇喜多・上杉がいくら頑張っても豊臣公儀は徳川・前田コンビ。
福島は最初から徳川派で、加藤は前田派だった訳だから
親分である前田がしっぽを振ってしまった以上、加藤に関しては仕方ない気もするが。
0774名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/23(火) 16:52:06ID:FTHyCPnO>>769
>言われた事せっせこやる、官僚のトップ的な奉行職が諫言するかしないかという点で
>論点になるのもおかしいのかと、それを言ったらどっちかっていうと、大老の方が罪が重いんでは?
豊臣政権が基礎の固まって完成された官僚組織であれば>>769の言うことは正鵠を射ていると思う。しかし戦国の気風を
残し不安定な政権だったと言う事で考えれば唐入りの時点での大老はまったくあてにならないんじゃない?
五大老で唯一秀吉に恩義を感じるとすれば父の直家が死んだ時に幼童で秀吉に保護してもらった宇喜多秀家だけでしょ。
家康は秀吉に必死にお願いされて家来になってやったとしか思ってなかったろうし前田利家は織田家の同僚で利家が一方の
物頭だったときに秀吉は信長の馬前の走卒だった。毛利輝元にしてみれば秀吉が椎任光秀を討つ時に助けてやり恩を売って
やったとしか思ってなかったろうし唐入りの時点で五大老の一人だった小早川隆景も同様。
ましてや毛利と小早川は毛利本家の養子に木下秀俊を押し付けられそうになりあわてて分家の嗣子小早川秀包を廃嫡して
木下秀俊を小早川秀秋としてを小早川家の養子にしてる。毛利も小早川も鎌倉以来の名家でありこれに土人の血を入れて
名跡を継がせると言うのは屈辱を通りこしていたはず。
そうなると豊臣家の柱石になるのは秀吉子飼いの大名達しかおらず五奉行の中では浅野長政、石田三成、増田長盛しかいない。
ここで福島と加藤を叩く根拠とされている忠義論で行けば秀吉の子飼い大名であり肥後半国24万石を与えられ唐入りの
先鋒大将であった小西行長は豊家の御為であれば事実を申告して国力を削いで大名から下々までの恨みを買った豊臣政権の
愚策を諫言すべきであったし五奉行筆頭にして唐入り総奉行 近江佐和山19万4000石を与えられていた石田三成も同様。
小西はもちろん石田も第一次唐入りで碧蹄館や幸州山城の戦闘で一手の大将として働いているわけだから他の大名と同じ様に
国力を無駄に疲弊させた唐入りの無謀さはよくわかっていたはず。
だからこそ至急に停戦を実現化しようと思ったのだろうけれども秀吉に対しては小西・石田は明から和平交渉を持ちかけて
きたと報告しそれを前提に秀吉は講和の条件を出している。これは明らかに主君を誤認させ政策を誤らせる行為である。
しかも明側の窓口の沈維敬はもともと明の官吏でも朝鮮の官吏でもない一旗組の無頼の徒でこの交渉のどさくさにまぎれ
て遊撃と言う官位を漁官している。
その証拠に50日間の停戦期間中に明軍の総司令官 宋応昌は軍を平壌近郊に集結させ文禄2年1月5日に部将の李如松を持って
総大将とし小西が守備していた平壌を攻撃させ小西の第一軍は死者1,600余名を出して敗退。
0775名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/23(火) 16:53:06ID:FTHyCPnO1、明国皇帝の皇女を日本国皇后として迎える。
2、朝鮮の四道は日本に割譲、他の四道と漢城は朝鮮に返還。
3、朝鮮王子と大臣1〜2名を日本への人質とする。
4、捕虜の2王子と属臣は返還。
5、朝鮮の大臣は未来永劫日本に逆らわないことを誓う。
それに対して小西と石田が明に出した講和条件は、
1、関白豊臣秀吉をもって日本国王と為さんことを乞う。
2、石田三成、小西行長、増田長盛、大谷吉次、宇喜多秀家以上五名を大都督に封ぜんことを乞う。独り行長は世、西海道を
加えよ。
3、徳川家康、前田利家、羽柴秀保、羽柴秀俊、蒲生氏郷、毛利輝元、小早川隆景、有馬晴信、宗義智以上九名を亜都督に封
ぜんことを乞う。
4、前田玄以、森吉成、長束正家、寺沢正成、施薬院全宗、柳川調信、木下吉隆、石田正澄、源家次、平行親、小西末郷以上
十一員は都督指揮封ぜんことを乞う。
上記のような条件ではお互いに相手が降伏したと思い込むのは当然であり小西・石田と沈維敬は結託して両者を丸めこもうと
するのだけれど話が噛み合うはずがないわけで一応講和は整った形となって慶長元年9月1日に明の冊封使楊方享と朝鮮の
通信使黄槙は大阪城で秀吉と対面するわけだけれども楊方享は東の蛮族の酋長秀吉が中華の徳を慕って中華の属国になったと
