元来武士とは、主従のご恩報恩に基づく水平的な契約関係である。
現在の解釈では垂直的な従属の関係とされるが、これは徳川時代の二百六十年において、
臣下の関係が徐々に従属的な関係に意図的に転換させられてきたものである。

鎌倉室町を通して家来が主家の家政に直接関与している間は、
忠誠の度合いは濃密だが、領地を与えられ独立すると一個の領主として
時としては主家を見限る(裏切る)ことも少なくない。
石高制以前で比較は難しいが足利時代でも推定10万石以上になると主家とは完全独立、
5万石以下だと執事的に家政に関わっている。
ただこの場合、独立した家臣は元々地侍豪族などの侍階級である。

豊臣の例では黒田・堀尾・山内・・・彼らは裏切りとは言われていない。
件の2人だが、彼らが20万石級の大名になった時点で、
豊臣家からある意味縁が切れていると考えたとしても、
当時の感覚から仕方ない面もある。

にも拘らず彼らが(このスレで)裏切り者扱いされるのは、
秀吉生存時は秀吉との血縁を誇り、死後に於いては他の独立大名と
変らぬ態度をとったからであろう。
関ヶ原そのものは豊臣家総大将家康と反乱軍との戦いと解釈も通用するが、
(小山評定の真意を見抜けなかったとしても)
その後の家康の野心に弁解の余地はない。