小笠原のゲリラ的な抵抗自体そもそも微々たるもので信玄の思惑は
すでに村上、ひいては信濃全体に向けられていた。小笠原の抵抗に関しても
3年説もあれば半年説もある。最近の研究ではこの後鈴岡の同族をまず頼り、
1554年に信玄に伊那を攻められて鈴岡もおちて出奔したといわれる。
前後関係を考えるとそんなに長く粘れたとも思えんのだけど。
村上に関してはもうこの時期になると上記の通り、動きに張りが見られなく
なってきている。痛手といえば痛手だがそれほどのものとは思えない。
真田の活躍がなければ戸石城の奪取は後回しになったかもしれないが
その場合佐久があっさり平定されるだけだろう。