思って日本にやってきたのに皇帝の名代である自分が秀吉の下座に座らされ黄槙は秀吉への謁見を許されなかった。
秀吉は楊方享を降伏の使者と思い込んで大度に饗応し機嫌がよくなったのか朝鮮にも何か望むことがあれば許してやろうと
使僧を黄槙の宿所によこし黄槙が秀吉宛に送った書状で石田・小西と沈維敬行った行動が秀吉に発覚した。
秀吉は行長に賜死を与えようとしたが石田三成が自分も小西と党類であることを白状したことと前田利家と淀の方がこれをとり
なしたので許されたと言うことらしい。
これによって第2次唐入りが始まるわけだけれどもこれによって豊臣政権の人気は地に堕ちてしまうわけでこれが秀吉死後に家康
が天下を取った時の大きな条件の一つになってしまう。このあたりも先にさんざん述べられている因果応報の一つだと思う。
このスレ的な忠義論でいけば短絡的に関が原で東についた福島や石田憎しで東についた加藤よりも悪質な形で小西と石田は豊臣政権
崩壊の原因の一つを作ったことになる。
口悪く言えば【小西行長、石田三成は最低の裏切り者】と言う見方もできないことはできないこともないんじゃない?
この4人の共通点は自分の置かれた立場と環境の中で豊家によかれと思って状況判断し行動したことが最終的に仇になってるんじゃ
ないの?小西に関しては実家の薬種商としての利益や堺の商人達の利益についても考えていたとしてもさ。
しかも小西と石田は秀吉死後ではなく在世中に秀吉を裏切った形になるけれどそれでも能力のある子飼いの大名を罰することが
出来なかったのも豊臣政権の弱さであったことは間違いないと思う。
0776名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/23(火) 16:59:00ID:tIKoBptn他のレスがどの位の字数で改行入れてるか参考にする位の事はしてもいいんじゃない?
0777名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/23(火) 17:06:01ID:FTHyCPnO確かに読みにくいよね。
申し訳ない。
0778名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/23(火) 17:36:41ID:IqfWFXpj0780名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/23(火) 21:05:41ID:VhgFI2OG大老としての地位にある以上。
“大老はまったくあてにならないんじゃない”じゃすまないよで終わりだし。
大老という政権の方向性を定める地位と奉行職では、重みが違うんだが、
そもそも、奉行筆頭は浅野長政。
秀吉の義弟でもあるこの人は確か、秀吉に諫言して蟄居状態じゃなかったっけ?
堺・博多の豪商関連が重要なんだけどな。
行長の娘がと宗義智と島井宗室を媒酌人に婚約したんじゃなかったっけ?
朝鮮の役の前位に。
そのあたり知ってて、774、775書いた?
のんきに朝鮮・明の領地もらえると秀吉あおった清正とどーやったら、
比較できるのか教えてもらいたい。
0781774
2007/01/23(火) 22:36:39ID:0UQwaa6s>大老としての地位にある以上。
>“大老はまったくあてにならないんじゃない”じゃすまないよで終わりだし。
>大老という政権の方向性を定める地位と奉行職では、重みが違うんだが、
官僚制度の建前から言えば教科書通りの答えだよね。
これは>>774でも書いたけど戦国の気風が残り宇喜多秀家以外は基本的に秀吉に恩を感じる
立場でもなかったし豊臣政権の基礎が固まっていなかったから教科書通りにはいかなかったっ
てこと。
それだけ秀吉の天下が軽かったとも言えるよね。
天下統一当初だって大阪城での諸侯の行儀が悪くて家康が臣従してからやっとお行儀が多少
よくなったって逸話があるくらいだから。
秀吉の直轄の軍事力である七手組も10,000程度の戦力だったわけだし。
>そもそも、奉行筆頭は浅野長政。
そうだね これは私の間違いであなたが正しいよね。
基本的なことを間違えて申し訳ない。
>秀吉の義弟でもあるこの人は確か、秀吉に諫言して蟄居状態じゃなかったっけ?
軍監として渡鮮してた浅野長政が秀吉に諫言したのは秀吉本人の渡鮮で蟄居したのは秀次事件
のからみじゃなかった?
間違っているなら教えてください。
>堺・博多の豪商関連が重要なんだけどな。
海外貿易の利を得るために堺の豪商がらみで小西行長を処分できなかったって解釈でいい?
