スレタイの、
秀吉の恩を忘れ、豊臣家を滅亡に追いやった最低の裏切者。
家康に踊らされた大馬鹿者。

前者は反対。後者は賛成。
裏切者は黒田たちで正則は馬鹿なマヌケだろ。

正則が高台院に言ったとされる、
「それがしが忘恩の凶徒と罵られながらも内府(家康)に
 忠節を尽くしてきたのは、ひとえに秀頼公を思っての事であります。
 これだけ恩を売っておけば、内府も秀頼公に滅多なことはできまいと存じます。」
これが本心だろう。
つまり正則なりの忠義を尽くした。
清正の死後、大坂の陣の時は弁解できないへタレだけど。
藩屏として幕府に殉じた会津藩は美しいが、
この時代の人間、それも正則にそれを求めるのは酷だろう。

9、10、13、25、26の人は鋭いね。
反対派は論破されてまともなレスが出ないね。
>二人がどこら辺で家康と豊臣政権を分けて考えたのか?
 またどのように対処すべきだったのかは考察の価値があると思います。

秀吉逝去の瞬間から家康が最高官位・最高実力者だった事が致命的。
秀頼は権中納言、秀吉は前例がないとは言えゴリ押しでも、
家康より高位にしておくべきだった。
(在世中なら反対は出ないし、就けば降ろすのは難しい)
関白職は秀次死去から空位であり、将軍宣下が関白職とのバーターだった
背景を考えれば関白が最適だったが。(公家衆は関白を切望していた)
とにかく家康の力を削ぐべきだった。
それが出来なかったから死ぬ直前に哀訴した訳で、
太閤でさえ出来なかった秀頼首班を、自分達が出来るわけがない、
ここは次善策として豊家存続を計れば、家康は高齢、次は秀頼公、
と彼らが考えても無理はない。
結局2人に出来ることはそれくらいしかなかった。

秀吉の遺言は利家が往き続け、関白は秀頼成人まで空位、
という非現実的なものだったから、家康につけ込まれても仕方ない。
この辺りの整備をもっとちゃんとしておけば。
秀次存命時のように。

(秀次在世でも、との説があったが、在世なら家康は相当苦労した、
 無理だった確率が高いと思う。
 秀次は関白、これを降ろすのは難しい、
 戦いを仕掛けるにも大義がない、無理押しすれば逆臣になる。
 源氏の嫡流を名乗る家康が名を捨ててそこまで出来たか。)