>行長の娘がと宗義智と島井宗室を媒酌人に婚約したんじゃなかったっけ?
>朝鮮の役の前位に。
そうだね。
当時行長の娘は3〜4才の幼児だったけど行長と宗義調が懇意でそう言う運びになったんだったよね。
間違ってることがあったらまた教えてくれない?
正しいことを教えてもらえるとうれしいから。
>のんきに朝鮮・明の領地もらえると秀吉あおった清正とどーやったら、
>比較できるのか教えてもらいたい。
秀吉の子飼いでそのおかれた状況と立場で豊家によかれと思って行動したのは一緒でしょ。
結果と思惑が違ったと言う意味でも同じ。
あとずいぶん感情的に清正のことを感情的に叩くんだね。
0782名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/23(火) 23:03:11ID:dqwXXZvx軍議すら拒否って…加藤と小西の確執はかなり根深いんだね。加藤石田の対立より深刻そう。
加藤が関ヶ原で東軍についたのは小西が西軍だったからって話も案外ホントかもね。
0783名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/23(火) 23:14:28ID:IqfWFXpjありがとう。自分でも確認してみる
0784774
2007/01/23(火) 23:33:26ID:0UQwaa6s>>769の
>言われた事せっせこやる、官僚のトップ的な奉行職が諫言するかしないかという点で
>論点になるのもおかしいのかと、それを言ったらどっちかっていうと、大老の方が罪が重いんでは?
のレスを受けて>>774のレスをしたのですが>>774の中で
>五奉行筆頭にして唐入り総奉行 近江佐和山19万4000石を与えられていた石田三成も同様。
と言う文言を入れてますが五大老五奉行って秀吉が病に倒れた時期に作られた制度なので第一次
唐入りと第二次唐入りの当初にはない制度ですよね。
よって>>774で唐入りの諫言について内容はともかく前提が間違っていたと言うことで再び謝らせて
いただきます。
今度から脊髄反射の書き込みと推敲なしでの長文投降を重々注意しますので見逃してください。
>>780
言い忘れたけど清正は秀吉に唐入りをするとしたら先方は加藤虎之助か小西弥九朗かって煽られて
無邪気に乗せられてただけじゃないの?
>>782
秀吉自体が加藤と小西を常に競わせてたような感じでしょ。
わざわざ佐々の旧領を二つに割って二人を隣同士にしたり朝鮮の先鋒をこの二人にしたり。
お互いを当て馬に競わせるつもりが度を超してしまったんだろうね。
0785名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/24(水) 00:05:45ID:B7Z2QRDm>大老としての地位にある以上。
>“大老はまったくあてにならないんじゃない”じゃすまないよで終わりだし。
>大老という政権の方向性を定める地位と奉行職では、重みが違うんだが、
まあ、このあたりは平行線という事で、
個人的に小早川隆景あたりなら諫言できただろうし、実際に効果認められるとおもうけどね。
>軍監として渡鮮してた浅野長政が秀吉に諫言したのは秀吉本人の渡鮮で蟄居したのは秀次事件
>のからみじゃなかった?
>間違っているなら教えてください。
そうそう。
確か朝鮮の役の時は、諫言つーか悪態ついただけだっけ(狐憑き呼ばわりしたんだっけ)?
>そうだね。
>当時行長の娘は3〜4才の幼児だったけど行長と宗義調が懇意でそう言う運びになったんだったよね。
宗義智は島井宗室に、父と思って指示に従いますって起請文同時にだしている。
宗義智は朝鮮と交易は死活問題だからね。
このラインで和平交渉の努力がなされたといってよい。
ちなみに、加藤も宗義智に嫁だそうとして、断れたそうな。
>言い忘れたけど清正は秀吉に唐入りをするとしたら先方は加藤虎之助か小西弥九朗かって煽られて
>無邪気に乗せられてただけじゃないの?
秀長死亡時に、唐入りしましょうとか秀吉を乗せたという俗説がある。
どっちかっていうと問題は運命の1596年。三成の讒言(というか和平ぶち壊したくなかったんだろう)で
国内戻されたときの地震で真っ先に蟄居の加藤が秀吉の下に駆けつけた後、
加藤が許されて、三成以下の和平派が遠ざかれた。
で、9月の謁見後、慶長の役開始。
無論、何かあったとは明確な証拠も無いけど。
関ヶ原前に清正も家康から嫁貰っている。その際にわざわざ妻を離縁しているし・・・。
七将の時も当然主導的な役割を担っただろうし。
こう個人的な意見だが、(一応)天下泰平後の清正という男の行動を見ると、
権力者に擦り寄るたびに乱が起きている印象があるのだ。
三成とも行長とも福島とも違い、なんか人としてのラインを実は密かに
超えているのではとも最近思っている。
0786名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/24(水) 01:11:44ID:TB0/y+Xpそれは面白い意見だな
0787名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/24(水) 01:44:56ID:HSK8q2m1>>清正は〜
あんたなかなか斬新だなw
そういう見方もまた面白い
0788名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/24(水) 01:46:06ID:HSK8q2m1>>清正は〜
あんたなかなか斬新だなw
そういう見方もまた面白い
0789名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/24(水) 03:22:34ID:+mkUM9Ja>>清正は〜
あんたなかなか斬新だなw
そういう見方もまた面白い
0790784
2007/01/24(水) 07:35:32ID:Jg9LEnIk>宗義智は島井宗室に、父と思って指示に従いますって起請文同時にだしている。
>宗義智は朝鮮と交易は死活問題だからね。
>このラインで和平交渉の努力がなされたといってよい。
>ちなみに、加藤も宗義智に嫁だそうとして、断れたそうな
なるほど両家とも一応武家なのになんで媒酌人が商人なんだろう。
きっと小西の実家の関係かなくらいにしか思わないで深く考えてなかった。
その話を考慮すると見方がぜんぜん変わってきて面白いね。
>秀長死亡時に、唐入りしましょうとか秀吉を乗せたという俗説がある。
>どっちかっていうと問題は運命の1596年。三成の讒言(というか和平ぶち壊したくなかったんだろう)で
信長在世当時から明・朝鮮に討ち入るなんて話を聞いてたろうから秀吉を慰めるために清正が
そう言う迎合を言っても不思議ではないね。
三成の件は讒言ではなく事実を報告したんだろうけど(例の豊臣の件とか)多少の情報操作で細かいこと
を報告しないで印象を操作するようなことはしたんだろうね。
最後の方の清正梟雄説はおもしろいね。
見ようによってはそう言う見方もできなくないし試しに疑ってみたら腑に落ちる点もかなりあるし。
0791名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/24(水) 09:25:12ID:yrEi+CXn論ずる場合は、小西らの方法以外に現実的で最善の方法ってのを仮にも対論として
考えないと何とも言えなくないか?唐入り関ヶ原を経て、豊臣政権が滅んだという結論は
同じでも、あの時点で朝鮮から引き上げるという方針で政権存続を図ったともいるし。
結果的に秀吉が死ぬまでの間、明との間で耐え忍んで生き延びたとも考えられる。
唐入り自体滅亡の兆しといえばそうだけど、そんな中清正だって成功するとは思ってないだろうな。
少なくとも一度休戦した時点では確実に。清正個人の思惑としては九州に加増されるか
小西が脱落すれば良いというところで、それも叶わなかったってところだと思うけど。
0792名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/24(水) 18:10:39ID:koW1jYwT三成が挙兵しなければ家康はさぞ困っただろう。
家康自身、天下に手出ししにくかったが三成が挙兵してくれて助かった、
三成のおかげで天下が取れたと感じていた。
三成が何もしなければ、家康は史実よりもっと強引なやり方しなければ天下取れなかっただろうし、
そうなれば家康は、今よりもっと悪名高い簒奪者になっていただろう。
0793名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/24(水) 19:32:42ID:HSK8q2m1上杉討伐がなくてもいずれ毛利・小早川と挑発くりかえして
人質・減封していくわけだしもう駄目だろ。
0794名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/24(水) 19:53:46ID:E9cv1oFSそれは無い。
三成が居なかったら、家康ははるかに容易く天下を獲れた。
それだけは断言する。
スレッド全体を見返せば、それは納得してもらえると思う。
0795名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/24(水) 20:57:17ID:ui1Jjljp天下、の意味にもよるが、
豊臣から早々に決別できたのは三成が反対派を糾合したことに拠るところは大きい。
0796名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/24(水) 22:04:17ID:nL+V+SGrそれで今度は関ヶ原西軍連中に同じく言いがかりをつければ良いだけのこと。
逆らえる奴はいない。
0797名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/24(水) 22:41:14ID:LC/DCpUsまあどうせ、現代のイメージも家康が豊臣に粘り強く時間かけたことなんて
知られてないから一緒か
0798名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/24(水) 23:24:10ID:ui1Jjljpいや、異なる。
88家+豊臣本家の領土(金銀山・港などの要地も)をごっそり分配出来たのは大きい。
それを元手に一気に覇権を確立できたわけで。
豊臣の国力低下と徳川の国力増強をこれだけ一挙にするには、ちまちま潰しているだけでは無理。
最も三成がいなければ、時間はかかってもより安全に覇権を握れるだろうけど、
幕府ほどの強固な基盤を持つには至らない事も考え得る。
0799名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/25(木) 01:06:13ID:Ch3ZrnrYまさに三成さまさま
0800名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/25(木) 01:13:56ID:aDfMszwu火種はくすぶらせるより燃え上がらせてから消火した方が綺麗に消えるってことね。
家康が三成を謀殺、暗殺しなかったのはそのため?
0801名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/25(木) 02:32:30ID:98TpLlO3俺は>>796に同意。
>>798
結局家康から豊臣からの褒美とかで何かあるたびに豊臣の領土もばっさばっさ
と切り取られると思うんだけど。
まぁ三成の反対派糾合は後の政権基盤を確かにしたのは間違いないだろうね。
しかし仮に三成が挙兵せず上杉・宇喜多・毛利・小早川が人質だして
家臣になってもその後結局問題押し付けて各家潰しにかかるんだろ?
それを考えれば挙兵やむなしとも思う。
やっぱ三成は前田をしっかりとあおっておく必要があったと思う。
親父も家臣も三成嫌いだから難しいだろうが
前田討伐発生→関ヶ原ならまだ勝敗は分からないと思う。
前田兄弟の一人が大阪に入れば総大将になれて毛利輝元を戦場にだせるし。
ほんとワープしまくりの松様は最強すぎる。
個人的に前田もスレタイに入れて欲しいよ
0802名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/25(木) 07:17:58ID:DjmRsGAo話がそれてるんじゃなくて福島・加藤とその対抗馬に出される石田・小西との比較だろ。
無意味に叩くんじゃなくて行動と結果を比較しながら検証してるだけじゃないのか?
0803名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/25(木) 10:06:20ID:OOmZHE61こいつらどんな性格だったのかな?パッとイメージ浮かばん
0804名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/25(木) 12:59:44ID:VPtgXmDH個人的な印象だけどここで話題になってる4人を商社系サラリーマンに
例えると
加藤のイメージは頭のいい体育会系営業マンって感じかな?
常に成績上位の営業マンが出世して支店長になり派閥を乗り換えても立ち
回りの上手さで旧派閥の上層部には嫌われないでにかつ新しい派閥のトッ
プや仲間にも気にいられるタイプ。
福島も体育会系の人間で若い頃は営業担当。管理職になってから販促部門
に異動し部下を使うのが上手い.酒癖が悪いが独特の愛嬌と筋を通そうとする
性格から部下に慕われるタイプ。
たまに営業同行して商談のきっかけを作ったり商談中の案件をまとめて各支店
の営業マンからも敬遠されながらも感謝される感じかな?
ただ入社以来上司に気にいられて出世コースに乗っていたので精神的に弱く
出世競争に敗れてから濡れ落ち葉になるって感じ?
石田は管理部門一筋で優秀だけど真面目すぎて融通が利かないタイプ。
ただし好き嫌いが激しい。
小西も体育会なんだけれども実家が商売やってて生まれながらの商才がある
にも関わらず入社時に管理部門に配置され持ち前の器用さで能力を認められ
上司が小西を出世コースに乗せるために営業マネージャーに配転し実績をあげ
て昇進しているのにも関わらずたまに失敗するとあれは事務方だからと言われて
いつまでも回りからは営業畑の人間として見てもらえない損なタイプ。
と言う印象なんだけどどうかな?
0805名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/25(木) 13:22:46ID:98TpLlO3性格は若い頃のかぶかない前田利家みたいなのを想像してもらえばいいのかな。
面倒見もよく諸候から慕われる存在だったが短慮な部分も多い。
小西に旗の事を聞いたり(ワザと聞いたかもわからんけど)
帰国後三成に大人げなく絡んだり(お茶より飯がよいとかのね)
家康からも一目置かれる武人な反面、生真面目で勉学に励み
福島等に勉強会に参加していかないかと誘ったさい
「勉学よりも我等は酒が良い」と笑われている。
神経質な一面もあり
トイレには高下駄をはかないと入れない
自分の印が複雑すぎて福島に
「そんな複雑なもんを書いていたら遺言書き終わる前に死ぬぞ」
っと笑われている。
身長は高いとも低いとも言われていてまだ分かってない?
0806名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/25(木) 14:53:44ID:tZwTPLsvそして加賀征伐の情報を教えてくれたのは宇喜多秀家だった
だから前田家は豊臣家の救援をスルーし続けたんだよ、このときの恨みがあるからね
逆に宇喜多は情報を流してくれた恩があるので幕府に助命嘆願を出して助けてやったの
0807名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/25(木) 15:16:39ID:Rp6rvb4C本田正信とのやりとりです。
正信「貴公は江戸参勤の際にも必ず大阪に立ち寄られ、秀頼君にご挨拶なさる
とか。このご時勢、もはや無用のことと存ずるがいかに?」
清正「それがしは無論大御所に大恩ある身でござるが、同時に豊臣家にも大恩
がござる。いかに時勢とはいえ、これを忘れる軽薄は武士として不忠で
あり嫌でござる。」
正信「いまや多くの大名方は髭も剃り、さっぱりとしておらるるに、貴殿のみ
なご立派な髭を立てておられる。これは御歴々と同席のおりいかにも殺伐
として見え申すが、どう思し召しか?」
清正「それがしもこの髭そり落としたなら、さぞさっぱりするかとも存ずるが、
若かりし頃よりこの髭面に頬当てをつけて出陣せし心地よさ、これも
武士として忘れがたいのでござる。平にご容赦願いたい。」
正信「貴殿は江戸参勤のおりも大勢のご家中の者引き連れて参られる。いまや
このような大名方も少ないが、これはどうしたお考えか?」
清正「それがしも多数従えて江戸に向かうは何かと物要りではござるが、いざ
大御所よりのお達しあらば、本国は遠くござる。すぐさま御用に叶う
べく、多数を備えておるのでござる。」
これを正信が家康に報告したところ、
家康「清正殿が・・・。ははは。」
と苦笑いした。
>>806
そうだったのか!知らなかった。
福島スレ
ttp://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1128906992/
0808名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/25(木) 22:19:27ID:GjrE1zIz内政
1、大奉行6名を置いて行政を組織化。
2、家臣の知行割を給米制にする。
3、地侍の武装解除を実施して兵農分離を行う。
4、領内で総検地を行い約10万石を増収但し検地結果を農民に公開し実収に
伴った年貢を徴収し負担を公平にする。
5、大坂で修道士ヴィセンテの説教に感心し領内でキリスト教を保護。
修道士の評価は「賢才にして沈静なる人」
6、広島城改築、領内六ヶ所の支城を整備。
7、地侍の武装を解除、兵農分離を行う。
8、産業(畳表)の発展の奨励、交通整備、治水・干拓を実施。
9、川中島4万石への転封後に新田開発を積極的に実施し松川の乱流を防ぐ
ために千両堤を施工。
大名になってから関が原前の武功
1、文禄の役において忠清道における兵站奉行。
2、上記における補給路の確保と防衛。
3、長門浦海戦において李瞬臣の艦隊を2回に渡って破る。
※慶長の役は不参加
0809名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/26(金) 18:08:33ID:kyPWDFTw清正と行長の性格による対比は難しいからでは?
行長には三成清正正則のように性格分析できそうなエピソードが少ない
史料も少ないうえに宣教師やらの書簡では好意的に書いてあるだろうし
0810名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/26(金) 22:49:43ID:sqf50b0A関ヶ原の一回だけで豪傑なイメージを作るのはよくない。
どうしてそういうイメージが固着してるのか。徳川史観って訳でもなさそうだし。
長門浦海戦ってのがどんなのか知らないけど、福島って本来酒飲む石田みたいな
イメージがただしいんじゃない?
0811名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/26(金) 23:01:39ID:3dQgRixZけっこうあるよ。
若い時に召抱えた家来に不手際があって手討ちにしようと思って追っかけてたら
家来が家に逃げ帰り家来の女房に怒鳴られて手討ちにするのやめたとかw
家来の槍が錆びてたのでこんな槍持ってるヤシはとんでもないといってぶん投げた
ら持ち主が可児才蔵で才蔵血相かえて正則につかみかかって槍先を見せながら
槍なんてのは槍先しか使わないのだからこれで十分だと言いながらをものすごく
綺麗に磨いてる槍先を見せて正則が撤回したとかw
家来衆との微笑ましい逸話が多い。
0812811
2007/01/26(金) 23:16:41ID:3dQgRixZ個人的な福島正則論なので気に入らない方はスルーしてください。
福島正則は>>803の言うように秀吉からアサインされた仕事は石田三成と
同様の仕事が多く兵站を武功と見ない傾向のある日本人から見れば石田
三成同様(石田も損をしている。)あまり活躍したようには見えないかもしれ
ない。
日露戦争戦勝後の日本では兵站に関して上記に記したように軽視される傾
向があるがナポレオン以降の軍隊のことわざに「砲兵は戦場の女王である
兵站は戦場の王である。」と言う言葉があるように兵站なくして軍事行動の
実行はありえず兵站を継続して行うにはそれなりの能力が必要。
事実兵站を軽視する軍隊が必敗なのは近代では自明の理であり古くは治承・
寿永の乱において平家討伐に向かった源範頼の例もある。
逆に信長と秀吉の戦略の背景には常に兵站の充実があったのは周知の事実。
また秀吉の小姓時代からの個人の武勇は言うにおよばず織田信雄の組下につ
いた小田原攻め、秀吉に従った九州攻めでも武功を上げている点。また長門
浦海戦での武勇を考慮すると戦闘能力はあったものの秀吉が兵站を重視し福
島の組織運営能力を認めて兵站奉行としたために唐入りでは武功を立てる機
会がなかったとも考えられる。(第二次唐入りは不参加)
福島の場合は内政において大奉行制度のような行政組織を作って治績をあげた
のと同様に第一次唐入りでの兵站業務においては家臣団を組織化して実績をあ
げたと思われる。
個人的な福島正則のイメージは情が厚くて感情の起伏が激し酒癖の悪い粗野な
内藤修理と言った感じ。
0813名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/27(土) 02:23:03ID:EjPdue8/0814名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/27(土) 02:39:05ID:H4q1E/Mt0815名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/27(土) 04:35:36ID:lLiotdT/0816名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/27(土) 09:05:02ID:nJlPjiQj関が原は起こらずに家康は寿命で死に篤実な秀忠は五大老筆頭かつ豊臣家
最大の諸侯で終わりしばらくは豊臣の天下が続いて福島や加藤はここで叩かれ
ずにすんだと言うことだな。
0817名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/27(土) 09:45:41ID:9keFJmDO0818名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/27(土) 10:27:54ID:nJlPjiQj0819名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/27(土) 11:26:29ID:4mSZBgh5前田が既に屈服し、上杉も西軍の動きがなければ敗北は必至。
後は毛利をどうにかすれば結局家康の天下だよ。
0820名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/27(土) 13:01:00ID:H4q1E/Mtねーよwwww
0821名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/27(土) 16:21:08ID:OSYddscW正確なところ、利家の意向はどうだったんだろうね。
利長に対して家康に逆らうなとか言ったり、家康に後事を頼んだりしたっていう話もあれば
自分が殺されたら徳川攻めの口実が出来るとか半分は大坂に兵を残して置くよう言い残していたとか。
良く分からん。
0822名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/27(土) 18:38:31ID:H+DSi87v最低の裏切り者ランキング
秀吉>利家>>>>>正則>清正>家康
0823名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/27(土) 19:34:37ID:H4q1E/Mtなにが悲しくて玄蕃の身勝手に付き合わなくちゃあかんのかと。
玄蕃を見捨てた勝家の戦略ミスだろ。
玄蕃と大攻勢にでて秀長を打ち取るくらい勢いが有れば…
>>821
それについては>>806
0824名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/27(土) 20:22:29ID:4mSZBgh5確か、突出した佐久間隊の撤収はどうにか成功しかけていたが、
そのタイミングで前田が裏切ったため失敗、
結果全軍が崩壊という流れだったと思うが。
どっちにしろ利家は長いものには巻かれろ、で家名を保ってきた人だから、
無条件で期待するのはいかがなものか。
0825名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/27(土) 20:56:00ID:qzwoMOHJ賤ヶ岳の裏切り方は惨いものがる。
同じイメージでも家康は常軌を逸した義理堅さで生きてきたのに最後の最後にイメージ悪くしたな。
まぁ神君を引きずりおろす必要のあった薩長のプロパガンタなんだろうけど。
0826名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/28(日) 00:14:39ID:jP9c35iR滅ぼされる原因は徳川の下につくことを突っぱねた大坂方の方にこそあるし、
やるからには徹底的にやるのは、むしろ褒められることだからな
手を抜いて目的を完遂できなかったら、そちらの方が酷いわ
利家は、まあ気持ちは解らないでもないけど
戦場でいきなり態度を豹変させるのはちょっとなあ
0827名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/28(日) 00:59:59ID:xg5pmxOc家康と高虎のちょっとイイエピソード台無しにしたってのもあるがw
0828名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/28(日) 02:15:11ID:lieiozCX同意、利家がそんなに義理堅い人物だったらむしろあんな領土をもててない。
0829名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/28(日) 03:20:57ID:qWq4H6PE親父殿と呼び命を救ってくれた事もある柴田。
どっちに加わっても卑怯裏切り者とされる苦しい立場だろ。
前田以外にも戦わずして逃げた奴もいる訳だし。
前田が大領を得たのは尾張閥(旧織田家臣)の筆頭だからじゃない?
後はやはり多少はある義理と付き合いやすさと歳の功。
蒲生、堀が生きてたら影かなり薄かっただろね。
このスレ的な前田の話題は
加藤清正は秀吉利家の関係上、子供の頃から利家と認識があり、
清正の目標としたのは利家とも(?)
また利家も自分の若い頃と清正を重ねて可愛がったという。
晩年利家と家康との会見で利家を護衛したのも確か清正だった…かな?
三成の見舞
利家も前田の家臣団も三成嫌いなのに
三成は自分が保身が為に周囲の冷たい目などおかまいなしに
見舞いと称して前田邸に籠った。
利家が死ぬと流石に前田邸にも居られなくなり放り出される。
そして七将襲撃となる
0830名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/28(日) 03:26:49ID:lieiozCX戦わずして逃げた奴よりよっぽど酷い。
裏切り者の鑑、秀吉からすれば、最初から仲間と言うよりはるかに役に立ったと言える。
0831名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/28(日) 09:41:59ID:adyu5mZBいや、どっちについても裏切りってなんてことになならないよ、
ここで裏切りと言われているのは、当初柴田側として参戦しながら秀吉に通じたから。
0832名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/28(日) 12:34:52ID:nEkIUgFW福島や石田みたいな単細胞な馬鹿者と一緒にしてはダメだよ。
0833名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/28(日) 14:12:18ID:LlnFKxeWけっこう好きになってしまった。
0834名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/28(日) 15:37:13ID:8J9PNxTa大抵は先入観で語っているにすぎないということ
0835名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/28(日) 18:55:08ID:qWq4H6PE本気かよっ
0836名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/28(日) 21:03:19ID:3yjvtdcp戦ったのは福島勢8,000と途中から横合いに入った加藤嘉明勢3,000だったよね。
数時間に渡る戦闘で宇喜多勢15,000に押されてたってだけで福島が弱い弱いって声があるみたい
だけど倍近い軍勢の相手してるんだから決して弱いとは言えないよね。
逆によく支えたと思う。
0837名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/28(日) 21:09:24ID:adyu5mZB0839名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/28(日) 22:02:48ID:QL3TpeTUつまり同数程度の相手と殴り合って、あっさり後退したということ。
加藤がつっこまなきゃ、首取られてもおかしかない状況だったわけだ。
まあ個人的に、問題は、強い弱いじゃなくて、
霧が出ている状況で、つい数時間前にお互い布陣して
よく判らない状況での会戦での先鋒たる福島の立場ってものなんだけど。
お前本当に歴戦の将なのかと、首欲しがる武者かよと小一時間問い詰めたい。
0840名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/28(日) 23:12:37ID:DxmDW+G3福島さんはかなりの確率であぼーんだったと書物に書いてあったな。
0841名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/29(月) 00:02:33ID:6lc5DYPm市松を擁護するわけでも無いけど、
目の前に居るのは同数でも後ろに倍の後詰が控えてる部隊と戦うのと、
単に同数の部隊と戦うのはさすがに一緒に語っちゃいかんだろ。
0842名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/29(月) 00:43:28ID:1A16QREL宇喜多は数はいれどお家騒動で指揮官が減ってる状態。
有名所では明石くらいしか残っていない。
秀家が戦場で有能かはよく知らん。
そんな中で戦闘したために宇喜多隊は福島をろくに追撃することもできずに
(小西が開戦直ぐに敗北濃厚になったため小西を破った部隊も加勢してくる)
結局打ち損ねている。
まぁ明石は間違いなく優秀なんだけどね。
後詰めの事も考えずにガムシャラに突っ込むだけの福島が強いわけない。
勇気はあるかもしれんがな。
後詰めとの距離を考えて調整しながら戦うもんだろ。
倍数でかかると言えば石田はどうなるの?
かなり数で押される戦闘を強いられたにも関わらず良く戦ってる。
こういうこと言うと石田配下が優秀だからで一蹴されそうだが。
0843名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/29(月) 02:57:33ID:7X+/MnoEそれよりも地の利が大きいかと。
高所で、陣を構えて待ち戦、しかも幅員減少、と。
0844名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/29(月) 03:29:28ID:iee+VmvI延々、東軍主力を引き受けて、逆襲で徳川軍に突撃かましている。
で、その失敗した後も本陣を維持している。
福島の問題点は東軍の主攻勢は宇喜田じゃなくて石田の方面
だということ、福島は、宇喜田の行動の自由を奪うのを主目的としなきゃ
ならんのに、突破されて、主力側面を襲い掛かられる
恐れがあるというの状態に陥る直前になるなんて言語同断。
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